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2022/10/30/日曜日/乾燥してますあー連夜頑張り編み上がる土曜日午前、糸始末→ブロッキング。少しお日様に当てて、早め乾燥を期待その後、室内にて陰干し日曜日午後に完璧乾燥確認ウエスト折り曲げ、ベルトゴムを入れて仕上がり(^^)私のふっとく短い脚を優しく覆うカシミアとメリノのコンビ温かいです!軽いです!この冬鉄板です( ;∀;)レオのいない寂しいひと月が毛糸のパンツになって、私を温めてくれるんだなぁ
2022.10.31
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2022/10/01〜↓8月がお誕生日の末っ子のプレゼントは4.5ヶ月かけて6月末に仕上がり、無事本人に届けた。ところでこれの袖を編みながらあれ?これアレに使える!と妄想何しろ〈閉じハギ〉が面倒、いかにそれを避けるか工夫し、袖は筒編みの状態そう、袖は二つの脚にもいい。しかし夏は木綿刺繍糸でバッグを編み続け、しばしおあずけそうする内に忙しく夏は過ぎレオもとうとう逝ってしまった。でも、そのあと私は気を取り直して、末っ子のセーターと同じ糸揃えでおパンツを編み始めた。黙々と編むことで救われる、という。編みものの世界があり仕合わせ片袖ならぬ片脚編んだ。両脚揃った。こんなのも参考にしながら、二つの脚をつなげて臀部へと筒編みは続く。このおパンツ姿を見て末っ子はげ!と呆れるかしらん。4月から10月ずっーとローズシナクティフは咲いてくれている。ありがと
2022.10.28
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2022/10/30/日曜日/霜月始まりの薄い日差し〈DATA〉中央公論社/ 著者 井筒俊彦1989年1月10日 初版発行2022年7月25日 改版発行中公文庫〈私的読書メーター〉〈一読、らしからぬ熱さに驚く。本書には2度の復刊に際して氏の二つの後書が掲載されている。若き井筒氏の哲学的希求=「根源的に人間的なもの」が19世紀ロシア文学の発展の中に異常なまでに先鋭化されている事を見出した氏は、プーシキンから諄々と文豪たちの作品命題と作家の人生を解題しロシア的人間を哲学的人間学に構築した稀有な本だ。タタールのくびきから逃れても常に検閲下にあったロシアで文学が引き受けた民族的凄みが重くのしかかる。敗戦後間も無くの執筆であれば、米国のくびきの日本的人間への鏡としての意識も切実に働いたか?〉留めておきたい言葉や詩がいくつもいくつもある本は、壁をくり抜いて作った特別な書架へおく。そして心がすっーと何かに惹かれ、求めるように身体が動くとき、その小さな書架に手を伸ばす。この本はそこに置かれる。例えばレールモントフ17歳の、こんな詩「天使が夜半の大空を翔けながら 静かな歌を唄っていた。 月も、星々も、群れなす雲も 浄らかな歌に聴き入っていた。 …… 天使は、いま生まれようとする魂をいだいて、 悲しみと涙の国へ運んで行くところだった。 歌の言葉こそ忘れたが、幼い魂は その調べをまざまざと憶えていた。 不思議な憧れに胸ふたがれて 彼はこの世に、永く悩み悶えた。 地上のくだらぬ歌や詩は かの天上の歌声の代わりにはならなかった。」など。井筒氏は、トルストイとドストイェフスキーについて〈19世紀ロシア文学はこの両者に至り、峰の絶頂に達し、プーシキンに始まるロシアの人間探求も究極の高みに到達〉し、〈ロシア精神の深奥の秘密を世界の全面に暴き出した告白であり、人間宇宙の謎に関しロシアが吐きえた最高の、そしておそらくは最後の言葉〉であると。トルストイという無数の矛盾の巨魁のような人間の秘密を自我中心主義の問題で捉えるとき西ヨーロッパの作家の中でトルストイに近い人として、氏はゲーテをあげる。かつ両者の決定的な違いを力強い意識のありようにみる。自我と芸術の乖離を生じさせず、内的葛藤なく自我深層の探求をゲーテにおいて遂行せしめた、と。キリスト教的世界の只中にぽっかり咲き出した異教精神の二つの花、ゲーテとトルストイゲーテにおける異教がギリシャローマに対し、トルストイはもっと根源的、原始的な、大地的生命である、と氏は指摘する。そうであるならば、一個の近代人がそれだけの深奥にまで存在の根源を求める恐ろしさは想像もつかぬ。「自然性と意識性、トルストイの内面に相剋するこれらのニ性質を、それぞれの方向にどこまでも辿っていくとき、その極限に至って我々は全く別人のようなトルストイに逢う…」この章の中で、私にとり重要な点は、トゥルゲーネフが『アンナ・カレーニナ』のレーヴィンを評して「レーヴィンという男が誰かを愛するということができると考えられるだろうか。いや、絶対にそんなことは思ってもみられはしない。一体、愛というものは我々の自我を滅する情熱の一つだ。ところがレーヴィンは、自分が他人に愛され、しかもそれで幸福を味わいながら、そのくせ自分自身の自我に執着して離れない男なのだ。…彼は骨の髄までエゴイストた。」という件。しかもレーヴィンは誰がどう見てもトルストイに他ならないのだという。毎週のレッスンで音楽を受入れ表現する、私の芸術的時間において、先生に言われる「自分から出ていく」。さて、この感覚を「自我を滅する」情熱と理解するなら、それは音楽への愛、なのだろうか。しかし出ていく、というのは滅するとは違う。消し去るのではなく、自我を離れる、が近いのではないか。また音楽への愛というと、何やらそれは愛でる対象物になり変わる。それはまた違う。音楽、歌と連帯して歌そのものとなる。人間はそんなふうに存在できるものかは。さて、ドストイェフスキーの章に入り、プーシキンが開拓した「自然と愛の喪失、不能が近代的人間の最大の悲劇」主題をトルストイも続行し、自然性探求の道を窮める流れを見た上でドストイェフスキーの認識は「自然喪失と愛の不能は派生的現象であり、それらの底には根源的な神の喪失」であり、彼にとって失われた神の探究が最大課題となる、とする。「旧い人が罪に死んで、新しい人となって甦る瞬間に人間と共に死に、かつ甦る新しい自然だ。ドストイェフスキー的世界においては、人が自然の美に対してどの程度の感受性を示すか、自然の美にどの程度まで共感できるかということは、その人間がどの程度まで宗教的に進んでいるかのパロメーターである。」これなどはヒロシマナガサキチェルノブイリフクシマを経て更に地球温暖化、気象異変の只中、新しい人の新しい宗教?信仰となりうる未来的思索ではなかったか。そして19世紀ロシアは最後にチェホフを据える。氏は、「透明な叡智の結晶体のようなプーシキン的芸術に始まり、一世紀のあいだ荒れに荒れ、乱れに乱れた揚句、また始めと同じ冷たい硬い叡智の静けさにもどってしまう。」と記す。19時のロシアの作家たちはやがて来る無神論的革命の匂いを嗅ぎ分けた。チェホフはドストイェフスキーのようにそれを拒否せず、医師でもあるリアリストの目を通し、「人間が本当に人間であるために」労働し始めると予見した。新生活によって実現した人間の幸福なるロシア世界は、チェホフから12、30年を経て、井筒氏の執筆から約70年を経て、今私たちが目にするのはドストイェフスキー的黙示録なのかもしれない。全ての兵士が大地を抱擁するならば。
2022.10.26
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2022/10/26/水曜日/インディアンサマー昨日はシアターオーブでミュージカル「キンキーブーツ」随分前に予約のチケットはまさかの9列センター(T-T)堪能しました。城田優の足が綺麗!まるでマルレーネ・ディートリッヒだのに上半身はマッチョその相乗効果で、ほんとゴージャスこの上ない。ドラァグクィーンな声、マッチョな渋い低音、繊細な少年のような声、見事三色使い分け「ありのままの他人を受け入れる」それは「ありのままの自分を受け入れる」ことのできたローラ=サイモンからの粋なプレゼントへと昇華される。質実剛健、頑丈な英国紳士靴もイタリアンを受け入れ、職人の技も労働の喜びも、とまぁ鮮やかな彩りが配されていく。脚本も良い。2時間そこそこに、上手に細大漏らさず労働者階級、マイノリティーへの応援歌を歌い上げ。ささやき声でも遠くまでしっかり届くソニンのプロフェッショナルな技も素晴らしい。こういう脱力が難しいのだなあ。お土産はトートバッグ私の名前がKならキーホルダーもよかったかもだけど。
2022.10.26
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2022/10/何某おむすびに入れる昆布の佃煮の買い足し職場から神田川に沿い下る。先に見えるアーチの鉄橋は柳橋この辺りに来ると江戸湾クルーズ屋形舟が何艘か係留しているがコロナからこっち少しく侘しい。柳橋は神田川が隅田川にぶつかる際にあって、その橋の袂には 佃煮の小松屋先だって三越でここのモロコの佃煮を買い求めたところ、とても美味しかった。職場は柳橋と日本橋の中ほど、日本橋よりなのだけどどうせなら本店へ。はら、こじんまりしてる〜お店には一歩以上入れない。でもほしいものがちゃんと置いてある。『かくして彼女は宴で踊る』の舞台である 明治末の洋食屋第一やまとはこの近所と思われるなあ。当時の人が思いもよらぬ変化変節があっても、思いが廃れなければ人の手仕事は継続されうる。小松屋の辺りには昭和以前からの面影和む。柳橋、新橋、向島粋な芸者衆も食べたかしらん、小松屋斜向かいの梅花亭子福餅、おちょぼ口でも一口で、3つ4つ頂いてもくどくないよって口説かんといて?浅草橋駅までの戻り、気になっている毛糸屋さんイトリコ、の場所を探す。本日はクローズド。江戸情緒なチイ散歩でレオの不在を慰める。
2022.10.15
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2022/10/14/金曜日/雨が降ります雨が降る色々あって、前回お稽古からまる一月ほど過ぎ、お教室界隈の街並みも歩く人もすっかり秋深くなりぬる。本日の文言がよい。レオへの花向けなりシロガネは金の艮であるとかや。次回はこれで行書してみたい。教室の壁に掛けられた一幅の絵と文字こちらはキクと文鳥多分に野生味溢れる飼い慣らされていない様子の文鳥まるでレオよ、私のレオキクには墨に銀を流しているらしく、さながら銀菊の袂に佇む文鳥 の風情禅語である文字の意「蚊の子が鉄の牛を咬む」到底叶わぬ事を揶揄するような、そんな意味転じてそんな常識に囚われていては大悟は得られない事をおしえる。らしい。本日のミネラル、銀銀、鉄。目にうけて筆に認め。
2022.10.14
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2022/10/12/水曜日/肌寒い曇り〈DATA〉うぶすな書院 / 著者 三木成夫1992年8月31日 第1刷発行1999年7月10日 第6刷発行〈私的読書メーター〉〈すごく昔からの再読。一億年に及ぶ上陸と降海の脊椎動物の逡巡が読み解かれる解剖学及び発生学の見知。著者ならではの詩的イマジネーションはゲーテの自然観察、元植物?形態学へ。更にイタリア紀行へ、理性と心の南北の位相は内臓と外壁の開放系へ閉じられ系へ。さりなから解剖学から見れば美人の面も所詮は大なる脱肛⁉︎顔面を動かす声を出す筋肉は鰓の筋肉を借りた為、呼吸の為の筋肉は運動系と連動するしかなく、走れば動悸の辛気臭いオカ暮らしのテイ。心臓奇形は海を懐かしむ古代のメモワールだ。永遠に女性的なるもの海のリズムの呼吸〉 蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな 其角の俳句が本文197頁文頭にある。交尾の最中、メスカマキリはオスの三角アタマを齧りとる。かじり取られたオスの胴体が枯野を行く其角の目に止まったのだろうか。植物も昆虫も渾然一体に枯れて、至極当たり前の風景だ、と。果たしてレオの死はどうだったろう。5月の血液検査では15歳とは思えぬ、若い値と獣医に褒められたが、夏に視力を徐々に失い、背中の毛だけ芝を刈ったように長方形の形で伸びず、リンパが腫れ元気が無い。胸騒ぎがしてかかりつけ医に見てもらう。血液検査だの生体検査だのして、ようやく10日後にはっきりリンパ腫であることの結果を知る。その間にもステロイドに加え輸液や針治療、ミネラル、漢方薬まで投与した。ステロイドの副作用で食欲が戻りお水をよく飲み、食べた分元気な様子だった。これなら1月のお誕生日までいけるのでは、と淡い期待を持つ。ところが月曜朝ご飯を残し、夕飯も食べない。火曜日朝になるとお水も飲まないまま、外のデッキに何度も出たがり、家の中でも焦燥に駆られたような勢いで家具の下や隅、あちこちをぐるぐる駆けるようにして、夕方には後ろ足が伴わなくなってしまった。レオは〈行かなくちゃいけない!行かなくちゃいけない!〉と猛烈に感じているようだった。その日夜遠く、遠くで暮らす娘も帰省した。ひたすら家族でレオを抱く。何度か叫び声を出す。夜は川の字で寝るが、横たわったレオは何度も駆けっこするように前足と後ろ足を動かす。翌朝も家族でレオをかき抱く。呼吸は大きく胴体を動かし、その度に肋骨が盛り上がる、あるいは小さくなる。それから呼吸が変わり、口元がハフハフと細波を打つようになる。数分とたたぬ内にのけぞるように背中をぐっーと二度伸ばし、呼吸が止まった。レオ!と声をかけると呼吸は無いままに私を振り向く。視力はない。私の顔は目に映らなかったろう。こうして私の腕の中で死んでいった。考えてみればレオは〈尋常な死〉を成し遂げられなかった。死に場所を求める本能に則してやれなかった。人間に飼われている宿痾で。人間の感情が優先されて。それでも野生の、自然の威厳に満ちた死であったと感じる。立派だった、と。レオは肉体からジャンプして魂のエーテルの海に飛び込んだ。ように思う。肺呼吸から鰓呼吸に変化させて。この本を読みながらそんな事をずっと思っていた。エーテルの海をくぐり抜けた先では明るいお花畑があって、お母さんのシャルが待ってくれていただろう。親子で存分に駆けているだろう。そんなに遠くない先に、レオよ、また会おう。水曜日に逝ったレオ土曜の朝、いつもレオのいた場所から、寝言で言うようなワン、の優しい声が聞こえた。その時確かにレオは遠くへ行った。
2022.10.12
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2022/10/06/木曜日/急に寒い、霜月のような〈DATA〉幻冬社/ 著者 宮内悠介副題 明治耽美派推理帖2022年1月25日 第一刷発行〈私的読書メーター〉〈全六編からなる「明治耽美派推理帖」。ベルリンの芸術運動〈牧神の会〉に因み、木下杢太郎や白秋、吉井勇、石井柏亭らの若き詩人画家らが立ち上げた「パンの会」。彼らの会合場所はセーヌに見立てた隅田川両国橋袂「第一やまと」という洋食屋。定例の度に時局に見合った謎めいた事件を解き明かす仮説を立てるのだが、恐らく白秋、啄木、杢太郎、柏木亭、勇らのパーソナリティ再現度が高いと感じられる。しかし核心の種明しは和魂洋才な洋食を給仕するうら若き女性あやの。彼女は一体何者⁉︎は、最終章で明らかに。杢太郎という人間に興味湧く。〉6編の最終回「未来からの鳥」が気になる終わり方だ。回の表紙にはヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」から引用された言葉が記されている。ラール プール ラール芸術のための芸術ベンヤミンの謂は、人類は自分自身の全滅を第一級の美的享楽として体験するほどになり、これをファシズムによる政治の耽美主義化、それに対しコムュニズムは芸術の政治化をもって答えている、と。この言葉の引用が去来させるものとして市ヶ谷の自衛隊員に決起を呼びかける三島由紀夫の姿が浮かぶ。少し遅れて映画「愛の嵐」更に遅れて、プーチンの宮殿が想起された。この章ではおそらく自殺したと思われる陸軍士官学校校長の死と、戦時中にまで東京市にあった細民街の少女の突然死の、およそ縁の遠い接点が暴かれる。そこに絡むのが森鴎外であり、芸術家と医学の間で揺れる木下杢太郎であり、三島由紀夫なのだ。トポスのもつパトス、というべきか、集団が見た同じ夢の怪異今現在私が歩き、目にする風景に、幾層にも折り畳まれた歴史が、見えるものには見えて語りかけてくるように未来からの切実な訴えが、聞けるものの耳には届くのに違いない、という著述なのかなここには宮内氏の、邦夫とは何か、日本は果たして独立国なのか。敗戦後77年、一見国体裁を保ち、法律の元三権分立を果たし国民は投票権を有しているけれど、果たして過半数の人びとが願う国となっているのか?これは私も大いに疑問を持つ。敗戦後、日米協定と、成文化すらされない日米間会議の議事内容だけで陸海空の自治権は骨抜きにされる、そんな国を果たして独立国と呼べるのだろうか。コミュニズムがどうしても肌に合わない三島なら、美に殉じるにはあのような形式を取り、死に果てるしかないだろうし、一定の割合でこのような考えを持つ芸術家もあるだろう。さて、宮内氏。物心ついてから13年ほどアメリカ東海岸で成長した背景があることの意味をつらつらと考えるのだ。
2022.10.09
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2022/09/〈DATA〉道出版株式会社 / 著者 石井紘基訳者 寺村誠一ほか2001年11月25日 初版1刷〈私的読書メーター〉すごいタイトル。分かりやすいデータ満載だし、沢山の人に届く配慮が編集に欲しかった。石井さんは財政規律を研究し健全な国の予算を追求されている民主党議員だったと記憶。白昼の暗殺事件は大変な衝撃で結局真相は闇に葬られたまま。間も無く国葬に付されるA氏との政治家対比をしみじみ考える。宗教法人は公益法人に該当し課税を免れているが、かの旧統一教会が公益であるかは万人の目に明らか。20年以上前の本書データの現在比が知りたい所だが、本文の公益を考えない公益法人の一文は喫緊の今日的問題。法哲学博士であった石井氏を悼む。〉2017年は明治150年となる年だった。この頃から意識して江戸から明治に至る時、日本人の意識全体がどのように変化したのか真実のところを知りたいと焦燥した。学校て習ったものとは随分隔たる歴史は、古代史からして大きく刷新していることにも目が開かされた。それから5年敗戦から77年の2022年経済も政治も学問も言わずもがな、人心の荒廃極まって、市民の暮らしを一番念頭に置かねばならない代理人の議員たちが「今だけ金だけ自分だけ」←こんなキーワードをツィッターで見かけた←の行き着く果ての反社会集団カルト教摂理が指導する日本国の今日の姿ではないだろうか。海の向こうで核の危機が高まり、防衛予算のGDP比率が賑やかでも「身捨つるほどの祖国はありや」?それがなくちゃ、そこに暮らす私たちの中にその灯火が輝いてなくては武器だけあっても、闘うことなどムリ筋。だから愛国教育って、歪んだ歴史観を今更科学の上に糊塗するかのようなご老人たちは、末期の目に平和の世の呪言を映すことなどなかろうものを。この人たちは間違っている。間違いなく間違っている。あれ?このテーゼは成立しない?そうだった。反自然的生き物、人間は間違う。自然はその埒の外にあって間違った人間世を何度も洗い流して、地球はちょっと身震いしたら、また無邪気に自転しながら公転を繰り返すのだろう。
2022.10.04
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2022/10/02/日曜日/日差し強い、金木犀も強い杉並大宮八幡境内のお茶室で鈴木風太郎氏の古琴演奏会へ古琴という楽器について解説があったので、全く初めて聴くのだけど理解がすすむ。古い漢詩や絵画に因み曲が付けられた。 同時発生も多少あっただろうけれど、漢詩の後千年近く経て創られたものも? 音階はミとシの音がないペンタトニックなので、どの音をつま弾いても不協和にならないみたい。全10曲不思議な漢字記号の音符を眺め恐らく漢詩の味わいに合わせそれを音で内省的に味わう印象演者の世界観に共鳴しながらうつらうつらするのが極上のスタイルかなぁ?鹿鳴操 鹿鳴とは美味しいよもぎを見つけて仲間に知らせる鹿の鳴き声が転じてもてなすことを意味するとか鹿は秋の季語でもある、そんな導入酒狂官吏登用に汲々する俗世を離れ、深山に引っ込みお酒きこしめし、確かに酩酊振りの音色秋風詩漢の武帝の望月の世にふと差し込む明子の憂い双鶴聴泉これはよく画題に用いられる。二つの鶴をどのように鑑賞するかが音曲に反映されるらしい。修契吟修契とは春と秋の大掃除の風習とのこと。古いものを払い刷新していく作業は、春と秋の演奏では自ずと趣きも異なるのかな。低く重い音と軽く高い音の掛け合いがそれらしい。お払い後の中休みお茶と和菓子の接待栗餡の大福は幡ヶ谷にある和菓子の ふるや古賀音庵のものだとか。真に秋らしく。続く高山長い。12分。ここで寝落ちする聴衆数名何しろそんなドラマチックさとか構成みたいなものもなく流水高山流水は組で演奏されるケースが多いらしい。当に水の流れを音で味わうかのよう。というか古琴の7弦は水のための楽器かのよう。菅原道真公も古琴を稽古したが流水が弾けず修得を諦めたというエピソードがあるらしい。また空城の戦い?で諸葛孔明が城門の上で演奏したのもこの曲だったとか。レッドクリフでも使われているとか、ポピュラーな曲らしい。離騒文字通り、巷の栄華低く見てという境遇を良しとするヒトの音曲宋玉悲秋宋玉は哀愁をうたう一の詩人だったか?前曲も同一人物作だったと記憶良宵引引も吟も曲の意ラストらしい、秋らしい選曲なんと無しそれぞれに書を読んでいる良夜かなという俳句が浮かぶ
2022.10.02
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今日も脳内と口内は蕎麦とお出汁の香りに惹きつけられるアタクシなのでございます〜❶蕎麦 たかね 中央区 ★初訪問2日 金曜日天ぷら➕十割蕎麦 700円感激の安さ!たかね? たかかねー。蕎麦200gと表示があるのは親切天ぷら、とあるけれどまあ、かき揚げ。かき揚げ蕎麦もあるからこれは大きなかき揚げ?エビとかゲソとかベビー帆立も。これが中々美味しいのである!蕎麦はコシ強く太い、香りはそこまで感じないけど甘みは感じた。チケット購入、トッピング?セルフサービス、蕎麦湯はカウンターのポットという立ち食いそば屋さん徹底的に経費削って、店頭では石臼が回転しながら蕎麦粉を吹き出し、小さなホウキが粉をカップに掃き清めています笑ただねえ、惜しむらくはツユが蕎麦に比して落ちること蕎麦湯が冷えてた。たまたま?落ち着いて頂けない。しかし。持ち金少なし、美味い蕎麦食べたしなら、東京駅徒歩12分ばかりのここ、である。❷手打ちそば 蕎家佳 多摩市 ★初訪問 7日 水曜日 せいろ 930円店名の読み方が判然としないまま、暖簾をくぐる。第3水曜は休みのようで、本日セーフ雨の中やれやれ初訪問店はできるだけせいろ一本。念のため量を尋ねる。やはりグラムで答えてもらうと分かりやすい。少な目だと大盛りにしたいから。こちらは170とのこと。おお!普通にせいろを注文お茶は熱い、蕎麦茶ではない。おしぼりあり。ワサビはまがいものだけど甘味があるタイプツユ、少な目蕎麦は一九割とのこと麺は細めに伸ばして均等に切られている。この界隈でお蕎麦を食べるなら、まあここかしらん。色んな意味で平凡だけど及第点かな?これで930円はやや高めに感じるけれども。例によってBGMはジャズ。何なのかーこのしきたり❸近江屋 新宿区 14日 木曜日 せいろ大盛り 870円新宿でも大久保界隈なら、駅前のこちらに頻繁に寄せてもらう。八二くらいの割合安心の街のお蕎麦屋さん❹手打ち蕎麦 松竹庵 まつ川 千代田区 ★初訪問 /新蕎麦15日 木曜日 天ぷら➕十割蕎麦 3520円この地域はまつや、やぶ、そしてここ まつ川とまあ、神田らしい蕎麦激戦区。お昼にコースのたっぷり4.50分はなかなか縁遠く、ようやく訪問。偶然入れたけれど予約必須アントルメがあり。そばがきのカボチャポタージュハナに車海老、小茄子、アオリイカ茗荷、モロッコインゲン、最後の白魚のシソ包揚げ!すごく美味しい。満足の後、十割新蕎麦来る十割蕎麦だけど、水の調整が上手にかあらん。モソモソせずコシも香りも清新のおいしさご馳走様でした!因みにお任せはプラス1500円くらいで上等ネタが三品ばかり増していたような❺手打ち蕎麦と和食 楽 渋谷区 ★初訪問 /新蕎麦21日 水曜日 せいろ大盛り 1210円こちら代々木上原東口の昔からの商店街方面、ビルの3階なのでちょっとキョロキョロ探す九一の手打ち蕎麦中々美味しい。ただし120gなので大盛り頼むと千円をサクッと超える。これなら丼ランチの方が割安かな?大将は神戸の方らしくオネギは白ネギでなく、九条ネギというのも初めて。蕎麦湯がトロミつけすぎ、私はあっさりが好き駅から近いし、和食も期待できそうなので夜が楽しいかも上原にはこんなお蕎麦屋さんがもう一軒、また夜だけのお蕎麦屋さんもある。
2022.10.01
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