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ロニクル 日大全共闘の徹夜団交1968(昭和43)年9月30日49年前のことです。来年はあれから50年ですか。この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全学集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。 国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されました。 日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。 当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。さて、30日に戻ると、3時頃に古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭はこれまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長ら学生幹部を当局に告発。秋田議長らには逮捕状が出されるに至ります。こうした当局の態度が問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる結果となりました。成田空港の開設問題もそうでしたが、当局の初期の対応のまずさが、後々に大きな禍根を残すのですね。政治家や行政側には、このことをしっかり肝に銘じてほしいのですが、この点の学習能力は、他の点に比べても低すぎるようですね。なんとかならないのかな?
2017.09.30
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クロニクル 日中国交回復1972(昭和47)年9月29日45年前のことです。9月25日から日中の国交回復を目指して、中国を訪問していた田中角栄首相以下の日本側代表団は、この日、周恩来首相以下の中国側代表団との間で、日中共同声明に調印、およそ半世紀振りに日本と中国との国交回復を実現しました。「声明」は前文で、日本が過去において中国に与えた重大な「損害」について、「深く反省」し、「戦争状態の終結(不正常な状態の終結)と国交の正常化」を謳い、9項目からなる本文では、1、日本は中華人民共和国政府を、中国における唯一の合法政府として承認する。2、中国は対日賠償請求権を放棄する3、両国は貿易・海運・航空・漁業などの協定締結交渉に合意する。等の内容が盛り込まれました。これに伴い、日本と台湾政府との国交は断絶、民間交流だけが残される形になりました。それから45年、最近の日中関係は、国交正常化後に限れば最悪の状態にあります。『ひょっこりひょうたん島』と違って、国土の位置は動かせませんし、過去を顧みても、相互の交流が大きな実りをもたらしてきたことも否定できません。互いにとってプラスとなる、良好な関係を築く努力を、政も官も財も民も、続けるべきだと、私は考えています。ただ、最近の中国の経済力と軍事力を誇示しての拡張主義は戴けませんね。米国もそうですが、大国は謙虚でなくちゃ、世界から尊敬されませんから…
2017.09.29
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クロニクル 長銀,リップルウッドへ1999年(平成11)年9月28日18年前のこの日、金融再生委員会は、前年(1998年)10月に一時国有化した日本長期信用銀行(略称長銀)を、米国の投資ファンド、リップルウッドに譲渡することを、正式に決定しました。リップルウッドは翌年6月、新たに新生銀行と命名して営業を再開、同行を再生した上で株式を公開、保有株の値上りで利益を得ると言う企業再生の手法をとり、新生銀行は2004(平成15)年2月に株式公開に漕ぎつけるなど、短期間で再生を遂げました。長銀は、バブル期の過大な不動産融資のツケで経営が傾き、債務超過が疑われる状況に陥ってしまったのですが、98年7月30日に誕生した小渕内閣の下で、大蔵省は住友信託銀行に長銀の救済合併を依頼し、8月20日には、小渕首相と宮沢蔵相が2人揃って住信の頭取に直々の要請までしたのですが、長銀の不良債権の実態が明らかにされないままでの合併に、住信は最後までOKを出さず、この構想は日の目を見ませんでした。そして、金融国会と称された与野党の攻防を経て、ようやく10月に入って金融再生法が成立。それから間もなく、長銀は自ら金融再生法に基づく一時国有化を申請、実質的に破綻しました。政府は申請を受けて、長銀の全株式を買い取り、公的資金で預金などを払い出すなどして、譲渡可能な姿とした上で、長銀株式の譲渡先を探したのですが、日本企業の応募はなく、僅か10億円という捨て値で、前述のリップルウッドが落札しました。住信を始めとする日本の金融界は、自らも不良債権の処理に苦しみ,僅か10億円の出資にすら、手を上げることが出来なかったのです。その限りにおいて、私は、リップルウッドは日本の金融危機の救世主の役割を果たし、ノンリスクで(不良化しそうな債権には、瑕疵担保条項がつけられていました)利益を上げた、先の読める投資家集団であったと考えています。逆に言うと、日本の金融機関はだらしがなさ過ぎました。バンカーの誇りはいったいどこにやってしまったのでしょうね。嘆かわしい限りでした。
2017.09.28
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日敗戦の年ですから、72年前のことです。この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間会談しました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇と軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したと言われます。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実に、両者の力関係が読み取れます。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に利用する、これがマッカーサーの戦略でした。写真掲載に関して、当時まだ天皇=現人神説に捉えられていた山崎内務大臣は、「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と語って、掲載した各紙を、発禁処分としました。直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁解除を命令し、写真が無事に掲載されるという一幕もありました。
2017.09.27
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クロニクル 伊勢湾台風上陸1959(昭和34)年9月26日58年前のことです。奇しくもこの1年前、59年前の翌日27日には、静岡県伊豆地方に大きな災疫を齎した狩野川台風が襲来していますから、まさに2年続けての災疫でした。この日、死者・行方不明者合わせて5,101人という、明治以降で最大の被害を齎した伊勢湾台風が襲来しました。 伊勢湾台風は、最大瞬間風速48,5メートル、風速30メートル以上の暴風圏が、半径300キロメートル以上という超大型台風でした。この日紀伊半島潮岬付近に上陸すると、時速70キロメートルの猛スピードで北北西に進み、岐阜・富山両県を通過して、いったん日本海に抜け、翌27日には、東北地方に再上陸し、合わせて39道府県に大きな被害をだしたのです。被害家屋は50万戸、被災者数は1,532,954人に及びました。 特に被害が大きかったのは、愛知県と三重県で、伊勢湾台風の襲来と満潮の時間が重なったために、5,3メートルという高潮に襲われたこと、また木曽川、長良川が決壊して、桑名市は、全市が水浸しとなり、三重県川越村では、1,500戸が全滅の憂き目を見ました。
2017.09.26
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クロニクル 怪人21面相森永も脅迫1984(昭和59)年9月25日今年で33年になるのですね。半年前の3月にグリコの江崎社長を自宅から拉致し、高額の身代金を要求、その後毒入りのグリコ製品をばら撒くと同社を脅迫していた、怪人21面相を名乗る犯人グループから、この日標的を森永製菓に変えたと,新たな脅迫状が在阪のマスコミ各社に送られてきました。書状には青酸ソーダが同封されており、森永製菓に1億円を要求したことも記されていました。以後マスコミ各社は、この事件をグリコ・森永事件と呼ぶようになります。事件は犯人グループの1人と思われる人物がコンビニに毒入り菓子を置くところと思われる、店側の防犯ビデオの写真が公開されたり、同じくキツネ目の男の似顔絵が公開されたりしましたが、遂に迷宮入りし、今日まで未解決のままになりました。森永への脅迫は10月に入るとエスカレートし、京阪神や中京地区の店に、「毒入り危険」という警告文をつけた森永製菓の菓子7個が置かれるなど、次第にエスカレートし、その後も計18個の菓子が置かれる大騒ぎとなりました。森永製菓の売上げは激減。年末にかけ、社員が総出で、社員直販なので、ここで買う菓子は安全ですと、必死の売上げ作戦を展開するなど、大きな社会問題になりました。脅迫は丸大食品、不二家、ハウス食品にも及びましたが、薬品の売上げが伸び、多角経営の進んだ明治製菓は外されるなど、食品専業で脅迫しやすい企業を狙い撃ちしていること、巧みにマスコミを利用して、消費者の不安を煽っていることなど、相当の悪知恵の持ち主が仲間に加わっているらしいことが、推量できました。犯人たち、今どうしているのでしょうね。
2017.09.25
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クロニクル 民主党と自由党合併2003(平成15)年9月24日14年前の話ですから、自由民主党の誕生を見た1955(昭和30)年の吉田(もう総裁は降りてましたが)自由党と、鳩山民主党の合併の話ではありません。この日、小沢一郎党首の小政党自由党が、民主党に合流したのです。かつての自民党のプリンス、政界再編の仕掛け人、そして壊し屋と呼ばれた小沢一郎氏が、政権獲得をにらんで、民主党に席を占めたのです。小沢氏の思惑は当り、民主党は07年の参院選に大勝し、さらに09年の衆院選にも圧勝、ついに政権を獲得したのですが、その結果は、ご存知の通りの惨憺たる結果となり、12年末の衆院選、そして13年夏の参院選と惨敗を決し、政権は再び自民党に戻ってしまいました。本当は、自民も民主もぶっ壊して、ガラガラポンが出来るとよいと思うのですが… 「モリ・カケ」問題の逃げ切りを狙う、今回の「わが逃走解散」(誰の命名なのか、このネーミング洒落てますね)も結果はどうなるのでしょうね。
2017.09.24
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クロニクル 久保山愛吉さん死す1954(昭和54)年9月23日63年前のことです。この年3月1日、焼津のマグロ延縄漁船第五福竜丸が、米国が大気圏内核実験を強行したビキニ環礁の、航行禁止区域外で操業していて、大量の死の灰を浴びました。水爆の威力が、米軍の推定よりもはるかに大きく、指定された航行禁止区域のはるか外まで、死の灰が降下したことが原因でした。 事情を知らない漁船員たちは、降り積もる死の灰を浴びながら23人の乗組員全員が、甲板での作業を続け、全員が原爆症の症状に苦しみながら帰港し、そのまま全員が入院しました。その中の1人で特に症状の重かった久保山愛吉さんが、秋の彼岸のお中日にあたるこの日、半年に及んだ闘病と、ご家族、仲間、治療に全力を尽した医師団、そして唯一の被爆国民として原爆症の苦しみと痛みを共有しえた全国民の願いも空しく、遂に亡くなりました。 「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい。」この言葉が、久保山さんの最後の言葉だったそうです。 私はこの時、小学校の6年生。プロ野球(この年は魔球の杉下投手の大活躍で、中日ドラゴンズが優勝しました)や大相撲(最近は全く見なくなりました)の記事を中心に新聞に親しみはじめた頃でしたが、久保山さんや第五福竜丸、原爆症関連の記事は、読みやすかったのでしょうか、良く読んでいた記憶があります。そして第五福竜丸の被爆と久保山さんの闘病の報道は、8月の杉並の主婦たちの署名運動をきっかけに、日本が世界に発信して大きなうねりになった、原水爆禁止運動に結実して行きます。核兵器、原子力発電所など、命あるうちに廃絶出きると良いのですが…… 最近はこの願いに逆行する報道ばかりですね。
2017.09.23
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クロニクル イラン・イラク全面戦争に突入1980(昭和55)年9月22日37年前のこの日、既に小競り合いを続けていたイランに対し、イラク軍は本格的に主力軍による越境攻撃を仕掛け、イラン領土への侵攻を開始しました。そうしたイラクの越境攻撃を、イラン革命の自国への輸出を恐れるサウジアラビアや湾岸諸国はこぞって支持し、フセインのイラクに対する資金援助を惜しまなかったのです。イラン革命の輸出を警戒するアメリカもまたイラクを支援、対仏大同盟軍に包囲されたフランスさながらに、イランは対イ大同盟軍に包囲されながら、粘り強く戦い抜き、革命の防衛に成功したのです。
2017.09.22
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クロニクル 室戸台風襲来1934(昭和9)年9月21日台風シーズンですね。来月いっぱいは、警戒が必要でしょうか。今年で83年になります。この日、午前5時過ぎ、高知県の室戸岬に超大型の台風が上陸しました。台風は午前8時過ぎには大阪市に達し、最大瞬間風速60メートルを記録する猛威を振るいました。その結果、四天王寺では国宝の五重塔が中段から倒壊、搭の下に避難していた20人が下敷になりました。また大阪各地の木造小学校164棟が倒壊、児童676人、教職員18人が犠牲となりました。滋賀県の瀬田川鉄橋では、東海道線の下関行き急行列車が強風に煽られて転覆、175人の死傷者がでました。また大阪湾の高潮は4メートルに達し、多くの船舶や家屋が飲み込まれました。被害は大阪と兵庫を中心に2府32県に及び、死者・行方不明者3246人、家屋の全半壊88046戸に達する大きな被害となりました。当時は、台風でも休校にならず、列車も動かしていたのですね。今との感覚の違いに驚きを感じます。
2017.09.21
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クロニクル 中国憲法採択1954(昭和29)年9月20日この日、中国共産党が指導する中華人民共和国は、開会中の全人民代表者会議(略称 全人代)の席上で、中華人民共和国憲法を採択しました。憲法は共産党の指導を明記した上で、全人代で国家主席、首相を指名することなどを明記したもので、初代国家主席に毛沢東党主席を、首相に周恩来氏を指名しました。この憲法の骨格は現在も変わっていません。憲法の上に、共産党が存在するわけですから、党の命令は政府の命令よりも優先されることは、何も変わっていません
2017.09.20
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クロニクル アルジェリア臨時政府成立1958(昭和33)年9月19日59年前のことです。この日、北アフリカのフランス植民地アルジェリアで、血みどろの独立戦争を戦っていたアルジェリア民族解放戦線が、臨時政府の樹立を宣言しました。 仏領インドシナの一角、ヴェトナムでホー・チ・ミンをリーダーとするヴェトミン軍との戦いに敗れ(ディエン・ビエン・フーの戦い)フランス軍がヴェトナムから撤退したのが1954(昭和29)年ですから、僅か4年後のことでした。フランスの植民地支配は現地住民の強い反発を受け、民族解放を目指す現地住民の独立運動との、血みどろの戦いに巻き込まれることが多かったのです。 映画「アルジェの戦い」は実話を基として脚本が出来たのですが、民衆の海に隠れたゲリラとの戦いに疲労困憊したフランス軍は、ここでも民族解放戦線との戦いに敗れ、臨時政府の誕生から4年後の1962年、アルジェリアは念願の独立を達成するのです。このアルジェリア、ジャスミン革命のチュニジアの隣国ですが、アラブの春と称された若者中心の一連の動きは、この国を素通りしました。北アフリカ諸国の中で、最も激しい解放戦争を戦い、独立を達成した過去を持つために、長期独裁政権の登場を許さないだけの政治経験を国民が積み、10年程度での政権交代が、平和的に続いていているため、この国では、新たな革命は不要なのでしょう。
2017.09.19
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クロニクル 会議は踊る、されど進まず1814(文化12)年9月18日203年前になります。日本では滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が刊行された年に当たり、翌年には、『解体新書』の翻訳が完成する。そういった時期でした。この日、ナポレオン戦争後のヨーロッパの新秩序をどうするかを相談するための会議が、講和会議を兼ねてオーストリアの首都ウィーンで始まりました。世に名高いウィーン会議です。 会議の主役は、もちろんオーストリア宰相メッテルニヒでしたが、実はもう1人の主役が敗戦国フランスの外相タレイランでした。映画の『会議は踊る』はこの会議を指しています。「会議は踊る、されど進まず」という有名な一言も、誰の言葉か分からないのですが、会議の出席者の1人のグチとも本音ともつかない一言です。会議が進むようになるためには、エルバ島に隠棲したナポレオンがもう一度登場し、これまた有名な「百日天下」を実現し、会議参加国を大慌てさせることが必要だったのです。
2017.09.18
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クロニクル 小泉首相訪朝 2002(平成14)年9月17日15年前のこの日、「北朝鮮」訪問を決断した小泉首相は、平壌(ピョンヤン)を訪問、金正日総書記と会談しました。席上金正日総書記は、日本人拉致の事実を認め、生存者の日本訪問を認め、拉致の事実について、遺憾の意を表しました。しかし、拉致された人々の多くが、既に死亡している旨の報告に、日本側出席者は驚きを禁じえず、強硬派は交渉を打ち切って即時帰国を主張するなど、訪朝団の中で、足並みの乱れが問題となる局面もあったようです。しかし最終的には、首相の判断で交渉は継続され、日本側は日本の植民地支配を謝罪し、北朝鮮は日本人の拉致を認めて謝罪しました。両者は国交正常化交渉の再開を約し、「日朝平壌宣言」に調印しました。それから15年。3家族5人の拉致被害者とその家族の帰国は実現しましたが、死亡したとされた人々の死亡時の状況、遺骨などの返還は進んでおらず、今なお、今後の課題とされています。
2017.09.17
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クロニクル 三里塚で第2次強制代執行1971(昭和46)年9月16日新東京国際空港(成田空港)の建設を巡っては、激しい反対運動が続けられていました。そうした睨み合いの中、46年前のこの日、建設予定地に残る反対派の4ヶ所の拠点に対して、第2次の強制代執行が行われました。同年2月22日から3月25日にかけて行われた第1次強制代執行でも、逮捕者487人、負傷者700人を出すなど、反対同盟の激しい抵抗にあったのですが、この日も同じでした。三里塚・芝山空港建設反対同盟の農民や支援の学生・労働者ら3千人以上が、代執行の対象となった団結小屋に立て籠もり、空港周辺ではゲリラ活動を展開して、5千人を超える機動隊と各所で衝突するなど、早朝から騒然たる空気が漲っていました。代執行の開始直後、角材や火炎瓶などの攻撃を受け、機動隊員3人が死亡、重軽傷者115人を出すなど、成田闘争最大の惨事となり、結局代執行は翌日以降に持ち越されました。政府の閣議決定の仕方から、地元への丁寧な説明の欠如など、政治の対応のまずさが、反対運動の活発化を招き、結局71年春の開港予定は、7年も遅れて1978年5月となったのですが、それでも横風用の滑走路の長さを、大幅に短縮するなど、長期に渡って日本のハブ空港としては、機能が不十分の空港となり、アジアのハブ空港としての地位は、韓国の仁川空港に奪われるなど、政治の失敗のツケは大きかったと言わざるをえません。
2017.09.16
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クロニクル 天下分け目の関が原1600(慶長5)年9月15日417年前のこの日が、歴史に名高い関が原の合戦が行われた日です。 徳川家康を大将とする東軍と、石田三成をリーダーとする西軍の合わせて16万人の兵が、美濃(岐阜県)北部の関が原で激突した一戦です。 互いの兵力は、西軍8万5千人に対し、東軍は7万5千人と、西軍有利でしたが、戦闘意欲並びに軍の指揮命令系統の一本化の点で、西軍は大きな欠点を内包しておりました。その弱点がいざと言うときに、はっきりと出てしまったのが、西軍敗退の主因でした。 午前8時頃に始まった戦いは、午前中は一進一退を繰り返していましたが、8万人以上を擁する西軍で、まともに戦っていたのは3万5千人くらいだったのに対し、東軍はほぼ全員が死力を尽くして戦っていたと言われます。その結果、西軍の中の形勢観望組が、小早川隆景を先頭になだれを撃って東軍に寝返り、午後には、東軍の優勢が明らかとなりました。 関が原の完勝によって、徳川家康の覇権が、はっきりと浮かび上がってきましたが、家康の勝因のひとつに、秀吉の正妻「北政所(寧々)」の支持を得、寧々を慕う武将たちを東軍に取り込むことに成功していたことを、あげることが出来ます。家康が狸親爺といわれる所以ですね。
2017.09.15
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クロニクル 金閣再建1955(昭和30)年9月14日62年前のことです。1950(昭和25)年の7月に放火によって焼失した金閣(鹿苑寺舎利殿)が、5年2ヵ月後のこの日再建され、金色に輝く姿を披露しました。落慶法要は10月10日に行なわれました。私がはじめて金閣を目にしたのは、再建から4年後1959年の夏でした。あまりに金ぴかで、ガッカリしたのを覚えています。
2017.09.14
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クロニクル スーパーマリオブラザーズ発売1985(昭和60)年9月13日発売から32年ですか。この日、任天堂のファミコン用ゲームソフト、スーパーマリオブラザーズが発売されました。カメ一族のクッパ将軍にさらわれた、キノコ王国のピーチ姫を助けるために立ち上がった配管工のマリオとルイジの冒険物語です。発売と共に爆発的な人気を集め、日本国内で681万本強、全世界では4,024万本を売り上げ、「世界一売れたゲーム」としてギネスブックに登録されました。息子が仲間たちと集まっては、ワイワイガヤガヤと楽しんでいました。その様子は、TVがぜいたく品だった時代に、ご近所が集まって一緒に見せていただいていた時代を思い出させるものでした。全世界で4千万本も売れたのですから凄いですね。
2017.09.13
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クロニクル 比叡山焼き討ち1571(元亀2)年9月12日446年もの昔になりますが、この日織田信長は、比叡山延暦寺が宿敵朝倉義景を支援することを怒り、傘下の諸将に命じて、比叡山の全山焼き討ちを命じました。この時、信長38歳。比叡山は天台宗のみならず、広く仏教学・仏教哲学の学び舎として、当事の大学並びに研究機関の役割を果たし、多くの学僧が学ぶ場でもありましたが、宗教的権威を楯に、しばしば政治に口出しする悪弊も目立っていました。信長は、宗教の政治介入を否定し、政治に口を出す宗教を排除する、合理的思考の持ち主でしたから、この比叡山延暦寺の行動を許さず、一罰百戒の狙いを込めて、徹底的な焼き討ちと殺戮を実行しました。僧侶などの死者は、合計で3千人とも4千人とも言われ、実数ははっきりしませんが、女人禁制の信仰の府に、いないはずの女人や子どもが少なからず混じっていたのですから、信仰の府の腐敗、堕落も明らかでした。また、政治に口出しする割りに、仏法を奉ずる自分たちを攻撃できるはずがないと思い込むなど、延暦寺側が政治センスに欠けていたことも、また事実でした。
2017.09.12
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クロニクル 日本で最初の公衆電話設置1900(明治33)年9月11日117年前になります。この日、新橋駅と上野駅に、日本で最初の公衆電話が設置されました。 日本で始めて電話局が誕生したのは、1890(明治23)年の12月のことでした。電話局が設けられたのは、東京と横浜でした。このとき同時に、東京に15ヶ所、横浜に1ヶ所の電話所が設けられ、電話回線を持たない人々の、電話利用の便を図っていました。この電話所の電話が、公衆電話のはしりと言えなくもないのですが、設置されているのが、電話局の中でしたから、誰もが自由に使えるという雰囲気は生まれなかったようです。117年前、新橋駅と上野駅に設置された公衆電話は、新橋駅では、中等待合室の前、上野駅では駅長室前と、夫々通路に置かれましたので、電話の周知には役立ったのですが、料金が高めだったために、利用は大きくは伸びなかったといわれています。そうですよね。当時電話を備えていたお宅は、数少なかったでしょうから…。そのご、家庭に電話が普及するにつれ、公衆電話もあちこちに置かれるようになり、テレフォンカードが普及して…と、いろいろなことがありましたが、それも今では遠い夢の中のようで… ケータイ電話やスマホの普及で、いつの間にやら公衆電話は簡単にはみつからないご時世になってしまいました。
2017.09.11
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クロニクル 「羅生門」に金獅子賞1951(昭和26)年9月10日66年前になるのですね。この日、ヴェネツィア国際映画祭で、黒澤明監督の『羅生門』が、日本映画として初めて、金獅子賞に輝きました。 三船敏郎、森雅之、京マチコといった、日本映画を支えた名優、大女優の若き日の主演映画でした。この受賞を契機に、日本映画の海外への紹介や進出が軌道に乗るようになったことも特筆されています。
2017.09.10
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クロニクル 生活保護法公布1946(昭和21)年9月9日71年前、敗戦からほぼ1年後のことです。この日、最初の生活保護法が公布されました。この法は、明治7年の恤救規則、昭和4年の救護法、同12年の母子保護法、同16年の医療保護法など、戦前期の各種救貧立法を統一する形で制定されました。そのため、給付の規定が厳しく、翌年施行された「日本国憲法」25条の規定と整合性が取れなくなり、1950(昭和25)年5月4日に新しい生活保護法に変更されました。
2017.09.09
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クロニクル 林彪クーデターに失敗1971(昭和46)年9月8日46年前ですね。この日、中国共産党副主席で、中央軍事委員会の責任者として、党および軍で、いずれも毛沢東主席に続くNo2の実力者だった林彪が、政権奪取のためのクーデターに失敗、逃亡しました。当時プロレタリア文化大革命の渦中にあった中国で,林彪副主席は文革派の総帥的地位にあり、何故この時期にクーデターを起こしたのか、今もって謎に包まれています。わかっているのは、モンゴルへ向けての亡命飛行中に、乗っていた飛行機が墜落して、乗員と共に死亡したことだけです。墜落した飛行機は軍用機でしたが、追跡機に撃墜されたらしいことが、分かっていることはいるのですが……どうやら、この事件の謎は、永遠に明らかにならないのかもしれません。まさに権力の闇そのもののような事件でした。
2017.09.08
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クロニクル 八代~西鹿児島着工1991(平成3)年9月7日26年前のこの日、九州新幹線の八代~西鹿児島間が着工しました。1987年の国鉄分割民営化から4年。相次ぐ政治路線による赤字線の建設で、たまりにたまった国鉄の赤字の大半は、国鉄清算事業団が引き継ぎ、資産処分後に、20兆円を超える国費(税金)を注ぎ込んで清算したのですが、赤字を隔離した途端に、大赤字確実の路線の建設が決まると言うのは、まさに政治路線以外の何ものでもない決定でした。こうした決定を、地元九州では、もろ手を挙げて喜んでいるかというとそうでもないのです。それは、JRは新幹線を引き受けると、在来線の運行はやめてしまったり、ダイヤを大きく間引いてしまったりするからです。その結果、新幹線の停車しない駅を利用する人々にとっては、新幹線は迷惑以外の何者でもないのです。これは長野冬季五輪にあわせて開業した長野新幹線の運行によって、高崎~横川間と軽井沢~長野間は、第三セクターでの運行となりました。横川~軽井沢間は採算に合わないため、運行を休止。バスによる代替輸送が行われることになりました。その結果、安中にある私立の新島学園は、軽井沢、小諸方面から通学する生徒も2割近くを占めていたのですが、冬場の通学が困難となるところから、長野県からの生徒が激減することになったのです。 新幹線は、赤字でも必要と言うのは、停車駅が出来る町の主張であって、通過地域全体の主張とは言い難く、やはり、政治家とゼネコンのための無駄使いの面が大きいようです。
2017.09.07
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クロニクル マゼラン一行帰国 世界一周を果たす1522年9月6日495年前の今日、マゼラン隊の18名が、ヴィクトリア号と共に、スペインのサンルーカル・デ・バラメーダ港に帰還しました。出発地のセビリャ到着は8日です。マゼランの一行は、1919年8月10日に旗艦トリニダート号以下5艘の船団で、セビリャを出発しました。スペインの船団ですが、人数不明のスペイン人の外に、団員には37人のポルトガル人、30人のイタリア人、19人のフランス人、14人の国籍不明の砲術兵士、さらに少人数のドイツ人、イギリス人、ギリシア人などを含む、多国籍の人員構成を持った船団でした。そしてマゼラン自身もスペイン人ではなく、ポルトガル人でした。一行は、まずブラジルを目指し、そこから南アメリカ大陸を南下、マゼラン海峡を通って太平洋に入り、ここから特に困難な航海を続けて、フィリピンに到着。1521年4月27日、隊長のマゼラン自身をマクタン島での戦闘で失いながらも、航海を続け、この日遂に出発したスペインの港に帰還したのです。5艘の船団は、1艘のみとなり、団員で帰還できたのは18名のみという、犠牲の多い航海でした。なお、犠牲者の死因の最大のものは、ビタミンCの欠乏による壊血病によるものでした。
2017.09.06
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クロニクル マルヌの会戦始まる1914(大正3)年9月5日103年前のことです。この日、第一次世界大戦の西部戦線(ベルギー、フランス戦線)におけるドイツ軍とフランス軍の最初の激戦が火蓋を切りました。この戦いは1週間続き、12日には終了しています。侵攻して来たドイツ軍が不利を悟って後退したからです。以後、戦闘は、この線で長期に膠着しました。そして、英・仏・独の各軍は、用意した砲弾を打ちつくしており、砲弾の用意に時間をとられること。双方ほぼ互角の戦力が、当分崩れそうもないことから、当初短期戦と予測された戦争が、長期戦となることは、この時点で予測されました。興味のある方は、フリーページの「第一次世界大戦」をお読みください。
2017.09.05
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クロニクル 沖縄で米軍人による少女暴行事件発生1995(平成7)年9月4日22年前のことです。この日,沖縄で、米海兵隊員3人による女子小学生の拉致・暴行事件が発生しました。少女の両親による訴えで事件が発覚しましたが、海兵隊員が既に基地内に戻っていたために、在沖縄米軍は事件の加害者の身柄を沖縄県警に引き渡すのを拒否し、起訴後なら検察に引き渡すと突っぱねてきました。それでは十分な捜査は出来ないとする、沖縄警察と沖縄県は、日本政府に直接米国政府に交渉するよう求めましたが、問題が政治問題化するに伴って、本土復帰後も基地問題と、素行不良米兵の行動に悩まされ続けていた沖縄県民の不満が爆発し、10月21日には、事件に抗議する県民総決起大会に、8万5千人もの人々が参加、復帰以来最大規模の大抗議集会になりました。 余りの勢いに基地使用に悪影響が出ることを怖れた政府と米軍が協議、聴取には弁護士が立ち合うことを条件に米側が折れ、3人の身柄は沖縄県警に移されましたが、日米地位協定の問題点の1つが、誰の眼にもはっきりと、映し出されました。そしてもう一つ、米国に対する政府と外務省、防衛省の弱腰もまた、はっきりと我々の眼に焼きつきました。
2017.09.04
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クロニクル イギリス、アメリカ植民地の独立を承認1783(天明3)年9月3日アメリカ合衆国の独立記念日は、皆さんご存知の通り7月4日です。ただこの日は、イギリスの13あった北米の植民地が、連名でイギリス国王に対する「独立宣言」を発表した日、独立の意志を表明した日に過ぎません。それは独立戦争の真っ只中のことでした。 日過ぎて時は巡り、5年後1781年、ヨークタウンの戦いにアメリカ軍が勝利。フランスの仲介に寄ってパリで講和交渉が始まったのです。そして粘り強い交渉の結果、234年前の今日、パリ条約が締結され、独立国家アメリカの誕生を見たのです。しかし、イギリスからの独立が即アメリカ合衆国の誕生に繋がったわけではありません。あのジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したのは、1790年4月のことなのです。......この間6年と7ヶ月、独立戦争を共に戦った13の植民地は、夫々が小さな独立国家になるのか、それとも一つの連邦国家になるのかを巡って、延々と議論を繰り返していたのです。
2017.09.03
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クロニクル 米艦ミズーリ号上にて降伏文書に調印1945(昭和20)年9月2日72年前のことです。この日午前9時、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号上にて、日本の降伏文書への調印式が行なわれました。日本側からは、政府代表の重光葵外相と軍代表の梅津参謀総長が、連合国側からは、各国代表とマッカーサー最高司令官が夫々署名し、ここに満州事変に始まる14年の戦争は、正式に終結を見ました。日本側は降伏文書に署名する人選に手間どり、難航の末に足の悪い重光外相におはちが回りました。米国側は足の悪い重光外相のために、わざわざ艦上に椅子を用意して丁重に応対してくれたのですが、軍部は、降伏の文字が文書に入ることに、最後まで抵抗するなど、情勢を弁えない幼児性を発揮しました。なんとも情けない連中です。この正式降伏後、589万人に及んだ軍人・軍属の復員が始まります。この589万人のうち、外地に314万人が派遣されており、完全復員にはかなりの時間を要しました。このほかに、特に中国、朝鮮、台湾からの、多数の民間人の帰国問題が存在したのです。本来であれば、民間人の保護を優先し、民間人を先に帰国させ、最後に軍人・軍属が引き上げるべきなのですが、当時の日本の軍部や政府には、民間人を重視する発想はなく、自己の都合ばかりを優先させたことが、帰国時の大混乱と数多くの悲劇を生んだのでした。
2017.09.02
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クロニクル 原始女性は太陽であった1911(明治44)年9月1日 今年で106年ですか。この日、日本で始めての女性のみによる文芸雑誌『青鞜』が創刊されました。発起人となったのは、平塚らいてう等、1901年創立の日本で最初の女子の高等教育機関、日本女子大学校の同窓生達でした。そこに与謝野晶子や長谷川時雨らが賛助会員として加わり、青鞜社という出版社を設立しての出版でした。 青鞜社は、約款に「女流文学の発達を計り、他日女流の天才を生む事」を目標に掲げて出発し、創刊号に載った平塚らいてうの創刊宣言「原始女性は太陽であった」は、自我を大胆に肯定した、熱烈な日本版「女性の権利宣言」とも言えるものでした。そして与謝野晶子が巻頭を飾った「そぞろごと」という一文で、「山の動く日来る」と『青鞜』に大きな期待を寄せ、女性の新時代の到来を予言したのでした。 『青鞜』の反響は大きく、「新しい女性」の出現として、世の注目を集めました。翌年には神近市子や伊藤野枝らが加わり、発行部数も創刊時の1000部から、3倍の3000部に増加するなど、女性達の圧倒的な支持を集めました。こうして『青鞜』は1916年2月の廃刊まで、近代日本の女性解放運動の先導者の役割を果たしました。
2017.09.01
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