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コーヒーの旅路(47) ナポレオンの時代に、代用コーヒーの研究に走ったことからも分かるのですが、ドイツ人もまたコーヒーが大好きでした。そしてコーヒーを自給できないヨーロッパ諸国にとって、コーヒーを何不自由なく味わうためには、世界交易が円滑に機能することが欠かせない条件でした。そして近代の戦争は、とりわけ心ならずも国の総力をあげて争う事になった第一次世界大戦は、その機能を奪うことになりました。とりわけ海軍力に劣り、虎の子の東洋艦隊を、初期の段階で日本軍の攻撃と、その後の流浪の末に失ってしまったドイツにとって、事は深刻でした。当然ようやく花開いたドイツ領東アフリカからの輸入も途絶します。ブラジルもまた大量のコーヒー輸入国であるアメリカやフランスに強いられてドイツに宣戦を布告し、ドイツ船籍の船は全て接収してしまいます。頼みは中立国オランダのジャワコーヒーの輸入が続くことでした。コーヒーは嗜好品です。戦時の一大事の前には、「なくても我慢するのが当然だ」と、精神論の好きな1部日本人なら、言い出しそうです。しかし、コーヒーのアロマの齎す昂揚感は、戦意昂揚に欠かせないこともまた事実でした。「コーヒーの人体に及ぼす刺激作用は、人体を最高の能力発揮へと鼓舞する。国防省と戦時栄養課は、この事実を認識し、何よりも先ず、戦場の兵士と後方の重労働者にコーヒーを供給するために、備蓄コーヒーを利用する計画である。アルコールもタバコも、コーヒーほどには持続的な刺激を与えることは出来ない。」いかにもドイツ的文章ですが、これが1916年における戦時栄養課の報告書の文章です。イギリスがドイツに対する全面的な海上封鎖に踏みきり、オランダのドイツへのコーヒーその他の物資供給をも妨害するに及んで、16年春から、ドイツへのコーヒーの供給は極めて限られたものになったのです。こうしてコーヒーは、士官以上の上官連中のみが、密かに味わう事が出きるだけになっていったのです。それは当然下士官や兵卒の不満の種となり、ドイツ軍の不協和音を増していくことになります。コーヒーがドイツの敗戦の主たる原因になったわけではありませんが、コーヒーもまた敗戦への道を示す、1つの道標となったのでした。 続く
2008.05.31
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クロニクル 両国に国技館完成1909(明治42)年5月31日99年前のことです。この日、東京両国の回向院境内に建設中だった、東京大角力(おおずもう)協会の相撲常設館(国技館)が落成しました。1907年の7月に、工事が始められていますから、およそ23ヶ月を要した大工事でした。収容人員は1万3千人でした。回向院の境内で、相撲が行なわれるようになったのは、江戸時代の天明年間(およそ1780年代です)のことで、野天の小屋掛け興行でしたから、雨が降ると休場となり、定員も2千人程度だったとされています。6月2日の落成式には、当時の大角力協会委員長の板垣退助を始め、内務大臣、東京府知事、東京市長以下、1万人余りが出席、国技館は東京の新名所となったのですが、この建物は、14年後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災によって、残念ながら全焼してしまい、現在は残っていません。
2008.05.31
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コーヒーの旅路(46) アフリカ最高峰の霊峰キリマンジャロは、イギリス領ケニアとの境界に近い、ドイツ領東アフリカの最北の地にあります。ヘミングウェイの短編『キリマンジャロの雪』とコーヒー豆「キリマンジャロ」で日本にも知られた高山です。粘り強いドイツ人は、1度の失敗くらいで、自前のコーヒー栽培の夢を諦めることをしませんでした。そのドイツ人たちの前に、奥地にあたるキリマンジャロの南麓が、コーヒー栽培に向いていることが伝えられたのです。海岸に近い地帯を諦めた人々は、手元に残った僅かな資本を元手に、キリマンジャロ南麓に居を移しました。そこは適度な高原地帯です。気温高からず低からず、雨量も海水を含んだ湿った雲が、キリマンジャロやメルー山に遮られて、適度な雨を齎してくれる、コーヒー栽培の絶好の適地だったのです。この地で1907年頃からコーヒーの移植が始められたのです。最初の収穫は1912年と記録されています。アフリカ産コーヒーの雄「キリマンジャロ」の誕生です。東アフリカ原産で、イエメンを経て、東南アジアや中南米に広まったコーヒー栽培は、こうして原産国アフリカの大地にも、根付いたのでした。栽培環境が合えば、コーヒーの木は順調に生育し、1本の木が大量の香り高い実をつけます。キリマンジャロ南麓では、海岸沿いの失敗に終った農園の何と4倍の収穫となったのです。こうして、ドイツはアフリカの地に、「キリマンジャロ」を残したのです。しかし、ドイツのキリマンジャロは短い命しか持てませんでした。それは出荷の開始が1912年と言う、ドイツにとっての悲劇に終る第一次世界大戦の直前の時期に、あたっていたからでした(第一次世界大戦については、昨年11月からの、このブログの過去ログをご覧下さい)。軍部の迷妄もあって、ドイツは途中の講和の機会を逃し、結局1918年11月、ドイツ革命によって成立した革命政府が、連合国に無条件降伏する形で、この戦争は終了しました。大敗したドイツは、植民地の一切を失い、各地のドイツ植民地は、戦勝国に分配されました。ドイツ領東アフリカも同じ運命を辿りました。ドイツ人が生み出したキリマンジャロは、ドイツの名を消しました。しかしアフリカ産コーヒーのトップブランドの地位は揺るがず、今日も世界にその名を残し、多くの愛好者を持っています。そしてキリマンジャロの生産で、同地域の約10万人の現地住民は、アフリカ各地の中で、現在も比較的高い生活水準を維持できていることもまた、事実なのです。 続く
2008.05.30
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クロニクル テルアビブ空港乱射事件1972(昭和47)年30日36年前のこの日、イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本人ゲリラが児童小銃を乱射、手投げ弾数発を投げて、乗降客ら26人が死亡、73人が重軽傷を負う大惨事が起きました。3人は、パリ発のエール・フランス機にローマから乗り込み、午後9時45分にテルアビブ空港に降り立ち、税関のカウンター近くから乗降客で賑わう待合室へ向けていきない発砲、手投げ弾も投げ込みました。待合室は血の海となり、大混乱に陥りました。イスラエルによるパレスティナ人虐殺への報復でしたが、実行犯が日本人3名と言うのが驚きでした。3人中2人は現場で死亡、捉えられた1名が岡本公三(当時24歳)でした。岡本はよど号ハイジャック事件で北朝鮮入りした岡本武の実弟でした。取調べの結果、3人は日本赤軍内の重信房子をリーダーとするグループに属し、パレスティナ急進派のPFLP(パレスティナ解放人民戦線)と連携していることが明らかになりました。
2008.05.30
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コーヒーの旅路(45)ドイツ統一を成し遂げたビスマルクは、統一後は一転して好戦的態度を改め、国内の宥和と統一国家としての内部固めを優先します。これ以上の拡大政策は、フランスのみでなく、ロシアやイギリスまで敵に回すことになることを、良く承知していたからです。対独復讐の念に燃えるフランスへの警戒感も強かったのです。そのため、1870年代以降、イギリスとフランスを中心に海外植民地の獲得が急ピッチで進んで行くのを、黙認するというよりも、もしろ積極的に肯定していたのです。それは、両国の目をヨーロッパの問題から、逸らす事が出来るからでした。こうしてドイツは61年にイタリア王国を形成したイタリアと並んで、資本主義列強の植民地獲得競争に大きく出遅れたのです。そのドイツが最初に獲得した海外植民地が、ドイツ領東アフリカ(ザンジバル島とタンガニーカ一帯、現在のタンザニア)でした。80年代後半のことです。ビスマルクは政府としては動きませんでしたが、民間が植民地獲得に動く事は止めなかったのです。ドイツ領東アフリカは、ライン地方とシレジエンの資本家、ベルリンの銀行などが一体となって作った「東アフリカ協会」が、アフリカ分割の動きに飛び乗って獲得し、切り取ったものでした。東アフリカは元来コーヒーの故郷です。故郷に近い「東アフリカ」なら、コーヒーの移植栽培は可能であろう。こう目をつけた「東アフリカ協会」はコーヒーの生育に適した土地を探します。こうして、現タンザニアの海岸線で、水も豊富な丘陵地帯に白羽の矢を立てたのです。ビスマルク引退後の1992年~98年にかけて、ドイツ本国で資本を調達した、コーヒープランテーション経営を業務とする株式会社が、いくつも誕生したのです。収穫した大量のコーヒーを積み出すための、鉄道建設も行なわれました。しかし、「東アフリカ」のコーヒー栽培は、無惨な失敗に終りました。ブラジル産コーヒーが生産過剰となり、世紀末にかけて、さらにコーヒー価格が下がったからです。「東アフリカ」は水はけは良かったのですが、コーヒー栽培には雨量が多すぎました。その上、過去の奴隷貿易の影響で、青年男子が決定的に不足しているところへ、1度に数多くのプランテーションが誕生して、完全に労働力不足に陥ってしまっていたからです。当然労務費は上昇し、コーヒー豆の値下がりで、採算割れを起こし、次々に倒産に追い込まれていったのです。こうしてドイツの東アフリカ植民地におけるコーヒー栽培の第1弾は、失敗に終ったのです。 続く
2008.05.29
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コーヒーの旅路 番外編(2)ここにいらしてくださる皆さんの多くは、小学校時代の国語の教科書で、アルフォンス・ドーデーの『最後の授業』の話をご記憶ではないかと、思います。いかがでしょう。昨日の(44)の最後に記した、普仏戦争の講和条約で、誕生したドイツ帝国が,フランス共和国に割譲させたアルザス(ドイツ語ではエルザス)が舞台の物語です。ドイツ領に編入されたアルザスでは、公用語は当然の如くドイツ語とされ、国語教育もフランス語からドイツ語に変えられます。国語が替えられることを知らずにいた少年は、この国語の授業が大嫌いで、1時間目が国語の日は、学校へ行く足が重くなり、この日も途中で怠けて遅刻して教室に到着します。それはもう授業の終る寸前でした。ところがこの日は、教室の様子がいつもと違いました。後方には、村長さんや駅長さん、郵便局長さんといった村の名士が正装で居並び、いつもは叱る先生も正装で、遅刻した僕を叱りもせず、ただ悲しそうな目で見つめただけで、授業を続けたのです。異変に気付いた僕は、遅れたことを後悔するのですが、その時先生は、フランス語の授業が今日で終る事を告げ、「このフランス語は世界で最も美しい言葉であり、国が奪われても母国の言葉を忘れずにいれば、牢獄の鍵を持っているのも同じなのだということを忘れないでほしい」と皆に語り、黒板に大きく「フランス,万歳!」と書いて、教壇を去ったのです。僕は先生の話を聞き、もう少しフランス語を頑張って勉強しておけば良かったと思った。と結ばれて完結する短編でした。どの国の言葉にも、外国語に置き換え難い表現が、必ずいくつかは出てきます。これはまさに、言葉が文化であることを示しています。言葉を失う事は文化を失うことであり、それは決して許してはならないことですから、その限りでは、実に尤もなことでした。ですからドーデーのこの作品は、祖国愛、国語愛を語り、植民地の悲哀を物語る作品として知られるのですが、日本の場合、この作品に感動しながら、朝鮮や台湾の人々に日本語教育や創氏改名を強制したことは,平気で忘れていたのですから、好い気なものでした。が、今はその点は置いておきます。問題は、主人公の少年がフランス語が嫌いでならなかったことにあります。実はアルザスやロレーヌ北部は、かつては神聖ローマ帝国領として,オーストリア・ハプスブルグ家の支配を受けていたのです。それをルイ14世時代にフランスが切り取り、自領に編入した地域だったのです。そのため、この地域は独自の言語を持つ、アルザス文化圏を形成していました。言語もフランス語は勿論、ドイツ語とも異なる、ドイツ訛りの入った独特のアルザス語が、使われていたのです。お国訛りの独特の言語であるアルザス語と異なるフランス語を、国語として強制されても馴染めなかった、こういう少年がいるのは、少しも不思議ではなかったのです。ドーデーの作品は、こうした複雑な地域であるアルザスを、将来ドイツから取り戻して見せる。その時まで、フランス語を忘れるなよという、アルザスの人達へのメッセージであり、同時に、アルザスや北部ロレーヌを巡る抗争への、フランス側の回答だったのです。返還は48年後、ドイツが第1次世界大戦に敗北し、ヴェルサイユ条約が結ばれた1919年のことでした。
2008.05.29
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クロニクル レーガン・ゴルバチョフ会談始まる1988(昭和63)年5月29日20年前のこの日、モスクワにおいてレーガンとゴルバチョフによる、米ソ首脳会談が幕を開けました。この会談は、前年12月のワシントンでの会談を受けたもので、ゴルバチョフの新思考外交の展開を受け、米ソの全般的な軍縮を進めるための会談でした。会談では、中距離核戦力(略称INF)の全廃条約がまとまり、6月1日に批准書の交換に漕ぎつけました。またこれを機に,両国のミサイルの廃棄も始まり、米ソの雪解けは一挙に前進を見たのでした。こうした相互の信頼関係の増進が、翌89年12月のマルタ会談(ゴルバチョフ・ブッシュ)による、冷戦の終結に繋がって行きます。
2008.05.29
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コーヒーの旅路 番外編(1)本日の(44)は、ちょっとテーマから逸れた内容になりました。そのついでに、もう少し脱線します。ビスマルクとタッグを組んだ参謀総長のモルトケ将軍は、ドイツ軍の部隊編成から、命令伝達の経路、新兵の訓練マニュアルなど、全てを作り上げた人物です。1868年に誕生した明治国家は、その2年後の普仏戦争での圧勝を見て、プロイセン陸軍にこそ、我が求めるものがあると考え、陸軍はプロイセン式の訓練や部隊編成などをとることになります。やがて陸軍のドンとなった山県有朋は、若手をプロイセンに派遣し、全てを吸収しようとします。しかし、モルトケの文章は、その難解さにおいて右に出るものがいないと言われるほど、難しいドイツ語であったようで、軍部では誰も日本語に訳すことが出来ず、軍からの派遣で医師としてドイツに留学して、細菌学の権威コッポに師事していた若き森林太郎に、最後の頼みとして依頼したところ、彼は僅か数日にして、全文を訳出してくれたというのです。この森林太郎こそは、文豪森鴎外の本名です。彼はこれが縁で、やがて軍医総監に上りつめるのですが、最後まで作家との2足のワラジを履き続けました。彼のドイツ語の実力は、アンデルセンの『即興詩人』の名訳で、窺い知る事が出来ます。
2008.05.28
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コーヒーの旅路(44)ドイツ帝国の誕生は、鉄血宰相ビスマルクの存在抜きに語ることは出来ません。元来プロイセン王国は18世紀前半から中盤にかけてのフリードリッヒ大王の時代から、軍国プロイセンとして知られる軍事優先国家でした。そうしたプロイセン国家の伝統の中においても、ビスマルクの軍事優先は突出していました。彼は1861年ウィルヘルム1世によって、宰相に任命されると、プロイセン議会の可決していたいた予算を無視して、軍備拡大予算に勝手に変更してしまいます。議会に呼ばれた新任宰相ビスマルクは、そこで有名になった大演説をぶちました。「現下の大問題は言論や多数決によって解決されないのであります。鉄(軍備)と血(兵士の質)によってこそ解決されるのであります。必要なのはプロイセンの自由主義ではなく、その軍備であります。」と演説して、議会の反対を押しきったのです。夜に言う「鉄血演説」です。それ故につけられた渾名が鉄血宰相でした。彼の下で、軍需産業用を中心にクルップらのドイツ製鉄業は、急速に成長します。ビスマルクはロンドンやパリで外交官を経験し、鉄道事業の将来性に注目した慧眼の持ち主でもあったのです。軍備拡大と並んで、彼は電撃戦の構想を軍部と練り、兵士や兵器や糧食の輸送のために、鉄道建設を急ぎます。軍の総帥モルトケという有能な軍師を得た彼は、こうしてオーストリアを打ち破ってのプロイセン中心のドイツ帝国の建設にひた走りました。1866年の普墺戦争は、こうした準備の末に圧勝しました。しかし、隣国フランスが、ドイツの大国化に反発して、統一ドイツの誕生を妨害します。フランスとの戦いの勝利が必要でした。こうして、1870年の普仏戦争に圧勝して、1871年1月、占領中のヴェルサイユ宮殿で、ウィルヘルム1世はドイツ帝国皇帝に就任。アルザスのほぼ全部と、ロレーヌの北半分弱をドイツ領に割譲させたのでした。皮肉なことに、この事実がドイツの海外植民地建設を遅らせることになるのです。 続く
2008.05.28
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クロニクル 日本経団連発足2002(平成14)年5月28日この日、財界本部とされた経団連と、財界の労組対策の司令塔とされた日経連とが合併し、日本経団連が発足しました。日経連は1時「戦う日経連」と称されるなど、主として総評系労組との交渉や切り崩しを担当しましたが、労使協調路線を取る連合の成長に伴い役割を終えたと判断、経団連との合併に踏み込んだのでした。初代会長には、経団連会長を務めていたトヨタの奥田碩会長が就任しました。
2008.05.28
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コーヒーの旅路(43) 19世紀半ば、広大なブラジルのコーヒー農園で、大量生産されたコーヒーの輸入で、コーヒーは大衆にも手の届く商品になりました。2回前にも記しましたが、何しろブラジルは日本の23倍の面積を持ち、アマゾンのデルタ地帯だけで、日本の数倍もある国です。翻ってヨーロッパは、ドイツは日本とほぼ同じ、フランスは1,4倍、スペイン1,3倍、イタリア0,8倍、イギリス0,7倍、ポーランド0,9倍程度の面積です。こうしてコーヒー豆の価格は、一挙に下がったのです。時あたかもイギリスに始まった産業革命は、19世紀20年代なると、大陸各国にも様々な影響を与え、フランス、北イタリア、西南ドイツ、オランダ、ベルギーなどを中心に工業化が進みます。そして、19世紀も半ばを過ぎると、労働者階級の過激化(社会主義革命待望派への転化)が大きな社会問題となってきていました。この道を阻止する方法としては、北風政策よりも太陽政策が有効でした。そのため、僅かづつながら労働賃金の上昇が、消費物価の上昇を上回る時期が続いたのです。労働時間もまた、1日15~17時間労働が常態だった時期を抜け、適度な休息が翌日の労働効率を高めることが理解されるようになり、大人で1日12時間労働にまで、縮んできていたのです。こうして、コーヒーもまた労働者家庭においても必需な品になっていったのです。家庭やカフェで、社会の底辺に位置する労働者までもが、比較的自由にコーヒーを啜れる時代がやってきたのです。そして、コーヒーは19世紀末~20世紀にかけて、さらに値を下げて行くのです。それは、代用コーヒーの開発に涙ぐましい努力を重ね、遂にそれを断念したプロイセンのドイツ(ドイツ帝国は1871年1月プロイセンの軍事力を背景に、オーストリアを排除する形で誕生しました)が、最後の努力を傾注して、コーヒー生産に乗り出したからです。ここに誕生したのが、アフリカの最高峰、キリマンジャロの南麓の適地に広がるキリマンジャロでした。 続く
2008.05.27
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クロニクル ネルー首相死す1964(昭和39)年5月27日44年前、東京オリンピックの年でした。この日、独立インド(1947年独立)の初代首相、ジャワハルラル・ネルーが、心臓発作で現職首相のまま急死しました。75歳になる直前でした。ネルー首相は、ガンジーと共にインド独立運動に身を投じ、インドの独立と被抑圧諸民族の団結に政治行動の原点を置いて、心血を注ぎました。独立時、パキスタンの分離独立の責任を感じたガンジーが、どうしても首相就任を引きうけず、ネルーが初代首相に就任しました。冷戦に組せず、非同盟外交を推進して、新生日本の平和憲法を高く評価、日本の子ども達にと、上野動物園にインド象を寄贈。日本もその友誼に答えて、贈られたインド象にネルー首相の娘インディラの名をいただいたことも、当時大きな話題となりました。新生中国の周恩来首相と共にアジア・アフリカ会議を提唱、その中心的指導者としても活躍しました。反英独立運動の指導者として、何度か不当に投獄されて、獄中で過ごしましたが、獄中から娘のインディラに向け、インドを中心に置いた世界史を、書き綴った手紙を毎週のように書き送ったものが、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房全6巻)という大きな著作になっています。この娘御が、後の首相インディラ・ガンディ夫人その人です。
2008.05.27
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コーヒーの旅路(42) 西欧の伝承に、「コーヒーはポルトガル語を話す」というのがあります。1818年にブラジルのコーヒーが西欧市場にデビューしました。当初は西欧市場が年間に消費するコーヒーの1%に満たない量でしたが、その間ブラジルのコーヒー農園は凄い勢いで増え続けました。ブラジル・サントスの柔らかくまろやかな風味が喜ばれたこともあるのですが、何よりもアマゾンの中・下流に広がる広く、肥沃な土地がコーヒーの生育を助け、豊かな実りを保証したことが大きかったのです。こうして、1830年には、ヨーロッパの輸入するコーヒーの30%はブラジルからの輸入となり、19世紀半ばには50%を越える程になったのです。この間、南米のコロンビアやスマトラなど、新たにコーヒーの輸出国となった国も増え続け、以前からの産地の輸出量も、決して減っているわけではなかったのです。ヨーロッパのコーヒー輸入量は、大きく増えつづけていたのです。大量生産は、コーヒーの値を下げる事にも貢献しました。ブラジル産コーヒーの大量流入、高い生産性と低い労働コストは、値下げに耐える競争力をも付加していたのです。それに、これはブラジルにとってのマイナス面なのですが、16世紀のポルトガル人の入植後のブラジルは、先ずはサトウキビ、次にはコーヒーと、ヨーロッパ市場向けの商品作物を生産する、モノカルチャー(単一栽培型)体制となっていました。そして、世界市場を相手にするといっても、コーヒーは今や独占的品不足商品ではなく、東南アジアや中南米各地で供給される競争型商品となってきたのです。このことは価格決定権もまたヨーロッパ資本に握られることを意味します。19世紀半ばのコーヒーの価格は、ナポレオンの大陸封鎖時に比べると(この時は品不足で価格が上がり、18世紀末の2倍くらいになっていました)、20分の1程度にまで下落していたのです。当然カフェにおけるコーヒーの値も大きく値下がりします。嬉しいことにビート糖とサトウキビ糖の競争で、元々下降傾向にあった砂糖の価格も大きく下がり、庶民の食卓にも登場するようになっていたのです。ブラジル・サントスの登場と、ビート糖の登場が、カフェとコーヒーそしてティーを、高値の花まら、庶民が気軽に楽しめるものへの変化に、決定的役割を果たしたのです。しかし、コーヒー、ティー、砂糖といった嗜好品の大衆化の蔭には、心ならずも植民地とされた地域の民衆や、その地に労働力として運ばれた人達の、辛い労働を伴う苦難の歴史があることを、忘れないでいたいと、私は常々考えます。そしてヨーロッパで珍重される商品の輸出は、今度は反対に産業革命の結果としての工業製品の輸入を招きます。こうしてブラジルにしろジャワにしろ、その他地域にしろ、在来の手工業はヨーロッパの機械製品に駆逐されて、植民地の工業的発展の芽は、潰されてしまったのです。戦後になっても、長く経済的に独立できなかった最大の原因は、本国依存型のモノカルチャー体制と、そこからの脱却を不可能とする資本の不足にあったことも、指摘しておきたいとおもいます。旧植民地、従属国の政府や国民が怠けていたからではなく、モノカルチャー体制という悲劇的な経済構造に問題の根があったのです。コーヒーもまたその大きな一翼を担っていました。現在もなお、植民地主義の残滓が残るからこそ、コーヒーも紅茶も砂糖も、安価で楽しめる現実のあることは、どこか意識の済みに残しておきたいことのように、感じています。 続く
2008.05.26
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クロニクル 日本海中部地震 1983(昭和58)年5月26日25年前のこの日、正午過ぎに、秋田沖を震源とするマグニチュード7,7の地震が発生しました。この地震の被害は、遅れて襲ってきた津波の被害によって、大きくなりました。秋田県男鹿半島の加茂海岸に遠足に来て、海岸でお弁当を広げていた小学生12人や、能代港で護岸工事をしていた作業員34人などが、2メートルを超える高波にさらわれ、命を落としました。いずれも津波警報の伝達が遅れたための悲劇でした。死者・行方不明者は秋田・青森・北海道で104名。重軽傷者163名。住宅の全半壊3049戸、流出52戸などの被害があり、道路・鉄道の寸断も各所で起きました。この地震では津波情報の伝達に問題が残り、地震で無線の受話器が外れて既報が伝わらない個所があったこと。気象庁の津波警報の都道府県への伝達から、15分後に津波が襲来したのですが、末端の機関への伝達に20分も要したことから、警報の届いた時には、既に手遅れとなっていたなどの、大きな問題があったのです。昨今は、懲りたのか、随分と伝達速度は上がっているようなのですが、失われた命は、返ってきませんものね。
2008.05.26
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コーヒーの旅路(41) 1806年11月、ナポレオンは占領先のベルリンで大陸封鎖を発動しました。その翌年1807年の7月、ナポレオンは大西洋に面したポルトガルに対して、大陸封鎖令に従い、ポルトガルの全港を、イギリス船に使用させないこと、またイギリス船の寄港を認めないことを要求してきました。ポルトガルがこの命令を無視していると、ナポレオンは同年11月に、ジュノー将軍指揮の大軍を送って、リスボンを占領下に置きました。この時、ポルトガル王ジョアン6世は、イギリス海軍の支援を受けて大西洋を横断、植民地ブラジルに、亡命政府を樹立したのです。こうして、1808年~21年までポルトガル王国の首都は、ブラジル最大の都市、リオデジャネイロに置かれていたのです。そのナポレオンがワーテルローに敗れて、セントヘレナに去った後も、ポルトガル王室は、なお1821年までブラジルの地に留まったのです。亡命の国王と皇太子を厚遇し、ブラジル政治の実権を握ることに成功したクリオーリョ(中南米では、土着した白人をどこでもこう呼びます)達は、ブラジルが再びポルトガルの植民地となり、総督による悪政が行なわれるかもしれないことを警戒して、王室の帰国を拒んだからでした。老いたジョアン6世は、皇太子ドン・ペドロを、摂政としてリオに残す事で、ようやく帰国することが出来たのでした。残ったペドロはどうしたか。すっかりリオ暮らしが気に入ったペドロは、クリオーリョ達と共に、ポルトガル本国に叛旗を翻し、翌1822年にブラジル王国の独立を宣言して、初代ブラジル国王ペドロ1世を名乗ったのです。ナポレオンの大陸封鎖が、大西洋の彼方に、日本の23倍の広さを持つ(ということは、ロシアを除く全ヨーロッパよりも広い)地域に、ブラジルという国家を創り出したとも言えるのです。さて、そのブラジルの最大の産物は、黒人奴隷とインディオの労働力を基本としたサトウキビプランテーションによる粗糖の生産でした。そのサトウキビプランテーションは、大陸封鎖のおかげで危機に瀕していました。粗糖の輸出が不可能となったところへ、ヨーロッパ各国、とりわけプロイセン、ロシア、フランスなどが、ビート糖の製造に成功し、大陸封鎖の解除後も、その直接の植民地からしか、粗糖を輸入しなくなったのです。19世紀の初頭には、中南米で最大の粗糖の輸出を誇ったブラジルにとって、これは死活問題でした。ヨーロッパ育ちの青年だったペドロ皇太子は、とりわけコーヒー好きの青年だったと言われます。彼は、リオに到着後、粗糖の輸出不能に悩む大土地所有者達に、コーヒー農園への切替えを勧めます。アマゾンの下流域に広がる熱く、雨季には湿潤なブラジルの大地は、コーヒー栽培にも適していました。生育に5年を要するブラジルのコーヒーの木が育ち、ブラジル産コーヒーが、始めてヨーロッパに輸出されたのは、1818年のことでした。これがブラジル・サントスの世界市場へのデビューでした。 続く
2008.05.25
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クロニクル プロ野球八百長疑惑 1970(昭和45)年5月25日この日、野球賭博に絡んで摘発を受けた、プロ野球八百長疑惑に絡んで、西鉄ライオンズ(当時)の池永正明投手等3選手が、プロ野球界から永久追放されることになりました。プロ野球実行委員会の決定に基づき、セ・パ両リーグ会長立合いの下で、コミッショナーから発表されました。ただ、はっきり八百長を認めた3選手と、種々取り沙汰されながら、確たる証拠が出なかったために、処分を受けなかった他球団を含む選手たちに対する処置に比べると、処分に不公平感が付きまとうことは否めず、スッキリしない要素が残る決着となったことは否定できませんでした。処分から37年、何度か話題にのぼったのですが、昨年ようやく3選手の名誉回復が測られ、今後はプロ野球の行事等への参加が許されることになりました。
2008.05.25
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コーヒーの旅路(40) ブラジル、中南米で唯一国語がスペイン語でなく、ポルトガル語の国です。ブラジルがポルトガル語の国であることは、『キャプテン翼』の影響で、サッカー少年中心に日本に広まりました。では何故、ブラジルだけがポルトガル領になったのか。話しは、コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマが切り開いた、スペインとポルトガルによる大航海時代に遡ります。ご承知のように、海上進出に先行したポルトガルはアフリカ西海岸を南下する航路で先行しました。遅れを取ったスペイン、カスティーリャの女王イサベラは、ジェノヴァ人の高級船員コロンブスの発案を受け入れ、彼を支援して、大西洋航海に3艘の船と航海費用を支援しました。こうして西周りでインドを目指すスペインと、東周りでインドを目指すポルトガルという図式が出来あがったのです。15世紀末のことです。当時、遠隔地との交易権は、最初にその地に出かけて先行した国や団体が独占できることになっていたのですが、コロンブス一行の航海の結果、スペイン・ポルトガル両国の権利の調整が必要となったのです。というのも、イベリア半島は、長くイスラム勢力の影響下にあったのですが、この両国の活躍によって、ようやくローマ・カトリックの勢力が回復できたところだったからです。それゆえ、ローマ教会とその頂点に立つローマ教皇にとって、両国の反目は何としても避けたい、憂慮すべき事態だったのです。そこで教皇アレクサンドル6世は、コロンブスが帰還した翌年の1493年に大西洋の中間に「教皇子午線」を引いて、両国の勢力範囲を仲裁したのです。両国はこれを機運に話し合いを継続、翌年教皇子午線をアフリカ西端のヴェルデ岬諸島から、西方に約15度(現在流に言うと、時差1時間の距離)移動させ、西経45度、東経135度の線とすることで合意、教皇の承認の下でトルデシリャス条約を結んだのです。この条約は、夫々の範囲内(勢力圏)にある地域が国家を形成している場合は、通商を独占する権利であり、国家が存在しないか、それに近い場合は占領して自国領とする権利だったのです。それゆえ、かなり身勝手な条約でありながら、国際問題になることはなかったのですね。世界地図をご覧いただくと判りますが、トルデシリャス条約の線を引くと、南北アメリカ大陸とカリブ諸島の内、ブラジルだけが西経45度線の内側、即ちポルトガルの勢力圏に入ることが判ります。こうして1500年、丁度関が原の戦いの100年前にあたる年ですが、この年ポルトガル人カブラルの一行が、ブラジルに漂着したのを機に、この地はポルトガル領となったのです。そして、ナポレオンの支配と大陸封鎖は、ポルトガル王家にも激震を与えていたのです。 続く
2008.05.24
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クロニクル 売春防止法公布1956(昭和31)年5月24日この日、売春防止法が官報に公布され、翌57年の4月1日から施行されることとなりました。ここに、売買春は共に違法行為とされ、共に処罰の対象とされることになりました。このため、各地の赤線地帯は表面的には消滅しましたが、次第に様々な抜け道が用意され、有名無実の存在と堕したのでした。今日では、「援助交際」なる言葉まで登場し、罪悪感の全くない状況が生じており、「性の商品化」は新段階に入っていますが、この状況の続く限り、人間の解放は、なお道半ばで留まってしまっています。
2008.05.24
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コーヒーの旅路(39) プロイセンの涙ぐましい努力にもかかわらず、代用コーヒーの研究は、遂に実を結ぶことはありませんでした。しかし、大陸封鎖によって、かえってイギリスに逆封鎖され、大西洋やインド洋からヨーロッパ大陸への輸入を阻まれた商品は、コーヒーだけではありませんでした。コーヒー以上になくてはならなかったのが、砂糖でした。インダス流域が原産地のサトウキビは、熱帯や亜熱帯の多雨地帯に生育します。カリブ世界やブラジル、コロンビアなどにサトウキビプランテーションが作られ、砂糖の価格は急速に下がり、コーヒーと違って18世紀の後半には、庶民もある程度は利用できるようになっていたのです。この砂糖の輸入も断たれてしまったのです。砂糖の輸入が完全に断たれると、事は厄介です。強力な権限を持つナポレオンにしても、それでは権力の維持が難しくなります。ここに、コーヒー以上に真剣に、サトウキビを用いずに砂糖を製造する方法が模索されたのです。代用砂糖の研究は、代用コーヒーと違ってうまく行きました。カリブ海に植民地を持たないプロイセンが、この分野でも先行していました。18世紀央には、当時家畜の飼料として広く使われていたビート(砂糖大根)の根に、サトウキビには及びませんが、かなりの糖分が踏まれている事が分かり、その後品種改良に取り組み、1799年には、ビートから砂糖を製造する方法が公表されたのです。ですから、ナポレオンの大陸封鎖が始まった時、プロイセン王はビートから砂糖を製造する方法に、大々的な支援体制を組んで支援を惜しみませんでした。これを見たナポレオンも、ビート(砂糖大根)から作る砂糖に大いなる関心を寄せたのです。こうして、日本では甜菜とも呼ばれるビートを用いたビート糖の生産は、大陸封鎖の恩恵を受け、フランス、ドイツ、ロシアなどで、次第に軌道に乗っていったのです。ここに問題が生じました。イギリス以外のヨーロッパの国への粗糖の輸出をストップされた中南米、カリブ海の植民地や独立国はどうなるかです。そのままサトウキビ栽培を続けた国と、サトウキビに替わる商品栽培に活路を開こうという国に分かれたのです。ここにブラジルの苦悩もありました。 続く
2008.05.23
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クロニクル 個人情報保護法成立2003(平成15)年5月23日この日、個人情報保護法が成立しました。しかし、ここで成立したとしても、散々漏れ放題になっていた、それまでの個人情報はどうしてくれるのか?と問いたいところですね。出来あがった保護法も、迷惑千万のところがかなりありますし…我家は上が息子で下が娘なのですが、先ず驚いたのが、息子の幼稚園時代に、やってきた文字や数字の学習教材のダイレクト・メールと公害勧誘電話。続いて、学習机やランドセルの宣伝攻勢。そうそう5才の七五三攻勢も凄かったですね。 続いて高学年になると学習塾の宣伝が…。中学生になると、「良い推薦に通るために」と親切ごかしの補習塾や進学塾の電話構成。どこで調べるのか、通学先の学校まで良く知っています。学校の電話連絡網とか、生徒名簿までもが、売買の対象になっているじじつをは、この時うまく相手を乗せて、聞き出したことです。勿論、娘の成人式やら、この頃はやたらに墓や墓石のダイレクト・テレフォンが多いですね。「オメエ、年だから、そろそろテメエの墓ぐらい用意しろよ」と、言われているようで、少々不愉快です。こんな調子ですから、どこかに電話を載せる載せない、名前を名簿に書かれては困ると言ってみたところで、それは、職場や学校、ご近所等でのお付き合いを狭くする効果しか生みません。他方で、自治会や趣味のサークル、それに町内会やご近所の名簿くらいないと、イザと言う時には大変困ることになるのですが、保護法を楯に掲載を拒む方も出て、困っているという話しも良く聞きます。本末転倒も良いところです。そして一方、ネットの世界では、迷惑メールの全盛です。楽天さんこれ何とかならないのかしら? 皆さんのブログのコメント欄のも、低次元の迷惑書きこみが散見しますね。規制すべきところは出来ず、しなくて良いところで、規制が働く、困った現象が結果として現出しているのが、現状でしょうか。さてどうしたものでしょうか。
2008.05.23
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コーヒーの旅路(38)プロイセン代用コーヒーの副産物を記す前に、時計の針を少し戻します。西洋にとって、砂糖は貴重な高級品でしたが、それはイルラム世界にとっても同じでした。ですからイスラムの貧しいスーフィー達が、深夜の祈りを眠らずに務めるために、見つけ出した黒いザム・ザムの聖水(コーヒー)は、砂糖なしの苦いものでした。この苦さが余計に刺激となって、眠気を払う効果を高めてもくれたのです。では、コーヒーに砂糖を加える習慣はどこで誕生したのでしょうか。それはオスマン帝国の首都、イスタンブールのスルタンの宮殿でした。贅を極めたスルタンの宮殿には、欲しい物は何でも揃っていたのです。貴重な砂糖を惜しげもなく何杯も加えた甘ーいコーヒーの誕生です。この砂糖入りコーヒーの習慣は、イスタンブールからアドリア海をまたぐとすぐのヴェネツィアに伝わります。ヴェネツィアは1453年、オスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国(=東ローマ帝国)に食い入り、同国を支援していましたが、そこは利に敏い商人の国です。20年の後にはオスマン帝国に取り入り、通商の権利を獲得していたのです。こうして砂糖入りコーヒーはヴェネツィアに伝わり、さらにここでもう1つの要素が加えられたのです。ヴェネツィアはヨーロッパにおけるエジプトやキプロス、シリアなどとの通商の権利を独占していましたから、ヨーロッパにおける砂糖貿易をほぼ独占していたのです。それゆえ砂糖を使うのはお手のものでした。ここに生まれたのが、砂糖をタップリつかったお菓子、砂糖菓子でした。おそらく皆さんもお好きなケーキは、12世紀の末頃に、ヴェネツィアに生まれました。勿論当時は庶民が口に出きるものではありませんでしたが…。さて、このヴェネツィアの聖マルコ寺院前の広場の一郭に、ヴェネツィアで最初のカフェが誕生したのは、1648年とされています。現在も残るカフェ・フローリアンが誕生するのも、それから間もなくのことでした。ここでは、砂糖をタップリ入れたコーヒーに、これまた砂糖をタップリ加えたケーキを食するのが、習慣でした。バッハの「コーヒー・カンタータ」に娘役のソプラノが、「コーヒーは千のキスよりも甘い」と歌い上げるところがありますね。ヴェネツィアからスイス・アルプスを越えた南ドイツには、ヴェネツィアの影響を強く受けたコーヒー文化が根付いていたことを、バッハが教えてくれているようです。さて、こうした砂糖入りの甘いコーヒー、これは不味い代用コーヒーで我慢するとなると、余計に砂糖は欠かせません。この砂糖の確保は、実は何とかなったのです。答えは明日にしますけれども。こうしてベルリンの代用コーヒーの店は、ヴェネツィアに存在したケーキとコーヒーの店の形を、しっかりとベルリンの市街に定着させたのです。菓子屋兼コーヒーショップ、ドイツ語のコンディトライ・カフェはこうして定着することになったのです。それは大陸封鎖が解除された後、1820年代から、ベルリン発として、急速にヨーロッパ大陸に広まって行ったのです。 続く
2008.05.22
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クロニクル 鎌倉幕府滅亡1333(元弘3;正慶2)年5月22日675年前ですか(元号の前は南朝の後は北朝の元号です)、この日、鎌倉の北条氏の政権が倒れ、源頼朝が樹立した鎌倉幕府は141年目にして、倒れました。下野の国の幕府の有力御家人足利高氏は、この年4月、北条氏の度重なる無理強いの出陣命令に怒り、反幕府の姿勢を鮮明にし、京都の天皇監視機関である六波羅探題を攻撃、5月上旬、これを陥落させていました。こうした中、上野の国の有力御家人新田義貞は、3月まで反幕府軍の討伐の軍に加わっていましたが、幕府の戦費調達名目での、立て続けの資金提供の強制に怒り、反幕府の陣に加わる事を決意し、5月8日に倒幕の兵を上げました。新田軍は破竹の進撃を続け、17日には鎌倉附近に進出、総攻撃の準備を整えました。この日義貞の本隊は、稲村ガ崎から海沿いに鎌倉に侵入、執権北条高時らは、東勝寺で自刃し、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。この後2年は、後醍醐天皇らによる公卿政治となりますが、時代錯誤の守旧派支配は、武力の担い手である御家人層の離反を招き、僅か2年足らずで、権力の座を追われることになります。現実社会の変化を見定め、現実に適合的な支配を実現する事の重要性を、遂に理解できなかった政府は、国民と社会に混乱を残したまま、再び武家の支配にバトンを譲って、退場するしかなかったというのが、現実でした。
2008.05.22
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コーヒーの旅路(37)少し先を急ぐことにしましょう。カフェとフランス革命が親密な関係にあったのは、革命の初期に限られていました。91年6月の国王一家の逃亡事件の頃からは、議員達も夫々のクラブに分かれて、次第に党派性を持つようになりましたし、民衆もまた自分たちの地区のクラブに集まるようになったからです。さて、フランスの革命は1799年11月のナポレオン政権の誕生を持って、ようやく落ちついてきます。しかし、ナポレオンの登場は大陸ヨーロッパにとっては受難でした。フランス革命の輸出が始まったからです。デンマーク、スカンジナヴィア諸国、そしてロシアを除く大陸ヨーロッパの国々は、みな一時はナポレオンの支配下に置かれたからです。そのナポレオンが齎したコーヒーに対する最大の影響は、占領下のベルリンで発した、有名な大陸封鎖令でした。まだクロニクルには使っていませんが、1806年11月21日のことです。イギリス占領を目指したナポレオンも海軍力の差はいかんともしがたく、日本攻略に失敗した蒙古軍と同じく、大陸に引き返さざるを得なかったのですが、それならイギリスと大陸との交易を一切禁止して、経済的にイギリスを締め上げようと知恵を絞って考え出したのが、大陸封鎖でした。イギリス商品の陸揚げを阻止し、イギリス船の入港を禁止すれば、いずれイギリスは音をあげる。これはナポレオンの狙いでした。しかし、この狙いは外れます。イギリスをブリテン島に閉じ込める海上封鎖は出来ないのですから、事実上イギリスは、インドやアメリカ大陸、アフリカとの貿易を自由に出来るからです。食糧はアルゼンチンや北アフリカから、そして砂糖や茶、あまり使わなくなっているコーヒーも自由に輸入できたからです。音をあげたのは大陸の方でした。詳しい話は省きますが、大好きなコーヒーをどうすれば良いのか。困りました。オーストリア、フランス、スペイン、南ドイツ、オランダなどは、大陸封鎖で息を吹き返した、アラビアン・モカをオスマン帝国からオーストリアを経由するルートで輸入できましたから、まだ我慢の範囲でした。しかし、北ドイツに覇を唱えるプロイセンには届きません。コーヒーは18世紀前半のフリードリッヒ大王時代からの大好物になっていました。そこで、コーヒーを断たれたプロイセンでは、涙ぐましい努力が始まりました。代用コーヒーの研究です。チコリの根、ドングリ、ダリアの球根、タンポポの根、栃の実……とありとあらゆるものを乾燥させ、炒り、そして砕いて試してみます。赤褐色や黒褐色の液体が出来れば、それと味わうのです。「君たちがいなくても、健康に、豊かに…」これはチコリコーヒーのキャッチコピーでした。しかし、代用コーヒーの夢は遂に実現しませんでした。インスタントコーヒーがネッスル社の手で実現を見るまでには、まだ長い時間がひつようだったのです。 続く
2008.05.21
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クロニクル 翼よあれがパリの灯だ1927(昭和2)年5月21日丁度81年前の今日、午後10時24分、米国人飛行士チャールズ・リンドバーグの操縦するスピリット・オブ・セントルイス号が、パリのル・ブールジュ空港に着陸しました。史上初めて大西洋横断飛行が成功した瞬間でした。ライト兄弟の初飛行で知られる飛行機は、第1次世界大戦中に兵器として使われるようになり、なお航続距離の短かった開戦初期には、敵陣の視察程度に使われる程度でした。操縦も大変難しく、空中で出会う敵軍機とも、共に手を振って挨拶を交わすほど、飛行機野郎同士の連帯感も強かったのですが、大戦の終盤には航続距離も伸びてきていました。戦後、アメリカでは大西洋横断飛行への関心も高まり、最初の成功者に賞金を送るとするスポンサーまで登場していたのですが、ここまで成功者は出なかったのです。リンドバーグも飛行機に魅せられ、ウィスコンシン大学を中退して、飛行士資格を取り、郵便飛行士の仕事をしながら、準備を進めていたのです。彼は地元セントルイスの有力者に、広く出資をお願いして、ようやくスオイリット・オブ・ザ・セントルイス号を完成させたのでした。こうしてリンドバークはパリ到着の前日20日の午前7時52分、ニュヨーク郊外のルーズヴェルト飛行場を飛び立ったのでした。それからおよそ38時間30分に及ぶ飛行で、いままさに飛行場いっぱいの10万人に及ぶ見物が出迎える中、彼はついにパリの地に降り立ったのでした。この時リンドバークは25歳でした。彼はパリまでの所用時間を24時間と想定し、24時間分の燃料を積み込むために、燃料計や無線機まで取り外して貰うなどして、燃料を積込み、睡魔と戦いながら、飛行を続けたのでした。大西洋を超え、英仏海峡を通過すると、遥かに大都会パリの夜景が眼に入ります。表題の語は、その時彼が叫んだとされる言葉なのです。帰国したリンドバークは、パリ以上の大歓迎をうけることになります。ブロードウェイでの凱旋パレードでは、大量の紙吹雪が撒かれました。こうしてリンドバーグはアメリカンドリームの体現者として、繁栄の20年代の英雄に祭り上げられたのでした。
2008.05.21
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コーヒーの旅路(36) アメリカでは1783年の独立から、6年も経った1789年4月になって、ようやくジョージ・ワシントンを初代大統領に選出し、アメリカ合衆国が正式にスタートしました。しかし、独立戦争を共に戦った13の植民地が全て合衆国に加わるのは、なお1年後の1790年を待たねばならなかったのです。それは、夫々の植民地のタイプの違い、州法の違いなどから、統一国家形成を望まず、13植民地の夫々が独立の小国家を形成し、緩やかな国家連合を形成すことを望む声が大きかったからでした。独立から合衆国の建国までには、なお一波乱が必要だったのです。しかし、この話しはここでは必要ありません。ワシントンが大統領に就任する頃、カフェの本場フランスでは、三部会の開会が迫っていました。5月4日のセレモニーに続いて、5日に正式に三部会の幕が上がりました。パレ・ロワイヤルのカフェは、革命の司令室を任じる「プロコプ」をはじめ、どのカフェも人、ヒト、人の渦で、押すな押すなの超満員の日が続きました。ヴェルサイユでの議会の様子を聞きたい人達が、情報を求めて、或いは自分の知り得た情報を伝えるべく、ここに集まってきたからです。当時、読み書きの出来る人がまだ限られていたため、商業ベースで新聞を発行する試みは、まだ育っていませんでしたから、新聞といえば、政府の公報誌と、商業上の必要を満たす業界誌が、不定期に発行される程度でしたから、誰もが口コミの情報を欲しがっていたのです。ヴェルサイユの議会は傍聴が可能でしたから、夫々のカフェは、傍聴者を派遣しては、情報を集め、顧客に提供するサーヴィスもしていたのです。そして、ここパレ・ロワイヤルには、カフェでコーヒーを楽しむ生活上のゆとりのない人々も、仕事を終えると集まってくるのが常でした。彼等、彼女等は、カフェの外に陣取っては、カフェから出てきた客を囲んでは、カフェで仕入れた情報を聞かせてくれとせがむのです。客もまた熱心な聴衆に気を良くしては、一場の演説を行うのです。パレ・ロワイヤルはまさに革命の広場と化したのです。ですから、7月14日のバスティーユ襲撃が、パレ・ロワイヤルでのアジ演説によって、火をつけられたと主張しても、あながち間違いとは言えないのです。事実、後ジャーナリスト兼議員となるカミーユ・デムーランが、12,13の両日、「武器を取れ」と締めくくる大演説をパレ・ロワイヤルの広場で行なったのも、まさに当然の成行きだったのです。しかし、パレ・ロワイヤルのカフェの絶頂期は、同じ89年の10月になると、呆気ないくらいに簡単に、過去のものとなってしまうのです。それは、10月5日の女達のヴェルサイユへの行進の副産物として、国王一家がパリに移り住むことになり、その国王と共に、憲法制定国民議会がパリに移ってきたからでした。議会は国王一家が居住するチュイルリー宮殿内に、移ってきたからです。パレ・ロワイヤルとはセーヌの対岸になる宮殿の隅に、議会が移ったのです。それならばと、目端の利く御仁がここにカフェを開きます。こうしてパレ・ロワイヤルのカフェの栄光は、あっという間にチュイルリー宮殿の近くのカフェに取って代わられてしまったのです。やがて、ジャコバンクラブ等、いくつもの政治グループが拠点をもつようになると、当然のようにその周辺にも、カフェが建ち並ぶようになったのです。 ザビ
2008.05.20
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クロニクル 翼賛政治連盟結成1942(昭和17)年5月20日この年2月に翼賛政治団体協議会を発足させ、4月30日の総選挙では、同会の推薦者が、当選者の8割以上を占める大勝利を実現した軍上層部は、いよいよ軍部独裁の総仕上げにかかりました。この日、翼賛政治団体協議会は、大政翼賛会を改組して翼賛政治連盟に衣替えし、議会では事実上、一党独裁体制が完結したのです。
2008.05.20
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コーヒーの旅路(35)ルソーは1778年に亡くなりますが、フランスのカフェは、益々繁栄の一途を辿っていました。ルソーの亡くなる2年前、カフェ「プロコプ」はイギリスのアメリカ植民地からの賓客を迎え、沸き立っていました。この頃アメリカ植民地は、1775年のレキシントン・コンコードの戦いをきっかけに、本国との内戦状態に入っていました。そうです。アメリカ独立戦争が開始されていたのです。黒人奴隷を含めて人口がようやく250万人(白人は200万人弱)に届こうかというアメリカ植民地は、地の利はあっても人的、物的に圧倒的に不利でした。この状況を代えるには、イギリスと不仲なヨーロッパ大陸諸国の支援を獲得する必要がある。大陸諸国の支援を得るには、戦争が内戦のままではうまくない。この際イギリスからの独立を宣言し、各国にその宣言を承認してもらえば、戦争は内戦ではなく、国際戦争に転化します。1776年7月4日発表の独立宣言には、こうした思惑が隠されていたのです。国家は国王と国民の契約によって成立する。そして国王は国民が生まれながらにして持っている、天然自然の権利すなわち基本権の尊重を約束することで、国民から統治権を委任される。それゆえ国民は、王が契約に叛いて圧政を行なうなら、当然その契約を解除し、王の統治を否定する権利がある。いま我々は、イギリス王の支配から独立する道を選ぶ。我等はイギリス人であることを止め、アメリカ人になる。これが独立宣言の主張でした。イギリスのジョン・ロックが唱え、ルソーが完成させた社会契約説を、現実の政治状況の中に見事に生かしてみせたのが、独立宣言でした。宣言は、大西洋を渡り、ヨーロッパ大陸に齎されます。当然ながら、この宣言に最も素早く反応し、いち早い支持を表明したのは、パレ・ロワイヤルのカフェとその常連達でした。そこには、自分たちの思想が生き生きと息づいていたからです。独立宣言を発表したアメリカ植民地の人達は、早速ヨーロッパ大陸に外交使節を派遣します。自ら望んでフランスへの特使となったのは、ベンジャミン・フランクリンその人でした。。「人間とは、道具を作る動物である」という、あの名言で有名な思想家兼科学者兼政治家だった彼は、着任するとすぐに、カフェ「プロコプ」を訪問します。アメリカの各植民地の内、特にヴァージニアやマサチューセッツ、ペンシルヴェニア等の自治と自由の気風は、啓蒙思想の先覚者ヴォルテールによって、既にフランスに紹介されていました。独立宣言も既に知られています。「プロコプ」の常連達は、フランクリンをまるで永年の友であるかのように暖かく迎え入れたのです。フランクリンは「プロコプ」の常連となり、ルイ16世の政府との交渉でヴェルサイユへ出かける時以外は、日に1度は必ず顔を出していました。フランス革命でも活躍することになる若い日のラ・ファイエットが、私費を投じて義勇兵を募り、アメリカの独立戦争に参加する決意を固めたのも、ここだったのです。「プロコプ」の常連達が、夫々出入りするサロンで働きかけたこともあって、ルイ16世の政府は、1778年2月6日、アメリカを国家として承認し、通商条約と攻守同盟を結んで、国家としても独立戦争に参加します。続いてスペインも。ロシアやオランダは、参戦こそしませんでしたが、対英武装同盟を結んで、アメリカとの通商の自由を阻害しようとするイギリス海軍の動きを封じ込めました。こうした大陸諸国の直接・間接の支援を受けて、1783年アメリカ植民地は、遂に独立を獲得しました。この独立戦争にも、パレ・ロワイヤルのカフェ、とりわけ「プロコプ」は大きな関わりを持ったのでした。きょうの最後に後日談を1つ。駐仏特使として活躍したフランクリンは、1790年アメリカ本国で、静かに息を引き取りました。彼の訃報がパリに届けられたその日から1週間、カフェ「プロコプ」は門前に半旗を掲げて弔意を表したのです。フランクリンはフランスで最も愛されたアメリカ人だったのですね。 続く
2008.05.19
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クロニクル 雲仙普賢岳の火砕流1991(平成3)年5月19日17年前のこの日、数日前から、噴煙を上げ続けていた長崎県の雲仙普賢岳で、大火砕流が発生。報道関係者やカメラマン、火山学者らを含む死者及び行方不明者43名を出す大惨事となりました。地元住民には数日前から避難勧告が出されていましたので、犠牲者の大半は地元の消防団等警戒にあたっていた人々と、報道関係者や火山関係者といった人々でした。火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は、骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明で、遺体さえ見つけられなかったケースが大半を占める、珍しいケースとなりました。この後も、普賢岳の活発な火山活動が続けられ、9月15日には、最大規模の火砕流が発生し、家屋170棟以上が焼失しました。
2008.05.19
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コーヒーの旅路(34)19世紀の歴史家ミシュレの調査によると、1721年のパリには、300軒を越えるカフェが建ち並び、パリ以外でもボルドー、ナント、リヨン、マルセイユと言った大都市には、同じようにカフェが並んでいたそうです。他にも、あらゆる薬局がコーヒー豆を売り出しており、修道院という修道院が、旅先で足を留める旅人等を対象に、食事を供すると共にコーヒーをもまた、提供していたと記しています。この時期、コーヒーは砂糖と同じように薬局で売られていたのです。こうしてフランスのカフェは、時代を追って増えていったのですが、それでもコーヒーは、貧しい庶民にとっては、高値の花の存在でした。そんなコーヒーと庶民の関係を示す回想が、フランス革命の思想を考える上では、忘れられない人物の1人であるルソーに関連して残されています。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の岩波文庫版につけられた、小説家ド・サン・ピエールの「晩年のルソー}と題された一文です。憧れのルソーに出会った彼は、ルソーの自宅まで、共に歩いて彼を見送ります。その時の光景です。「チュイルリーを通って彼を送っていくと、コーヒーの香りがせいてきた。すると、彼は言った。『私の大好きな香りだ。私の家の階段のところで誰かがコーヒーを炒っていると、隣人はみな扉を閉めるのだが、私は部屋の扉を開けさせるのです。』…『ではコーヒーがお好きなのですか。香りが好きだとおっしゃるのですから』と私は聞いた。『そう』と彼は答えた。『贅沢なもので、私が好きなものといえば、アイスクリームとコーヒーぐらいなものです。』」ド・サン・ピエールは、インド洋の旅から帰って間もなく、持ちかえったコーヒー豆1箱を、包みに分けて友人に配っているところでしたから、早速ルソーにも包みを届けたのです。すると、すぐに返事がきました。「拝啓。昨日は来客があったので、お送り下さった包みの中を調べる事が出来ませんでした。知り合いになったばかりなのに、あなたはもう贈り物をなさる。それでは私達の交際は、まるで身分違いの交際になってしまいます。私の財産では、贈り物などする余裕はありませんから。コーヒーをお引取りになるか、もうお目にかからないか、どちらかにして下さい。敬具」これがルソーの返事でした。ド・サン・ピエールはルソーの友情を謝し、コーヒーを引き取りました。1770年代、パリのカフェは600~700軒に増えていましたが、コーヒーはなお贅沢な品であり、その僅かな贈答が「身分違い」を示しかねない品だったのです。民衆階層にとって、カフェに入り込む贅沢は、まだまだ高値の花だったのです。 続く
2008.05.18
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クロニクル 戊辰戦争終了1869(明治2)年5月18日この日、函館五稜郭に立て篭もっっていた、榎本武掲を指揮官とする旧幕府軍が、新政府軍に降伏し、戊辰戦争はようやく終結しました。前年8月に江戸を脱出した幕府海軍は、東北各地で兵を集め、12月に函館に入りました。ここで、士官以上の選挙を行ない、榎本を総裁とする代表機関を設置しました。西欧列強は、これを蝦夷地の共和国と見なし、日本は内乱状態にあるものとして、局外中立を宣言しました。政府軍は、続々と兵力を終結して、3月頃から攻勢に出、5月に入ると総攻撃を仕掛けました。兵力と軍備の不足に悩む榎本軍は、やがて万策尽き、この日遂に、政府軍への無条件降伏にいたりました。
2008.05.18
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コーヒーの旅路(33)フランスのコーヒーの歩みを辿る時、忘れられない人物がいます。三権分立を定式化した『法の精神』の著者である、啓蒙思想家のモンテスキューです。生涯を通じた彼の著作は、他に歴史を分析した『ローマ帝国盛衰原因論』と社会の現状を叙述した『ペルシャ人の手紙』の僅か3作しかありません。モンテスキュー自身は、ボルドー地方の田舎貴族で、ワインを生産する地元の名門でした。現在でもモンテスキューの名を冠したコニャックは時々見かけます。そのモンテスキューが、1721年出版の『ペルシャ人の手紙』の中で、ひとしきりコーヒーを礼賛しているのです。この書は、異邦人のペルシャ人に扮したモンテスキューが、フランス社会のあれこれを分析し、批評するスタイルを採っているのですが、その中でこんなことを描いています。「パリではコーヒーが盛んに飲まれており、それを売っている店も沢山ある。そのうちいくつかの店では、ニュースを語っており、他のいくつかの店ではチェスを指している。飲む者に才気を与えてくれるようなコーヒーを淹れてくれる店も1軒ある。この店から出てくる客で、入った時よりも3倍にも4倍にも才気が増したと、思わぬ者はいないだろう。」と。モンテスキューが、こう記した店こそ、カフェ「プロコプ」でした。彼はまた。コーヒーを「理性を明朗ならしめる飲物」とか、「人を快活にし、その苦痛の思いを紛らわし得る飲物」とも記して、礼賛したのです。4倍に膨れ上がった才気は、次々に有力な啓蒙思想家を輩出し、18世紀後半には、革命の書となる『百科全書(アンシクロペディ)』全32巻(本文30巻、別巻2巻)を完成させるという、勢いを示すに至るのです。18世紀は、まさに輝かしき精神の世界でもあったのです。そしてコーヒーとカフェの出現は、そうした精神の世紀の舞台装置の、重要な1つだったのです。 続く
2008.05.17
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クロニクル サリドマイド出荷停止1962(昭和37)年5月17日この日、サリドマイド系催眠剤「イソミン」の発売元、大日本製薬は、自主的に出荷を停止し、発売を中止しました。これはあくまで製薬会社の自主判断として行なわれ、厚生省は自らイニシアチブを取る事を避けつづけました。これは奇怪なことでした。「イソミン」は、副作用が少ない催眠剤という触れ込みで、売り出されたサリドマイド系医薬品でした。西ドイツで売り出された「コンテルガン」と同じ種類の薬でした。この「コンテルガン」について、前年1961年の11月に、西ドイツでハンブルグ大学のレンツ博士が、妊娠初期に服用すると、副作用から奇形児を出産する可能性が高いと警告を発したのです。この発表を受けて、西ドイツなどでは、ただちに同剤の販売を中止し、製品全てを回収する措置が取られました。ところが日本では製薬会社が奇形との因果関係を否定すると、厚生省は具体的な措置を取らず、この日まで、いたずらに販売が続けられていたのです。それだけではありません。厚生行政は、あからさまに企業の都合ばかりを慮り,国民の健康には差ほどの注意を払っていなかったのです。厚生省はレンツ警告を受けても、何ら有効な対策を取ろうとしなかったばかりか、この年2月には、他の製薬会社のサリドマイド系新薬にまで、製造許可を与えていたのです。後、薬害エイズや薬害肝炎で行なわれていたのと、全く同じ厚生行政の悪質な作為がそこにありました。未必の故意どころではない、確信犯的な行動でした。この遅れで、厚生省発表によれば、309人のサリドマイド被害児が誕生したとされていますが、サリドマイドの副作用によると思われる死産児(3000名とも、4000名とも言われています)数は,含まれていません。
2008.05.17
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コーヒーの旅路(32)そうなのです。イギリスのコーヒーハウスは、一時的には大流行しましたが、長続きすることはなく、100年後には寂れていましたが、フランスのカフェは益々の繁栄を誇っていました。違いはどこにあったのか。1700年に出された、あるパンフレットのさりげない一言が、我々にその秘密を説き明かしてくれます。「カフェは、男女を問わず、真面目な人々の訪れる場所になっている。…… 」このパンフは、反カフェ派のプロパガンダに対する反論なのですが、その主旨よりも、冒頭のこの一言がフランスとイギリスのカフェの違いを明確に説明しています。そうです。フランスのカフェは、女性の来店を拒まなかったのです。フランスのコーヒーを最初に受け入れたのが、上流社会の貴婦人達だったことからすれば、当然といえば当然なのですが…。上は宮廷でも、啓蒙思想家の守護者で知られるポンパドール夫人、彼女の死後のルイ15世の愛人デュ・バリ夫人、そしてマリー・アントワネットなども気のおけない取り巻きの夫人達と、コーヒーを楽しんでいたことは、良く知られています。高貴な身分の女性達の楽しみは、もう少し大衆化されたスタイルで中流以上の女性達にも、提供されます。サン・ジェルマンの大市、最初にコーヒーの模擬店が出た、あの催しの季節になると、市場近辺の店の幾つかは、飲物ショップに変身して、男女を問わず、来店者にコーヒーを提供したのです。それは、高貴な身分の貴婦人達に評判の飲物と宣伝されることで、とりわけ中流女性の上昇志向を満足させたのです。こうして、フランスのカフェは、最初から女性客をも大切な対象として、誕生しました。それゆえ、フランス女性は、イギリス女性のように、コーヒーを目の敵にすることなど、なかったのです。カフェにおける女性の存在。それがフランスのカフェ文化を、国民生活の深部にまで届けさせ、脈々と今日まで続く、伝統に仕上たように思えます。そして、フランス人は、コーヒーは身体に悪いという、1部医学界に根強かったコーヒー否定論に対抗するために、コーヒーを良質の牛乳(ミルク)と良く混ぜ合わせて飲むという、カフェ・オ・レをも発達させました。コーヒーは胃に沈殿し、死の病である胃癌の原因になるという、1部医学界が主張し、コーヒー愛好家にも広く信じられた説に対する反論でした。なるほど、コーヒーは身体に悪いかもしれない。しかし、それは濃いコーヒーのことである。胃の弱い方や、癌が気になる方は、煮たてたミルクとコーヒーを、ほぼ等量で混ぜ合わせて大さじ1杯の砂糖を加えて飲むと良い。こうすればコーヒーが胃に沈殿する事はない。むしろ咳を止め、食事も進むようになると、カフェ・オ・レの効用を説いたのです。カフェにおける女性の存在と、カフェ・オ・レという新しいコーヒー飲料の登場によって、フランスのカフェ文化は、社会に定着したと言えましょう。 続く
2008.05.16
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クロニクル 十勝沖地震1968(昭和43)年5月16日この日、北海道南部から東北地方北部にかけて、大地震が発生し、死者と行方不明を合わせ、52名もの命が失われる大惨事となりました。この地震は、その後十勝沖地震と命名されました。マグニチュードは7,9と発表されました。
2008.05.16
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クロニクル 育児休業法公布 1991(平成3)年5月15日 もう17年になるのですね。17年前の前日に成立した育児休業法が、 この日公布されました。 女性の社会進出をより確実なものにするためには、 いわゆる産休のみでなく、少なくとも保育所に子どもを預けられる ようになる、生後3ヶ月否4ヶ月ぐらいまでは、後顧の憂いなく 子育てに専念出きる環境を確保しなければならない。 こうした考え方が、女性問題の後進国日本でも、 ようやく受け入れられた結果でした。 こうして、産後1年までの期間で(期間は雇主と従業員の交渉) 産休がとれるようになったのですが、 産休期間は無給とされたために、生活上収入が必要な 場合には、育休をとることが出来ない、出来たとしても 極めて短い期間しかとれないなどの問題点が指摘 されたことが、ついこの間のことのように鮮明に記憶に残っています。 その後の少子化の急進展が、企業の態度を劇的に変え、 3年間の育休とか、小学校入学までの育休とか、 超ロングの育児休業を認める会社が現れたり、 社会保険等の天引き分のみを給与として支給したり、 休業中の給与として、休業前の2割を支給する社が 現れたりと、最近の変化は、目を見張るものがあります。 少子化も捨てたものじゃないな、というのが私の 感想です。 以上、昨年5月15日の日記です。鮮度はそこそこあると思いますので、 ここに再掲致します。。
2008.05.15
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コーヒーの旅路(31) パレ・ロワイヤル、そこはフランスにおける盛り場の元祖のような場所でした。ここは王家の従弟にあたるオルレアン公の居館でしたが、自由主義者の公が、商人や客のために中庭を開放したのです。こうしてパレ・ロワイヤルはパリ随一の繁華街になったのです。フランス革命の初期、まだ議会がヴェルサイユにあった頃など、情報に飢えた人々は、多くはここに集まって、相互に情報交換に励んだ場所でもありました。1689年、このパレ・ロワイヤルにもカフェが誕生しました。店主はシチリアはパレルモの出身、プロコビオ・デ・コルテロ。シチリアはアラビア世界の影響を強く受けている土地柄から、コルテロもまた「コーヒーの家」がどういう性格を持っているかを、熟知していました。彼は、パレ・ロワイヤルの浴場の権利を買い取り、そこにカフェを開店したのです。中央に鏡を配置し、水晶の飾り物と大理石の壁とテーブルを用いるという、思いきり豪奢で、ブルボン王朝の首都に相応しい内装のカフェが出現したのです。それはくつろぎのある空間を創り出す演出でしたが、同時に皆が議論に興じるのに相応しい公共性もまた担保されたのです。 カフの名は「プロコプ」。丁度100年後の7月14日に、民衆蜂起をアピールする自由主義者の本部の役割を担った、あのカフェが、ここに誕生したのでした。 続く
2008.05.15
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クロニクル Jリーグ開幕1993(平成5)年5月15日この日、日本のプロサッカーリーグ、Jリーグが幕を開けました。Jリーグは地域密着を目指し、プロ野球のように企業名を冠するのではなく、地域名を冠した、地域のサポーターとの密接な関係を重視したチーム作りを目指し、プロ野球との差別化をはかることで、支持を広げる戦略をとり、ここまで規模を広げ、日本サッカーの裾野の拡大と人気化を達成してきました。子ども達の人気は、今や野球を上回り、私の地元では、少年野球チームに所属する子ども達と、少年サッカーチームに所属する子どもたちでは、1:3に近い比率で、サッカー少年が多くなっています。皆さんの地元ではどうですか。
2008.05.15
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コーヒーの旅路(30) 貴賓の間で広まったコーヒーは、日本製の優美な磁器の碗(この時期ですから、カップと呼ぶのは相応しくない、茶用の器だったのでしょうね)に淹れられていました。ダマスク織りのお洒落なナプキンに置くようにして…こうしたコーヒーの噂は、夫人達の召使を通じて、中流の市民達の間に広まって行きます。庶民がコーヒーを口にした最初は、毎年9月にサン・ジェルマンで開かれる大市でした。近郊からも日替わりで人が集まる、いわば1ヶ月続く縁日です。そこにアルメニア人のパスカルという人物が、模擬店の「コーヒーの家」を出したのです。噂のコーヒーが縁日で飲めるとあって、この試みは大当たりをとりました。味をしめたパスカルは、本物のカフェを開店したのですが、今度はうまく行きませんでした。縁日と同じ趣向では、リピーターを呼び込むことは出来なかったのです。その後もいくつかのカフェが、短期間に店を閉じた後のことですが、パリのカフェの最初の成功者となったのが、ペルシャ人のグレゴワールが開いたカフェでした。彼は郷里の「コーヒーの家」が知識層の議論の場となっていたことを覚えていました。そこから彼は、知識層が多く集まる場所に見当をつけ、「コメディ・フランセーズ」の正面に近い場所にカフェを開いたのです。狙いは当たりました。パリの劇場にはカフェがつきものなのですが、そのハシリが、このグレゴワールの店でした。舞台の終了後、彼のカフェは作家や批評家のたまり場になり、次作を描いてもらう必要のある座長や俳優も出入りするようになったのです。人気俳優が出入りするとなると、贔屓筋などもやってきます。グレゴワールのカフェは大賑わいとなりました。1689年に、コメディ・フランセーズが移転すると、当然のように彼の店も後を追ったのです。 続く
2008.05.14
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クロニクル 蛮社の獄始まる1839(天保10)年5月14日この日、蛮社の中心人物、三河田原藩家老の渡辺崋山が、江戸北町奉行所に召還されました。3日後の17日には、小関三英が逮捕を予期して自刃し、18日には、一時身を隠していた高野長英が奉行所に自ら出頭しました。これが、いわゆる蛮社の獄の始まりです。事の起こりは、2年前に米国船モリソン号が、遭難民の送還と通商の権を求めて、浦賀に強引に入港したことにありました。この事件に危機感を持った老中水野忠邦は、江戸湾防備のため、江川太郎左衛門と鳥居耀蔵の2人に江戸湾巡視を命じました。江川は蘭学に通じた開明派であり、一方鳥居は蘭学嫌いの保守派でした。鳥居は、江川が渡辺崋山らの意見も入れて、巡視の復命書を作成したことを聞きつけ、噂や伝聞に基づく程度の根拠の怪しい話を基に、崋山らを老中に告発、江川の失脚を図ろうとしたのです。水野は江川を信頼していたのですが、一応蛮社に属する崋山や長英の家宅捜索を命じたのですが、崋山の著書に幕政を誹謗する箇所が見つかったことから、崋山に田原の自宅での蟄居を命じ、長英はより激しい幕政批判を展開していたとして、永牢となったのでした。当時はなお、保守派の勢いが勝っていたのですが、その後の20年で様相は様変わりすることになります。 現在の保守派(道路族等公共事業と天下りの温存派、外資規制の存続派、天下り先積極確保派等)と、改革派の対立もどうなるのでしょうね。
2008.05.14
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コーヒーの旅路(29) ロンドンで、トーマス・トワイニングが最初のティーハウス「ゴールデン・リオン」を開店したのは、1717年でした。コーヒーハウスと違い、こチラは女性の来店を歓迎しました。女性向けに、ビジネスライクな雰囲気を避け、優美な雰囲気を売りにしたのも、成功しました。また、店の一郭で茶の量り売りをしたのも、トワイニングの先見の明でした。こうして18世紀20年代以降、ティーハウスやティーガーデンは、女性達の支持を得ることに成功しました。女性の支持を得られず、また一方で排他的なクラブ中心の時代に移ることで、イギリスのコーヒーハウスとコーヒー文化は、一時的なブームは実現したものの、歴史の闇の中に消えていったのでした。フランスの場合は、その誕生の経緯からして、イギリスとは違っていました。それまでもレヴァントに旅して、私的にコーヒーを持ちかえり、自宅で楽しんだ御仁はいたかもしれません。しかし、公式にフランスにコーヒーの足跡が記されるのは、オスマン帝国のフランス駐在大使、スレイマン・アヤが1669年にパリに着任したことに始まるのです。オスマン帝国はイスラムの覇者であり、ハプスブルグのオーストリアとハンガリーの争奪戦を、過去何度も展開していたキリスト教世界の強敵でした。そして一方、フランスはというと、オーストリアとスペインという2つのハプスブルグの兄弟国家の圧力をかわしながら、17世紀の初頭から次第に力をつけ、リシュリュー、マザランといった名宰相の獅子奮迅の働きによって、ようやくヨーロッパの大国の地歩を固め、1661年に太陽王の異名をとったルイ14世の親政が、ようやく始まったところでした。この時、オスマン帝国は、長く栄華を欲しいままにした大国の常として、ようやく帝権の綻びが目に付くようになってきていました。リシュリューの時代からフランスは、オーストリアの敵オスマン帝国と結ぶことで、対ハプスブルグの戦いを有利に運ぶことを考え、オスマン帝国に度々使者を派遣していたのです。ルイ太陽王の威勢を認めたオスマン皇帝も、ようやく正式の外交関係の樹立に踏み切り、スレイマン・アヤの派遣と相成ったのでした。アヤは着任後、ルイ14世に皇帝の親書を手渡すと、パリの貴人たちと親交を結ぶことに腐心し、大使公邸を兼ねる自宅への訪問を、積極的に歓迎しました。いうまでもなく、お喋り好きな上流階級の夫人達を招くことも忘れませんでした。こうしてアヤは、上流人士を歓待し、故国の慣わしに従って、床に敷かれたクッションに座ることを勧め、とてもくつろいだ姿勢で、会話を交わし、そして召使の淹れたコーヒーを勧めたのです。こうして、フランスの大貴族やその夫人達は、どろどろした黒褐色の液体をはじめて口にしたのです。それは苦い味がしたことでしょう。しかし、香りの良さやコーヒーのアロマは魅力的でした、さらに何よりも、遠いオリエントというエキゾチックな世界を体験する楽しみのためなら、決して敬遠すべきものではありませんでした。こうして異国の大使、スレイマン・アヤ邸に招かれ、コーヒーを御馳走になったか否か、御馳走になったのはいつか、これが夫人達の挨拶とともに、あちこちで囁かれるようになったのです。こうしてイギリスとは異なり、フランスのコーヒー文化は、先ずは上流社会から広がり始めたのでした。
2008.05.13
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クロニクル 五月革命始まる1968(昭和43)年5月13日もう40年になるのですね。40年前のこの日、パリ大学のナンテール分校の学生を中核とした、パリの学生と労働者がゼネストを決行しました。きっかけは、3月22日に、ナンテール分校で学内の待遇改善を要求する学生のグループが、大学当局の禁止令を無視して集会を決行、大学側が導入した警官隊と衝突して、流血の惨事が引き起こされたことでした。この事件に反発した学生たちは、5月2日に至って校舎を占拠し、これに対抗いた大学側は、翌3日に大学を封鎖する挙に出たからたまりません。伝統的にフランスの学生は、反権威、反権力の色彩が濃く、労働運動とも近しい関係にありましたから、ナンテール分校当局の警官隊を導入しての学生の排除は、呆れるほどの愚行でした。問題の根は、当時フランス病とも言われた、フランス経済の不振を、高等教育を受けた質の高い労働力の不足にあると考えたドゴール政権が、大学拡充政策を取り、学生数の急拡大に踏みきったことにありました。パリ大学のナンテール分校も、この一環として新設されたものでした。この学生数の急増に、施設の整備が追いつかず、施設面での学生の待遇が極端に悪化している点にありました。学生たちはこの点と、ドゴール政権による集権化の動き、社会的な管理強化の進行にも関わらず、いっこうに改善しない経済不振などに不満を募らせ、異議申立てに立ちあがったというのが、真相でした。こうした学生によるノンの動きに、彼等の行動の背景を分析することもせず、施設面の待遇の悪化の改善策の説明もせず、警察の力まで借りて抑えこもうとした大学当局の姿勢は、完全に裏目に出ました。抗議の声は、パリ大学の本拠ソルボンヌに波及、同じく経済不振に悩まされている労働階級にも広がり、この日のゼネストとなったのでした。この動きは、ほぼ1週間程で、全フランスに波及し、およそ1年近くに及ぶ、ロングランの運動となって、ドゴール政権の屋台骨を揺さぶり、翌年4月、遂に権勢を誇ったドゴール大統領を辞任に追い込むことに成功するに至ります。こうしてこの運動は五月革命と呼ばれることになりました。五月革命で特筆されることは、この革命の結果として、当時のフランス社会において、最も大きく変化したことが、女性の社会進出を可能とする諸改革が一挙に実現した事でした。五月革命は、女性の社会進出を大いに促進する役割を果たしたのです。同じ時期、日本では東大と日大の学生闘争が次第に広がりつつあった時であり、日本とフランスの怒れる学生たちの運動が脚光を浴び、駿河台はソルボンヌ地区をもじって、日本のカルティエ・ラタンと呼ばれたことは記憶に新しいですね。
2008.05.13
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コーヒーの旅路(28) コーヒーハウスの衰退の原因として、女性の反撃と並んで強調されるもう1つあげられるのが、社会情勢の安定による時代状況の変化です。コーヒーハウスは1730年代から、急速に人気を失っていった事は、この時代からコーヒーハウスの数が急激に減少していったことから明らかです。イギリス史の17世紀は1642年~1660年までの内乱の時代(ピューリタン革命からクロムウェル独裁そして王政復古まで)、1688年の「名誉革命」、そしてオランダとの戦争など、まさに大きな動乱の時代でした。こういう時は、人間社会の深層において大きな変化が起きている時期であり、変化が落ちついてくるに連れて表層部の動乱も治まってくるのです。それゆえ、動乱の表面の背後に潜む深層の変化に着目すると、遥かに面白い事実が次々に見えてくるのです。18世紀の30年代というのは、その半世紀後に始まる機械の連続的な発明と、それを起爆力とした工場制度の普及という、再度の社会構造の大変化(これが産業革命と呼ばれる現象です)にやがて繋がっていくのですが、ともかく1つの社会変化がようやく収まり、階層秩序がようやく固まりだした時期だったのです。そうなると、混沌と変化の象徴だった、コーヒーハウスの諸階層のルツボ的性格は、もはや新時代に適合的ではなくなってしまうのです。こうして個々のコーヒークラブでは、次第にメンバーが固定されるようになり、会員制クラブに近い性格を持つようになって行きます。庶民向けのコーヒーハウス(比較的、お値段の安い店)は、アルコールや食事を出すレストラン風の店に衣替えして存続を図り、より上流の人々が対象だったコーヒーハウスは、クラブ化していったのです。それは、メンバーが固定し、顧客が均質化したことによる変化でした。ウィッグ系の政論家たちの集まる「セント・ジェイムズ」、トーリー系の人々が集まる「ココアの木」、大陸から(ドイツ系が多い)の帰化人の「ギリシア人」など、クラブ化したコーヒーハウスは、沢山ありました。聖職者も宗派別に集まるようになり、法律家も出身の大学や高等法学院別に集まるようになります。クラブの数はとても多く。かつ多様だったのですが、しかし、仲間意識と同質性を拠り所とするクラブには、コーヒーハウスの持つ開放性は、そこにはありませんでした。どのクラブに所属するかによって、その人の社会的評価が決まるとさえ言われたのですから、もはや何をか言わんやだったのです。それは、いわば確立した社会新秩序を、維持・強化する装置に転化した、コーヒーハウスとは似ても似つかないものになっていたのです。生活の多様化はレジャーとビジネスの分化も明確となり、弁護士や商人や株式仲買人が、事務所替わりにコーヒーハウスを利用することも、もはや相応しい行為と見なされることは無くなっていたのです。しかし、フランスのカフェは、イギリスとはまた違った存在でした。 続く
2008.05.12
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クロニクル 5人の長州藩士イギリスへ密出国1863(文久3)年5月12日この日の2日前、長州藩は下関で米国船を砲撃するなど、一方で攘夷を実行しながら、もう一方では海軍の建設や洋式工業の研究のため、密かに英国へ留学生を送る計画も進めておりました。そしてこの日、伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)等5人が、横浜港でジャーディン・マジソン商会の持ち船に乗り込み、英国へ向け密出国しました。渡航費用は1人1000両、合計5000両が同商会に支払われました。ロンドン着は9月23日、4ヶ月と11日の旅でした。彼等はロンドンで英語を学びつつ見聞を広め、攘夷の愚かさを覚りました。しかし1864年に入って、下関の砲撃事件に鑑み、列強が事件の報復のために、4国連合艦隊による砲撃を計画していることを知り、伊藤・井上の2人は、急遽帰国を決意、6月10日に横浜に帰着しました。幕末の裏話の1つでした。
2008.05.12
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コーヒーの旅路(27)ところで、活況を誇った英国のコーヒーハウスも1720年代に入ると、急速にその数を減じて行き、遂にはコーヒー文化というか、コーヒーハウスの文化的・社会的役割も失われることになりました。それは何故だったのか。途中でコメントもいただきましたが、今日の西欧世界で英国だけはコーヒーではなく紅茶を愛好することで知られています。コーヒーが紅茶に替わったからというなら、ティーハウスが後継者になるはずです。そういうことは起こりませんでした。コーヒーが紅茶にその地位を譲ったのは何故か。その理由は分かっています。しかし、あるフランス人の言うように、「何故イギリス人が情熱的な紅茶党なのかは、彼等のコーヒーを飲んで見れば分かる」というのは、認めがたいように思います。確かにイギリスのコーヒーは美味しくありません。それは事実です。コーヒーがいくら不味いと言っても、「イギリス人は、おいしい紅茶もまずくして飲む」名人だからです。では何がイギリス人をコーヒーハウスから遠ざけたのか。大きく2つの理由が考えられるのですが、今日はその1つを記すことにします。今では考えられないことなのですが、実は当時のイギリスのコーヒーハウスは、女人禁制の男達のみの場だったのです。といって、決してそこでいかがわしい事が行なわれたわけではありません。いままで指摘した通りの場所でした。それが、男性のみの仕事の場、男性のみの公共空間になってしまったのです。パブやインと言った飲み屋の世界は、堂々と夫人同伴で出かける場所でした。これが19世紀の近代ブルジョワ社会なら、まだ分かります。そこは女性の権利が最も制限された、男性の天国ともいうべき時代だったからです。きっかけはビートン夫人の『家政読本』という1冊の書物でした。中産階級が勃興し、小ブルジョワの所得水準が上がり、夫と共に夫人が働かなくても食べていけるようになってくると、身勝手な男達は夫人達を家に閉じ込めておきたくなってきたのです。そこにおもねるような主張を展開し、多少豊かになった夫人達を巧妙に説得したのが、ビートン夫人だったのです。曰く、「男には外に7人の敵がいる」のだから、「妻たるものは、家庭にあって、疲れて帰ってくる夫が癒され、くつろげるような、暖かな家庭を整えて、夫の帰りを待つべきである」と。明治以降の近代日本でもてはやされたブルジョワ家庭のモラル、いわゆる良妻賢母思想は、こうして19世紀前半のイギリスで誕生したものでした。それだけ、この時代は女性のお相手選びは大変だったといえます。男がえばって当たり前の時代ほど、相手を選ぶ選択眼が優れているか否かで、幸不幸が歴然と分かれてしまうからです。ジェイン・オースティンの小説世界は、こうした時代の女性の苦心を余すところなく活写していると言えるように思います。ですから、それより1世紀も速い段階では、中流階級はまだ夫人を家庭に閉じ込めておいても困らないほどの、所得水準には達していないのです。夫婦は共に汗水たらして働いて、ようやく生活の資を稼ぎ出す共同の生活戦士だったのです。ですから、男だけがコーヒーハウスに出入りし、自分だけの贅沢な時間を過ごす事は、女達にとって許せることではなかったのです。最もそれが、生活上の重要な稼ぎに繋がっているのなら、まだ許せもしたのでしょうが、それとても仕事上のパートナーを自負する夫人達にとっては、大きくプライドを傷つけられる行為だったことは、否定できません。ですから、17世紀末ころから夫人達は、コーヒーハウスとコーヒーに激しい攻撃を加え始めます。ロンドン市当局にも、いくつものコーヒーハウスに対する規制の陳情書が提出されています。夫人たちの憤懣の理由には、コーヒーが安くなっているといっても、当時の遠隔地交易品ですから、決して安価なものとはいえない点も含まれていました。コーヒー2杯のお値段で、当時の4人から5人家族の1日の食費が賄えると記した、当時の夫人達の陳情書も、いくつか見つかっているくらいですから…。そして、コーヒーよりも早くに英国に伝えられながら、中国からの僅かな輸入に限られたために、宮廷や大貴族の邸宅に限られていた茶の利用が、インド植民地での栽培の成功などで、次第に値段も下がり、一般に普及するようになると、次第に家庭での飲茶の習慣が広がることに繋がっていったのです。 続く
2008.05.11
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クロニクル 大津事件1891(明治24)年5月11日ロシアの皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)は、帝王学の一環として世界漫遊中だったのですが、1891年3月17日、父の皇帝アレクサンドル3世から、「シベリア鉄道のシベリア側起工式に出席せよ」との手紙を受け取り、日本訪問後にシベリアに向かう計画を立て、4月28日に日本に降り立ちました。長崎に上陸したニコライは、京都を訪れ、この日は琵琶湖の遊覧を楽しみ、従弟のギリシャ皇子と共に帰路につきました。馬車が大津にさしかかったところで、警備の巡査津田三蔵が、突如抜刀して皇太子に切りつけたのです。警備中の巡査の行動だけに、事件は防ぎ得なかったのです。驚いた皇太子は、ただちに馬車を降りて逃げ、追おうとした津田巡査は、逃げたニコライよりも肝っ玉の太かったギリシャ皇子が、ステッキで大津を打ち据え、取り押さえました。幸い皇太子ニコライの怪我は軽傷で済みましたが、大国ロシアの皇太子に怪我をさせたとあっては大変です。翌日には明治天皇が自ら、皇太子を入院先の京都の病院に見舞うなど、ロシアとの関係悪化を食い止めようと必死の努力を重ねました。津田巡査は、皇太子の来日を知り、大国ロシアが、日本を侵略する布石として、調べに来たのだと思い込み、この日の凶行に及んだのでした。
2008.05.11
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コーヒーの旅路(26)最後に、もう1点だけコーヒーハウスの果たした役割を記して、先へ進みたいと思います。17世紀末~18世紀初頭ののイギリスで、初期的なジャーナリズムが成立したことは記しましたが、この時期に文学の中に小説というジャンルが誕生したのです。「ロビンソン・クルーソー」の話しで有名なデフォーが、良く知られていますが、彼等文人の活動の場所もまた、当時のご多聞に漏れず、コーヒーハウスだったのです。そうです。文壇もまたコーヒーハウスを揺り篭として誕生したのです。彼等が良く集まっては文学論を交わし、どの版元が支払いが良いかなどと、情報を交換したコーヒーハウスとしては、「ウィル」と「バットン」という2軒のコーヒーハウスの名が、知られています。また「ドン・サルテロ」というコーヒーハウスは、オリエントの珍しい物産などを展示し、1種の博物館の様相を呈し、とりわけ勃興する中産階級の知識欲や好奇心に働きかける作戦で、人気を集めたとされています。コーヒーハウスを「流行の学校」と考えるシャレ者もまた、存在しました。コーヒーハウスの性格は、出入りする人々が上流人士の風習を真似ることを妨げなかったので、小金のある人々が、そのファッションやマナーを真似ることに寛大だったからでした。そして、「王立協会」に属する学者たちもまた、協会に近いコーヒーハウスに腰を据えて、議論に耽ることを好みました。協会に迎えられることを希望する知識人も、当然足しげくそこに通い、自分の研究を紹介しては批判を乞い、内容を強化することを望むなど、コーヒーハウスは知識の展覧場の趣を呈し、実質的には大学の機能も果たしていたのです。そう言えば、我々の大学時代にも、教室のゼミは早々と切り上げ、好みの喫茶室に我々を引き連れていき、そこからの話の方が、遥かに薀蓄に富んでいた名物教授が、各大学に何人かづつはいたように思います。 続く
2008.05.10
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クロニクル フランス大統領に社会党のミッテラン氏1981(昭和56)年5月10日この日行なわれたフランスの大統領選で、フランス社会党のミッテラン氏が当選。第二次世界大戦後のフランス政治において、はじめて左翼出身の大統領が誕生しました。ミッテラン大統領は、アメリカのレーガン大統領や、イギリスのサッチャー首相等新保守主義を掲げる米英の指導者に対して、断乎としてフランスノ立場を主張して譲らず、国民の支持を得て、7年後の1988年の大統領選にも勝利し、2期14年に亘って政権を担当、1995年び任期満了で政界を引退するまで、国際政治の世界で重きをなしました。引退の翌年、1996年に80才で死去。
2008.05.10
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コーヒーの旅路(25)コーヒーハウスが爆発的に流行したもう1つの理由は、コーヒーハウスが自由を育んだことにありました。ここでいう自由とは、身分制秩序から自由という意味です。それは17世紀の終わり近くに、小さなコーヒーハウスの店主が貼り出した、「ご注意」という張り紙に、実に良く記されています。「ジェントルマンも商人の方も、職業には関係なく歓迎致します。ただし、店内では無礼講に願います。席順などに構わず、手近なところにお座り下さい。目上の方がお見えになっても、席など譲る必要はございません。」こうしてコーヒーハウスは、身分も階層も異なる人々が、自由かつ気楽に話し合い、情報を収集・交換できる場としても、成長していったのです。そういう意味でコーヒーハウスは、新種の「公共の場」としての意味も、持っていたのです。日中も取引の場であったり、ジャーナリストが記事を書いたり、新聞や雑誌の紙面作りが行なわれたり、競りが行なわれたりしているのですが、午後の6時ともなると、コーヒーハウスは人で溢れるようになります。人に会い、おしゃべりに花を咲かせ、仕事の用件を済まし、さらに政治上のニュースを聞いて、重要と思える事柄について話し合い、検討するために、人々は吸い寄せられるように、コーヒーハウスに集まってくるのです。出入り口は、綺麗なガラス製のか角灯に照らされています。部屋は2階で通りに面しているのが一般的でした。中に入ると自由な空間です。壁にはいろいろなお報せや公告が貼られています。部屋の中央に長いテーブルが置かれ、そこにはパンフレットや各種新聞・雑誌が置かれています。長椅子に座ってそれを読むのも良し、新聞が不足なら、読んでいる人に音読を依頼するのも良しでした。そこここに群れ集まる人々の会話に耳を傾けるのも良し、言いたい事があれば発言するのも良し、要するに何をしても良いのです。ただし、トランプやサイコロ遊びは御法度。罵り声や叫び声をあげることは、どのコーヒーハウスでも「悪魔の仕業」として忌み嫌われ、以後の出入りを禁じられるのです。即ち、自由であるコーヒーハウスでの最も重要な規制は、話す力と聞く力を兼ね備えた会話能力の有無にあったのです。コーヒーハウスには多様な人々が集うといっても、17世紀後半~18世紀初頭にかけてのロンドンっ子の全てが、洗練された会話能力を持っていたわけではありません。互いに会話し、意見を交わす場としても、コーヒーハウスは歴史的な役割を果たしたと言えます。従来、人が会話する場所としては、舞踏会の会場、公園、劇場、夜会などがありましたが、要するにこれらは上流階級の社交場でした。こうした古典的な場所に比べると、コーヒーハウスは全く違った場所でした。そこでは最初から、身分制の桎梏が取り払われていたからです。身分の高い人々も、社会階層が低い人々と親しく話すのに抵抗を持たない場所、それがコーヒーハウスでした。顧客の層が多様であることがコーヒーハウスの魅力だったのです。こうした仕掛けがあるからこそ、コーヒーハウスでは、社会情勢や政治動向、仕事の成行きから文芸に到るまで、変化に富んだ予想もしない顛末に到ることもある、会話や討議が可能だったのです。貴族社会特有の、まだるっこいバカ丁寧さは無用だったのです。ここで貴重なのは、情報の内容であり、会話のスピードだったのです。 続く
2008.05.09
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クロニクル 日本登山隊マナスル山頂に立つ1956(昭和31)年5月9日この日、日本山岳会のマナスル登山隊(槇有恒隊長)が、3度目の挑戦で、世界7位の高峰であるヒマラヤのマナスル(8156メートル)の登頂に成功しました。過去2回はいずれも天候に恵まれず断念していました。日本の登山隊が、世界の8000メートル級の高峰の登頂に成功したのは、これが始めてでした。当時の通信事情では、このビッグニュースも、その日の内に日本に届けられることは無理でしたから、当時中学生だった私が、このニュースを最初に知ったのは、翌朝のラジオでした。学校でも専ら、このニュースで持ち切りだったことを、懐かしく思い出します。
2008.05.09
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コーヒーの旅路(24)コーヒーハウス「ロイズ」の誕生の3年後、1694年にイングランド銀行が誕生します。こうして18世紀を迎える頃には、シティの金融市場が整えられるのですが、この頃イギリスを襲ったのが、熱病のような株式ブームでした。それは、昨年の上海を中心とした株式ブームを連想すれば良いのかもしれません。この株式ブームは、1711年にスペイン領中南米との取引を目的に設立された「南海会社」の登場と共に、ピークを迎えました。株式投機熱は、手をつけようもないほどに蔓延します。「飾り立てた馬車や上流社会のお仕着せを着た召使達」から、「馬の背にまたがった農夫、地方からやってきたカントリー・ジェントルマン、インテリ、女優、さらにはあらゆる種類の詐欺師」までが、株の売買に熱中したのです。こうした欲の皮を膨らませて、真実を見る眼を曇らせてしまった人々を相手に、現在では考えられないような、インチキ株式会社の株式までが、堂々と売買されていたのです。「鉛から銀を作る会社」、「200万ポンドで、イギリス全土の必要な家をただちに完全な空家にする会社」、そして極めつけに「巨大な利益をあげる事業を行なうが、詳細は誰にも打ち明けられない会社」というのまで、登場したのです。しかも、こうしたインチキ会社お株式にも、十分な買い手がいたというのですから、呆れてしまいます。こういう取引も全てコーヒーハウスで行なわれました。やがてバブルははじけました。史上有名な1720年の「南海泡沫事件」です。中南米との取引(主に奴隷貿易)をする予定で設立されながら、実際は国債の引き受けが主な業務になってしまったため、予定の利益があげられなくなった南海会社の株を中心に、株式相場の大暴落が始まったのです。結果としてイギリスの経済と社会は大混乱に陥りました。南海会社の株式の暴落で大損をした著名人も数多いのですが、中でも万有引力の法則でお馴染みの、あのニュートン大先生までもが被害を受けていたというのですから、驚きです。あまりの被害の広がりに、イギリス議会も驚き慌て、株式の売買だけではなく、株式会社の設立そのものを禁じる「泡沫禁止法(バブル・アクト)」を大急ぎで制定する程でした。このバブルアクトは100年近く存続しましたから、南海泡沫事件がイギリスにおける株式会社の発達を大きく阻害したことは間違いのないところなのです。これもまた、コーヒーハウスが招いた1つの狂騒曲でした。 続く
2008.05.08
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