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2013.06.25
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カテゴリ: 竜馬とゆく
【竜馬とゆく(竜馬がゆく/黒船来)4】
20130625

『あたりまえです。わしは船がすきだから好きなものを見にゆくのに命をかけてもよい。』

決死隊の覚悟をもって黒船見物に出かけようという竜馬、見つかれば即 切腹である。
「ただ見物するだけで切腹をお賭けになるのでございますか」
千葉さな子はたまらず竜馬に詰問する。それに答えたわけだ。

好きなことは命を賭しても打ち込むのが竜馬流である。
そして「好きなこと」は自分が「信じること」でもある。
この先、竜馬は「信じること」に、文字通り命をかけることになり、いわばその暗示ともとれる。

いずれにしても、竜馬好きはこのあたりに情緒を刺激され、どうにもたまらない気分にされるのだ。
命をかけて好きなこと(信じること)をする。
それを問われたら「あたりまえ」とただひとこと。多言は無用、そして間髪をおかず。この乙なあんばいに、竜馬好きは男気を感じてしびれるのである。


その談志氏はいう。
「志ん生のアレが聞きたくて寄席ぇ通ったんだから。アレがたまらねぇんだよねぇ。」
文字にするとあまりに陳腐だから「アレ」については書かないが、落語のマクラのほんのひと言である。
とはいえ!
ダンシガシンダ、ではなく、ダンシガシビレタ、じゃ洒落にはなりませんがね(笑)

談志氏、溢れんばかりの情緒というわけだ。竜馬好きもまたしかり。

話をもどして黒船。
黒船来襲で各藩士は暫時藩邸待機となる。武市半平太は、まず時に備えて兵糧の餅を用意した。空腹の竜馬はそれを失敬するのだ。

『竜馬は終生、餅はあくまで餅にすぎぬ、という考え方の持ちぬしだった。腹がへったときに食えばよい。』

徹底した現実主義の竜馬に対し、半平太は理想主義。兵糧を『武士のたしなみでもあるし、精神(こころ)じゃ』と考える。
この現実主義者と理想主義者はやがて己の道を進むわけである。その道の評価は別にして結末だけ見ると、理想主義だけでは虚しいという「歴史的事実」が残るのである。

ただ、ここのくだりでは、竜馬は現実主義者ということだけではなく、理想主義も理解し受け入れている(本人も大いなる理想を持つ)という、行間も読まなければならない。

必要なものは理想と現実のバランスであり、竜馬はそのバランスに富んでいた、ということなのである。

それにしても、餅をただ餅としての意味だけしか認めない(すなわち空腹を満たすもの)竜馬の感覚は、山頭火の金銭感覚に似ている(汗)
情緒もそうであるが、これは達観とか身についたとかいうのではなく、その人のトーンとずば抜けた部分とでも言おうか、何か特殊な感覚である気がする。
そして両者に共通するのは、周りにそれを理解し愛する人がいたということ。それがなければ、ただの変人になりかねないのだ。

ところでこの章には作者 司馬遼太郎の、世間でいうところの「司馬史観」を見ることが出来るので、逸脱するが記す。

『当時の日本人は、きわめてまれな例外をのぞいて、たれも海外知識をもっていない。むろん、三百年の鎖国という社会の環境がさせたことで、日本人の無智によるものではなかった。』


つまり、司馬さんが歴史から物事の本質を見抜き、その見識と知識によって人生で起こった問題を、徹底的に冷徹なまでに解決(検証)して説いたものこそが「司馬史観」であると思うのである。
問題とは司馬さんが人生(現実)で感じた疑問や憤りや喜び等である。それを司馬さんが解明する。平たく言えば「経験論」ということだ。ただし、膨大で深甚な資料と豊富な体験に基づき、極めて客観的かつ中立な立場で語った、有史上類稀にみる「経験論」であると断言してさしつかえあるまい。

上記の一文はこういうことだ。
ここに綴られた歴史を考えるとき、それは学校社会で学んだ歴史的な見方なのだが、我々は「江戸時代に日本人は海外知識を持っていなかったのだ」と事象のみを見て、感想として「我が先祖はなんて無恥だったのであろう」と判断をしてしまうことがある。
『三百年の鎖国という社会の環境』においては、智恵を認めず「野蛮で閉塞的」という感想に至ることであろう。
「司馬史観」はこうである。
歴史のひとつの事象は物事の枝葉末節にすぎず、それは偶発的な事柄に過ぎない。いわば晴れたか雨が降ったかと同じこと。肝心なことは、それがどうして起こったか、ということなのだ。
つまり、なぜ海外を知らないのか、を考えるとき、鎖国がどうして起こったのか、ということなのである。当たり前のようなのだが、それこそが本質であり、そういう思考から遠いのが現状ではないか。
また、それが昨今の「自虐的歴史観」の正体ではないであろうか。

たとえば司馬作品の読者なら、熱いものがこみ上げた経験があるはずだ。
それこそ、作者が人生で起こった問題(それは実社会であり現実そのものだ)を、徹底的に冷徹なまでに解決(検証)して導き得た結晶体であり、司馬史観の元なのである。
作者の、現実を直視するときに伴う苦悩や苦痛そして悲しみを感じれば、作品の一言半句も疎かにはできないのである。

20130124aisatsu





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最終更新日  2013.06.25 06:45:47
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