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クロニクル ジュリアナ東京閉店1994(平成6)年8月31日もう23年になるのですね。ディスコのメッカ、ボディコン姿の女性たちの憧れのお立ち台で一世を風靡した、ジュリアナ東京が、この日閉店しました。ジュリアナ東京の営業開始はバブル崩壊から間もない、1991(平成3)年5月15日でしたから、わずかに3年4ヶ月弱の営業だったのですね。確かにひとつの時代を象徴する出来事でした。
2017.08.31
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クロニクル マッカーサー厚木へ1945(昭和20)年8月30日 日本の降伏は、天皇による「ポツダム宣言」受諾演説が公表された、72年前の8/15で間違いありませんし、この日に日本が連合軍による占領を受け入れたのも事実です。しかし、当事米軍占領下におかれていたのは、沖縄を除けば、一部の島嶼に限られていました。米軍の先遣隊が、日本占領のために、最初にやってきたのは、8/28の厚木の航空基地でした。その2日後、72年前の今日、連合軍最高司令官マッカーサー(当事66才)元帥が、厚木に到着しました。この日以後、日本占領軍の本隊40万人が、続々と日本に到着。9/2東京湾に錨を下ろした米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書の調印式が行われます。連合軍による日本占領は、こうして正式にスタートしました。 占領政治のスタートを巡る一齣でした。
2017.08.30
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クロニクル 宝塚歌劇団ヴェルばらを初演1974(昭和49)年8月29日43年前になります。この日、兵庫県宝塚市の本拠地で、宝塚歌劇団月組が、池田理代子氏の大人気の長編漫画『ヴェルサイユのばら』を初演しました。夏休みも終了間近でしたが、特に女子中高生に人気の高い池田漫画の代表作のタカラズカ公演とあって、大入り満員が続き、それが人気が人気を呼ぶ形となって、同歌劇団創設以来の大ヒットとなりました。『ヴェルサイユのばら』は、私が2007年7月~本ブログで連載した、フランス革命に題材を求め、男装の麗人オスカルと、彼女を助ける貴公子アンドレを中心とする恋と冒険の物語であると要約すると、要約のし過ぎでしょうか? ともかく大スペクタルとアバンチュールに満ちた物語で、確かに宝塚公演に向いた仕立てになっていました。こうしてヴェルばら公演は宝塚歌劇団のドル箱となり、何度となく繰り返し公演が行なわれながら、今日にいたっています。このブログを訪問してくださる皆様の中にも、ヴェルばらのファンだった方は、相当数いらっしゃるのでは…
2017.08.29
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クロニクル トヨタ自動車創立1937(昭和12)年8月28日この年7月には、盧溝橋事件を起し、日本政府は日中全面戦争へ突入しています。それから1ヶ月余、トヨタ自動織機製作所は、社内の自動車部門を切り離して独立させ、トヨタ自動車工業を設立しました。トヨタ自動織機製作所は、1933年9月に自動車部門を開設、35年には実際に自動車の製造をはじめ、その集大成として、80年前の今日、自動車部門を本隊から切り離し、独立させたのです。今年はトヨタの傘寿に当たるのですね。 追記、昨夜からパソコンの調子が悪く、インターネットへの接続がつながったり、切れたりで、なかなか皆様のところに訪問出来ずにいます。しばらくお許しください。
2017.08.28
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クロニクル 寅さん誕生1969(昭和44)年8月27日寅さん,健在ならば48歳になるですね。1969年といえば、東大の安田講堂に籠城する学生の排除に機動隊が導入されたり、なお全国的に全共闘運動が広がっていた年でした。そんな夏休み中の本日、山田洋二監督作品の「男はつらいよ」シリーズ第1作『男はつらいよ』がテレビ劇映画として公開されました。この1作のみがテレビ用でした。この作品の反響がすさまじく、第2作からは、劇場映画用として、1995年までに、全48作のシリーズとなる大ヒットとなったことは、皆さんご存知の通りです。
2017.08.27
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クロニクル さよならお化け煙突1964(昭和39)年8月26日東京足立区の、東京電力千住火力発電所にあった4本の煙突、京浜東北線の電車に乗っていると良く見えました。高層ビルなど、まだまだの時代、視界をさえぎるものなどなかった時代です。電車が走るにつれ、見る位置が替わり、煙突は2本に見えたり、1本に見えたりしたのです、そこからついた渾名が「お化け煙突」でした。当時落語に出てくる王子稲荷の近くに住んでいた私は、上野方面の電車に乗ると、お化け煙突を見るのが楽しみでした。その「お化け煙突」、今はありません。東京オリンピックの年ですから、53年前のことです。前年に完成した豊洲の新型火力発電所が、営業運転を開始すると同時に、旧型炉の千住発電所は運転を中止(63年5月)していました。そして、53年前の今日、遂に取り壊されたのです。
2017.08.26
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クロニクル ソ連共産党解散1991(平成3)年8月25日早いもので、今年で26年になるのですね。この日、長期にわたって、一党独裁体制を誇ってきたソ連共産党が解散しました。8月19日にゴルバチョフ書記長を軟禁してクーデタを起こした保守派が、内紛から自滅し、エリツィンロシア共和国大統領の支持派が力をつける中で、共産党は自ら解散する道を選んだのです。この日の共産党の解散に続き、ソ連邦自身もこの年12月26日に消滅するに至ります。ソ連最高会議自身が、自らの決定としてソ連邦の消滅を宣言したのです。5日後の31日、旧ソ連邦の多くは、独立国家共同体(CIS)に結集して活動をはじめました。このCIS,形式的には現在も残っているのですが、実質的な意味合いは失っているようですね。
2017.08.25
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クロニクル つくばエクスプレス開業2005(平成17)年8月24日12年前のこの日、つくばエクスプレスが開業しました。東京の秋葉原から筑波研究学園都市までを、最高速度130km/h(通常125km/h)の高速で運転しており、秋葉原 - つくば間58.3km、20駅間を最速45分(快速)で結んでいます。全線で自動列車運転装置 (ATO) による自動運転を行い、運転士は乗務していますが、車掌を省略するワンマン運転を実施しています。また全駅に可動式ホーム柵が装備されています。起点側の秋葉原 - 八潮間は南千住から荒川の鉄橋(北千住 - 青井間)までを除いて地下線で、終点のつくば駅も地下駅となっています。地上区間はすべて高架または堀割構造であり、踏切は一つも存在しません。初年度の乗客数は3,469万人で、1日平均の乗客数も開業前の予想「135,000人」を超える150,700人となりました。その後、1日の平均乗客数は2007年4月に239,000人、2008年11月に266,100人、2009年4月に270,500人を記録し、目標としていた27万人に到達しています。その後乗客数はさらに増え、2012年度には305,900人と30万人を超え、15年度には34万人に達しています。出発から好調だったため、増発のための車両増備による減価償却費増などがあったものの、2008年度決算で、早くも減価償却費込みの営業黒字を達成しています。鉄道事業が開業僅か3年で、黒字化するというのは、異例のスピードでした。東京および筑波研究学園都市への通勤路線としての性格や、高速バス(つくば号)から取って代わった東京 - 筑波研究学園都市間の都市間輸送に加えて、開業前から期待の強かった東京都・千葉県・埼玉県方面から筑波山への観光輸送のルートとしても利用された事などが、プラスに作用したよようです。この好調から、秋葉原・東京駅間の延伸工事も早期に着工されそうなのですが、まだ具体化していません。
2017.08.24
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クロニクル 普墺戦争終結1866(慶応2)年8月23日151年前になります。当時ドイツは、オーストリア帝国を中心にプロイセンを包含した大ドイツを建設するか、プロイセン王国をを中心にオーストリアを排除した小ドイツを建設するか、ドイツ統一のあり方を巡って、なお激しく争っている最中にありました。こうしたドイツ統一を巡って、プロイセンとオーストリアとの間に、1866年7月上旬に始まった戦争が普墺戦争でした。戦いは近代的装備を備えたプロイセンの圧勝に終わり、この日プラハ会談において、終結しました。以後のドイツは、プロイセン中心の統一へ向けて、統一に反対するフランスとの戦いに備え、さらに軍備強化に走ることになります。その中心にいたのが、鉄血宰相とあだ名されたビスマルクでした。
2017.08.23
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クロニクル ムンク作品の盗難2004(平成16)年8月22日13年前のこの日、オスロのムンク美術館から、彼の代表作「叫び」と「マドンナ」の2作品が、盗まれました。実は1911年の同じ8月22日は、パリのルーブル美術館から、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が盗まれた日でもあったので、偶然の一致かと騒ぎになりました。「モナ・リザ」は2年4ヶ月後にイタリアで見つけられ、無事ルーヴルに戻ったのですが、ムンクの「叫び」と「マドンナ」もまた、丸2年と10日後に、オセロ市内で、無事に発見されました。
2017.08.22
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クロニクル BSE、日本でも...2001(平成13)年9月21日16年前のことになります。この日、千葉県で日本初の牛海綿状脳症(BSE)を発症した牛が見つかったことを、厚生労働省が確認しました。11日前の10日に発生の疑いがある牛についての報告があり、以後経過観察を続け、この日BSEに感染してることを確認しました。マスコミや国民への発表は、翌日の22日となりました。BSEは、かつて狂牛病と呼ばれましたが、今日ではBSEに統一されています。 最近はあまり話題になりませんが、どうなっているのでしょうね。
2017.08.21
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クロニクル みずほFG誕生へ1999(平成11)年8月20日18年前のことです。この日、富士銀行・第一勧業銀行・日本興業銀行の3行は、2002(平成14)年春をメドに経営を統合する旨決定したと発表しました。やがて、新社名はみずほフィナンシャルグループに決定します。当時、総資産140兆円の世界最大のメガバンクが誕生すると騒がれましたが、その後世界的な金融再編が起きたこと、日本の銀行の不良債権に対する引当て不足を、厳格に再査定させる方向へ、金融当局の姿勢が変化したことなどから、みずほFGの総資産世界一は、幻となったのでした。現在では、3メガバンクの中では、他の2行に水を空けられているようです。
2017.08.20
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クロニクル 作新学院春夏連覇 1962(昭和37)年8月19日夏の甲子園で、今年も熱戦が続いています。今日でベストエイトが出揃いました。ということで。今日は高校野球の話題です。55年前になります。当時私は、1ヶ月の予定で北海道をノンビリと旅行中でした。この日行われた第44回全国高等学校野球選手権大会決勝銭で、北関東代表(当時は、各県1校の出場枠はなく、数県で1校の出場でした)の栃木の作新学院が1-0で北九州代表福岡の久留米商業を破り優勝しました。作新学院は、春の選抜選手権も制しており、史上初の春夏連覇を達成したのです。この当時の出場校は、全30チームでしたから、大会の開催期間は今より短く、決勝まで多いチーム(1回戦から登場のチーム)で5試合でしたが、作新学院の記録がユニークなところは、春の優勝投手だった八木沢投手が、夏の大会を前にして伝染病の赤痢に罹患して戦線を離脱、控え投手だった加藤投手の活躍で、春夏の連覇を達成したことでした。八木沢投手は、そのご早大を出て大毎オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)に入団活躍しました。夏の優勝投手の加藤選手は高卒ルーキーとして、中日ドラゴンズに入団、ようやく活躍をし始めた時期のオフシーズンに、自ら運転していた車の交通事故で、若くして亡くなりました。惜しい選手でした。
2017.08.19
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クロニクル 中国で文化大革命勝利の祝典1966(昭和41)年8月18日51年前のこの日、北京の天安門広場に約100万人と発表された大群衆が集まり、プロレタリア文化大革命の勝利を祝う大集会が開かれました。毛沢東、劉少奇、周恩来、林彪などの共産党幹部が勢ぞろいし、開会挨拶に立った陳伯達は「文化大革命の益々の徹底」を指示しました。文化大革命は、中国が資本主義へ傾斜することを予防し、社会主義的精神革命の徹底を期すための広範な運動という触れ込みで、前年11月の文芸論争に端を発し、8月1日に共産党中央委員会が本格的な開始宣言を発表したところでした。この運動の先兵になったのが、10代の少年、少女からなる紅衛兵で、連日連夜市内を駆けまわっては、知識人や市民を吊るし上げていました。この運動で、多くの知識人や学生が大学を追われて、地方へ下方させられ、長い目で見ると、中国の近代化、科学と技術の発展に、20年以上の遅れを齎したであろうと、今日では指摘されていますし、劉少奇らを追い落とすために、毛沢東が仕組んだ運動であったことも、明らかにされています。ともあれ、この祝典後、文化大革命の嵐は約10年ほど中国全土を吹き荒れ、大きな影響を齎したのでした。
2017.08.18
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クロニクル 千円札発行1945(昭和20)年8月17日敗戦の翌々日のことですから、72年前のことです。インフレの進行が確実視されたため、戦時中から準備されていた千円札が、この日発行されました。肖像は、日本武尊命でした。この千円札は新円切り替えに伴い翌1946年3月に失効しました。その後の千円紙幣は1950年に発行された聖徳太子像のものです。1963年伊藤博文の1千円札が3番目、84年発行の夏目漱石札が4番目、そして現在は2004年発行の野口英世の肖像が、使われています。
2017.08.17
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クロニクル 帝国大学に女子学生初合格1913(大正2)年8月16日戦前の日本の大学は、現在の世界の大勢に近く、9月入学が主流でした。ですから、入試は8月でした。戦前の日本での女性の高等教育機関の端緒は、1901(明治34)年誕生の日本女子大学校の創設でした。しかし、国立の帝国大学や、早稲田、慶應、立教、明治、法政、立命館、同志社、関西学院といった名門私立大学の扉は、なお女子学生には、開かれていませんでした。それが、104年前の今日、しっかりと開かれたのです。そうなんです、この日東北帝国大学の合格発表があり、3名の女子学生の入学が許可されたのです。東北帝国大学は、1907年創立の日本で3番目の帝国大学ですが、旧制高校出身者以外にも入学資格を開放して門戸を広げ、その中で女性に対しても門戸を開いたのです。初代総長、沢柳政太郎の英断でした。
2017.08.16
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クロニクル ニクソンショック世界を走る1971(昭和46)年8月15日72年目の敗戦記念日ですが、こちらを取り上げました。46年前のことです。この日、ニクソン米大統領はテレビを通じて、ドル防衛策を含む新経済政策を発表しました。その最大の目玉が金=ドル交換停止でした。第2の目玉が10%の輸入課徴金の創設でした。アメリカ経済が如何に貿易収支の赤字に悩んでいたかが、分かる措置でした。しかし、戦後ブレトンウッズ体制を構築し、「米ドルを持つことは金を持つことと同じである」とすることで、自国通貨をドルにリンクさせて(日本で言えば、1ドルを360円とすること)、通貨価値を安定させてきた各国にとっては、これは晴天の霹靂でした。ヴェトナム戦争の戦費負担に苦しみ、その上西ドイツ(当時)や日本の経済的発展によって、貿易収支までもが赤字体質を強めていた米国にとって、ドルはいつでも金と交換することができるという神話を維持することは、苦痛以外の何物でもなくなっていたのです。こうして、この日のニクソン大統領による金とドルとの交換を当分の間停止するという、強硬策が発表されたのです。これはある意味で正論でした。「米国経済の力が衰えてきたので、今後は世界各国の経済のお守り役までは務められないので、その地位はおります。各国通貨も各国の責任で交換レートを決めて下さい」としたのです。日本のみならず、世界の為替市場はパニックに陥りました。自国通貨の対ドル相場の急騰を見越して、翌日から当分の間為替市場を閉鎖した国がほとんどでしたが、1人日本だけが市場を開き続け、1ドル=360円でドルを買い支え、円高に振れるのを防ごうと務めたのでした。各国の為替ディーラーは狂喜して日本市場で(当時日本の為替取引は自由化以前なので、日本の業者に委託しての取引でした)ドルを売り続け、政府・日銀は世界の趨勢を読もうともせず、ひたすら米国への陳情によって、円切り上げを防ごうの1点張りだったのです。しかし,経済先進国でただ一つ為替市場を開き続ける日本の愚かさは際立っていました。その日本政府が円切り上げ不可避を悟り、1ドル=360円でのドル買い介入を止めたのは、何と2週間後の8月28日のことでした。この間1ドル=360円で買い支えたドルは、およそ40億ドル。現在ならどうということもない額ですが、当時としては大変な額でした。米国は変動相場制への意向を持っていましたが、日本のみでなく西欧各国もドルの基軸通貨体制維持に執念を燃やし、渋る米国をこぞって説得し、ドルに対して各国通貨を切り上げることを了承する替わりに、ドルは基軸通過であり続けることが約束され、一時的にこの騒動が収束するのは、12月18日のことでした。スミソニアン協定がそれです。円のレートは1ドルが308円と16,88%の切り上げとなりました。円切り上げで輸出企業は大打撃を受けると、産業界中心に悲観論が勢い良くぶち上げられ、政府は補正予算を組んで公共事業の大盤振る舞いを行なうなどの、ドタバタ劇が演じられましたが、日本や西ドイツ経済の足腰は強く、ドルの固定相場はこの後1年少々しか持ち堪えることは出来ず、73年2月には現在に繋がる変動相場制に移行しました。それにしても、80円だと円高、100円だと円安。時代が変わると人間の感覚も変わるものですね。93年と95年の1ドルが100円を割っていた時代に、フランスやイタリアにしばらく滞在した身にとっては、今のユーロ対円、1ユーロが130円程度というのは、円が安すぎる感が拭えないのですが……。私の感覚では1ユーロは100円程度が、程よい水準に思えてなりません。それにしてもニクソンショックにおける大蔵省と日銀の対応はオソマツでした。思考が内向きに過ぎ、経済の国際派を育てる努力を怠ったツケは大きかったようです。
2017.08.15
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クロニクル 義和団の乱終結1900(明治33)年8月14日117年前の今日のことです。日本、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの8ヶ国連合軍が北京に入城。55日間に及ぶ義和団の乱は、この日終結しました。人質になっていた8ヶ国の外交官やその家族は解放されました。この義和団の乱に対し、乱に加担した清国に宣戦布告したのは、上記8ヶ国ですが、大軍を派遣して北京解放、義和団軍の掃討に貢献したのは、日本とロシアの軍隊でした。後日談です。戦後、直ちに軍を引いた日本に対し、ロシアは満州に居座りを決め込みます。そうしたロシアの行為に、日本が危機感と警戒感を抱いたのが、4年後の日露開戦に連なる最初の予兆でした。同じくロシアに警戒感を抱いたイギリスは、 そうした日本の様子を冷静に観察し、日本への接近を試みます。それが2年後1902年の日英同盟に結実しました。イギリスは、日本を支援する事で、ロシアの進出を牽制しようとしたのですね。
2017.08.14
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クロニクル 在日朝鮮人の「北朝鮮」帰還協定調印1959(昭和34)年8月13日1910(明治43)年から1945(昭和20)年まで、35年間日本の植民地支配を受け、45年8月15日の日本の敗戦とポツダム宣言の受諾によって独立した朝鮮半島の人々は、独立後38度線を境に、南は米国軍の、北はソ連軍の保護下に国家並びに行政機構を整えました。そして、折りからの米ソ冷戦の激化を受けて、1948(昭和23)年8月と9月に、相次いで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国として独立、2つの国家への道を歩み始めました。この体制は、1950~53年のまる3ヵ年にわたって戦われた朝鮮戦争によって決定的となり、在日朝鮮人の団体も、韓国系の韓国居留民団と北朝鮮系の朝鮮総連に分かれました。その後、朝鮮戦争からの復興が軌道に乗るに連れ、経済発展をより確実にするために、在日朝鮮人家族の希望者の帰国事業が推進されることになり、58年前のこの日、朝鮮民主主義人民共和国との間に、「朝鮮総連系の在日朝鮮人家族の帰還に関する日朝協定」が調印されたのです。この協定を受けた第1次帰還船は、同年12月14日に新潟港を出航しています。当時の日本国内では、北の経済は南に比べて数段進んでおり、社会主義の下で貧富の差は最大でも5倍程度と、社会的平等が実現している。まさに地上のパラダイスであるとする神話が広く信じられておりました。そのため帰還事業も当初は好調に推移しました。吉永小百合主演、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』に主人公の弟の友人が父と共に北朝鮮に渡る話が出てきますが、帰還船に乗るために、新潟へ向う上越線に乗車した帰国者の集団の熱気は、当時の雰囲気を良く捉えていると評判になりました。「北朝鮮」に帰還した人々が、帰国後に経済不振の中、厳しい状況に追い込まれてゆくのは、この数年後からのことだったと伝えられるのですが、どこでどうシナリオが狂ったのでしょうね。
2017.08.13
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クロニクル 堀江青年ヨットで太平洋横断1962(昭和62)年8月12日55年前になりますね。堀江謙一青年が、小型ヨット「マーメイド号」をたった1人で操縦して、太平洋横断に成功、この日サンフランシスコに投錨しました。堀江青年は1938年の9月生まれでしたから、この時23歳でした。当時の日本では、ヨットによる出国は認められていなかったため、堀江青年は、密かに芦屋から密出国して、小型ヨットでの単独太平洋横断という、世界初の快挙を成し遂げたのです。堀江青年が密出国という、法を侵していたために、当初日本のマスコミは彼の行動に批判的な視線を向けていました。しかし、サンフランシスコ市長が彼の功績を認め、「コロンブスもまた蜜出国者だった」として、彼の行動を賞賛したことで、日本のマスコミの態度は一変します。その結果、一躍堀江青年は、英雄視されることになりました。 当時のマスコミは、現在のマスコミに比べると、はるかに元気で、土性骨の座った敏腕記者も多かったのですが、この一件では、大きなミソをつけました。
2017.08.12
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クロニクル 前畑頑張れ!1936(昭和11)年8月11日81年前の今日のことです。この年行われたベルリンオリンピックは、ヒトラーのオリンピックと呼ばれました。ユダヤ人迫害や、人種差別的政策の多いヒトラー政権に対し、米英仏など欧米の世論は。オリンピックボイコットも辞さないという姿勢を見せ、ドイツとヒトラーの譲歩を引き出します。大会期間中はユダヤ人迫害も緩められ、この期間に限り、亡命もまたほぼフリーパスで認められました。こうして、開かれたベルリン五輪で、日本は水泳で4個(男子800メートルリレー、男子1500メートル自由形、男女200メートル平泳ぎの4個)の金メダルを獲得しました。そして今日11日は、女子200メートル平泳ぎの決勝が行なわれた日でした。レースは日本の前畑秀子選手と、ドイツのマルタ・ゲネンゲル選手との、稀に見る一騎打ちとなりました。最後のターンを終えた後も、2人のデッドヒートは続きました。実況を担当したNHKの河西アナウンサーは、興奮のあまり、ラスト20メートルになると、「前畑ガンバレ!」を連呼し、途中に「前畑危ない、前畑危ない、前畑ガンバレ!」を繰り返したのです。河西アナは、言葉が出なくなって、咄嗟の機転で「危ないとガンバレ」を連呼したと、後に明かしています。応援の甲斐があってか、前畑選手は見事にコンマ1秒差で優勝。日本の女子選手としては第1号の金メダルに輝やきました。追伸 皆様へ不注意で右手を怪我し、右手が使えなかったもので、書き込みもペンを持つこともできずにおりました。まだ少し不自由ですが、本日から酷使しない程度に使ってよろしいとの医師の許可が出ましたので、無断で中断していた書き込みを再開しました。ご心配をおかけしました。お見舞いと激励、有難うございました。
2017.08.11
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