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2021.11.14
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カテゴリ: 要約

第十回


 「私は」10歳の男の子を女手ひとつで育てるシングルマザーである。親子二人で食べていくため家政婦として働いている。
 今回、家政婦紹介組合から派遣された先は、ワケありだと予想がついた。私の前に派遣された九人もの家政婦らが次々とクビになっていたからだ。
 派遣先は六十四歳数論専門の元大学教師(博士)のお宅だった。面接の対応をしたのは博士の義姉に当たる老婦人で、母屋に住んでいた。(博士は離れに住んでいた)
 聞けば博士は十七年前に交通事故に遭い、それ以降、記憶が不自由であると。認知症とは違い、脳細胞は機能しているが、事故当時以前の記憶はあるものの、それ以降の記憶はなく、新たな記憶を積み重ねようとしても八十分しかもたないとのことだった。
 博士は、昔は美男子だったに違いないと思わせる顔立ちをしていた。だが、数学以外には全く興味がなく、自分の見かけにはこだわりがなかった。毎日三着の背広を着回しているだけだった。
 背広のあちらこちらにメモ用紙がクリップで止められていた。八十分の記憶を補うために、忘れてはならないことをメモしていたのだ。

 私は毎朝、博士のお宅に出勤すると、いつもの通り自分が何者であるかを名乗るところから始めた。勉強中ではない博士が話題にするのは、専ら数学のことばかりだった。友愛数の話や美しい証明の公式についてだった。
 博士から教えてもらいながら折り込み広告の余白に計算することもあった。そのひとときは苦痛ではなく、博士は優しさに溢れた口調なので、むしろそれを楽しむことができた。
 ある日、博士との何気ない会話の中で、私の息子が家で留守番をしていることを話すと、博士が動揺し出した。たった十歳の子どもが孤独に耐えながら母親を待つのは良くないと言った。今後は子どもも博士のお宅につれて来るようにとのことだった。

 博士はルートの「ただいま」と言う声が聞こえると、どれほど数学に集中していても中断し、ルートの算数の宿題に付き合った。分数や割合や体積を、それはもう見事なやり方で教えてくれた。
 ルートはタイガースファンでその帽子を被っていたが、果たして博士も江夏豊のファンで、それもあってなのか話が合った。
 私は博士の記憶障害についてはすでにルートには話して聞かせていた。そのためルートは現役時代の江夏は知らなくても図書館で情報を調べ上げ、博士と同じ記憶を共有することに成功した。それもこれも博士がパニックに陥らないための、子どもなりの思いやりだった。

 ある時、私はサラダ油を切らしていることに気付いた。わずかな間でも私が買い物に行くと、博士とルートの二人だけになるが大丈夫だろうかと思った。いつもはそんなこと気にもしないのに。
 虫の知らせというものなのか、その日はなぜか不安を感じてしまった。案の定、二十分ほどで買い物を済ませて帰ってみると、ルートが手から血を流していた。博士はそばで満足に喋ることもできず、動揺している。
 ルートはおやつにリンゴを剥こうとして切ってしまったのだ。博士は自分の責任だと言って主張するが、ルートはルートで自分が勝手にやったことで博士は悪くないと言い張った。
 結局、思いのほか傷口が深いことを心配し、病院へ駆け込むと、二針縫ったことでふさがった。博士は自分を責め続け、汗と鼻水と涙で顔を濡らした。不幸中の幸いなのは、翌日にはすでにこの一件も博士にとっては忘却のかなたであることだった。

 五月になると、私たちの住む町にタイガースが遠征して来るのを知った。対戦相手は広島だった。日ごろ贅沢を知らない息子と一日中数の世界に浸る博士に野球の試合を見せてやりたくなった。
 三人で出かけた野球観戦は、少なくとも私にとってはとても特別なものとなった。後年、私とルートは折に触れその日のことを思い出しては語り合ったが、博士にとって喜ばしいものだったかどうかは自信が持てなかった。もしかしたら母子二人の単なるお節介を働いただけの、自己満足に過ぎないものだったかもしれない。
 ルートの十一歳の誕生日は、博士も含めて三人でささやかなお祝いパーティーを楽しんだ。博士はルートにグローブをプレゼントしてくれた。ルートは大喜びで博士にキスして抱きつかんばかりだった。博士といえば、そのようなことに慣れていないせいで、どうしていいのか分からないようすだった。

 博士が専門の医療施設へ入ったのは、それから翌々日のことだった。博士のお宅で家政婦としての勤めは終わってしまったが、私とルートは友だちとして博士に会いに行った。その訪問は博士が亡くなるまで何年にも亘って続いた。その間、ルートは中学、高校と進み、大学に入って膝をケガするまで野球を続けた。

 ルートは博士の腕を取り、肩を抱き寄せた。
                    (了)



なお、次回は 



を掲載予定です(^_-)
みなさま、こうご期待♪

20130124aisatsu





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最終更新日  2021.11.14 07:00:04
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