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八日目(6)ハンガリー(9)ブダペスト・西洋美術館聖イシュトヴァーン大聖堂の見学を終えて、徒歩でヴェルシュマルティ広場に向かう。 もう午後一時に近い。 広場の近くにはカフェやプレイガイドがあり、連日人通りが絶えない賑わいである。 ブダペスト随一の繁華街ヴァーツィ通りの入り口にあたり、各種イベントが常に催されているという。 広場では中世の衣装をまとった人々が、オペラやコンサートのチケットを販売している。 中央には広場の名称になっている19世紀の詩人、ヴェルシュマルティの像が立っている。ここで、ツアーとしての観光は終わり、午後は自由行動となる。さて、昼食であるが、広場に来る途中「すし」の看板が目に入った。 名古屋3人組はそこに行く事にする。 ウィーンの天満屋いらいの和食である。 「すし庵」に入って驚いた。 なんとスタッフの殆どがハンガリーの人達である。 店内はカウンターのみで、16席ある。 すしだけでなく、みそ汁もあるのが嬉しい。 午後一時過ぎということもあってか、客は我々を含めて6名だった。 3名は地元の人らしい。 久しぶりのすしは美味であった。 SUSHIは今や国際語になったようだ。昼食後何処に行くか皆で話し合うが、特にここという希望はないとかなので、私が行きたい西洋美術館に付き合って貰う事にする。 お目当ての絵は17世紀フランドル絵画の巨匠ルーベンスとその一番弟子のヴァン・ダイクが共に描いた古代ローマの英雄伝「ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ」(1612)である。--つづく--すし庵19世紀のハンガリーの詩人・ヴェレシュマルティの像西洋美術館
2002年02月28日
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八日目(5)ハンガリー(8)ブダペスト・聖イシュトヴァーン英雄広場を後にして、聖イシュトヴァーン大聖堂に向かう。ブダペストには、教会や聖堂が沢山あるが、その中でも最大の規模を誇る大聖堂である。 ハンガリー建国1000年に間に合うように1851年に工事が始まったが、実際に完成したのは1000年祭の9年後にあたる1905年のことである。ペスト(ドナウ川の東岸)の町並みでも、ひときわ目立つ、直径22m、高さ96mのドームの屋根は、建築の途中に崩れ落ちたこともあるという。 54年の歳月をかけて造られただけあって内部の壁画やステンドグラスなど装飾も見事なものである。聖堂内の宝物館には、ハンガリー初代国王で聖堂の名称にもなっている、イシュトヴァーン国王の右手のミイラが安置されている。--つづく--聖イシュトヴァーン大聖堂正面の扉(キリストの12使徒の像が彫られている)聖堂内部よりドームを望むイシュトヴァーン国王の右手のミイラが安置されている
2002年02月27日
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八日目(4)ハンガリー(6)ブダペスト・英雄広場王宮の丘の見学を終えたところで、30分間休憩を兼ねてショッピングを楽しむ。 付近の景観との調和を考えてか、各店の入り口は質素だが、一歩中に入るとカラフルな刺繍製品が天井から沢山ぶら下がっており、華やかな雰囲気である。 フォアグラの缶詰も置いてあった。 何と日本で買う価格の三分の一以下である。 早速買い物篭の中に入れる。 あれも欲しいこれも欲しいと目移りするが、可愛い模様のテーブルセンターを数点あわせて購入する。10:50再びマイクロバスに乗り、丘を下り、くさり橋を渡ってペスト地区へと入って行く。 アンドラーシ通りを進む。車窓左手にオペラハウスが見える。 「ハンガリー狂詩曲」などで有名な19世紀の作曲家フランツ・リスト(ハンガリー名リスト・フェレンツ)の像が入り口に立っている。 やがて、バスは英雄広場に到着し、下車する。 この広場は896年にマジャール民族が現在のハンガリーの地を征服してから、丁度1000年に当たる1896年に造られた。 中央に立つ建国記念碑は高さが35mもあり、大天使ガブリエルを頂きに、マジャール7部族の長が控えている。記念碑正面に向かって左側に西洋美術館が、右側に現代美術館がある。 広場の奥には市民公園が広がっている。 約1km平方米の園内に3つの温泉プールをはじめ、さまざまなレジャー施設が整っており、ブダペスト市民の憩いの場となっている。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ハンガリー)王宮の丘の広場付近にある果物屋さん英雄広場の記念碑
2002年02月26日
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八日目(3)ハンガリー(6)ブダペスト・漁夫の砦、くさり橋マーチャーシュ教会のすぐ傍に漁夫の砦がある。 かってこの城塞を守っていた、ドナウの漁師たちにちなんで名付けられたという。 眼下にドナウ川、その先にペスト地区の町並みが広がっている。 まさに絶好のビューポイントである。 ネオ・ロマネスク様式の白い尖塔を中心に、回廊で結ばれた丸い塔が続く建物は、1899年から6年の歳月をかけて築かれたという。 設計者はマーチャーシュ教会の再建も担当したシュレク・フリジェシュである。 彼はもともとこの場所にあった中世の城壁を利用してこの砦を築いたという。砦からドナウ川を見下ろしながら、デジカメのシャッターを押し続ける。 特に「くさり橋」が素晴らしい景観のアクセントになっている。 この橋はブダ地区(ドナウ川の西岸)とペスト地区(同東岸)を結んだ最初の橋である。 ハンガリーの近代化に尽力した、19世紀の貴族セーチェニ伯爵の命により造られ1849年に完成した。 第二次世界大戦で破壊された為現在の橋は1949年に復元されたものである。 ブダ側、ペスト側にそれぞれ2頭のライオン像が設置されているのが特徴とか。 しかし、この砦からはその確認は困難である。 夜になると王宮ともどもライトアップされるとか、今夜のドナウ・クルージングが楽しみである。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ハンガリー)漁夫の砦砦よりドナウ川を望む砦より「くさり橋」を望む
2002年02月25日
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八日目(2) ハンガリー(5)ブダ王宮、マーチャーシュ教会さて、ブダペストのシンボル、ブダ王宮は代々のハンガリー王の居城として利用された建築物で、現在みられるゴシック様式とバロック様式が混在した建物は1950年代に修復された姿である。 その歴史の発端は1242年国王ベーラ4世の時代に遡る。 14世紀にはブダに都が移され、当時の国王ラヨシュ1世の王宮が築かれた。 マーチャーシュ王の治世下である15世紀にはハンガリー・ルネッサンスの花が開いたが、トルコ軍の来襲により荒廃した。 17世紀にはハプスブルク家の所有となり、大規模な増改築がなされたが、火災により焼失してしまった。 1903年に新築された王宮も2度の大戦で被害を受けた。 銃弾跡もなまなましい建物がそのまま残っている。 多分戦争はもうごめんだとの思いを込めて保存しているのだろう。次いで、三位一体広場を通ってマーチャーシュ教会に向かう。この広場は王宮の丘の中心にあり、世界中の観光客で賑わっている。 中央に立つ三位一体像は、18世紀に流行したペストから助かった人々によって1712年に建てられたものである。広場のすぐ傍にマーチャーシュ教会がある。 精巧な装飾が施された石の尖塔と鮮やかなモザイク屋根が特徴である。 ベーラ4世の命により、13世紀に王宮の建設と時を同じくして建てられたが、マーチャーシュ王の時代にこの尖塔が造られたため、その名で呼ばれるようになった。 その後トルコ軍の侵略でモスクに改築されたが、トルコ軍の撤退とともにカトリック教会に戻された。 第二次世界大戦で被害を受けたが、資料をもとに忠実に復元され現在に至る。 内部の素晴らしさは特筆ものである。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ハンガリー)王宮入り口王宮内庭園(ハボタン)三位一体広場マーチャーシュ教会の尖塔マーチャーシュ教会のモザイク屋根
2002年02月24日
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八日目(1) ハンガリー(4) ブダペスト・王宮の丘さあ、いよいよ最終地ブダペストの観光である。早朝5:50目が覚める。 外はまだ暗い。 7:00朝食後、ホテルの近くの小公園を散歩する。 地元の人達も犬を連れて散歩している。 すぐ傍をトラム(路面電車)が走っているので、近くの停留所の名前を地元の人に聞く。 家内が一生懸命聞いているが、よく分からなくて紙に書いてもらう。8:50ロビーに集合し、直ちにマイクロバスで出発し、王宮の丘へと向かう。 ブダ王宮はドナウ川西岸の小高い丘にあり、ブダペストのいわばシンボルである。ブダの起源は遠く2000年前のローマ帝国時代に遡る。ドナウ西岸にローマ軍の駐屯地が作られたのが始まりである。現在のブダペストの町の形成は、9世紀末にこの地を踏んだ騎馬遊牧民族マジャール人の手による。 ハンガリー人の祖先マジャール人達は彼等の族長の名をとって、この土地の名をブダと称した。 ドナウ東岸にペストという町が形成されたのも同じ頃である。 どちらも、南北ヨーロッパを結ぶ貿易の拠点として栄えたが、13世紀にモンゴルの来襲をうけて町は破壊された。14~15世紀に入ると、町の勢いは再び強まり、特に15世紀後半のマーチャーシュ王の時代には、ハンガリー・ルネッサンスの花が開いた。 しかし、オスマントルコの侵略により、1541年にブダの町はトルコ軍に占領された。 17世紀末まで続いたトルコの支配が終わると、政権はハプスブルク家の手に渡った。 1873年ブダとペストが統合されて、人口約30万人のブダペストが誕生した。その後、第一次、第二次世界大戦時にはブダペストの町は戦場となった。 戦後は社会主義国家としての道を歩み始めたハンガリーだが、政体に対する不満は高まり、1956年にはハンガリー動乱が勃発し、ブダペストの町にソ連軍が介入し、死者の数は数千人を超えた。1980年代のソ連のペレストロイカの影響を受けて、自由主義国家へと変革を遂げてからは、その首都としての発展を続けている。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ハンガリー)ホテルの近くの小公園の散歩道現地の人にトラムの停留所の名前を聞くブダペスト王宮
2002年02月23日
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七日目(3)ハンガリー(3)(センテンドレ・ワイン博物館)昼食後早速、地下2Fのワインセラー兼ワイン博物館へ降りていく。 担当者がワインの歴史から詳しく説明してくれる。人類が地球上に誕生するはるか昔から、野生のブドウは存在した。 ブドウは中央アジアのカスピ海周辺が原産地といわれ、考古学者の研究では紀元前8000~6000年の新石器時代に、すでに人類がワインを作っていたと推測される。ブドウ果汁の発酵を意図的に利用したのは、メソポタミヤに最古の文明を築いた民族シュメール人だったようだ。 紀元前3000年頃の粘土板に楔形文字でワインに関する記述が書かれているという。 人類の歴史はまさにワインとともにあるといっても過言ではない。トカイ貴腐ワインの素晴らしさは、フランスのルイ14世(1638~1715)が、あの有名な「ワインの帝王、帝王のワイン」という名言を残している。 トカイは首都ブダペストから北東に約200km、スロバキヤ、ウクライナとの国境近くに位置している。 1502年に、この地方の名門貴族だったガライ家が当時7ヵ所あった名ブドウ畑を統合し、その後この名畑は貴腐の発見で有名なラーコーツィ・フェレンツ2世の所有に移った。 1711年このラーコーツィ2世をうち破った、オーストリア皇帝はいちはやく、この畑を皇帝領とした。話は延々と続きそうなので、適当にうち切ってもらい先に進む。U字形をした長い洞くつである。 最後にトカイ貴腐ワインのテースティングが出来るコーナーがある。 15:00外に出てみると、雨が降っている。 30分間町を散策することになるが、石畳がぬれており歩きにくい。 まづは、土産物屋で物色する。 カラフルな刺繍製品が目を引く。お値打ちなのは、可愛らしい布製のパッケージに入ったパプリカである。 刺繍製品は孫娘達に、パプリカは友人達にそれぞれ購入する。15:30センテンドレを後にしてブダペストに向かう。 約一時間後にホテルに着く。 --つづく--センテンドレ・ワイン博物館
2002年02月22日
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七日目(2) ハンガリー(2)(センテンドレ)10:50エステルゴムを後にして、バスはドナウ川沿いに走る。 国道11号線である。 車窓右手にシャラモンの砦が見える。 高さが32m、壁の厚さが4mもある六角柱の石積みの塔で、ドナウ川の見張りの要所として1250年ごろ建設された。 名前の由来はアンドラーシ1世の息子シャラモンが王位継承の戦いに敗れて幽閉されていたことによるという。11:50バスはセンテンドレに着く。 セルビア人が造ったこの町には多くの教会があり、石畳の路地が中世の趣を残している。 美しい町並みを散策すると、中世にタイムスリップしたような感じである。先ずは昼食をとるということで、鄙びた地下の洞窟といった風情のレストランに入る。 ただのレストランではなくて、地下2Fにワイン博物館をもっている。 特筆すべきは、貴腐ワインが極めて安価に飲めるということである。 日本の一割程度で味わえるのがありがたい。 もっとも、日本では高価すぎて一流ワイン店でないと販売していないようだ。一樽の中に貴腐ブドウ(蝋状になったブドウ)をどの程度加えるかによってNo.3~6まである。 最高級のNo.6は、背中に背負うブドウ篭で6杯分入っているということである。取りあえず昼食用として、No.3をグラスワインとして注文する。 豪勢にボトルで頼んでいるグループもある。 生まれて初めて味わうワインである。 しかもトカイ産の最高級品とか。 黄色く多少とろっとした感じで甘い。 名前の通り芳香に混じって、ほんのりとカビくさい。 料理は鶏のもも肉を煮込んだものと、ベークドポテトにパプリカソースがかかっている。 ワインよし、料理は美味しくて、ついワインも杯を重ねることになる。 といって昼間から酔っぱらっては、午後の観光に差し支えるので、ほどほどにしておく。--つづく--センテンドレの町並み土産品店の店頭のパプリカトカイ貴腐ワインNo.3ハンガリー料理(素朴だが美味、パプリカソース付き)
2002年02月21日
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七日目(1) ウィーンーハンガリー(エステルゴム)昨夜のコンサートの余韻を残しながら、06:00目覚める。朝食後、07:30ウィーンを後にして、バスでハンガリーに向かう。 約一時間で国境に着く。 免税手続きと共にハンガリー・フォリントに両替を行う。 ホテルよりは有利らしい。幸い順調に手続きを終わり、09:10国境を出発し、いよいよ最終地ハンガリーに入り、ドナウベンドに向かう。ヨーロッパ第二の大河ドナウ川が最も美しい姿を見せるのがドナウベンドと言われている。「ドナウの曲がり角」という意味で、地理的に重要な土地だったため、ハンガリー建国1,000年にまつわる数々の重要な史跡がある。先ずは、古都エステルゴムに立ち寄る。 豊かな森と水路に恵まれた町である。10世紀末に初代ハンガリー国王イシュトヴァーンの父によって王国が築かれ、1526年のトルコ来襲まで栄華を極めた。 1869年に完成した大聖堂は高さ72mで、直径34mのドームをもっている、ハンガリー最大のカトリック教会である。 祭壇にはイタリアの画家グレゴレッティによる高さ13mの「聖母の昇天」が掲げられている。 荘厳な雰囲気の内部を見るにつけ、まさにハンガリーにおけるカトリックの総本山というにふさわしい。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(ハンガリー)オーストリア-ハンガリー国境(車窓より)ハンガリーのカトリックの総本山「大聖堂」大聖堂の内部、「聖母の昇天」及び天井画
2002年02月20日
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六日目(6) ウィーンホテルの部屋で一時間半ゆっくりと休憩をとる。 ついでに軽い夕食もすませる。 幸い雨はやんだようだ。16:50ホテルを出る。 地下鉄、市電を乗り継いで会場に向かう。地下鉄入り口で、乗車券を購入すべく自動販売機の前でもたもたしていると、現地の人が丁寧に教えてくれて助かった。必ず刻印機を通して入らなければならない。 地下鉄から市電に乗り換えるとき、同方向に一時間以内の移動であれば、チケットはそのまま使用できる。 とにかく最初に刻印することを忘れてはいけない。先ほど下見しておいたおかげで、17:30会場のMajo-rats Palais に到着する。 2F入り口で予約券を出し、不足分を精算して会場にはいる。 宮殿内の豪華な一室を利用してステージがつくられている。 客席は折り畳み椅子である。 王侯貴族が宴会を楽しんだであろう部屋で、生演奏を聴けるなんて最高である。200人くらい入れる大きな部屋で、最初日本人は私達二人であったが、開演15分くらい前に6名の日本人グループが入って来た。 聞くところによると、ツアーに組み込まれていたらしい。 6名の内一人がなんと、家内の高校時代の親友Hさんであったのには驚いた。 全く偶然としかいいようがない。お互いに同じ時期にヨーロッパに旅行することは知っていたが、まさかウィーンのしかもコンサート会場で会うなんて信じられないことである。 開演まぎわなので、小声でひそひそと旅の様子などを話あっていたようだ。さて、待ちに待った開演である。 ウィーンのレジデンツ・オーケストラが歴史的な衣装を着ての演奏である。 ヨハン・シュトラウスのワルツが中心で、モーツアルトのオペラ序曲が加わる。 演奏の合間に著名歌手とパレーアンサンブルがシュトラウスの名曲にのって観客を魅了する。 名曲の数々と共に、マリア・テレジアやフランツ・ヨーゼフ皇帝の姿がよみがえってくる感じである。一部と二部との間に約30分の休憩があり、ワインやジュースを楽しみながらの談笑も忘れられない一時であった。 家内の親友との思いがけない場所での語らいは、一生の想いでとなったことでしょう。--つづく--コンサート会場(Majorats Palais)ゲーテ像前で
2002年02月19日
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六日目(5) ウィーンさて、腹ごしらえが出来たところで、ウィーン観光を再開である。 Yさんとは天満屋で別れる。 リング内は歩いて回れそうなので、傘をさしてでかける。 先ずはオペラ座へ行き、館内を見学する。 流石音楽の都ウィーンが世界に誇るオペラ座は絢爛豪華の一言につきる。 オペラがオーストリアに伝わった17世紀から約400年間にわたり、ウィーンオペラの歴史を受け継いできた。 初期オペラ座は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が行った都市整備の際に建設された。 1869年に宮廷歌劇場としてオープンし、こけら落としにはモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」が演奏された。1918年にオペラ座と改名する。 歴代の総監督にはマーラーやカラヤンといった指揮者が就任している。 ちなみに、今年のニューイヤー・コンサートでは小沢征爾が指揮をとった。次いで、隣の王宮庭園に行く。 庭園の一角にはモーツアルトの像が立っており、像の前には季節の花がト音記号をかたどって植えられている。続いてリング内側の並木道に沿って歩く。途中王宮宝物館の前を通る。 10世紀より受け継がれてきた、神聖ローマ帝国の帝冠や、宝石がはめ込まれた黄金の王冠が展示されているとかだが、残念ながら時間の都合で割愛し、入り口の写真だけを撮る。さて、今夜のハイライトは待望の宮殿内コンサートを聴くことである。 今朝ホテルをでかける前に、ロビーにパンフレットがあったので、コンサートの予約をしておいた。 会場はブルク劇場近くの Majorats Palais とあり、地図もあるが何分夜なので、事前に場所を確認しておく必要がある。 ブルク劇場はリング沿いなのですぐ分かったが、会場はなかなか見つからない。 宮殿風の建物が目当てだが、どの建物もそのように見えて、途方にくれる。 雨宿りを繰り返しながら、やっと会場を確認できほっとする。コンサート開始までまだ4時間もある。 いささか疲れたので、一旦ホテルに帰ることにする。 市電と地下鉄(U-Bahn)を乗り継いで、無事15:00頃ホテルに帰ることが出来た。--つづく--リング内にあるローマ遺跡カールス教会コンサート会場付近
2002年02月18日
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六日目(4) ウィーン市民公園での散策を終えてバスに戻る。 バスは旧市街の街並みを囲むリング通りを右回りに走る。 約4kmのリングを一周すると、街の様々な表情を見ることができる。 このリングはドナウ運河沿いの道(フランツ・ヨーゼフス・カイ)を含んで形成され、城壁をこわしてリングを建設したのは1857年のことである。 通りには街路樹が続いており、両側に歴史的建造物が立ち並んでいる。 車窓から国立オペラ座(スターツオーパー)、旧王宮、自然史・美術史博物館、国会議事堂及びウィーン大学等を眺める。 途中から生憎雨が降り始めた。約15分で一周して再びオペラ座前に戻り、ここでバスを降りる。慌てて傘をさして、ひとまず伊勢丹に集合する。 買い物の説明があり、12:30一旦解散し、午後は自由行動となる。さて、昼食であるが、伊勢丹には残念ながらレストランはない。現地のガイドさんに聞いたところ、近くに日本料理店があるらしい。 名古屋3人組はそこへ行くことにし、早速雨の中を出かける。幸い伊勢丹のすぐそばに天満屋があった。 日本料理店である。 お座敷もあり、すしのカウンターもあったが、テーブル席にした。 久しぶりの日本食である。 メニューを見ながら迷ったが、結局私と家内は天ぷらうどん定食とし、Yさんはサシミ定食を注文した。 日本酒も飲みたかったが、昼間なので地元のビールで我慢した。 日本で食べるのと全く変わりのない美味しさであったが、値段が少々高いのはやむを得ない。 午後一時に近いのに店内は結構混んでいた。 半分以上は日本人観光客であるが、現地の人達も器用に箸を使って食事をしていた。--つづく--オペラ座裏門付近(左側)リング並木道王宮宝物館入り口天満屋で日本料理を楽しむ筆者(2001.11.12)
2002年02月17日
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11:00 シェーンブルン宮殿を後にして市民公園に向かう。この公園は1862年にウィーン改造計画の一環として造られた、初の市立公園である。 春になると色とりどりの花に囲まれとか。 初冬ながら緑豊かな樹木に覆われている。 金色に輝くヨハン・シュトラウスの像があることでも有名である。中央にはウィーン川が流れている。 ドナウ運河より水を引いている。 川を引き込んだ公園には、ほかにも噴水や池が配され、いたるところに水の流れを活かしたイギリス風庭園である。オペラ座に近く、いわば街の中心部にありながら、木々により街の喧噪が遮断されており、公園は驚くほど静かで、市民の憩いの場となっている。 散歩道を歩いていくと、シュトラウス以外にもシューベルトやブルックナーなどの像にも出会える。特に金色のシュトラウス像の前は記念撮影の名所となっていて、観光客が順番待ちで行列して並んでいる。ヨハン・シュトラウスといえばすぐ「美しく青きドナウ」を思い出すが、まさにワルツ王でワルツを170曲残したという。東欧諸国にワルツが広がり、「ウィンナーワルツ」を左まわりで踊れば、上流社会人としてのたしなみがあるといわれたが、シュトラウス本人は全くステップを踏めなかったというエピソードが残っている。--つづく--市民公園入り口付近公園内散歩道ヨハン・シュトラウス像
2002年02月16日
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六日目(2) ウィーン(3)宮殿内の見学を一時間しか予定していなかったので、足早の見学となった。 濃茶の漆塗りに金で描かれた花鳥や東洋的な風景が壁一面をおおっているロココ様式の部屋「漆の間」や、二度にわたってウィーンを占領したナポレオンが使用したという「ナポレオンの部屋」などをもっとゆっくり見学したかった。さて、外に出て裏庭に廻る。 宮殿の後方に広がる庭園は、総面積が約2キロ平方米で、花壇と並木道の幾何学的な構成はジャン・トレベルによる設計で、宮殿と同時進行で進められ1705年に完成した。 1765年に修正され今に残る優美な庭園となった。広大な敷地の中央にある小高い丘に、ギリシャ風神殿の「グロリエッテ」が建っている。 当初この丘は宮殿の建設予定地であったが、経済的理由で変更され、1757年にマリアテレジアがプロイセン勝利を祝い、戦没者慰霊の意を込めて建設した。 新古典主義様式の建物である。グロリエッテの建つ丘の麓に、ネプチューンの噴水がある。広い水面に映える、美しく力強い彫刻はフランツ・アントン・ザウナーによるものである。グロリエッテまで登りたかったが、往復に約一時間はかかるとのことで、やむなく断念する。 11:00正門近くに集合する。--つづく--庭園内の並木道ネプチューンの噴水
2002年02月15日
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六日目(1) ウィーン(2)09:00 ウィーンのホテルをバスで出発する。 雲行きがあやしい。 先ずは、ハプスブルク家の離宮であるシェーンブルン宮殿に行く。シェーナー・ブルンネン -「美しい泉」の名を持つこの宮殿は、女帝マリア・テレジアに愛された栄光ある時代の名残を今に留めている。 緑にはえるマリア・テレジア・イエローの外壁が美しい。 元は17世紀の壮大なバロック式建築であったが、その宮殿をマリア・テレジアが子供達の住居にするために改造し、ニコラウス・パカッシによるロココ調の様式を加え1749年に完成させた。 部屋数は1441、使用人は1000人を超えていたという。 この宮殿はハプスブルク家の人々が公務を離れ、家庭生活を楽しむくつろぎの場であった。 そのため逸話も多く、後のフランス国王ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが幼いモーツアルトにプロポーズされたという「鏡の間」も見ることが出来る。 但し、残念ながら館内は撮影禁止である。1441室のうち公開されているのは39室である。正門を入り「名誉の中庭」の階段を上がると、全長43mの「大ギャラリー」に至る。 かって宮廷の大宴会や舞踏会などが開かれた豪華な大ホールである。 天井をマリア・テレジア治世下の帝国版図を寓意的に描いたグレゴリオ・グリエルミのフレスコ画がおおい、白と金の紋章のモチーフで飾られた室内を華麗なシャンデリアが照らしている。 1814年「会議は踊る」で有名なウィーン会議が開かれ、現代史においては1961年のケネディとフルシチョフの会談など重要な舞台となった。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(オーストリア)シェーンブルン宮殿広大な裏庭
2002年02月14日
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五日目(5) ウィーン(1)部屋に入り暫く休憩の後、19:30ホテルを出る。 バスでウィーン郊外に近い19区のグリンツィングに向かう。 中心部から北西の方向である。 ブドウ畑の名残のある一画で、今もブドウが植えられ、ワインを生産している。 ホイリゲと呼ばれる、ワインの新酒を飲ませる居酒屋でもある。ホイリゲが始まったのは、皇帝ヨーゼフ2世が、ウィーンのブドウ栽培農家に一年間300日以内であれば、自家製のワインと簡単な食事をだす飲食店の許可を出した。 それは今から約220年前の事で、1780年代とされている。 当時の農家のサイドビジネスというべきものであった。ホイリゲとは「今年」という意味で、今年のワイン、いわゆるヌーボー・新酒ワインが飲めるということである。 赤、白、ロゼなどがあるが、白ワインの比率が高いとか。 11月11日の解禁日前の8月末からモスト(ワインになる前のブドウジュース)とシュトルムもたのしめる。 シュトルムは発酵が進んだもので、口当たりがよく飲みやすいが、アルコール分が高いので、飲み過ぎは要注意である。料理は名物の「ウインナー・シュニッツエル」である。 薄く延ばした子牛の肉にパン粉をつけて揚げたウィーン風カツレツといったところか。 ワインは白を注文する。 ワインよし、料理は美味しいということで、大いに飲みかつ食べる。そのうちテーブルのすぐそばで、バイオリンとアコーディオンの演奏が始まる。 皆がよく知っているヨーロッパの民謡である。 いつの間にか体がリズムをとっている。 つい調子に乗って、家内と20数年ぶりに踊り始めた。 他の人達も続いてくれるものと思ったのに、なんと二人だけの踊りとなり急に緊張する。 早く一曲終わって欲しいのに、サービスのつもりか長々とやっている。 適当に合図してやっと終わる。 拍手の大きさの割に、いまひとつ納得のいかない踊りだったのは残念だが、何分急なことなのでやむを得ない。 チップをはずんだことはいうまでもない。ワインを飲めない2~3人をのぞいて、いささか盛り上がり過ぎた感じで、21:30過ぎホイリゲを後にする。 ※カメラを忘れて行ったので、撮影出来なかったのは残念 でした。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(オーストリア)ウィーンのホテル入り口ホテル前の電車通り
2002年02月13日
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五日目(4) チェスキー・クルムロフーウィーンアンティーク屋さんで絵はがきを2枚買っただけで辞したのはいささか心苦しかったが、やむを得ない。 何分チェコ・コインが底をついたからだ。Money Exchange の看板のある小さな店に入る。何と店番は中学生くらいの女の子である。 多分母親が外出中なので、しばらく留守番ということであろうか。 それにしても心配である。 それだけ治安が良いということだろう。心強いことに日本の1000円札は有名とみえて、さっと電卓を出して、数字を示してくれる。 日本円がここチェコでは特に、使いでがあって有り難い。15:10再び広場に集合する。 15:30チェスキー・クルムロフを出発してウィーンに向かう。 一時間もしないうちに国境に到着する。 例により、免税手続きに時間をとられる。パスポートのチェックは極めて簡単である。 運転手が纏めて持参し手続きをしてくれた。 17:00に国境を出発し、ウィーンのホテルへ6時前に着いた。--つづく--チェスキー・クルムロフの為替両替店にてヴルタヴァ川
2002年02月12日
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五日目(3) チェスキー・クルムロフー(ウイーン)昼食は広場近くのレストランでチェコ料理を楽しむ。 例により、早速ビールを注文する。 今回は黒ビールである。 トチェネー・チェルネー・ビヴォといい、ピルゼンビールよりコクがあり、アルコール度数も多少高いようだ。 料理はサケ(マス?)のソテーとフライドポテトである。 素朴ではあるが、なかなかの味わいである。 腹ごしらえができたところで、再度街中を自由見学となる。ヴルタヴァ川がS字形に流れており、その内部に島が二つある感じの街なので、極めて分かりやすい。 地図を眺めて苦労する必要はない。 街全体が見所なので、一軒一軒立ち寄っていては時間がいくらあっても足りない。 ラトラーン通りに土産物屋が軒を連ねているが、とあるアンティーク屋さんに立ち寄って見る。 日本の古物商と同じで、その道の通でないと単なるガラクタに過ぎないが、結構出物もあるらしい。 感心するのは、店の奥行きが深く、スペースの半分以上は商売とは関係のない美術品や絵画が並んでいたりする。つまり個人所有のギャラリーである。 一番奥に行ってみると窓からヴルタヴァ川を見下ろせる。 写真を撮っていると、わざわざ自宅のベランダに案内してくれる。 思いがけない景観に接し感激する。 商売気抜きで旅人をもてなしてくれる心意気が嬉しい。--つづく--アンティーク屋さん街の通り
2002年02月11日
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先ずは、チェスキー・クルムロフ城に行くことにする。 この城は13世紀に南ボヘミヤで勢力を誇ったヴィトコヴェツ家の分家である領主クルムロフによって築かれた。 その後持ち主がロジェンベルク家、エゲンベルク家、シュワルツェンベルク家と変わる度に、城はゴシック、ルネッサンス、バロック様式で修改築が施された。 ボヘミヤではプラハ城につぐ規模を誇り、完成された複合建築が見事な調和を生み出している。空に突き出たカラフルな塔を目指して石畳の坂道を登る。 塔内は可成り補強されているが、昔のままの木の階段である。200段以上はありそうだ。 急勾配だし可成りきつい。20段毎に踊り場または小部屋があるので、小休止を繰り返しながら、あえぎあえぎ上る。 約20分後待望の頂上部へ着く。苦労しただけのことはあった。 頂上からの眺望は、あっと息をのむ程の美しさである。 当然のことながら、街全体を見渡すことが出来る。 まるで、おとぎの国へ迷い込んだような錯覚におちいる。 回廊を2周りしながら、デジカメのシャッターを押しまくる。下りは楽とはいうものの、上りよりは足元に注意しなければならない。 時々踊り場で、上りの人達を待ちながら下って行く。地上に降り立ったときは、何故かほっとした。 12:00再度スヴォルノステイ広場に集合する。--つづく--城内の塔より街を見下ろす(青い塔は聖ヨシュタ教会)古い館ヴルタヴァ川を望む街を見下ろす眺め
2002年02月10日
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五日目(1) プラハーチェスキー・クルムロフー(ウィーン)08:00バスにてウィーンに向かう。 途中、中世の街並みを今に残す、世界で最も美しい街の一つといわれる世界遺産の街、チェスキー・クルムロフに立ち寄る。プラハを約100キロm南下する。 車で約2時間半かかる。曲がりくねったヴルタヴァ川に囲まれるようにして立つチエスキー・クルムロフ城から、空に向かって突き出るカラフルな塔。赤茶けた屋根に白壁の家々、そして城に続く石畳。 城が建てられたのは13世紀のことだが、町が発展したのは14~16世紀のことである。 手工業と商業が産業の中心だったため、近代化の波に洗われることなく、中世のままのたたずまいが残った。 ユネスコの世界遺産に指定を受けたのは1992年のことである。 チェコで最も美しい町とも言われている。10:30チェスキー・クルムロフの入り口の駐車場に着く。ヴルタヴァ川にかかる木の橋を渡って、先ずはスヴォルノステイ広場に行く。 8月にはここで国際音楽祭が開催され、大変賑わうようだが、何分今は11月中旬ということもあって、閑散としている。 ガイドさんから街全体の説明を受け、昼食までの約1時間半自由見学となる。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(チェコ)チェスキー・クルムロフ入り口スヴォルノステイ広場チェスキー・クルムロフ城
2002年02月09日
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四日目(7) プラハ孫達への買い物を終え、次はムハ美術館へと向かう。ガイドブックを片手に探すが、なかなか見つからない。 昼食をとったレストランに再度顔をだして場所を聞く。 やっとたどり着く。 意外にシンプルな外観なので見落とすはずだ。19世紀末にパリで活躍し、アールヌーボー画家の第一人者として名をはせたアルフォンス・ミュシャ(チェコではムハ)はチェコ出身である。 1998年にオープンしたこの美術館ではリトグラフ、パステル画、油絵などを展示している。 特に注目すべきものは、1911年作の妖精の話を題材としたバレエとパントマイムの「ヒヤシンス姫」の宣伝用に描かれたポスターである。 モデルは主演女優のセドゥラーチコヴァであるといわれている。ドヴォルザーク博物館にも行きたかったが、残念ながら時間てき余裕がなく断念する。 17:00中華飯店・大世界へ行く。 予めガイドさんに聞いておいた所である。理由はメニューに写真と漢字があるので注文しやすいからだ。先ず、ピルゼン・ビールを頼み、メニューをゆっくり眺める。 特殊な物は頼みにくい。 結局日本でおなじみのものを注文する。 チンジャーロースー、野菜炒め、チャーハンと卵スープである。 約一時間後に食事を終えて外にでると、もう真っ暗である。先ずは、昼間に行った広場へと向かう。 夜だというのに結構賑わっている。 天文時計はライトアップされている。同じくライトアップされている教会を撮影する。 この教会は聖ミクラーシュ教会といい、同じ名前の教会がマラー・ストラナ地区にもあるが、完成したのはこちらの方が少し早く18世紀初頭である。 ベネディクト派の教会で、荘厳な天井画と音響効果の良さで知られている。広場の近くの大きなホテルでタクシーに乗る。 ホテルカードを見せるとすぐスタートし、カレル橋のすぐ下流の橋を渡って約10分後にホテルに着く。--つづく--中華飯店・大世界入り口プラハの街並み夜景聖ミクラーシュ教会
2002年02月08日
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四日目(6) プラハ13:30 昼食を終わったところで、一旦解散となる。これから自由行動である。 さて、何処に行こうかとガイドブックを片手に思案する。 皆チェコの特産品を購入したい思いは同じなので、ガイドさんに無理を言ってクリスタルグラスの専門店に連れていってもらう。広場から歩いて5分くらいのところに、ツェレトナー・クリスタルがある。 3F建てのボヘミアングラス店である。日本語を話せる店員がいるので日本人ツーリストに好評である。手頃なカットグラスを探す。 日本で購入する価格の半値くらいであるが、もともと高価なものであるから僅かビール用のグラス2個を求めるにも慎重をきす。 品質は信用しても良さそうだが、値引きはあまり期待できない感じである。 1個1個ハンドメード・カッティングだから高くつくとの事。 ガラスを型に流して同様のものが出来るらしいが、やはり本物は違う感じである。 素人には2個並べてはじめて分かる程度のものもあるようで、店を信用するしかない。 迷いに迷ってやっと2個1セットのカットグラスを購入する。 例により免税扱いである。 書類は店ですぐ作くってくれる。さて、4人の孫達のうち一人にはマリオネットを買ってやったが、後の3人に何を買ってやるか。 そんなに大きな街ではなさそうなので、グループと別れ家内と二人で、ぶらぶらと見物をかねてショッピングを楽しむ。 とある小さな店で、子供用のサッカーシャツが目につく。 チェコのナショナルチームと同じデザインとか。 上の孫二人は子供サッカークラブに属しているので、サイズ別に2枚購入する。 2枚だから当然1枚より安くなる筈と交渉するが、敵もさるもの英語は分からないふりをして応じない。悪戦苦闘の末、やっと値引き交渉が成立する。 帰国して分かったのだが、チェコはあまり強くなくて、ドイツの方が良かったらしい。 しかし、サッカーのことは全く分からない我々ではどうしようもなかった。--つづく-- プラハの街並みプラハのショッピング街クリスタルグラス店(最初の店とは違う小さい店)
2002年02月07日
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四日目(5) プラハカレル橋を渡り終えると、旧市街に入って行く。 ヴルタヴァ川東岸に広がる旧市街の歴史は古く、10世紀にまでさかのぼる。 もともと諸外国間を行き交う商人たちのために整備され、プラハの商業発展の中心という役割を担って来た。 現在も見所やレストラン、ショップが集中する一帯で、大道芸人やコンサートのチケット売り、そして観光客でいつも賑わっている。今日も相当な混雑である。 しかも、皆旧市庁舎のほうを眺めている。 何事かとガイドさんに聞いたところ、天文時計が正午の時を告げるのを待っているとの事であった。旧市庁舎の歴史は11世紀にまでさかのぼる。 第二次世界大戦中に戦火で被害を受けたため、現在見られるのは大規模な修復がなされた後の姿である。 この建物の目玉は15世紀に作られた天文時計である。 毎時丁度になると死に神が鐘を叩く音に合わせて、ペテロをはじめキリストの12使徒が廻り出す。鐘が鳴り終わると、観光客たちは一斉に動きだす。 コンサートのチケット売りが何か叫んでいるが、全く分からない。 さすがスメタナやドヴォルザークをうんだ音楽の都であることを実感する。 広場からどこを見渡しても絵になる。 夢中でシャッターを押しまくる。 夢中になり過ぎて、危うくグループを見失うところであった。昼食は広場近くのレストランに行く。 ピルゼン・ビールを飲みながらチェコ料理を楽しむ。 ちなみに、チェコのビールがアメリカに渡り、バドワイザーになったらしい。チェコの食事ではメイン料理と同じくらいビールは重要視される。 値段も驚くほど安い。 たまたま円高の時期であったが、350cc入りの缶ビールが日本円に換算してなんと僅か35円なのにはびっくりした。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(チェコ)旧市庁舎の天文時計(もの凄い人だかり)天文時計、丸い時計の右側にいる骸骨(死に神)が鐘を叩く、上の四角い二つの窓に12使徒たちが出てくる。ティーン教会(典型的なゴシック様式の教会ー広場より)
2002年02月06日
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四日目(4) プラハプラハ城を下って、徒歩でカレル橋に向かう。 狭い坂道の片側に屋台の土産物屋が並んでいる。 琥珀のアクセサリーがお値打ちなのか、女性に人気があるようだ。 楽しいのは大きさもさまざまなマリオット(木製または粘土製の操り人形)である。 どれにするか迷ったが、孫のお土産物に一個購入する。 値引き交渉に一苦労する。さて、カレル橋であるが、ヴルタヴァ川の東(旧市街)と西(プラハ城、マラー・ストラナ地区)を結ぶプラハ最古の石橋である。 1357年カレル1世の命により、ゴシック様式の石橋の建設が始まった。 27歳の若い建築家P・パーレルが60年の歳月を費やして完成させた石橋は全長516m、幅9.5mという大きなもので、橋の両側に30の聖像が並んでいる。 この橋は歴代の王の戴冠式の行列の道でもあった。 現在は歩行者天国となり、多くの観光客で賑わっている。 旧市街側の端に立つ、ゴシック様式の橋塔もP・パーレルの作である。 外壁の紋章や守護聖人の像はボヘミヤゴシック彫刻の最高傑作として名高い。 橋の両側に並ぶ像も美術品としての評価が高い。 カレル橋の完成当初設置されていた、キリストの十字架をモチーフにした「カルバリー」が1629年に修復されると、彫刻家たちは腕を競い合って続々と彫刻を生み出し、20世紀に入り30の像が勢揃いした。 何体かの像のオリジナルが国立博物館に保存されている。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(チェコ)カレル橋橋上は観光客で混み合う旧市街側の橋塔キリストの十字架をモチーフにした「カルバリー」
2002年02月05日
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四日目(3) プラハプラハ城自体はそれほど広くはない。 徒歩で充分回れる。しかし、美術館などをじっくり見て回るには、半日では無理である。さて、聖ヴィート大聖堂の次は聖イジー教会へ行く。 入り口の前に20名位行列して待っている。 どうやら、入場を制限しているらしい。 我々のグループもあわてて最後尾に並ぶ。この教会はレンガ色の端正な建物で、ボヘミヤで最も美しいロマネスク様式の傑作と評されている。 10世紀初頭に建てられた後、何度も破壊、再建を繰り返し、17世紀にバロック様式のファサード(建物正面)が加えられた。大聖堂の東にある旧王宮は12世紀に建てられ、その後オーストリアのハプスブルク家の支配下に入るまで、歴代ボヘミヤ王の居所として使用されてきた。 完成当時はロマネスク様式であったが、その後何度となく修改築を繰り返し、ゴシック、ルネッサンス様式の建物が加えられた。見学を終えて、高台にあるプラハ城より旧市街を望む場所に立つ。 はっと息をのむような景観である。 プラハ全体が世界遺産として登録された意義を納得する。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(チェコ)聖イジー教会旧王宮プラハ城より旧市街を望む
2002年02月04日
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四日目(2) プラハ教会や宮殿、庭園などを持つプラハ城は9世紀後半にプジェミスル王家によって建設が始まり、14世紀のカレル4世の時代にほぼ現在見られる威容を整えた。正面入り口に当たるマティアス門の左右に衛兵が立っている。 観光客が一緒に写真におさまっても、びくりともしない。 何時間で交代なのだろうかと、人ごとながら心配になってくる。 城内に入り、中庭を抜けると、ゴシック様式の2本の尖塔をもつ聖ヴィート大聖堂が姿をみせる。14世紀前半にその建設が開始され、完成したのはなんと20世紀に入ってからである。 カレル1世がフランスから招へいした有名な建築家達がたずさわっただけあって、建物自体が芸術品といえるほど立派なものである。聖堂内に入ると、真っ先に目に入るのは素晴らしいステンドグラスの数々である。 特にゴシックの特徴ともいえるバラ窓が美しい。 もう一つ特筆すべきは、19世紀末パリで活躍し、アールヌーボー画家の第一人者として有名なアルフォンス・ミュシャ(チェコ名はムハ)によるステンドグラスである。 彼の作を教会内で見られるとは予期しなかったので驚いた。 他の宗教画ともマッチしているところを見ると、彼がある程度意識して合わせたのであろうか。 音楽におけるスメタナやドボルザーク同様、彼は絵画部門におけるチェコの英雄である。--つづく--プラハ城正面入り口、マティアス門聖ヴィート大聖堂の尖塔大聖堂内のステンドグラス、バラ窓アルフォンス・ミュシャ(ムハ)の作
2002年02月03日
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06:00 早朝目が覚める。 外はまだ暗い。洗面後ホテルを出て、近くを散歩する。 石畳の小道は200年以上は経っているのだろうか、表面がつるつるで歩きにくい。 07:30朝食。 例によりコーヒー3杯を含め腹一杯食べる。 08:50ロビーに集合する。 昨夜遅く空路やってきた6名と挨拶を交わす。 これで12名全員が揃う。 09:00ホテルをマイクロバスで出発する。 先ずは、プラハ城へ。 プラハがボヘミヤの中心地となったのは9世紀の終わりである。 プラハが首都と定められたのはプジェミスル家の伝説が基になっている。 王女リブシェの予言で、この地に城が築かれプジェミスル王朝が誕生し、同家の支配は14世紀まで続いた。1344年ルクセンブルク朝のカレル1世の時代に、プラハは神聖ローマ帝国の帝都となる。 プラハ城やカレル橋の建設が始まったのもこの時期である。 中欧最古の大学であるカレル大学も開かれ、ヨーロッパ有数の都市に成長した。 このカレル大学の総長であった神学者ヤン・フスによる宗教改革は、フス自身がコンスタンツ議会で火刑に処された後も多くの信奉者を残した。1419年に彼の影響を受けたプラハ市民が、王室の窓からカトリックの市長を放り出したのがきっかけとなり、フス戦争へと発展した。 この戦争に続く30年戦争でプラハの繁栄は終わりを告げた。 しかし、18世紀に入るとハプスブルク家の統治下にありながら、工業都市として飛躍的な発展をとげた。 第二次世界大戦後は共産主義国として苦難の時代を歩み、政治への不満が高まった。 1968年には「プラハの春」とよばれる改革運動が起きるが、ソ連の軍事介入により鎮圧された。 チェコの自由化が達成されたのは、20年後の1989年つまり「ベルリンの壁」崩壊後のことである。 その後スロバキアとの分離をへて、プラハはチェコの首都となったのである。--つづく-- 参考図書:JTBワールドガイド(チェコ)プラハ城入り口(マティアス門)ヤン・フス像(旧市街広場)
2002年02月02日
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日目(5) ドレスデンープラハドレスデンの最後の見学地はツヴィンガー宮殿である。18世紀前半、ザクセン選帝候アウグスト強王の命により、建築家ペッペルマンと彫刻家ペルモーザーが作った、ドイツ・バロック建築の傑作といわれる宮殿である。 この宮殿も例にもれず、第二次世界大戦で破壊され、現在の姿は戦後の再建である。 すぐそばにマイセンがあるのに、マイセンは爆撃を受けていない。日本の京都や奈良が空襲の対象から外されたように、マイセンは難を免れた。宮殿の内部は陶磁器博物館になっている。 時間の都合でゆっくり見学できなかったのは残念である。 マイセンの磁器を発明させたアウグスト強王のお膝元、ドレスデンならではの陶磁器のコレクションがある。 この地で白磁器が完成するまでのベドガー(練金術師)の試作品、初期のマイセン作品など、歴史的にも芸術的にも優れた作品が展示されている。16:30ドレスデンをあとにする。延々と続く農場、牧場を見ていると、ドイツは農業国でもあることを実感する。18:00チェコ国境に到着する。 雪が少し積もっており寒い。 ドイツ側の出国は極めて簡単にすんだが、免税手続きに意外に時間がかかった。なにしろ担当者不在なので、どうしようもない。 やっと30分後に手続きを終える。ついで、チェコ側の入国審査がある。 これは簡単である。係員がバスに乗り込んできて、各自のパスポートをチェックするだけである。何分人数がすくないので、すぐ終わった。19:00頃出発してプラハのホテルへ着いたのは20時を過ぎていた。--つづく--ツヴィンガー宮殿ドイツーチェコ国境(手前がドイツ、向こうがチェコ)
2002年02月01日
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