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クロニクル ダイアナ元妃事故死1997(平成9)年8月31日17年前のこの日、イギリスのチャールズ皇太子の元妃ダイアナさんが、パリで交通事故死しました。私は、このニュースを有馬温泉での会議に出席するために乗車した新幹線の電光ニュースで知りました。彼女は、ほぼ1年前に、不仲になっていたチャールズ皇太子と離婚、この日は当時の恋人だった富豪の男性とパリのレストランで食事、その後のドライヴ中を数名のパパラッチに追跡され、フルスピードの追いかけっこの果て、パリ市内のトンネルに激突、重賞を負ったのですが、脳挫傷が致命傷となって搬送先のパリの病院で死去しました。彼女を追跡していたパパラッチは、救急隊員が駆けつけた折に、なお9名が残っていたそうですが、誰1人彼女らを助けようとせず、救急隊員の作業中も、ひたすら写真を撮り続けていたと報じられました。なんとも後味の悪いニュースでした。
2014.08.31
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クロニクル YS11初飛行1962(昭和37)年8月30日52年前のこの日、戦後初めての日本の国産飛行機YS11の試作1号機が初飛行に成功しました。製造元は日本航空機製造です。同社は運輸省の肝いりで、三菱重工、川崎重工、富士重工、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機、住友精密の7社が協力して出来た会社でした。その後、改良を重ね2年後の東京五輪の際には、日本に運ばれた聖火を日本国内各地に運ぶ役割を果たし、全日空はその後導入した全てのYS11機を、オリンピアの愛称で呼ぶことにしました。1965年から量産体制に入り、海外からの受注も好調でしたが、71年の円切り上げとその後の変動相場制への移行で、多額の為替差損を出したこと、運輸省からの天下りが多く、経営の機動性に欠けた事から、多額の赤字を抱えて、生産から撤退。会社は解散に追い込まれました。三菱グループが取り組んでいる新小型機MRJ、何度か納期を延長しているようですが、何とか成功させてほしいですね。
2014.08.30
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クロニクル 宝塚歌劇団ヴェルばらを初演1974(昭和49)年8月29日40年前になります。この日、兵庫県宝塚市の本拠地で、宝塚歌劇団月組が、池田理代子氏の大人気の長編漫画『ヴェルサイユのばら』を初演しました。夏休みも終了間近でしたが、特に女子中高生に人気の高い池田漫画の代表作のタカラズカ公演とあって、大入り満員が続き、それが人気が人気を呼ぶ形となって、同歌劇団創設以来の大ヒットとなりました。『ヴェルサイユのばら』は、私が2007年7月~本ブログで連載した、フランス革命に題材を求め、男装の麗人オスカルと、彼女を助ける貴公子アンドレを中心とする恋と冒険の物語であると要約すると、要約のし過ぎでしょうか? ともかく大スペクタルとアバンチュールに満ちた物語で、確かに宝塚公演に向いた仕立てになっていました。こうしてヴェルばら公演は宝塚歌劇団のドル箱となり、何度となく繰り返し公演が行なわれながら、今日にいたっています。このブログを訪問してくださる皆様の中にも、ヴェルばらファンは、大勢いらっしゃるのでは…。
2014.08.29
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クロニクル トヨタ自動車創立1937(昭和12)年8月28日この年7月には、盧溝橋事件を起し、日本政府は日中全面戦争へ突入しています。それから1ヶ月余、トヨタ自動織機製作所は、社内の自動車部門を切り離して独立させ、トヨタ自動車工業を設立しました。トヨタ自動織機製作所は、1933年9月に自動車部門を開設、35年には実際に自動車の製造をはじめ、その集大成として、77年前の今日、自動車部門を本隊から切り離し、独立したのです。今年はトヨタの喜寿に当たるのですね。
2014.08.28
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クロニクル フーテンの寅さん誕生1969(昭和44)年8月27日寅さん45歳になるですね。1969年といえば、東大の安田講堂に籠城する学生の排除に機動隊が導入されたり、なお全国的に全共闘運動が広がっていた年でした。そんな夏休み中の本日、山田洋二監督作品の「男はつらいよ」シリーズ第1作『男はつらいよ』がテレビ劇映画として公開されました。この1作のみがテレビ用でした。この作品の反響がすさまじく、第2作からは、劇場映画用として、1995年までに、全48作のシリーズとなる大ヒットとなりました。
2014.08.27
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クロニクル さよならお化け煙突1964(昭和39)年8月26日東京足立区の、東京電力千住火力発電所にあった4本の煙突、京浜東北線の電車に乗っていると良く見えました。高層ビルなど、まだまだの時代、視界をさえぎるものなどなかった時代です。電車が走るにつれ、見る位置が替わり、煙突は2本に見えたり、1本に見えたりしたのです、そこからついた渾名が「お化け煙突」でした。その「お化け煙突」、今はありません。東京オリンピックの年ですから、ちょうど50年前のことです。前年に完成した豊洲の新型火力発電所が、営業運転を開始すると同時に、旧型炉の千住発電所は運転を中止(63年5月)していました。そして、50年前の今日、遂に取り壊されたのです。
2014.08.26
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クロニクル ソ連共産党解散1991(平成3)年8月25日早いもので、今年で24年になるのですね。この日、長期にわたって、一党独裁体制を誇ってきたソ連共産党が解散しました。8月19日にゴルバチョフ書記長を軟禁してクーデタを起こした保守派が、内紛から自滅し、エリツィンロシア共和国大統領の支持派が力をつける中で、共産党は自ら解散する道を選んだのです。この日の共産党の解散に続き、ソ連邦自身もこの年12月26日に消滅するに至ります。ソ連最高会議自身が、自らの決定としてソ連邦の消滅を宣言したのです。5日後の31日、旧ソ連邦の多くは、独立国家共同体(CIS)に結集して活動をはじめました。
2014.08.25
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クロニクル ポンペイ最後の日79年8月24日日本では弥生時代前期でしょうか。卑弥呼の時代から遡ること、さらに200年の時代です。現在から見れば、1935年も前のことになります。この日、イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火を起し、吹き溢れた火砕流や泥流で、大都市ポンペイは、完全に埋没してしまいました。そのポンペイの遺跡は18世紀末から、発掘が行なわれ、現在は整備の完了した一部の地域が、有料で公開されています。
2014.08.24
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クロニクル 日本、第一次世界大戦に参戦1914(大正3)年8月23日ちょうど100年前のこの日、日本はドイツに対して宣戦を布告し、東洋の果からヨーロッパの戦争に参戦して、作戦行動を開始しました。といってもヨローッパの戦場に加わるのではなく、アジアにおけるドイツ拠点をたたき、その地を日本の影響下に置くことが狙いでした。日本の参戦で、ヨーロッパの戦争はアジアにも拡大、世界戦争の様相を強めました。第一次世界大戦の開戦に至る経過は、過去に何度か取り上げました。7月28日の開戦から僅か8日目には、イギリスも参戦し、ドイツ・オーストリア・トルコ対ロシア・フランス・イギリス・セルビアなどを夫々の陣営の中核とする大戦争に拡大していました。こうした中でイギリス政府は、日本に対しても、日英同盟を根拠にして、ドイツの武装商船の撃破に限定した参戦を要請してきました。8月7日のことでした。ヨーロッパ列強は、欧州の戦火の拡大で、アジアの植民地の防衛に多くを割くことが出来なくなっていたのです。日本側にとっては、アジア地域で影響力を拡大する絶好のチャンスの到来でした。そのため、日本にとって、イギリスの誘いは願ってもないチャンスだったのです。日本は、翌日元老と大臣の合同会議を開いて参戦を決定、9日には第2次大隈内閣の加藤高明外相名で、「ドイツ勢力を東アジアから一掃するため、日英同盟に基づき参戦する」旨を回答します。ところがイギリス政府は、日本のあまりに積極的な姿勢に、中国や南洋方面への勢力伸張の意図を感じとり、翌10日には日本への参戦依頼を取り消してきます。このあたりが外交交渉のかけひきなのでしょうね。加藤外相は、イギリスに再考を求め、イギリス政府も日本の参戦範囲(戦域)の限定を条件に、日本の参戦に同意します。この合意を梃子に、日本は15日に御前会議を開いて、ドイツに最後通牒を伝達します。日本及び中国近海からのドイツ艦艇の即時退去、膠州湾租借地の引渡しの2点について、23日正午までの受諾を求める内容でした。この一方的な要求をドイツが認めるはずはありませんから、これはまさに、宣戦布告のための儀式だったということが出来ます。こうして100年前の今日の午後、ただちに日本の作戦行動が開始されたのです。
2014.08.23
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クロニクル 学童疎開船対馬丸沈没1944(昭和19)年8月22日70年前のことです。この日、近い将来に米軍の上陸攻撃が予想された沖縄からの疎開者を乗せ、九州へ向った疎開船対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈されました。対馬丸には、九州各地の集団学童疎開先へ向う、700人の沖縄の小学生が乗船しており、この700人に及ぶ学童達と、一般の疎開者800名を合わせ、それに乗組員を加えた全員が犠牲になりました。商船でも、物資輸送船でもない、疎開船を襲撃し、700名もの学童を含む、1500名以上の命を奪った米軍の攻撃は、都市への焼夷弾攻撃による住民虐殺や広島・長崎への原爆投下に勝るとも劣らない非道な攻撃でした。それは、人道に対する卑劣な罪であり、明かに国際法に反する行為でした。
2014.08.22
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クロニクル ハワイ、州に昇格1959(昭和34)年8月21日55年前のこの日、ハワイ準州が、アメリカ合衆国の州に昇格しました。こうして、合衆国の50番目の州が誕生しました。以来55年間新しい州の誕生はありません。51番目の州の誕生はあるのでしょうか?
2014.08.21
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クロニクル 『智恵子抄』刊行1941(昭和16)年8月20日私の生誕の1年少々前の話になります。今年で73年ですか。この日、高村光太郎の詩集『智恵子抄』が、龍星閣から刊行されました。『智恵子抄』は処女詩集『道程』に続く、光太郎の第二詩集です。光太郎の夫人智恵子は、この年1941年に亡くなっており、彼女との結婚直前から、死に至る智恵子との思い出を綴った詩集で、二度の映画化、数度のテレビ劇化がなされています。「東京の空 灰色の空 本当の空が見たいという…」とは、2代目コロンビア・ローズが歌った「智恵子抄」の冒頭部分です。
2014.08.20
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クロニクル 作新学院春夏連覇 1962(昭和37)年8月19日夏の甲子園で、今年も熱戦が続いています。明日から3回戦、ベスト16お激突ですね。ということで。今日は高校野球の話題です。52年前になります。当時私は、1ヶ月の予定で北海道をノンビリと旅行中でした。この日行われた第44回全国高等学校野球選手権大会決勝銭で、北関東代表の栃木の作新学院が1-0で北九州代表福岡の久留米商業を破り優勝しました。作新学院は、春の選抜選手権も制しており、史上初の春夏連覇を達成したのです。この当時の出場校は、全30チームでしたから、大会の開催期間は今より短く、決勝まで多いチーム(1回戦から登場のチーム)で5試合でしたが、作新学院の記録がユニークなところは、春の優勝投手だった八木沢投手が、夏の大会を前にして伝染病の赤痢に罹患して戦線を離脱、控え投手だった加藤投手の活躍で、春夏の連覇を達成したことでした。八木沢投手は、そのご早大を出て大毎オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)に入団活躍しました。夏の優勝投手加藤選手は高卒ルーキーとして、中日ドラゴンズに入団、ようやく活躍をし始めた時期のオフシーズンに、自ら運転していた車の交通事故で、若くして亡くなりました。惜しい選手でした。
2014.08.19
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クロニクル ソメイヨシノ米国へ1909(明治42)年8月18日105年前になるのですね。この日東京市は、米国のワシントンDCに対し、ソメイヨシノの苗木2千本を送ることを決定しました。贈られた苗木は、荒川堤のソメイヨシノから丹精した苗で、荒川と姉妹川のよしみを通じるポトマック川の依頼を受けたものでした。こうして海を越えた櫻の苗木は、ポトマック河畔に植えられました。今や桜の名所として多くのアメリカ人に愛されていますね。ソメイヨシノの寿命は50年~60年と言われますから、きっと2世や3世も育っているのでしょうね。
2014.08.18
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クロニクル 千円札発行1945(昭和20)年8月17日敗戦の翌々日のことですから、69年前のことです。インフレの進行が確実視されたため、戦時中から準備されていた千円札が、この日発行されました。肖像は、日本武尊命でした。この千円札は新円切り替えに伴い翌1946年3月に失効しました。その後の1千円紙幣は1950年に発行された聖徳太子像のものです。1963年伊藤博文の1千円札が3番目、84年発行の夏目漱石札が4番目、そして現在は2004年発行の野口英世の肖像が、使われています。
2014.08.17
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クロニクル 帝国大学に女子学生初合格1913(大正2)年8月16日戦前の日本の大学は、現在の世界の大勢に近く、9月入学が主流でした。ですから、入試は8月でした。戦前の日本での女性の高等教育機関の端緒は、1901(明治34)年誕生の日本女子大学校の創設でした。しかし、国立の帝国大学や、早稲田、慶應、立教、明治、法政、立命館、同志社、関西学院といった名門私立大学の扉は、なお女子学生には、開かれていなかったのです、それが、101年前の今日、しっかりと開かれたのです。そうなんです、この日東北帝国大学の合格発表があり、3名の女子学生の入学が許可されたのです。東北帝国大学は、1907年創立の日本で3番目の帝国大学ですが、旧制高校出身者以外にも入学資格を解放し、門戸を開放し、その中で女性に対しても門戸を開いたのです。初代総長、沢柳政太郎の英断でした。
2014.08.16
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クロニクル ニクソンショック世界を走る1971(昭和46)年8月15日69年目の敗戦記念日ですが、こちらを取り上げました。ちょうど43年前のことです。この日、ニクソン米大統領はテレビを通じて、ドル防衛策を含む新経済政策を発表しました。その最大の目玉が金=ドル交換停止でした。第2の目玉が10%の輸入課徴金の創設でした。アメリカ経済が如何に貿易収支の赤字に悩んでいたかが、分かる措置でした。しかし、戦後ブレトンウッズ体制を構築し、「米ドルを持つことは金を持つことと同じである」とすることで、自国通貨をドルにリンクさせて(日本で言えば、1ドルを360円とすること)、通貨価値を安定させてきた各国にとっては、これは晴天の霹靂でした。ヴェトナム戦争の戦費負担に苦しみ、その上西ドイツ(当時)や日本の経済的発展によって、貿易収支までもが赤字体質を強めていた米国にとって、ドルはいつでも金と交換できるという神話を維持することは、苦痛以外の何物でもなくなっていたのです。こうして、この日のニクソン大統領による金とドルとの交換を当分の間停止するという、強硬策の発表となったのです。これはある意味で正論でした。「米国経済の力が衰えてきたので、今後は世界各国の経済のお守り役までは務められないので、その地位はおります。各国通貨も各国の責任で交換レートを決めて下さい」としたのです。日本のみならず、世界の為替市場はパニックに陥りました。自国通貨の対ドル相場の急騰を見越して、翌日から当分の間為替市場を閉鎖した国がほとんどでしたが、1人日本だけが市場を開き続け、1ドル=360円でドルを買い支え、円高に振れるのを防ごうと務めたのでした。各国の為替ディーラーは狂喜して日本市場で(当時日本の為替取引は自由化以前なので、日本の業者に委託しての取引でした)ドルを売り続け、政府・日銀は世界の趨勢を読もうともせず、ひたすら米国への陳情によって、円切り上げを防ごうの1点張りだったのです。しかし,経済先進国でただ一つ為替市場を開き続ける日本の愚かさは際立っていました。その日本政府が円切り上げ不可避を悟り、1ドル=360円でのドル買い介入を止めたのは、何と2週間後の8月28日のことでした。この間1ドル=360円で買い支えたドルは、およそ40億ドル。現在ならどうということもない額ですが、当時としては大変な額でした。米国は変動相場制への意向を持っていましたが、日本のみでなく西欧各国もドルの基軸通貨体制維持に執念を燃やし、渋る米国をこぞって説得し、ドルに対して各国通貨を切り上げることを了承する替わりに、ドルは基軸通過であり続けることを約束して、一時的にこの騒動が収束するのは、12月18日のことでした。スミソニアン協定がそれです。円のレートは1ドルが308円と16,88%の切り上げとなりました。円切り上げで輸出企業は大打撃を受けると、産業界中心に悲観論が勢い良くぶち上げられ、政府は補正予算を組んで公共事業の大盤振る舞いを行なうなどの、ドタバタ劇が演じられましたが、日本や西ドイツ経済の足腰は強く、ドルの固定相場はこの後1年少々しか持ち堪えることは出来ず、73年2月には現在に繋がる変動相場制に移行しました。それにしても、80円だと円高、100円だと円安。時代が変わると人間の感覚も変わるものですね。93年と95年の1ドルが100円を割っていた時代に、フランスやイタリアにしばらく滞在した身にとっては、今のユーロ対円、1ユーロが130円程度というのは、円が安すぎる感が拭えないのですが……。私の感覚では1ユーロは100円程度が、程よい水準に思えてありません。それにしてもニクソンショックにおける大蔵省と日銀の対応はオソマツでした。思考が内向きに過ぎ、経済の国際派を育てる努力を怠ったツケは大きかったようです。黒田日銀による、円安誘導、悪い物価高を招き、輸出は伸びず、輸入代金はさらに上昇、ガソリンや灯油などの高騰が、家計を苦しめ、消費増税と共に、一部富裕層を除く消費の落ち込みに繋がり、とうとう貿易収支のみでなく、経常収支まで赤字に転落する辞退を招いています。……
2014.08.15
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クロニクル NTTドコモ設立1991(平成3)年8月14日23年前のこの日、エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社が設立されました。同社は2000年4月に商号変更を届け出、NTTドコモに社名を変更しました。ドコモ、設立からまだ23年なんですね。変化のスピードって、速いんですね。改めて感心するやら、呆れるやらです。メール機能のついたアイ・モードの開発と発売が大ヒット、ドコモの名を一躍メジャーになったのが、このころだったように思います。
2014.08.14
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クロニクル 在日朝鮮人の「北朝鮮」帰還協定調印1959(昭和34)年8月13日1910(明治43)年から1945(昭和20)年まで、35年間日本の植民地支配を受け、45年8月15日の日本の敗戦とポツダム宣言の受諾によって独立した朝鮮半島の人々は、独立後38度線を境に、南は米国軍の、北はソ連軍の保護下に国家並びに行政機構を整えました。そして、折りからの米ソ冷戦の激化を受けて、1948(昭和23)年8月と9月に、相次いで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国として独立、2つの国家への道を歩み始めました。この体制は、1950~53年のまる3ヵ年にわたって戦われた朝鮮戦争によって決定的になり、在日朝鮮人の団体も、韓国系の韓国居留民団と北朝鮮系の朝鮮総連に分かれました。その後、朝鮮戦争からの復興が軌道に乗るに連れ、経済発展をより確実にするために、在日朝鮮人家族の希望者の帰国事業が推進されることになり、52年前のこの日、朝鮮民主主義人民共和国との間に、「朝鮮総連系の在日朝鮮人家族の帰還に関する日朝協定」が調印されたのです。この協定を受けた第1次帰還船は、同年12月14日に新潟港を出航しています。当時の日本国内では、北の経済は南に比べて数段進んでおり、社会主義の下で貧富の差は最大でも5倍程度と、社会的平等が実現している。まさに地上のパラダイスであるとする神話が広く信じられておりました。そのため帰還事業も当初は好調に推移しました。吉永小百合主演、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』に主人公の弟の友人が父と共に北朝鮮に渡る話が出てきますが、帰還船に乗るために、新潟へ向う上越線に乗車した帰国者の集団の熱気は、当時の雰囲気を良く捉えていると評判になりました。帰国者が帰国後、経済不振の中、厳しい状況に追い込まれてゆくのは、この数年後からのことだったと伝えられるのですが、どこでシナリオが狂ったのでしょうね。
2014.08.13
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クロニクル 東宝設立1932(昭和7)年8月12日82年前になります。この日阪急電鉄社長の小林一三によって株式会社東京宝塚劇場が設立されました。宝塚劇場の落成、コケラ落としは2年後の1934年になります。同社は宝塚劇場のほか、有楽座、日本劇場(日劇)、帝国劇場(帝劇)など、日比谷一帯を傘下に納め、浅草中心に興業を続ける松竹と日本の興業界を二分する勢力となりました。1937年には、トーキー映画の開発、製作を行なう子会社として、東宝映画を設立、1943年には、同社と合併、名も東宝に改めたのでした。
2014.08.12
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クロニクル 前畑頑張れ!1936(昭和11)年8月11日78年前の今日のことです。この年行われたベルリンオリンピックは、ヒトラーのオリンピックと呼ばれました。ユダヤ人迫害や、人種差別的政策の多いヒトラー政権に対し、米英仏など欧米の世論は。オリンピックボイコットも辞さないという姿勢を見せ、ドイツとヒトラーの譲歩を引き出します。大会期間中はユダヤ人迫害も緩められ、この期間に限り、亡命もまたほぼフリーパスで認められました。こうして、開かれたベルリン五輪で、日本は水泳で4個(男子800メートルリレー、男子1500メートル自由形、男女200メートル平泳ぎの4個)の金メダルを獲得しました。そして今日11日は、女子200メートル平泳ぎの決勝が行なわれた日でした。レースは日本の前畑秀子選手と、ドイツのマルタ・ゲネンゲル選手との、稀に見る一騎打ちとなりました。最後のターンを終えた後も、2人のデッドヒートは続きました。実況を担当したNHKの河西アナウンサーは、興奮のあまり、ラスト20メートルになると、「前畑ガンバレ!」を連呼し、途中に「前畑危ない、前畑危ない、前畑ガンバレ!」を繰り返したのです。河西アナは、言葉が出なくなって、咄嗟の機転で「危ないとガンバレ」を連呼したと、後に明かしています。。応援の甲斐があって、前畑選手は、見事にコンマ1秒差で優勝。日本の女子選手第1号の金メダルに輝やきました。
2014.08.11
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クロニクル 鳥島大爆発1902(明治35)年8月10日112年前になります。この日伊豆諸島の南端にあたる、鳥島の火山が大爆発を起し、125人の島民が全滅するという、悲しい出来事がありました。この犠牲以後、しばらくして再び人が住むようになったのですが、火山活動の活発化に伴って、退避勧告が出されて、鳥島は無人島となり今日に至っています。現在は、国の特別天然記念物「あほうどり」の生息地として、知られています。
2014.08.10
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クロニクル 非自民細川内閣誕生1993(平成5)年8月9日今日は、長崎原爆忌ですね。21年前になります。この日、衆参両院は首班指名選挙を行ない、所属する日本新党の外に、新進党、新党さきがけ、日本社会党、公明党、民主社会党、社会民主連合等からも推された細川護煕氏が、自由民主党総裁の河野洋平氏を破って首相に就任しました。この結果、自由民主党は、1955年の結党から、38年間ずっと独占し続けてきた首相の座並びに政権与党の座を、初めて失いました。ここに、自民・社会両党の対立と馴れ合いを軸とした55年体制は、完全に崩壊しました。しかし、自民党はしぶといですね。社会党に首相の座を任せて政権に復帰し、やがて民主党に破れて、今度こそアウトかと思われたのですが、ここでも民主党の失態に乗じて再度政権に復帰し、今や過去にないほどの安定多数を誇っています。まこと二憂鬱なことです。
2014.08.09
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クロニクル 金大中氏拉致1973(昭和48)年8月8日41年前のこの日、午後1時30分頃、東京は九段のホテル・グランドパレスから、来日中の韓国の政治家金大中氏(後韓国大統領、ノーベル平和賞受賞者)が突然拉致される事件が起きました。白昼の凶行でした。金氏は事件の2年前、71年の大統領選挙で、朴正熙大統領を土壇場まで追い詰めながら僅差で敗れた政治家でした。選挙後、身の危険を感じて韓国を離れ、日本とアメリカを往復しては、祖国韓国の民主化運動を展開していたため、韓国情報部(KCIA)に狙われており、氏自身も常々「KCIAが私をマークしているから…」と語って、滞日中も常にホテルを転々と替えるなど、慎重に行動していました。そしてこの日は、ホテル・グランドパレスに韓国民主統一党の梁一東党首を訪ね、その部屋から5人組の男達に拉致されたのです。当日の夕刊やテレビは勿論、翌日以降も日本のマスコミは競って,この事件を報道しました。各社は韓国にも取材陣を送り、日韓を巻き込んだ大ニュースとなりました。結果的には,このマスコミの大合唱が金氏の命を救うことに繋がるのですが……。連絡を受けた警視庁は,警察庁と連携して全国の警察を動員、空港と港を封鎖して、金氏救出に全力をあげましたが発見できず、金氏の命は絶望と思われましたが、5日後の13日、金氏は突然ソウルの自宅に姿を現しました。そこで金氏は、「麻酔薬を嗅がされ、車で5~6時間ほど走ったところの海岸から目隠しと猿轡をされて、船で韓国へ拉致された」と恐怖の体験を語ると共に、日本の警察とマスコミが素早く、かつ適確に行動し、報道してくれたおかげで殺されなくて済んだと、日本の人々への感謝の意を表明しました。警視庁は必至の捜査で、金氏が拉致された部屋から、金東雲韓国大使館一等書記官の指紋を検出、金書記官を金氏を拉致した5人組の1人と断定、既に帰国していた金書記官の身柄引き渡しと、梁氏と金氏の日本への移送(梁氏への事情聴取と金氏の原状回復のため)を、強硬に韓国に要求しました。しかし、朴大統領はこれを拒否、事は国際問題に発展しましたが、韓国側は政治犯として自宅軟禁状態においた金氏の身柄を、10月26日に解放して自由とし、さらに11月2日に金鍾泌首相が朴大統領の親書を持って来日、日本側に謝罪、政治的な幕引きが図られました。事件で一躍有名になったのは、韓国情報部KCIAでした。
2014.08.08
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クロニクル 有珠山大噴火1977(昭和52)年8月7日37年前のこの日、午前9時12分、北海道洞爺湖畔の有珠山(海抜727m)が地鳴りと共に噴火、高度12,000mにまで達する噴煙を噴き上げました。午後1時31分に2度目の大噴火があり、その後も断続的に噴煙を噴き上げました。この噴火によって、洞爺湖温泉の宿泊客や周辺住民約8千人が避難する騒ぎとなりました。千歳空港発の全日空機が、窓ガラスにヒビが入ったために千歳空港に引き返したのを始め、降灰による視界不良のため交通機関が麻痺状態になるなど、影響は多方面に及びました。降灰量は半径15km以内では、15~30cmとなり、農作物の被害面積は3700haに及びました。総降灰量は、霞ヶ関ビル305杯分に相当する2億立方メートルに達し、田畑の被害は115億円余、洞爺湖のヒメマス5万匹、養殖ホタテ1億7千万粒が死滅するなどの被害もありました。
2014.08.07
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本日は、2009年の8月6日夜にアップした記事を再録させていただきました。数日前に、エノラ・ゲイの最後の乗組員が亡くなったこと、彼が最後まで「原爆投下は正しい選択だった」と主張し続けていたという事実も添えられていました。5年前の私の提言は生かされなかったことになりますが、それ以上に、アジア・太平洋の諸地域に対する日本の戦争責任を凝視しようとしない、今の政府・与党の動きが気になる昨今です。今朝もまずは、峠三吉の詩を黙読させてもらいました。以下、再録です。広島原爆忌 8月6日私がこのブログを書き始めたのは、2006年の10月2日です。あと2ケ月足らずで丸3年になります。当初からその日にあった過去の出来事を取り上げ、「今日は何の日」式に綴ってきました。一昨年の7月に、フランス革命の連載を始めたのを機に、今日は何の日にプラスして、もう少し巾を広げたものを、気ままに綴ってきました。何の日の叙述の中には、いくつか重い話題も取り上げましたが、あまりにポピュラーな8/15とか8/6とかは、意識的に取り上げずに来ました。ブロガーのお仲間の中には、それを不満として、カツを入れてくださった方もあリました。大変有難いことでした。書けよと、背中を押して下さっている気配も強く感じました。しかし、今日のクロニクルでも、旭川の日本最古のホコ天の誕生という、比較的軽い話題にさせていただきました。07,08両年の8月6日のブログでも、広島には一切言及していません。そんな私も、今日の新聞報道を見て、これはスルーするわけにいかないと考えました。マスコミ報道に、いやそれ以上にマスコミの報道姿勢に、物足りなさを強く感じたからです。原爆の投下はまさしく、大量破壊兵器による無差別殺人でした。大都市や地方都市を狙い、住民を焼き殺すことを狙った空襲もまた、間違いのない戦争犯罪でした。それは真珠湾の奇襲攻撃に対する報復としうるものではありません。ハワイは当時米州に編入されていませんから、米国の植民地であっても、米国本土ではありませんなどと、細かな事実を掘り返す気はありませんが、真珠湾は米軍の軍港でしたから、突然であろうがなかろうが、敵の攻撃にさらされる危険は、当然ある場所でした。対等の原則に立つならば、米軍の攻撃は、日本の軍港に対してのみ、正当性を持ったといえましょう。日本各地の空襲は、間違いなく戦争犯罪でした。当然、広島と長崎は、超のつく戦争犯罪です。米国と仲良くするなとは申しません。大いに仲良くして結構ですが、そのためには、米軍のしたことを全て指摘し、全ての事実を見るように勧め、その上でどう受け止めたかを、聞きただしたうえでの、謝罪と許しに立つべきです。そのためには、我々もまた、日本軍や日本人の戦争犯罪から、目をそらすことは出来ません。我々もまた過去の事実を厳しく見つめ、各地で犯した戦争犯罪の全てを掘り起こし、その全てを正視する必要があります。自分達が過去の事実から目をそらしているがゆえに、かつての敵の犯罪行為を正すことが出来ない。このようないびつな構図は、打破しなければならない。私はこう考えます。今朝の新聞に、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの乗組員のインタビュー記事が載っていました。彼は、原爆投下が日本の降伏を早め、結果として命の犠牲を少なくしたという、米国政府の公式見解、退役軍人会の公式見解をなぞる意見を、表明していました。こうした主張は、戦争犯罪者の自己正当化の論理そのものなのですが、では彼は、そして彼と同じ論理を唱える米国人は、いずれも広島や長崎を訪れ、その被害の実情に触れたことがあるのかと言うことです。オマエの論理は間違っていると指摘しても、おそらく水掛け論になるでしょう。それよりは、「あなたは広島の実情を知っているのか? あなたの投下した爆弾が、どのような結果をもたらしたのか。その事実をあなたは知るべきだと思うが…」「あなたの主張が、広島で起きたことを知った上でも変わらないかどうか、私は知りたい」せめて、インタビューした記者氏には、この程度のことは、主張して欲しかった。それがないとは、あまりに情けない。私はこのように感じたことを記しておきます。毎年8月6日と9日は、峠三吉のこの詩を紐解くことにしています。「にんげんをかえせ」 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ
2014.08.06
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クロニクル タクシー営業開始1912(大正元)年8月5日102年も前なのですね。この年7月10日に設立された「タクシー自動車株式会社」が、この日有楽町の本社前で、営業を開始しました。所有自動車はT型フォード6台。拠点は東京駅と新橋駅。初乗りは1マイルまでが60銭、以後は1マイル毎に10銭という料金だったと記録が語っています。1マイルは1609,3メートルですから、1,6キロですね。当初は新橋駅のみが拠点でしたが、2年後の1914年に東京駅が開業すると、東京駅も同社の営業拠点に追加されました。
2014.08.05
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クロニクル ビヤホールの誕生1899(明治32)年8月4日115年前のことになります。今の銀座8丁目に日本麦酒醸造株式会社(現在のサッポロビール)によって「恵比寿ビヤホール」が開かれ、初めて「ビヤホール」の名称が使われました。これを記念して8月4日は「ビヤホールの日」となっています。ただし、日本のビヤホールのルーツをさらに辿ると、この2年前の1897年(明治30)年7月20日に、大阪中之島の大江橋南詰に大阪麦酒株式会社(現在のアサヒビール)によって、「氷室生ビール」と洋食をメニューにした「アサヒ軒」が開かれています。食事処を兼ねていたので、純粋のビヤホールとはみなされなかったようです。
2014.08.04
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クロニクル 裁判員裁判始まる2009(平成21)年8月3日日本で初めて、裁判員制度を適用した裁判の初公判が、5年前の今日東京地裁で行われました。これが裁判員裁判の幕開けでした。それから5年、種々な事例が蓄積され、いくつか大きな問題点も指摘されるようになりましたが、今後の動きをなお注意深く、見守っていく必要がありそうですね。
2014.08.03
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クロニクル 日本人最初の金メダル獲得1928(昭和3)年8月2日この日、アムステルダム五輪で、三段跳びの競技が行なわれました。この三段跳びで、日本の織田幹雄選手が15m21の記録で堂々優勝、日本人初の金メダルを獲得しました。
2014.08.02
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クロニクル 日本航空設立1951(昭和26)年8月1日63年前のこの日、敗戦後初の民間航空会社として、日本航空が設立されました。8/15にポツダム宣言の受諾を表明して、ようやく敗戦を受け入れた日本は、首都機能を完全に破壊されていましたが、マッカーサーは官民を問わず、全ての日本国籍の航空会社による航空機の運航を停止したのです。その結果、戦前の航空会社は全て解散させられました。1950年6月になって。GHQは日本の航空会社による運航禁止を解除する決定を下し、1951年1月に国内航空運送事業免許の取得を目指して「日本航空創立準備事務所」が開設されました。同じ時期に、他にも4社が国内航空運送事業免許を申請する意向を見せていたのですが、運輸省の行政指導により、最も具体性の高い運送事業案を提示していた日本航空に一本化されます。こうして1951年3月、日本航空は国内航空運送事業の免許を申請して、2か月後に営業免許を取得。1951年8月1日に「日本航空株式会社」として設立されたのです。このいきさつからお分かりの通り、日本航空は日本政府主導による半官半民の体制で、設立当初の本社は現在の銀座日航ホテルの地に置かれました。なお、この時点は、あくまで定期運航開始の為の準備期間であり、まだ社有機は1機もない状況で、社員も39名の小所帯でした。その日航が、日本の高度成長と共に巨大企業に成長し、遂には破綻するに至ったのですね。見通しの甘い、経営判断の出来ない大甘経営者と、官僚・政治家に食い物にされた日航の末路は、官の絡んだ経営体のどうしようもない甘えの構造を暴露していました。官僚に経営は無理なのですね。年金の管理運営を司る特別行政法人と長たらしい名前を付けているGPIF、安倍内閣の言いなりのようで、またぞろ、大きな損失を出すことに繋がらなければ良いのですが、かなり心配ですね。
2014.08.01
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