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11月19日(火)昨日ミラノ中央駅を見学した後、一旦近くのホテルに帰る。 16:30~18:30まで部屋で昼寝をする。19:00ツアーの連中とロビーに集まり、バスで夕食に出かける。 赤ワインとイタリア料理をたっぷり飲みかつ食べて、22:00ホテルに帰ってきた。今朝は07:30朝食、ホテル出発は09:00でヴェネツィアに向かう。 高速道路を走り、途中10:30頃ヴェローナで休憩する。 一面にブドウ畑が見渡せるのどかな所である。 15分後に出発する。 11:20頃海が見えてきた。前方に大きな橋が見える。 なんと、長さ5kmもあり、イタリア本土とヴェネツィアを結んでいる。 鉄道も通っていて、橋を渡りきった所が終点のサンタ・ルチア駅である。 駅のすぐ近くの桟橋でバスを降りる。海の上にあるヴェネツィアでは、水の都の名が示すように、大小の運河が道となっている。 バスやタクシーは走っていない。 従って市民の足としてかかせないのが水上バス(マークはActv)である。 また、急ぐ人のためには水上タクシーも大小色々ある。 小運河では、おなじみのゴンドラが活躍している。 我々は50人乗りの水上タクシーをチャーターして乗り込んだ。 前部と後部に客室は分かれている。全員乗り込んだところで、すぐスタートする。 目指す先はサン・マルコ広場である。 途中大きなフェリーや巨大な客船を見たが、流石かっての海運王国を偲ばせるものがある。約20分後にサン・マルコ桟橋に近づいた。海側から眺めるサン・マルコ寺院の円屋根(ドーム)もなかなか迫力がある。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 イタリア旅行(5)・ヴェネツィアⅠヘジャンプ
2002年11月30日
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スフォルツェスコ城博物館が休館日ではどうしようもないので、次の場所に移動することにする。やはりアーケードが気に入ったので、ショッピングをかねて再び行くことに決定。 幸い、広場のすぐそばに<M>の目立つ標識があった。 メトロつまり地下鉄を利用するわけである。ドゥオモまで僅か2駅、1ユーロ(約120円)で安い。自動販売機はなんだか分かりにくいので、タバコ屋で2枚チケットを買い求める。思ったより簡単に<DUOMO>に着いた。地上に出ればアーケードはすぐ分かる。 午前中より人出は多いようだ。 先ずは、スパテフィラムが目に入ったので撮影する。 次いで、小6と4の孫のために、子供用のサッカー・ユニフォームを買い求める。時間は充分あるので、スカラ座の裏通りも歩いて見た。 表通りには路面電車が走っているが、古いものと、新しいものとが巧く調和している。 さて、再び地下鉄を利用して、ミラノ中央駅に向かう。わざわざ行ったというよりは、駅の近くにホテルがあるからである。 ガイドブックを片手に、乗り過ごさないよう注意する。 ミラノ中央駅 ヨーロッパで一番大きい鉄道駅として1912年に設 計され、1931年に完成した。 当時のイタリアの 力を誇示しようとした荘厳な建築物である。 まるで 宮殿のような感じには驚かされる。 駅の前にはモダンなオフィスビルが並び、ミラノの現 代の活躍がうかがえる。 例の同時多発テロの後、 軽飛行機が近くのビルに突っ込み、テロの再発かと 緊張したが、単なる事故だったようだ。 しかし、何 故かビルの修理は進んでいない。中央駅は外観も立派だが、構内も素晴らしい。面白いことに、チケット売場はあるが、改札口はない。たまに、車内で検札があるらしいが、基本的には乗客を信用しているようだ。 ということで、ホームに行って列車を撮影して来た。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 イタリア旅行(4)・ミラノⅣへジャンプ
2002年11月29日
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ドゥオモを出て、次はスフォルツェスコ城に向かう。北西に2kmくらいですぐ着く。ルネッサンス期の建築物としては、一番大規模なのがこの城である。 1368年にヴィスコンティ家の命で造り始めた基礎部分に、1450年に追加設計をしたのがフランチェスコ・スフォルツァである。1535年スペインのハプスブルク家の支配下に入るまで、スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に、現存するミラノ城の再建、大病院の建設がなされ、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする芸術家も集まって、ミラノは黄金時代を迎えた。生憎の雨とあって、観光客もまばらである。一通り外回りを見学しただけで、再びバスに乗りレストランに向かう。 古都ミラノは道は狭いのに車は結構多い。 歩道に駐車するのは常識といった感じである。 バスを降りて雨の中を歩かされた。 レストランの入り口は狭いが、地下の店は広くて豪華である。 例により、先ず飲み物を聞いてくる。 当然ワインを注文する。 昼間ということもあって、ハーフで我慢する。 メニューはリゾット、野菜サラダ、チキンソテイで簡素であるが美味しかった。 デザートに大きなケーキが出てきたのには閉口した。13:30食事が終わったところで、オプション・ツアーに行く人と、自由行動の人とに別れる。 我々は後者である。 通り道のさきほどのお城の所で降ろしてもらう。 団体では、どうしても急ぎがちであるが、今回は家内と二人でのんびりと、城内に入っていく。無料であるのはありがたい。 雨は依然として降っている。城内に博物館があるが、月曜日とあって休館である。残念ながら仕方がない。 博物館入り口近くに印刷機がおいてあった。 グーテンベルク(1394?~1468年、ドイツ生まれ)の印刷機と同型のものである。 ブドウ絞り機を改良して造ったらしい。印刷機の発明は、ダイナマイト、羅針盤とともに、ルネッサンス期の3大発明である。外に出て、傘をさし、片手で城内から丸い塔や門を撮影する。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 イタリア旅行(3)・ミラノⅢへジャンプ
2002年11月28日
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ローマ時代のミラノの中心は、現在のドゥオモ(ミラノ大聖堂)のすぐ南に位置していたことが、遺跡によって確認されている。 ということは、2000年以上にわたって変わらずに、市街地が連続して存在してきたことになる。 驚くべき事である。後期ゴシック様式の大聖堂はミラノ公、ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により1386年に着工し、その後1887年まで実に500年にわたって延々と建設が続けられたという。教会建築としては、ヴァティカンのサン・ピエトロ大寺院に次ぎ、幅66m、長辺157mの巨大な規模である。 大理石による2,245の彫像と135本の尖塔で飾られた外観には圧倒される。 最上部に掲げられた聖母マリアの黄金像は1765~69年に取り付けられたもので、地上高は108.5mあり、まさにミラノの町のシンボルである。さて、ドゥオモ(大聖堂)の内部であるが、荘厳の一言に尽きる。 柱も床もすべて大理石で、重い尖塔を支える工夫が随所に見られる。 内部が暗いこともあってか、15~16世紀に造られたステンドグラスが特に人目を惹きつける。古色蒼然たるパイプオルガンが現在も音を出すと聞いて、驚嘆するほかはない。 当然の事ながら、フラッシュ撮影は禁止されている。 三脚が欲しいところだが、写真を撮りまくるという雰囲気ではない。 シャッター音を気にしながら、なんとか10数枚撮影した。外へでると、何故か開放感を覚える。 アーケード入り口の商店街はすでにクリスマス・モードであるが、日本ほど派手ではない。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 イタリア旅行(2)・ミラノ続へジャンプ
2002年11月27日
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11/17~24まで、イタリア北部を旅行して来ました。 逐次レポートをお送りいたします。11/17(日)早朝家を出て、地下鉄、バスを乗り継ぎ名古屋空港国際線に06:50到着。 予定より少し遅れて09:15離陸。 僅か20分後に富士山が見えた。 成田到着後1時間でパリに向け出発である。11:25離陸、パリまで12時間の長いフライトが始まる。 各座席の前に8インチくらいの液晶TVが付いているので、ビデオ映画・ゲームなどを楽しめる。 二度の食事、間に適当に寝て、目が覚めればトランプゲームを楽しんでいるうちに、退屈しないで15:35(現地時間)ドゴール空港に着く。 2時間半後にパリを出て、ミラノ到着は20:00過ぎであった。 空港の外に出ると、やはり名古屋よりは少し寒い感じである。 21:30ホテルに着き、入浴後すぐ就寝する。11/18(月)昨日は丸一日中移動したわけで、いささか疲れたが、07:30気分良く目覚める。 朝食後09:00にホテルを出て、ミラノ市内観光に出かける。残念ながら生憎の雨である。 雨と言うことは、そんなに寒くないわけで、良しとしなければならない。先ずは、スカラ座前の広場に行く。 スカラ座は修復中で、中には入れなかった。 スカラ座の名を世界に広めたのは作曲家ヴェルディであろうか。サンタ・マリア・デラ・スカラという教会があった場所に、1778年にピエルマリーニの設計で建てられた。 オペラ劇場としては、世界屈指の劇場である。劇場の前に広場があり、中心部にレオナルド・ダ・ヴィンチと4人の弟子の像がある。 この広場とドゥオモ広場を結ぶ世界的に有名なアーケドは、長さ200m、高さは32mある。 十文字の中心部は丸屋根になっている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 イタリア(1)・ミラノへジャンプ
2002年11月26日
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お 知 ら せ11/17~24日まで、イタリアに行ってきます。従って日記はしばらくお休みし、次回は26日(火)夜となります。お越しの節は、一言でも掲示板に書き込みをお願いします。 帰り次第お伺いいたします。
2002年11月17日
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水車から道をへだてた南側の湿地帯で、シラタマホシクサが咲いていた。 先月中旬がピークであったようだが、幸運にもまだ咲いていた。 シラタマホシクサ 伊勢湾沿岸の湿地に生える一年草で、高さ20~40 cmになる。 花は直径5~7mmの球形で、白い毛が 多く、白い球のようなので、この名が付けられた。 群生地としては、豊橋市葦毛湿原と知多郡武豊町の 壱町田の湿地帯が有名である。 茎の先に白い花が徐々に膨らんでいく様子は、線香 花火が膨らむ様子にどこか似ている。次にエリゲロンを紹介しましょう。 道ばたにひっそりと咲いているので見落としがちである。エリゲロン・カルビンスキアヌス キク科、原産地はメキシコ、常緑の多年草で、高さ 30~40cm。 可愛らしいキク状の小花を次々と 咲かせる。 初めは白い花が、だんだんとピンク色 に変わっていって、2つの色が混じり合って咲く。 野生化したものが、河川の石積みの間などに見ら れる。そのそばで、ビデンスが咲いていた。 別名ウインターコスモスである。ビデンス・イエローキューピッド キク科、多年草で、高さは60~120cm。 ビデン スはラテン語で、bis(2)と dens(歯)に由来し、 果実に歯状の2本のとげがあることによる。 繁殖 力が極めて旺盛である。 画像は下記をクリックして下さい。 シラタマホシクサ・東山植物園(3)へジャンプ※ おしらせ 11/17~24日まで、イタリアに行ってきます。 従って日記はしばらくお休みし、次回は26日 (火)夜となります。
2002年11月16日
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東山植物園の丘の上で風車が回っている。 正面入り口との標高差は約50mである。 風があまりないので、勢い良く回ってはいない。 丘を下って、星ヶ丘方面に向かうと、万葉の散歩道がある。 万葉集に出てくる植物達が植えられているらしい。 雑木林の中の小径といった感じで、気分良く歩ける。 道ばたに石蕗の黄色い花が咲いていた。この時期、花が非常に少ないので、目立つ存在である。やがて、小さな池のそばにでる。 紅葉が池に映えている。 近くに水車が回っていて、絵になる風景である。 休憩するのに、最適な場所の一つである。石蕗(つわぶき) キク科、日本と中国が原産で、常緑多年草。 葉に 艶があることから、ツヤブキ、転じてツワブキとなっ たらしい。 10月から12月にかけて、黄色い花を 咲かせる。 観賞用のほか、茎は食用になる。佃 煮にしたものを伽羅蕗(きゃらぶき)といい、風味の ある保存食である。 野生種は繁殖力が旺盛。 花言葉 : 謙譲、先を見通す能力 画像は下記をクリックして下さい。 花紀行(186)-紅葉と水車・東山植物園(2)ヘジャンプ
2002年11月15日
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昨日午後、久しぶりに東山植物園に行ってきた。 主たる目的は園内の紅葉を探索するためである。 何分園内は広いので、少しでも楽をするため、地下鉄は東山公園でおりて、動物園の入り口から入る。入り口のすぐの所にモノレールの乗り場がある。 これまた、4年ぶりだろうか、一番下の孫娘がまだ3歳の時以来である。 ガタガタと走り、あまり快適とはいえないが、まあ、歩くよりは楽である。6~7分位で植物園駅に着く。 早速正面入り口を撮影する。 いつも、裏口の星ヶ丘から入るので、正面を撮影するのは初めてである。 入り口のそばの紅葉が綺麗だった。 モノレールの出入り口付近の紅葉も写す。 もう何十回となく来ているが、来るごとに新しい発見があるのは不思議である。 道路沿いのピンポン菊も昨年は気づかなかった。 丸い可愛い花である。スプレーマムの一種らしい。 この形になると、仏花のイメージはない。段々になっている小滝やその上にある噴水はいつも見慣れているが、やはり心やすらぐ存在である。噴水の奥へと上がって行くと、お花畑に出る。 当然の事ながら、春のような華やかさはない。 丘の頂上に向かって右側(南側)で5人の男女が写真を撮っている。 小さな木なので、不思議に思い行って見る。 白い花がぱらぱらと咲いている。 何と桜ではないか!木の札をみると「子福桜(こぶくざくら)」とある。 秋から冬と春の2回開花するとか。 八重咲きのものは実をつけないものが多いが、この子福桜は一つの花で複数の実をつけるので、この名がある。 満開はまだ先のようだ。 名前にちなんで、福々しい気分で撮影を続ける。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 桜が咲いていた!・東山植物園(1)ヘジャンプ
2002年11月14日
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昨日に引き続き、大輪菊花展をお送りいたします。大菊 千輪仕立の部 1鉢が出品単位である。 大株同様、1株で出来 るだけ多くの花を咲かせるように仕立るが、添え 竹や針金を用い、小判型・船底型・半月型等様々 な造形を演出できる。 大きいものは1鉢で3mほどにも広がり、300~ 400輪も咲く大作がある。 本大会では100輪 以上咲かせたものを千輪仕立と規定している。大菊 福助の部 構成は厚物・管物・美濃菊のうち、いずれかの 同一部類3鉢をもって1組とする。 菊丈は鉢 底より花の頂点まで50cm以下とし、鉢は5号 以下とする。 鉢より大きな花を咲かせるのが 面白い。大菊 だるま作り(単鉢)の部 1鉢単位とし、菊丈は70cm以下、鉢は7号。 福助同様、小さな鉢で菊丈を出来るだけ短く し、横広がりに花を大きく咲かせる仕立方で あるが、株立てなのでより豪華に仕上がる。山菊 盆景作りの部 大会で指定された鉢を用い、盆景を作り出す 部門である。 品種は自由だが、石、苔、砂 利、その他の添景物などを利用して、決めら れた広がりの中に、深山幽谷の絶景をあら わす自然の風景を形造るものである。 秋の名古屋城<完> 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(9)・大輪菊花展Bへジャンプ
2002年11月13日
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菊人形展会場を出て、一旦正面入り口の方に戻る。入り口近くから東に向かって約200m位、道の左右(南北)に菊花展の会場がある。 南側が大輪菊で北側が盆栽仕立てである。 入り口の近くに、天守閣の模型が菊花で飾られている。 会場の丁度真ん中あたりに、水車に菊を配してムードを盛り上げている。一番最初に、最も目立つ大輪菊が並んでいた。立て札に審査基準が書いてある。大菊 自営花壇1本立の部 花壇の構成は、間口1.8mのところへ、25鉢を5 列、5段に配列し1花壇とする。 そのうち、同一品 種の花は2鉢まで使用が認められている。 菊丈は鉢底より花の頂点までが1.8m以下、0.9 mまでで、鉢は8号(24cm)以下の規格となってい る。 この部門は、1鉢、1鉢の花の大きさ、草姿が優れ ていることも大切だが、花の大きさが揃い、色彩の 配列が鮮やかであることなど25鉢の総合美を競う ものである。ということで、各出品コーナーにそれぞれ審査基準が詳しく記載されている。 以下は概略を述べるにとどめます。大菊 新花の部 1本仕立、または3本仕立の新花で、品種の異な る3鉢が出品単位となっている部門。 新花は、 未発表の実生独占花か全国菊苗業者が新発表 した普及花に限られる。大菊 自由花管物の部 株立仕立の菊の3種3鉢が出品単位となっている。 品種は管物(太管・間管・細管・針管のいずれでも よい)と限定されている。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(8)・大輪菊花展Aへジャンプ
2002年11月12日
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いよいよ、菊人形展の最終回です。第11景 人質秀吉が没した翌年の慶長4年(1599年)、利家は秀吉の遺言に従い、幼い秀頼を伴って大阪城へ入城した。 長男・利長、二男・利政も入り、病気をおして、前田家総力で秀頼を助ける体制をしいた。それから、1ヶ月後利家の病状は重くなり、秀吉の後を追うように同年3月この世をさった。 享年62歳である。残された前田家は、徳川家康に謀反の疑いをかけられ、証として利家の妻(芳春院)まつを人質に要求された。 長男利長は母の人質を拒むが、彼女は「前田家のためには母を捨てなさい」と言葉強く利長に訓戒し、進んで江戸に向かう決心をした。 この捨て身の献身が功を奏し、加賀百万石は危機をまぬかれる事が出来た。第12景 加賀百万石の春あしかけ15年に及ぶ人質生活、忍従の日々の末に、芳春院(まつ)は金沢に戻ってきた。徳川対豊臣の動乱を乗り越え、外様第一藩として繁栄する姿を目の当たりにし、芳春院は感涙にむせんだ。 長男利長は病弱のため、人質の母に会うことも出来ず、1614年53歳で死去した。 3代目の家督を継いだ利常は、義母にあたる芳春院に利長に代わって孝養を尽くした。 芳春院も好きな文学の道にいそしみ、亡くなった夫、息子の回向をしつつ余生を過ごした。 元和3年(1617年)芳春院は上洛して、高台院(おね)二男の利政を訪ねた。 おねと、まつの想い出話が尽きなかったことはいうまでもない。しかし、金沢に帰った直後7月急病を患い、帰らぬ人となった。 享年71歳である。 <菊人形展は完>※次回は「秋の名古屋城(8)・大輪菊花展」を お送りいたします。 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(7)・菊人形展Eヘジャンプ
2002年11月11日
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第7景 賤ヶ岳異聞信長の葬儀から、柴田勝家と羽柴秀吉は対立の機運を見せてきた。 利家は秀吉、勝家とも好誼あつく、両者の間で微妙な板挟みの形となった。 天正11年(1583年)4月、両軍は賤ヶ岳で激突することになった。利家は義を重んじ、勝家に三女摩阿姫を人質として、越前北ノ庄城に差し出して味方したが、戦い半ばで突然撤退をはじめ、その結果勝家軍は総崩れとなった。天正11年4月24日柴田勝家は敗北し、北ノ庄城は落ちた。勝家は、人質の摩阿姫を丁寧に身支度を整えさせ、忍びの者をつけて利家の元へ返した。 豪勇な武将と名高い勝家にも繊細な心を持つ一面があった。第8景 末森城出陣賤ヶ岳の戦いの後、今度は徳川家康が信長の次男・信雄を立てて、天正12年(1584年)尾張の小牧・長久手で秀吉と激突した。 これと呼応して、家康側についた佐々成政が利家の末森城を攻めた。 利家は家臣の慎重論を退けて、すぐ援軍を送ったが、この時まつが、自重をうながす秀吉の命に逆らうべきか迷っていた利家を「大切な家臣を見殺しにするのか」と叱咤したという。利家は2,500の手勢で、15,000の成政軍の背後をついて末森城に入城した。 反撃をあきらめて越中に後退した成政は、上杉と利家に挟まれて孤立した。第9景 さらさら越え天正12年(1584年)11月下旬、徳川家康は秀吉に和睦、織田信雄も小牧・長久手戦で和睦し、佐々成政はますます孤立した。 浜松の家康を説得に出かけたが、唯一の道は厳冬期の北アルプス縦走という危険な賭であった。 さらさら峠と呼ばれる岩盤が脆く、足元がざらざらとこぼれてしまう峠は難所で、新雪が積もった3000m級の山を主従100余名で越えたと伝えられている。第10景 花の醍醐寺慶長3年(1598年)春、豊臣秀吉は有名な山城の醍醐寺の花見を盛大に行った。 前田利家夫妻も2人揃っての出席で、秀吉も大変機嫌良く2人を迎えた。 おねとまつも久しぶりの再会で、涙ながらに昔がたりをした。犬と猿になって、想い出にむせぶ秀吉と利家は、刻を忘れて語り合ったことであろう。その後、秀吉は体調を崩し、その年の夏8月18日に没した。 生前の秀吉は五大奉行を決め、特に利家に6歳の秀頼を盛り立てて欲しい事などを頼んだ。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(6)・菊人形展Dヘジャンプ
2002年11月10日
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昨日お送りした、菊人形展Bの続きです。第4景 信長親衛隊、赤母衣衆(あかほろしゅう) 母衣衆とは戦場を走り回って軍令を伝える屈強な 武者のことで、信長には赤母衣衆と黒母衣衆の2 隊があった。 利家は永禄5年(1562年)25歳で 信長の赤母衣衆の一員に加えられた。 赤母衣衆は小姓から選抜され、黒母衣衆は馬廻 りから選ばれたという。 黒母衣に比べ、赤母衣 は年下だったようだ。 やがて、利家は赤母衣衆 の筆頭となり、そのときの黒母衣衆の筆頭は 佐々成政である。 赤・黒共に10名の編成であ った。 母衣(ほろ)というのは、矢の攻撃を防ぐために 背中に背負った布のことで、馬を疾駆させると膨 らむという仕掛けになっており、母衣の色が赤・ 黒になっていたといわれる。 母衣の着用は平 安時代から見られたという。第5景 御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ) 天正5年(1577年)8月、越後の上杉謙信の 軍勢は能登に攻め入った。 土地の漁民や農 民等は軍兵の侵入を阻止しようと、深夜能登 の浜辺に松明をともし、太鼓を持ち出して3人 で怪奇面を着け、頭から海藻をかむり、着流し さらしの軽装で代わる代わる太鼓を打ち鳴らし た。 重低音の太鼓の音は、荒波の岩に打ち 付ける音と和して、その響きは鬼気迫るものが あったという。第6景 本能寺の変 天正10年(1582年)6月2日、京都に上った 織田信長は公家、町衆を本能寺に招いて大茶 会、酒宴を開いた。 これが、信長にとって最 後の晩餐となった。 明智光秀の1万3千の軍 勢に包囲され、森蘭丸をはじめ側近の者達が 奮戦したが、多勢に無勢、同じ小姓衆の弟坊 丸、力丸の3兄弟そろって討ち死にした。蘭丸 18歳であった。 もはや、勝ち目はないと悟ると、信長は本能寺 に火を放ち自害して果てた。 天下統一の夢も 49年の信長の生涯も、本能寺の火炎の中に 消えた。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(5)・菊人形展Cへジャンプ
2002年11月09日
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名古屋城・第50回記念菊人形展「前田利家とまつ」第1景 荒子の里 前田利家は尾張の国荒子村に、荒子城主前田利春の 4男として生まれた。 天文7年(1538年)のことであ る。 幼名を犬千代といい、少年時代から奇抜な風体 で喧嘩好きな”かぶき者”として知られていた。 15歳 で織田信長に仕え、数々の武勲をあげ、「槍の又左右 衛門」として名をあげた。 利家の妻”まつ”は12歳で いとこにあたる利家と結婚し、流動の戦国時代を仲む つまじく、二人三脚で乗り切っていく。第2景 犬と猿の合同結婚 前田利家(幼名犬千代)と木下藤吉郎(幼名日吉)は 共に織田信長に仕え、利家22歳、嫁まつ12歳、藤吉 郎26歳、嫁おね14歳で結婚にこぎつけた。 両夫婦 共に親しい間柄で、祝言も一緒にとり行うこととした。第3景 桶狭間の戦いでの活躍 永禄3年(1560年)5月19日、今川義元は兵1万人 余りを率いて尾張に侵入し、鷲津、丸根など信長方の 砦を攻め落とし、桶狭間山に本陣を置いた。 信長軍は清洲城をたち、雨の降りしきる中を、桶狭間 山の今川軍に激しい攻撃を仕掛けた。 信長軍の兵 は五分の一にみたない1800人だったという。 油断 しきっていた今川勢はたちまち崩れ去った。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(4)・菊人形展Bへジャンプ
2002年11月08日
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二の丸庭園の紅葉を撮影し終わり、次いで菊人形展を見に行く。 今年は第50回記念とかで特に力を入れているらしい。 私は50年間で5回くらいしか見に来ていない。 敬老パス(名古屋在住の65歳以上)をもっていれば、名古屋城への入場料は無料であるが、特別展分は別途料金がかかる。 今回は300円支払って中に入る。会場入り口に菊人形が飾ってある。 今年のテーマは「前田利家とまつ」である。 先日行われた名古屋まつりの郷土英傑行列でも利家は馬上で颯爽とした姿を披露し喝采をはくした。 しかも、金沢から少年鼓笛隊が約60人参加して、花を添えてくれた。ご存じのように、利家は秀吉と共に、この城の近くの中村出身である。 彼らが幼少の頃勿論この城は建っていない。 こんな大きな城が建つことを、幼少の彼らは想像すら出来なかったに違いない。さて、入り口近くに、綺麗な菊の懸崖やスプレーマムが咲いている。 先ずは、入場に先立ちそれらの花達を撮影する。スプレーマム(スプレーギク) 蕾を摘まずに、房状に花を咲かせるキクのことで、 主にオランダ、イギリス、アメリカで育成されてきた。 欧米では一輪仕立てをスタンダードと呼び、房咲き 仕立てをスプレーマムと呼んで区別している。 花型には一輪咲き、アネモネ咲き、管咲き、デコラ ティブ咲き、ポンポン咲きなど多様である。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(3)・菊人形展Aへジャンプ
2002年11月07日
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名古屋城を撮影したあと、二の丸庭園に向かう。 旧二の丸東二の門から内堀の外に出る。 この門の形式は高麗門で、国重要文化財である。 出たところから、東南隅櫓を撮影する。 辰巳櫓ともいわれ、創建当時の姿を伝えているもので、鬼瓦などに葵の紋がある。さて、二の丸庭園が見えて来た時、ごく一部だが紅く染まっているところがある。 近寄って見ると、まさに紅葉である。3~4分というところか。 名古屋城内で「紅葉狩り」が出来るとは、考えてもいなかった。 夢中でシャッターを押す。殆どの人達が、天守閣か菊人形展に集中しており、ここ二の丸庭園は人影もまばらである。 おかげで、のんびりと撮影することが出来た。 そばに、二の丸茶亭があり、数人がお茶をのんでいる。芸処、茶処の名古屋だけに、勿論抹茶である。 作法など知らなくても、のめばいいらしいが、どうも入りにくい。 少し離れた自販機に行き、冷たいお茶を飲む。 - つづく - 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(2)へジャンプ※ 明日は「菊人形展・利家とまつ」をお送りいたします。
2002年11月06日
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3連休最終日の4日午後名古屋城に久しぶりに行って来た。 10/17、大阪城を撮影したので、次回は名古屋城と決めていた。 午前中は晴れていたが、午後雲行きが少し怪しくなって来た。 兎に角晴れているうちに撮影したいもので、いささか焦る思いで、名古屋城に急ぐ。 13:30東門に到着。 まっすぐ天守閣に向かう。 運良く晴れて来た。秋空を背にした名古屋城を撮影することが出来たのは幸運としかいいようがない。名古屋城は慶長17年(1612年)徳川家康によって築かれた、尾張徳川家の居城で、代表的な平城である。昭和20年(1945年)戦災で焼失したが、昭和34年(1959年)大天守閣と小天守閣とが再建された。幸い石垣は殆ど大丈夫であったが、その中に加藤清正が曳いたといわれる巨大な石がある。 こんな大きな石をどうやって運んだのかは興味があるが、天守閣の中に運ぶ様子を示した、実物大の模型がある。 画像は下記をクリックして下さい。 秋の名古屋城(1)へジャンプ※次回は「名古屋城内で紅葉狩り」をお送りいたします。 - つづく -
2002年11月05日
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無料招待状をもらったので、栄○越百貨店へ出かける。世界のトールペイント展とあるが、内容はよく分からない。要するにペインティングの展覧会らしい。 会場は思ったより混雑していた。 殆ど女性である。場内の案内嬢にトールの意味を聞いてみると、フランス語でブリキ板を意味するらしい。 つまり、昔ブリキのバケツや如雨露に絵を描いて楽しんだ事からスタートしたとのこと。 成る程、芸術というより身近な環境を自分の絵で飾ることから始まったようだ。 ペインティング=生活に密着ということのようだ。ヨーロッパやアメリカのものは、バラ絵とか花の柄が多いが、日本のものは人形、松竹梅、友禅の絵柄とか日本独自のものが多い。 私は残念ながら絵心が無いので、ただ見て感心するだけだが、非常に参考になった。要するに、芸術であろうと、ペインティングであろうと、良いと思えるものは、いいのである。帰途、栄地下街とオアシス21に立ち寄る。 従来は3連休ともなれば、名古屋の中心地はがら空きであったが、不景気のせいか、人人人の大混雑である。一旦我が家に帰り、昼食後名古屋城に出かけたが、そのレポートは明日いたします。 画像は下記をクリックして下さい。世界のトールペイント展と栄界隈へジャンプ
2002年11月04日
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今日の午後熱田神宮に行ってきた。 七五三を取材するためである。 例年15日より3日の方が人出は多い。13:00前に西門に着く。 予想通り混雑しているようだ。女の子は殆ど着物姿で、男の子は半分くらい着物を着ている。 男の子はなにか歩きにくそうで、落ち着かない。熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ、由緒ある大宮である。創始は、三種の神器の一つ、草薙神剣(くさなぎみつるぎ)の鎮座に始まるという。 景行4年(113年)の創設で、面積は19万㎡、古くは尾張造りであったが、明治29年(1893年)伊勢神宮と同じ神明造りに改築した。現存の一番古い建物は、西楽所で五代将軍綱吉が再建したものという(1686年)。 舞楽神事を行うところで、本来は東楽所が向かいにあったが焼失したらしい。さて、本宮拝殿に近づくと、人、人、人の波で、呑み込まれそうになる。 アルバイトの巫女のお姉さんが、着飾ったチビッコ達にお祓いをしているのが微笑ましい。 昨年も見かけたが、今年も結婚式を終えたばかりの新郎新婦がいた。 注目の的である。 何組かのファミリーから、シャッターを押すよう頼まれた。 まあ、これもご奉仕といったところか。 一時間ばかりいて帰途につく。 途中で大輪の菊花展をやっていた。 勿論撮影する。 地下鉄神宮西駅で乗車したところで、今日もプールに行く事にした。 ナゴヤドーム矢田駅で下車する。 プールは思ったより空いていた。 プールは各区にあるわけだし、熱田神宮は各地から来るので込み具合が異なるのは当然の事と納得する。 画像は下記をクリックして下さい。 熱田神宮・七五三ヘジャンプ
2002年11月03日
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昨日は東スポーツセンターがオープンしたが、温水プールの供用は今日からである。 入場料1回につき大人500円だが、連休中だけ無料サービスである。ということは、当然混雑が予想される。 08:45家を出て、スポーツセンターに09:00到着。長い列が出来ていると思ったら、なんと私がトップである。 開場は10:00なので、まだ一時間ある。多分早く来た人達は、他の会場を見学するか、休憩所で待っているに違いない。 入場料は無料だが、ロッカー用に10円必要とか。100円が両替出来るよう、両替機が置いてある。私がトップで並んだ直後、チビッコ達が6人やってきた。 早速私の後に並ぶ。 10円持っているかと聞くと、全員ちゃんと持っていた。 子供達のほうが良く知っている。 10:00定刻、男子の組は私を先頭に脱衣室に入る。ところが、プールに入ったのは6番目である。 なにぶん沢山着込んでいるので、脱ぐのに時間がかかった。 まあ、チビッコにかなうわけはない。 それと、ロッカーは10円と聞いていたのに、私の所は20円必要であった。 つまり、Wサイズの大きなロッカーだった。 衣服の下の方から、コイン入れを探すのに一苦労する。 ということで、遅くなった次第である。他の市民プールでは、入る前に必ず体操をするが、ここのプールは適当に体を動かす程度でいいらしい。がら空き(すぐ混雑したが)のプールで泳ぐのは最高の気分である。 11/17~24までのイタリア旅行へのトレーニングに最適であるが、過ぎたるは及ばざるがごとしとか、そこそこにしておかねばならない。20分位泳いだところで、後は歩行コースを専ら歩く。 歩くのは初めての経験で、意外に歩きにくい。 何事も、やってみなければ分からないものである。 一時間でうち切る。 脱衣室を出て、喫茶室にいく。3日間だけコーヒーが100円引きで、僅か80円ですんだのはありがたかった。12時前に、一旦我が家に帰り、昼食後再び出かける。 友人の息子さんの結婚式に出席するためである。 9月に行ったロスの結婚式は、聖公会の教会だったので、荘厳な感じであったが、今日の会場は普通のプロテスタントの教会なので、明るい雰囲気の結婚式であった。 新婦が卒業した大学の後輩による聖歌隊が華をそえてくれた。 画像は下記をクリックして下さい。温水プール・オープンへジャンプ3日の日記 (AM 09:00)テスト日記今日午後753の取材に、熱田神宮に行ってみよう。
2002年11月02日
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今日の午後、いよいよ待ちに待った東スポーツセンターのおープンである。 昨年10月に一部オープンしていたが、新たに競技場、軽運動室、温水プールなどの完成により、全館オープンとなる。お目当ては、もちろん温水プールである。 昨日すでに水泳キャップは買ってあるので、準備は整っている。ところが、新聞をよく読むと、確かに今日オープンするが、祝典の行事だけで、プールの利用は明日からとある。 う~ん、残念。 明日は知人の結婚式にでなければならない。 まあ、折角だから祝典の後イベントがあるようなので、それを見にゆくことにする。 イベントは午後なので、午前中は雨の中を栄に出かける。 ガス展の抽選券を持っていることを思いだし、会場に立ち寄る。雨とあって例年より人出はすくない。このガス展は、ガス利用者へのサービスとして、年一回抽選会を行っている。 もう、40数年も続いている。当然のことながら、ほとんどが最低の3等賞で、景品は「献立いろいろみそ」である。 5年に一回くらい2等賞が当たるので、必ず行くことにしている。大きなポスターの下に、ガーベラの鉢植えがまさに花を添えている。 抽選の結果は残念ながら3等賞。正午をすぎたので、地下のレストランに行くが、どこも長い列ができている。 やむなく、大曽根にいって食事をした。 イベント会場に14:00には着いてしまった。 時間つぶしに、東図書館にはいる。 この図書館もプールと同じく、新出来町の徳川園から移転してきた。 徳川園は万博までに間に合うよう、大庭園などを新設している。 徳川美術館とあいまって、名古屋城に次ぐ、第二の観光名所を目指している。14:40会場に行く。 まだ使用できないが、真っ先に新設の温水プールを覗いてみる。 さすが立派なものだ。 25mの7コースである。 1コースは学童用(水深0.8m)、1コースは歩行用(水深1.1m)で、幼児用の水深0.5m、50㎡のプールもある。定刻14:45からイベントが始まる。 先ずは、近所の小学生による吹奏楽で、なかなかの熱演で楽しませてくれた。 ついで、社会人チームによるバスケットボールの練習風景と紅白試合があった。一流のチームらしく、迫力があった。15:30外に出てみると、なんと雨はやんで日が射していたのには驚いた。 明日からを期待しつつ、帰途につく。 画像は下記をクリックして下さい。東スポーツセンター・オープンへジャンプ
2002年11月01日
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