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10月21日(火) 第1日目(2)18:00 DFSの裏口に集合する。 同じ旅行社の成田組と合流する。 総勢10名となる。 殆どが若いカップルである。大型の観光バスに乗車して出発する。 車中シンガポールについて、簡単な説明があった。シンガポールの面積は約682㎞2で、淡路島の面積とほぼ同じである。 しかし、人口はシンガポールの約400万人に対して、淡路島は16万人である。 つまり、淡路島の20倍以上の人口密度である。人種は中国系が77%、マレー系14%、インド系8%でその他が1%程度である。 公用語は英語、中国語、マレー語、タミール語。1959年英国より自治権を獲得、1963年マレーシア連邦成立に伴い、その一州として参加。1965年8月9日マレーシアより分離、シンガポール共和国として独立する。約20分後、バスは坂道を登って行く。 途中で海が見え、眺めは抜群である。 標高約100mであるから、山というより丘であろうか。 船の形をしたレストランに到着する。 夕闇が迫る中、オープンデッキでの食事は最高である。 遥か向こうにマーライオンが見える。中華料理に出てくる、鯉の丸揚げに相当する淡水魚の丸揚げが出てきた。 おいしいが、小骨があるので、いささか煩わしい。 ビールはいうまでもなく、機中のタイガービールを指名する。 シンガポ-ル$にまだ両替してなかたので、ガイドさんにUS$を交換してもらう。1時間後に食事を終え、バスに再び乗車する。坂を下り、バスは北上し、ナイトサファリに向かう。ナイトサファリ シンガポール動物園に隣接して作られた、世界 で初めての「夜間だけ開園される動物園」である。 開園は日没から深夜24時まで。40haの敷地に 110種、約1,000頭の夜行性動物が放し飼い されている。 動物園と言っても檻はない。 夜のとばりにわず かに明かりを灯して、夜行する動物達の生態を ごく自然な形で見せようとするのが、ここの特色 である。 その明るさは50ルックスで、もちろん、 フラッシュ撮影は禁止である。 普通のカメラで はまず動物を写すことはできない。トラムコースとウォーキングコースの2通りがある。1晩に5回出るという日本語で解説するトラムを選ぶ。 トラムとは英語で路面電車のことだが、ここに線路はない。 さしずめ原生林に作られた道を軌道として走る観覧車といったところである。屋根以外は吹き抜けである。 途中でスコールに遭遇した時のために、両側にビニールシートが垂れ下がるようになっているのが面白い。目が慣れてくると、思ったより、はっきりと見える。悠然と歩くマレートラが今にも飛びかかってきそうで、凄い迫力である。 まさに、気分はジャングル探検隊である。20:15に発車して、45分間ゆっくりと回る。途中に1ヶ所停留所があるが、日本人が居なければ停車しない。 乗車したければ、手を挙げれば良い。 -つづく-画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku509.html ※ナイトサファリへリンクhttp://www.rmg.jp/tour/night/J07.html
2003年10月31日
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10月21日(火) 1日目(1)05:30起床する。 軽い朝食を済ませて、06:50家を出る。 地下鉄・バスを利用して1時間後に名古屋空港・国際線へ。旅行会社カウンターにて、搭乗券及び航空券を受け取り、シンガポール航空のチェックイン・カウンターへ。 幸い窓側を1席ゲット出来る。 今回は家内と二人だけのツアーである。 いささか心細いが何とかなるだろう。 従来二人だけは、すべて個人旅行でツアー形式は初体験である。出国審査後、搭乗時間まで90分もある。 DFSをのぞいたりして、時を過ごす。10:15 定刻をすこし過ぎて、名古屋空港を離陸する。 ベルト着用のサインが消えた直後に飲み物とスナック類を持って来たのには驚いた。 離陸後10分も経っていない。 シンガポール航空はサービスが良いとは聞いてはいたが、今後に期待出来る。その上、民族衣装を着たスチュワデスは抜群に美しく、キョロキョロ眺めていたら家内に注意された。先ずはビール(シンガポールのタイガービール)を飲む。 結構美味しい。 以後シンガポールでは、このビールに決めた。 暫くして昼食となる。 これがチキンを主体とした料理で、赤ワインを傾けながら満足、満足である。 といって、初日から酔っぱらっては、以後差し支えるので、ビールは缶で2本、グラスワイン2杯にとどめる。食後は、目の前の6吋液晶テレビで洋画を楽しむ。暫く睡眠をとったところで、再び軽食がやってくる。なんだか、食べてばかりの感じである。 さすが、ビールはやめて、ジュースにする。僅か6時間半の飛行でもう着陸のアナウンスがある。サービスがいいと、つい、もうすこし飛んで欲しくなる。15:50(時差-1時間) シンガポール・チャンギ空港に着陸する。 スーツケースはカイロへ直行なので、手荷物だけで入国審査を済ませて空港を出る。 幸い、旅行社の担当者にすぐ会うことが出来、直ちにマイクロバスに乗る。 さすが熱帯である。 屋外は32℃ある。 タビビトノキ(葉は4m位、長い柄があり扇状に開く)が暖かく(熱く?)迎えてくれる。 長袖のサマー・ジャンバーを脱いで、半袖とする。深夜便に乗るまでの、6時間近くの半日観光である。バスの中から眺めるシンガポールの街並みは、緑が多くて素晴らしい。 国土が狭いので、高層ビルが林立している。 マンションも高級な感じで、それぞれプールを持っているようだ。 今夜のツアーの集合場所はDFSである。 30分もしないうちに着いた。 集合時間(18:00)に、まだ、1時間もあるので、付近を散歩し撮影した。 繁華街のすぐそばに、綺麗な公園があり、入り口にプルメリアが白い花を咲かせていた。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku508.html
2003年10月30日
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お 知 ら せ10/21(火)~29(水)まで、シンガポール、エジプトに行って来ます。 お越しの節は、掲示板に足跡を残しておいて下さい。 10/31にそちらにお伺いいたします。
2003年10月21日
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大仏殿を出て、三月堂に向かう。 途中に除夜の鐘で有名な「鐘楼」がある。鐘楼(国宝) 26.3トンの梵鐘(ぼんしょう)が吊り下がっている。 造られたのは大仏鋳造の後で、天平勝宝4年(752) である。 鐘の音の振幅は非常に長く、日本三銘鐘の1つ「奈 良太郎」と呼ばれている。 音響を分散させるために、 壁を用いず、屋根は音をこもらすため、大きく構成さ れている。次いで、三月堂へ行く。 三月堂(国宝) 大仏殿より古く、天平12年(740)から後7年間まで の創建と考えられる東大寺最古の建物である。 毎年3月に法華会が行われたことから、法華堂と呼 ばれるようになったという。 屋根の途中に段差があるが、これは、北側で天平時 代の正堂部分に、後から南側に、入母屋造の礼堂を 鎌倉時代に付け足したからである。三月堂のすぐそばに、「お水取りのたいまつ」で有名な二月堂がある。 石段を60段くらい上らねばならないので行くのはやめて、下から撮影をしておいた。丁度正午近くなり、若草山山麓のお土産屋兼食堂で昼食をとる。 2時間近く歩き回ったということもあり、ビールが最高に美味しかった。 2,000円足らずの予算(ビールは別)で、会席風の料理は美味しかった。 観光地としては、上出来であった。腹ごしらえが出来たところで、春日大社を目指す。裏参道の少し手前に、鄙びた茶店があったので、赤い絨毯に座り、お抹茶を頂く。 周りの雰囲気といい、なかなか優雅な趣きであった。石灯籠のならぶ参道を進んで行く。 石灯籠、釣灯籠あわせて約3,000基に灯が入れられる万灯籠(節分とお盆)は、文字通り幽玄の世界をかもし出すとか。春日大社 藤原一族の氏神として、和銅3年(710)藤原不比 等(ふひと)が、平城遷都の際、鹿島の神・武甕槌命 (たけみかずちのみこと)を勧請したのが始まりとさ れており、藤原氏の全盛時代には極位の神階が授 けられ、多くの天皇が行幸された。 神護景雲2年(768)今の場所に社殿を造営した。 興福寺と同様に、藤原一族が勢力を拡大するに つれて社殿の造営が次々に行われ、平安前期に 現在のような規模を整えた。 朱塗りの立派な本殿のそばに、杉の大木が立っている。 何回か落雷の被害を受けたが、結構樹勢は旺盛である。 幹周りは約8mあるとか。古都奈良の文化財は世界遺産に登録されているだけあって、誠に素晴らしい。 興奮で、いささか高揚した気分で帰途につく。 古都・奈良の秋 <完> 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku507.html ※ 10/21~29まで、シンガポール・エジプトに 旅行します。 従いまして、次回花紀行(473) は10/31に掲載する予定です。
2003年10月20日
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興福寺の見学を終え、東大寺に向かう。 歩くと15分位かかりそうなので、バスに乗る。 東大寺の参道近くで下車する。 バスを降りてすぐ、若草山が目に入る。 手前の木々が少し紅葉しており、なかなかの景観である。参道を南大門へと向かう。 修学旅行の小・中学生が大勢歩いている。南大門(国宝) 東大寺大仏殿の正門であり、東西約9m、南北約5 m、高さが25mある。 大仏殿にふさわしい、我が 国最大の山門である。 天平創建時の門は台風で倒れた。 現在の門は鎌倉 時代、東大寺を復興した重源上人が、新たに宋様式 を取り入れて再建したもので、今は無い鎌倉再建の 大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。 元治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)に竣工 した。 南大門を進んで行くと、中門にたどり着く。 中門は大仏殿と共に、治承4年(1180)と永禄10年(1567)の二度火災にあっている。 現在のものは、宝永6年(1709)に再建された。 中門の両脇は回廊になっている。中門を入ると、大仏殿の威容が目に入る。 大仏殿のすぐ前に灯籠がある。金銅八角灯籠(国宝) 東大寺創建当時のもので、再度に渡る兵火にも難をま ぬがれた。 宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり、火 袋の大きのが特色である。 四面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像が、 他の四面には雲中を走る四頭の獅子が、透かし地に 浮き彫りされている。 灯籠のすぐ前が、大仏殿である。大仏殿 東大寺の金堂である。 奈良時代に創建されてから、治承 と永禄の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代に 公慶上人によって再建された。 ただ、天平/鎌倉の大仏 殿は、桁行11間であったが、財政上の理由で7間に規模 が縮小された。 それでも、高さ(49m)や、奥行き(50m)、 は創建時のままで、世界最大の木造建築物である。(現在 の間口は57m) 大仏殿の屋根は、昭和54年(1979)に総工費41億円を 投じて、大修復された。 大仏(廬舎那仏座像) 聖武天皇の発願によって天平勝宝4年(752)に落成した。 度重なる火災にあい、胴体は鎌倉時代、頭部は江戸時代 に補修された。 高さ16m、顔の幅5m、中指だけでも2m ある。 頭の螺髪(らほつ)は966あって、その一つが人間 の顔より大きいという。修学旅行生にとっては、大仏様より、圧倒的に人気があるのが「柱の穴くぐり」である。 行列を作って、順番を待っている。男の子より、女の子の方が元気がいいのが面白い。外人観光客も、不思議な光景を撮影していた。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku506.html
2003年10月19日
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10月17日(金)06:30 我が家を出る。 地下鉄を利用して新幹線名古屋駅へ。 ひかり号で京都へ。 近鉄奈良線に乗り換える。 08:30の特急に間に合い、僅か35分で奈良に到着する。 飲み仲間との集合時間は10:00である。 まだ、55分もあるので、一旦地上に上がり、付近の撮影をする。定刻を少し過ぎたところで、全員集合する。 今回は、いつもより小人数で、総勢9名である。 駅前の商店街を通って、「猿沢の池」に向かう。30数年ぶりで、懐かしく前回を思い出しながら歩く。5~6分位で池に着く。猿沢の池 この池は、謡曲「釆女(うねめ)」で有名となった。 旅の僧が奈良の春日明神に詣でると、植樹する 若い女と出会い、猿沢の池へと導かれる。女は 昔帝の寵愛を失った釆女が、この池へ身を投げ て亡くなったことを語り、その回向を頼む。 池のほとりで弔う僧の前に釆女の霊が現れ、華 やかな昔を思い出して舞い、回向を喜びながら、 再び池の中に沈んでいく。釆女とは、宮中の女官の役名で、釆女が入水する時、柳に衣を掛けたと伝えられている。 池の中にはカメが沢山いて、浮き丸太や碑石の基部で甲羅干しをしている。池から石段を上って行くと、興福寺である。興福寺 奈良の修学旅行コースとして、東大寺とならんで、 有名な寺である。 藤原不比等(斉明5~養老4年、 659~720)が建てた、藤原氏の氏寺である。 しかし、奈良時代をしのばせるものは殆どない。 平安時代末の平重衡の焼き討ち事件を始め、戦乱 や落雷、火災で殆ど灰燼に帰した。 この寺のシンボルの東金堂は江戸、五重塔は室町 期の再建である。 五重塔の高さは50mあり、京都 ・東寺の57mに次ぐ高さである。 大きな、がっしり した構造は威圧感があり、飛鳥からの平城遷都を 断行した藤原不比等の絶大な権力を象徴するもの である。北参道をはじめ、至る所にシカがいて、気持ちを和ませてくれる。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku505.html
2003年10月18日
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※お知らせ 10/17(金)日帰りで奈良に行ってきます。 従いまして、花紀行(470)は10/18夕 方に掲載する予定です。 お越しの節は、掲示板に足跡を残して頂けれ ば幸いです。 10/18にそちらに、お伺いいたします。
2003年10月17日
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家康隊の中に、なんと、お犬さままで登場である。お女中達の後に、「千姫」のフロートがやって来た。やはり、お姫様は華やかである。 千姫(1597~1666年) 徳川秀忠とお江の長女。 1598年、秀吉の命に より、僅か2歳で秀頼と婚約している。 ちなみに 秀頼の母・淀殿と、お江が姉妹となるため、二人は 従兄弟になる。 1603年に秀頼の元に嫁ぎ大阪 城に入る。 1614年に大阪の陣が始まり、実家と嫁ぎ先との 戦いとなる。 冬の陣は和議となるが、翌年再び 夏の陣が起こり、豊臣軍は敗北する。 この時、大野治長が、秀頼・淀殿親子の助命嘆願 のために千姫を解放し、家康の元に送り届けよう とする。 堀内氏久が護衛して、彼の知り合いだっ た徳川軍の坂崎直盛の陣経由で、家康の陣所に 送り届けられた。 可愛い孫娘が助かったので、 家康が喜んだことはいうまでもない。 1616年、桑名城主・本田忠政の息子、忠刻と再 婚する。 忠政の妻・熊姫(まひめ)は千姫の従姉 妹である。 この再婚の時、有名な千姫強奪未遂 事件が起きている。(坂崎直盛の横恋慕) 本田家が播磨姫路15万石に加増になると、千姫 は10万石の化粧料を与えられ、播磨姫君と呼ば れ、姫路城で平穏に暮らす。 二人の娘と一人の 息子に恵まれたが、息子は4歳で夭折した。 そ れからは、流産を繰り返し、跡継ぎが出来なかっ た。 しかも、夫の忠刻まで1626年に病死した。 未亡人となった千姫は、出家して天樹院と号し、 11月に娘の勝姫と共に本田家を去り江戸に戻っ た。 そこには、弟の3代将軍・家光が待っており、彼女 を暖かく迎えたと言われている。 それから、千姫 は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、1666年に 亡くなっている。 享年70歳であった。千姫のフロートの後に、大久保彦左衛門、一心太助、そして鉄砲隊と続き、やっと、お待ちかねの「家康」登場である。 やはり、尾張では家康が一番人気がある。 なかなか恰幅がよくて、両手を上げて張り切っている。 3英傑の中でも、人選が一番むつかしい。家康に続く武者隊の中に、宮本武蔵がいた。最後は、シャチばやし隊が締めくくる。 誠に華やかな一隊である。かくして、1時間30分に及ぶパレードは終わりを告げた。 来年は50周年記念であり、より盛り上がることだろう。 名古屋まつり <完> 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku504.html ※明日17日(金)は奈良に出かけますので、 日記は一回おやすみをし、花紀行(470) は、18日(土)に掲載致します。
2003年10月16日
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秀吉のフロートに続いて、徒歩で「阿国と芸人達」が通って行く。阿国(おくに) 慶長8年(1603)、出雲の阿国という女芸人が、 京都で「傾(かぶ)きおどり」を踊って人気を集め たとい。それを歌舞伎の始まりとしている。つまり、 今年は歌舞伎400年の年にあたる。 阿国歌舞伎は天下一の評判をとり、大名屋敷 や宮中に招かれ、江戸でも踊ったとの記録が 残っている。引き続いて、「ねね」のフロートの登場である。ねね(北政所) ねねは、天文17年(1548)、尾張国朝日村 (現清洲町)で生まれた。 ねねの父は織田信 長に仕える足軽杉原定利、母は朝日であった。 永禄4年(1561)秀吉と結婚するが、当時と しては珍しい恋愛結婚であったと伝えられてい る。 当初、母朝日はこの結婚を認めようとし なかった。 そこで、浅野長勝とその夫人七曲 (朝日の妹)が、ねねを養女にして嫁がせた。 この時、二人を結婚させるべく努力したのが、 前田犬千代(利家)である。 天正13年(1585)秀吉が関白に叙任されて、 天下人になると、ねねは北政所と呼ばれるよ うになる。 二人が結婚してから24年目のこ とである。 慶長3年(1598)8月、伏見城で秀吉が病没 した。 秀吉63歳、北政所51歳の時である。 慶長8年(1603)、北政所は後陽成天皇より、 「高台院」の号を勅賜される。 出家して、高台 院湖月尼と称した北政所は、慶長11年秀吉の 菩提を弔うために「高台寺」を創建した。 家康 は多大の援助をしたという。 彼女はこの地で 余生を送り、76歳で没した。 高台寺た落慶 したのは、その翌年である。 高台寺は八坂神社の近くにあり、表門、霊屋、 傘亭、時雨亭(茶室)は創建当時のままの物で ある。 ねねのフロートの後には、薙刀隊、そして琉球エイサイ太鼓連が続く。 秀吉と琉球とは島津を通してであるが、関係は深かった。いよいよ、観客お待ちかねの「家康隊」の登場である。 といっても、すぐ、家康が現れるわけではない。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku503.html
2003年10月15日
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森蘭丸の後に、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉、徳川家康達の騎馬隊が続く。 薙刀(なぎなた)隊の後に、「濃姫」がやって来た。濃姫(1535~1612) 天文18年(1549)2月24日、美濃の齋藤道三の娘、 濃姫が尾張の織田信長に嫁いだ。 濃姫15歳、信長 16歳だった。 濃姫は通称を帰蝶といい、生母は明智光継の娘、小 見の方である。 光継は明智光秀と近い親戚にあた る。 本能寺の変後、秀吉の天下がきて、その秀吉も死去 し、徳川の世となった。 濃姫が本能寺の変後、どこ で、何をしていたかは、分からないが、他の戦国の女 性達同様、どこかの寺に身を寄せていたのではない だろうか。 慶長17年(1612)7月9日死去した。 享年78歳と当時としては、長生きであった。濃姫の後、オランダ人達が続き、やがて「秀吉隊」がやって来た。 鐘や太鼓に続き、騎馬武者隊がやって来た。 加藤清正、福島正則達「賤ヶ岳の七本槍」の七人衆である。 秀吉は、この戦いで、佐久間盛政の部隊を破り、武勲者として、史上にその名をとどめた。いよいよ、豊臣秀吉の登場である。 なかなか恰幅のいい秀吉で、フロートの上でご機嫌よく手を振っている。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku502.html
2003年10月14日
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パレードは終わり、いよいよ郷土英傑行列の始まりである。 先ずは、武士と騎馬武者が先導してくる。次は「錦の御旗」がやってくる。 幕末が最初にやってくるのはなぜだろうと、一瞬考える。つまり、これは「大政奉還」後の尾張藩の姿勢を表している。 といっても、すんなり、朝廷に恭順したわけではなく、徳川ご三家の立場もあり、藩内で佐幕派と恭順派が相争った。 官軍が錦の御旗を掲げて、東海道を上って来て、決断を迫られ、やむなく佐幕派の藩士を処刑して(青松葉事件)、早々と恭順の姿勢を示した。幕末とあれば、ご存知「鞍馬天狗と角兵衛獅子の杉作少年」、そして「新撰組」も登場する。続いて、少年(少女)鼓笛隊がやって来る。 大勢の観客を前に、少し緊張しているが、上手に笛を吹きながら行進している。 さあ、いよいよ待ちに待った、信長隊がやって来た。といっても、すぐ、信長が登場するわけではない。 法螺貝(ほらがい)を吹く人、太鼓を叩く人と結構大変である。足軽隊に続き鉄砲隊がやって来た。 この信長の鉄砲隊が、その後の戦闘のあり方を一変させたといっても過言ではない。 天正3年(1575)の長篠の戦いで、馬防柵を設けて、鉄砲隊を前面に出し、武田軍の騎馬隊を狙い撃ちにした。 武田軍の歴戦の武将が討ち死にして大敗した。この日を境として、鉄砲を重視する近代的戦法へと変わっていった。小姓隊の後に、信長登場である。 馬に乗って颯爽としている。 今年は格別、年若い信長である。 乗馬が出来ることを条件に、一般公募した。 なんと、29歳とか。 やはり、若い方が元気があっていい。 「もし、信長があと5年生きていたら」と思わなくもないが、まあ、それが歴史というものであろうか。 信長に付き従っているのは、小姓頭の森蘭丸である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku501.html
2003年10月13日
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10月11日(土)さあ、いよいよ待望の郷土英傑行列が始まる。 今日は名古屋駅前をスタートする。 13:37 スタートの予定であるが、いい場所を確保する必要がある。12:00家を出て、地下鉄を利用して名古屋駅に行く。開始1時間前とあって、スタート地点にはまだ、殆ど並んでいない。 では、先ずは腹ごしらえと、ロシア料理店に行く。 グラスワイン2杯ですませておけばいいものを、今日はお祭りだからと、ついウォッカーを頼む。食事に時間をかけすぎて、会場到着は13:20である。当然のことながら、最前列は空いていない。 やむをえず、ロータリーの南東角に陣取る。 定刻をまたず、花バスがやって来た。 昔は花電車だったな、と思い出しながら撮影する。そういえば、名古屋まつり50年の歴史のうち、昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風直後のまつりは中止している。 大惨事を蒙り、とても、おまつり騒ぎどころではなかった。さて、定刻を少し遅れ、13:40 パレードがスタートした。 最初のオープンカーには「ミス有松絞り」が乗っている。 続いて、ナゴヤ・ゴールデン・トワラーズの華やかなメンバーが通り過ぎていく。昨年もそうだったが、今回のパレードの特徴は「愛知万博」のPRである。 開幕まで後530日である。県内はともかく、全体としてPRが不十分で、このさい、パレードが全国放送される事に期待しているようだ。もう一つの特徴は、4つの姉妹都市の参加である。今日のパレードに、その中の一つロサンゼルスから、二世週間(実際は四世)で選ばれたミスがオープンカーに乗って登場である。 (明日のパレードにメキシコ、南京、シドニーも参加する)万博PRの「世界交流」号がやって来た。 万国旗で世界の国々が応援する様子を演出、フロートで世界大交流のイメージを表現している。 前部に2人、後部に2人の美女達が、沿道の人達に、にこやかに手を振っている。2台目は、「花・シャチ」号である。 金の鯱(しゃち)をモチーフにして、名古屋らしさと、万博への期待感をアッピールしている。 3台目は、「光・風・水の便り」号で、名古屋市のパビリオンのテーマを、生花をふんだんに使って表現している。 可愛い4人の少女達が、懸命に手を振っているが、緊張気味である。万博号の後に、日本どまんなか祭りのメンバーが勝手きままに踊りながらやって来た。 市民参加の一環として歓迎出来る。 若い人達が中心になって、名古屋を活性化するために、毎年9月に栄地区で踊りのグループが多数参加して盛大な祭りを繰り広げている。さて、いよいよ待ちに待った、郷土英傑行列のスタートである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku500.html
2003年10月12日
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10月10日(金) 18:00いよいよ今日から「第49回名古屋まつり」が始まる。やはり、祭りと聞くと血が騒ぐ。 早速、宵祭りの取材に出かける。 今年は、従来のTV塔下の広場から、昨年新しく出来たオアシス21のB2ステージへと会場が移った。ということで、数十軒ある屋台が夜間は営業していない。人の流れが変わったので、やむを得ないが、やはり祭りにはお酒はつきもので、酒ぬきの祭りは、なにか味気ない。 勿論、B2にも立派なレストランがあり、飲みたければ飲めるが、何故か、屋台の方が祭りに似合っている。オアシス21はユニークな建造物である。 3Fに相当する屋根の部分に水槽があり、真下を眺めることが出来る。 税金の無駄使いとか、色々の批判はあったが、そう目くじらたてることはない。 結構若いカップルのオアシスになっている。 この真下のB2部分が今夜の会場ということである。 雨の心配がないことが、最大の利点であるが、やはり、危惧したとおり、超おとなしい静かな「宵まつり」となった。 祭りは、騒々しいくらいの方が盛り上がるのだが。名古屋まつり 戦後の混乱から、人々が落ち着きを取り戻しはじめ た昭和29年(1954)に、名古屋市の経済界の販路 拡張を目指して、愛知県、名古屋市、名古屋商工会 議所の3者の主催により、「名古屋商工まつり」が開 催された。 一方これに対して、市民の各層から、市民も楽しめ る、総合的なレクリエーション行事を要望する声が あがり、これに応える形で第1回名古屋まつりが昭 和30年(1955)に実施された。 18:30 B2のステージに出演者全員集合し、「宵まつり」が始まる。 姉妹都市のロサンゼルス、南京、メキシコの人達も参加している。 ちびっこ達も張り切っており、ほほえましい。恒例の名古屋市長の挨拶の後、イベントの開会である。 銀色のテープの吹雪の中、大太鼓の演奏が始まる。 なかなか、迫力のある演奏だ。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku499.html ※ 明日は、郷土英傑行列をお送り致します。
2003年10月11日
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19:00から宴会が始まる。 当然の事ながら、海の幸が中心である。 旅館の目の前が漁港なので、新鮮な魚に恵まれている。 戦前からある旅館で、あちこち改修しているが、それなりに風格がある。 歌人吉井勇は伯方島の風景をこよなく愛した。 彼は晩年、この旅館に長く逗留し、詩作に励んだ。 彼の歌碑がこの近くに建っている。さて、エビのおどりが出る時分には、宴は結構盛り上がって、もう、無礼講状態である。 仲居さんがエビの処理をしてくれるので、こちらは食べるだけである。 山の幸もいいが、日本酒にはやはり、海の幸に限る。どうやら、飲みすぎて、どのようにして寝たのかよく覚えていない。8月19日(火)06:00 起床する。 習慣とはこわいもので、ちゃんと目が覚める。 驚いたことに、迎え酒とかで、すでにビールを飲んでいる連中がいた。 わざわざ、部屋まで呼びに来たが、辞退して再び床につく。08:00 朝食。 09:00 宿を出て、マイクロバスに乗る。 伯方島の高台にある、「ふるさと歴史公園」に行く。 ここから、瀬戸内の眺めは誠に素晴らしい。この公園は、木浦城跡で、城門や城が再現されている。木浦城 中世前期に出来た典型的な山城といわれている。 実は、現在日本に残っている城は、中世後期から 近世にかけて出来たものばかりで、それより古い ものは現存していないという。 また、復元された 例もないため、ここに復元された木浦城だけが、 当時の面影を伝える唯一の建物である。 木浦城の城主は、紀氏の子孫である紀六郎太郎 であったとされている。 六郎太郎は伊予の豪族 河野道信の一族であったが、承久の乱(1221) のとき上皇側についたので、六郎太郎もこの城 で鎌倉幕府の軍勢を迎撃した。 しかし、多勢に 無勢とあって、一族ことごとく猛火の中で死んで いったという。資料館があり、村上水軍の甲冑とか、塩田、造船業の資料が展示されている。 やはり、塩田に一番興味があり、熱心に展示品を見る。 廃止塩田のアツケシ草が、現在では絶滅品種に指定されたとか、いささか、哀れな感じがした。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku498.html
2003年10月10日
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14:45 平山郁夫美術館を後にして、大三島に向かう。 15:00 多々羅大橋を通り過ぎる。 立派な橋である。多々羅大橋 中央支間長890mで、世界最長の斜張橋である。 当初は吊橋で計画されていたが、斜張橋の技術 の進歩を背景に、自然環境の保全や経済性など を考えて変更された。 橋長1,480mで、1999年 5月に開通した。 塔頂の高さは海面より226mもあり、このルートの 中で最も高くなっている。 世界第2位の斜張橋で あるフランスのノルマンディー橋と姉妹橋縁組みを している。 ※斜張橋 : 主塔から斜めに張り渡した多数の ケーブルにより主桁を吊る橋のこ と。先ずは、伯方(はかた)の塩の工場を見学する。工場内は残念ながら撮影禁止である。 昔は塩田で造っていたが、現在は工場生産である。 大三島、伯方、明浜の3工場で生産をしている。因みに、塩の種類を大別すると、① 岩塩・乾湖塩 : 中国やドイツ等に産出する。主と して原料塩として輸入される。 ミネラル成分は極少。② 天日塩 : オーストラリアやメキシコ等の乾燥 地帯で産出する。 精製を必要と する。 ミネラル成分は少ない。③ 化学塩 : 海水を電解し、イオン交換膜法に よって造られる。 化学塩を使用 している国は日本だけで、ミネラル 分は0である。④ 再加工塩 : 輸入「天日塩」に輸入「にがり」を 添加して、ミネラル成分を付加して 造られたものをいう。 1999年に 塩専売法の規制緩和により多数 出現した。 伯方の塩は再加工塩 で、メキシコ塩を原料塩としている。塩を自由に選べるようになったのは有り難いが、再加工塩は当然割高となる。 工場入り口近くの販売所で、伯方の塩を売っていた。 私の場合は、近くのスーパーで購入できるので、無料サンプルだけをありがたく頂いておいた。この工場のすぐ隣に大浴場がある。 今夜宿泊予定の旅館の風呂は小さいので、ここに立ち寄り入浴する。マーレ・グラッシア 大三島 しまなみ海道に初めて、タラソテラピー(海洋療法)効果 を取り入れた施設が誕生した。 ミネラルたっぷりの海水 温浴で、癒しと安らぎをがテーマである。 マーレ・グラッシアとはイタリア語とスペイン語を組み合わ せた造語で、「海の恵み」という意味とか。 露天風呂で、瀬戸内の海を眺めながらの入浴は最高で ある。 水中歩行が出来る温水プールもあり、健康増進 とストレス解消にいうことなしである。入浴を終わり、気分爽快になったところで、再びバスに乗り込む。 大三島橋を渡って、伯方島の旅館に到着したのは17:00過ぎである。 夕食まで1時間あるので、旅館の近くの海と島を撮影した。 最高の眺めを満喫し、満足、満足である。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku497.html
2003年10月09日
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千仏洞地獄峡を見終わったところで、耕三寺を後にする。 山門を出ようとして、その豪華さに目を奪われる。最初入るときとは、中門に先ず目がいって、山門は素通りしてしまった。山門・耕三寺 伽藍配置の中心線軸上の最前に建つ門であり、総門 に相当する。 京都御所・紫宸殿の御門(白木造り)と 同じ様式ではあるが、こちらは大部分を鋼鉄で造って おり、その上に朱を塗りこんでいる。 なんとも豪華な山門である。 扉表面の龍と波と狛犬 の浮彫りは、京都画壇の帝展特選作家故、川上拙以 画伯の構想による下図をもとに彫刻された。 扉の桟などは、木造建築と錯覚するほど精巧に出来 ており、当時の優れた鉄の加工技術を知る上におい ても、貴重かつ独創的な建築である。山門を出た反対側に、「新宝物館」があり、仏教美術品が展示されているらしいが、時間の関係で割愛した。次に行ったのは、「平山郁夫美術館」である。 木材を充分使用し、簡素な感じであるが、日本画家にふさわしい美術館である。平山郁夫美術館 平山郁夫氏は、ここ瀬戸田町・生口島で1930年に 生まれた。 1952年東京美術学校日本画科を卒業 し、1953年第38回院展「家路」で初入選する。 1967年法隆寺金堂壁画再現模写、1973年高松 塚古墳壁画模写に参加した。 1998年文化勲章を受章。 2001年12月、東京 芸術大学長に再任された。 主な作品は、「仏教伝来」、「入涅槃幻想」、「広島生 変図」、「薬師寺玄奘三蔵院大唐西域壁画」などが ある。 当館は1997年(平成9)に開館した。 平山氏の 生い立ちや、貴重な少年時代の絵画も紹介されて いる。館内の受付のすぐそばの壁に、「仏教伝来」が展示されている。 1959年(昭和34)、29歳の時、原爆の後遺症で制作面でも行き詰まっていたが、第44回院展に「仏教伝来」を出品し、制作上の転機となる。原爆症から救われたいとの願いを、玄奘三蔵法師の姿を描く筆に込めたという。 なお、原画は現在、長野・佐久市立近代美術館に所蔵されている。窓から眺める庭も簡素であるが、心を慰めてくれる。瀬戸内海の島々をイメージしているらしいが、中央の「ひょうたん島」は「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった島で、生口島と大三島の間に浮かんでいる。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku496.html
2003年10月08日
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※お知らせ 10/7(火)日帰りで東京に行ってきます。 従いまして、花紀行(461)は10/8夕 方に掲載する予定です。 お越しの節は、掲示板に足跡を残して頂けれ ば幸いです。 10/8にそちらに、お伺いいたします。
2003年10月07日
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孝養門の反対側に回る。 間近に、細部を観察する。誠に素晴らしいの一語に尽きる。 残念ながら、日光の東照宮に行ったことがないので、比較のしようもないが、感嘆あるのみである。孝養門を入った突き当たりに「本堂」がある。 本堂に向かって、左右に「信楽殿」と「至心殿」がある。京都・法界寺の阿弥陀堂を原型とするが、信楽殿は大講堂として、至心殿は宝物館(現在は法要具倉庫)として建立された。 両殿とも平安後期(藤原時代)の寺院建築の優雅な特徴を備えている。本堂 京都宇治平等院鳳凰堂を原型として建立された。 中央に中堂、その左右対称に翼廊を配している。 これらもまた、彩色装飾においては極彩色を施し、 原作よりは一段と華やかである。 入母屋の屋根、切妻、寄棟など、仏教建築の最高 峰といわれる藤原時代の様式を忠実に取り入れて いることが最大の特徴である。本堂の裏手に、立派な仏像が建っている。 救世観音大尊像 奈良・法隆寺夢殿の御本尊、秘仏救世観音が手本。 像の高さだけで10mあり、宝冠、台座などを加えた 総高は15mにもなる大露仏である。 鉄筋コンクリートで固めた基礎の上に鉄心を組み、 コンクリートと漆喰を併用し肉付けした上に塗装し た。 こうした工程による仏像の技術は当時なく、 耕三師自ら陣頭に立ち、労苦を惜しむことなく、か って培った鉄の加工技術を遺憾なく発揮して、完成 にこぎ着けたという。さて、主な建造物を見終わったところで、暫く休憩する。 上を見上げることが多く、結構首がくたびれる。20分間で休憩を打ちきり、次は「千仏洞地獄峡」へ行く。 昭和36年(1961)に起工し、3年後に完成している。 地下約15mに、全長350mの洞窟を掘り、富士山の溶岩と浅間山の焼石を鉄筋コンクリートで固めている。中は涼しいのは助かるが、薄暗い上に、なんと「地獄絵図」の連続で、いささか、気味が悪い。 延々と地獄が続いた後、やっと、仏様に巡り会い、ほっとする。最後は、お地蔵さんや、鍾乳洞風の高い天井に三段の仏像が多数並び、まさに圧巻である。 明るい出口に近づいた時は、やれやれという感じであった。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku495.html
2003年10月06日
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耕三寺(こうさんじ) 耕三寺は、広島県瀬戸田町、生口島(いくちじま) にある。 福山西ICから45分位で来られる。 「西の日光」とも呼ばれる耕三寺は、島出身の実 業家・金本耕三氏が母の菩提を弔うために出家 し、建立した寺で、これが一個人の財力で出来上 がった事に驚く。 潮聲山耕三寺は、昭和11年(1936)から30年 あまりの歳月をかけて造られた堂塔の数々は、飛 鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸の各時代の代表的仏 教建築の様式や手法を取り入れて復元している。中門を入ったすぐ右手に礼拝堂がある。礼拝堂 当寺独自の仏堂である。 京都の国宝清水寺西門 を原型とし、桃山時代の建築様式にのっとって建立 したものであるが、彩色や装飾の一切は耕三師の 考案によるものである。 また、戦後に建築されたものであり、当寺の建築的 特色が確立したものともいえ、原作の門を礼拝堂に 応用するという自由な発想は注目されている。 な お、内陣には観世音菩薩の尊像が安置されている。礼拝堂の近くに石段があり、上を望むと立派な五重塔が聳えている。 礼拝堂は一番下の段にあり、この塔は、中段における中心的な建築物である。五重塔 本堂と五重塔が前後に並び建つ四天王寺式の伽藍 配置を見せている。 奈良・宝生寺五重塔(国宝)を 原作として、比較的忠実ではあるが、基壇の高欄、 柱の仏像の浮き彫り、彩色など、外観上は当寺の 特色をだしている。 また、内部の心柱には耕三師 の発案で鋼管を使用しており、昭和時代の技術を 反映している。塔の基部に、「大慈母塔」の額があり、耕三師の母にたいする思いが込められている。更に、石段を上って行くと、上段にたどり着く。 ここに見事な「孝養門」がある。孝養門 言うまでもなく、原作は日光東照宮陽明門である。当 寺の建築においては唯一、その実測図が用いられて おり、各部の比例も一致している。 昭和28年(1953)、当時この大事業を立願した耕三 師は、幾多の苦心の末、文部省に一組だけあった図面 を同省に申し入れて入手した。 以来10年の歳月をか け完成した。 相違は、各部の装飾の彫刻と彩色に多く、下層柱の金 銀泥彩色を施した聖衆来迎の浮彫、組物表面に施した 彩色など原作よりはるかに華麗で、こうした点では、日 本一の豪華な建築物といえる。う~ん、要するに一流品のコピーではあるが、図面まで入手し、それに忠実に、しかもそれを上回る努力をしたことは、時代の違いもあるが、評価できることである。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku494.html
2003年10月05日
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8月18~20日まで、3日間しまなみ海道と岡山に行って来た。 実は、その直後九州旅行をし、その旅行記を先に掲載したので、こちらの方が後になってしまった。 8月18日(月)08:00 我が家を出る。 地下鉄を利用して名古屋駅へ。 新幹線ひかりで、福山駅到着は11:20。12:00集合の予定が、改札口を出たところに既に半数以上が来ていた。 11:40には総員14名が集まる。 予定を早めて、2台のマイクロバスに分乗する。 今夜の宿泊地は伯方島(はかたじま-塩で有名)であるが、先ずは昼食と最初の観光地・耕三寺(こうさんじ)を考慮し、生口島(いくちじま)まで行くことにする。 バスは国道2号線を尾道に向かう。しまなみ海道 1999年5月1日、ついに西瀬戸自動車道・尾道- 今治間が全通した。 この道の愛称を全国から公 募し、「瀬戸内しまなみ海道」となった。 この「しま なみ海道」は、その名の通り島々をつなぎ、そして そこに住む人と人とをつなぐ橋である。 このルートの最大の特徴は、全ての橋を徒歩・自転 車で通行でき、瀬戸内海の風景を楽しめることであ る。先ずは、新尾道大橋を渡る。新尾道大橋 隣接する尾道大橋と同じ、中央支間長215mの斜 張橋である。 我が国の本格的な斜帳橋の先駆け である尾道大橋(1968年に開通)の西側55mに 平行して架けられている。 本州四国連絡橋の中で、最後に着工され、最新技 術を駆使して、尾道大橋の完成から約30年後に 完成した。橋を渡りきれば、向島である。 暫く自動車専用道路を走ると、やがて因島大橋が見える。因島大橋 1983年に本州四国連絡橋の吊橋で最初に完成 した。 中央支間長770mは完成当時日本最長で あった。 この橋は、上下二段になっており、原付・自転車・ 歩行者は下部を、上部は自動車専用道路になって いる。次の橋は、生口橋で、西瀬戸自動車道の5番目の橋梁として1991年に完成した。 全長790mで、完成時点では世界最大の斜張橋であった。生口橋を渡り、生口島北ICから一般道路に出て、海岸沿いに瀬戸田町に向かう。 ドライブイン・瀬戸田到着は12:30である。瀬戸内の新鮮な魚のさしみやタコを食べながらのビールは最高に美味しかった。 といっても、次の予定を考えて1本で辛抱しておいた。13:10 食事を終え、徒歩で耕三寺(こうさんじ)に向かう。 5分も歩かない中に、小さなお城が見えてきた。 なんと、その城が耕三寺の書庫とか。 立派な中門を見て驚く。 西の日光と言われているそうだが、期待が高まる。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku493.html
2003年10月04日
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8月28日(木) 九州旅行5日目06:30起床。 窓の外を見ると小雨が降っている。一晩中降っていたのだろうか。 昨夜夜景を撮った所を再度撮影しておく。07:20 10Fで朝食。 バイキング・スタイルなので、久しぶりにパンとコーヒーにする。 海外旅行の時は、お米のご飯が欲しくなるが、今回は逆である。08:30駐車場へ。 幸い雨は止んだようだ。 といっても、いつ再び降り出すか分からない感じである。 狭い道を苦労して電車通りに出る。長崎の市電は、各地の市電を集めた感じなのが面白い。時間の都合で、爆心地付近は車窓からの見学となる。浦上天主堂 大浦天主堂が慶応元年(1865)に完成し、こ こ浦上の潜伏キリシタンは、大浦天主堂の神父 に、「私達はあなたと同じ信仰をもつ者です」と うち明け、「歴史的な事件」となった。 明治6年(1873)キリシタン禁制が解かれ、信 仰の自由を得た浦上の信者達の33年に及ぶ奉 仕で、大正15年(1926)に立派な天主堂が完成 した。 赤レンガ造りのロマネスク式の教会は当時 東洋一と言われていたが、昭和20年(1945)の 原爆で8,500人の信者とともに失われてしまった。 現在の天主堂は昭和34年(1959)、往時のもの と同じロマネスク式で再建されたものである。近くに、信者の一人、永井隆博士が敗戦後過ごしていた、畳2枚の小さな住居「如己堂(にょこどう)」が残っている。 この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「張方屋敷」跡でもある。この住まいは、多くの市民と共に被爆し、白血病と闘いながら病床にあった永井博士のために昭和23年(1948)春、浦上の隣人達が贈った家である。「如己堂」とは、「己の如く人を愛せよ」との聖書の言葉から名付けたという。 博士は43歳の生涯を閉じた1951年(昭和26)5月1日まで、書斎兼病室として、2人の子供さん達と、ここに住んでいた。爆心地付近を見終わって、長崎観光は終わりである。次回は、個人旅行で時間を充分とり、ゆっくりと回ってみたいものである。バスは一般道を嬉野まで行き、そこでお茶工場を見学する。 嬉野から高速道路に入り、鳥栖JCTから4日前に通った道を反対に進む。 博多ICを出て、空港そばの土産品店に立ち寄る。 大きな店である。 長浜屋台ラーメンが食べたかったが、時間の都合で断念する。博多人形は素敵だが、持ち帰るには嵩張るので、これまた断念する。 12:30 福岡空港へ。 チェックイン、手荷物検査を済ませて昼食。 最後の食事なので、奮発してステーキにする。15:10 予定より少し遅れて名古屋空港に到着した。5日間の九州の旅を無事終え、ほっとした。 年寄りには、少しきつすぎた感じではあるが、結構楽しかった。今度は南九州に行きたい。 九州旅行 <完> 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku492.html
2003年10月03日
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夕食までに暫く時間があるので、大浴場に一風呂浴びに行く。 残念ながら、ここからは夜景は眺められない。部屋に帰って、外を見ると、心配していた雨が降っていた。 窓ガラスに雨滴がついているので、夜景を撮影しにくい。 デジカメを持参して、10Fの宴会場に向かう。定刻の19:00夕食が始まる。 長崎名物「卓袱(シッポク)料理」である。卓袱料理 長崎の人達が元禄の頃、町宿に止宿していた唐人 達の料理法を家庭料理に取り入れたものと言われ ている。 卓はテーブルで、袱はテーブル掛けを垂れることを いう。 卓袱料理では、器に盛られた料理を取り分け るのに、「直き箸」(じきはし-自分の箸)が原則で、 「取り箸」はない。 つまり、上下の隔てのない所に 生まれた料理といえる。 元々天領で、封建時代の 昔でも上下の隔てなくテーブルを囲んだことによる とか。 この料理は、長崎の自由の象徴であった。 料理そのものは、和洋中華の折衷(せっちゅう)で あるところが長崎らしい。 天明4年(1784)に出版 された、『卓子式』には、料理の種類を小菜8品、中 菜12品、大品8品となっている。 つまり、昔からボ リューム満点なのである。普通は円卓を6~7人で囲むが、今回は4人1組で、円卓はなしである。 なにしろ、料理の種類が多い上に、ボリュームがあるので、中程にでた有名な豚の角煮(トウバニー)と皿うどんを全部平らげることが出来なかった。坂本龍馬も、赤ワインを飲みながら、シッポク料理を外人さん達と食べたかと想像するだけで、血が騒ぐ感じである。 さて、1時間一寸でお開きとなる。 さあ、夜景の撮影である。 なにしろ、ホテルは山の中腹にあるので、夜景の素晴らしさはいうまでもない。 雨が降っていなければ、なお、いいのだがと思うが、欲をいえばきりがない。9Fのフロントに行き、ベランダに出られる所はないか聞く。 ここは南館だが、本館の食堂に行くとベランダに出られる筈とのこと。 家内は土産品店に、私は本館へと急ぐ。 ベランダからの夜景はひときわ美しいが、雨でカメラが濡れないよう気を付けながら撮影する。 ここでも、やはりダイヤモンド・プリンセス号がメインであった。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku491.html
2003年10月02日
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長崎伝統工芸館を出て暫く、ムードのある石畳の坂道を下っていく。 この地区は南山手で、大浦天主堂の東側に東山手地区の有名なオランダ坂がある。 今回は残念ながら、そちらに回る時間的余裕がなかった。坂道の途中に、近代的なレンガ造りのカトリック大浦教会があった。 現在大浦天主堂では、特別行事以外、通常ミサは行われておらず、この教会でミサを含め諸活動が行われている。暫く行った所から海が見え、ダイヤモンド・プリンセス号が目の前にあった。 早速撮影する。 大きな船だけに、人目を惹いている。坂道の両側に、土産物屋が軒を連ねている。 坂本龍馬グッズの店とか、トトロの店があって面白い。 一軒一軒入っていきたいが、予算と時間の都合で割愛し、写真だけ撮っておく。更に下りて行くと、最初に上って来た道に合流する。大浦天主堂の石段の下の地点である。 ここまで来れば、駐車場への道を間違える心配はない。 時間的に多少ゆとりがあるので、のんびりと下っていく。 左手に、素晴らしいガラス製品の店があり、ヴェネツィアン・グラスを思い出し、つい入りたくなるが我慢我慢である。17:25 ピンクの観光バスの所に到着する。 集合予定時刻は17:30なので、まだ、5分ある。 驚いたことに我々2人が最後だったらしく、バスはすぐ発車した。長崎の坂道はそんなに広くはない。 従って山の中腹にあるホテルまで、大きな観光バスで行くのは一苦労である。左折できなくて、行き過ぎてUターンし右折するなどを繰り返しながら上っていく。 それでも、20分後にはホテルに到着した。 ホテルのフロントは、なんと9Fにある。 10Fが宴会場で、私達の客室は6Fなので降りていかなければならない。なんとも、奇妙な感じである。 部屋に入るなり、窓際に行き外を眺める。 う~ん、素晴らしい風景が眼前に横たわっている。 なんと、またまた、ダイヤモンド・プリンセス号が目に入る。 今日3度目であるが、シャッターを切る。今夜は豪華客船で世界一周の夢を見そうだ。100万ドルの夜景(現在は1,000万ドルとか)に期待したいところであるが、残念ながら、今にも雨が降り出しそうだ。 -つづく- 画像は下記をクリックして下さい。http://hmiya.pepper.jp/raku490.html
2003年10月01日
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