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CDを聴いてあらためてシルヴェスター・リーヴァイの世界、闇から歌い迫ってくるちからに酔ってしまった。日本公演も、東宝作品らしくアンサンブルのひとりひとりに至るまできりっとしていた。 山口祐一郎さんというと「魔」 の存在として舞台を睥睨していてほしいそんな思い込みがあるものだから、第1幕、普段着の貴公子としてごく普通の話劇がつづくと、まるで楽屋に戻ってうろうろしている山口祐一郎さんを見ているような変な気分だった。早く、山口節を聞かせて……! という願いは、ようやく第2幕の前半でかなえられる。「凍りつく微笑み」ドイツ語原題は Kein Laecheln war je so kalt (かくも冷たい微笑みなど見たことがない)。山口マキシムがストーリーのキモを歌いきるこのナンバーは圧巻。音符のかたちをして駆けてゆく馬をあちらこちらへ自在にあやつって疾走する御者、山口祐一郎さんの喉以外に、この歌をのせることはできない。メロディーに忠実なドイツ語版もいいが、山口節は何度も何度も聴きたい。おっと、公演は6月末まで続くぞ。いまは亡きレベッカ・ド・ウィンターの冷たい嘲笑が意味する真相を知ったとき、マキシム・ド・ウィンターが再婚の相手として迎えた「わたし」の愛は、かぎりなく深くゆるぎないものとなる。「愛しています」の言葉がこれほど、ぞくっとさせてくれるなんて。ストーリーのちから、構成の力だ。第1幕の圧巻は、シルビア・クラブさん演じる冷酷なダンヴァース夫人の「何者にも負けない」ドイツ語原題 Sie ergibt sich nicht (彼女=レベッカ=が身を垂れることはない)。憑かれたような規律。地獄から立ち上ってくるような声。鬼気迫るこの歌のために第1幕はある。その対極にいる 「わたし」 を演じる大塚ちひろさんは、ぼくにとっては 「ダンス オブ ヴァンパイア」 でお風呂好きの娘サラを演じていただいて以来です。そこにいてくださるだけで、しあわせです。いつまでも応援しつづけます。石川 禅さんは、執事のフランク・クローリー役。細かいところまで神経の行き届いた石川 禅さんの所作を見ていると、第1幕のマキシム・ド・ウィンターは禅さんで見たかった……と発作的に思う。どんな石川マキシムが展開しただろう……。(でも第2幕の 「凍りつく微笑み」 だけは絶対に山口祐一郎さんの指定席だけどね!)第2幕のもうひとつ見せ場のナンバーは、マキシム・ド・ウィンターのとんでもない敵役(かたきやく)、ジャック・ファヴェルが歌う 「持ちつ持たれつ」。ドイツ語原題は Eine Hand waescht die andre Hand (手がもう一方の手を洗う)。演ずるのは 「ダンス オブ ヴァンパイア」 でホモ吸血鬼のヘルベルトを歌い踊ってバカウケした吉野圭吾さん。今回も藝がコミカルに炸裂。いいノリでした。まだまだ開花しそうで、こわいほど楽しみです。応援してます!上演が、奥行きがある割りに横幅が狭く天井も低いシアター・クリエで、音響レベルをあまり上げられなかった。配役もストーリーも音楽も絶妙。進化が楽しみでぞくぞくするのだが、客席側の雑音がしきりに気になった。帝劇や日生劇場のような懐のひろい劇場で大音響に包まれたい気もした。第1幕の後半、1列後ろの太っちょのドイツ人の呼吸音が気になって集中できなかった。ボックス席が空いていたので、幕間の休みのあいだに移動させてもらった。シアター・クリエの係のかたの対応は好印象。さすが東宝さん。問題のドイツ人は、俳優さんが招待したお客とのことだった。Would it be possible to hold down your breath a little bit during the performance?とお願いしておいた。I will try... と言っていたドイツ人だが、さて第2幕の間、どうだったか。
Apr 29, 2008
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松本幸四郎さん主演の第1116回公演を見た。4月26日夜の部。4月15日の昼の部が第1100回公演だった。下の写真はそのときのカーテンコールのようす(東宝のサイトから)。1100回の公演とはどういうことか。上演記録を見て、昭和44年のさいしょの公演の共演者の名にあっと驚いた。ときに26歳の松本幸四郎さんは、襲名前の市川染五郎の名でドン・キホーテを演じた。その憧憬する宿屋の女 「想い姫」 アルドンサ役が、草笛光子さん、浜木綿子さん、西尾恵美子さんのトリプル・キャストだった。草笛さんらが演じたその役を平成14年から松たか子さんが演じている。相方が草笛さんから松たか子さんへ一世代以上の交代をしながら、主役は同じひとが続けているとは、思っただけでぞくぞくする。このミュージカルのドン・キホーテは、教会をおとしめたかどで牢に囚われた作家セルバンテスが劇中劇として演じるという趣向。主演者がいかなる年齢でもその年齢なりに演じられる、すごい脚本だ。だから松本幸四郎さんが26歳から65歳の今まで ひとつの役を極めてゆけた。帝劇のロビーでロンドン公演の英語版のCDとメキシコ公演のスペイン語版のCDを買った。(ロンドン版のオーケストラがすばらしい。)さきに松本幸四郎さんの入魂の舞台を見てしまったので、英語版の澄んでとどろく声さえ若すぎて聞こえる。今回、舞台で再会してうれしかったのは駒田 一(はじめ)さん。コミカルな床屋役。駒田さんは、最初にお会いしたのが「ダンス オブ ヴァンパイア」の異形(いぎょう)の せむし男姿 ; そのあと「レ・ミゼラブル」 で曲者(くせもの)のテナルディエ ; 「タン・ビエットの唄」でようやく素顔を見せていただいた役者さん。「藝人」の一語がぴったりはまるひと。さわやかなひと。控えめにしておられても、しっかりファンを獲得しておられるのも納得だ。牢名主(ろうなぬし)の役。今回、上條恒彦(かみじょう・つねひこ)さんが予定されていながら、咽頭部にポリープがみつかり切除手術のために降板となった。代わって演じられた瑳川哲朗(さがわ・てつろう)さんもよかったけれど、劇が進むにつれて、上條さんがこれを演じたらどんな遊びを入れて楽しませてくれるだろう、どんな渋さが出るだろう……と思いが飛んだ。上條さん、はやくカムバックしてください! 今回の上演、何に惹かれたといって、ドン・キホーテが、あばずれの(でも美しい)女を 「想い姫」 として崇めるその姿。すっかり自己移入してしまった。「想い姫」の話としてセルバンテスの原作を読んでみようと思った。松たか子さんを 「想い姫」 にできるなんて、観劇者はしあわせだ。いろんな切り口で勇気をもらえるミュージカル。だからだろう、これまで見たミュージカルのなかで、男性客、とくに年配のかたが多く見かけられた。なにしろ帝劇で男性トイレに待ちの行列ができるのだから。(帝国劇場で4月30日まで。まだ席は残っているようだ。)
Apr 28, 2008
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「動物を倫理的に扱おう会」(People for the Ethical Treatment of Animals) という団体が100万ドルの懸賞つきで 人工培養肉の商業化を と訴えている。後述のとおり、賞金をもらうための条件を読むとものすごくハードルが高いが。構想は手塚治虫の漫画『火の鳥』の人工生命工場の一場面よりも気味が悪い。大豆から合成する肉では満足できない一般人のために、ぷよぷよとした食肉を生物学的に培養することで、大脳つきで生きていた生きものの肉と組成的に変わらないしろものを作れないか ――それができれば、食肉用に劣悪条件で飼育され残酷に殺害される家畜の悲劇をこの世からなくすことができる ――『ニューヨーク・タイムズ』紙の4月23日の社説が 「百万ドルの肉 Million-Dollar Meat」 と題して論じていたが、味があった。飼育と屠殺の条件改善という根本の趣旨には賛成しつつも「食肉が培養タンクで製造されることで、家畜の群れがこの世から消えてしまうとすれば、それも味気ない殺伐とした世界だ。いま存在する家畜たちがこの世に生まれ育てられてきたのもまた、人間の営みあればこそなのだが」と結んでいる。「この世に存在する」 こと自体がひとつの幸せなのであるという基督教の常識を下敷きにして論じているように思えた。食肉が人工培養で作られるとなると、屠殺というゴールのためとはいえとにかくもこの世に生をうけるしあわせを、畜獣たちはもう得ることができないのか?さて、「動物を倫理的に扱おう会」の懸賞金100万ドルの条件は厳しい。細胞分裂が進んで機能分化する前の原初的な細胞(幹細胞 stem cell)を培養する実験は生物学の世界で行われてはいる。それを大規模に商業ベースで行えるようにしてくれというのだが、懸賞期限は4年後の平成24年6月30日。フライドチキンにして試食しても本物と区別がつかないようなものを、一般販売可能なコストで作れるようにし、必要な認可を得たうえで少なくとも10の州で実際に販売するのが、懸賞の条件だ。懸賞金の100万ドルを採算に織り込んでもとても難しいと思うが、世の中の研究開発を加速するきっかけをつくる提案にはなっている。工場のなかでぷよぷよと培養肉が育つ光景を想像すると不気味だ。だが、考えてみると醤油や酒の醸造だって液体のなかで微生物がうごめきあふれている。われわれがウルトラマンの目をもっていれば醸造桶のなかも同じように不気味かもしれない。
Apr 24, 2008
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まァこのポップな(と表現してよいのか)廃材や やぶれトタン板の散らかる現場で「めぞん一刻」の世界が広がったかのような宣伝ビラの写真を見てください。現代タッチのコメディー「どん底」に仕上がっているのにちがいない。……と思って渋谷のシアターコクーンに行ったらだまされたと言ったら聞こえが悪いけどケラリーノ・サンドロヴィッチさん(以下「ケラさん」)の台本・演出の演劇はしごく正統派で(それゃチラリズムな遊びは散らされているとしても)ウェイターたちが軽やかに踊りながらドカン、またドカンと、大皿盛りの煮込みや大串焼きを置いてゆくのでした(これ、比喩)。(↑ これは宣伝ビラのウラ。いや、こちらがオモテかな。)ケラさんの解説によるとマクシム・ゴーリキーの原作の社会批評的な部分を削ぎ落とすいっぽう、登場人物どうしがもっと互いに絡み合うように書き込んでいったのだそうで原作を読み比べてケラさんワールドの所以(ゆえん)を確かめると面白いのでしょうが残念ながら『どん底』原作は、ぼくの興味の順位としては下のほうです。読むのは20年後でしょう(そのころまだ生きてればね)。そう思ったから、ロビーで売っていた岩波文庫も買わなかった。その代わり、ケラさんが岸田國士(きしだ・くにお)の一幕劇を巧みに連鎖コラージュした戯曲『犬は鎖につなぐべからず』(白水社)を買いました。この「犬は……」の公演@青山円形劇場@平成19年5月で、竹久夢二の絵から歩み出たような緒川たまきさんに出会って、はかなさと毅然が同居している彼女の美しさのとりこになった。その緒川たまきさんが今回の「どん底」にも出ている。薄倖のヒロインの典型と思われたナターシャは、第2幕後半の山場で人間関係をひっくり返す存在に変身する。シャネルの芳しい香水が、突然に黒煙を上げて燃え、香ばしい残り香はやがて降りしきる雪に洗われてゆくのだ。第2幕の山場で吹雪いた白雪を、ぼくはたぶん一生わすれないだろう。(公演は4月27日まで東京・渋谷のシアターコクーンで。)
Apr 21, 2008
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J-Power(電源開発)の株の買い増しを求めている英国の投資ファンド。わが政府が、株の買い増しの中止を勧告しているが、同感。わたしの本業では、海外向けの電力投資の入札で J-Power と張り合うこともあって、昨年もタイでJ-Power 側の破格の安値札に対抗できずに負けた。(これは市場に公開されている情報であり、社秘ではありません。)だから個人的には英国の投資ファンドに多少かき回してもらったほうが、いい気味だ、という思いもあったが、しかしザ・チルドレンズ・インベストメント・ファンド(TCI)がJ-Powerへ出している提案書を読んで、心中に大きな疑問符が浮き上がった。今年3月付けの 「J-POWER 事業計画 経営陣が検討するべき事項」 を見ると、日本語文書でありながら、文章の一部の漢字(「画」や「社」の字など)や句読点が中国語フォントになっているところがある。この一点ですでにして「変な集団だ」という強烈な違和感を感じた。(もちろん経営提案には、妥当な部分もある。わたしはTCIの主張を全否定はしない。)わが政府がTCIによる株買増しに反対した理由のなかには、原子力政策上のポイントもあった。J-Power が原子力発電にも携わろうとしていて、そこに海外のファンドが入ると国家政策に悪影響を及ぼす不測の事態が懸念された。これに対してTCIは反論して、(1)原子力関連の議決では買い増した株のちからでゴリ押しはしないと約束する、(2)それが信用できないなら、原子力開発だけは政府資本が過半数を占める別会社を作ってはどうか、と反論している。現状たかが10%に満たぬ株主が、自分の都合に合わせた組織改編を示唆するとは(それもほとんど要求口調で)、「自己中心」的発想の極みで、少なくともわが国の文化からは遠い。こんなファンドに株を買い増しされたら、これからさき日本人として不愉快なことがもっと起きるだろう。
Apr 21, 2008
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コラム配信を始めた平成14年ころ考えたこと。「時代が進んだら、毎朝5分ものの評論トークをネット配信したいなぁ。でも、カネかかるだろうなぁ」まもなく YouTube など、ふつうの人でもテレビ番組もどきを世の中に公開できる技術が実際に広がってしまった。だから、時間と才覚があれば毎日5分もののトーク番組を制作・公開することだって、タダでできてしまう。けっきょく、トーク画像よりも文字のほうがはるかに効率がいいし、文字は転載されてワッと広がることもあるから、テレビ番組もどきを実際に作ってみるところまではいかなかったけど。今朝4月17日の『産経新聞』の「正論」で公文俊平(くもん・しゅんぺい)さんが、我々がひごろ意識しない「新技術のものすごい金銭価値」について触れている。≪ひとつ眼を転ずれば、期待に満ちた新しい動きはいたるところに見いだせる。≫≪早い話が、パソコンのハードディスクひとつをとってみても、30年前は20メガで30万円していたが、いまは200ギガが2万円以下になった。それを昔の価格で評価すると、30億円になる。≫≪月数千円で使えるインターネット接続サービスの価値は、一昔前の料金で評価すると、月数十万円はくだるまい。≫≪私たちはその意味ではとてつもなく「豊か」になったばかりか、経済成長は依然として活発に続いているのである。≫きのう4月16日の日経夕刊1面記事によると、 ≪世界中のテレビ番組を、大容量回線を使う次世代ネットワークを通じ、テレビ、パソコンなどで好きなときに見られるようにする≫ ための世界共通規格が国際電気通信連合によって年内にも作られるそうだ。世界中のテレビ番組が見られる世の中になるなんて、またひとつ、喜びの悶絶だ。そこまでおいしい世の中になったら、ぼくもテレビ漬けでレロレロになってしまいそうだ。公文さん流にこれを経済価値に直すと、いかほどになろうか。中国でも政府情報機関の雇用が増えることだろう。だって、世界中のテレビ番組を検閲して、都合の悪い画像・音声はすばやく遮断しなきゃいけないからね。
Apr 17, 2008
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ヒトラーの迫害からの逃避行途上のユダヤ人6千名に「敦賀上陸、滞在10日間」のビザを与えるため在リトアニア領事館でペンを走らせ続けた外交官、杉原千畝(ちうね)。その揺れ惑いつつ収斂する心境の再現に存分な説得力がある。胸から脳髄までぐいとつかむ出色の作。脚本・プロデューサーの川崎 登さんは、じつにいい仕事をされた。(写真は演劇宣伝ビラ↓)史実から緻密に構成しつつミュージカルらしい遊びもいれてバランスのいい脚本。今(こん)拓哉さん、彩輝(あやき)なおさん、泉見(いずみ)洋平さんなどミュージカル俳優の一流どころが起用されていて、安心して見ていられた。(出演予定だった愛華みれさんがリンパ腫を患い降板されたのが残念。一日も早いご回復をお祈りします。)杉原千畝役はロック界の吉川晃司さんが演じたが、たとえていえば鹿賀丈史さんの真摯が皮膚の奥まで沁み込んだような出来映え。演出・脚色の大谷美智浩さんがパンフレットで思いを吐露している:≪稽古を進めていたある日、吉川「千畝」の中に正義の光が宿った。キャストもスタッフも、その場に居合わせた誰もが泣いた。その日初めて、私はこの舞台の成功を確信した。≫そういう瞬間があったこと、わかる気がする。のちに逃避行の途中で命を落とすことになるエリーゼ(井料瑠美さん)が「いつの日か帰ろう 遥かなエルサレム」と絶唱して幕が開く舞台は、ヴェトナム戦争時代のニューヨークのダンスホールの快活な舞踏に一転する。(アンサンブルのダンスもきりっときまっていた。)ダンスホールの男たちのやりとりからやがて、なぜ杉原千畝が「命のビザ」の発給のために文字通り自らの命もかけたのか? という問いかけが提示される。その答えを、説得力をこめて見せてくれた。昭和14年の在ヘルシンキ日本公使館の華やいだ舞踏会から、歴史の叙述がはじまる。よくある手なのかもしれないが、日本・ドイツ・ソ連をそれぞれ、あでやかな女性たちに擬人して演じさせ歴史の流れを語らせたのもうまかった。ヒトラーにまつわる場面も、「プロデューサーズ」の劇中劇のマジメ版といった仕上り。まずは無難。近衛文麿政権の陸軍軍人の歌う「……日の丸よ永遠なれ 立ち上がるのだ 今すぐお国のため戦おう いざ勝ち取れ大東亜共栄圏……」という歌詞は安っぽいが、6~7名の軍服姿に能面をつけさせスローモーションで腕を動かす演出は効果的で、支持したい。全体で118ページの台本のうちで、杉原千畝が「今日から、ビザの発給を始めます」と静かに宣言するのは93ページだ。杉原千畝を演じる吉川晃司さんが最初に登場するのは、顔を帽子で隠したままポーランド人のエージェントと密談する場面。顔を見せずに声と振舞いで杉原千畝をつくったところで、すでにして杉原千畝となった男が顔を見せる。この演出にしびれた。中島みゆきさんが音楽を担当ということで、中島ミュージカルとはどんなものだろうかと期待した。いい出来だったが、いわばシルヴェスター・リーヴァイの名作「マリー・アントワネット」をやや平板にしたような。あとでパンフレットを見たら、中島さんが詞・曲を担当したのは全34曲中の8曲ほどで、他の大部分は Peter Yarin さんの作曲だった。中島さんの作のうち、千畝のうたう「掌」という曲がひときわ印象深かった。会場では主な俳優さんのサイン入りの台本を売っていて、わたしは彩輝なおさん(写真は演劇パンフレットから)のサイン入りのを買った。宝物にします。1枚6,000円のDVDも出る予定。市販されず、会場でしか申し込めぬそうなので、2枚申し込んだ。海を越えての上演の実現を祈りたい作品だ。(4月22日まで東京・初台の新国立劇場・中劇場で。そのあと4月26~27日に名古屋・名鉄ホール。5月2~8日に新神戸オリエンタル劇場)
Apr 13, 2008
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民主党がうけるのはヨーロッパ、共和党がうけるのは日本・中国・インドなどアジア諸国だ……と4月10日の『ニューヨーク・タイムズ』紙にコラムニストの Roger Cohen 氏がわかりやすく書いている。ヨーロッパで民主党がうけるのは、ヨーロッパ人が脱・主権国家志向でモノをみて、国際機関がソフトパワーで調整をはかる世界を良しとしているから。いっぽうアジアは主権国家角逐の場になっていて、古典的な共和党スタイルがしっくりくる。中国への対抗のために日米同盟強化を志向する日本が共和党を歓迎するのはもちろんのこと、じつは中国もまた、共和党歓迎というところがおもしろい。民主党が米国内の労働組合に配慮して保護貿易主義に傾き、ペロシ下院議長に端的に見られるように人権外交をより重視するのに対して、共和党は自由貿易主義で中国の利益にかなう。共和党政権が進めたイラク侵攻も、中国として表向きは反対だが、じつはイラク侵攻があったおかげで中国への風当たりが減るというメリットがあった。印度もまた、共和党の自由貿易主義を歓迎し、ブッシュ政権が推進した米国・印度の軍事的連携が国是にかなう。Roger Cohen 氏自身は民主党支持者なのだが、「民主党の大統領が誕生しても、アジア外交についてはブッシュ政権路線を踏襲したほうがよい」と穏当な提言をしている。
Apr 11, 2008
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昭和30年代に出版された小学館の学習図鑑で「21世紀の生活のようす」といえば、3種の神器は「エアカー」「壁掛けテレビ」「電子レンジ」だった。エアカーは、鉄腕アトムなどのアニメでもおなじみだったけど、じっさいに空気で車体を浮かして走れば、街には砂塵がもうもうと舞い、激しい空気音は堪えがたい公害となったはず。他の2つの夢に比べて明らかに現実性とぼしい神器であるが、ひとは当時なぜあれほどエアカーにこだわったのだろう。壁掛けテレビは、ちょうど21世紀にはいって想定どおりのものが普及しはじめた。電子レンジは、21世紀など待たずに昭和40年代には普及がはじまったが、昭和30年代の図鑑にはたしか「ハンバーグもたった3秒で調理できます」と書いてあった。だから実際の電子レンジでは調理に1分も2分もかかるのでがっかりしたのだけど、これはまあ、出力さえ上げれば「ハンバーグが3秒で調理できる」機種も作れなくはない。4月2日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に Harold McGee 記者が電子レンジ使用の注意点について書いていた。米国の、電圧 220ヴォルト、電気容量 1,100ワットの電子レンジとなると調理物の反応も激しい。バターを長時間加熱すると、バターの水分が沈下してあつまり、それが一気に沸騰爆発してレンジのなかがバターまみれになります、とある。水を長時間加熱すると、100度を超えても沸騰状態にならないことがあります。そういう超加熱状態の水をちょっと揺らすと、一気にはげしい沸騰が起こります。古くなったパンやナッツを長時間加熱すると、外面には変化が見られないのに内部だけ真っ黒に炭化します。これは、表面温度がさほど上がらないのに、内部の熱は発散せず炭化するほど高温になるからです。……出力が高いとこんなことも起こるのか。ハンバーグが3秒でできる電子レンジだったら、こういう調理場の悲劇が日常茶飯事になっていたろうか。0.01 秒単位で管理する電子レンジの温度制御技術も進んだはずだ。
Apr 10, 2008
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「王子が初めて友情を抱いた青年は……男? 女? 王子? 王女? ホントはどっち?!なんと、プリンセスだった!?」という勘違い物語だけれど、そもそも、演出の小池修一郎氏はとんでもない勘違いをしていないか。主役かつ集客力の中心となった女優扮する「青年に化けた姫」といい、道化役の庭師といい、オーヴァーアクションがすぎてまるでファミリー・ミュージカルだ。ハローキティやバッドばつ丸が乱入してきても不思議ではない出来ばえである。シモネタもあるからご家族で見るわけにはいかないオトナ向けコメディーだが、どう匙加減を間違えてこうなったのか。さすがにヴェテランの藤木孝さんと杜(もり)けあきさんが脇を固めて、とくに第2幕には鑑賞に堪えるしみじみしたナンバーもあった。主演の女優より、助演の瀬戸カトリーヌさんのほうが歌もよほどうまく、演技もまとも。主演の女優はときに音程がはずれ、声質がじゃじゃ馬のように落ちることがあった。帝劇ならアンサンブルにも加われまい。主演男優の演技もぎこちなかった。2年前からひと月にほぼ2作のペースでミュージカルを見てきたが、そのなかでも最低の出来。めずらしくパンフレットも買わなかった。(4月14日まで天王洲・銀河劇場で。そのあと4月17~18日に兵庫県立藝術文化センターでも公演予定。)
Apr 8, 2008
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「空気のダンスデッサンから飛び立った少年少女世界の舞踊家・勅使河原三郎が十代の若者と新しい美の価値観に挑戦するダンス!」……という触れ込みだったが、「挑戦」といえるような体の極限への挑みもなく、「十代でなければできない」意外性もなかった。上演前のウォーミングアップの光景と延々1時間付き合わされたに等しい。音楽会と思って会場へ行ったら、開演5分前のオーケストラピットの練習音を延々1時間聞かされ「これぞ現代音楽でござい」と言われ、木戸銭5千円は戻ってこなかった。たとえて言えばそれだ。先に褒めるところだけ褒めておく。公演の最初と最後に舞台を深いふかい呼吸の音で満たし、ホモ・サピエンスが出しうる風(かぜ)の音の美しさを発見させてくれたのは収穫だった。音楽構成は、キース・ジャレットのピアノ演奏を思わせる、そつのない出来。シンプルだが想像の翼を広げられそうな舞台美術も、ウルトラモダンの能楽堂といってよろしい。しかし、腕をまろやかに振り回し、胴体をくねり揺らすことに終始する舞踏は退屈だった。それを「空気の動き」と言えば言え、様式美を拒否し動きの角度やタイミングを揃えれば美しくなるものさえも揃えさせず藝の智慧を授けぬまま少女9人、少年4人を動き回らせた。けっきょくそれは舞踏でも舞踊でもなく、作品ですらなかった。振付の勅使河原三郎(てしがわら・さぶろう)氏は、少女少年の好き勝手な動きから何かあたらしい価値が創造されると期待したのだろうか。様式美を拒否し 「十代でなければできない」「未知なる物への挑戦」に期待しようという、オトナの側の頭でっかちな思い込み。その犠牲にされた少女少年たちは、けっきょくオトナから示唆された定型以上のものを何ら生み出さず(あたりまえだ!)、身体は凡庸な動きに終始した。「きみたちが音楽から感じるままにからだを動かしてごらん」企画したオトナのそんな猫なで声がむなしく虚空に響く。それでも、これがたとえば現代美術館の展示の一角での特別パフォーマンスとして5分間にまとめられていたら、ぼくはたぶん賞賛したと思う。賞賛も批判も勅使河原三郎さんが一身に負うべきもので、終演後の13名の少女少年への拍手はおしまなかったが、せめて舞台で礼をするときの頭の下げ方の角度くらい指導してやれなかったものか。頭の下げ方の深すぎる子、浅すぎる子。指導をせぬことを良しとする時代おくれの学習指導要領を想起した。いちいちそんなことでと言われるかもしれぬが、「揃う」ことも美のうちだ。(きょう6日まで新国立劇場で。そのあと4月13日に富山市、4月20日に松本市で公演。)
Apr 6, 2008
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ことし4月4日は清明(せいめい)。陰暦にもとづき、年によって変わるので、4月5日のこともある。日本のお彼岸よりやや遅れるが、冬のあいだに荒れた墓をきれいにする日。台湾、香港、中国では休日になっている。香港、中国では“清明節”として公休日。香港で公休日になったのがいつなのか調べられなかったが、中国で公休日になったのは今年から。共産党政権が先祖をないがしろにして、災い大いに世に満ちる現代だから、伝統回帰はけっこうなことである。台湾でも公休日だが正式名が“民族掃墓節”という。韓国人でもがつけそうな名称だが、この“民族掃墓節”という名は昭和8年に中華民国政府が決め、それが引き継がれている。同じ清明が韓国では、一般には“寒食”(かんしょく、ハンシク)と呼ばれる。その日に合わせて4月5日が“植木日”(しょくぼくじつ、植樹の日)という名の公休日とされていた。ところが、公休日が多すぎては経済競争力に影響するという理由で平成18年から公休日ではなくなった。さて、上の写真である。3月31日の『中国時報』紙(台湾)の台北版(C1面)から。台北市役所が推進している“樹洒葬”(じゅしゃそう)の現場である。貧しくて、墓地を調達できぬ人のための措置だった。骨壷を埋めたところに一年生植物を植え1年経ち植物が枯れるころ骨壷も遺骨も地中で分解するので、同じ場所に別のひとの骨壷を埋めまた同じように一年生植物を植え1年経ち植物が枯れるころ骨壷も遺骨も地中で分解するので、同じ場所に別のひとの骨壷を埋めまた同じように一年生植物を植え…………という形で公園風に景観を維持して土地利用の効率化を図ったのだが、これは日本では感情として到底受け入れられまい。案の定、台湾人にも抵抗があって、合意のうえでの“樹洒葬”ではあったものの、骨壷を埋めた場所に何がしかの碑を立ててみたり、故人が好んだ遺品や人形を置いたり、果ては仏像や十字架を置いたりする者も現れた。台北市役所は「6月末までに私物を持ち帰らねば、強制撤去する」と4月1日に公告。もともと“樹洒葬”という形に問題があるのではないか。言っては何だが、ポチの墓か金魚の墓である。やはり納骨堂のような目に見えるものが必要なのが人情ではないかと思う。
Apr 2, 2008
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漢人の軍隊の丸坊主の兵士らがチベット僧の服らしきものをもっている図。昨日、この写真を送ってくれた人がいて、この A View On Buddhism というサイトでもお目にかかった。このテの写真というのは いつ誰がどこで撮ったものか分からないといまひとつ信用ならなくて、飛びつけないのである。と言いつつ、掲載してしまったのは、やっぱり気になる写真だからなのだが、いかにもありそうな光景である。中国共産党は、死んでも「捏造写真だ」と言い続けるだろう。どういう作法で否定するか、とくと見届けて、南京事件の捏造写真を批評する際の作法に使わせていただこうと思っている。
Apr 1, 2008
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