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11/25~27日まで3日間、姫路、岡山、小豆島、高松、大歩危・小歩危に行って来た。11月25日(火) 1日目(1)雨の中を、早朝05:45家を出る。 最寄りの地下鉄経由で、新幹線名古屋駅へ。下りひかり号で、姫路到着は08:30、雨はすっかり止んで、なんと、日が射しているではないか。まことにラッキーとしかいいようがない。会合は岡山で18:00からなので、その前に姫路城と岡山城を撮影しようという作戦である。 ご承知のように、国宝の城は日本に4つしかない。 松本城、犬山城、彦根城そして姫路城である。 姫路にだけは、一度も来たことがない。 つまり、今回が初めてである。まだ早すぎるが、お城の外回りでも撮影しながら、09:00開門を待とうと、JR中央口からタクシーに乗る。 目の前にお城は見えているので、歩いても15分くらいだろうか。 正門はすでに開いていた。 チケット販売が9時からということらしい。 門を入った所が、三の丸広場で、ここから見る大天守閣は迫力がある。 美しさと力強さを感じさせる。 早速、天守閣を色んな角度から撮影する。姫路城 別名白鷺城で、普通「しらさぎじょう」と呼んでいる が、正式には「はくろじょう」である。 播磨の守護職赤松則村・定範親子が1346年に 築城したのが最初。 現在の天守閣(5層6階地下 1階)は関ヶ原の役後、池田輝政が1601年に築 城した。 1613年に本多忠政が入城。息子・忠刻 のとき、輿入れした千姫(家康の孫娘)のために西 の丸長局(ながつぼね)が築造された。 本多家の後、松平、榊原の諸氏を経て1749年に 酒井氏が入城、明治を迎えた。 姫路城は築城以来、一度も戦火にあわない「不戦 の城」として有名である。 なお、この姫路城は、安土桃山時代から江戸時代 初期にかけての建築技術の粋を極めた傑作といわ れ、軍事的・芸術的にも完成された文化財として、 1993年12月、法隆寺とともに、日本で初の世界 文化遺産に指定された。さて、09:00ジャスト、チケットをゲットして入場する。先ずは、「菱の門」を通る。菱の門 三の丸から二の丸へ至る大手口を固める、城内 最大の櫓門である。 櫓には武者窓や飾り窓が並 び、狭間は鋭い目を向けている。 扉の八双金具、化粧鋲などは桃山建築の華麗な風 格が伝わる。門を入ると、西の丸長局が目にはいる。 向かって、左手の隅櫓から右手の化粧櫓まで、なんと100間(約200m)あり、内部には百間廊下が通っている。化粧櫓 千姫が輿入れした時持参した10万石の資金で建て られたため、化粧櫓と呼ばれている。 千姫の居室 以外は無骨な荒々しい木組みである。 長い廊下 伝いに、20程の部屋(約8畳)があり、主に奥女中 達が住んでいた。廊下の窓から天守閣が眺められるが、紅葉が映えてなかなかの風景である。 千姫の居室には、千姫と侍女の人形が展示してあり、当時の生活ぶりを、うかがい知ることが出来る。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku536.html
2003年11月30日
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2003年 10月26日(日)~27日(月) 6~7日目土曜日の夜スーク(市場)で買い物を済ませて、ホテルに帰ったのは22:00頃であった。26日(日) 07:00起床する。 のんびりと朝食をとる。ナイルを眺めながらの食事は気分がいい。09:00 ホテル・ロビーへ。 ガイドさんと落ち合う。 チェックアウトをすませ、直ちにマイクロバスに乗車。 ルクソール空港に向かう。 11:00離陸の予定が、1時間も延着する。 この程度は、ごく普通のことらしい。 エジプト航空を利用するが、尾翼のマークは「空の神ホルス」である。12:00過ぎに離陸し、約1時間後にカイロに到着する。スーツケースを受け取り、直ちに昼食のため、レストランに向かう。 今日からラマダン(断食月)入りしたため、心配したが、旅行者は飲食が自由らしい。 しかし、お目当てのエジプト考古学博物館はラマダン中、14:00閉館のため、今日の予定が明日となる。 中止になったわけではないので、辛抱しよう。昼食は船上レストランで、朝食に引き続いてナイルを眺めながらの食事となる。さて、食事を終わったところで、一旦ホテルに入るわけだが、カイロ市内は車の渋滞がもの凄くて、なかなか進んでいかない。 しかも、割り込み自由という感じで、滅茶苦茶である。 ラマダン中は14:00に仕事が終わり、帰宅するためらしい。 それでも、15:00過ぎにホテルに到着する。 おお、超一流ホテルではないか。 ハイアッ○・ホテルである。 服装が気になるが、そこは、熱帯である。 半袖で勿論OK。例によりガイドさんがチェックインしてくれて、私はサインをするだけである。 またまた、2時間昼寝である。 このスタイルのおかげで、なんとか、旅行を続けることができたのかも知れない。17:00に起きる。 部屋のベランダからナイルの夕景、夕焼けを撮影する。 3日連続で、まことにいい眺めに満足する。18:00ロビーに下りる。 夕食はナイル・ディナークルージングで、大いに期待出来そうである。 30分後に桟橋に着いてみると、なるほど、豪華船が待っていた。いささか、ごてごてに飾った感じであるが、船首には、おなじみの「ハヤブサ神・ホルス」が威容を誇っている。19:00 乗船する。 う~ん、船内も凄い装飾である。10分後には、音もなく離岸したのには驚いた。ダンスが始まるまでは、キャンドルだけの、ムード満点の食事が楽しめる。30分後に5人のメンバーによる、演奏が始まった。やがて、お待ちかねのベリーダンサーの登場である。といっても、ラマダン中とあって、露出度満点とはいかない。 それでも、なかなかの踊りであった。続いて、男性による「スーフィーダンス」である。 旋舞というだけあって、回ること、回ること、こちらも目が回りそうになる。 各客席を回りながらのパフォーマンスは大したものである。 暫くして、上部甲板に出てみる。 ナイル川沿いにビルが林立しているが、宿泊中のホテルはすぐ分かった。素晴らしい夜景を楽しむことが出来た。2時間のクルージングは、あっという間に終わった。帰途、有名なハンハリーリ市場に立ち寄り、エジプト最後の買い物をする。 ラマダン中でも、日没後は凄い活気がある。 ホテルに帰ったのは、23:00近かった。27日(月)06:00 起床。 先ず、ベランダからナイルを眺める。今日で、エジプトは最終日である。 なにか、あっという間に過ぎ去ってしまった。 朝食をすませ、ロビーに下りたのは、08:00頃である。スーツケースをマイクロバスに載せ、エジプト考古学博物館に向かう。 さあ、いよいよ、お待ちかねのツタンカーメン黄金のマスクとのご対面である。08:30とまだ、早いのに、もう正門の前に行列が出来ている。 08:50に開門され、チケット売場へ。 ガイドさんが要領よく、チケットをゲットしてくれたので、博物館入り口前に真っ先に並ぶことが出来た。 09:00開館。 直ちに、2F展示場に向かう。 先ず、黄金のマスクを撮影するためである。 ノーフラッシュは少し辛いが、まあ、やむを得ない。 5分後には人の波また波となったが、それまでに、可成りの枚数を撮影することが出来た。 マスクの裏まで撮ったが、背中の所に、「死者の書」の一節が書かれているとかである。すぐそばに、黄金の棺が横たわっている。重さ1,170kgの堂々たる棺は、恐らく現存する世界最大の黄金芸術であろう。 その他、黄金の玉座、黄金のベッド等を夢中になって撮影した。館内には、過去5,000年にわたる古代エジプトの歴史的遺産を250,000品も収蔵しているとか、1日かけても、回りきれない感じである。 従って、目玉だけ撮って、後はさっと見て回る。10:10 博物館に別れをつげ、モハメッド・アリ・モスクを見学して、カイロ空港へと向かう。 空港には、旅行者の担当者がいて、手続きをすべてやってくれる。 本当に今回は、酷暑の中をということをのぞき、楽な旅であった。13:30 カイロ空港を離陸し帰国の途につく。 ドバイ、シンガポールを経由して、名古屋に着いたのは11/2908:30であった。 シンガポール・エジプト旅行<完> 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku535.html
2003年11月29日
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2003年 10月25日(土) 5日目(5)ナイルの夕景を眺めた後、ホテル内のレストランで食事をする。 チキン料理が主体であったが、慣れてきたので、まあまあの味であった。19:00 ホテルのロビーでガイドさんに会い、マイクロバスで、夜の街に出ていく。 ルクソール博物館は夜も開館しているので有り難い。ルクソール博物館 1975年に開館した。 展示品の数は843点で、可 成り充実している。 殆どが3,300年以上も前のもの で、しかも、信じられないくらい素晴らしい。 逸品ぞろいで有名なのは、ここには、盗掘で有名な 「クルナ村」の個人宅にあった秘蔵の品が展示して あるからである。 なお、各地の遺跡から出土したものは、それぞれの 地域で保管する方針になったとかで、近年ルクソール 神殿のアメンホテプ3世の中庭から発見された、多数 の彫像や遺物が展示されている。 良い物という意味 ならカイロに負けないかも知れない。さて、入り口を入ったすぐの所に、アメンホテプ3世の巨大な頭像がある。 2m近くあるだろうか、大きさにも驚かされるが、出来が全く素晴らしい。 頭に被っている長いものは白冠で、上エジプトの象徴である。近くに、「雌牛の頭部像」がある。 ハトホル女神を表しているもので、ツタンカーメンの墓にあった副葬品である。センウセレト3世は第12王朝(BC1991~1786年)の王で、頭部には上・下エジプトを象徴する二重冠をつけている。コプトスの主神であるミン神(多産の象徴の神)が描かれた壁画の一部は、彩色が未だに残っているのが素晴らしい。 顔の色が黒いのは、ナイル川の豊かな田畑の土の色を表している(砂漠の砂は赤)。シェプ・エン・コンスの棺も立派である。 この棺の主は女性である。 そばに、「カノポス壺」があるが、これは、人をミイラにした後、内蔵を入れる容器である。人の顔の壺には肝臓、猿(ヒヒ)の頭の壺には肺、ジャッカルの頭の壺には胃、ハヤブサの頭の壺には腸が納められていた。 心臓は遺体の中に残された。死者の再生復活に欠かせなかったからである。さて、丁寧に見学していては、2時間あっても足りない。適当な所で打ちきって外に出る。次に行ったのはスーク(市場)である。 夜とあってか、観光客は少ない。 瓶の中に色付けされた砂漠の砂を入れて、「月と砂漠」や「太陽と砂漠」などの絵を描く、まさに、砂の芸術を見ることが出来た。 写真を撮らせてくれたので、2瓶購入したが、今もPCのそばに置いて眺めながらキーを打っている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku534.html
2003年11月28日
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※お知らせ 11/25(火)~27(木)まで、3日間 国内旅行をして来ます(岡山、高松方面)。 従いまして、花紀行(499)は11/28 夕方に掲載する予定です。 お越しの節は、掲示板に足跡を残して頂けれ ば幸いです。 11/28にそちらに、お伺いいたします。
2003年11月25日
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2003年 10月25日(土) 5日目(4)石製品の土産物屋を後にして、ルクソール橋に向かう。途中、さとうきび畑の間に、突然2体の巨像が聳えている。 メムノンの巨像 座像は新王国時代の王アメンホテプ3世のもので、か っては座像の後ろに、彼の葬祭殿があったが、後の 王達が、自らの葬祭殿建設の石材として調達したため、 完全に破壊されてしまった。 アメンホテプ3世(BC1386年即位、1364年没)は、 第18王朝9代目の王で、テーベ西岸のネクロポリス南 に王都を建設した。 広大な平地に、王宮、政庁、役人 達の施設をつくり、王妃ティイのために、長さ2kmの人 口池をつくらせた。 因みに、王妃ティイの弟が、ツタンカーメン(BC1358 年生まれ)の父アイである。 「メムノンの巨像」の呼び名は、ギリシャの伝説、メムノ ン王に由来する。 メムノン王はトロイ戦争でアキレス に敗れ、メムノンの母エオスは嘆き悲しんだ。 1日1回 の生き返りをゼウスに頼んだところ、朝日が昇るとき、 メムノンは物悲しい声をあげたという。 この巨像が、朝日の昇る頃に、きしむような音をたてた ことから、「メムノンの母親である曙の女神エオスにあい さつしている」と考えられた。 珍しさのあまり、ローマ皇 帝まで見物に来たとか。 その後、ローマ時代の修復で 音は聞こえなくなったという。巨像を後にして、ルクソール市街地に向かう。 昼食をとったレストランは、なんと、宿泊中のホテルの真向かいであった。 内部に、大きな扇が飾ってあった。 日本人観光客が多いからだろうか。 昼食は幸いにして、魚料理であった。 ビールを飲みながら、珍しく食が進んだ。 ハトはどうも苦手である。 食後、例によりホテルに戻り、昼寝である。 まあ、これがあるので、早朝からの観光も苦にならない。17:00過ぎに起きる。 やがて、夕闇が迫ってくる。 昨日に続いて、ナイル・ルクソールの日没を撮影することが、出来ラッキーであった。 これで、日の出を撮れればいうことはないが、早起きは苦手なので、それは一寸無理である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku533.html ※お知らせ 明25~27日(木)まで、3日間国内旅行をします。 従いま して、次回花紀行(499)は28日又は29日にお送りいたし ます。 お越しの節は、掲示板に足跡を残して頂ければ幸いです。 帰り次第、そちらにお伺いいたします。
2003年11月24日
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2003年 10月25日(土) 5日目(3)第1テラスから、スロープを第2テラスへと上がって行く。 向かって左側に、ハトホル女神の礼拝堂がある。 ハトホルは牝牛の女神で、古代エジプトでは特に人気があった。 この礼拝堂には、ハトホルの姿をかたどった柱がある。第2テラスから第3ヘと上がって行く。 中央入り口から、列柱中庭へ入る。 残念な事に、可成りの柱が損壊しているが、基部のレリーフが残っている。正面奥には、アモン・ラーの聖所が岩山に掘り込まれている。 第3テラスから、入り口方向を眺めると、この葬祭殿の広大さが確認できる。 エジプト人達はここを、「ジェセル・ジェセルー」(崇高なものの中の崇高)と呼んだと言うが、分かるような気がする。 とにかく、ただ、驚嘆しながら帰途につく。 例により、出口付近には、土産物屋が軒を連ねており、呼び込みがうるさいが、無視してマイクロバスに向かう。途中、石で花瓶やグラスを作る店に立ち寄った。店の前で実演している。 ノミのようなもので、石を削って外形を作り、中は特殊な工具を使って刳り貫く。 誠に単純な方法だが、立派な花瓶が出来るのには驚いた。店内には、他品種の石製品が並んでいる。 写真を撮らせてくれたので、何か一品は買わなければならない。 私用のワイングラスを1個だけ買った。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku532.html
2003年11月23日
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2003年 10月25日(土) 5日目(2)王家の谷から、ハトシェプスト女王葬祭殿へマイクロバスで移動した。 山の反対がわなので、すぐ到着した。 駐車場から葬祭殿が一望できる。6年前の1997年11月17日の悲劇を忘れることは出来ない。 日本人観光客10人を含む70人の人達が、テロリストの凶弾に倒れた。 この葬祭殿の第1、第2テラスで起きたという。至る所に警備兵が立っており、緊張が走る。 入り口で、厳しい手荷物検査と身体検査が行われる。 ベルト、時計、胸のバッジまで外して、やっとOKである。移動は例により、シャトルトレンで行う。 第1テラスのすぐそばに着く。 日陰ひとつない所を歩くのは、たしかに大変である。ハトシェプスト女王(在位BC1503~1482年)葬祭殿 向かって左側にある第11王朝のメンチュヘテプ2世 の葬祭殿を手本に、ハトシェプスト女王の大臣センムト によって建設された。 実現した神殿は、前面柱廊の 3つのテラスを軸線上に、次第に後退させ、背後の岩 山と一体に構成するという構想は独創的であった。 女王の墓は、ここではなく、王家の谷に父のトトメス1 世の墓とならんで、建築家ハプセネブによって作らせ た。 王家の谷とは、直線距離で500mしか離れて いない。 正式の名称は、デル・エル・バハリ神殿である。「古代エジプトで最も美しい建築物」といわれているが、大昔に、良くもこんな立派な建物を造ったものである。第2テラス、向かって右側に12角柱が立ち並んでいるが、その中に描かれている壁画が素晴らしい。 天井部分の青色が褪せずに残っているとは、奇跡としかいいようがない。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku531.html
2003年11月22日
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2003年 10月25日(土) 5日目(1)昨夜はホテルで夕食後、ホテル内の土産品店を物色した程度で、22:00には就寝した。 プールサイドでは遅くまで、太鼓の音が聞こえていた。 06:30 起床。 疲れていたこともあるが、結構熟睡することが出来、気分は爽快である。 1Fレストランで朝食をすませ、暫くナイル河畔を散歩する。07:30 ロビーへ。 今夜も連泊のため、気分的にゆとりがある。 ガイドさんは待っていて、直ちにマイクロバスに乗る。昨日はルクソール東岸を観光し、今日は西岸を見学するわけである。 ルクソールは、かって古代エジプトの都「テーベ」として知られていた。 BC2,000年頃、メンチュヘテプ2世によって、ここに都が建てられ、新王国時代(BC16~11世紀)に繁栄した。 ラムセス2世、ハトシェプスト女王、トトメス3世など、古代エジプトの歴史上の有名人が、入れ替わり現れた時代である。1997年にルクソール橋が完成するまでは、東岸と西岸をつなぐ交通手段は船しかなかった。 この橋は06:00まで、ゲートを閉じている。 今日バスがここを通過したのは、まだ、08:00前であった。早朝から行動する観光客が多いので、07:00過ぎ頃混雑するらしい。08:00過ぎ「王家の谷」に到着する。王家の谷 この谷の歴史は、トトメス3世が1,700年間守られ てきた伝統を破って、葬祭殿と墓を分け、埋葬場所 を秘密にすることを決心したことから始まる。 この谷には62基の墓が確認されているが、1992 年に発見されたツタンカーメンの墓が62基目であ る。 秘密にしたはずが、長い間に殆ど盗掘され、 無傷のものはツタンカーメン王のものだけという。とにかく、広大な谷なので、観光ポイントまでの移動は、シャトルトレン(タフタフ)による。 お墓で陽気になっても困るが、童心にかえって、結構楽しい。ツタンカーメンの墓の入り口に行って、初めてチケットを最初から購入する必要があったことにきづく。別料金が必要とは知っていたが、墓の入り口で支払えばいいものと、勘違いしていた。 聞くところによると、財宝の殆どはカイロのエジプト考古学博物館2Fに保存されているとかなので、墓の内部に入ることは諦め、入り口だけを撮影した。内部も現在は撮影禁止らしい。62基の墓の内、中に入れるのは数基だけである。我々はセティ2世の墓を選んだ。 内部の壁画が色鮮やかに残っている部分があり驚いた。 天井にまで、絵が描いてある。 途中ミイラもあったが、王のものではないらしい。 突き当たりの部屋に石棺があり、僅かに隙間があるが、王のミイラは確認出来なかった。 撮影禁止では、様子を映像でお伝え出来ないのが残念である。谷の奥にも徒歩で行けるようだが、暑い中をとても歩く気になれず、早い目にシャトルトレンの所に戻る。 土産物屋には目もくれず、マイクロバスに乗り込む。 次の目的地は「ハトシェプスト葬祭殿」である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku530.html
2003年11月21日
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2003年 10月24日(金) 4日目(7)一番奥の至聖所の見学を終わり、第1パイロンに戻ることにする。 といっても、ルクソール神殿入り口から至聖所まで直進して来た感じなので、帰りは見落とした所を中心に回る。 ラムセス2世の中庭の近くに、「ツタンカーメン王と王妃アンケセナメンの像」を見つける。 普通、王妃の像は王より可成り小さいが、この像の2人は同じ高さである。王がまだ若かったということ、そして、なにより王妃を愛していたからだろうか。 2人は幼なじみだったという。なお、ツタンカーメン王の戴冠式も、この神殿で行われた。ツタンカーメン(BC1343~1325年) 義父イクナートンの跡をつぎ、わずか9歳で王になり、 18歳で権力争いに巻き込まれて死んだといわれてい る。 エジプト古代史で一番有名な人といえば、それはなん といってもツタンカーメン王であろう。 彼は殆ど歴史 に名を残さなかった短命の王だったので、ルクソール 西岸の「王家の谷」の中で、唯一盗掘リストに載って いなかった。 それが、幸いして、3.000年以上も盗 掘を免れた。 1925年イギリスの考古学者カーターがツタンカーメ ン王の墓を発見した。 まさに、20世紀の歴史に残る 大発見であった。 その中には例の黄金のマスクをし た若き王のミイラがあった。 棺、玉座、寝台、装身具 などの副葬品の豪奢さは目を見張るものがある。 黄金のマスクをはじめ、大部分の財宝は現在カイロ のエジプト考古学博物館に保存されているが、遺体 (ミイラ)は今も王家の谷に眠っている。第1パイロンの近くに、「テーベ3神の聖堂」がある。オペト祭で使われた船を休ませた所である。 向かって左から、アメン神、ムト女神、そしてコンス神を祀っていたという。ルクソール神殿を見終わったのは15:00過ぎである。今日の観光はこれで打ちきり、マイクロバスでホテルに向かう。 まあ、まあのホテルで、ほっとする。先ずは、シャワーを浴びて昼寝をする。17:00過ぎに起きる。 ベランダから外を見ると、ナイル川西岸に日が沈む所であった。 王家の谷は西岸にあるので、何か厳粛な気持ちで眺めていた。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku529.html
2003年11月20日
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2003年 10月24日(金) 4日目(6)ラムセス2世の中庭から、列柱が見える。 柱の間に像があり、像は左足を前に踏み出している。 この像はラムセス2世の像であり、しかも、彼が生存中に造ったものと考えられる。 左足を前に出した像は、生きている姿を表し、両足が揃って、胸で両手を交差させている像は死者の姿を表しているという。ここに、第2パイロン(塔門)があり、入り口にラムセス2世の座像がある。 足元に小さな像があるが、多分彼の妻・ネフェルタリの像であろう。 反対側には、見事なレリーフが刻まれている。第2パイロンを直進すると、14本の柱からなる大列柱廊を通る。 開花式パピルス柱で、なかなか迫力がある。 ここを通り抜けると、アメンヘテプ3世の中庭にでる。 この中庭は、大列柱廊より、一段と高くなっており、柱の森と形容される程、三方を囲んだ列柱が見事で列柱室を形成している。ここの柱は、閉花式パピルス柱となっている。 柱の上を見れば、その違いは、一目瞭然である。列柱室を通り抜けて、第3パイロンを更に奥に進むと、コプト教会がある。 エジプトはイスラム教と思っていたが、AD40年頃には、アレキサンドリアにキリスト教が布教され、2世紀頃には、エジプト全土に広まったという。 つまり、この教会は、古代エジプト文明が終わり、使われなくなったこの神殿を、原始キリスト教の一派であるコプト教会が利用したらしい。更に奥に進むと、アレキサンダー大王(BC356~323年)の間にたどり着く。 どうやら、アレキサンダー大王によって、神殿の奥が改修されたので、この名が付いたらしい。一番奥に、至聖所がある。 極めて簡素な造りであるが、神殿で一番大事な場所としての雰囲気は残っている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku528.html
2003年11月19日
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2003年 10月24日(金) 4日目(5)12:30過ぎ、カルナック神殿を後にして、ルクソール市街地に向かう。 レストランの前にバスを着けてくれる。今日のビールは「STELLA」で、アルコール入りである。 やはり、ノンアルコールでは味気ない。予想していたとおり、ハト料理が出てきた。 骨が見えて、まさに、焼き鳥である。 腹が減っているので、何とか挑戦を試みる。 手で食べてもOKとか。 といっても、やはり、ナイフとフォークを使う。歯があまりよくないので、食べにくい。 味はまあまあであった。 牛のソーセージが、思ったより美味しくて満足出来た。 さて、腹一杯になったところで、次は買い物である。 ルクソールで一流の装飾品店に案内してくれる。 これは、困ったと緊張するが、家内は張り切っている。 エジプトは金と銀が安いと聞いているからである。私は金には全く見向きもせず、銀製品で適当な土産品はないかと物色する。 時々家内の方を見るが、どうやら、金製のペンダントを選んでいるらしい。 色々考えるのも面倒なので、銀製のネクタイピンを選び、値段の交渉である。 エジプトポンドでは、分かりにくいので、US$で値切る。 場末のスーク(市場)なら半値以下になるのだろうが、金銀はそうもいかないようだ。悪戦苦闘の末、なんとか納得出来る線でOKとする。象形文字で名前をいれるので、明日ホテルに持って来てくれるらしい。 家内の方はなかなか決まらないようだ。 やむなく、片隅のソファで待つことにする。 冷たいコーラをサービスしてくれた。20分も待っただろうか、やっと、家内が呼びにくる。 値段の交渉を任される。 つまり、エジプトでは声が大きくないと駄目である。 18金の確認と、重さの確認が大事で、その上で値段が決まる。当然のことながら、銀製品とは問題にならない。1桁以上高い。 これまた、四苦八苦の上、なんとか、家内が納得する線に納まった。 キャッシュでは無理で、カード払いとする。さて、午後の観光はルクソール神殿である。そんなに遠くはないので、15分もすれば到着する。切符売り場には行列が出来ていた。 現地の子供達が大勢見学に来ている。 ルクソール神殿 カルナック神殿の附属神殿として建立された。カ ルナックの南約3kmに位置し、2つはスフィンクス 参道でつながっていた。 こちら側は、羊でなくて、 スフィンクスは人の顔である。 現存する神殿の大部分は、第18王朝のアメンヘ テプ3世(BC1386年頃)の時代に造られたもの である。 神殿の入り口には、ラムセス2世によって建造さ れた巨大な第1パイロン(塔門)があり、ラムセス 2世の座像がある。 また、ここには、かって2本 のオベリスクが立っていたが、向かって右側にあ った1本は、1819年モハメッド・アリによってパリ に贈られ、現在コンコルド広場に立っている。 そ のお返しが時計1個というから、ずいぶん気前の いい贈り物だったようだ。第1パイロンを通り抜けると、ラムセス2世の庭に出るが、左手になんと、モスクが建っている。アブ・アル・ハッジャージ・モスク ルクソール神殿が発掘される前に建てられたの で、入り口が可成り上部にある。 AD13世紀頃 使用されていた。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku527.html
2003年11月18日
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2003年 10月24日(金) 4日目(4)カルナック神殿は2つの軸をもって構成されている。1つは入り口から南東に延びており、第2パイロン(塔門)から第6まで。 もう1つの軸は、第4パイロンから南西に向かって延びており、第7~10まである。 早い話、T字型をしており、第7パイロン以降は、ルクソール神殿の方向に延びている。第5パイロンの近くにハトシェプストのオベリスクが立っているが、入り口から言うと、その右側(南西)に「聖なる池」がある。 120mX77mと、まあまあの大きさの池だが、神々の沐浴や、航海の際の儀式がここで行われたらしい。 それにしても、4,000年近く、水が枯渇しなかったという事は、まさに奇跡としかいいようがない。この池の近くに「至聖所(しせいじょ)」がある。至聖所 至聖所は、神殿の中でも最も特別な場所であった。 そこは、真っ暗で神秘的な部屋で、ここに入れるの は、ファラオ(王)と高位の神官たちだけだった。 この至聖所の中には、真ん中に大きな石があるで けの簡素なもので、この石の上に、捧げ物を置い たのであろうか。 天井の彫刻の星が、青い色を昔のまま留めている のには感動した。すぐそばに、ハトシェプスト女王の部屋らしきものがあり、壁のレリーフの女王像が削り取られている。どうやら、娘婿のトトメス3世によって削られたらしい。至聖所の奥の壁が壊れていて、入り口から、そのまま直進することが出来る。 外に出ると、目の前に「トトメス3世の祝祭殿」がある。 トトメス3世の祝祭殿 カルナック神殿の東端に位置する。 トトメス3世の ヘプ・セド(王位更新祭)記念の祭殿である。 内部 の列柱室には2列10本のテントポール柱があり、 その構造は、ヘプ・セドが行われた木柱のテントを 石に置き換えたものである。さて、一応東端まで来たので、入り口の第1パイロン(塔門)の方に帰ることにする。 途中「ロータスとパピルスの柱」を見つけた。 ロータスとパピルス エジプトを考える場合、上エジプト(ナイル川上流)と 下エジプト(ナイル川下流)に分けるが、上エジプトの シンボルがロータス(蓮)であったのに対して、下エジ プトはパピルスであった。 2本の柱が立っていると いうことは、上下両エジプトが統一(BC2,900年頃) 以降ということである。その近くの壁のレリーフに「スカラベ」があった。スカラベは「ふん転がし」で、エジプトでは幸福のシンボルである。 コガネムシの一種である昆虫なのだが、逆さまになって、足をクルクル回しながら、地面で糞を転がしていく。 この習性が、古代エジプトでは、太陽を転がし、東から西へ移動させると信じていた。 お土産のペンダントとして、圧倒的に人気がある。第1パイロン近くの第1中庭に、「タハルカ王の大円柱」が立っている。 タハルカ王は第25王朝3代目(BC747年頃)で、何本か柱廊として建てたが、現在は1本の柱が残るのみである。すぐそばに、「セティ2世(第19王朝、BC1,200年頃)の小神殿」がある。 アスワンからの聖船休憩所として使われていたらしい。外に出て、小さなオベリスクを撮影する。 本来なら最初に撮るべき物だろうが、つい、小さいので後回しになった。 前にも述べたが、カルナック神殿は、以前はナイル川に面しており、古代の船着き場の目印として建てられたオベリスクらしい。 根元には、歴代のファラオ達の名がカルトゥーシュの中に刻まれている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku526.html
2003年11月17日
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2003年 10月24日(金) 4日目(3)「パネジェムの巨像」から、更に奥に進むと、多くの円柱が立ち並ぶ大列柱室がある。 巨大な柱は1本や2本ではない。 高さ23mの柱が12本、その他の柱を合わせれば、全部で134本の柱が立っている。 (映画「ナイル殺人事件」で使われた柱は、そのうちの1本だろうか)。因みに、この大列柱室を完成させるのに1世紀を要した。 完成させたのは、ラムセス2世である。 しかし、この壮大なカルナック神殿は、ついに完成することがなかったと言われている。 つまり、この神殿は古代エジプトにとっては「バベルの塔」だったわけである。カルナック神殿を見るまで、エジプトといえばピラミッドとスフィンクスという先入観をもっていたが、神殿もエジプトでは必見である。円柱の根元の大きさもさることながら、柱のレリーフの中に、「命の鍵(天国の鍵♀)」を見つけて嬉しくなる。 エジプトにとって、大きなテーマだったに違いない。 大列柱室を更に奥に進んで行くと、トトメス1世のオベリスクが立っている。 トトメス1世のオベリスク 第3塔門と第4塔門の間に立っている。 この神殿 の最初に建てられたものである。 オベリスクは2 本で1対だが、もう一つは台座しか残っていない。 高さ19.5m。 材質は赤色花崗岩でアスワンから 採石したものである(碑文にかいてある)。 BC1520年頃、新王国第18王朝第3代王トトメス 1世により創建された。 新王国時代(BC1567~ 1085年)は古代エジプトの最も輝かしい栄華の時 代であり、ファラオ(王)は世界の支配的な立場に あった。このオベリスクの近くに、更に巨大なオベリスクが聳えたっている。 ハトシェプストのオベリスである。ハトシェプストのオベリスク ハトシェプストは、BC1473~1458年の間在位し ていた女王。 娘婿のトトメス3世を押しのけて王に なってしまったり、補佐役である建築家のセネンムト と愛人関係にあったりと、色々悪い噂もあったが、 戦争より交易を重視する平和的な人物だったとの 好意的な見方もある。 彼女はトトメス1世の娘で、彼女が建てたオベリスク は、高さが30.4mと、現在のエジプトでは最大の ものである。 元々2本立っていたが、1本は折れて しまい、現在、近くの池のほとりに横たえられている。 頂点のピラミッド型の部分には、琥珀金という金と銀 の合金が張られていて、朝日を浴びてキラキラ輝くさ まが見られたという。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku525.html
2003年11月16日
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2003年 10月24日(金) 4日目(2)「切りかけのオベリスク」を後にして、アスワン空港に向かう。 途中、車を止めて貰い、アスワンの砂を採取する。 甲子園出場の球児のような感じである。09:20 空港に到着する。 スーツケース積み込みや、搭乗券の手配はすべてガイドさんがやってくれるので、出発まで待合室におればよい。時間は十分あるので、土産品店を見て回る。 ミネラルウオーターを1本購入する。 8エジプトポンドしたのには驚いた。 普通は2~3エジプトポンド(日本円で50~75円)の筈である。 要するに空港では割高ということらしい。 10:30 定刻を少し遅れて離陸する。 アフリカの空港は広いので、離着陸に心配することはない。 僅か25分で、着陸態勢である。 ルクソール到着は11:05。 スーツケースの引き取りがあるので、暫く待たされた。 それでも、15分後には空港を後にして、カルナック神殿に向かう。途中車窓から見える畑は、日本で見るものと、殆ど変わらない。 水さえ在れば、当然のことながら、作物は育つということであろうか。カルナック神殿 カイロから南へ670km。 ルクソールは古代エ ジプトの王都テーベがあったところである。BC 2040頃から2000年近く栄えた。 ルクソール最大の神殿であるカルナック神殿は 何代にもわたるファラオたちによって増改築がく りかえされ、現在のような広大な神殿となった。 東西540m、南北に西辺600m、東辺500m の周壁に囲まれた、世界最大の神殿である。 歴代の王たちが戦勝、繁栄を祈願して神殿や 宝物を寄進した。 ツタンカーメンの即位の儀 も、この神殿で行われたという。入り口の両側に「羊のスフィンクス」が並んで、参道となっている。 約40頭の羊頭スフィンクス(クリオ・スフィンクス)はアメン神の聖獣として大切にされた牡羊である。カルナック神殿の塔門前には、遺跡が残っている。 ここは、昔の船着き場だという。 その昔、この神殿はナイル川沿いに建っていた。参道を抜け、塔門をくぐると、「パネジェムの巨像」が目に付く。 パネジェムの巨像 パネジェムはエジプト第21王朝(BC1090年頃) の王であった。 彼の名前が巨像に刻まれていた ことから、この像は「パジェムの巨像」と呼ばれる ようになった。 しかし、この像を造らせたのはラムセス2世(BC 1304~1237年在位)であった。 パネジェム は、自分の名前を刻むだけで、後世に名を残し たわけである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku524.html
2003年11月15日
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2003年 10月24日(金) 4日目(1)06:30起床 昨夜はぐっすり眠れた。 おかげで、爽快に目覚めることが出来た。朝食は例により、ビュッフェ・スタイルなので、好きな物を食べればよい。 パンもコーヒーも美味しいので、いうことはない。 エジプト特有のものも置いてあるので、挑戦すればいいのだろうが、まあ、我が家の朝食の延長程度にしておく。食後、ナイル川畔に行き、休憩する。 日本では、とても味わえない雰囲気である。 風の音、小鳥のさえずり等、自然の音以外は何も聞こえてこない。 久しぶりに、ゆったりした気分で、しばしの時を過ごす。07:30 ロビーに行き、チェックアウト。 直ちに、桟橋に向かう。 東岸への通い船に乗る。 30人は乗れるだろうか。 我々3人だけで、桟橋を離れる。朝まだ早いのに、途中遊覧船と行き交った。 エジプトは、朝が早いということである。昨夕は、無風状態で苦労したが、今朝はファルーカも、風をはらんで快走している。 10分一寸で東岸の桟橋に接岸する。 道路に上がって行くと、すでに、マイクロバスが待っていた。アスワン市街地を通り抜けて、5,000年前に花崗岩の石切り場だった所に向かう。 まだ、午前8時前というのに、チケット売場には行列が出来ている。「切りかけのオベリスク」は、岩山の可成り上の方にあるようだ。 途中木板の歩道や階段がある。 途中巨岩に割れ目を入れた跡があり、どのようにして割ったのか、多少納得する。切りかけのオベリスク オベリスクとはギリシャ語で「焼き串」の意。 先端 の四角錐と全体を見れば、串であることに納得。 かって、エジプトにやって来たギリシャ人が、そう 叫んだという。 古代エジプトでは「テケン」と呼んでいた。 オベリス クは太陽神ラーの力を表現したもので、ファラオだ けが立てることを許された。 盛んに造られたのは、 新王朝時代で、神殿の入り口の前には、一対のオ ベリスクが立てられることが多かった。 オベリスク には、勝利や祝祭等の重要な出来事が刻まれてい る。 この「切りかけのオベリスク」は、全長41.75m、 底辺4.2m、重さ1185トンで、完成していれば、 エジプトでも最大級のオベリスクになっていたとい う。 残念ながら、中央部分に亀裂が入ったので、 製造中止になったらしい。 根元から頂点まで継ぎ目のない一枚岩、これを造 るのは勿論大変であろうが、運ぶ方法、そして最後 に、どのようにして立てたのか、???で、ただた だ感嘆するのみである。快い興奮を覚えながら、階段を下りて行く。 突き当たりに大きな木が聳えており、ここしか、木陰はない。木の根元に警備兵と観光客が休憩していた。外に出ると、土産物屋が軒を連ねていたが、すぐそばで、盾を手にした警備兵の姿が物々しい。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku523.html
2003年11月14日
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2003年 10月23日(木) 3日目(6)ホテル(アスワン)の部屋に入ってほっとする。 早速シャワーを浴びたいが、先ずはベランダに出てみる。ナイルの西岸と砂丘が目に入る。 ダムのそばという事もあってか、川の流れはゆるやかである。 目の前を遊覧船が通って行く。 現地の子供達が水浴びをしている。帽子をかぶり、サングラスをかけていたが、結構日焼けしたようだ。 シャワーを浴びると、顔や腕がヒリヒリする。 昼寝出来るのは、有り難い。 老人という事もあってか、「切りかけのオベリスク観光」を明日に延ばしてくれた。 余程疲れているように、ガイドさんに見えたのだろうか。 16:30 起床。 17:00 ロビーに下りて行く。 ガイドさんは待っていてくれた。 すぐホテルを出て桟橋に。桟橋にはディナークルージング用のホテルの船が2隻も停泊していた。 我々が乗るのはファルーカである。少し離れたところに、狭い木の板を渡して、我々を待ってくれていた。 私はいいとして、家内は大丈夫だろうかと心配する。 幸い船員が長い手を延ばして助けてくれたので、恐る恐る乗船することが出来た。乗客は我々3人だけである。 つまり、貸し切りということで、甚だ気分が良い。 エンジン付きの船が、次々と通り過ぎて行く。 我々の船は「ダイヤモンド」号で名前だけは一流である。 格好良く帆を下ろしたが、無風のため、一向に進んで行かない。 エンジンが付いていないので、漕ぐしかないようだ。 櫂で漕ぐのかと思ったが、何と、四角い材木で漕いでいる。 多分、浅い所では、船を押すのには便利であろうが、ただの角材で漕げるのだろうかと心配になる。すこしずつではあるが、上流に遡っているようだ。時々帆を上げたり、下ろしたりして様子を見ているが、一向風は出る気配はない。 諦めて、ひたすら漕いでいる。 可哀想で、川沿いの景色をゆっくり眺めておられない。 それでも、白サギを見つけた時は嬉しかった。 古代エジプトでは、アオサギは定期的に蘇る命の象徴、つまり再生の象徴でもあった。 というのは、浸水期になるとナイル川に必ず戻ってくるのがアオサギであったから。 夜明けと共に、水辺から飛び立つアオサギの姿は、地平線から昇る(再生する)太陽のイメージと重ねて想起したに違いない。 当然象形文字に用いられている。大昔の夢を追っている中に、急に薄暗くなって来た。夕陽の撮影には間に合わなかったが、素晴らしい夕焼けを撮ることが出来た。 僅かしかない木々を燃やし尽くす感じの夕焼けを目にして感動した。やがて、船はUターンして帰途につく。 帰りは下るので楽ではあるが、やはり、漕いでいる。 いやはや、凄い体力である。 今度は、ホテル専用桟橋に船を着けることが出来たので、容易に上陸できた。ホテルに入ると、急に腹が減ってきた。 部屋に帰らず、レストランに直行する。 幸いビュッフェ形式(バイキング)だったので、好きな物だけを選んで、ビールを飲みながら、満足、満足である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku522.html
2003年11月13日
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2003年 10月23日(木) 3日目(5)アスワンハイダムを後にして、アスワン市街地に向かう。 既に12:30を過ぎている。 今日は早朝から動き回ったので、いささか疲れた。 といって、腹が空いているという程でもない。 やたら、ミネラルウオーターを飲むからかも知れない。15分くらいで街に入る。 道路沿いに車を止めて、ナイル川へと下りていく。 ファルーカ(帆掛け舟)が浮かんでいる。 風がないのか、動いているようには見えない。 小さな桟橋があり、舟を待つ。 近くには遊覧船が多数停泊している。 モーターボ-トを少し大きくしたような舟がやってくる。乗り込んだのは、我々2人とガイドさんの3人だけである。 ナイル川をさかのぼって行く。 途中の景色は、川沿いということもあってか、適当に緑があり、素晴らしい景観である。 10分もしないうちに、レストラン専用桟橋に着く。13:00近くであったが、レストランは空いていた。先客の日本人グループが8人と、ヨーロッパからの観光客が数人いただけである。さて、例により先ずビールを注文する。 ノンアルコールのものしか無いというので、やむなく、それを頼む。 ビールの味はするし、冷たいので、思ったより美味しかった。 家内はミネラルウオーターである。いよいよ待望(?)のハト料理がやって来た。 早速撮影したが、ピーマンとトマトの陰にかくれてハトは良く見えない。 手で持って食べてもいいというが、後が大変なのでナイフとフォークを使う。 家内は食べないで、こちらの様子を見ている。もともと、かしわが苦手なので、先ず無理だろう。 ナイフで切るのに苦労する。 骨付きだからで、しかも、その骨が小骨なので食べにくい。 味は、聞いていた通り鶏肉に似ている。 どうしても、日本の鳩が脳裏をかすめ、食欲が湧いて来ない。 2~3口食べただけで止めてしまった。幸いバターライスがあるので、ピーマンと一緒にビールで流し込む感じで食事を終えた。イスラム教の国では、豚は不浄のものらしく、食卓には出てこない。 たまに、牛のステーキがでるが、硬くて美味しくない。 どうやら、鶏肉が主体のようである。 ラムセス2世はハト料理でスタミナを補給し、100人近い子供をもうけたそうだが、残念ながら、あやかる事は出来そうにない。食後のデザートはバナナである。 日本で食べるものより、小振りである。 皮がまだ青い感じであったが、思ったより美味しかった。再び桟橋に下りて行く。 元の所に戻るのではなく、ホテルに行くとのこと。 ホッとする。 ホテルは対岸の島にあるという。 どうやら、専用の島にホテルがあるらしい。 乗船して10分もしないうちにホテルについた。専用桟橋に、可成り大きなホテルの観光船が停泊していた。 リゾート型の立派なホテルである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku521.html
2003年11月12日
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2003年 10月23日(木) 3日目(4)アブシンベル大神殿、小神殿を見学し終わったところで、出口に向かう。 元の道に戻らずに、そのまま進んで行く。 つまり、神殿の丘を一周することになる。暫く行った道端に、ランタナが咲いていた。 日本で見るのと全く同じなので嬉しくなる。 神殿を裏側から見る形となる。 こんな、大きな丘をよく造ったものだと感心する。出口の近くに資料館があり、復元の様子をパネルで展示していたので、撮影した。 これで、多少雰囲気が分かってもらえるではなかろうか。暫く待って、専用バスで空港に向かう。 アブシンベル空港発10:25の便が、多少遅れて飛び立つ。 幸い窓際に座れたので、機上から神殿とナセル湖を撮影出来たのはラッキーであった。40分位の飛行で、アスワンに着陸態勢である。早朝カイロで積み込んだスーツケースを引き取るために、可成り時間がかかった。 マイクロバスに乗り込んだのは、11:30近かった。 20分位でアスワンハイダムに到着する。アスワンハイダム エジプトのダム建設の歴史は古く、紀元前2900 年頃、カイロの近くに15m程のダムが造られて いたという。 ナイル川の氾濫を防ぎ、農業の生産向上を目指 して、1898~1902にかけて造られたのが花崗 岩製のアスワン旧ダム。 しかし、実際は殆ど役 に立たず、アスワンハイダムの建設へとつながる。 1960~1971年、ソ連の協力によりアスワンハ イダムが完成した。 ダムは軍事的に重要な地点 で、レーダーやミサイルが配備され、厳重に警備 されている。 高さ111m、長さ3800m、水門 180門、210万kwの電力を供給している。 完成の結果、電力供給が安定し、川の氾濫がな くなった功績は大きい反面、ダム建設のよる気候 の変化、そして、栄養豊かな土が下流まで到達 しなくなり、この結果、ナイル河口付近の漁業が 壊滅的な打撃を受けた。 更に悪いことに、この川に潜んでいた住血吸虫 (※)が灌漑用水を伝って広い範囲に流布し、住 民に深刻な健康被害を与えた。※住血吸虫(アフリカの場合はマンソン住血吸虫) 住血吸虫の幼虫は水中を泳いでいて、人の皮膚 に侵入して感染する。 この虫は腸や膀胱の血管 の中で成長して産卵するが、この卵が血管をふさ ぐので、肝硬変や腎・膀胱の障害が起こる。 住血吸虫は貝の中で育つことを発見したのが、宮 入教授であり、その功績は極めて大である。 か って、日本国内にも有病地が存在したが、1996 年以降国内での流行は認められていない。 世界中に約2億人の感染者がいて、水浴したり、 水中で耕作する人達にとっては避けがたい大き な障害である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku520.html
2003年11月11日
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2003年 10月23日(木) 3日目(3)サソリ騒ぎでいささか疲れ、湖畔の木陰で休憩する。広い砂漠の中で、オアシスらしい緑はここだけである。 といっても、日陰は殆どない。 ただ、ナセル湖からの風が心地よい。石のベンチに腰掛けて、辺りを見渡すと、ここは大・小神殿を一望できる絶好の場所であることに気付く。 休憩している場合ではないと、早速撮影する。 手前に小神殿があるので、小神殿の方が大きく見えるが、当然大神殿の方がスケールは大きい。 アブシンベル小神殿 正確にはハトホル神殿というらしい。ラムセス2世 が、最愛のネフェルタリ王妃と、信仰するハトホル 神に捧げるために建てた神殿である。 大神殿の北120mのところにある。 横幅28.3 m、高さ12.2mで、左右に3体ずつ、それぞれ 王に挟まれた形で王妃が立っている(王妃は両手 を胸の前で組んでいる)。 足下には、彼らの子供 達が刻まれている。 王妃の像は、ラムセス2世と同じ高さで刻まれてい るが、普通は王の足下や足の間に小さく刻まれる。 これは、極めて異例のことで、如何に王が彼女を 愛していたか、そして、彼女の地位が高かったかを 現している。 カルトゥーシュ(楕円形の枠)の中に は、彼女の名前も書かれている。 (お土産のペン ダントNo.1は金又は銀のカルトゥーシュである。 象形文字で名前を入れてくれる。私も銀製のカル トゥーシュ・ネクタイピンを買い求めた。)さて、神殿内に入ると流石に涼しい。 ピラミッドと違い、洞窟内が広いからであろうか。 先ず、列柱室に6本の柱があり、手に命の鍵(天国の鍵♀)を握ったネフェルタリの綺麗な姿とハトホル神が描かれている。 天国の鍵は、あの世で善い人だけに神様から渡される鍵であり、この鍵を使って天国に入れるとされている。 この鍵♀は、エジプト内遺跡の至るところで見ることが出来る。 更に、奥にはいると至聖所があるが、ここは、ただの部屋で、何も無い。 壁画やレリーフ(浮き彫り)が素晴らしい。 特に、ネフェルタリ王妃が、2人の女神の間に立ち冠を被せて貰っているレリーフは有名である。撮影はOKであるが、残念ながらフラッシュは禁止である。 室内で感度を上げると、外では真っ白となり、なかなか難しい。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku519.html
2003年11月10日
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2003年 10月23日(木) 3日目(2)アブシンベル大神殿は紀元前14世紀頃、ラムセス2世によって建設された岩窟神殿である。 全体の大きさは、幅38m、高さ33m、正面にある4体の像は高さ20m。 いずれもラムセス2世を描いているが、左から右へと年齢が上がっている。 中央には太陽神ラーホルアクティの像がある。 足の間には、王妃、王子、王女の小さな立像が置かれている。この神殿には、アモン・ラー神、ハルマキス神、プタハ神を祭っているが、建造者ラムセス2世の絶対的な権力を誇示した神殿である。 今は静かに、ナセル湖を見つめている。神殿の中に入ると、綺麗な壁画と模様が彫られている。 最初の大列柱室には、2列8本の柱が並んでいる。ラムセス2世は、死んでから神様になると信じていたから、柱の表側には、両手を胸のところで組んだポーズのオシリス神の姿で、自分の像を現している。大神殿の一番奥に至聖所(しせいじょ)がある。左からプタハ神、アモン・ラー神、ラムセス2世、ラーホルアクティ神と並んでいる。 通常ここには、日光が差し込むことは無いが、毎年、2月下旬と10月下旬の2回朝日が差し込む。 まず、アモン・ラー神とラムセス2世を照らし出した後で、ラーホルアクティ神を照らす。 そして、この光は闇の神プタハには全く当たらずに20分後には消えて行くという。 まさに、「太陽の奇跡」としかいいようがない。外に出て、もう一度大神殿を正面から眺める。 左から2番目の像は、上半身が落ちてしまっているが、これは、移築時の姿をそのまま再現したものである。 壊れた部分は台座の前にあるが、その大きさに驚く。 更に上を見ると、猿の像が並んでいる。猿は夜と智慧の神様として崇拝されたので、夜はこの神殿を守るようにと、一番上に猿の像が刻まれたとか。全体像を撮影するため、ナセル湖側に移動していた時、ガイドさんが大声を上げた。 とっさのことで、日本語ではない。 指さす足元を見て、血の気が引いた。なんとサソリがいるではないか。 砂漠の映画では、よく見るシーンであるが、実物は初めてである。本当にゾッとした。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。 http://hmiya.pepper.jp/raku518.html
2003年11月09日
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2003年 10月23日(木) 3日目(1)昨夜、光のショーが終わったのは20:00頃で、それから夕食で、ホテルに帰ったのは21:30過ぎである。 シャワーを浴びて、22:00就寝する。02:00 モーニング・コール 流石疲れたので、暫くベルに気が付かなかった。 5分後にやっと起床する。 03:00 ホテルを出発する。 朝食は弁当を持参する。 03:30 カイロ空港国内線に到着する。 チェックインはガイドさんがやってくれるので楽である。X線を通して待合室に入る。 すでに、待っている人達が大勢いるのには驚いた。 エジプトは朝早くから活動するようである。待ち時間があるので、弁当箱を開く。 パンが3個、リンゴ1個、ヨーグルト1個、そして缶入オレンジンジュース1本である。 1人分としては多すぎるので、ガイドさんに半分食べてもらった。定刻04:30を10分遅れて、カイロ空港を飛び立ち、南下する。 直接アブシンベルに行けば1時間半位で着くようだが、途中ルクソール、アスワンに立ち寄る。 つまり、エアバスのような感覚である。07:30 アブシンベル空港に到着する。 今日も快晴である。 お天気の心配をする必要がないのが有り難い。 午後は32℃を超えそうだが、午前中はそんなに暑くはない。 マイクロバスで、アブシンベル大神殿に向かう。30分後には着いた。 アスワンダムによって出来た、ナセル湖の湖岸にある。 つまり、アブシンベル大・小神殿は水没する運命にあったが、ユネスコが国際キャンペーンによって救済し、5年もの歳月をかけて、大小2つの神殿を、川岸60mの高台に移築したものである。水没する前に、巨大な石像や壁画を、巨大なノコギリで、いくつかのブロックに切り取って運び出した。 大変な作業だった事は言うまでもない。1967年に開始し、移築が完了したのが1972年である。 因みに、アスワン旧ダムは、イギリス支配時代の1898年に着工し、1902年に完成させた。これにより、毎夏のように氾濫するナイル川をコントロールする事に成功した。その後、上流に更にアスワンハイダムを建設する事になる。 ソ連とドイツの両国が協力して1972年に完成させた。 堤長3,600m、ダムの高さ111mで、ダムの上流500kmまで巨大なダム湖(ナセル湖)となっている。 琵琶湖の7.5倍もの広大な人造湖で、水力発電所が建設されている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku517.html
2003年11月08日
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2003年 10月22日(水) 2日目(7)ギザ台地遺跡の見学を終わり帰途につく。 途中仮設の工事現場のような所があり、ガイドさんに聞くと、「アイーダ」の舞台だという。そういえば、話には聞いていたが、砂漠の中に、忽然と舞台が現れた感じである。 ヴェルディの作品であるが、舞台が古代エジプトなので、まさに、ぴったりの場所である。 もっとも、10数年前、ルクソール神殿で、野外特設劇場の第1回「アイーダ」が上演されたが、その後、ハトシェプスト女王葬祭殿前に移転した。絶好の場所で公演が行われ、順風満帆かと思い始めた頃、あの痛ましい乱射事件が起き、暗転してしまった。それに伴い、会場がギザに移されたという次第らしい。う~ん、上演しているなら、万難を排して聴きたかったが、終わったところらしい。 しかも、入場料は安くはない。 US$200~400である。 ホテルに帰ったのは15:00頃である。 疲れたので早速昼寝をしたかったが、家内は元気なもので、土産物屋に行ってしまった。 プールもあるので、泳ぎたかったが、水着を持ってくるのを忘れてしまった。考えてみれば、ヨーロッパの人達にとっては、ここギザは、観光地であり、同時に保養地でもあるわけである。シャワーを浴び、2時間くらい昼寝をして、やっと元気を取り戻すことが出来た。 さて、夜の部は、スフィンクス前の特設会場で、「ピラミッドの音と光のショー」が行われる。 US$50と高いが、まあ、これも記念になると2人で出かける。砂漠の上に、折り畳み椅子が置いてあるだけである。 500席くらいあるだろうか。 なぜか、最後列に日本人のグループが30人位いる。 我々は、前から2列目のいい場所を確保出来た。19:00頃だったが、予告もなしに、いきなり始まったのには驚いた。 闇夜に浮かぶスフィンクスは幻想的で素晴らしい。 間もなくピラミッドもライトアップされた。河岸神殿入り口の石の壁に、次々とエジプトの歴史が投影される。 ノーフラッシュなら撮影OKなので、写真をとりまくる。 英語で解説をしているが、映像だけが頼りである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku516.html
2003年11月07日
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2003年10月22日(水) 2日目(6)さあ、いよいよ第3ピラミッドに入って行くことになる。第3ピラミッド キザ3大ピラミッドの中、最も小さいメンカウラー 王のピラミッドである。 彼はクフ王の息子で、ギ リシャのヘロドトスによる『歴史』の中で「慈悲深 い王」として書かれている。これは他の2つに比 べて大きさが極端に小さいことによるが、実際は 王が急逝し設計変更が生じたためと考えられて いる。 王の死後、シェプセスカフ王が完成させ た。 南側には王女の小さな衛星ピラミッドが3つ残さ れている。 なお、出土した石棺や遺物はイギリ スへ運ばれる予定だったが、船が嵐に遭い、殆 どが海の底に沈んでしまった。 底辺部の1辺108.5m、高さ66.5mである。ともあれ、第3ピラミッドへ突入する。 軽く階段を上り、少し高い位置から、内部を下って行く。 広さは、人がやっとすれ違えるくらいで、天井が低いため、中腰で入って行かなければならない。 しばらく下っていくと、今度は道が真っ直ぐになり、奥に部屋がある。 だが、何もない。 ただの洞窟である。 途中に1ヶ所、分かれ道があり、小さな部屋がいくつかある。 壁画が描いてあるようだが、暗くて良く分からない。ピラミッドの中は結構暑く、帰りは上りになるので、喘ぎながら、何とか出口に着いた。 汗だくだくである。 次ぎは、スフィンクスに向かう。 第2ピラミッド(カフラー王)はスフィンクス、河岸神殿、参道、葬祭殿、そしてピラミッドどほぼ完全に揃っており、極めて貴重である。 つまり、このスフィンクスはカフラー王の墓を守る守護神とされている。先ずは、河岸神殿へと入っていく。 磨き上げられた石が積み上げられており、足元の通路はアラバスター(雪花石膏)で出来ている。 河岸という名が示すとおり、ここは、ナイル川上流のアスワンなどから切り出した石を、陸揚げする船着き場であったようだ。カフラー王が亡くなると河岸神殿でミイラ作りが行われ、ミイラは参道を通って、ピラミッドの麓にあった葬祭殿で儀式が行われたと言われている。 河岸神殿、参道、ピラミッドと通路は一直線である。スフィンクスは河岸神殿前の広場にある(ピラミッドに向かって右側)。 スフィンクス 人面獣身で、高さ20m、全長57mと、エジプト各 地に残るスフィンクスの中でも最大級のものであ る。 スフィンクスはカフラー王が自分に似せて作ったも のとされているが、最近ではこの説を否定する声 も出ている。 当初は鼻やあごヒゲがあったが、ア ラブの侵入やイギリス人によって取られてしまった。 あごヒゲは現在大英博物館に保存されている。有名なスフィンクスの謎 「朝には四本足、昼には二本足、夕べには三本足 のものは何か」 英雄オイディプスは、これを、「人間(幼・壮・老の 3態」と解いたが、古今の悲劇の最高傑作の主人 公となった。現代版スフィンクスの謎(小5の孫の質問) ギザのスフィンクスの目線の先にあるものは... 答えは画像を参照して下さい。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku515.html
2003年11月06日
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2003年10月22日(水) 2日目(5)昼食を終わったところで、さあ、いよいよ待望の3大ピラミッドとの対面である。 早朝ホテルの窓からチラッと尖端部を眺めたが、やはり、近くに行って岩に登って見たい。歩いて行ける距離であるが、外は灼熱の太陽が照りつけている。 ガイドさんが、携帯でマイクロバスを呼んでくれる。 レストランのすぐ前に、車をつけてくれるので有り難い。5分で行けるはずが、結構渋滞していて10分以上かかって、第1ピラミッドの駐車場に着く。 ここはギザ台地といわれ、少し高台になっており、北側にカイロ市街地のビル群が望める。あまりにもピラミッドに近寄りすぎて、全景を撮影するのは困難である。 といって、下がりすぎると高台から転落する恐れがあるので、要注意である(柵などは無い)。 第1ピラミッド クフ王が造ったピラミッドである。 彼はエジプト第 4王朝(古王国時代に属する)の2番目の王である。 在位はBC2589~2566年と考えられている。 彼の父スネフェル王がダハシュールにある「屈折 ピラミッド」と「赤のピラミッド」を造った。 このピラミッドは完成時の高さは146.6mあった が、上部の約9m分を失い、現在は137.5mで ある。 これは、1307年にイギリスのリンカン大 聖堂に尖塔がのせられ、高さ160mとなるまで、 4,000年近く世界最大の建造物であった。 ピラミッドの基底部は、一辺が230mで、四角錐 の各面は、正確に東西南北を向いている。 一個 約2.5トンの巨岩を約268万個使用しているとい うから驚きである。 ちなみに、ギザの3大ピラミッドが造られた時は全 盛期であり、その後は大きなピラミッドは造られて いない。さて、内部には、一日約300人が入れるそうだが、なぜか我々はその選にもれ、第3ピラミッドに入るとの事である。 やむなく、入り口の近くの岩に登り撮影をした。再び車に乗り、3つのピラミッドが見渡せる絶好のパノラマポイントへ案内してもらう。 う~ん、絶景である。 暫く撮影を忘れて眺めていた。 風が強く、家内の帽子が飛ばされ、それを追いかけるのに苦労した。 砂漠を走るのは大変である。向かって左から、No.1~3である。 第2ピラミッド クフ王の跡を継いだカフラー王のピラミッドである。 底辺の一辺は215m、高さ143m(現在は136m) と、クフ王のものより少し小さいが、高い台地に立っ ているため、一番大きく見える。 頂上部分に、石灰岩の化粧石が残っているのが特 徴で、完成当時のピラミッドは、表面が現在のよう にゴツゴツしたものではなく、平らに磨き込まれて、 純白に光り輝いていたことが想像される。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku514.html
2003年11月05日
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2003年10月22日(水) 2日目(4)サッカラの階段ピラミッドの見学を終え、マイクロバスはギザに向かう。 サッカラ街道沿いにカーペット・スクールがある。 スクールと名が付いている通り、学校も兼ねており、子供達が実際に学びながら、エジプト絨毯を手織しているところを見学できる。絨毯を織るのは、ほとんどが10歳から15歳ぐらいの子供達だった。 子供の細い指が、絨毯を織るのに適しているらしい。 子供達は、目の前の設計図を見ながら、手早く絨毯を織っていく。 10cm進むのに約1ヶ月かかるという。 実に手間のかかる作業である。 子供達が織物業に従事というと、なぜか、野麦峠や女工哀史を連想する人もいるかも知れないが、そんな暗い雰囲気は全くない。 実に生き生きと仕事をしている。 事実、彼らは子供達のエリートなのであって、収入や待遇も結構いいらしい。1Fが観光用の作業場で、可愛い少女が家内を手招きして、そばに座れと言っている。 どうやら、どのようにして織るか教えてくれるらしい。 縦糸に横糸を結んで、結び目を作り、それの積み重ねで模様にするようだ。 家内は少し試みていたが、すぐ、断念してしまった。 子供達の熟練は素晴らしい。 まさに、小さな芸術家である。2Fは出来上がった絨毯の販売所である。 目を奪うような、素晴らしい絵柄の絨毯が壁に、そして床に並べられている。 お客は我々2人だけで、いささか気後れする。エジプト絨毯には、100%木綿のものと、横糸にシルクを織り込んだ物との2通りがある。 シルクのものは桁違いに高価である。 壁に掛かっていた8畳程度のものは400万円とのことだった。 散々迷った揚げ句、やはり、シルク製のものを選んだ。木綿のものと並べて見れば、一目瞭然、輝きが全く違う。 横35cmX縦50cmのエジプト絵柄のもので、甚だ気に入っている。 さらに、しつこく別の品物をすすめてくるが、木綿製の安物をもう1枚購入するにとどめる。さて、再度マイクロバスに乗り、ギザ市内に戻る。ホテルを出て、既に4時間経過している。 流石に腹が減って来た。 市内の、とあるレストランに案内される。ガイドは、カイロ大学・日本語学科出身の好青年である。 我々2人だけの専属で、申し訳ない感じである。例により、先ず飲み物を聞いてくる。 ビールを頼む。出てきたビールは、「サッカラ」とある。 つまり、階段ピラミッドのある所の地名で、地ビールのようだ。結構美味しい。食事は、エジプトパンが主体で、ゴマだれ(味は勿論違う)のようなものや、人参、ナスなどの付き合わせが出てくる。 どうやら、たれをつけるか、付き合わせの野菜をはさんで食べるらしい。これだけでも十分なのに、白身魚のムニエルと焼飯が出てきたのには驚いた。 味は、まずまずで、一寸食べ過ぎた。最後のデザートは、ブドウかバナナであるが、バナナは小さめである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku513.html
2003年11月04日
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2003年10月22日(水) 2日目(3)メンフィスを後にして、サッカラに向かう。 カイロから西南方向に約20kmのナイル西岸に、ギザ台地に連なる石灰岩の台地がある。 ここ、サッカラには、古代エジプトの古都メンフィスのネクロポリス(古代の墓地)として、第一王朝のころからマスタバ(レンガで造った墓)があった。ここに、エジプトで最初に造られたといわれているピラミッド、ジョセル王の「階段ピラミッド」がある。 ジョセル王は古王国時代第3王朝(BC2686~2613年)の2代目ファラオであるが、階段ピラミッドは臣下の有名な建築家イムホテプが、王を埋葬するために建造されたと言われている。さて、ピラミッドや葬祭神殿が一体となった複合体を取り囲む壁は、白い石灰岩のブロックで建造され、小さな入り口が一ヶ所だけ造られている。 周辺の13の入り口はすべて偽扉である。入り口を入ると、真っ直ぐ西に向かって延びる回廊の石柱は、誠に壮大で、ギリシャ神殿の石柱を連想させるが、ギリシャ神殿の石柱が歴史に登場するのは、これらの列柱が造られてから、なんと約2,000年後のことである。列柱を抜け出すと、目の前に階段ピラミッドが聳えている。 なんとも素朴な形で、まさに、ピラミッドの原点といえる。階段ピラミッド もとの高さ60m、底辺の長さ東西123m、南北 107mである。 ただこのピラミッドは第3王朝に 造られて以来、第5王朝まで数回にわたって拡張 され、今日の姿になったという。 このピラミッド建造の時代は、まだ、巨石は使わ れていない。 レンガと小さな石が主体である。 従って、崩壊が進んでおり、どのように保存する か、頭を悩ましているとか。木製の歩道を通って、ピラミッドの裏に回ることが出来る。 砂の上を直に歩くと、可成り疲れるので有り難い。 保安状態がいい場所だろうか、警備の警官ものんびりと所在なげである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku512.html
2003年11月03日
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屈折ピラミッドの近くに「赤のピラミッド」がある。赤っぽい石が使われているので、そのように呼ばれている。 断面が二等辺三角形の、真正ピラミッドとしては最古のものである。 高さは約104m、クフ王の父、スネフル王のものとされている。初期のピラミッドは小さくて、ギザのような派手さはないが、観光客がすくないので、静かに古代エジプトのロマンに浸ることが出来る。しかし、すぐそばに、軍事基地があるので、そちらにカメラを向けてはいけないとの事で、可成り神経を使う。ギザへの帰途、「メンフィス博物館」に立ち寄る。メンフィスはエジプト古王国時代の首都であり、エジプト統一国家発祥の地。 BC3,000年頃、初期王朝の開祖ナルメル王は、それまで2つに分かれていた上エジプト(ナイル下流のデルタ地帯)と下エジプト(ナイル上流の渓谷地帯)を統一した。 この博物館のメインはなんといっても、ラムセス二世(BC1293~1185)の横たわった巨像である。 なんと、2Fから見下ろす形で見学する。メンフィスの都が栄えた古王国時代のものではないが、後の新王国時代第9王朝のファラオであるラムセス二世がこの地に建造した自分の像である。 脚の一部は破損しているが、奇跡的な保存の良さで知られている。 身長は15mもあり、右腕の手首部分にラムセス二世の名が刻まれている。屋外の中庭には、アラバスター(雪花石膏)製のスフィンクスがある。 高さ4.3m、全長8mでギザのスフィンクスの7分の1の大きさである。1912年にヤシに覆われた丘の中から発見された。 第18王朝アメンヘテプ二世の建造といわれている。 風化が進んでいるが、顔の表情はよく残っている。この中庭には、この他にラムセス二世の立像や、聖牛アピスのミイラを作る時に使った解剖台、石棺などがある。 近辺はヤシの林に覆われており、いい雰囲気である。 -つづく-画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku511.html
2003年11月02日
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21:00 ナイトサファリを見学し終わったところで、我々のみ空港行きで、他の人達はシンガポール泊まりである。 幸い、担当のガイドさんに会い、空港に向かう。 23:25 SQ428便にてカイロに向かう。 途中ドバイ空港に立ち寄る。 給油のためであるが、一旦機外に出る。 ということは、再度X-RAYのお世話にならなければならない。流石石油国である。 広々とした、砂漠の中に空港があり、不夜城の中を着陸する。 一旦機外に出る。 アナウンスはよく分からないが、どうやら、1時間後には再度搭乗しなければならい。アラブ首長国連邦(UAE)は日本に極めて親密である。 ドバイは7つの首長国の中では、アブダビに次いで2番目に大きな都市である。DFSを楽しむことは出来たが、1時間後再度機内に入る。 シンガポールからドバイまで、約6時間、ドバイからカイロまでやはり約6時間の旅である。 決して楽ではないが、TVを楽しんでいるうちに時間は経過して行く。06:00 予定より多少遅れてカイロ空港に到着する。 とにかく、広大な空港で、着陸に心配することはない。 カイロ市内には入らないで、ナイル川をはさんで隣接しているギザ市に向かう。 早速ホテルに入れたのは有り難い。 先ずは、デジカメのバッテリーを充電する。 部屋から外を見て、驚いた。 なんと、ピラミッドが目の前に見えるではないか。 歩いてでも行ける距離である。1時間半休憩して、早速活動開始である。 3大ピラミッドを見学するのかと思っていたが、10km南に向かう。 なるほど、他の観光客が来る前に見学しておこうという作戦である。5年前は来られなかったそうだが、エジプト陸軍の敷地内に入って行く。 ということは、途中で、我々のマイクロバスの中に陸軍兵士が機関銃を持って乗り込んで来たのには驚いた。観光客をそれだけ大事にするという事だろうか。やがて、待望のピラミッドが見えてきた。 まさに砂漠の中に聳えている。屈折ピラミッド カイロから南に車で約30分の、ダハシュール という所にある。 高さ約105mだが、丁度真 ん中から、角度が変わっているので、屈折ピ ラミッドと呼ばれている。 下の傾斜は52度、上部の傾斜は43度。クフ 王の父、ネスフル王のものとされている。他の観光客は全くいないなかでの撮影は気分最高である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku510.html
2003年11月01日
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