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きょう配信の配信誌(メールマガジン)へのご感想は、こちらへお書き込みください。==11月25日に東京都現代美術館の「大竹伸朗全景」を見てきました。こんなパワフルな回顧展ははじめて。5人分の回顧展をまとめて見たような感じがします。図録を買おうと思ったら、完璧を期そうとしたため展覧会に間に合わなかったとのことで、1,100ページ、約6キロ、6,300円という超パワフル図録、さっそく予約しました。大竹伸朗(おおたけ・しんろう)という桁外れの人、わが故郷愛媛県は宇和島市にアトリエをもっておられます。東京人ですが。ちょうど11月26日にはNHKの「新日曜美術館」で大竹伸朗の特集をやっていました。12月にはいったら、もう1度行こうと思っています。とにかくおすすめです。↓東京都現代美術館のサイトhttp://shinroohtake.jp/index.html(上部の「大竹伸朗の仕事」をクリックすると、おもな作品も鑑賞できます)
Nov 27, 2006
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11月22日のブログに≪民主党の現幹部に言わせれば、教育基本法を怒号でなく「欠席」でもって通したのが、「せめてもの良心」というつもりだろうが、そとから見る我々は溜息だ。≫と書いたが、これがとんだ甘ちゃんコメントだった。真相は、民主党も出席してしまうと民主党案も採決対象となってしまい、ここでそもそも教育基本法改正に反対の社民党・共産党が民主党案にも反対することが確実なので、そうすると、沖縄知事選の直前に野党の“結束”(ヘ?)がくずれてしまうから、全野党欠席ということにした、という話である。民主党が野党法案として作った法案のなかでは、おそらく結党以来もっとも多くの支持を得たと思われる教育基本法案。社民党・共産党にスリスリするということだけのために、自ら採決の機会をつぶしたとは。こういう狸藝(たぬきげい)は、党の士気を決定的に落としてしまう。「政治」がかなりのところまで、<祭り>であり<芝居>であるとしても、この狸藝は<ネタばれ手品>と形容すべきか。民主党の爺さんたちは、「2年後の党と党員自身に元気が出るには?」という観点で、大々的な見直しをしたほうがいい。(いまは「社民党・共産党に民主党と組んでもらえるよう元気を出してもらうには?」という観点で政治をやっているように見える。)野田佳彦(のだ・よしひこ)、前原誠司(まえはら・せいじ)の2人が、例の偽メール事件で身をひいているが、彼らが再び前面に出て、党を率いられるようにするにはどうすればよいか、という一点にしぼって、<祭り>と<芝居>をやるべきなのだ。
Nov 24, 2006
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野村勝美(かつよし)さんの「ノムさんの時事短評」。http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.htmlいつも指南いただいているのだが、11月20日に「二番手の鉄則」と題してこんなことを書いておられた。民主党にとっての、あたたかいキャンドルライトだと思うのだが。分かんないだろうなぁ、現幹部連中は。(拳々服膺=けんけんふくよう=してほしい、くらいの古い言い方をしたほうが通じるかな? 現幹部連中には。)≪二番手メーカーが、先行メーカーとまったく異なる商品をもってシェアを逆転することは稀です。松下電器はかつて「マネシタデンキ」と揶揄(やゆ)されながらも常に先行メーカーと似て、かつ改良した商品で逆転してきました。PC(パソコン)業界でも、巨人IBMをやぶったのはアップルではなく、IBM-PC“互換機”をつくるメーカーでした。庇(ひさし)を借りて母屋(おもや)を取る、追走者のまともな戦略はこれが基本です。そのことを懇切丁寧に前原さん(当時民主党代表)に語った小泉総理の党首討論発言があったと思います。小沢さんの「与党にすべて反対」路線は、小泉さんにとって信じられぬほど愚かな戦略じゃないかな、と推測します。≫小沢一郎氏のもとで民主党がすっかりおかしくなった、というか、社民党・共産党に吸収合併されるつもりか?! と言いたくなるような行動ばかり目立つのは、彼の教養の範疇に、米国の二党制のあり方への理解がまったくないことによるのだろう。米国の場合、bipartisanism(国の根幹にかかわることは共和・民主が手をたずさえて推進してゆくこと)が、しばしば「善なること」として説かれる。ところが、日本のメディアの政治部+整理部は、日本の国会で bipartisanism 現象を見ようものなら、「野党第一党形無し これでは第二自民党だ」「腰抜け民主 すっかり自民の腰巾着」みたいなことを、条件反射的に(=大脳を働かせることなく)書く。民主党の現幹部に言わせれば、教育基本法を怒号でなく「欠席」でもって通したのが、「せめてもの良心」というつもりだろうが、そとから見る我々は溜息だ。防衛庁を防衛省に格上げする法案など、自民とともに積極推進すべきだし、沖縄県知事選だって、自民・民主・公明 vs. 共産・社民+地元左派 で闘ってもよかったのだ。だって、日米同盟を前提とする以上、沖縄県政のキモはあくまで「雇用増」と「環境保護」の調和推進という論点であるはずなのだから。とにかく、世の中の常識は、ノムさんがじつに短いことばで端的に語ってくれた。
Nov 22, 2006
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大好きな街といえば、なんといってもニューヨーク、マンハッタンだ。マンハッタンが愛し続ける『レント』。貧しいなかに、それぞれの夢を追う若い群像の魅力。ことし映画化もされた、伝説のロック・ミュージカル。でもそんなことをぼくは全く知らず、極めてたまさかに台北でCDを買ったのが出会いだった。そのときのことを8月28日のブログに書いています。http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200608280000/(今回の日本公演、Aiko Nakasone は加わっていませんでしたが)レント rent は「間借り賃」。ぼくなら『イースト・ヴィレッジの間借人』と劇名を訳するでしょうか。でも、ここまで神話化したミュージカルは、あくまで『レント』なのですね。土曜日、米国のキャスト+スタッフの来日公演を見ました。英語公演です。ぼくが台北で買ったCDは平成8年の舞台録音で、主人公のシンガー Roger Davis 役の Adam Pascal と その親友の映像作家で狂言回しの Mark Cohen 役 Anthony Rapp のふたりの声が際立っていて、いかにもオトコのミュージカルという感じでしたが、今回の日本公演は Roger のふしぎな恋人、ナイトクラブ・ダンサー Mimi Marquez 役の Arianda Fernandez が断然いいんですね。(↓日本公演のホームページ)http://www.rent2006.com/彼女が歌い始めると、上半身に電流がびりびりくる。両肩をゆすぶられるような。2年前にデビューした19歳の Arianda の才能が輝いて、俄然「レント」は女性にささげる一品になったのですね。Mimi を中心に Roger という惑星がいて、Mark という狂言回しの精霊がいる。あらためてCDで Mimi 役の歌を聞くと、平成8年の Mimi 役は Daphne Rubin-Vega さんですが、いささか凡庸なわけです。(ちなみにことしの映画の Mimi 役は Rosario Dawson で、彼女はすばらしい!) キャストしだいで、劇の輝きかたがこうも変わるなんて!CDで数え切れぬ回数ききまくった第2幕冒頭の Seasons of Love.キャストが横一列に並んで、絶唱。うつくしい。美しすぎる。涙で舞台がかすみました。Five hundred twenty-five thousand six hundred minutesFive hundred twenty-five thousand moments so dearFive hundred twenty-five thousand six hundred minutesHow do you measure - mesure a year?In daylights - in sunsetsIn midnights - in cups of coffeeIn inches - in milesIn laughter - in strifeIn - five hundred twenty-five thousand six hundred minutesHow do you measure a year in the life?How about love?How about love?How about love?Measure in loveSeasons of loveSeasons of love<拙訳 ― 歌えるように訳してみました>ごじゅう にまん ごせん ろっぴゃっ ぷんのそのかず だけの せつなささごじゅう にまん ごぜん ろっぴゃっ ぷんのいちねんを どう かぞえるひが のぼり ひが しずみまよなかの コーヒーとわらいあっていさかってごじゅう にまん ごせん ろっぴゃっ ぷんのそう、いちねんを どう かぞえるそれは あいそれは あいそれは あいあい だけが それぞれの あいこいの とき この Seasons of Love は、もう別格ですが、ぼくが好きなのは Christmas Bells というナンバー。Christmas bells are ringing(クリスマスの鐘が鳴ってる)ではじまり、群集がむつみあう、いかにもミュージカル的舞台風景があって、And it's beginning to... SNOW!!(そしてついには……雪が!)と盛り上げておわる曲です。ロック・ミュージカルのなかで、このナンバーはひときわしっとりしていて、いいんですね。おりおり、舞台のあまりのすばらしさに、突然立ち上がって踊りだすバカものが出てこないかと心配したけれど、東京厚生年金会館の観客はお行儀がよかった。カーテンコール。キャストが横並びで、つないだ手をふりあげ、ふりおろし、最敬礼するリズミカルな挨拶は、日本の役者さんたちがやりそうでやらないブロードウェイ風景で、米国出張の観劇を思い出しました。2度目のカーテンコール。拍手の嵐のなかで数名が立ち上がりはじめた。ぼくも、立とうかな。どうしよう。と思ったとき、3列目あたりの人々がわ~っと立ちはじめて、場内が一気に standing ovation に入ったのですね。よかった、ありがとう!キャストは Seasons of Love の聴かせどころを歌い始め、場内は手拍手でひとつになります。最高のキャスト、スタッフと観客を得た公演でした。ミュージカルの神さまに感謝!東京厚生年金会館の公演は25日(土)まで。その後、名古屋公演(11月28、29日)、大阪公演(12月1、2日)と続きます。ぜひ、おはこびください。
Nov 19, 2006
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11月9日に、ひそかにトルコ語を勉強しはじめてちょうど1週間たった11月16日に、勤務先の事務所で隣りのパーティションに坐っているトルコ人職員に、はじめてトルコ語で話しかけた。「こんにちは。わたしはトルコ語を勉強しています。あなたも日本語を勉強していますか」という内容をトルコ語で言った。もっと驚いてくれるかと思ったら、わりと平然とトルコ語で何か言って返してくれた。当然ながら何も分からない。即、ふたりで英語に戻った。Why are you learning Turkish? (なんでトルコ語を勉強してるの?)と質問されたので、I'll give my answer to you tomorrow in Turkish.(あしたトルコ語で答えるね)と返事をした。17日の昼休み、入門書をあちこちめくりつつ、彼女への宿題を作文する。で、学習書の作文問題以外では初めてのトルコ語作文がこちら。星の王子さまでいえば、あの「こわぁい蛇の絵」に相当する。<楽天ブログではトルコ語特殊文字を表現できないので、特殊文字は泉式翻字法で別の文字に置き換えてあります。わたしが考えた置き換え規則は、この文章の末尾をご覧ください。>【作品 No.1】≪Ben Tu~rkche okuyorum, chu~nku~ siz telefonle so~ylediqinizi dinleyip Tu~rkche telaffuzu chok gu~zel olduqu anladwm. Izumi↑ Doqru mu? ≫トルコ語は、語順をほぼそのまま維持しつつ和訳ができるのですね。そこで訳せば、≪ぼくはトルコ語を勉強しています。なぜなら、あなたが電話でしゃべっているのに耳をかたむけて、トルコ語の発音はとてもきれいだということがわかったからです。泉↑ あってますか?≫昼食に出る前に、これを紙に書いて彼女の机に置いておいた。食事から戻ってきたら、彼女はぼくが宿題を書いた紙の余白にトルコ語でこう書いているところだった。直訳すると≪あなたがトルコ語を習っていることに、とてもうれしく思います。望むときわたしに質問をしていいです。(=いつでも質問してね。)あなたもわたしに日本語のことで助けてくれるとわたしは喜びます。Issho ni ganbarimashoo...≫やさしい単語で書いてくれていたので、彼女のトルコ語を見ると、学習歴1週間のぼくでも7割くらいわかりました。ところで、ぼくの書いたトルコ語は正しかったの?以下、英語の会話。「よく書けてたわよ。びっくりしちゃった。telaffuz (発音)なんて難しい単語をどこで知ったの?」「それはね、あなたの机に置いてある英語トルコ語辞書を引かせてもらったんだよ」「トルコ語を“学んでいる”というのが okuyorum と書いてあるけど、それだと、まるで学校に通って勉強してるみたいだから、chalwshwyorum という別の動詞にしたほうがいいわね」というわけで、みごとにトルコ語のデビューを果たしたのでした。これからの学習プランとしては、ぼくなりにトルコ語作文をして、彼女に添削してもらうという形で、勉強を進めようかと思っています。ちなみに話題のトルコ人職員は、18歳の息子がおられる堂々としたかたです。==【トルコ語の特殊文字翻字ルール(泉式)】c + セディーユ(ひげ) ⇒ chg + フック(短音記号) ⇒ qi - 点 ⇒ wo + ウムラウト(点々) ⇒ o~s + セディーユ(ひげ) ⇒ shu + ウムラウト(点々) ⇒ u~
Nov 19, 2006
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さいきんベトナム関連の英文記事を読んでいると、grant permanent normal trade relations (PNTR) status to Vietnam(ベトナムに対して永続的正常通商関係(PNTR)待遇をみとめる)というような形で PNTR という略語が何度か出てきた。何じゃい、こりゃ、と調べてみたら、アメリカ以外の国ではmost-favoured-nation (MFN) treatment と呼ばれるところの「最恵国待遇」のことだった。Wikipedia で Normal Trade Relations の項を見たら、米国でも以前は most favored nation (MFN) status という用語を使っていたのだが、これが適用されない国が極々限られていることから、「圧倒的多数の通常の国であるだけで "most favored"(“最”恵)はあるまいよ」ということで平成10年に用語を normal trade relations (NTR) status に変更したのだ、とあった。まあ、日本語としての用語は「最恵国待遇」のまま変わらないのだろう。米国が英語呼称を変えただけで、日本語における外交一般用語を変えねばならないわけではないからね。ベトナムが米国から最恵国待遇を受けるようになると、残る例外国は朝鮮国とキューバのみ。ここで横道にそれるが、しばしば見る俗論に「隣国どうしは仲が良いのが本来の姿だ」というのがあるけれど、そんなことを大前提にふりかざす論者のことを、かねてよりわたしはバカにしている。(たいてい、そこで読むのをやめて、他に移る。)米国とキューバが、いい例だ。「隣国だから善隣外交がなければならない」と思い込みで動くのは幼稚だ。だいたい、お互い譲れないことが数多くあるから、一国にならずに二国のままでいるのが「隣国」というものだ。隣国どうしが、田舎政治家が想定するようなベタベタした仲良しどうしだったら、古代か中世かいずれかの時点で一国になってしまっているだろう。だから、そもそも隣国どうしというのは、離れた国よりも、より多くの深刻な不一致点があるのが、そもそも定義からして当然なのである。だから、仲が悪いのが隣国どうしの通常の関係なのであって、隣国との不仲を嘆くのは馬鹿げている。不仲が正常であって、その正常関係にありつつ破滅的な結果が生れないように調整するのが外交というものだ。「外交」の手触りは、ベタベタしていない。サラサラしているはずだ。
Nov 16, 2006
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11月14日の『北國新聞』「時鐘」を読んで、「自殺するな」のアドバイスは「命の大切さ」を説くよりも、「開き直れ」がキーワードかなと思った。いけしゃあしゃあと“日々開き直り”の代表選手みたいな一部の新聞、政党、政治家など、開き直りのお手本はごろごろしている。開き直ってもらっては困る人や団体が開き直り(というより、開き直りが習い性となっていて、じぶんが開き直っていることすら認識していないだろう)、「開き直ればいいのに」と傍(はた)から見れば思う人が、開き直れずに死んでゆく。時鐘全文≪曽野綾子さんが「透明な歳月の光」で、ある有名作家が若いころの自分をいじめた先輩を作品の中で次々と消し、別の劇作家は自分を振った女優たちを役の上で裸にしていったという話を紹介している。いじめに負けず強く生きよと諭すエピソードは多い。今や大御所とされる漫才界の某人気者が新人のころ楽屋でいびられた。飯を食う金もない腹ぺこにコロッケを買いに行かせ、一つもくれずに目の前で食べて見せる先輩がいた。いまに見ておれと芸を磨いた。下級武士だった明治の元勲・山県有朋(やまがた・ありとも)は少年時代に道路の水たまりで土下座をさせられ下駄で踏まれた。後年(こうねん)、その相手が陸軍で少々出世したが、自分は最高位の元帥である。「私が今日あるは、おぬしのおかげ」と言い、相手に冷や汗をかかせたという。屈辱や悔しさをバネに大成した偉人は少なくない。が、問題は今の子どもたちに偉人のような強い心を持てと言っても始まらないことである。社会そのものが脆(ぜい)弱になり、生徒ばかりか校長までが自らの命を絶ついじめには、そんなやつらのために自分が死んでたまるかと開き直る、凡人や弱い子向けの処方せんが要る。≫
Nov 15, 2006
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職場にアンカラ事務所の女性社員が研修で来ていて、電話でしゃべっているトルコ語がなかなか優雅だったので、自分も勉強してみることにした。先週木曜から、白水社の『CDエクスプレス トルコ語』を読み出して、日曜夕方にざっと読み終えた。単語などぜんぜんうろ覚えで、練習問題もとばしてしまったけど、とにかくまず「どういう言語なのか」全体像をつかもうと思った。文法の不規則が少なく、やればできそうな言語だ。トルコ語系統の言語をしゃべる人口(というとウイグル人なども含まれる)は1億人を超すというから、大言語である。まだアンカラからの職員には、トルコ語の知識は披瀝していない。もう少し勉強が進んだところでびっくりさせてやろうと思っている。 * * *11月10日の『北國(ほっこく)新聞』(金沢市)のコラム「時鐘」(じしょう)は、味があった。米国で収容所送りにされた日系人たちがトランクにつめた「不要不急の日本」の話。よく、無人島に1冊だけ本を持っていっていいなら何をもっていくか、という問いがあるけれど、あなたならトランクに何をつめるだろう。≪小学校での英語教育の是非論が盛んである。まず日本語をきちんと身に付けよ、というのがスジ論だろう。そうではあるが、金沢市の六年生が総合学習で学ぶ英語を使って留学生に兼六園を案内した、という話題は楽しい。お世辞かどうか、発音が上手とほめられたという。金沢が生んだ禅の思想家、鈴木大拙の晩年の秘書を務めた岡村美穂子さんは米国で生まれ育ち、太平洋戦争のとき、家族と収容所で過ごした体験を持つ。京都で健在の岡村さんに聞いた話だが、収容所入りには、一人にトランク二つ分だけの私物が許されたという。衣服や日用品が詰まるトランクに、多くの日系人は日本の品を詰めてきた。謡の本、踊りの扇や足袋、筆と墨、笛や三味線…。砂漠の中の収容所では、大人同士や子どもを相手に日本文化の集いが開かれ、岡村さんも日舞を習った。まだ数着の衣服や下着が入るすき間に、不要不急の「日本」を忘れずに入れた人々がいた。国際化の時代、英語が人気を集めるいまだからこそ、かばんに日本とふるさとを入れることを忘れないでほしい。伝統文化が根付くこの土地の子には、いらぬおせっかいだろうが。≫
Nov 13, 2006
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シラノ・ド・ベルジュラック。名前だけは何度も聞いていたけど、内実を何もしらなかった。こんな爽快な、そしてできることならこの自分を重ね合わせたくもなるキャラクターを、フランス国が生んでいただなんて!フランス国をまたひとつ見直してしまった。自分って、なんて無知なんだろう、という思いもこめながら。ああ、これでフランス語の勉強をつづける動機づけまで、がらりと変わってしまったぞ。エドモン・ロスタンが定型詩句で綴った原作をぜひ読んでみたい。無双の剣豪にして、夢想の詩文家。その見解は狷介(けんかい)を極め、生き方上手なら英雄の道をのぼりつめられた。だが、本能の毒舌と含羞が、彼を彼のまま彼たらしめる。…………と、興に乗って書いてしまった。これを江守徹(えもり・とおる)さんの名調子で舞台で語ると、こんなふうに響くだろうなぁ、という勝手な想像までびんびんに立ち上がってくる。そんなパワフルな舞台だった。(↓文学座の「シラノ」ホームページ)http://www.bungakuza.com/cyrano06/とにかく、江守 徹さんの存在感のすごさといったら!そして、こんな魅力的なキャラクターを生んだフランス文明にも乾杯。スペインに生まれ育ち、フランスで活躍し、36歳で夭折した実在の人物を脚色したものだそうですが。たまたま今日午後の中央線の事故のせいか、はたまた北千住のシアター1010の場所が分かりにくかったせいか、つぎつぎと遅刻して入ってくる観客が20名ほどもいたのだけど、(そしてそういうことがすごく気になるのが、日頃のぼくなのだけど)江守さんが舞台に立って語りだした途端、その程度のことはものともしない ≪気≫ が支配してしまうのですね。はまり役。非の打ちどころがなかった。唯一の難をいえば、江守さんご自身があまりにいい男であられるので、鼻をデカッ鼻に扮装したくらいでは、≪醜男(ぶおとこ)≫ シラノになりきれないところ。シラノはどこから見てもいい男でしたよ、江守さん。『シラノ・ド・ベルジュラック』上演歴を見ると、シラノ役は平幹二朗(昭和50年、劇団四季)江守 徹(昭和58年、文学座)仲代達矢(平成2年、無名塾)市村正親(平成12年、ミュージカルとして)橋爪 功(平成13年、演劇集団円)というふうに、錚々たる方々が演じておられる。3時間超の長丁場のうち、シラノ役の台詞がおそらく半分以上を占め、次いでヒロインのロクサアヌ役(高橋礼恵 たかはし・のりえ)のいささか完璧すぎる女の台詞が続く。実力というか、≪気≫の強さが試される舞台だと思う。今回も、文学座創立70周年記念の公演の名に恥じぬみごとさだった。本邦初演は、第5幕のみを昭和4年に早稲田大学大隈講堂で新国劇が行っている。エノケン一座が昭和7年にレビューに仕立てたこともある。劇の説明冊子が、出演者みんなに「あなたはラブレターを書いたことがありますか?」と題して書かせていました。江守 徹さんの一文はお人柄が華やいでいてさすがで、これは冊子を買って読んでいただきたいけれど、ヒロインの高橋礼恵さんがこんなことを書いているんですね。≪あれこれと便箋を買い集め、記念切手の発売日を気にかけて、この便箋ならペンはこれにして、インクは何色にしようか、切手はこれがいいか……などと、季節によって、相手によって、あれこれと選ぶ楽しさ。そしてまた、<時間がたってからポストに届く>という、返信の嬉しさ。≫礼恵(のりえ)さんは、恋の味をしっている人なんですね。だから、若きヒロインのロクサアヌ役として江守さんと渡りあえたんだと思います。第5幕(今回の舞台では第2幕後半)の修道院の場、喪に服するロクサアヌが、かつて自分に心ゆさぶる恋文を送り続けてくれたのが本当は誰だったのか、悟る場面があるのです。足元から感動の電流が体を伝って全身にきました。北千住の「シアター1010」劇場は、すてきな空間でした。足立区民としてはうれしかったですね。ただ、北千住駅に着いても、どう行けばいいのか、はじめて来た人にはじつに分かりにくい。もう少し、経路に沿って案内を出すべきだと思いますね。足立区で唯一、全国区に誇れる文化の一拠点なのだから、区役所や駅事務所も支援を惜しまないでほしい。
Nov 12, 2006
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『ニューヨーク・タイムズ』紙11月5日号の別刷りマガジンに、James Gleick 氏が書いていた。英語辞書の最高峰、『オックスフォード英語辞典 Oxford English Dictionary (OED)』編纂の最新事情。いろいろ取り上げたいことが書いてあるのだが、面白かったのが mondegreen という単語の意味と由来。「モンダグリーン」(「ダ」は曖昧母音)というふうに発音するのだが、misheard lyric(音だけ聞いて、まちがって解釈してしまった歌)を意味するのだという。ある歌のくだりに"They have slain the Earl of Murray, And laid him on the green."(やつらはマレー伯爵を殺し草地に横たえた)というのがある。これが"They have slain the Earl of Murrayand Lady Mondegreen."(やつらはマレー伯爵とモンデグリーン夫人を殺した)と聞き違えられることから、mondegreen が「聞き違えた歌」を意味することになったのだという。「あなたが好きな英語の単語は何か?」と聞かれて、OEDの編者のひとり Fiona McPherson さんが「わたしは mondegreen ね」と答えていた。"A lot of people are just really excited by that word because they think it's amazing that there is a word for that concept."(この単語のことを知って、わぁぁすごい!っていう人、多いのよ。だって、こういうことを意味する単語までちゃんとあるなんて、驚きでしょ。)mondegreen と言えるかどうか分からないが、少なからざる人から聞き違いをされている日本語の歌詞といえば、ふたつ思い浮かぶ。ひとつが「仰げば尊し」の最後のくだり≪今こそ別れめ いざさらば≫。この「別れめ」を「分かれ目」と思っている人が少なくない。「今こそ分岐点だ さようなら」の意味だと。これは、「今別れむ」(いま別れよう)の「今」に、強調の係助詞「こそ」がついて、「今こそ別れめ」となった。「こそ」による係り結びで、終助詞の「む」が已然形の「め」になったのだ。もうひとつが、「聖しこの夜」の最後の≪救いの御子は御母の胸に眠りたまふ いとやすく≫。この「いとやすく」は「とてもやすらかに」という意味なのだが、たまたまメロディーが「い~とや~すく~」となるので、子供たちのなかには「良いと安く」って変なのッと思っている向きが少なくない。こういうケースも mondegreen でしょうか。Fiona McPherson さんに聞いてみたい。
Nov 10, 2006
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"TIME" 誌 11月6日号の特集 "America By the Numbers"(数字でみるアメリカ)が興味深かった。ひとつの国の実相を10ページほどで示したいとき、どういう切り口で臨むか、という観点からも参考になる。いちばん面白かったのが、How Americans See God...(アメリカ人は神のことをどのようにとらえているのか)。神のありさまを4つに分けて、それぞれに統計数字を配してある。Authoritarian God(権威を行使する神)Benevolent God(慈愛の神)Critical God(世界を客体として厳しい目でとらえる神)Distant God(静かな宇宙存在としての神)神などいないと思う向きはさておき、神さまがいると思っておられる方、いずれの神をイメージしているだろうか。わたしは「慈愛の神」、ついで「静かな宇宙存在としての神」をイメージしている。それぞれの定義をみてゆくと、Authoritarian God is deeply involved in daily life and world events. God is angry at sin and can punish the unfaithful or ungodly.(「権威を行使する神」は、日々の生活や世界の出来事にも深くかかわる。神は罪にたいして怒り、信仰うすき者や神をないがしろにする者を罰する。)Benevolent God is deeply involved in daily life and world events but is mainly a positive force reluctant to punish.(「慈愛の神」は、日々の生活や世界の出来事にも深くかかわるが、おもにプラスのちからとして存在し、なかなか罰を与えようとはなさらない。)Critical God does not really interact with the world but is unhappy with its current state and will exact divine justice.(「世界を客体として厳しい目でとらえる神」は、実際に世界のありさまと斬り結ぶことはしないが、現前の状態をよしとしてはおらず、やがて神の裁きを行使する。)Distant God does not interact with the world and is not angry. God is more of a cosmic force that set the laws of nature in motion.(「静かな宇宙存在としての神」は、世界のありさまと斬り結ぶことはせず、いかってもいない。神はむしろ宇宙のちからであり、自然の法則をはたらかせている。)わたしの場合、やはりつくづく「神さまに助けられた」と思う瞬間があるし、信じられないほど地道に善行をなしとげる人々のことを知ると、そこにもまた神さまを感じるのだ。かといって、世界から巨悪がなくならないのも現実だ。「大躍進」や「文化大革命」のような出来事がなぜ存在しうるのか。神はなかなか罰を与えようとなさらない。プラスのちからである神に対する、何らかのブラックホール(悪魔)が存在するようにも思う。そんなことからわたしは、神さまに「慈愛の神」をイメージする。いっぽうわたしは、「静かな宇宙存在としての神」のイメージにもひかれる。しずかに、考えつくされた法則が支配することで、摂理が実現してゆく。壮大な混沌になお打ち克つ摂理。『タイム』誌によると、ユダヤ人の42%がこの神をイメージしている。この4つの神さまイメージのどれが自分にあてはまるか、アメリカ人全体の ばらけ方はこうだ。Authoritarian God: 31%Benevolent God: 23%Critical God: 16%Distant God: 24%4つのなかで Authoritarian God 派が、ブッシュ大統領支持率がいちばん高いのだそうだ。
Nov 9, 2006
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11月4日に、オペラ "Cosi Fan Tutte" 日生劇場公演を見てきました。なんと日本で全曲通しで上演したのは、今回がはじめてだとか。言われてみればなるほどですが、全曲上演が俳優さんたちにかなりの負担となる challenging な作品なのだそうで、これまでの上演は随所で削除をいれてまとめていたのだと。演出した宮本亜門さんも、うーん、ここは切ってしまおうか、いや、すべての部分に作者の思いがこもっているはず! と、悩みながら実現させた完全全曲上演だったと、アフタートークでおっしゃっておられました。オペラのプロたちが、今回の上演をみて初めて「コジ・ファン・トゥッテ」の長年の疑問点が解けた、と言ったりするくらいだそうですから、すごい公演だったのですね。そんなことも知らず、とにかく楽しませてもらいました。感謝です。この作品、日本初演は昭和29年10月30日、日比谷公会堂で。ぼくが生れる5年前です。指揮者は、かの近衛秀麿。日本語上演でした。今回のはもちろんイタリア語上演。(↓二期会のサイト)http://www.nikikai-opera.or.jp/親しみやすい喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)であることもあってか、けっこう聞き取れるところがあってうれしかった。とくに、狂言回しの侍女、デスピーナ役のレチタティーヴォ(せりふにちょっと節回しをつけてしゃべるところ)など。それも理由の一部かもしれないけれど、このデスピーナという役どころは、役者さんならぜったいやってみたくなるだろうな。ホンネ丸出しのせりふの数々。おまけに途中で、医者と公証人に変装して登場し声色を使って歌うという設定まであって、どう演じるかいろいろ考えることができて、うきうきしてくるだろう。聞かせどころのあるアリアもちゃんと歌うし。宮本亜門さんの演出のおかげで、ミュージカルのような楽しみもありました。さすがに跳びはねて踊るところまではさせなかったけれど、あれだけ動きがありながらしっかり歌をこなさねばならない俳優さんたちは、たいへんだったでしょう。若い俳優さんでないと、ついていけない演出だったかもしれません。舞台の上にもうひとつ、劇中劇のための舞台を組んでいる。劇中劇舞台が客席最前列の人からも奥までよく見えるように、客席にむかって下がる形で傾斜しているのですね。見ただけで傾斜がわかるくらいですから、演じる俳優さんにとっては坂道を駆け上がったり駆け下りたりする心地だったでしょう。演じ通すだけで、喝采に値します。第1幕の幕が開くや、左手に坐る劇作家ドン・アルフォンソが鵞ペンをもった右手をふりあげ、紙にふりおろし、猛然とことばをつむぎはじめる。この演出からして、ああ、亜門流なんだな。劇中劇的構成をつねに意識させる舞台であるがために、もともと虚実入り混じりの筋書きである「コジ」に、いっそうの深みが出ました。唯一、難を申し上げると、話の区切りごとに劇中劇舞台に「第x章 xxxxx」というようなかたちでイタリア語・日本語併記の字幕が映し出されるのですが、舞台のうえに日本語を映し出したのは、あれはまずかった。ちょっと白けましたね。舞台の上はあくまでイタリア語だけにとどめて、左右にある字幕スクリーンに日本語訳を出したほうがよかった。たとえばね、『エビータ』のなかで民衆がプラカードをもって出てくるシーンがありますが、日本語公演であっても舞台上の俳優さんたちがもつプラカードはスペイン語なわけです。もしここでプラカードに日本語が書いてあったら白けますよ。セリフが日本語なのはいいのです。でも、視覚的には舞台上はアルゼンチンという設定を貫いてほしい、とまあ、そういう約束事のもとで演劇は動くわけですね。だから、やはり、今回の「コジ」で、舞台上に日本語を映し出しちゃったのも、まずかったと思うのです。舞台上はあくまでイタリアであるべきなんですね。でも、とにかくいいオペラでした。11月11日(土)、12日(日)にも公演がのこっています。ぜひおはこびください。
Nov 6, 2006
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