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今日で夏休みも終わりの学生さんも多いですよね。そんな皆さんにこの曲を送ります。ザ・フーのサマータイムブルース、1969年夏に行われたウッドストック)・フェスティバルでのライブ映像です。歌詞はこちら、Well, I'm a'gonna raise a fussI'm a'gonna raise a hollerI've been working all summerJust to try and earn a dollarWell went to the boss(Said girl for a date?)The boss said "No dice, son, you gotta work late"Sometimes I wonder what I'm a'gonna doThere ain't no cure for the summertime bluesWell my mom and poppa told me"Son you gotta earn some moneyIf you wanna use the carTo go ridin' next Sunday"Well I didn't go to workI told the boss I was sickHe said "You can't use the car'cause you didn't work a lick"Sometimes I wonder what I'm a'gonna doThere ain't no cure for the summertime bluesGonna take two weeksGonna have a fine vacationGonna take my problemTo the United NationsWell I went to my congressmanHe said, quote: "I'd like to help you sonBut you're too young to vote"Sometimes I wonder what I'm a'gonna doThere ain't no cure for the summertime blues訳してみました、まったく、メチャクチャにしたいぜそれから大声で叫びたくなるぜ夏の間中働いてちょっとばかり金を稼いでいるそれで、ボスのところへ行って、彼女とデートなんだと言ったらボスが言うね、ダメだね、今日は残業だ時々、俺は思うんだ、俺は何をしたっていうんだ、憂鬱な夏にはどうしょうもないぜああ、そうだ、俺のお袋と親父が言ったっけ、息子よもし次の日曜日にクルマを使いたかったら、お金を稼がなくっちゃなそして、病気だって、ボスに言って、俺は仕事に行かなかったさあて、お前にはクルマを使えないだってお前はちっとも働かないからな時々、俺は思うんだ、俺は何をしたっていうんだ、憂鬱な夏にはどうしょうもないぜ俺は2週間の休みをとるんだ素敵な休暇にするよ国際連合に俺の悩みを相談に行くよそれで、俺は議員さんのところへ行ったのさそしたら、奴は言ったね、助けてあげたいけど、君には選挙権がないからな時々、俺は思うんだ、俺は何をしたっていうんだ、憂鬱な夏にはどうしょうもないぜ人気ブログランキングサマータイムブルース(Summer Time Blues)
Aug 31, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅の大ガードから青梅街道を西に向かうと、5分ほどで緩やかに下る坂道になります。神田川に架かる淀橋に向かって下る成子坂(なるこざか)です。この坂の中腹に成子天神社(→→→こちら)があります。社号の「成子」とは、このあたりの地名に因むものです。また、その由来は、この地にあった源左衛門という者が営む酒屋の店先に来客をしらせる鳴子が下がっていたからという説や、このあたりの水田では鳥獣を追い払うため寝小屋(監視のための小屋)を設け、鳴子を鳴らして追い払っていたからという説があり、いずれも鳴子が成子に転じたと伝えられています。青梅街道から長い参道の奥まったところへ社殿が見えています。天満宮の鳥居です。言うまでもなく、祭神は天神さま、菅原道真(→→→こちら)ですね。神社の由緒が説明されていました。延喜3(903)年の創建と伝えられ、道真が太宰府で亡くなった際、東国でそのことを知った家臣の佐伯氏と斎宮氏が、平安京より道真の木像を持ち帰り、柏木(現在の北新宿)のこの地に祀ったといわれています。その後、鎌倉時代に源頼朝により社殿が造営され、そして江戸時代に入ると、将軍徳川家光から土地を下賜された春日局が天満天神社として社殿を造営したそうです。天神さまと言えば、やっぱりこの撫で牛ですね。道真は丑年生まれで、また道真公が亡くなった時、その亡骸を運ぶ牛車が立ち止まったところが今の太宰府天満宮になったといわれたことなどから、天神社では牛は神の使いとして祀られています。身体の具合の悪い所を撫でた後、撫で牛の同じところを撫でると病気が治るというわれていますが、MoMo太郎の場合、頭のてっぺんから足の先まで、調子が良くないので、全身撫でるので、時間がかかります。鉄筋コンクリート造の社殿は新しいですね。平成26年(2014)に大規模な境内整備を行ない、境内に高層の分譲マンション、賃貸マンションと神社施設を新たに建築されたそうです。社号額も新しいですね。本殿の北側にある富士塚です。新宿区指定有形民俗文化財になっています。大正9年(1920年)に作られたこの富士塚には、富士山の溶岩を加えて築かれ、高さは約12メートルで、新宿区内では最大規模の富士塚にだそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その19) 成子天神
Aug 30, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。浄瑠璃坂の仇討跡の近くにあった公園です。「中根坂東公園」という名称です。中根坂(→→→こちら)とは、この坂道に幕府の旗本中根家の屋敷があったので,人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになったそうです。その中根坂に、この時計台があるレトロな外観の建物がありました。「市谷の杜 本と活字館」(→→→こちら)という施設で、市ヶ谷にあった大日本印刷株式会社の旧営業所棟の建物を修復・復元し、事業の原点である活版印刷の職場を一部再現し、文字のデザイン、活字の鋳造から、印刷・製本までのプロセスを展示、紹介するものだそうです。JR中央線の市ヶ谷駅に戻って来ました。ホームからは市ヶ谷フィッシュセンターの釣り堀が見えます。この釣り堀、随分、古くからありますね。人気ブログランキング新宿彷徨(その18) 市谷の杜 本と活字館
Aug 29, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区市谷砂土原町1丁目と市谷田町2丁目の間にあるこの坂道。浄瑠璃坂と呼ばれています。この道標の説明によれば、坂名の由来については,あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』),かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』),などの諸説がある。 江戸時代,坂周辺は武家地であった。 この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ,江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。と書かれていました。この坂道を登って行くと、途中から細い住宅街の中を通り抜ける道となり、建築現場の脇に出ました。そこには。新宿指定史跡「浄瑠璃坂の仇討跡(→→→こちら)」の説明標識がありました。標識にはこう書かれています。浄瑠璃坂の仇討跡新宿区指定史跡所在地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂・鼠坂上指定年月日 昭和六十年十一月一日 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(一六七二)二月三日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。 事件の発端は、寛文八年(一六六八)三月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文十二年(一六七二)二月三日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢四十二名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり六年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。 平成三年一月 東京都新宿区教育委員会以前訪れた宇都宮の興禅寺(→→→こちら)がこの仇討物語の始まりの舞台だったんですね。この写真が宇都宮市にある興禅寺の山門です。しかし、「浄瑠璃坂の仇討」は「伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」と「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」と並ぶ、江戸三大仇討ちと称されていますが、仇討ちの原因の分かりにくさや当事者の関係の煩雑さもあって、あまり映画やテレビなどで取り上げられることもないですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その17) 浄瑠璃坂の仇討
Aug 28, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅近くにある大ガード西交差点より青梅街道沿いを歩き、右手に見える河合塾を通り過ぎ右側にあるお寺が福聚山常圓寺(→→→こちら)です。常圓寺(じょうえんじ)は日蓮宗の寺院で、山号は福聚山。山号の「福」は福徳、「聚」は集まるを意味するそうで、法華経第25章(観音経)の「福聚海無量」(福徳の集まりが海のように広大なり)に由来しています。また寺号の常圓寺は、お釈迦様の教えで最も大切な「圓経」に由来するもので。「常に」「圓な(まどかな)教え」を解き放ち、人々を救うという想いを意味しているのだそうです。山門をくぐって参詣しました。境内には、便々館湖鯉鮒狂歌碑 というのがありました。説明板には、次のように記載されていました。新宿区指定史跡 便々館湖鯉鮒狂歌碑 所在地 新宿区西新宿七丁目十二番五号 指定年月日 昭和六十一年十月三日 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(一七四九~一八一八)は、本名を大久保正武といい、牛込山伏町に住んだ。始めは福隣堂巨立と号したが、のちに便々館湖鯉鮒と改めた。 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作である、 三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中が刻まれている。 碑は湖鯉鮒の死の翌年、文政二年(一八一九)に、狂歌仲間であった大田南畝(蜀山人)によって揮毫された。なお、湖鯉鮒の墓地は袋町の光照寺にあり、新宿区登録史跡となっている。 平成三十年三月 新宿区教育委員会こちらが本堂です。本堂から振り返ってみると見えたのは大きな枝垂桜です。小石川の伝通院、広尾の光林寺の桜と共に江戸三大桜といわれていたものだそうです。訪れたのは2月の末で桜は咲いていませんでしたので、桜の季節はここで花見をと思っていましたが、その頃にはすっかり忘れて、お花見には来なかったです。しかし、新宿の高層ビル群のすぐそばにこんな大きなお寺があったとは、全く知りませんでした。人気ブログランキング新宿彷徨(その16) 福聚山常圓寺
Aug 27, 2024
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上野三碑の訪問の旅の最後はこちらの金井沢碑(→→→こちら)です。金井沢碑へは、この緩やかな会談を登ってゆきます。最後は、ちょっと急な階段になっていました。金井沢碑も覆屋で保護されています。特別史跡 金井沢碑の説明板がありました。金井沢碑は、奈良時代初期の726(神亀3)年に、三家氏を名乗る氏族が、当時の最も新しい文化である仏教思想によって先祖の供養、一族の繁栄を祈るために造立した石碑だそうです。ガラス越しに石碑の正面を撮影しました。銘文には風化のため文字が判読しにくい部分があるそうですが、次のような内容だそうです。上野国群馬郡下賛郷高田里三家子(?)為七世父母現在父母現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄刀自合六口又知識所給人三家毛人次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口如是知識結而天地誓願仕奉石文 神亀三年丙寅二月二九日現代語訳にすると、上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子(?)が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀三(七二六)年丙寅二月二十九日ちなみに、刀自とは、家を統括する女性の位。主婦のことです。また、鍛師とは、製鉄や金属加工に携わる職のことです。こちらは石碑の左側面です。ここからは上野三碑めぐりバスではなく、徒歩で上信電鉄根小屋駅に向かいました。この細い山道を抜けて、上信電鉄の踏切を越えて、向うに見えるのは、上毛かるたでは「裾野は長し赤城山」として紹介されてる赤城山ですね。途中で見かけた道祖神(→→→こちら)です。上信電鉄の根小屋駅の写真を撮影と思ったのですが、道祖神の写真などを撮影していたせいか、駅には列車の出発時刻ギリギリに到着してしまい、撮影できませんでした。残念!!でした。(上野三碑めぐり)【了】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その8) 金井沢碑
Aug 26, 2024
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「史跡山上碑及び古墳」と刻まれた石柱がありました。「特別史跡 山上碑及び古墳」(→→→こちら)の説明板です。要約すると、「山上碑は、輝石安山岩の自然石で、高さ111cmに53文字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられました日本最古級の石碑になります。山上碑は放光寺の僧 長利が、亡き母の黒売刀自(くろめとじ)を供養するとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものです。黒売刀自は、碑の隣にある山上古墳に埋葬されたと考えられています。」ということです。こちらの石碑も覆堂で保護されています。こちらの山上碑は、ガラス越しでしたが、なんとなく見ることができるように撮影できました。銘文はこう刻まれています。辛己歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也 放光寺僧現代語訳は、辛巳年10月3日に記す。佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。ということでした。こちらにも記念碑や歌碑が設置されていました。また、古い墓石もあり、この場所は弔いの場所として使われていたんでしょうか。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その7) 山上碑
Aug 25, 2024
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再び上野三碑めぐりバスに乗って、山上碑を訪れました。バスを降りる時、運転手さんによると「この道を真っ直ぐ歩いていって左手に入口があります」ということでした。山上碑は、こちらの階段を登っていくようです。階段の登り口にあった石碑です。万葉集の「吾が恋は まさかも悲し草枕 多胡の入野の奥もかなしも」という歌が刻まれているそうです。石碑には手島右卿(てしまゆうけい)(→→→こちら)により万葉仮名で歌が刻まれています。さすが山上碑、山の上にあるんですね。この階段を登って行きます。階段の途中にあった「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」の説明板です。江戸時代の中頃、旅をおぼえた民衆は、名所古跡を訪ね、古来の札所を廻った。西国33カ所の観音札所であり、坂東の札所である。しかし一般の庶民にとって、これら長距離の札所は高嶺の花で、とうてい巡礼することは出来ない。そこで考え出されたのがミニ観音札所や、四国八十八カ所になぞらえた新四国である。指定の山上古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれたのは何時の頃か、明和6年(1769年)には多胡郡、緑野郡、北甘楽郡内の坂東33所遷しの4番札所に選ばれたが、時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられてあたかも史跡への階段であるかのような、錯覚のみが残っている。階段を登ったところにある特別史跡「山上古墳」(→→→こちら)です。山上碑に隣接するこの古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられいるそうです。古墳の前にあった説明板です。この説明板によると、傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として造られ、その後辛巳年(681年)に黒売刀自が追葬された時に山上碑が建てられたと考えられているそうです。この古墳の石室の中には、馬頭観音像が据えられています。かっては古墳の前に観音堂が建てられ、観音霊場「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」のうち第四番山名宝積寺窟堂という札所の一つだったそうです。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その6) 山上古墳
Aug 24, 2024
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上野三碑ガイダンス施設として整備されているのがこちらの多胡碑記念館(→→→こちら)です。施設内では、古代多胡郡をしのばせる考古資料や、上野三碑の実物大レプリカ、多胡碑の碑文の書風にかかわる中国の刻石の拓本などが展示されています。撮影できそうだったのは、子供時代を群馬県で過ごした人は、みんな知っている上毛かるた(→→→こちら)の一枚「昔を語る多胡の古碑」です。また、拓本の体験コーナーもあり、MoMo太郎も挑戦してみました。また、多胡碑記念館に隣接して吉井いしぶみの里公園がありました。公園の中には、古墳や古代ハスの池がある。また多胡碑の碑文の文字が園内の岩に刻まれています。このあたりにある多胡古墳群は吉井町多胡から吉井町神保にかけて分布する古墳時代後期~終末期にかけての群集墳で、90基以上存在していたと考えられる吉井地域最大の古墳群だそうです。こちらの公園には、2基の古墳が移築復元されています。こちらの古墳は、片山1号墳(上毛古墳総覧吉井町65号)高崎市吉井町片山117番地より粘土槨を移築本古墳は、墳形32.6mを測り、周囲に巡る濠跡を含めると直径約50mを測る円墳となります。主体部は墳頂中心より南に寄った位置から、8.8mを測る長大な粘土槨を確認しました。粘土槨からは小型仿製の内行花文鏡のほか竪櫛(約40点)、鉄剣、鉄鏃、鉄製斧、石製模造品(斧・刀子・臼玉)、管玉などが出土しました。築造年代は、4世紀末から5世紀初頭と推定されます。粘土槨は全長約8.8m、幅約2.0mの墓壙の中に粘土を敷き、大木を建て半分にして中をくりぬいた割竹形木棺を置き、更に粘土で包んだものが残っていました。粘土槨(ねんどかく)古墳というもので、古墳の墳丘の上から掘られた土坑内の粘土床上に安置された木棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設になるそうです。こちらの古墳は石室のある古墳です。こちらの解説プレートによれば、南高原1号古墳(上毛古墳総覧多胡村115号)高崎市吉井町神保259、260、261番地より移築本古墳は直径17mを測る円墳で、低い基壇を有する二段築成を呈しています。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には北側を中心に葺石が残っていました。主体部は南側に入口をもつ横穴式石室です。石室全長は約8mで、石材は地元の牛伏砂岩を用いています。築造年代は7世紀代と推定されます。石室断面図石室は、奥の天井石及び奥壁、左右側壁(袖部を除く)、通路(羨道)の左右側壁下半(入口は除く)が残っていました。またこちらは、昭和26(1951年)、千葉県東京大学厚生農場(現 東京大学検見川総合運動場)の遺跡で発掘された2000年以上前の古代の蓮の実から発芽、開花した貴重な大賀(おおが)ハス(→→→こちら)が移植された池です。7月下旬のこの時期、ハスの花も終わりかなと思っていたら、ありました。大賀ハスの花が咲いていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その5) 多胡碑記念館と吉井いしぶみの里公園
Aug 23, 2024
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最初にやって来たのが、この多胡碑(→→→こちら)です。石碑保護のためこの覆堂の中に多胡碑はあります。ガラス越しに石碑を撮影してみましたが上手く撮影できませんでした。多胡碑については写真(→→→こちら)をご参照ください。参考に銘文を示すと、弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊現代文に訳すと、朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。という意味になるそうです。樹木の枝の陰でよくみえませんが、多胡碑に関する解説が書かれている説明板です。多胡碑についてざっと紹介しますと、多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。こちらの木は、羊さまの榎といって、地元の人が多胡碑のことを「羊さま」と呼んでいることから名づけられた木のようです。本体の多胡碑は上手く撮影できなかったので、周りにあった石碑を撮影しておきました。覆堂の横にあった石碑です。これは、陸奥出羽按察使前中納言有長と言う人が詠んだ「むかしは書残したるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかがく」という歌の歌碑のようです。ちなみに、按察使(あぜち)とは地方行政を監督・監察する令外官のことです。こちらにも歌碑がありました。吉井町出身の歌人、藤原寛一の詠んだ「万代もいかでつきせじ名にしあう ほまれぞのこる多胡の碑」という歌でした。この碑は「多胡碑記の碑」で、文学博士の男爵、細川潤次郎(元老院参議)の撰によるもので、彼が上野三碑を巡覧した時の、多胡碑の考証や三碑の状態の記録が記されています。石碑の署は当代日本随一の書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく)の筆による隷書体です。こちらは、吉田松陰の妹の文と結婚していた初代群馬県令、楫取素彦(かとりもとひこ)の歌「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるる 時はきにけり」の歌碑です。楫取素彦は、多胡碑の保護に努め、内務省にかけあって木柵等の修理をおこなったそうです。さらに楫取は地元の有志に、寄付を募って多胡碑のある稲荷明神社周辺の土地を買収して整備するよう助言し、自らも寄付をおこなったそうです。上野三碑の幟も飾られていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その4) 多胡碑
Aug 22, 2024
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上信電鉄に乗って、吉井駅にやって来ました。こちらが上信電鉄吉井駅の駅舎です。駅舎は戦前に建てられ、諸改修を受けつつ現在も用いられているそうです。駅前には、小さな商店があるだけで、コンビニもなくなんか寂しいですが、この上野三碑めぐりバス(→→→こちら)に乗って、上野三碑を回ります。このバス(といっても、9人乗りのジャンボタクシー車両ですが)は、高崎市教育委員会が上野三碑の見学者のために無料で運行しているものです。路線バスではなく、また、バスツアーでもないので、バス停に到着後、すぐに発車します。概ね一時間に一本の頻度で運行されているので、それぞれの石碑をゆっくり見学して次のバスに乗って移動するという利用方法になります。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その3) 上野三碑めぐりバス
Aug 21, 2024
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上信電鉄高崎駅の入口にある3つの石碑です。これが今回、高崎までやってきた目的の「上野三碑(こうずけさんぴ)」(→→→こちら)です。ここでこれを観たら旅の目的達成かというと、駅にあるこれはレプリカです。この笠のような石がついているのが「多胡碑(たごひ)」です。この細長い形をしたのが「山上碑(やまのうえひ)」そして、丸みを帯びたのが「金井沢碑(かないざわひ)」です。日本国内で完全な形で残るものとしては最古の石碑とされるこれらの3つの石碑は、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」(→→→こちら)に登録されています。「世界の記憶」とは世界的に重要な記録物への認識を高め、保存やアクセスを促進することを目的として、ユネスコが1992年に開始した事業の総称だそうです。日本では、この上野三碑のほか、藤原道長が残した日記「御堂関白記」、炭鉱記録画家・山本作兵衛が描き残した筑豊の炭鉱画「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」、舞鶴引揚記念館が所蔵する「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」などがあるそうです。また日本と朝鮮半島にまたがる地域登録として「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」という日本の被差別民・部落民と朝鮮の被差別民・白丁(ペクチョン)に対する厳しい差別と戦った記憶もあるそうです。ということで、上信電鉄(→→→こちら)に乗車して現地に向かいましょう。改札はご覧の通り、交通系ICカードは使えません。まず、吉井駅までの切符を購入。高崎から吉井までは営業距離は11.7キロですが、570円、ややお高いかも。東武鉄道なら11 ~15キロで270円です。しかし、久しぶりの切符なので落とさないように、財布に入れて保管しましたが、降りる時どこに入れたのか忘れて、あせりました。上信電鉄、元々はに上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、高崎 - 下仁田間が開業したのですが、その後、下仁田から長野県の佐久方面まで延伸する計画で上信電鉄と名前を変えたのですが、鉄道の延伸は実現しなかったようですね。上信電鉄の鉄道むすめ、富岡しるく(→→→こちら)さんの案内では、沿線には、上野三碑以外にも、富岡製糸場、妙義山などの観光スポットが沢山あるそうです。この上信電鉄に乗って吉井駅へ向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その2) 上信電鉄高崎駅にて
Aug 20, 2024
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7月末、夏の群馬県高崎市にやって来ました。高崎駅は古くから交通の要衝として栄え、9路線が乗り入れる群馬県内最大かつ北関東有数のターミナル駅です。乗り入れている路線は、JR東日本の上越新幹線、北陸新幹線、高崎線、上越線、信越線、八高線、両毛線、吾妻線そして上信電鉄です。こちらはMoMo太郎が乗ってきた上野東京ラインのE233系。こちらは八高線のキハ110系。八高線は高崎と八王子を結ぶ路線ですが、高崎~高麗川間は非電化区間のためこのように気動車が使われています。なお、高麗川~八王子間は平成8年(1996)に電化区間となりました。この八高線、八王子を経由して横浜線で東海道線につながっています。つまり、東京都心部を経由せずに上越地方と横浜港を結ぶ物資の輸送路としても使えるので、関東大震災のような災害があった時には、役に立つ路線です。こちらは上越線を走るE211系です。高崎駅は明治17年(1884)開業なので今年で140周年になります。ということで高崎までやってきたMoMo太郎、次ぎは上信電鉄の高崎駅に向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その1) 高崎駅にて
Aug 19, 2024
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名古屋に出張して、久屋大通駅で名古屋市営地下鉄の桜通線から名城線に乗り変えようとしたところで、この案内板に気がつきました。何分、名古屋は地理不案内でこういう案内板は役に立ちます。で、行きたかったのは名古屋城駅だったんですが、気になったのは「右回り」という説明。この名城線って環状線になっているんですね。そして、久屋大通から名古屋城へは右回り、ということは、進行方向の右手側が名城線の描く環状線の中心にあるっていうことですね。名古屋城駅で降りたら、路線図があったので、確認すると、確かに、久屋大通駅から名古屋城駅へは右回りになっていました。反対側のホームにあった路線図だと、名古屋城駅から久屋大通駅は、進行方向にむかって左手側に中心があるので、確かにこれは「左回り」でした。山手線だと右回りは外回り、左回りは内回りになるんですね。そして大阪環状線だと、右回りは外回り、左回りは内回りになるんですね。なんか慣れない土地に行くとややこしいですね。人気ブログランキング名古屋の地下鉄は右回りと左回り
Aug 18, 2024
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愛宕トンネルを抜けて愛宕下通り側に抜けると、標高約26mの愛宕山に登るためのエレベーターがありました。このエレベータ―でNHK放送博物館(→→→こちら)を訪れました。NHK放送博物館は、昭和31年(1956)に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、“放送のふるさと”愛宕山に開館した施設です。この愛宕山で、大正14年(1925)、日本で初めてラジオ放送が始まったそうです。こちらは、昭和43年(1968)、当時のNHK会長だった前田義徳(→→→こちら)氏が揮毫した「NHK放送博物館の碑」です。この博物館は入場無料だったので、中を見学しました。様々な展示物がありましたが、昭和の香りがする。お茶の間を再現したこの展示。MoMo太郎の子供の頃は、家族でご飯を食べながら、一家そろってお茶の間にあるテレビを観ていたものでした。こちらはNHKらしい子供向け番組「お母さんといっしょ」に登場するのキャラクター「にこにこぷん」ですね。そして、これはMoMo太郎が大好きだった、人形劇の「ひょっこりひょうたん島」に登場する皆さんですね。愛宕山のすぐ近くにある慈恵大学の校舎です。ここまで歩いてきて、空模様も怪しくなったので、慌てて都営三田線の御成門から帰宅しました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【了】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その9) NHK放送博物館
Aug 17, 2024
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気象庁気象科学館の次に訪れたのはこのトンネル。都会の中にこんなトンネルがあるのは、ちょっと不思議ですが、東京23区内で最も高い自然の山である「愛宕山」(標高約26m)を堀りぬいた23区内唯一の「山岳トンネル」である「愛宕隧道」です。隧道(ずいどう)とはトンネルの古い呼び方で、昭和5年(1930)に完成したそうです。平成16年(2004)に内壁の耐震補強工事が行われて、外観はきれいに見えますが、全長は76.6m、幅は9m。歩道が両脇に2.5mずつあるので車道は4mしかなく、愛宕下通り側から桜田通りに向けての一方通行の道路です。ちょっと知っていると便利な抜け道というところでしょうか。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その8) 愛宕隧道
Aug 16, 2024
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神谷町を越えて、桜田通りを虎ノ門付近までやってきました。そして、この高層ビルに向かいます。この建物が気象庁(→→→こちら)です。ここにあるのが、港区立みなと科学館(→→→こちら)と気象庁気象科学館(→→→こちら)です。港区立みなと科学館は「まちに息づく科学「」の発見と探究をコンセプトとした科学館だそうです。体験型展示が充実した常設展示コーナーやプラネタリウムホールなど、子どもから大人まで、科学を体験しながらお楽しむことができます。プラネタリウムは観覧料が必要ですが、入場料は無料です。気象科学館では、気象や地震の観測機器や日本の自然を体感できるシアター、防災知識について学べる装置などを揃えています。 また、解説員(気象予報士)が常駐しており、気象や地震に関して質問することもできます。ここもまた、入場無料です。どちらの施設も夏休みの自由研究のネタ探しにはいい施設です。ということで、「無料」が好きなMoMo太郎は気象科学館に入ってみました。気象庁のマスコットキャラクター「はれるん」がお出迎えしてくれます。こちらの装置は、普通の波と津波を発生させることのできる津波シミュレーター。津波について学べます。その他にも、色々な装置があって気象の勉強ができますが、MoMo太郎が勉強になったのは、この「うずのすけ」という台風と竜巻ができる仕組みを勉強できる装置です。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その7) 気象庁気象科学館
Aug 15, 2024
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永坂を登って、飯倉の交差点までやって来ました。外苑東通りを、芝公園に向かって東へ歩きました。ここは東京タワーのビュースポットですね。外苑東通りにあるこの建物は、外務省飯倉公館です。外務省主催の各種イベントや会議の場として使われる施設だそうです。その隣にあるのが、この高層ビル。最近できた「麻布台ヒルズ」(→→→こちら)です。麻布台ヒルズは、区域面積約8.1ha、延床面積約86万㎡。開発前の5倍以上となる約24,000㎡の緑地を整備した、都心にありながら緑あふれる環境に囲まれた施設です。単独のビルがではなく、オフィス、住宅、商業施設、マーケット、ホテル、デジタルアートミュージアム、ギャラリー、インターナショナルスクール、医療施設など、多様な都市機能が集積した一種の街のような施設です。今度は外苑東通りから、桜田通りに入って行きました。桜田通りに面して、立派な鳥居の神社がありました。西久保八幡神社(→→→こちら)です。この神社は、寛弘年間(1004年~1012年)源頼信によって霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建され、室町時代の武将で江戸城主となった太田道灌が現在の地に遷したと伝えられています。麻布台ヒルズは、丁度、西久保八幡神社を囲むように建てらていて、桜田通りに面したことらにも、麻布台ヒルズの施設がつながっていました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その6) 麻布台ヒルズへ
Aug 14, 2024
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暗闇坂を下ると、商店街に出ます。麻布十番商店街です。青山から三田地域周辺まで広く包含する「麻布地域」ですが、その地名の由来は、昔このあたりで麻を植えて布を織ったので、「麻生」という地名が生まれ、そこから「麻布」になったそうです(→→→こちら)。また、「十番」というのは、五代将軍徳川綱吉の白金御殿を建設する際に、土運びをする人足が1~10番までの組が編成され、この地域の人が10番組だったからだそうです。そして首都高速の一の橋ジャンクションです。このジャンクションの近くにあるのが、有名な蕎麦屋さんの麻布永坂更科本店(→→→こちら)です。ここから永坂という坂道が麻布台へ続きます。麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。と標識には記されていました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その5) 麻布十番
Aug 13, 2024
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麻布のこのあたり、道を間違えるとどこに出るのかわからない迷路にようになっています。このモダンなデザインの建物を目印に東に向かって右折します。この住宅街の細い道を歩いてゆきます。この道は狐坂、きつねざか、港区元麻布二、三丁目境で長玄 寺前へ下る坂。昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたという。という標識がありました。この坂道を下って行くと、アラブ・イスラ-ム学院(→→→こちら)というのがありました。サウジアラビア政府が設立したアラビア語学校だそうですが、今は閉鎖されているみたいですね。狐坂を下ったところで、今度はまた登り坂。元麻布付近の道路、人生と同じで、下ったり、登ったりが続きます。こちらの道は狸坂たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。という標識がありました。むかしはこのあたりにはキツネとかタヌキがいたんでしょうね。狸坂を登ると高層マンションが見えました。元麻布ヒルズ(→→→こちら)です。そして今度は、この坂道を下って行きます。暗闇坂くらやみさか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったと言う。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。という標識がありました。かなりの勾配の坂道ですが、暗くはなかったですね。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その4) 狐坂・狸坂・暗闇坂
Aug 12, 2024
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外苑西通りを渡ると、港区になります。次に向かうのは、この標識にある「有栖川宮記念公園」(→→→こちら)と「都立中央図書館」(→→→こちら)です。こちらにある「National Azabu(ナショナル麻布)」(→→→こちら)は、1962年にオープン以来、日本に住む大使館員や外国人ビジネスマンの御用達スーパーとして、世界各国のあらゆる食材や雑貨を豊富に取り扱っているインターナショナルスーパーとして有名ですね。そして、このナショナル麻布スーパーマーケットの前にある公園が、港区立有栖川宮記念公園です。おおよそ6.7ヘクタールの広い公園です。麻布台地の変化にとんだ地形を生かした緑深い公園になっていて、丘があったり渓谷や池があったりと、自然を大切にした趣のある日本庭園といえます。台地にあがるこの階段を登っていくと、有栖川宮公園に関する記念碑があります。碑文には、この土地は、江戸時代には、盛岡南部藩の下屋敷として使われていたこと、そして、1896年(明治29年)、有栖川宮家の御用地となったこと、また、有栖川宮家の祭祀を継いだ高松宮が児童福祉のためにこの土地を東京市に賜与し、記念公園として一般に開放され、今は港区の公園となったことが記されていました。この騎馬像が、この公園とも縁の深い、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像になります。こちらは新聞少年の像です。新聞の戸口配達網の発達の一翼をになった働く少年たちの保護育成を目的に、社団法人日本新聞販売協会等の関係団体が「新聞少年の像」を各地に建てたうちの一体だそうです。公園内にあるこの建物が、都立中央図書館です。以前は2009年(平成21年)までは日比谷公園にも都立図書館があったのですが、千代田区に移管されて、都立図書館はここと国分寺にある多摩図書館だけになりました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その3) 有栖川宮記念公園
Aug 11, 2024
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外苑西通りと明治通りを結ぶ「HIROO散歩どーり」を中心に広がる広尾商店街を歩きます。広尾の高級住宅街の近くなので、お洒落なお店も多いです。ここら東京タワーが見えるんですね。こちらの建物は、コインランドリーがあって、廣尾湯(→→→こちら)という公衆浴場です。意外と庶民的な施設もあるんですね。そして、外苑西通りに出ました。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その2) 広尾商店街
Aug 10, 2024
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JR東日本が開催している駅からハイキング「東京で自然・歴史を感じるハイキング」で歩いた、恵比寿・広尾・麻布を紹介します。出発は、ここJR山手線の恵比寿駅です。恵比寿駅西口の東側あるこの建物。恵比寿西口駅前商店街のえびすストア(→→→こちら)です。八百屋さん 魚屋さん、バン屋さん、洋品店と色々揃って便利です。恵比寿駅から駒沢通りを東に歩くと渋谷川(→→→こちら)を渡ります。これが渋谷川です。渋谷区と港区の区界である天現寺橋を境に、上流が渋谷川、下流が古川と呼ばれています。渋谷川・古川はJR渋谷駅前の新渋谷橋を上流端とし、渋谷区、港区内を流下してJR浜松町付近で東京湾に注ぐ二級河川です。流域面積は22.8km2、総延長は6.8kmですが、過去には何度か、台風や大雨によって水害を起こしています。次に明治通りを広尾方面に向かって進みます。広尾一丁目の交差点にやって来ました。ここから「HIROO散歩どーり」と呼ばれる広尾商店街になります。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その1) 恵比寿から
Aug 9, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。漱石山房記念館に隣接している漱石公園です。ここには元々夏留目漱石が暮らしていた「漱石山房」という建物があったのですが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となっていたそうです。しかし、2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現そうです。公園内には、夏目漱石が散歩していた場所を示す案内板があり、漱石になった気分で街を歩くのもいいかもしれませんね。また、漱石山房の構造を紹介した看板もありました。漱石公園は漱石山房記念館の裏庭のようにもなっていました。この石塔は、猫塚というもので、漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたものだそうです。また、指定史跡ということで、夏目邸の建物の遺構を発掘したことも説明されていました。人気ブログランキング新宿彷徨(その15) 新宿区指定史跡 漱石公園
Aug 8, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区立漱石山房記念館(→→→こちら)を訪れました。夏目漱石は新宿区で生まれ育ち、また1916年(大正5年)の死没までの9年間を現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で過ごしたそうです。そういうことで、「夏目漱石終焉の地」という説明板もありました。この記念館は、漱石生誕150周年にあたる平成29年(2017年)9月24日、新宿区立漱石山房記念館として開館したそうです。観覧料は300円でした。館内には夏目漱石に関する資料が展示されていましたが、撮影できないものもあったのですが、この夏目漱石の人形は撮影できました。また屋外には、夏目漱石の胸像もありました。人気ブログランキング新宿彷徨(その14) 漱石山房記念館
Aug 7, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。東京メトロ早稲田駅近くにあるこの狭い道は、新宿区立漱石山房記念館(→→→こちら)に続く、漱石山房通りという名称です。この道を歩いて行くと、この建物が見えてきます。新宿区立早稲田幼稚園(→→→こちら)と新宿区立早稲田小学校(→→→こちら)の校舎です。この早稲田小学校、明治33年(1900年)に早稲田尋常小学校として開校した歴史ある小学校です。そして、早稲田と言えば、こちらの明治15年(1882年)に大隈重信が創立した東京専門学校を前身とする早稲田大学(→→→こちら)ですね。ここを訪れた2月下旬は丁度、入学試験が行われていました。早稲田幼稚園→早稲田小学校→早稲田中学→早稲田高校→早稲田大学なんていう、早稲田一筋の学生生活を送る方もおられるでしょうね。言ってみたいですね、「幼稚園から早稲田です」。人気ブログランキング新宿彷徨(その13) 幼稚園から早稲田です
Aug 6, 2024
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愛宕神社本殿の裏側には、また石段がありました。こちらは、案内板によると、この石段を登り詰めた処に愛宕神社の奥社、飯綱神社が有り御祭神の手力雄命が鎮座する。其の奥の御奉殿は菊花紋を付けた青銅造の六角堂で夷針神社が祀られている。台座は自然石の美事な亀甲形で芸術的魅力を感じる。西に松尾神社、芭蕉の句碑があり一ツ葉の自生も見られる。東には水の神、龍神社が祀られ巴川の水源が泉地名の起源と思われる。北は愛宕山を守護し神徳の発揚に寄与した十三天狗の祠が有り関東の奇祭として悪態祭は広く知られる。ということで石段を登りつめたところにある飯綱神社です。飯綱神社拝殿の裏に回ると、青銅製の六角堂と十三天狗祠がありました。六角堂は夷針神社を祀っているそうです。夷針神社(いはりじんじゃ)(→→→こちら)とは聞きなれない神社の名前ですね、そして、こちらが十三天狗の祠です。十三天狗とは、仙境異聞(→→→こちら)によれば、元は五天狗であったものが、十二天狗になり、さらに狢内(むじなうち)村(現在の石岡市龍明)の長楽寺の僧侶が加わって十三天狗になったそうです。この辺りは吾国愛宕県立自然公園(→→→こちら)としてハイキングなんかを楽しめるようになっているんですね。こちらは「御泉井神」と書かれた札があり、神聖な泉が湧いているんですね。愛宕神社の東側の景色です。望遠を使ってみると、茨城県中部の鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町にまたがる那珂川水系の汽水湖の涸沼(→→→こちら)まで見えました。(笠間市愛宕山)【了】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その3) 飯綱神社、六角殿、十三天狗祠そして涸沼
Aug 5, 2024
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愛宕山の山頂にある愛宕神社(→→→こちら)へ向かいます。参道にあった鳥居の近くに「悉帰産土大神 鳥獣慰霊碑」と刻まれた石碑がありました。どういう経緯でこの石碑が建立されたのかはわかりませんが、悉とは「ことごとく」という意味の漢字で、おそらくすべての生き物が産土大神(生まれた土地の守り神)のところに帰るという意味の鳥獣慰霊碑なのでしょうか。参道は自動車でも行けそうですが、MoMo太郎は歩いてお参りすることにします。鬱蒼とした林の中を進みます。途中に餅つき道祖神と刻まれた石碑がありました。いろんな道祖神(→→→こちら)があるんですね。鳥居を過ぎると長い石段が、振り返ってみると結構、急な石段でしたね。本殿建築記念と刻まれた石柱がありました。そして振り返ると、こちらが本殿です。愛宕山の山頂にある愛宕神社は、日本三大火防神社のひとつといわれており、創建が大同元年(806年)と伝えられている歴史ある神社だそうです。。本殿の中まで撮影しました。日本三大火防神社のひとつと言われているだけのことはあり、消防団の奉納した額が掲げられています。そして、伝説では愛宕山、筑波山、加波山は天狗の修業場として栄え愛宕山では13人の天狗が住み着き厳しい修行が行われたと伝わっているので、天狗のお面も奉納されていました。境内にも多くの石碑が奉納されていました。日本三大火防神社のひとつの神社にふさわしい石碑ですね。しかし、日本三大火防神社ってどこなんでしょうかね。ここ以外は、やっぱり、静岡の秋葉神社(→→→こちら)と京都の愛宕神社(→→→こちら)なんでしょうか。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その2) 愛宕神社
Aug 4, 2024
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茨城県笠間市にある愛宕山(標高306m)を訪れました。愛宕山には昔、天狗たちが住んだという伝説があり、「あたご天狗の森」(→→→こちら)という公園施設があります。大駐車場のほか 宿泊施設やフォレストハウス、公衆トイレ、太平洋まで一望できる展望デッキなどが整備されています。こちらの施設が「あたごフォレストハウス」です。ハイキングや森林浴を楽しむ来訪者の多くが、車から徒歩に移動手段を切り替える中継地点として、カフェやシャワー施設などが整備されています。展望台からは、霞ケ浦や石岡市、水戸市まで見渡せました。天狗伝説にちなんで、天狗のモニュメントもありました。【愛宕山の天狗伝説について】昔、愛宕山が岩間山といわれていた頃、 文政6年(1823年)、平田篤胤が天狗小僧寅吉に取材した「仙境異聞」を出版し、そこに「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗」がいると描き、江戸の文化人に霊界としての「岩間山」の存在が知られるようになったというそうです。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その1) あたご天狗の森
Aug 3, 2024
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池上線の蓮沼駅を過ぎてしばらく歩くと、「サンライズカマタ」というアーチが見えてきました。蒲田駅周辺には多くの商店街がありますが、こちらは蒲田駅西口商店街を形成する商店街のひとつです。西口には、この「サンライズ蒲田」のほかにも、「サンロード蒲田」、「バーボンロード(蒲田東急駅前通り会)」、「工学院通り商店会」などの商店街があり、賑わいをみせています。蒲田にこのような商店街ができたのは、戦後(昭和20年)の焼跡から一早くヤミ市が出来て、ようやく復興の兆しが見えた昭和30年頃。区画整理を中心に現在の商店街の前身が出来上がりました。このサンロード通りのアーケード(屋根)は昭和40年に完成したそうです。アーケード内は黄色いアーケードに照らされ、全体が暖かい雰囲気ですね。亀屋百貨店というのもなんか昭和を感じる店名ですが、どうやら閉店するみたいですね。アケード街を抜けると、駅ビルのグランデュオ蒲田西館が見えてきました。この蒲田駅を訪れた2024年5月19日は、JR蒲田駅開業120周年のイベントが開催されており、多くの人が集まっていました。今回のゴールのJR蒲田駅から京浜東北線に乗って、帰りました。(大田区を歩くコース)【了】人気ブログランキング大田区散歩(その11) 蒲田西口商店街サンライズカマタ
Aug 2, 2024
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徳持ポニー公園を過ぎると、東急池上線の踏切がありました。踏切から線路を撮影してみました。池上線は、東京都品川区の五反田駅と東京都大田区の蒲田駅を結ぶ東急電鉄が運営する鉄道路線です。これは新型の7000系、新型と言っても2007年(平成19年)からですけど、池上線・東急多摩川線に投入された車両です。こちらは1000系、元々は東横線と東京メトロ日比谷線乗り入れ車両として1988年(昭和63年)に導入した車両で、1993年(平成5年)から池上線・東急多摩川線で走っています。この緑の帯の1000系は、池上線・東急多摩川線用に改造した車両だそうです。池上線の蓮沼駅に到着しました。こちらも1000系の車両ですが。東横線を走っていた頃の色の赤い帯のままですね。いずれにしても、西島三重子さんが名曲「池上線」を歌った1970年代頃の池上線とは違っていますね。♪古い電車のドアのそば二人は黙って建っていた話す言葉を探しながらすきま風に震えて・・・・(大田区を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング大田区散歩(その10) 東急池上線蓮沼駅
Aug 1, 2024
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