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クロニクル 村山内閣発足1994(平成6)年6月30日20年前のこの日、社会党の村山富市委員長を首班とする、自民・社会・さきがけ3党の連立政権が誕生しました。戦後2度目の社会党委員長を首班とする内閣がここに誕生しました(1度目は、1947{昭和22}年6月1日に誕生した片山哲内閣です)。村山首相の外に、河野洋平自民党総裁が副総理兼外相、武村正義さきがけ代表が蔵相、他に橋本龍太郎通産相、五十嵐広三官房長官といった布陣でした。
2014.06.30
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クロニクル 長篠の戦い1575年6月29日(天正3年5月21日)織田・徳川連合軍が、当時無敵と恐れられた騎馬隊を中核とする武田軍を、当時の新兵器鉄砲を巧みに使って、一方的に粉砕した戦国時代史でも、特に有名な戦いですね。この戦いが行われたのが、439年前の今日のことでした。鉄砲は西洋から齎されましたが、使い勝手が悪く、戦場で用いるには決して有効な武器であるとは言えない代物でした。なにしろ、火薬を調合して詰めてから、おもむろに火縄に火をつけて、ズドンと一発ぶっ放すと、大急ぎで銃口と銃身を掃除し、改めて調合火薬を詰め、火縄に火をつけるまで、どんなに鉄砲の扱いに慣れた練達の士でも、最低3分はかかる代物だったからです。一方で弓で矢をを射る弓隊は、1分間に10本の矢を射ることが可能だったのです。飛距離は鉄砲の方が優れているとは言え、1発対30発では、どちらが優れた平気であるかは、論じるまでもなかったのです。この鉄砲と言う新兵器の弱点を補い、有効な兵器に変えたのが、信長の考案した、馬防柵をめぐらして騎馬隊の侵入を防ぐと共に、鉄砲隊を3班に分けて三段撃ちを行うという、新戦術でした。この戦術は当たりました。それは確かなのですが、当時の鉄砲の大きな欠点を覆い隠し、三段撃ちを効果あらしめるためには、大量の鉄砲を用意する必要があります。織田・徳川連合軍は、当時としてはヨーロッパのどの君主すら持ち合わせることが出来なかった、3千丁もの鉄砲を用意した点に、とりわけ信長の先進性と過去にとらわれない器の大きさが感じられます。そして、もうひとつ当時の日本の兵器生産並びに鉄の加工技術の先進性を上げておく必要があります。国友鍛冶、根来衆など、戦国武将の注文に応じて、大量の鉄砲を生産する技術を磨いていたのです。こうして、日本の織田信長が開発した3段に分けた鉄砲隊が、交互に一斉射撃を繰り返す三段撃ち戦術が、ヨーロッパの戦いで、初めて実戦で用いられたのは、ドイツを中心に戦われた三十年戦争(1618年~1648年)の中盤の戦いの末期、1832年のリュッツェン(ライプチヒの南です)の戦いでした。採用したのは当時の北の大国スウェーデンの王、グスタヴ・アドルフその人でした。長篠の戦いから、50年以上が経過していたのです。
2014.06.29
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クロニクル サライェヴォ事件1914(大正3)年6月28日今年でちょうど100年になります。3年前にも載せましたが、今日はこの記事にさせていただきます。100年前の6月28日は日曜日でした。この日、ボスニアの首都サライェヴォは昨夜来の雨もあがり、雲一つない快晴だったと記録されています。このサライェヴォで1ヶ月後の7月28日に,最初の戦端が開かれることになる、第1次世界大戦を招き寄せる大事件が起きたのは、11時15分頃のことだったと伝えられています。そうです。オーストリア、ハプスブルグ家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアのオーストリアからの独立を支援する隣国セルビアの民族主義運動家の秘密結社「黒い手」が派遣した刺客が放った銃弾に倒れた、あのお馴染みの事件が起きたのです。あまりの衝撃に、当日の天候から時刻までもが、克明に記録されています。ボスニアは旧ユーゴスラヴィア連邦解体後の民族紛争、とりわけ、ボスニアのセルビア系住民によるイスラム教徒(ボスニアではイスラム人として1民族に数えられます)並びにクロアティア系住民の虐殺と民族浄化運動で知られることになりましたが、既に20世紀初頭から民族紛争が絶えない地域だったのです。当時のオーストリア皇帝は、悲劇の皇帝と言われた80歳の老皇帝フランツ・ヨーゼフでした。彼の弟マクシミリアンは,フランス皇帝ナポレオン3世に口説かれてメキシコ皇帝に担ぎ出され、メキシコ人の反乱にあって、1867年に銃殺されました。1人息子のルドルフは、1889年に愛人と変死しました。息子の死の悲劇に耐えた皇帝が、皇位継承者に指名したのが、甥にあたるフランツ・フェルディナントだったのです。皇帝はウィーンの宮廷で、後継者に指名した甥の遺体の到着を待ったのです。しかし、疑問は残ります。ボスニアに反オーストリア感情が強いことは良く知られた事実でした。だかたこそ、この日、オーストリア軍は大規模な軍事演習を催し、セルビア系住民を威圧するプランを立てていたのです。そんな危険な地に、オーストリア政府は何故皇位継承者を派遣することにしたのか。軍部は何をしていたのか。オーストリア側の警備は十分だったのか。といった疑問が残ります。そして又,反対側の当事者であるセルビア政府は、オーストリアとの戦争になりそうなことぐらい、すぐに判断出来るハプスブルグ王家の後継者暗殺の動きを、何故止めようとしなかったのか。せめて止めないまでも、胡乱な動きのあることをオーストリア側に伝えなかったのかという疑問が残ります。そんな疑問が、今でも残っているのですが、この事件は、ちょうど1カ月後に、オーストリアがセルビアに宣戦を布告して、戦端を開くと、1週間足らずの間に、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスを巻き込むヨーロッパの国際戦争となり、さらに日本・イタリア・アメリカをも巻き込み、4年半も続く最初の世界戦争にまで拡大したことは、ご存じの通りです。しかも、当初の当事国の施政者たちは、誰もが短期戦を予想し、出征する兵士たちに、「クリスマスは、自宅で家族と迎えることが出来るだろう。そのつもりで頑張ってほしい」と訓示していたのです。戦争はヒョンなことから始まり、後悔しても後戻りできない形で破局へと至ります。集団的自衛権を巡る今日の議論、世界のあちこちに漂う不穏な動き、何やら100年前に似た雰囲気が漂っているように思えるこの頃の中で、日本の政界の動きに危うさを感じる、この頃です。
2014.06.28
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クロニクル 松本サリン事件1994(平成6)年6月27日ちょうど20年になるのですね。20年前のこの日夜9時半過ぎでしょうか、長野県松本市の住宅街で、有毒ガスが発生(サリンと判明したのは、採取したガスを分析した後日のことでした)、死者7名、入院52名、被害者総数213名に及ぶ大惨事となりました。翌年3月に霞ヶ関中心に、地下鉄サリン事件が起き、松本サリン事件も、オウム真理教の犯行と分かるのですが、当初捜査は難航し、事件の翌日からマスコミは、現場に近い河野義行さんのお宅に、いくつかの農薬類があったことから、まるで河野さんが犯人であるかのように、実名入りで報道しました。TV局のリポーター(この人種、あまり自分がリポートする内容、インタビューする内容や取材対象者の人柄や心情にについて、全くといっていいほど勉強していない、不勉強な連中が多いですね)の中には、他社が報じているからと、「あなたが犯人なんでしょう……」と罵声を浴びせるウマシカさんおりました。河野さんの夫人は、入院患者の中でも最も重症で、1度も意識を回復されることがないまま、河野さんや病院関係者の手厚い看護を受け、命の戦いを続けていらしたのですが、遂に6年前の2008年8月に、サリン中毒が原因の低酸素脳症による呼吸不全によって、息を引き取られました。河野さんは実名入りで、姿を露出させられて、マスコミに報じ続けられました。不確かな情報で犯人扱いされて…。オウム真理教の犯行と分かって、ようやく河野さんの濡れ衣は晴れたのですが、その間9ヶ月に渡って、犯人扱いを受け続けたのです。これは,明かにマスコミによる人権侵害でした。松本サリン事件は、報道と人権の問題をも浮きあがらせた事件でした。この反省が個人情報保護法に生かされているかというと、政治家や官僚には都合良く、自分に不利な情報を隠せるようですが、我々の情報が、きちっと保護されているかというと、これははなはだ中途半端なようですね。どうでも良いところにうるさくて、肝腎のところは抜けているような……最近はそこに、特定機密保護法なる厄介な法が成立して、益々政治家や官僚に都合が良く、我々庶民の知る権利はないがしろにされる状況が、グンと強められました。困ったことですね。
2014.06.27
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クロニクル 雪印乳業の集団食中毒事件発生2000(平成12)年6月26日14年前ですね。この日雪印乳業の低脂肪牛乳を飲んだ人が、食中毒を煩いました。これが雪印乳業の集団食中毒事件の始まりでした。被害は関西中心に広まりました。雪印乳業の関西の工場で、低脂肪牛乳にブドウ球菌が混入したことによる被害でした。被害は7月末にかけて広まり、13420人が食中毒を患うという未曾有の被害を齎しました。雪印の社長が、記者会見を打ち切ろうとして、「私は寝てないのだから…」と話す映像が流れ、顰蹙をかったのも、この時のことでした。雪印グループでは、翌年雪印食品が牛肉偽装事件を起こして問題になるなど、同社グループ全体の、食品管理の杜撰さが明るみに出ました。
2014.06.26
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クロニクル 最初の馬車鉄道開業1882(明治15)年6月25日132年前のことです。日本最初の馬車鉄道、東京馬車鉄道が、この日新橋~日本橋間で開業しました。1872(明治5)年に開業した新橋~横浜間の蒸気鉄道に遅れること10年でした。馬車鉄道は、馬が線路の上を走る客車を引く鉄道です。普通の馬車に比べて乗り心地がよく輸送力も大きいことから、ヨーロッパでも都市内の輸送機関として、広く普及していました。このため日本でも、東京馬車鉄道の成功を見て、沖縄から北海道まで全国に広まってゆきました。都市内の軌道は、比較的安価な費用で引くことが出来たことも追風になりました。しかし、電気が普及して電車が登場するようになると、糞尿や餌の問題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道は衰退の道を辿りました。東京馬車鉄道も1903(明治36)年には電化され、東京電車鉄道となりました。いまでは少なくなった都(市)電ですね。さて、この馬車鉄道、現在でも下記の2ヶ所で、観光用に運行されています。一つめは北海道にある野幌森林公園にある「北海道開拓の村」です。ここでは馬車鉄道が夏季限定という形で運行されています。二つ目は、岩手県の小岩井農場内にある「まきば園」で、同様に観光客向けに、馬車鉄道が運行されています。
2014.06.25
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クロニクル IOCオリンピックの開催を4年に1回と決定1894(明治27)年6月24日120年前の今日ですね。この年、近代オリンピックの開催を提唱し、オリンピックによって世界の平和を実現しようというクーベルタン男爵の熱心な訴えによって、オリンピック実施の大元の組織として、IOC(国際オリンピック委員会)が創設されました。第1回大会を、2年後の1896年にギリシアのアテネで開くことは、早くに決まったのですが、この日の会合で、その後のオリンピックの開催間隔を4年とし、1900年に第2回大会を開くこと、以後も1904年、08年、12年と4年に1回の大会とすることが、長い議論の末に、ようやく決まったのです。3年間隔でも、5年間隔でもなく、4年間隔とすることは、結構揉めた過程を経て決まったのですね。私たちは4年間隔に慣れてしまったというか、慣らされてしまっているのですが…
2014.06.24
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クロニクル 昭和新山誕生1944(昭和19)年6月23日ちょうど70年前のことです。この日、北海道有珠郡壮瞥町の有珠山の東麓にあたる畑地が噴火、溶岩が堆積して標高398mの昭和新山が誕生しました。誕生当初は、ちょうどアジア・太平洋戦争の最中、しかも次第に日本の敗色が濃くなってきた時期だったため、国民の動揺を恐れた軍部は、噴火と新山誕生の事実を公表せず、かん口令を引いて事実を隠しました。このため、戦後に事実が公表されるまで、公的機関による観測も禁止されたままでした。7年後の1951年には、国指定の特別天然記念物に指定されましたが、温度の低下や侵食などによって、年々高さが縮んでいることが、気にされ始めています。
2014.06.23
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クロニクル 独ソ開戦1941(昭和16)年6月22日73年前のこの日、ヒトラーのドイツ軍は、バルバロッサ作戦を開始、かねての計画通りに独ソ国境を越えて、ソ連軍への攻撃を開始しました。ソ連軍もこれに応戦、39年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって、始まった第二次世界大戦は、ここに独ソ開戦という新たな段階に入りました。しかし、ドイツ軍部は、ヒトラーのソ連侵攻計画には反対でした。西部戦線と東部戦線という2つの戦線を持つことを不安視したからです。当時ドイツ軍はフランスを制圧、イギリスを空爆しつつ、イギリスを降伏させることに集中していたのですが、アメリカの支援を受けるイギリスは屈服しなかったのです。ヒトラーは、こう話して軍部を説得したのです。「地図の上からソ連を消してしまえば、それは極東の同盟国、日本の力を増大させる。そうなるとアメリカは、日本との戦いに忙殺され、イギリスへの支援など出来なくなるであろう。孤立したイギリスは、我がドイツに独力で抗戦するしかなく、その抵抗は長くは続けられないであろう」と。緒戦こそ、思惑通りの勝利を収めましたが、やがてソ連軍の反撃態勢が整い始めると、ドイツ軍は次第に防戦一方に追い込まれていったことは、ご承知の通りです。ヒトラー自身は、「自分はナポレオンとは違う。私は彼を超えて見せる」と、考えていたのでしょうが、史実は、ソ連侵攻計画に乗り気でなかった、軍部の方が正しかったことを証明しています。
2014.06.22
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クロニクル 本能寺の変1582年6月21日(天正10年6月2日)432年前の話ですが、大変有名な話です。この日、京都は本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭い、自刃して49歳の生涯を閉じました。信長は時代を超える天才というべきか、時代の旧弊を次々に打破して新基軸を打ち出しており、今しばし長生きをして、改革を続けて欲しかったと、私は彼の死を惜しんでいます。光秀の行動については、諸説あり、未だに通説はありません。ただ、信長を討って、クーデタを成功させた後の光秀の行動を見ると、信長に比べていかにも凡庸というしかなく、主君と自分の器の違いを、しっかりとはかることも出来なかったのかと、あきれるばかりです。
2014.06.21
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クロニクル 富士通の誕生1935(昭和10)年6月20日79年前のことです。富士通信機製造株式会社が、この日産声をあげました。同社は、富士電機製造株式会社(現富士電機ホールディングス)の電話部の業務を分離して誕生しました。3年後の1938(昭和13)年に、専用の新工場を建設して独立、1965(昭和40)年には、資本関係も解消して完全に独立、1967(昭和42)年に社名を現在の富士通に改め、今日に至っています。
2014.06.20
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クロニクル 関釜フェリー運航開始1970(昭和45)年6月19日今日で44年ですか。戦前1905年から下関と釜山を結ぶ航路が開設されていましたが、太平洋戦争が激化し、日本が日本海の制海権を確保できなくなって、運行中止に追いこまれ、そのまま途絶えていました。それが1965年の日韓基本条約の調印によって、国交が回復したのに伴い、次第にこの航路を回復しようという気運が高まり、69年に事前に運輸支局で登録証書などを用意、運航を担当する関釜フェリー株式会社(日本)が設立され、この日の運行開始となりました。当初は、1艘だけの運行で、夜日本を出立して翌朝釜山到着、その晩釜山を立って、翌朝下関着と、2日で1便の運行でしたが、13年後の1983年にいたって、韓国側の受け入れ業務を担当していた釜関フェリー株式会社も船舶を所有するにいたり、両者の共同運航という形で、毎日運行が可能となり、今日に至っています。フェリーですから、運転者が国際運転免許をもってさえいれば、事前に運輸支局で当該車両の登録証書を用意すれば、90日間以内の条件で、国際ナンバーを用意することなく、日本の自家用車やバイクを韓国に持ち込むことが可能となっています。
2014.06.19
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クロニクル リクルート事件明るみに1988(昭和63)年6月18日26年前のことです。この日の朝刊で朝日新聞が、リクルート社が、不動産関連の子会社リクルート・コスモス社の未公開株を川崎市の助役に譲渡し、およそ1億円に上る利益を上げさせていたことを、暴露しました。子会社を使っての川崎駅前再開発事業に、便宜を図ってもらうのが、狙いでした。朝日が報道したこの事件をきっかけに、リクルート事件は中央政界に飛び火し、当時の政界有力者を軒並みに巻き込んだ、一大スキャンダルに発展しました。竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄、そして中曽根康弘前首相と、総裁候補の全員を網羅した汚職事件となり、総辞職を余儀なくされた竹下首相の後継候補選びが、立ち往生してしまう異常事態となり、右往左往のあげく、竹下氏の肝いりで、宇野宗佑氏を総裁に据えたのですが、女性問題が明るみに出て、参院選に大敗、超短命内閣に終わったことは、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
2014.06.18
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クロニクル テレシコワさん宇宙へ1963(昭和38)年6月16日51年前のこの日は、女性史の上で、記念すべき日となりました。何曜日だったか忘れましたが、大学中どこへ行っても、女子学生のニコニコ顔が溢れていたのを覚えています。女性の社会進出が、まだ遅々として進まずといった時代でしたから、とりわけ女性の権利に敏感な闘士然とした女性たちの、柔らかな笑顔が印象的な1日でした。そうなんです。朝起きたときから、「ワーリャワーリャ、こちらはカモメ」と訳された、ワレンチナ・テレシコワさんの声が、TVからラジオから流れっ放しだったのです。この日、ソ連の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワさんが、世界の女性として初めて宇宙空間へ飛び立ちました。彼女を乗せたボストーク6号が宇宙へ旅立ち、成功裏に飛行を続け、無事帰りついたのです。
2014.06.16
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1912(明治45)年6月15日102年前のこの日、日本で始めて、特別急行列車と命名された列車が、新橋=下関間で運行を開始しました。この列車は1等車と2等車ばかりで構成され、3等車は連結されていない、富裕層対象の編成でした。当時は列車に愛称はつけず、1列車,2列車と呼ばれていました。1914(大正3)年12月に東京駅が完成すると、新橋発は、東京発に改められました。1923(大正12)年に、同じ区間に3列車と4列車が投入されましたが、こちらは3等車のみで編成された大衆向け列車でした。列車に愛称がつけられるようになったのは、昭和時代となってすぐの頃で、前者に「富士」、後者に「櫻」の名が付けられました。戦前の特急は、この2本の外に、いずれも東京=神戸間を走る「燕」と「鴎」の2本があるだけで、合計4本でした。東海道・山陽本線以外の線区は、急行列車は走っても、特急列車は運行されていなかったのです。太平洋戦争が激しくなるにつれて、特急の運行は1本また1本と減らされ、1944(昭和19)年4月に運行停止となった「富士」を最後に、特急の運行はしばらく中止となり、戦後を迎えることとなりました。
2014.06.15
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クロニクル かけがえのない地球1992(平成4)年6月14日ワールドカップ、ブラジル大会も始まりましたね。そこで今日はこの話題を22年前のこの日、ブラジルのリオで行なわれていた、国連の「環境と開発に関する会議」が、「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して、閉幕しました。ここでは1972年の国連の人間環境会議で採択され、「かけがえのない地球」を守れと訴えた、人間環境宣言を再確認し、「持続可能な開発」を目指して、各国が協調して行動することなどが、合意されました。しかし、その後は、エネルギーを大量に消費する大国のエゴが幅をきかし、宣言の趣旨が生かされているとは言い難い状態が続いています。
2014.06.14
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クロニクル 森戸事件1920(大正9)年1月13日94年前のこの日、東京帝国大学経済学部の森戸辰男助教授が休職を命じられる事件が起きました。創立から日の浅い、同学部の紀要『経済学研究』の創刊号に掲載された森戸の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府主義(アナーキズム)の宣伝になっているというのが、その理由でした。森戸の論稿は、社会政策を論ずる立場から、単にクロポトキンの無政府主義の考え方を紹介したものに過ぎなかったのですが、右翼御用学者の上杉慎吉らが、危険思想であると騒ぎたて、政治の圧力を招いたのです。これが世に言う森戸事件で、森戸と編集発行人の大内兵衛助教授が朝憲紊乱、新聞紙法違反で起訴されました。その結果、森戸は禁固3ヶ月、罰金70円の罪に問われ、大内は禁固2ヶ月、罰金20円、執行猶予2年を言い渡されました。この事件は国家による学問・思想の自由を弾圧する先駆けとなった事件として知られ、以後こうした動きが強まっていきました。
2014.06.13
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クロニクル トンネルを越えると雪国だった1937(昭和12)年6月12日「トンネルを越えると雪国だった…」若い方には、こう書いてもピンとこない方が増えていると思いますが、年配の方ならほぼ100%の確率で、お分かりいただけると思います。そうです。川端康成の名作『雪国』の冒頭の一節です。77年前のこの日、『雪国』は出版されました。前年の2.26事件を経て、日本社会は軍部が全権を握るようになっており、1カ月弱で盧溝橋事件に至る、そんな戦争への道をひた走っていたのですが、そんな世相であっただけに、逆に『雪国』のような作品は、歓迎されたのかもしれません。駒子の一途さと島村の身勝手さが対比されるだけに、それだけ当時の女性たちは、丹念に駒子の心情を描く、川端の筆致に惹かれたのかもしれませんね。
2014.06.12
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クロニクル 護憲三派内閣誕生1924(大正14)年6月11日大正時代の話になります。ちょうど90年前の今日、貴族院議員で、当時立憲政友会の総裁だった加藤高明内閣が誕生しました。加藤内閣は、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派の連立内閣として誕生し、その後連立の組み替えなどもありましたが、1926年の加藤の病死まで約2年間続きました。この護憲三派内閣の下で、男子の普通選挙法や治安維持法などが可決成立しています。話変わって現代日本。護憲三派ならぬ、解釈改憲反対三派の内閣を組織する道筋が全く見えないのが、残念でなりません。安倍内閣がゴリ押しする、集団的自衛権の行使容認など、憲法9条を逆さに読んでも出てこないのに…「… 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、 永久にこれを放棄する。」集団的自衛権の行使とは、国際紛争に武力で介入することでしょうから、これは無理筋ですね。
2014.06.11
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クロニクル 西洋美術館開館1959(昭和34)年6月10日今年で開館55周年ですね。この日東京の上野公園内に国立西洋美術館が開館しました。この日は、開館式が行なわれ、一般への開放は13日からでした。西洋美術館は、現在の川崎重工業(当時は川崎造船所)社長の松方幸次郎が1910年代から20年代にかけて収拾した美術品、松方コレクションを展示する専用の美術館として出発しました。松方氏が収拾した美術品の内、300点はロンドンに、400点はパリに預けられていましたが、そのうち、両国とも日本との戦闘に入り、ロンドンに預けられていた300点は、ドイツ軍の空襲を受け、残念ながら焼失しました。そのため、松方コレクションは、パリに預けられた400点を指します。これらの作品も大戦終了後、敵国資産としてフランス政府に差し押さえられたのですが、サンフランシスコ講和条約締結時に、吉田首相が返還を申し入れたのです。フランス政府は、日本がコレクションを展示する専用の美術館を建築することを条件に返還を受け入れたのですが、財政難の日本は、なかなか美術館を建設することが出来ず、1954年にフランス政府の督促を受け、安井曾太郎ら美術界の巨匠の協力や、藤山愛一郎らの献身的な基金集めの運動が実って、政府も重い腰を上げ、ようやくこの日の開館を迎えました。当時高校2年生だった私は、長期休暇の空いてそうな平日を狙って、何度も足を運びました。
2014.06.10
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クロニクル 2002日韓ワールドカップで日本代表初勝利2002(平成14)年6月9日間もなくサッカーワールドカップブラジル大会が開幕しますね。いずこも厳しい予選を勝ち抜いてきたチームばかりですから、身びいきが過ぎるマスコミの予想通りになるとは限らないとは思うものの、前回に続いて、予選を勝ち抜いてくれるといいですね。さて、12年前の今日、日韓ワールドカップで、日本代表はロシアと対戦、1対0で勝利しワールドカップ初勝利をあげました。緒戦のベルギー戦を2対2で引き分けた日本は、このロシア戦の勝利で勢いに乗り、次のチュニジア戦も2対0で勝利し、グループリーグ1位で予選を通過する快挙を達成しました。しかし、決勝トーナメント1回戦では、トルコに0対1で敗れ、惜しくもベスト8進出を逃しました。
2014.06.09
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クロニクル 三原山投身自殺1933(昭和8)年6月8日81年前のことです。今や昔の出来事ですね。この日2人の女学生が友人立会いの下で、伊豆大島の三原山の火口に身投げしました。投身自殺です。友人立会いという特異な行動、女学生2人での火口への飛び込みということから、新聞の大きく報じるところとなったため、三原山は一躍自殺の名所として脚光を浴びることになりました。大島の人たちには、大きな迷惑だったのでしょうが、この年だけで、火口への飛び降り自殺はなんと994人に達したとされています。こういう人気は願い下げですね。7ヶ月弱でこの人数でとは…… 世界的大不況最中、日本でも大学は出たけれど…」と話題になった就職難の時代だったとはいえ、大変な数でした。
2014.06.08
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クロニクル 日本信販誕生1951(昭和26)年6月7日63年前になりますが、日本最初のカード会社、日本信用販売が、この日設立されました。ニコスカードでお馴染みの日本信販の誕生です。現在の三菱UFJニコスの前身です。それから58年、米国ほどではないですが、日本でもすっかりカードが定着しましたね。顧客の囲い込みに、自社と信販会社の提携カードを導入した会社も多く、1枚でなく数枚のカードを持つ人も多くなりました。皆さんは何枚くらいお持ちでしょうか。
2014.06.07
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クロニクル クライスラー社創業1925(大正14)年6月6日89年前のこの日、ウォルター・クライスラーによって、クライスラー社が産声をあげました。5年前の4月末に連邦破産法の適用を申請して倒産した、あのクライスラーです。創業84周年直前の出来事でした。そしてビッグスリーのトップ企業、GMもまた5月末日に連邦破産法の適用を申請。GMはオバマ政権の手厚い保護を受けて、再建されましたが、クライスラーはイタリアのフィアットに飲み込まれました。2009年は、米国の歴史にとって、2001年と共に忘れられない年の一つになりました。
2014.06.06
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クロニクル 京王プラザホテル開業1971(昭和46)年6月5日もう43年も経つのですね。この日、新宿副都心の初の超高層ビルとして、京王プラザホテルが開業、営業を開始しました。霞ヶ関ビル、浜松町の世界貿易センタービルに続く、東京で3番目の超高層ビルだったでした。あの日から43年、新宿には続いて、三井ビルと住友ビルがほぼ同時に完成。以後は次々と超高層ビルが林立。とても、名前も順番も皆目分からない、ビル風に悩まされる街になりました。そんな超高層ビルが林立する空間、今ではあちこちと増えていますね。
2014.06.05
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1989(平成元)年6月4日今日は何と言ってもこの事件ですね。今年がちょうど25年の節目です。25年前、中国では、4月15日の胡耀邦前綜書記の死をきっかけに、民主化運動が高まり、同氏を惜しむデモが各地で起こる中、次第に政治改革を求める声が強まっていきました。しかし、共産党中央の指導を是とする国是のため、中国政府は、学生らによる民主化要求を、反革命暴乱と決めつけて戒厳令を布告、6月3日夜には、戒厳部隊が北京市中央に進出していました。そしてこの日未明天安門広場を占拠して,ハンスト決行中の学生・市民を装甲車や戦車を使って排除、広場を制圧したのです。この模様は、緊張の高まり始めた数日前から世界各国のマスコミが競い合うように報道していました。当時の中国当局は、開かれた中国を意識して外国マスコミを特に排除しなかったのです。おかげで我々はテレビを通じて時々刻々民衆弾圧の模様を知ることができたのです。市民・学生の死者は正確には不明ですが、1,000名~2,000名の間とされました。 ところで、この時天安門広場に座り込み、広場を埋め尽くした学生や市民の必死の表情、民主化のために命を賭して悔いなしとする思いつめた表情は、80年代後半の日本の学生や若者には見られなくなっていた表情、一昔前の日本の学生の眼と表情でした。そうなんです。それは、安保反対、全国学園闘争、成田空港反対闘争などに情熱を傾けた若者達が持っていた目付き、必死さと同質のものでした。自身の若いころを振り返って、懐かしいものを見せてもらったと受け止めた人も、きっと多かったでしょうね。
2014.06.04
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クロニクル 雲仙普賢岳の火砕流1991(平成3)年6月3日もうあれから23年になるのですね。23年前のこの日、午後4時8分に雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生しました。火砕流は、山体を時速100kmものスピードで流れ下り、大きな被害を出しました。犠牲者は、取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者(クラフト夫妻と案内役)、アメリカ地質調査所の所員4名、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名に及び、他に9名の負傷者を出す大惨事となりました。なお、火砕流で殉職した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラ(ソニー製)が、14年後の2005(平成17)年6月になって発見されたのですが、カメラは火砕流による高熱で溶解し破損していましたたが、内部のテープを取り出し修復することに成功したのです。日本の技術は、こういうところが凄いですね。ビデオテープには、避難を警告する警官らや、火砕流が襲来する直前まで取材を続ける記者らの姿や音声が記録されていました。
2014.06.03
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クロニクル 野茂投手大リーグで初勝利1995(平成7)年6月2日今や日本人大リーガーも随分と増えました。何年か前、松井選手が現役で頑張っていたころに、マダム・リンダのブログで、イチロー対マツイの対決競演をナマで見物した興奮が、記されていたこと、鮮明に覚えています。王・長嶋の時代には、考えられなかったシーンが増えましたが、今年も、田中投手やダルビッシュ投手などが大活躍していますんべ。こうした日本人大リーガー輩出の道を準備したのが、トルネード投法の野茂投手でした。19年前の1995年、ストライキで遅く開幕した大リーグで、ドジャースに入団した野茂投手は、5月2日のジャイアンツ戦に先発しましたが、好投しながら勝敗はつかず、その後も勝ち運に見放されていましたが、6月2日のメッツ戦で初勝利をあげると調子に乗り、同年13勝6敗で新人王、236奪三振で奪三振王となりました。とりわけ、新人でいきなりオールスター戦に選出され、先発投手を務める栄誉に輝いたこと、鮮明に覚えています。
2014.06.02
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クロニクル 天気予報事始 1884(明治17)年6月1日日本の天気予想が最初に発表されたのは、明治17年の今日のことでした。130年前のことです。時期的には、丁度鹿鳴館時代に指しかかろうという頃です。ラジオ放送がアメリカで開始されるのは、1920年代の初めですから、テレビはもちろん、ラジオもまだありません。自由民権運動の影響で、新聞はいくつか出始めていますが、これまた誰もが読んでいるといったポピュラーな存在ではありませんでした。というわけで、この発表された天気予報。どこにどう知らされたのでしょう? ちょっと頭をひねってみるには、良い問題ですね。でも、答を書いておきますね。すいません気を持たせて…こうなんです。東京周辺、その日の内に運べる範囲の、警察署及び警察派出所に貼り出されたのです。考えたものですね。ついでに鉄道の駅にも貼り出せば良かったのに…ところで、この天気予報を発表したのは、東京気象台です。東京気象台は1875(明治8)年に、内務省の管轄化下に設置されました。そして、この時から3年後の1887(明治20)年には、現在の気象庁の前身が誕生しています。
2014.06.01
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