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フェリー甲板の上から太陽が昇るのを見ていた。この1週間、北極圏にいたため、太陽を見ることはなく、懐かしい感じがした。飛行機で1時間、ヘルシンキまで南下してくると、季節も気候も変わった。それでもまだ零下であるため、海から水蒸気が浮き出し、幻想的であった。ヘルシンキからバルチック海を70キロを4時間かけてエストニアの首都タリンの陸地から延びる尖塔が4,5本が見え始め、やがて港に入る。 長いイミグレーション。そのあと、両替で日本円を出すと、奥から日本円をパンチされて挟まれた1万円を持って来ても比べていた。女性銀行員は1万円がこんなに価値があるのかというような顔をしていた。 陸地に足を踏み入れ、タクシーに乗れば中心街はすぐであったが、徐々に近づく愉快のため、ゆっくり尖塔まで歩いていこうという気になり、それも直線で歩いていったため、雪でぬかるんだ道を、線路を横切り、倉庫を横切り、大通りを横切った。 スーパーマーケットに入ると、ヨーロッパよりかなり物価が安いことが分かる。石畳に入り、行き交う人が増える。女性は美人が多く、男性はイスラム顔が多い。バルチック海の向こうのフィンランド人は、背も高く機能的な顔をしており、何か美人もそうでない人も極端な人は少なく思えたのに。 数年前にソ連から独立したばかりというのに、その若々しさや活気というのはなく、町並みは、パリやミラノ、アンダルシアという感じだが、この歴史地区、懸命に残しているというより、何となく中世のまま、何となく残ってしまいました、という感じであった。 そして、行き交う人々が、珍しい東洋人に振り向く。こんな視線を感じるのは久しぶりだ。 ヨーロッパではタバコは高いが、100円(10EEK)だったので、かってみると、両切りかと思いきや、底のほうがフィルターになっていて、不思議な感じであった。
2010.07.31
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こんな僕でも学生時代の同輩や後輩などが存在するのだが、いやはや、同輩が外資系投信会社を辞めるとのことであった。早速昼飯を食うことになりインタビューである。トイモイ「年収3000万蹴って、って良くあるクビかい?退職パッケージAプラン?」トモダチ「自己退職や。クビにしてくれゆうてんけどなあ。あかんかったわ。もう10年も勤めて疲れてもたわいな。ネパールにトレッキングや。ドイツ人上司と、揉めたわ、俺の社内点数が下がるやないかと」トイモイ「アア、ヘッドハンティングされる思われたんやな」トモダチ「ああ、そうや、ネパール行くんだというと、上司はハハハハと笑って、直ぐに真剣な顔になってそんなアホな、うそつくなと更に険悪なムードになったわ」トイモイ「そらクビやったら、退職金上乗せの翌日クビのプランAやろなあ。退職金は減るが次の就職まで在籍中ということになるプランBよりええわな。でも自己都合ならプランZだな。まあ息子も学生やし、あ、下の子は小学生か」トモダチ「いやあ、とにかく、来月は1人山合宿して、再来月にはバンコク経由でネパール3ヶ月行くけど、どこで、今やったらチケット買ったらええかな」トイモイ「まあ、バンコクからやったら格安航空会社出てるからな」トモダチ「バンコクで何しよかなあ。そやなあ、20年ぐらい行ってないからなあ。行きたいところないし、カオサンとかどないなっとん?」・・・ひととおり、私も分からないままここ20年のバンコク事情(空港が変わったとか、タクシーのほうがトゥクトゥクより安いとか、スカイトレインや地下鉄が走って移動が便利になったとか説明。トモダチ「まあ、、お互い、学生時代は何ヶ月もバンコクやタイにいたのに、会ったことないな。今度、バンコクで待ってるわ。」トイモイ「じゃあ、休みに行くわ。ところで(後輩の)Mなんじゃ、仕事1ヶ月も休んでるらしいやん」トモダチ「目の手術したみたいな。しかし、日本の大企業はええのの。1ヶ月も休ましてくれてよ。ビール会社もうかっとるわ」トイモイ「それでもこの前、アホみたいにマンション買いよったからな。だいたい会社が家賃補助9割ぐらいしてくれて20万の家賃のところ2万で住んでたらよ、定年まで普通その分貯めるやろ。アホちゃうか」トモダチ「そら俺の家と同じや、子作りしたら次は巣つくりや、経済的損得なんか関係あらへん。賃貸ということが我慢ならんようなってくるんや」トイモイ「まあ、そしたら、とにかく、近々、緊急ミーティングやな」トモダチ「そしたら、おれ、もう仕事する気ないから、帰るわ、じゃな」まあ、大きい声では言えないが、まあ、結局は、のミに行こうぜって単純な話。
2010.07.30
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新聞、日本の技術的優位、ビデオショップ、余裕・・・そういったものがなくなっていくと聞いたり本で読んだりしたことはあるが、(本も電子化されるのか?)みかけなくなったものって何だろう。 野良犬や野犬・・・といっても、さすがに、私がガキの頃には、街には野良犬はいなかった。しかし、裏山には野犬がおり、結構竹棒などを持って歩いていたものであった。近くの年長の悪がきは、バットで野犬を撲殺したことがあるという噂が流れており、皆からびびられていた。中学校の時、理科の先生が戦後の子供時代の野良犬狩りのおっちゃんの話をしていた。そのおっちゃんは、顔が溶けており、鼻がなかったといっていたが、それは梅毒であろう。おっちゃんは、いつも、1人で行動をしていて、輪っかを作った針金をいつも持っており、うまく、野良犬に近づき、首にワッカをするっとはめ込み、締め上げる姿が怖かったと言っていた。そういえば、カルカッタのゴミ置き場で、野良犬と乞食のばあさんの壮絶な食糧の奪い合いを見たことがある。おばあさんは負けた。ハイウエイカード・・・使ったことないけど、コレ情けないよね。偽造を防止できなかったから廃止しちゃったんだよね。鼻たらしているガキ(ジャンパーの手首部分がテカテカ。)・・・私ではないが、私も小学校の時、ジャンパーを着たまま、寝て起きて、下着だけ代えて。今の子供たちは綺麗だね。衛生良すぎたら、とってもヨワッチイ体になってしまうね。カタツムリ・・・食べ過ぎたのかねえ。ワープロ・・・1987年、ついに初めて、3列しかないワープロの購入。それから10年ほどの間にワープロを3回ほど買い替え、遂にMACを購入、ダイヤルアップでネットを始めたんだねえ。先日、仕事先で、データをメールしてもらったら、一太郎で、開けませんでしたと。黒電話。ポケベル・・・使ったことがない。何だか、歌謡曲で「ダイヤル鳴らして」とか「ポケベルがならない」とか、もう今の10代は分からないよねえ。子供に怒鳴る近所のオッサン・・・よし、代わりに俺がなろうと思いたいぐらいに、結構、最近、子供を甘やかすだけの無駄な親をよく見て、ちょとだけヤレヤレ気分になる。でも、他の一般人と同様、逆切れされたら、困るので、俺のギリギリのところに来るまでは黙っている。そういえば、中学生のときに、琵琶湖ほとりでキャンプしていて、近くの公園のブランコを占領していたのだが、幼子を連れた893がやってきて、「オイ、ボン、代わってくれんか」と言われて、「ハイ!」と速攻で返事をして交代したな。缶蹴り・・・缶がなくなったのか、いやあるな、分別するからか、いや、路上で遊ぶ子供を見かけなくなったというか。蝋石でアスファルトに落書したりサボテンゲームしたりしたものだが、今は、車に轢かれるようになったのかな。ドッチボールをしたりも見ないな。ドッチボールのボールがドブに落ちて、それをそのまま使い、胸で受けて吹くがドロドロになり、まあ、キッタネー餓鬼だったんだよな。まあ、土管もないし・・。ナメ猫。ピンク公衆電話。フロッピーディスク。自動車電話。三角パックの牛乳。扇風機についた紐。250ミリリットルの缶ジュース。赤チン。ワンレンボディコン。偽造テレカ。ボンボンベッド・・・あかん、とまらんじゃん・・・。 そういえば、来年から地デジになるそうだが、何故なのか。まあ何故なのか、何が問題なのか調べてもないけど。まあ、間に合わないよね。ははは。全国から苦情来るか。もうテレビ見るのやめたら、ははは。そういえば、コロッケ部屋からなくなりました。
2010.07.29
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今まで何度か書いていることではあるが、組織編成が変わって、変わって困った良く分からん、大変だという中で、なんだか、別にあまり変わってないというか、変わって楽チンになったような気もするぞ、とノー天気に思ってしまっている私であるが、そのうち、ギャフンと言わされるのではないかい、とも思うのであった。 赤ん坊というのは、他者との区別がつかないような感じだという。他人も自分の寝ているベッドも、自分の見えている世界も全部自分とつながる自分自身であると思っている、つまり万能感という言葉でよく言われる。人は育ち、自分と自分以外の世界があることに気がつき、やがて、喪失していき、取捨選択しつつ、ダメだ、アカン、デキナイ、軽い重いは分からないが挫折感を味わいつつ、オトナになっていくようなものだ。そうだろ? それが、才能も、いくらあっても、その道のプロになるのは厳しい。東大行っても、もっと賢い奴ばかり、東大トップクラスで出ても、出世競争に敗れる、甲子園で優勝した、でもプロになれるか、プロで1番・・・・オレは、やりたいことをいつまでも夢見て負わせる親の気持ちがあまり分からない、本人がそう思うなら、いつか後悔しても挫折しても、それなりに成果はあったというものだ。 子供というのは、残念ながら、親に育ててもらっているので、成果をみせようと頑張る。虐待受けてもメシ食わせてもらっているので、もういいよ、出て行くよというわけにも行かないし、思いつかない。最後の最後に、親に殺される時、子供は、「ああ、やっぱりな・・・」と思いながら死んでいくんだろうなと思う。 私は、時代もあるし、何せ、うまい具合に、親は、自分たちの戦争の終わった田舎暮らしの時代と俺らのニュー都会生活、進学率アップの世界とは、もう時代が違うと感じてくれていて、一切、教育に対しては何も言わなかった。親の時代は、金持ちの中でもまた一部のエリートしかいかなかったので、眼中になかったし、母親も高校トップだったらしいが、「あんたおにいちゃんも大学イカンと家の商売継いでいるのに、女のあんたが大学なんかいってどうするの」と親(私からはおじちゃんおばあちゃん)に叱られたそうである。 そんな中、現在、親の期待に或いは、親の出来なかったことの夢を託されて挫折した子供が登校拒否になったり、あげくに、傷つきたくないがために、引きこもっていく人も多いだろう。それに、インターネットとの親和性は高く、インターネットは、他人から文句言われることもなく、バーチャル万能感を味わうことができる。 引きこもりに、今なったら、食えないので死んでしまうのでならないが、年老いていく親の年金で、確かに食うだけなら同居して生きていける時代ではある。自分だけ置いていかれるような気がするので、誰とも会いたくないし、文句も言われたくもなく、指示指導叱咤激励されたくない・・・・そうだろうなと思う。 高校3年も終わる頃、オカンに言われた。「アンタ、いったいどこの大学受けるつもりや」と。「そうか、自宅から国公立行くのが第一希望か・・・まあ、最悪東京下宿の私学の医学部行くゆうてもお金の覚悟してたけどな」といわれたときは、さすがに、感謝した。
2010.07.28
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昔、砂漠でラクダを乗り回したが、さすがに、日中は歩けば死ぬので、朝方と夕方だけの移動であり、昼間は木陰で休息であり、だらだらしているが、休息時間は日中なので長く、気温は53度であり、汗は、即、蒸発で、かかないのであった。温度計は、メモリが55度までだったので、日なたには出せなかったのである。風はあるが、エアコン室外機の温風を顔面30センチから当てられているような感じであった。 それでも、最近、暑い。毎年こうだったか忘れてしまったが、沙漠の夜は灼熱の昼間と違い、風が吹き荒れ、毛布をかぶらなければならなかった。それでも、沙漠で、毎晩、煙を吹かし、月の砂漠ゴッコをしながら、朝目覚めれば、砂で顔の10分の1は埋まり、目を開けた瞬間に目の前10センチに糞ころがしがいるのであった。わっと私が叫ぶと、糞ころがしはビビリ、丸めた糞を置き去りに逃げていく。 しかし、今宵も熱帯夜である。昔は暑くてもいいや、汗だくで寝たらいいやと思っていたが、今や、翌日の仕事に差支えがあるほどになってしまっては大変である。3日前からタイマーで除湿で寝ていたのであるが、それでも暑く、27度設定で冷房かけて眠ったのであった。何せ、一応、家にあまりいないため、まだ、電気代は2000円台である。一戸建てに住んでいた頃は、電気代ガス代が10000万円を越えていたが、あ、1万円だな、もう少し払う余裕は俺にはあるよな、と慰めるのであった。しかし、1人住まいなら、エアコンもったいないと感じてしまうのはなんだろうか。 さて、休日になった。何を隠そう、東京に行く予定であったが、朝起きたら、やっぱり暑いので、やめた。もうちょっと涼しくなってから行こうという軟弱な思想に流れつつありながら、蔦谷で100円だったんで、DVDを借りてきて、朝から晩まで、冷房かけて、ベッドでダラダラしてみて、そして、冷房代も1日中だともったいないので、歩いて3分のスーパーに、本を持って出かける。 動かないので食欲も湧かないが、休日なので、わざわざ食べることもないだろう、腹が減れば食べよう。何と合理的。
2010.07.27
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プエルトリコ・・・大学1年のときに、何でも見てやろう(小田実)を読んだら、やたらアメリカにはプエルトリコ人がいるということを知ったが、正確には国ではなく、植民地である。アメリカには植民地の種類も3つあり、プエルトリコは自由連合州だそうだ。グアムとかは準州、米領サモアなんかはそれ以外ということらしい。そのうちここには、独立するまでには行くだろうとは思いつつも、アメリカのおかげでなんだかんだいっても、同じカリブ海諸国よりも国民所得が高い。(隣のハイチの20倍らしいが、地震でもっと差がついたのでは?)まあ、アメリカ資本が押し上げているだけかもしれないが、外交軍事はアメリカ連邦政府担当だが、内政の自治権は一応もっておるので、フリーライド的になっているところもある。おまけに、アメリカ本土に簡単に行けるので、国力はなくなっている。ほら、アメリカでのスパニシュハーレムっていうやつね。独立したらアメリカいけなくなっちゃうジャン働けなくなるじゃん、ってことで、当分独立はなさそうである。アメリカ大統領選挙などの参政権はないけど、連邦税金もないどころか、小浜があれだけやろうとしていた健康保険制度が何故だかこの国にはあった。さて、観光には何があるのか、ウーム、それは分からんが、カリブだろ!ソマリランド共和国・・・国家破綻して、海賊の跋扈するソマリアとは違い、その北部にあるエチオピア側にある国であるが、独立国家としては認められてはいない。しかし、ここは、選挙が正しく実施され、かなり平和で経済発展していて、自国通貨も流通させている。これぞ、アフリカの将来を担う国のひとつといいたいところだが、独立を簡単に認めてしまうと、おれもおれもオレの国も~となるのを恐れている欧米諸国は認めるつもりはないらしい。スバールバル諸島・・・この島のことはテレビで見たことがあった。ノルエーの北にある島の3分の2は年中氷で閉ざされた島ではあるが、条約により、好きな期間だけ勝手に住んで商売してもいいよ、という不思議な島なのである。確かに住んでいる日本人を特集していたのだが、何かあったら、ここに逃げ込むか、アザラシや鯨見学者ツアーコンダクターでもやるか、って感じか。あ、北欧はまだノルエーだけ行ってないし。最後に、モルジブ。・・・行こうとしてなかなか行けてない国である。1000以上の珊瑚の島があるのだが、観光客は空港までホテルが迎えに来るという隔離システムであり、空港は空港だけの島で、ホテルは1島1ホテルと決まっており、リゾート地以外のところに行くのは大変である。首都マーレは人口密度が世界最大級で、イスラムの世界であり、観光客が行くようなことはない。まあそんな感じで、ふらっと行くことができそうにない、予約ちゃんとしてないと行けない、なかなか遠くて遠い島である。
2010.07.26
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夢のネパールのポカラと違い、インドのポカランは、地獄というか、正に捨てられた地である。ラジャスタン州にある砂漠の原爆実験場である。 ポカランは、ラジャスタン州の入り口、ジョードプルから沙漠の真ん中の城塞都市ジャイサルメールの途中にある都市である。 朝6時、我々は、ジョードプルに到着した。我々というのは、デリーで8月10日に集合する予定であった大学の同士と後輩2人で、これからラクダ乗り回しのツアーを日本で練ってきたのではあるが、チベット経由の陸路で来た私が集合日時に1週間遅れ、デリーで残りのメンバーを探し出し、そして緊急ミーティングと称して、毎晩ネパール製商品の消化に勤しんでしまっていたのであった。何せ情報によると50年に一度の旱魃といい、デリーのインド人に相談しうると、テリブルと一言だけの役に立たないアドバイスを受けるのであった。そんな訳で躊躇している間に、更にデリーで1週間無駄に過ごし、やっと砂漠地帯ラジャスタン州にやってきたのであった。夜明け前で涼しく、原色のサリーが幻想的で美しく、黄色や赤が視界から揺れて流れ、スピードシャッターを間違えた写真のようであった。 ここから300キロほど離れたジャイサルメールまでの列車は、1日、1往復夜発だけであり、こんな感じならバスで行こうかという安易な発想となり、バスステーションに移動し、窓のないバスを見ると、空いている空いている、出発時には、我々4人しかおらず、我々は、貸切じゃあと満面笑顔で笑いながらバラバラに座ったのであった。 8時30分出発。しかし、5分、10分と走ると、人は乗り込んできて、あっという間に満席となり、熱射が吹き荒れ始めた。私の横にも赤ん坊を連れた女性が座り、赤ん坊が、ジャアーとオシッコを漏らし、私は大声で、オシッコかけられた!と叫ぶと、後方の同輩も、オレモジャー!と叫んだ。勿論、親の女性は無言のまま。まあ言葉が通じないのは仕方ないが、全くの無視かよ。 やがて、屋根の上にも現地男性が乗り込み、ガンガン温度は上昇し、砂漠を突き抜けていく。バテバテで、砂嵐が車内にも吹き込み、大変やばい状態にやってきた。15時。ポカラン村に到着。持ってきた温度計を見ると、日陰なのに、43度を示している。我々4人は、へたばった。インド人50人ぐらいに囲まれ、質問攻めに合うが、我々は暑さのため思考能力どころか言語能力も失いつつあり、オマエ相手しろ、オマエがしろやと、先輩後輩関係なく、交渉(でもないけど)話し相手の醜い擦り付け合いをするのであった。とにかく、好奇心旺盛な田舎インド人の中でもエリート然としたオッサンが、英語で質問し、皆に通訳し、いちいち鬱陶しいのであった。それにしても、ジャイサルメールまでのバスチケットを購入しなければならないが、チケット売り場が、10メートル先なのだが、その間に日向があり、強烈な太陽が照り付けており、我々クソッタレ文明人は、民主主義的にジャンケンでチケット買いに行くメンバーを1人選出したのであった。そこでジャンケンに負けたメンバー中最もプレッシャーに弱い後輩Kが、じゃんけんに負けただけなのに、「何で僕が買いにいかなきゃいけないんですか!」と切れた。(実は、逆切れという言葉、流行るまでにまだ10年は待たねばならなかったが、我々は、この時、不意に、オマエ何逆切れしてんねん、と逆切れKという「あだ名」までつけてしまう、流行り言葉の創始者となっていたのであった)何とか、オマエジャンケン負けたからやろ!と10メートル先までチケットを買いにいく行かないで揉めに揉め、ええ加減にセイと、ケツを蹴り上げ、やっと渋々逆切れKはチケットを買いに行ったのであった。またバスは出発し、今度は結構空いていた。しかし、もはや、暑さと埃砂まみれで頭も少々、バカになっていた。沙漠の村を通りがかったときに、砂の上に冷蔵庫を発見した。私は、叫んだ!バスの運転手に「ストップ!!!」と。バスの運転手は何だといって止まり、私は走った。私の後ろから3人とも走ってきた。そして、沙漠の道端の砂の上にある冷蔵庫を開けた!空だった。何だ!待て、この村、電気も来てないやないか!これは何だ!というか、バスまで止めてこの堕落は何だ!うなだれて、バスに戻る。冷蔵庫まで向かう中、頭の中でストーンズのシーズレインボーが流れたのであるが、とぼとぼバスに戻る2,30メートルは遠く、リストの死の舞踏が流れるのであった。 バスは出発し、ジャイサルメールが近づきつつある頃、乗客は、我々4人になり、無口になり、喉が渇き、体中が砂と塩だらけになっていた。そこに飛び乗ってきたのが、客引き。スゲエ、走っているのに、何かをバスが轢いた、ドンという音がしたと思うと、開きっぱなしの昇降口からインド人が乗ってきたのであった。しかし、他のメンバー3人は、全員口を揃えて、私の方を指差し、あいつがリーダーだからアイツと交渉してくれと静かに客引きを無視しるのであった。どうやら旱魃で、客引きを大変なのである。都合3回ホテルを変えたが、どこも泊まっているのは我々だけなのであった。しかし、私も待て!到着してからだ。と答え、五月蝿いインド人を無視するのであった。 19時40分、ジャイサルメール着。インド人客引きが動き出すが、我々は、そんなのあとだ!といいレストランに直行し、リムカ2本合計8本!と頼み、イッキ飲みし、ようやく、客引きと初めて交渉開始するのであった。地図(赤線は行ったことあるところ)
2010.07.25
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そんなこんなで今週は、引越と制度変更と粛清の日々なのであった。しかし、自宅は相変わらずダメなままで、1冊の本が必要となり、10分ぐらい探していると、汗が噴出して目が見えなくなりそうになり、仕事時間も探し物、プライベートも探し物、人生も探し物である。ニエット、ニエット。 自宅のファックス用紙が切れた。いやはや、5年ぐらい変えてなかったような気がする。随分、何でもかんでも、ねっと、メールでの対応となり、いるのかいらんのか分からんといいながら、定期的に仕事で送信したりはしていて、何となく使ってはいるのであった。それでも、何だか、紙切れがやたら懐かしい気がして、神切れた。 我が家の郵便受けは不要チラシで一杯だ、ほとんどもう入らないが、郵便局員は無理矢理ねじ込んでくれる。しかし、新しいチラシは、この家誰も住んでないなと勘違いするのか、この家の人絶対チラシ見ないよな、と思って入れないのか、随分無駄チラシは入らなくなってきておる。ただ、敵もさることながら、チラシを入れるのが、チラシ一枚一枚を自分の商売道具として、命かけてんだと思っているような従業員ならあれだが、1枚入れて、なんでもいいから撒いてナンボの世界のバイト君が撒くチラシは、魂も入っておらず、無理矢理、チラシをねじ込んでくる。ちなみに、会社も何故だか、個人郵便ボックスが備え付けられ、困ったことに、全然、まだ何も今週オレには届かなかったという訳で、キレイである。 木曜日の夜は、送別会で、真夏にお似合いのシャブシャブである。オーモーニクー!といいながら、3切れぐらいであとは、結構野菜食っているだけであった。高い肉にしか反応しなくなった己が恐ろしい。おまけに、味音珍なので、値段を聞くと、更にうまいまずいの判断が変わることが恐ろしい。おまけに、安いのに、値段の割りにやたら道理に叶っている味なら、ウマイと感じてしまうところも恐ろしい。その前日、いつでも、直ぐ寝てしまう私なのに、別に読書に没頭していたわけではないというのに、何故だか、暑さのせいだとおもうのだが、1時にベッドに入ってから、3時間たってもまだ本を読んでいたのだから、良く分からなく、もしかして前日、11時半に寝てしまい、8時間も眠ったために、本日は睡眠時間2時間半となってしまっていたのである。そして、そうやって、シャブシャブでヘロヘロになりながら、2次会も何故だか、数人でHUBに行き、やっちまい、帰ってきてから、暑さもあり、水を一気に1.5リットルも飲んでしまい、そのままベッドに行って、本を読んでいると、週に2度はある電気つけっぱなし睡眠の刑となり、3時間後、膀胱が破裂寸前で目が覚め、いつになったら小便終わるのか、と思うぐらい長い間、出続け、朝方もう一度トイレに行き、朝起きてから、また漏れそうになって起きたのであった。 さて、仕事も今日もパソコン閉まって机をきれいにして帰れよ、さて、モノを探したり仕舞ったり、忙しい一日であった。オマケに、昼間出かけて、事務所に戻ってきてからも、半熱中症というか、夢遊病みたいなまま、昼間出かけたとき、イミナク、スーパーマーケットの冷凍食品コーナーに行き、物色する不審な背広男となるのであった。何だか、今年の冬のヨーロッパでいみなく、暖をとるために店に入ったのと状況が変わらないよな、って気になった。暑かろうが寒かろうが、生命の維持できるのが、良き人間である。といいつつ、一向に、家もシェルターでもなんでもなく、今も、汗流して、涙している次第であった。
2010.07.24
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山から戻る途中、山の子供たちが薬くださいと走ってくる。僕は足を怪我しているんだと主張するが、その足はカチカチで、バンドエイド貼っても仕方ないよと思うのだが、泣きそうに叫ぶ子供たち。僕もバンドエイド頂戴!と。ポカラの村に戻り、疲労感がかなり気持ち良い。ホットシャワーを浴びて、中庭に座り、ビールを飲み、先歩いて来た方向を眺める。 戻っても、ポカラは静かであった。(レイクサイドも片側にしか建物はなかったように記憶するのだが) レンタル自転車でダムサイドに行き、意味なくコーヒーをポットで飲む。ボヤボヤしていると、自転車の鍵をガキに盗まれて困る。本当に困ったかどうかも不明なほど、適度な平和。 また小川君とヨーコちゃんに再会し、また部屋でガンガン決めてしまい、そのあと、フラフラ歩いていると、日本発イラク航空バンコク行きの隣の席に座っていた男学生2人組に偶然会い、ズイズイ擦り寄ってくるので、仕方なく、またガンガン決める。もう大学も最高学年になると、今回、何度、どのくらい日本にでてからたったのですか?「昨日来た。先週来た、10日前に来た」と答え、日本で何やってんですか、に学生ですと答えると2度目の驚きをされて疲れていたのだが、彼らには、行きの飛行機の中で徹底的に学習洗脳しておいたので、いうがままであったというか、そのまま、インドのベナレスまで付いてきて、バングラッシー屋まで付いてきて、仕方ないのでストロング頼んでやったら、そのうちの一人が沐浴場でゲロ吐いて倒れていたのであった。 さすがにゲロ吐かれると、ちょと離れて、俺部外者ですという感じで、ニタニタ笑っていたら、学生が寄ってきて、お連れさん大変なことになってますよと血相変えてわざわざ報告してくれた。それで、私は仕方なく、集まっているインド人に、酒を飲みすぎたと説明し、目の前で商売をやっていたチャイ屋に、ゴメンなと20ルピーを渡し(チャイ40杯分)、商売の邪魔してすまんと答え、最後まで心配してくれていた数珠売りインド人に、最後の最後に、数珠を見せられ{ユーライク?}と言われ、面倒なので、菩提樹の数珠を20本ぐらい買い、沐浴場でやっているマッサージおさんに、彼とオレにマッサージを頼んだのであった。(マッサージが酔いに効くとは思われなかったのだが、私も自分のことで結構大変だったんだ)そのあとで、正気に戻り、彼が、倒れているところからマッサージのおっさんの所まで5メートルもなかったと思うのですが、永遠の遠さに感じました。大変でしたとの報告を受けたが、そのあと、マッサージされるがままに、どんどん骨折られているかと思い、拷問でしたと言っていたが、私は、そうか、オレは気持ちよかったと答えたのであった。オレのマッサージを見て、西洋人も隣でマッサージを受け、案の定その後と、料金でもめて、西洋人が私にオマエいくらでマッサージ受けたんだと泣きそうに尋ねてきたので、俺、ウン、ライター1個と答えた。西洋人は、ああそうかとウナダレそのまま去っていった。しかし、去ることができないのが、あの男だった、東工大のくせに、駄目な奴だ!と私がいちいち思うはずはなかったが、もう1人のへばった奴みたいに、オレに着いてこないでホテルにまっすぐ戻ればよかったのに、と思う。というか、体の中を通しているので、ここにくるまで、東工大クンは何ともなかったのであり、消化のよかったもう1人はヤバイと思ってホテルで待機したのであろう。ああ、彼らのことで長く書いてしまったははは。牧野君(あ、実名出しちゃった)元気ですか? まあ、それから話を戻して、ポカラで、当時ソレ系のクッキーを焼いてくれてた店にそのあと行ったのだが(サンティベーカリーだったと思う)、大学の後輩が注文していたのでびびった。そいつの名前を呼ぶと、何で、カタカナで私の名前を呼ぶのですか、とかなり訳の分からん返事があった。何でオマエこんなところにおるねん、2,3週間前に学校で会った以来やのう、といいながら、じゃあ、一服決めようセということで、またやっちゃうんだよね。これじゃあ、ポカラでずっとシラフのときがないみたいじゃないかといわれそうだが、インドでもそうだったかもなとフト思い出したのであった。
2010.07.23
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まずおばあちゃんが、翌日の朝、何をしたか、それは、当面のお金を、というか葬式代などデカイ金を銀行に引き出しにいったことだった。銀行がどこに宣言しているのか書いているのか知らないが、預金者が亡くなると、預金を一時封鎖するのである。もしかして葬式代ぐらいはだしてくれるのかも知れないが、銀行は、一部の遺産トラブルで文句を言われないためだけに、とにかく、亡くなった事が判明すると、預金一時封鎖にかかりよるのである。 田舎の銀行である。そんな大量にお金を下ろしにかかると、銀行員もニコヤカに、プライバシーを聞いてきよるのである。それで、田舎での話、1日もあれば、噂でおじいちゃんが亡くなったことは、銀行の耳にも入り、預金は一時封鎖されたのであった。あれ何のためだろうかね。ああ、一部の遺産ゴタゴタに巻き込まれたくないから、多くの人を犠牲にしようってことだね。 まあ、そういうのも、先日、銀行で忘れ物して、直ぐ戻って、中味言って、運転免許証見せて本人確認したら、それコピーさせてください、ここに署名捺印してくださいと、なにさまだよてめーとは温厚な私は言わなかったが、あ、そう、じゃあ、もうそれいらないよ、といって捨ててきた(あまり重要なものではなかった)のであるが、あくまで、お客様の責任ですよ、まあ本音いうと、わざわざ銀行までやってくる人はお客さんでもないですすよ、お金持ちのところにはこちらからお伺いしますよ、スリスリってことだね。近況報告:事務所移転に伴い、荷物がなくなり、まだ何をしていいかわかりません。ちなみに、プリントアウトやコピーも自分のIDカードをかざさなければなりません。また電話連絡不在メモもペーパレスでメールで知らせることが徹底され、帰るときもパソコンや書類を机にしまい、卓上には電話機だけにしなければならなくなりました。こら大変だ!と最初は気持ち的には思いましたが、結構、1日で何ともなくなりました。
2010.07.22
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阪神尼崎のことを書いたが、甲子園球場も大阪空港も兵庫県にあることを知らない人々も多いと思われる。甲子園球場は西宮市であり、大阪空港は伊丹市なのである。 今でこそ、大阪勤務ということで、毎日県をまたいで出勤している身ではあるが、小学校の頃は、尼崎のイメージと言うと、工業地帯であり、南部は地盤沈下の地域というイメージがあり、中学校ともなれば、オトナも子供もヤンキーというイメージがあったが、総じて阪神沿線のイメージであった。尼崎には阪神もJRも阪急も通っており、JR尼崎や阪神尼崎や尼崎モータープール前のイメージと実態は先日お伝えしたのだが、その他の駅も差別せず、印象や実態を網羅せねばなるまいと誓う次第であった。JR宝塚線猪名寺駅・・・総じて駅には特にないが、バブルの頃物入りでグンゼ後に建設された西武百貨店の残骸がある。昔、その前の自転車やサンが知り合いだったのだけど、先日通ったら店たたんでいた。どのように自転車屋になったか聞いたら、急になりたくなって自転車屋に弟子入りして、5年は下積みでガンバレと師匠に言われながらも、訳の分からんまま先に開店準備してしまっていたので、1週間で店を開いてしまったので、最初は訳分からんかったといっていた。阪急園田駅・・・余裕で乗ろうとしたら、電車のドアが閉まり、背広の端っこだけが挟まれてちょっとだけ電車が動き出したので泣きそうになった。阪神出屋敷駅・・・会社の研修場が昔あったような気がする。阪神武庫川駅・・・川の上に駅がある有効利用しまくりの駅。JR塚口駅 ・・・駅前には森永お菓子工場が聳え立ち、お菓子の甘い匂いを撒き散らしているので、暫くいるとクラクラしてくる。この工場で徹夜バイトしまくり、旅行資金を貯めた日々であったなあ。阪急塚口駅・・・JR塚口とは歩いて15分ぐらい離れているが、メインはこちらの駅となり、ここから阪急伊丹への支線が出ている立派な駅で、何度か飲んだりもしたし、バングラデッュシュ料理(ベンガル料理)屋さんにもたびたび出かけた。元旅行仲間で医者の知り合いもいて、危ない橋も渡った(ウソ)JR立花駅・・・駅前再開発マンションは、公社か公団かがマンション名を「よろしくタチバナ」として売りに出し、完売後、管理組合にてマンション名を変更されていた。市役所の最寄り駅だが歩いて10分以上かかる。最近、うまい韓国家庭料理屋に時々通う。阪神大物駅・・・オオモノ駅である。阪神杭瀬駅・・・この駅からだったかな、臨海工業地帯に行くバスがあって、大抵は社内食堂で、広大な臨海に中華料理屋が1件だけしかなくて、そこは、満員で、コップにゴキブリ入っていたんだなあ。阪急武庫之荘駅・・・駅前で車を走らせていて、急にパンクしたことあります。
2010.07.21
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12時。地道を140キロとまでは行かないが、まあ、120キロぐらいで愛車を転がし、伊丹市へと入る。オープンしたばかりと思われるシティホテルのランチが期間限定オープン記念食べ放題のみ砲台900円というのに、目を奪われ、思わず、そこを昼食の場とする。内容は、まあ、900円なら、また通りがかったら行ってもいいよということだったが、コンセプトが難しいねえ。空港ホテルだが、少し遠く、宿泊料金その他内容の兼ね合いで今後勝負である。今日は流石に近くの企業の方が来ていて満席であったが、その後どうなるでしょうか。 14時。大阪市内へ高速道路160キロとまではいかないが、140きろぐらいで愛車を転がして、会社に行く。事務所がまた引越になり、ここ3年ぐらいで3回目である。年々厳しくなり、机の上と下には何も置くな、引き出しは片方だけ!これでは、整理能力のない私には地獄なのである。先週4箱も自宅にダンボールを送りつけたが、やっぱり本日もダンボール一箱持って帰ったのである。さて、重要書類とそうでない書類、もうどうなったか分からない。明日から正常業務ができるか不安だ、多分、明日は、書類捜して1日を終え、あさっても明々後日も書類探しで仕事にならないのではないかと不安を残しつつ、本当に会社に書類がほとんどなくなった状態で、会社を後にする。 16時。神戸市垂水区に入り、アウトレットで商売のための買出しに行く。店員さんは、こんなに買うのですかというような顔をおくびにも出さず、何か派手目の化粧をしつつも、愛想よく、プレゼントですか自家用ですか?と聞いてきたが、こんな大量なものを自家消費はないだろう、と思いつつも、何だか、私も少し考えるふりをして、自家用・・・・いやいや、プレゼントです。と答えると、包みますので30分ほどお待ち下さいということで、30分ほど、本当に待った。 18時。実家に行く。妹に金を取られに行く。明日からの俺の生活はどうなるんだ!なるようにしかならん。大きな声では言えないが、妹に子供ができたみたいで、準備金として金を強請られているとうか脅迫されているのだ。その場で、スカイプして、イギリスの旦那によっぽどチクってやろうかと思ったが、その前にお目でとさんといったら、オイ、アンクルになっておめでとさんと言われると、ビール持ってスカイプ越しに乾杯!とかいうしかないではないか。ソーメンご馳走になって帰る。 20時。自宅で仕事。プライベートと仕事のけじめをといいながら、ネット社会になって、会社に行かなくて済むものなら自宅で済ましてしまう体たらく。てかオンオフなんて一流の人間でもあるまい、そんなの関係あるのか。
2010.07.20
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バナーラス。ガンジスで泳いで体を洗う。1日1食。チャイの飲みすぎ。体重55キロ変化なし。歯磨きも大変。大声インド人。ノープロブレムに悩まされるより、俺がノープロブレム言い過ぎなほど、自棄になっている。充実感はなく、焦燥感もなく、劣等感と自堕落。ガンジス川(ガンガ)の沐浴場(ガート)を修行僧(サドゥ)が通る。数珠売りの物売りも通る。ガートにあった傘を弾く。牛も通る。ガートを何故か自転車に乗ったサドゥ通る。自転車サドゥ、全財産が頭陀袋の手提げと自転車。乞食の女性に変装した少年が通る。バラーナスのガンジス河対岸は、不浄の地とされ、一切の建物がなく、砂地である。雨季には、水でカナリ向こうまで見えなくなる。乾期と雨季。太陽が街に沈み、桃色に空を照らす。反対を向くとレンガ色の空。音楽を先頭に何でも良く聞こえてくる。夜中、3時、ガンジスは危ないというが、涼しいのでガートにまた行ってしまう。本当に、静かだ。このけたたましい聖地が。むしろの中に眠る乞食やサドゥが時々もぞもぞ動くだけ。 ホテルに戻る時に、リキシャーに乗った。選んでしまった。後ろにのって気がついた。この男、肩足なのだ。事実だ。夜、ナトリウムライトに照らされて、男の汗が光る。自転車を漕ぐ男の動きが激しい。片足でペダルを漕いで、私を運ぶ。厳しい現実だ、交渉2ルピーを1ルピー2枚あったが、5ルピー札を渡した。彼は、タオルで汗を拭きながら3ルピーお釣りをくれようとした。私は、いいよ、と手を振り、タバコを渡し、火をつけてあげた。彼は美味そうに吸った。汗が美しかった。
2010.07.19
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尼崎は、生野区に次いで関西では、在日の方が多い地域であり、おまけに、阪神ファンでなければ人にあらずという雰囲気を醸し出しており、ガン死亡率全国ナンバーワン、更に、何故だか兵庫県なのに、乾期と06で始まる大阪市内の番号と同じである。あ、最後のはあまり関係ないか。 兵庫県では神戸に続き人口は2位であったが、姫路西宮に抜かれつつも、人口密度は堂々の1位のままさ。というより、おそらくジャージ率もナンバーワンである。私の取引先の奥さんの実家は尼崎だが、その父母は結婚式以外ジャージ姿しか見たことがないそうだ。正月も、正装のジャージのイッチョランでやってくる。 田中康夫事務所通ったら、その3軒くらい横の店で、本人がぼさーと座っていた。阪神尼崎の次の駅は尼崎センタープール前という駅で市民プールがあるのかとおもいきや、競艇場が駅のまん前にあり、時間がタイミングあってしまうと、すごいカッコウシタ人格崩れ系の親父たちが大挙して乗ってくるのである。ちなみに、阪急沿線沿いには、武庫之荘、塚口、園田などの駅があるが、どこに住んでいるか聞くと、そこいら住んでいる人に聞くと、その地名を答える。念のため、ああ、アマですね、と聞き返すと、いいえ、武庫之荘ですと言い返されるのである。ちなみに、関西から出たアマ人は、何処出身か聞かれると、10抽、9は面倒なので大阪と答えるのである。実際大阪駅から5分でJRアマである。ちなみに阪神沿線沿いの人は、阪急沿線の尼崎市民よりも、近鉄で1本につながった難波、東大阪方面シンパシーを感じている、が、特に交流はなさそうだ。 しかし、JR尼崎駅はここ数年でえらいことになりよった。東西線が通るまでは、新快速どころか快速も停車しない駅であったというのにである。駅の北側にはキリン工場がドデーンと構え、毎日、麒麟麦酒の空き箱を見ながら通過していったのであるが、10年ほど前からあれよあれよという間にマンション、複合施設が駅前を埋め尽くし、交通の拠点となりよって、価値もバビーンと上がりよったのである。あ、阪神アマの話だった今日は。阪神アマは間違いなく、繁華街や昇降数で尼崎市ナンバーワンである。繁華街のアーケード上には、阪神タイガースの優勝まで、世界最短の表示がなされ、何だか動いている。ちなみに、英語でトラの複数形はタイガーズだが、多分縁起をかついでいるのだろう、点を取る!という意味でタイガース。もしかしたら、意味は後付で、何も考えてなかったのかもしれない。朝日放送は、ここで阪神タイガース関係は必ずインタビューしているのが定番である。そんな阪神アマなんです。
2010.07.18
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教科書から離れて、2,30年もたつと、結構、習ったことが違うようになってくる。冥王星が惑星ではなくなったし、やたら詳しく習ったアウストラロピテクスやクロマニヨン人のこと、その後も変わってきた。 なんと言うか、狩猟時代→安定を求めて→定住、農耕→権力者の登場、という図式を思うのであるが、どうも、それも違うのではないかということになってきているらしい。定住化、農業は狩猟より楽か?という疑問だ。何度も天候の左右され、農耕に適した地は、洪水によく田畑ごとさらわれ、飢饉がおこりながらも、仕方なく、その上からまた田畑を耕す、安定とは遠いところにあった。(今の農薬や灌漑農業などの農耕法はなかった) おまけに、山や海では多種多様な自然物を摂取していたのに、米だの麦だのモノポリーに懸ける危険度もあり、これがなければあれというわけには行かない。農耕は貯蔵が出来、共同責任にはなるが分け合えるというメリットがあるが、そのことが人間の階級社会を作ったかというと、猿学者からみたら、猿社会でもボス猿がいるように、カ別社会階級社会なのに、人間に進化して、皆平等になって、また農耕して、階級社会に入ったというのも説明しっくり来ないらしい。むしろ、ずっと階級社会が猿の時代から続いている類人猿の性と考えるほうが自然ではないかと。つまり、狩猟時代の権力者→ここに住むぞ、そんためには農産物の確保だ→農耕社会だったのかもしれない。 そして、誰かが農耕始めたら、そこは領地となり、入ってきた獲物を勝手にとることができなくなってくる。なんか産業革命の頃のエンクロージャーみたいだなあ・・・。囲い込み運動って習ったけど、運動って言うと何かいいイメージはんかくても、悪いイメージあまりないねえ。そういえば、学生時代、東南アジア研究をしていて、国際経済学部の先生に、自然が豊かで手を伸ばせば年中バナナが採れる社会が何故発展せなあかんのですか、と聞くと、そうなんだよ。と言っていた。結局、そんなに豊かにのんびり暮らしていたら、寒い国の野蛮で必死な奴らに襲撃占領されてしまった、ということなのだろう。そういえば、多くを求めない亜細亜の漁民は魚が採れたら、それを消費するまで休みだった。平均週2日の労働時間であった。アフリカの狩猟民族も調べてみたら平均週2日しか働いてなかった。それも1日6時間ぐらいだ。あとは、それ以上の快楽か、搾取されているか、ということだろう。まあ、今は資源が減ったのでもっと働かなければというのもあるだろうけど。 働きすぎだな・・。みなさん・・・。
2010.07.17
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なんだか、不思議なことにヒヨッコだった旅行者は、卒業するころは、勝手に同じ学生からグル扱いされて、オレは違うんだよおと困ったことも多かった。そして90年台に入り、HISも大手となり、地球の歩き方も誰でも知っているというか、以前も書いたが細かく国や地域分けして、グルメショッピングや一流ホテルも網羅されターゲットがぶれたというか、長期で行く学生が減り、1週間以内の短期旅行者向け社会人にも対応できるようにしたので、ぼけ始めたのであった。昔の地球の歩き方派はその動きにちょいガックリしたものだが、当時でも、地球の歩き方コースから外れると、有名な国でも、日本人を見なくなったもので、やっぱり、バイブル視しすぎてた人がそういうふうに感じちゃうんだねえ。まあ、自由旅行を標榜しながら、パック化してたのであった・・・ どうなんだろう、悲しいかな自分探しの旅は、いつのマニやら、海外にうろつく同じ境遇の外篭り状態の日本人探しに変化していったのかもしれない。最近、カオサンにいけば、そう感じてしまう。90年代、もう働いてからは、忙しすぎて風のように通り過ぎ、日本人と海外旅行先で話したことは、数えるぐらいしかない。そんなわけで、そのあと、売れたアジアンジャパニースなんかは、100円で買っては見たものの、私にとっては、ああ、そうと5分で読み終えたのであった。考えてみれば、歩き方は、騙し方とか迷い方と揶揄されていたが、歩くというのが秀逸な部分であったと思う。 それから、困ったことに、90年代も後半に入ると、猿岩石が流行った。私もチラリと見たことがあるが、当時は、といもいさんって元祖猿岩石?なんてことを言われて困ったことが30回ぐらいはあった。その行く先々の風景を写すのではなく、二人の悲惨な状況を遠巻きにみて面白がるという趣向の番組である。しかしこの書籍は、過去の小田実先生の何でも見てやろう、藤原新也先生のインド放浪、いつきひろゆき、深夜特急、セノー河童がのぞいたシリーズ、シモカワユージまでも再度売り出され、ハテには、金子光晴どくろ杯まで売り出される始末であった。しかし、皮肉にも、あの頃を境にして、見世物的なバックパッカーのようなブームは終わり、今に至る10年の迷走が始まったのかもしれない。 遂に私も歩かない旅になってしまったのかもしれないが、それでも、ベイルートは6時間、エジプトは2日で10数時間、歩いているというかまだ、迷っている。最近は死ぬほど安いチケットが出回り始めたが、ソレに慣れてしまうとそれ以外の地域はとても高くて行く気にもならないのだろうか。確かに中米や中東で短い間ではあるが見た日本人は0人であった。まあそんな感じで、そうはいっても何らかガイドブックやネット情報がないと、現地でガイドを雇うとか誰か知り合うとか知り合いがいない限り、知らない場所に何があるかは分からないので、行けはしない。 ピーク後、最近、若者が海外に行かなくなったといわれているが、それは若者の人口減少もあるのだが、それは、最近のことではなく、猿岩石のブーム後、もう10年ぐらい毎年減っているのである。 それでも、当時、旅行しまくっていた人たち、ドロップアウトしたか、ちゃんと社会人になって子育てに忙しい世代になったりなんかして、短期でももうあまりいないんだよなあ・・・と思いきや、それでも人口的には20代より海外に行っている人が多いんだから、行く人は行き続けているんだろうねえ。いやはや、それでも、マニアックなところにいきたがるのも、少数民族なんおかもしれないねえ。ちゃんちゃん。
2010.07.16
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両脇に立った客室乗務員は両脇とも、そこそこ収入のある人と結婚しました、子育て終えました、暇になりました、また自分の楽しみのため働きたいです、といった感じの太ったおばちゃんが挨拶をした。再雇用の募集をみると時給1700円で、そうだねえ、1日1往復4,5時間の仕事を月8時間したら、月給は7万円ぐらいである。生活はできないが、今更レジうちもできないし、家計を助けるわけでもないし、と言った感じであろうか。会社側にとっても、研修を繰り返して金を食うわけでもないし、正社員に何百万も払わなくて済むし、若い乗務員であれば、期によって上下関係は厳しくイジメもイビリも多いが、この人たちはそんなストレスからも解放されて、ほんまに、ニコニコにこやか。 おまけに、最近は国内線のコーヒー等飲み物も有料となり、多分、売り上げノルマがあるのだろう、若い乗務員が必死に売り歩いている脇を、ノルマの関係ない再雇用組の方々がニコニコしながら、無料のお茶ですよ~といってピッチャーを持ってあるいているのだから、もう、邪魔されているとしか思えない。アノバアア、私たちの邪魔しないで!ときっと思っているに違いない。しかも、乗客も無料で、しかも持ってこられたら、皆さんジャンジャン飲む(普段は、お茶無料だが、申し出ないと持って来てくれないので遠慮気味となるのが日本人)。 大きな声では言えないが、バブルの真っ最中、ANA国際線に入社した悪友(酒飲み友達。同クラブ。エジプトで監獄に入った過去あり。理由はハシシ吸っていたからではなく、その現場に男性がいたから)の年収が入社2年目で600万円だったから、それを考えると隔世の感がある。 ジジイが、なんだ、スチュワーデスえらい年とっとるな、と呟いたが、オメエ、ジジイじゃん、と思ったが、その思った俺も、その人たちと同年代だわ。ははは。 はっはは、といえば、最近、テレビや新聞に出てくる人たちも、年下が増え、犯罪者も年下が増えたなあと思うのであった。
2010.07.15
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以前も行ったがまた、行きますのコリアンタウン。チョアヨ、コリアタウンをまた歩きよった。民族村では、800円台で食べ放題というのが、嬉しい。昔、済州島と大阪に定期便の船があったので、関東大震災で壊滅した関東を尻目に、大阪に多くの人々が渡ってきたということなのだが、気質や、発音的にも、関東より親しみやすかったのもあるのではないかと思うのであった。安い焼酎を求めて歩き続けると、やっと3本900円にめぐり合い買う。買って、コリアタウンを抜けた酒屋は1本300円で、その向こうのスーパー玉出では298円だった。ギャフン。マッコリ買うのであった。 店の人たちは、そう愛想あるわけではないが、そこは儒教の教えか、むやみに意味のない笑顔はないのか、あ、裏通りは教会でしたわ。イカイノバンザイアルツ薬局・・・なぜだ。冷たいの冷麺にキムチヤきめし。これはキムチポックンパッのことやな。今里まで来ると、風任さんハルじさん対談の場所であったように、ポシンタンを食べさせてくれる店があるので、こんな3箇所も犬いますなんて書かれていたら、食用犬の販売所かと間違えます。韓国語のオンパレード。民家も韓国寺になっており、お経が聞こえてくる。足切った。
2010.07.14
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ガイドブックのことをまた書いてみようかという気になった。昔のタイのロンプラのことも書いている。 60年代に海外旅行が自由化されたが、自由で旅行するのは、シベリア鉄道か、船でヨーロッパ行きであったが、70年代に入り、ジャンボが飛び、飛行機が使えるようになった。この頃、黎明期として、地球の歩き方にもうひとつ、私も、コピーしてもっていったガイドブックがあった。イランとか。それがオデッセイである。この文章にはまあまあ賛同する。 私が登場したのは、80年代中盤である。調べてみると、79年に地球の歩き方アメリカとヨーロッパ、80年代に入りインドが出た。そして当時、出て来た格安航空券を扱う旅行会社がでてきた。秀インターナショナル(現HIS)、マップ、道祖人、サカエトラベル、そのあたり、お世話になった(マップは当時、秀より大きかったかも知れない。今はHISに買収された)。社員も、どこへいっても、マンションの一室のようで、書籍や案内書に加えて写真とかアルバムとか置かれていて、社員も、元元祖バックパッカーでしたというような若者であった。なので、情報を得るために、意味なく、秀インターやマップの事務所に行った覚えがある。こんな旅行会社が10年20年で、JTBなどを脅かす存在になるとは、まさか思えなかった。初めてインドに行った時には、チケットは秀インターで買ったが、当時はDSTツアーというのがあって、地球の歩き方のダイヤモンド社が催行しているツアーで、飛行機と1泊目と最終日のホテルだけが決まっているツアーでその間の30日間なり50日間は自由旅行であり、団体でチケットを安く確保する手段だったのかもしれない。あの日のエアインディアはすごかった。乗客の8割ぐらいが若者で、夜中にカルカッタに着いた若者日本人200人ぐらいは一斉にバスに乗り込んで消えていった。空港に残されたのは僅か5,6名であった。 本としては、何でも見てやろうのことは何度も書いたが、深夜特急にことについては、私は書いていない。出版されたのが、旅行を終えた10年後の1986年だったからだ。だから、私が読んだのは、一通りの旅行を終えて、社会人になって、もう、今更という感じで古本での読書であった。 でも、10年間沢木が書けなかったのは、文体の確立もあったかもしれないが、何となく、印税が入ったから(深夜特急ではそうかかれてはないが)、何となく、ここではないどこかにいってしまいたいという感じが許される時代に入ってきたことを感じたからかも知れない。私も、そういうことを憎んでいるわりには、ごめん、ぼくも現実逃避やっぱしたかたんだ、と思う。私は、1985年プラザ合意前に初めて海外に行ったのだが、あの合意が大きかった。1ドル240円が1年あまりで、120円になっていったのであった。いよいよ、私も含まれる第2バックッパッカーの登場か。いまや、恥ずかしい言葉ではあるが、それでも、学生の周りに一杯いたかというと、私の周りはテニスとスキー一色、学校は100以上のテニスサークルで溢れ、プラザ合意後バブルに突入していき、一体だれが、フラフラ1ヶ月も2ヶ月も旅行してんだ、そんんあの卒業旅行で、アメリカやヨーロッパにいくのだって感じではあったが、それでも、地球の歩き方は、国別にどんどん出版され出したのであった。海外旅行者も85年には500万人が90年には1000万人を突破し、世界は、すべて半額セール状態となっていったんどえあった。それでも、まだ旅行記のジャンルは少なく、書店もそんな棚はなく、よく図書館に通い、そして堀田前衛のインドで考えたこととか、ウメサオ先生の東南亜細亜紀行やかわきだ先生のネパール王国探検きや鶴見先生のバナナと日本人みたいな文芸書や学芸本から大使館のその国の事情みたいなのを読みながら、そのうち、有名どころではインドゴーゴーとかいった娯楽旅行本がチョコチョコ出だしたというか、ああ、知ってる死ってる、行った行った、そうそうそうだよ系の共感系の本も出版され出した(今は、というか、ここ10年はほとんど、旅行記は読まなくなった)。そういえば、大型世界地図のマイナーなところをコピーまでしたなあ。そうそう、それまでは、びしいつ文明からドロップアウトした精神世界のインド、ここではないどこか異界のヒッピーの聖地、などからゴーゴーインドで書かれているように、行ってみたら、そういう面はありつつも、一般庶民は、我々よりよっぽど俗で、俗すぎて、常識が通じなくて、トホホおもろい、軽快タッチを感じたことが、そのまま書かれていたのであった。まあ、そうやって、格安航空券会社の飛躍時期とガイドブックや旅行記の黎明期から大量消費時期の中で、私の大学1年のときと、卒業の時は結構変わり始めていたのであった。
2010.07.13
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ヴァラナシカント駅17時45分。どす黒く、死にかけた太陽のようだ。明日の昼にはジャルガオンに着くだろう。ジャルガオン、偉く強そうな名前だ。それまで、行く先で交換した本を読んでいる。なんだこいつは、佐藤愛子、曽野綾子の太郎物語・・・まず読まないジャンルの本をじっくり読んでしまったら、19時間が経過し、ジャルガオンの手前のブサワルに着いた。何度、進行方向を変えたか。時刻表を見ると、直通だったのに、乗り換えとなっており、2時間待てと車掌に言われ、駅から外に出てサトウキビジュースを飲んでいると、バスがあり、アジャンターまで90分でいくということを聞き、2時半にでるというバスを、そこで知り合った英国人と乗る。実際の出発は3時10分、5分走ってバスは故障し修理。暫くして走り出すと、今度は落雷で木が折れて道をふさぎ、田舎道は立ち往生。結局、4時間半かかって手前の村に到着。1本道は暗く、アジャンターのための宿がいくつかあう小さな村。右も左も1本道の向こうは闇である。黒である。日本で、そう見ることが出来ない黒である。時々、トラックが走る音がするが、リキシャーもなく、シャワーするとタオルはなくカーテンで体を拭き、シャンプーはなく、あ、元々なく、着替えも腰巻しかない。英国人ジームズ君は、韻殿ビザ代30ドル、パキスタンのビザ50ドル、シット、とって五月蝿く、隣のホテルもっと安かったわ、と発見したことを伝えると、シッツとまた英国人皮肉ボヤキぶりを発揮していた。 翌日バス70パイサ、入場料50パイサ いつか教科書で見た風景。一望見渡せる地点からお茶を飲む。日本人団体旅行に遭遇。後ろに着いて説明を聞く。ボンベイから来たと思われるジーンズを履いたインド人お嬢さんを発見。インド人の様にジロジロ見てしまう。二時間見学し、一時間お茶を飲み、二時間バスを待ち、三時間バスに乗り、アウランバガード。宿探しに一時間。私が道を聞いたのに、そのインド人は、一緒にいたイギリス人に近寄り、説明していた。インド退廃的パブに出かけて、ウイスキー、ジン、ラムを飲み、そのまま疲れて、そこの宿を取って眠る。
2010.07.12
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火曜日ソンドゥブチゲ定食生卵をぶち込み、それが半熟になるまで待て。木曜日豚ポッサムを食べた。はっぱに、キムチとかも混ぜ盛って食べるわけだが、マッコリの見すぎて金曜日死んだ。土曜日アリラン食堂でディープな生鱈スープを食べた。日曜日オッパ食堂。超地元。てなわけで、リアル・・・
2010.07.11
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そうやって、ちょっと最近何度かインドの思い出特集気味になっているのだが、最近は行っていないので知らないが、そこには、むき出しの生死があり、それが自然ぽかった。街もあってもどこか、砂が紛れ込み、どこか裏に回れば舗装はされていなかった。表通りも舗装されながらも、予算不足からメンテナンスが行き届いていなくて、熱射や車両の重みで、割れたりはがれたりしながら、そこから雑草が生えてきたり、土が見えている。必死に自然に戻ろうとしている。 日本という都市に住んでいると、毎日、都市の中では、土を見ない。不必要なまでに地面を舗装で覆い尽くす。なんと言うか税収は赤字でも公共事業で一時の一部業者を救うために、道路工事が繰り返される。もっと必要なことに税金がいるはずなのに、自然を覆い隠す作業を優先する。都市化すると発展するという幻想を見ながら。 そうなってくると、人は自然恐怖症になってくるのであろうか。ちょっとした植樹も、植林も人工的なものだ。雑木林は囲まれ、宅地化されていく。自然恐怖になるのは、自然が人間の手に負えないものだからだろうか、しかし、最後まで自然が残っているとすれば、人間自体になってしまい、服を着せ、死を隠す。動物の解体、魚の捌きでさえ、見えなくなっている。街には、指一本落ちてはいない。それどころか、繁華街では子供という自然もなかなか見ることがなくなる。 阪神淡路大震災で、よく行っていた人形バーも壊滅的になり、表に骨を捨てていると、警察に店主は捕まった。いろいろ調べると100年ほど前の子供の本物の頭蓋骨ということが分かり、無罪にはなったのだが、道端に骸骨を捨てていたら警察沙汰になる一例であった。
2010.07.10
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私は座っている。この寺院を見る間でもなく、ヒンドゥ寺院は多くの神がいるゆえ、包容力があり何より愉快だ。白いドーティをはいたインド人団体観光客御一行が通り過ぎ、安葉巻ビディの香りを残していく。空缶やくずを入れるビニール袋を手提げにして、頭に白い布をぐるぐるに巻いているのが、アンバランスな感じなのだが、インドでは問題ではないことが愉快だ。二百年かけて岩を削り続け、一枚岩の寺院を完成させたところに驚きを感じる。ヨーロッパなどもそうだが、自分の代に完成を見ずに終えていく人生というのは、信仰と歴史のなせるわざか。 今度は黒いチャドルを頭にすっぽりくるんだ女性二人が通り過ぎる。顔も肌も隠されていると年齢さえも不祥で、こんなことしたら余計に妄想が膨らんでいくのでは、と思う。そういえば、タイのメオ族も老いも若きも同じ民族衣装なので、遠くから見れば、年齢不詳である。 見える材料は石のみ。石。切った石。崩れた石。削った石。そこに、アイスキャンデーの袋のようなものが、ひゅるると舞った。田舎インド人家族連れが、興味深そうにこちらを見る。その中の一人が近寄って来て、今、ノートに情景を書き綴る意味不明の文字を覗き込んでいる。しげしげと。そして何もいわず家族のもとに戻っていく。 眼の前には実物大の石像象。鼻はない。梅毒ではない。イスラムのアウランゼブが破壊したのだ。 インド人夫婦。育ちがよさそう。金色のサリーが直射日光に照らされてきらきら輝いている。ふと、日本人女学生らしき二人が写真をばちばち撮って、少しふらつき、私に気づき、近寄ってくる。私はノートを伏せる。何かを尋ねたようで、私も何かを適当に答えたようで、彼女らは去っていく。 縞栗鼠がすばしっこくもしゅるると余裕で岩を登り、黄色い蝶がぴらぴらと上から降ってくる。鳥がぴゅーぴゅーと鳴き、次に、ぎゅるると吠えた。蝶は石の床に沿って這い、別の蝶とテンプルを横這いに昇っていった。日陰での裸足はかなり気持ちよく、三メートル先の日向には行きたくない。約一匹の蝿が私の廻りを三回回った後、二十ヶ所以上私の体に止まる位置を変えて鬱陶しい。足を組み替えると、両足の体温が違うため約一分間だけは、心地よい。足は何度も組み替えされる。 それで、この石窟寺院群の最大規模を誇るカイラーサナータ寺院の最終的最高位のところに拝まれているのが、リンガ(男根)なのである。そちらの方向を向き、カイラスのことを想い、そういえば、小学生のときに、何かリンガや女陰を奉った山に登ったことがあったなあと思い出した。蝉のうるさい音とあいまって、私はインドコインをノートの下に置き、鉛筆でこすり、デザインを浮かび上がらせ、「優雅な遊びですわ。でも、幼稚な遊びですわ」とつぶやいた。
2010.07.09
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10数年前の話で、そのとき、べろんベロンに酔っ払ってて覚えが虚ろなんだが、大学の悪友と、飲んでいて、やたらギャングバーから歩いていると誘いが掛かるので、いっそのこと、捕まってみようかという話になった。しかし、怖いお兄さんが出てきては困るので、十分注意しようぜということになり、結構、酔っ払ってヤバイ状態なのに、コインロッカーに貴重品を入れて、23000円だけ持ってあるこうぜと、いうことになり、俺ら中国人な、ということにして、それも、マンダリンや広東語じゃないところにしようぜ、ということにして、ベルミダーとかピヨーとか、意味のない言葉を5つぐらい練習して、また大通りに戻ったのであった。ニホンゴで分かるのはワカリマセン」だけにしようぜと。 イザ、フラフラ歩きながら出陣し、声をかけられる中で特にどういった理由で選んだのか分からないが、2000円ぽっきりで飲み放題バーを交渉し、店に入って行ったのである。客はいない。こいつはヤバイという雰囲気を感じ取ったが、ヨッパライの勢いもあり、カウンターに座り、最初に、コレ2000円ダヨ。と変なニホンゴで順調に対応し、何杯か飲み、いよいよ勝負のときがきた、と思ったのだが、何故だか、オマエラ日本語分からないのか!とどやされ、もういいと追い出されたのであった。 あー緊張したーっと、言いながらお互い検討を称え合いながら、何でこんなことしてんだ!といいながら、タクシーで帰ったような気がするのであった。
2010.07.08
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先日韓国で仕方なく、知人の子供を連れて行ったのであるが、そのあと、テンションアップした子供夫婦はキティショップにていろいろ買い物をしたので、私も、何となく仕方なく一品買ってしまったのである。会社の帰りにソウルに来たので、革靴を履いていたのだが、営業パーソンというもの、歩いてなんぼの世界、交渉と任侠とノルマの厳しい世界、靴がチビテナンボと評価される世界である。そんな訳で、安いだろうという予測の下、偶然通りがかったところの奥に靴修理カバン修理があったので、入っていく。先客は、若いカップルがいたので、オッサンの言ったたった一言、チェンジ?に頷き、座って待つ。座ってても仕方ないので、先程買ったキティグッズを取り出すが、調子に乗ってドエライ買い物をしてしまったと後悔してしまう。この手の後悔は、15年程前にバンコクのデパートで、フラフラしながら意味なく調子に乗ってバービー人形を一体買ったとき以来だ(成田空港で荷物を開けさせられ、空けた瞬間にバービーが出て来たとき、税関員もとても困った顔をしていた昼下がりを同時に思い出したのであった) 若いカップルは、ヒールのカカト交換の値段を聞いて、明洞じゃあ半額だよ、高いわねと文句をおじさんに言っているようであるが、まあ、そういうことは、ここで、ついついヒールが折れたのであろう。2000円ほどといっているので、もしかして、オレのもそのぐらいはするんだろうなあ。日本よりチョットだけ安いだけか、バンコクなら500円なんだけどなあ・・・などと思いながら、再び、キティシールを見て沈むのであった。 おじさんは私の靴を見て、よくぞここまでチビルぐらい履きよったな、という顔をして、ヒール全体を剥ぎ取り付けなおして、前のカップルと合わせて40分の時間が経過していた。そろそろ飛行機の時間に限りがあります状態になりつつあった。おまけに、頼んでいないのに、私が背広の外国人エグゼクティブということを背広姿を見るだけで判断し、靴のちびり方からトップセールスパーソンであることも見抜き、靴を懸命に頼んでいないのに磨き出したのであった。まあ、学生時代だったら激怒しているけど、今なら200円ならまあいいいかと思ってしまうほど、心と財布に余裕があったのであった。磨くこと10分。はっきりいって、笑っちゃうほどピカピカになって、靴に顔が映るのではないかと危惧したぐらいであった。背も5ミリほど高くなった気がしたぐらいであった。家に帰ってきたものの、まあ、一応、折角だから貼ってみるか、と思いきや、いろいろ大きさが合わないパーツが多数であることも判明した。それに靴の5ミリの差以上に、0.5ミリ程度の厚みの違いで、キーボードを打つ手に違和感を感じるのであった。オマケに貼っているところと貼っていないところの0.5ミリの段差が微妙に違うのも分かり、これは・・・と思っていると、3分で慣れてしまう成れの果てであった。買ってみてウーン、貼ってみてウーンの二重のウーンであった。こいつら一連のガールたちも貼ったのだろうか。
2010.07.07
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足元にいる犬に、鏡を見せて、オマエ、コーモン見えとるぞ!といいたくなった。当時、そうやって1日は終わった。
2010.07.06
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ちょっとネット上の整理をしていて、エジプトのことをまとめたのだが、ふと、ピラミッドまでいくまでのピラミッドのイメージを、何十年も何となく漠然とおもっていたのと、違うというのが分かり、現実を見てから想像していたピラミッドの姿のことをすでに、もう忘れている自分に気がついた。すっかりもう想像していたピラミッドのことを忘れてしまったのである。 ソレは何かと言うと、ひとつはマップである。何となく、カイロからは離れていることは知ってはいたが、自分の想像の中ではコッチ方面というのがあったのであるが、ピラミッドはカイロから違う方向にあり、そして、結構皆さんが指摘するとおり、もうこれだけ海外旅行してきたからそんなにビビルことなんかもう「ないんじゃいあい」という予測に反して、そのスケールのでかさに、結構ビビリ、へえーと感動したのである。40歳でも感動の心があること自体にびびりながらも、想像以上にデカイのであった。 デカイどころか、ほんのこの前まで何千年もの間世界最大の建造物であり、人類が滅亡しても、ほぼ、また最後まで残っていく建造物であることを考えるとスゲエと脳を刺激するのである(オレは脳トレというのは、イマイチ好きになれない。うそっぽいし。もしかして、スピリチュアルに飽きた人たちが流れているのもあるのではないか?)。 それにしても、いろんな説があるが、その建築技術は伝承されなかったが、それから人類はちっとも、賢くなっていないのだねえということが分かる。
2010.07.05
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ジャイサルメール 暑さというものは、記憶や思考力をいとも簡単に衰弱させる。やがて、第一次生理的欲求しかなくなってしまう。マツゲが妙に長く上向きで結構セクシーで優しく眠そうな目をしたラクダは、思いのほか狂暴だ。その狂暴さはだだをこねて手のつけられない子供のようだ。急に意味もなく怒り出すが、動作は鈍い。だが、その図体は恐怖だ。背中に乗っているときは、いうことを良くきく便利な奴なのだが、何も考えず前のラクダについていく習性があり、穴に落ちたり、木があると急にいうことを聞かなくなったり、休ませているときに近づくと、グエッとゲップをする。厭世的な生物に見える。 日本から持って来た健気な温度計の目盛は五十五度まで。日中、温度計は隠す。壊すわけにはいかない。暑い。 熱い。朝夕しか移動できない。日中は木陰で休む。休憩といってもそれは言葉だけだ。楽ではない。ドライヤーを三十センチ離したところから顔面に向けて強風を浴びせられているのと同じである。汗は出ない。体中、塩だらけとなる。ただ時間を待っている。夕方までという時刻を。 マルキャー。糞転がし。これがやたらに多い。寝ている私の顔のそばまで糞を転がしてきて、「わっ」っと叫ぶと、相手もびっくりして、糞を置いたまま逃げていく憎めない奴。砂漠の掃除人として存在するエコロジストである。エコロジストとはいえ、糞のいいところどりはする。人間のものは、一番の人気なのだ。栄養が違うのだろう。 三百六十度、人工物はなく、数メートルの盛土がちょこちょこあって、我慢して生きている木がちょぼちょぼとある程度。あとは地平線という奴。 朝食時、いきなり老人が現れる。いったいどこから現れたのか、何故やってきたのか分からない。老人はニコニコして何も尋ねず、素焼きのパイプを懐から取り出して、気持ちよさそうに吸う。一服終え、老人は、またふっと消えていった。また三百六十度が始まった。
2010.07.04
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先日BBQに行って、鯛を2匹持って帰ったわいいが、ちょっと置きっぱなしにして、激務で仕事から帰ったら、死にたくなるほどの異臭が部屋を漂っていたのであった。一瞬、家を捨てようかと思ったが、思いなおして、ゴミを捨てた。そういえば、ヒットラー暗殺ってワルキューレが有名だけど、他も結構あったんだね。爆弾が仕掛けられても、当日悪天候で飛行機が飛ばなかったので列車でベルリンに戻ることに急遽なったため、早目に演説を終えたヒトラー、去ったあとすぐ、爆発した。とか、飛行機に爆弾しかけられたのに、機内の温度が下がりすぎて起爆装置が作動しなくなった、とか、武器弾薬庫博物館に見学に来たヒトラーをめがけて時限爆弾起動スイッチを作動させたら、気まぐれで武器爆薬に興味が持てず、すっと博物館を去ってしまって、そのあと爆発したり、とか軍服新作発表会の軍服に爆弾しかけたが、ヒトラーのもとに届く前に空爆で新作品を積んだ列車が爆破されてしまったりとか、これはムチャクチャ強運な人物だったんだなあ。そういえば、貧乏財政だった徳川将軍もさすがに下着は、全部使い捨てだったらしいね。
2010.07.03
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取引先とメシ食いに行くから、オマエ、メシ食うところ探せや、おもろいとろやぞ!ソウ厳命された若き獅子、私目がその大役をおおせ使いながらも、懸命に検討するのであった。 夜、我々一同は店の前で集合し、そして入店すると、SMの格好をした女性がやってきて、今日は初めての入所かと尋ねてきたので、正直にそうですというと、この中で今まで一番悪いことをしてきたのは誰だと尋問されるや、全員が、私を指差した。そんなに私の人望が高かったとは知らなかったと思いつつも、皆さん自分に正直でないことも判明された。そんでもって代表者として手錠をはめられた。はめられたまま、牢屋に入れられたのであった。されど、じゃんじゃん飲むのであった。食らうのであった。 その後、盛り上がったと思いきや、もう、おまえには幹事頼まんわ、といって解散したのであった。
2010.07.02
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なんと言うか、先日まで、味について軽~く薄~く 考えてみたのですが、取り残された、目や耳や鼻の立場はどうなんだ!と言われると、これも非常に深い問題であり、あまり深みにはまっては時間も紙面もないので、簡単に書いてみるのです。子供時代からよくある話で目鼻耳口(視聴覚の意味で)のひとつだけ機能を失うとしたらどれがマシかというマヌケ議論になると、やっぱり必ず臭いが一番に消されるということになり、やっぱり、目は最後まで外せないよなあということになった。まあ、そんなに異論はなかろう。それにしても、臭いというのは、目耳と違って、半分は直接古い脳の部分に情報が伝わるので、突然、懐かしさを喚起することがある。大阪の通りを歩いていると、ふと風が通り抜けて、おお、インドの街角の臭いじゃ、と思い出したり、雨上がりの匂いを嗅いで子供時代のある瞬間を思い出したりする。それは昔聞いた音楽を懐かしいなと感じるよりもっとダイレクトに懐かしいと思う。それがなんだ、いやそういうものだ。音楽よりも、どちらかというと、味は、そういう昔のことをダイレクトに思い出すかもしれない。しかし、残念ながら、お袋の味とか、昔ここで食べた味とか、どうもそういうのがないなあ。むしろ、初めて行った食べた時にウマイと感じた味は、もう二度と味わうことはできない。こんな味だったかな。慣れてしまったのかな。二度目以上の味は初めての感動のようなものはないのか、ということである。どういうことであるか。そうやって、匂いと味はダイレクトにやってくるもので、なかなか同時に言葉での表現は難しいのであるが、それと比較すると見るとか聴くとかは、結構分析的であり、目なんか一目瞭然や百聞へ一見にしかずとかっていっちゃうほど、その瞬間をグワリと把握できる。その瞬間処理の連続く。反面聞くのは、一瞬では聞けず、ま話もそうで、時間がかかる。時間をかけないと、分からない。つまり耳が悪いと、結構因果関係が分からなくなり、前後が分からなくなる。ああ、なんだかなあ。ふと、気がついたけど、あれだね、内容のない映画やドラマはBGM効果音がすごいね。ちゃんちゃん。
2010.07.01
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