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南足柄市の「酔芙蓉まつり」今年は残念ながら新型コロナウイルスの関係で中止になっている。朝、昼、夕と花びらの色が白から濃いピンクに変わる酔芙蓉の花700本と、芙蓉の花100本が千津島ふくざわ公園脇の酔芙蓉農道(約1km)に大輪の花を咲かせ、8月下旬から9月下旬にかけて楽しむことができる。9月20日(日) 14:11昨年も試合(9月1日)の後、立ち寄ったが今年も野球仲間に付き合ってもらい訪れた。大雄山駅前から県道78号線を東に走り竹松交差点を左折して北上、途中アサヒビール入口を過ぎると「ふくざわ公園」の案内板があるので右折(交差点から約2km)県道78号線の竹松交差点から北上。左下に「アサヒビール 神奈川工場」があるふくざわ公園所 在 地:神奈川県南足柄市千津島1845駐 車 場:まつり会場付近に25台程度を用意している例年、開花時期にあわせて「スイフヨウまつり」が開催されているが、今年は新型コロナウイルス感染拡大を鑑みて中止となりました。ただ、9月19日(土)から22日(火・祝)の間、隣接するふくざわ公園で軽トラックによる農産物の販売が行われたふくざわ公園 東京三田の龍源寺から閑静な地を好む、大島仁宗が千津島天福寺住職に入られたのが明治9年である。明治維新の時、思想家、教育者として活躍した福澤諭吉は親交深かった大島住職のもとをたびたび訪れた。明治22年町村制がひかれた時、新しい時代を夢みて衆議一決福澤諭吉の福澤(ふくざわ)を村名にした。この公園の地は天福寺のゆかりの地をもって「ふくざわ」公園と名づけ、後世に夢と理想と希望を語り合える場にと願っている 平成12年10月公園の隅にある石碑「拓」●己の手で石を取り除き耕地聖地として拓く:環境整備推進の構築●人の心で人を創(和)り時代と世代を拓く:現在と将来文明社会の構築●先蹝遺産の尊さを勉学し己の身心をも拓く:歴史知識の高揚と心身安穏の構築今年の「酔芙蓉祭り」は新型コロナウイルスの関係で中止になっているが、昨年は下記期間で開催された内容です。開催期間:令和元年9月21日(土) ~ 9/29(日) 期間中の土・日・祝日 10:00 ~ 16:00 には模擬店が出店(雨天中止)開催場所:ふくざわ公園(千津島1845付近)酔芙蓉農道市内、福沢地区の酔芙蓉(スイフヨウ)農道の北方向、東側は開成町に隣接している試合の後、野球仲間に付き合ってもらい撮影に訪れた。花の名前は、花色が変わる姿からお酒を飲んで酔ったように見えることに由来すると酔芙蓉は、朝、昼、夕と花びらの色が白から濃いピンクに変わる。酔芙蓉は、アオイ科フヨウ属で、原産地は日本・中国・台湾。剪定せずに育てると草丈が4m近くまで成長する。寒さにはやや弱く、その代わり暑さには強い新型コロナウイルスに関係なくきれいに咲いていたつぼみは開花前? まだこれから楽しめるのか朝、昼、夕と花びらの色が白から濃いピンクに変わる酔芙蓉。酔芙蓉の花言葉は、「しとやかな恋人」「繊細な美」「心変わり」「幸せの再来」。このうち、「心変わり」を除いた花言葉は、芙蓉の花言葉である花びらの色が白から濃いピンクに変わる酔芙蓉。まさに「心変わり」酔芙蓉は朝花が咲いて夕方には散ってしまう1日花です。その1日のなかで花色が白から濃いピンクへと変化していきます梅干しの如くになった酔芙蓉田んぼの畦道に彼岸花が咲く明日(9月21日)は地元で「彼岸花まつり」が開催されるので訪れる予定だが開花状況は?前方の傾斜地には「松田山ハーブガーデン」、富士山のビューポイント。また春先には河津桜が咲く酔芙蓉農道の南方向花の咲き方は、八重咲き・一重咲き・二重咲きと複数あり、八重咲きの品質はくす玉咲きというものも存在し、ボリュームのある見た目が特徴これからが見頃になるのか花の色が変わるのは、アントシアニンの合成が理由。アントシアニンは25℃以上の気温で合成し、合成すると植物内の酸素量が増える。すると白色だったものがピンクへと変化する仕組みだと。そのため、気温が25℃を下回る日は色がほとんど変わらない千津島ふくざわ公園脇の酔芙蓉農道(約1km)に大輪の花を咲かせている花の芯を狙うが時間が経つと雌しべを隠して来るのか耳たぶが染まり、もうそろそろ酔いが回って来たか酔芙蓉の仲間に似た品種は芙 蓉(ふよう):アオイ科フヨウ属、別名で木芙蓉(モクフヨウ)、原産地は日本・中国、 花色はピンク、草丈 1~4mアメリカ芙蓉 :アオイ科フヨウ属、別名で草芙蓉(クサフヨウ)・ローズマロウ、原産地は 北アメリカ、花色は白・ピンク、草丈 1~1.5mで花の大きさは25cm立葵(タチアオイ):アオイ科ビロードアオイ属、別名でホリホック、原産地は不明、花色は 赤・黄色・ピンク、草丈 1~3mハイビスカス :アオイ科フヨウ属、別名で仏桑花(ブッソウゲ)木 槿(ムクゲ):アオイ科フヨウ属、別名でハチス・キハチス、花色は白・紫今日は一日曇り空で25℃以上になったか?開成町の「あじさいの里マップ」開成町には、①アジサイまつり、②あしがり郷瀬戸屋敷:江戸時代の古民家、ひなまつり 等の見所がある黄色に染まった稲穂、箱根方面稲刈りが終わった田んぼに、シラサギが稲穂を求めて飛び立ちカメラで追うが優雅に飛び立つが残念ながらピントが合いませんでした酒匂川に架かる「足柄大橋」から、直進すると東名高速大井松田インタ―へ。斜め右方向の丘の上にはかつては第一生命保険の本社ビルであったが、現在は「BIOTOPIA(ビオトピア)」の高層ビルが建つ足柄大橋(大井町 ー 開成町)は、橋長674mの長大橋で、昭和62年(1987)に竣工した。左前方の欄干に何かを見つけるズームアップすると、この橋の親柱には熊にまたがる金太郎の像が載っており、橋のシンボルになっている足柄大橋を渡ると県道78号線が渋滞していたので、足柄大橋東交差点を右折して南下この後、4連休で国道1号線の渋滞が考えられたが帰路の上りは空いていたが、下りの箱根、熱海方面は渋滞していた。今日は朝9時前から16時ごろまで一日野球でした。 END
2020.09.26
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旅友のKさんから、佐久のコスモス街道へ行こうとのお誘いがあり、ついで近くにある続日本百名城の『No.129 龍岡城』も併せて行くことに。このブログはダイジェスト版であり詳細は後日アップします。いつものように早朝6時に我が家へ来ていただき、一般道優先で国道246号線から山中湖、河口湖、籠坂峠、韮崎市から、国道141号線を走り清里経由で訪れた。令和2年9月14日(月) 11:00途中にある「鉄道最高地点神社」国道141号線沿いにあるJR小海線の「JR鉄道最高地点 標高1,375m」。所在地:長野県南佐久郡南牧村大字野辺山214-34JR小海線の清里方面。列車が来るのを待つが時刻表がなくあきらめる国道141号線沿いから八ヶ岳八ヶ岳は山梨県と長野県に跨る山塊。南北30km余りの山体で、大火山群である11:30鉄道最高地点神社の近くにある、国立天文台「野辺山宇宙電波観測所」所在地:長野県南佐久郡南牧村野辺山462-2今までこの辺りを何度も走ったが、訪れるのは初めてで見学は無料アンテナ直径:10mの「ミリ波干渉計」 6台45m電波望遠鏡 1台上に向って稼働中のパラボラアンテナ12:22可愛らしいJR小海線の「野辺山駅舎」駅舎に入ると木の香りが漂い、新駅舎か?ちょうど小諸行きの下り列車が入る13:35国史跡 龍岡城五稜郭続日本百名城ののスタンプが置かれている「五稜郭 であいの屋形」所在地:長野県佐久市田口3000-1続日本百名城の登城は、21/100No.129 龍岡城西洋軍学を採り入れた稜堡式城郭で、日本に二つある星形の西洋式城郭のひとつである。因みに、もう一つは函館にある日本百名城の「No.2 五稜郭」大手門の濠龍岡城の跡地には現在、佐久市立田口小学校が建っている函館の五稜郭に比べて濠の規模が小さいが稜堡の石垣。稜堡には桜が植えられていた14:30国道254号線のコスモス街道佐久市と群馬県下仁田町を結ぶ国道254号線の内山峡にあり、県境の内山トンネルを抜けた「黒田地区」から「松井地区」までの全長9キロの沿線が「コスモス街道」荒船山方向内山地区の住民が心を込めて丹精に育て上げた4万株のコスモスコスモスの背丈が高く人の高さ以上であった風に揺られるコスモス15:05山荘あらふね周辺案内図。カーナビは「山荘あらふね 0267-65-2021」コスモス街道から車で20分程の荒船山の麓、内山牧場キャンプ場内山牧場キャンプ場には、3万平方メートルの「大コスモス園」に約10万本株ものコスモスが植えられている。しかし、今年は新型コロナウイルスの関係か、右側の斜面には雑草が生い茂っていたコスモス街道に比べ高地にあるため見頃は9月中旬から10月上旬曇り空で雲が下がり、寒かった帰路も一般道優先で国道254号線を走り下仁田町、途中豪雨になり鳩山町、鶴ヶ島市、入間市、八王子経由国道16号線を走り、6時間半を要し22時過ぎに帰宅した。今日一日の走行距離は420kmで、歩行数は車移動が多く6,500歩でした。 - END -
2020.09.22
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9月になり彼岸花のシーズン、野球の練習の後いつもの小出川へ立ち寄り開花状況をチェック。今年は新型コロナウイルスの関係で中止になるかと思っていたが「彼岸花まつり」の垂れ幕があるので今年も開催されるよだ。9月13日(日)日曜日の朝練の後、帰路にある小出川へハンドルをきる。まず、小出川の下流側にある「追出橋」。橋の右側(下流)に、寒川町青少年広場「おおぞう会場」がある。この後、上流側へ移動小出川上流側の「大黒橋」。大黒橋から下流側を望むが、今日も富士山は見えず。昨年は、令和元年の「第12回小出川彼岸花まつり」が、9/22(日)から開催されたが今年は?小出川沿い大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース天気の良い日は富士山も見え、彼岸花とのコラボが良い小出川沿いには既に幟が立てられていた昨年は開花が10日ほど遅れたが今年の開花状況は順調まだ白の彼岸花は見当たらなかった後日ネットで調べると、今年も開催と。開催は、今日21日(月)からまた、この時期稲刈りのシーズンでもある。先日は「住宅街の案山子」をアップしたが、別の場所では、ここでも稲穂が実り、スズメ対策でネットを張っていた遠方の大山方向は曇り空ネットを富士山の如く中央を上げ風がなく垂れ下がり安倍首相の後は、令和おじさんの「菅新首相」になりこれから冬に向けてどうなるか。今年は海外旅行も中止になり経済対策の一環であるGoToキャンペーンを利用して、久しぶりに10月18日(日)から3泊四日の旅行を計画した。ツアーはネットで知り【GoTo トラベルキャンペーン適用】往復北海道新幹線利用! 函館フリープラン4日間を旅友二人で申し込む。 ・GoTo トラベル事業支援対象 二人一室で、37,000円 ・宿泊費込みだが食事がないため、いつものようにコンビニを利用 ・現地での移動はレンタカーだが、19,000円/4日間 と安い。主目的は、紅葉と、続日本百名城2城を制覇するブログ取材です。ツアー代金は、レンタカー込みで 30,250円と割安、+ 食費&宴会費用 ー END -
2020.09.21
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今日から9月、この暑さがいつまで続くのか、長期政権の安倍首相の突然の辞任により、この中旬には新首相が決まるがはて誰になるのか?安倍首相もいろいろストレスが積もる中、最後は新型コロナウイルス対策に追われ最長政権に、やることなすことに批判されいろいろとありましたが本当にご苦労様でした。7月は梅雨で毎日のように雨雨・・・。梅雨明けの8月になってからは、新型コロナウイルスのニュースと熱中症での死亡者数。このような中、8月30日(日) は「神奈川県央中高年齢者愛好会」の今年最初の試合であったが、環境省から神奈川県に「熱中症警戒アラート」が発令されたため中止に。熱中症警戒アラートに関連した、暑さ指数とは(WBGT)?暑さ指数(WBGT(湿球黒球温度):Wet Bulb Globe Temperature)は、熱中症を予防することを目的として1954年にアメリカで提案された指標です。 単位は気温と同じ摂氏度(℃)で示されますが、その値は気温とは異なります。暑さ指数(WBGT)は人体と外気との熱のやりとり(熱収支)に着目した指標で、人体の熱収支に与える影響の大きい ①湿度、 ②日射・輻射(ふくしゃ)など周辺の熱環境、 ③気温の3つを取り入れた指標です。上図のグラフからも暑さ指数(WBGT)が28℃(厳重警戒)を超えると熱中症患者が著しく増加する様子が分かります。※上図のグラフは、平成17年の主要都市の救急搬送データを基に日最高WBGTと熱中症患者発生率の関係を示したものです。運動に関する指針WBGTの関係はネットから引用しました。今までの野球人生においてこのような「熱中症警戒アラートの発令」で試合が中止になったのは初めてであるが、健康寿命を延ばす運動奨励の中このような発令が多くなるのか。8月30日(日) 7:15このためいつものように朝練習に参加した。左上には、安倍首相もプレーした「スリーハンドレッドクラブ」がある堤坂下交差点を左折して、大岡越前通りを西方向へ大岡越前通りを西方向へ進む。メタセコイアの横に富士山が見えるのだが高座郡寒川町の田んぼ稲も実って来ていた梅雨が長かったが、8月に入り猛暑続きで順調に成長相模線の電車が走る、道路右は「寒川東中学校」県道46号線の「寒川町役場前交差点」練習後仲間と、コメダ珈琲店 寒川店でコーヒーを飲むことに、松並みは寒川神社参道寒川神社の松林JR相模線「倉見駅」タクシー乗り場があるが、連絡して来るのか?倉見駅(くらみえき)相模線は、大正10年(1921)9月、茅ヶ崎 ー 寒川間で開業したのを皮切りに、大正15年(1926)4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6年(1931)4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたものですが、補修費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています 平成17年3月 寒川町教育委員会この写真は撮影年月が記載さていないので不詳だが。倉見まで開通した大正15年(1926)4月、同年7月に厚木まで延ばした、昭和6年(1931)4月に橋本まで全線開通したいずれであろうか無人駅の駅舎内JR線近距離きっぷ運賃表茅ヶ崎、海老名:200、品川~東京・秋葉原:1170、新宿・池袋:1340円これだと小田急で新宿駅経由の方が安いのでは乗車ホーム寒川町観光案内駅舎の外では工事中施行体系図駅舎の周りで工事をしていたが「倉見駅エレベーター新設その他工事」工 期:2019年12月30日 ~ 2021年2月11日 元請名:東鉄工業株式会社町案内図いろいろと「社寺・史跡」があるのでいつか訪れたいものです倉見駅の連絡橋倉見には、東海道新幹線の新駅が建設されることが決まっているが未だ着工されず。後方は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架橋倉見駅の北側約100メートルに位置する「水神宮」水神宮(すいじんぐう)水神宮は水渦難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。 平成30年3月 寒川町教育委員会 水神宮右側の石碑は「名騎手 相模五郎」相模線を越え、相模川のグランドへ左に、JR倉見駅、高架は圏央道でこの先東海道新幹線を越える首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架橋下某会社の河川敷のグランド南方向を望む、圏央道、東海道新幹線左に圏央道の高架橋この時期白い花で綺麗だが、咲き終わると棘が痛い8時前から練習を開始するが既に暑くなり熱中症にならぬよう約2時間の練習で引き上げる10:00南側は、「倉見スポーツ公園」コメダ珈琲店 寒川店。所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山95-1コメダ珈琲の横を通り暑く汗を流したので帰宅することにしスルー。駐車場には多くの車が茅ヶ崎市の大岡越前通り沿いに咲くヒマワリ天高く背丈が3メートル近くあるヒマワリ 猛暑の夏ーEND
2020.09.01
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藤沢えびね・やまゆり園の散策を続け、帰りに小出川沿いのアジサイへ立ち寄る。6月27日(土) 14:31竹林の中には咲き終わった、「エビネ(海老根)」キンラン花期は4月中旬から5月中旬カライトソウバラ科バラ亜科ワレモコウ属に分類される多年草の一種ガクアジサイ竹林の中にあるガクアジサイを追うアジサイも開花後の管理が大変であるが茎を剪定この花は「???」葉に白い模様我が家の庭でも咲いている花「クロコスミア」モントブレチアやヒメヒオウギズイセンの名前で古くから栽培され、親しまれている花です。細長い剣状の葉が群生し、夏に色鮮やかな花が穂になって咲きます。性質が強く、よくふえるので野生化したものが各地で見られますヒメサユリの咲き終わった後。ヒメサユリは6月中旬頃に咲き終わったと、ササユリも球根を植え3年後ぐらいに咲くとラン科の「ヒロハノカラン(広葉之花蘭)」日本の野生ラン、ヒロハノカラン(広葉之花蘭)の苗ヒロハノカランは、九州南部から沖縄に自生する常緑の多年草で、大型の夏咲きエビネ竹林の遊歩道とガクアジサイヤマユリヤマユリの蕾これから開花するヤマユリキンシバイ(金糸梅)竹林の中を散策したが暑かった。開園時期は4月の第2日曜日からで、5月GW頃まではいろんな花が咲くようだ。今の時期は限られた花が咲いている14:50約一時間の散策で駐車場へ14:59自宅への帰路、近くにある「小出川アジサイロード」へ花とせせらぎの道小出川は、新編相模国風土記稿にもあるとおり、遠藤神明谷、遠藤琵琶島、遠藤東原の池の頭などの水源の水が集ってできた川で、茅ヶ崎の柳島で相模川に合流する一級河川です。ふるさとの生活と共に歩んできたこの川に、地域の皆さんの手でアジサイと彼岸花を植栽し、美しく護っていくことにしたもので、現在は、遠藤あじさいの会と遠藤彼岸花の会で管理をしております 遠藤まちづくり推進協議会この辺りの川幅は狭いが、数百メートル先からは2~3メートルに広がり秋には彼岸花が咲く下流側の両岸に植えられているアジサイ近くにある『味処 まるたか』三浦港からのマグロ等の料理があり魚料理等が美味しく昼時はいつも待つ人気店である。林は、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス市道辻堂駅遠藤線慶応大学行きのバス小出川沿いの道を下流方向へ道路脇に「6月21日に開催を予定していました、あじさいまつりはコロナウイルス感染拡大防止のため中止としました」の看板アジサイの根元には名前を書いた札がたてられていた。植付管理をしている人の名前であろういろんなアジサイが綺麗に咲いていた下草も刈り取らないと上流側を振り返る下流側の左を走る「市道辻堂駅遠藤線の宝泉寺前交差点」大黒橋橋詰広場から『大黒橋』ここから下流は川幅も広くなり、秋には彼岸花が咲き誇る大黒橋その昔、窪島氏が寄付された伊豆小松石二本の橋であった。この橋の近くには比丘尼橋があって、玄光院(廃寺)から宝泉寺に通う尼さんが架けた橋といわれる。比丘尼橋に対して、大きな橋をこう名付けたという説や、黒い立派な橋だったので、という話もある。新編相模国風土記稿にも大黒橋の名がある小出川沿い大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース15:10大黒橋から小出川の上流側をのぞむ ヒロ散歩ーEND
2020.07.20
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外出自粛で今まで行った海外旅行を楽しんでいますが、そんな中近場の園を楽しんできました。先日訪れたが時間が早すぎ開園前で入れなかったので再度訪れた。Go To キャンペーンも東京都は除外、このまま感染が進むと東京近郊の神奈川県も追加除外されるのではと?また今年の梅雨はまだ明けず、毎日雨が降り畑の野菜にも日照不足!6月27日(土) 14:00駐車場に車を止め、南方向へ歩いて2分の『遠藤まほろばの里 藤沢えびね・やまゆり園』へ入り口ここから200メートルほど南下する健康の森 少年の森フットパス遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580※ 車いすに対応する設備は整っておりません開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円「NPO法人 里地里山景観と農業の再生プロジェクト」の活動地権者の方々の協力を得て、面積8,500㎡の山林に山野草園「藤沢えびね・やまゆり園」を開園し、運営している。NPOの会員募集中!受付で300円を支払い入場。藤沢えびね・やまゆり園とは、遠藤に残された山林、竹林、畑など、里山の自然景観を多くの人に楽しんでもらうと同時に、地域や農業の活性化の一助となることを目指して開園いたしました。エビネ、ヤマユリ、ヤマアジサイなど約130種類の山野草を鑑賞していただいたり、地元の新鮮な農産物に親しんでいただくための施設です受付でもらったパンフレット。園内は蚊がいるのか、受付で蚊取り線香をもらい肩にかける交通アクセス湘南台駅(小田急江ノ島線)から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分辻堂駅(JR東海道)から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分山野草の位置図入り口で咲いていた「ヤマユリ」同「オウゴンオニユリ」ユリ科ユリ族の植物でオニユリの変種。対馬のみに自生する。草丈は1メートルから2メートルほどとなる大形のユリ。葉は互生し、小さめの披針形で先端はゆるく尖る。花期は7月から8月で、花弁は強く反り返り、黄地に赤の斑点を生じる葉の付け根にムカゴを作るが、種子をつける物が大半であるユリの中にあって、これはオウゴンオニユリの大きな特徴の1つといえる。心無い者によって自生状態はほぼ皆無となっており、現在は愛好家たちの手で積極的な保存育成が進められている園内の中に入り『ホタルブクロ』ホタルブクロは、キキョウ科の多年草で、初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせる花札があったので花の名が解りやすいギボウシ(擬宝珠)キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属の総称である。山間の湿地などに自生する多年草。食用となり、花が美しく、日陰でもよく育つため栽培される竹林の中には「えびね」もあったが既に花は終わっていた。春先にはタケノコも販売しているのであろうヤマユリ(山百合)ユリ科ユリ属の多年生植物。山地に生える日本特産のユリで、夏に咲く花は大型で白く、山中でもよく目立ち、強い芳香を放つ。鱗茎は食用のユリ根になり、別名リョウリユリとも呼ばれている地上の茎は直立し、草丈は1~1.5メートルで、花期は夏の7~8月花は茎の先に1~数個、ときに20個ほどの白い花を横向きに咲かせるヤマアジサイ「田の字」の札がぶら下がっていたが開花期終盤の「アジサイ」乾いたアジサイ雨に濡れた写真も撮りたいが鮮やかなブルーが綺麗だこちらはしおれ気味か竹と紫陽花このようなブルー系が好きだが妻曰く「我が家の紫陽花は色がボケてくる」とやまゆり園の北側柵の手前に、ハナショウブがあったが咲き終わっていた。園内には所々にベンチがあり談笑できるが、今の時期三密を避ける必要があるがハナショウブの間にグラジオラス梅雨時で雑草も繁りメンテが大変ヤブカンゾウノカンゾウ(野萱草)とよく似た花で同じユリ科ワスレナグサ属の野草です。一日花で食用にできるところもノカンゾウと共通しているヤブカンゾウとノカンゾウの違い。ノカンゾウは花びらが重なり合わずに咲く「一重咲き」の花です。花が開くと花びらがきっちり6枚でわかりやすい。葉の特徴だけでは見分けることは難しいミソハギ(禊萩)ミソハギはミソハギ科の多年草。盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もあるリンドウ系の花か?花札を探したが見当たらず離れた丘の上に群生して咲いていたユリ14:31アルストロメリアアルストロメリア属は、単子葉植物の属の一つ。別名ユリズイセン属。分類体系により所属する科は異なり、新エングラー体系ではヒガンバナ科、クロンキスト体系ではユリ科、APG分類体系ではユリズイセン科に分類される本属は南アメリカ原産で約50種が知られる。いずれもアンデス山脈の寒冷地に自生する ヒロ散歩ー続く
2020.07.19
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蟹ヶ谷公園のハスの花、アジサイを見る。6月24日(水) 7:03紫陽花越しに湿性園の遊歩道、ハナショウブを期待して来たのだが遅かった!遊歩道で超望遠レンズをセットして待つカメラマン。先程はコガモを追いかけておられたが、何を待っておられるのか江ノ電沿線のアジサイを撮影に行きたいのだが、鎌倉の長谷寺等は事前予約が必要であるので、ここ蟹ヶ谷公園のアジサイを撮影訪れている人も少なく自由に撮影できた雨に濡れたアジサイも最高だが色とりどりのアジサイが咲くガクアジサイラジオ体操帰りの人か7:15蟹ヶ谷公園を後にして帰路に着く。キンシバイ(金糸梅)7:30帰宅途中『遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園』へ立ち寄る。所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580駐車料金は無料。これ以降の写真は、100-400mmのレンズは不慣れのためいつもの16-300mmに交換駐車場から歩いて2分程度途中に咲くアジサイズームアップ鮮やかなブルーガクアジサイズームアップヤマアジサイ別のアジサイをズームアップ林の中に『藤沢えびね・やまゆり園』この坂を下っていくと、徒歩約8分で慶応大学バスターミナルへまだ時間が早く閉園掲示板には「やまゆりが、咲き始めました」と書かれていた開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円「NPO法人 里地里山景観と農業の再生プロジェクト」の活動地権者の方々の協力を得て、面積8,500㎡の山林に山野草園「藤沢えびね・やまゆり園」を開園し、運営している藤沢えびね・やまゆり園前から、駐車場の北方向受け付前で咲いていた「黄金オニユリ」ズームアップ藤沢えびね・やまゆり園ではこれから、ヤマユリが咲くので再度訪れたい。やまゆり園の反対側には竹林が広がる駐車場近くで咲いていたヒマワリタチアオイ帰宅後、雨に濡れた我が家の花。シロタエギクキク科キオン属の耐寒性多年草で別名 ”ダスティーミラー”妻曰く「色褪せたアジサイ」と薔薇の花も雨に濡れてクロコスミアモントブレチアやヒメヒオウギズイセンの名前で古くから栽培され、親しまれている花です。細長い剣状の葉が群生し、夏に色鮮やかな花が穂になって咲きます。性質が強く、よくふえるので野生化したものが各地で見られますユリの花も晴れた日の『ヘメロカリス』初夏から夏にかけて次々と花を咲かせる多年草で、日本にはニッコウキスゲやノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生し、古くから親しまれている暑さ寒さに強いうえ、土壌もあまり選ばず、植えっぱなしでよく育ちます。「デイリリー」の英名どおり、花は一日花ですが、1本の花茎にたくさんの花を咲かせ、何本も立ち上がるので、長期間花が楽しめる庭先を飛び回るこの蝶々の名前は「スジグロカバマダラ」か?以前、アサギマダラが飛来したが羽を広げると8 ~ 10cmの大きさだがしばし追いかける。以降、我が家の庭に産み付けたのか毎日飛び回っている END
2020.06.30
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梅雨の合間の6月24日(水)の朝、綾瀬市にある『蟹ヶ谷公園』を訪れた。この時期はアジサイ、ハナショウブ、ハスが咲いており、カワセミを期待したが。6:27蟹ヶ谷公園へ到着所在地:神奈川県綾瀬市吉岡905-10綾瀬市の南西に位置する蟹ヶ谷公園は、低地部、台地部、傾斜部からなり、極力現況の地形を生かした公園となっている。我が家から12kmと近いので時々訪れる公園で、無料駐車場があり行きやすい公園である公園管理棟低地部の湿性園では、吉岡地区から湧き出る湧水を水源として利用し、カキツバタやハナショウブなど約19,000株があり、見晴台からは富士山や丹沢が一望できる。ハナショウブが見頃になる時期は、毎年6月中旬から7月上旬頃になり、またハスの見頃となる時期は、毎年7月から8月頃に楽しめる公園案内図1月頃は公園内で「ルリビタキのオス」が見れる2018年1月19日(金) に撮影した「ルリビタキのオス」今日の撮影は100-400mmのレンズを使用6時半になり公園の高台から「ラジオ体操」の放送が聞こえてくる。5,6人おられたがいつも集まってラジオ体操をしておられるのか湿性園の遊歩道にはカメラをセットしたカメラマンが。ハナショウブは既に咲き終わっているようだ見晴台から湿性園の遊歩道へ下りる。今年は開花が早かったのか、ハナショウブは既に終わっていた。一部残っており、花札からアヤメ科のハナショウブ「ミスコケット」遊歩道を歩いていると先程のカメラマンが「コガモが出てきた」とつぶやきシャッター音。コガモが一羽現れ、私も続いてシャッターを押す小鴨(コガモ)は全長38cm、日本では冬鳥。オスの色彩はカラフルですが、メスは茶色系で地味で細かい模様をしています。地上に巣を作るので、害敵から見えにくい色彩でいることは種の連続のために大切なことです。日本の水辺にやってくるカモ類では一番小さいカモである本来なら数羽が連なっているのであろうが待機していたカメラマンの方から「親カモ、他のコガモは猫に襲われ死んだ」と残念そうにそのため、一羽だけ生き残っているのだと天敵の猫、カラス、ヘビに襲われるので「無事に成長してくれ」と陸に上がると猫が待っているのだとズームアップコガモは地上や、水面で餌を摂ることが多いですが、時に逆立ちして水面下の餌もとります猛禽類に狙われるなど、生命が危険な場合には、潜水して逃げる姿も見られます見晴台に咲くアジサイ(紫陽花)湿性園からの『見晴台』湿性園に咲くハス。この辺りのハナショウブも咲き終わっていた。いつもは多くのカメラマンが望遠レンズを装着して待機しているのだがハスはこれから満開に!ハスの説明看板がなかったのでわからないが「大賀ハス?」ハスの花はピンクで品があるズームアップ遊歩道にいるこの方は何を狙っているのか朝露を付けたクモの巣カワセミが停まる木の枝だが、先程のカメラマンの方が「最近はあまり来ない」と朝散歩の近所の方か?カワセミとハスとのコラボを狙ったのだが三密を避け離れて会話犬を5匹連れて散歩しておられたが先程のコガモか餌を求めて追いかけていたが、無事に成長することを祈るアジサイロードへアジサイロードから湿性園を見下ろす蟹ヶ谷公園から「神奈川県内広域水道企業団綾瀬浄水場」 ヒロ散歩ー続く
2020.06.29
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ジャカランダ遊歩道を引き返す。6月12日(金) 8:19国道135号線沿いにあった「熱海観光案内マップ」案内マップの下に公式キャラクターの「あつお」。誰かに似ているが熱海梅園にある『梅見の滝』熱海梅園の山上にある『姫の沢公園』ジャカランダ遊歩道は、国道135号線の海側に巾20m程の細長い公園キンシバイ(金糸梅)寛一お宮尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公寛一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立中山晋平記念館大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに熱海梅園内に保存されていますブーゲンビリア大湯間歇泉お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間歇泉。関東大震災により噴出が不規則になり、現在は復旧工事にて人工間歇泉となったバス停「サンビーチ」澤田政廣記念館熱海が生んだ芸術家 澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、澤田芸術の集大成がここに展示されています伊豆山神社伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です8:28熱海サンビーチ相模湾は逆光でモノクロに光る海熱海サンビーチの東方面、ホテル群、真鶴半島。今年の夏の海水浴場は閉鎖か?釜鳴屋平七夫婦像 安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、 首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています熱海ムーンテラス。サンビーチから南に続く親水公園。熱海市が北イタリアのサンレモ市と姉妹都市であることや、 地形と街並みが似ていることから、 地中海北部のリゾート地のイメージで整備されています。 「南欧・コートダジュール」をイメージした「スカイデッキ」はレンガで、 「北イタリア・サンレモ・リヴェラ海岸」をイメージした「レインボーデッキ」は「石」を基調につくられ、渚小公園とペデストリアンデッキで結ばれたエリアは、「南イタリアのナポリ海岸」をイメージ熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメント。水も風にあおられて、熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい熱海ヨットハーバーと熱海後楽園ホテル、そして山の上には「熱海城」が。 錦ヶ浦の山頂にそびえる「熱海城」は、歴史的に実在した城ではなく、桃山時代の建築様式を模して、昭和後期に建てられた観光城である豪華ヨットが停泊公園脇の花壇に紫陽花が咲く8:34アガパンサスも咲く時期に。このあと、駐車場から來宮神社へ向かう8:48JR来宮駅近くの來宮神社駐車場へ高架橋は東海道新幹線東海道本線下のこのトンネルは、来宮暗渠(きのみやあんきょ) 、通称メガネトンネルと呼ばれており潜って右に行くとJR来宮駅伊豆國霊社 熱海 來宮神社所在地:静岡県熱海市西山町43-1昨年12月15日(日)に訪れたが日曜日であったため駐車場も満車。廻りにはカフェも多く女性に人気の神社で、熱海の観光スポットである大鳥居を潜り左側に、来宮総社 稲荷神社。前回は人でいっぱいで、スマホの撮影台があり並んでいた手水舎と竹林の奥には拝殿参道の右側には、三峯神社、第二大楠第二大楠幹周945cm 、樹高11m 、樹齢1300年以上の大木。約300年前の落雷にも負けず今なお息吹いています。幹の裏側に廻り、漲る生命力を御覧くださいと拝 殿境内に落ち葉でハートのマークこの手前にもスマホの撮影台があり、落ち葉のハートと拝殿が入る撮影スポット拝殿右側に、弁財天來宮神社例大祭:毎年7月14日~16日今から約千三百年の昔、御祭神の五十猛命の後神像が漁夫の網にかかり引き上げられました。漁夫が麦こがし・百合根・橙・ところをお供えすると、とても喜ばれたと云われています。祭りの名 “こがし祭り" は此の故事から来ており、今でも例大祭には此の四品を神饌として お供えします。古より熱海では「麦こがし」に触れ、食することにより無病息災・身体健全になると言い伝えられております。毎年例大祭は、7月14日宵宮祭に始まり、7月15日宮神輿渡御、7月16日の神幸祭では、麦こがしを撒く猿田彦命(天狗)の先導により、「42歳の地元男性」が來宮の神々を御鳳輦に乗せ、街の繁栄を祈り市街・浜に降ります。100年以上続く伝統、総勢500人の御神幸行列は壮大な時代絵巻の再現となります御鳳輦(ごほうれん):毎年7月16日に浜降り神事が開催される。我が地元でも7月の海の日に開催されるが新型コロナの関係で既に中止に8:57拝殿前から参集殿本殿裏にある『御神木の大楠』昨年来た時は木の周りを一周できたが、根の保護のため工事中で立入禁止国指定天然記念物で樹齢2000年を超える巨樹。幹周23.9m、高さ26mの巨樹で、本州1位(全国2位)。因みに全国一位は、鹿児島県蒲生町の「蒲生の大クス」作業員の方に聴くと「砂利を敷いていたが土に交換してステージを設置する」とこの方向だけは大楠に近寄れてパワーをもらえる。一周すると寿命が一年延びるとそばを流れる糸川の滝。この川は3月に開催される「あたみ桜 糸川桜まつり会場」の糸川の河口へと流れる参集殿へ入り祈祷受付木神札は、10万円以上 ~ 5千円以上、交通安全木神札は、1万円以上、5千円以上來宮神社 宮神輿宮神輿は毎年7月15日渡御を行っておりますと旅友が御朱印を頂きました。新型コロナウイルスの関係で手書きされた札をもらった9:10物静かな來宮神社を後にした來宮神社の後『姫の沢公園』の紫陽花を見に行くが霧の中のためあきらめる。このため、県道20号線を熱海峠へ上り霧の中を箱根峠へ向かい箱根新道を下る。10:20途中、小田原漁港へ立ち寄りひものを買うことにひもの屋 半兵衛所在地:神奈川県小田原市早川1丁目6-11小田原漁港アジの「訳ありひもの」を土産に購入しました10:35美味しそうなメニュー昼時には時間も早く、あきらめて帰路に着くこのあと昼前に自宅へ帰った。 END
2020.06.24
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6月19日(金)から、都道府県間の移動も緩和され、プロ野球も無観客でようやく開幕。新型コロナウイルスの中、旅友がNHKで熱海のジャカランダが満開まじかとの報道があったとのことで6月12日(金)の早朝から久しぶりにミニドライブで訪れた。昨年2月にポルトガルへ行き、日本では熱海でも咲いているとのことを知り、帰国後の6月6日(木)に初めて訪れた。ジャカランダの花見は今回が二度目の訪問。6月12日(金) 6:38茅ヶ崎の国道1号線(旧東海道)鳥井戸橋からの左富士。鳥井戸橋のたもとに『南湖の左富士の碑』がある、川は千の川柳島スポーツ公園越しに富士山西湘バイパスを走り、小田原の早川口から国道135号線を走り熱海へ向かう。途中熱海、箱根方向は曇り空で雨模様。7:51国道135号線沿いの「ジョナサン」横の駐車場に停め、曇り空の中ジャカランダの散策へ昨年、ジャカランダ遊歩道に貼られていたポスター2枚。『ATAMI ジャカランダフェスティバル2019』 開催日:6/8(土) ~ 23(日) ジャカランダライトアップは期間中、18:00 ~ 22:00今年は、新型コロナウイルスの関係で早々に中止になったようでポスターがなかった場 所:ジャカランダ遊歩道、お宮の松エリアJR熱海駅から歩いて約10分ジョナサン前の遊歩道で咲いていたジャカランダ。高木で見上げて撮影国道135号線沿いの中央交番前に「熱海サンビーチ案内図」ジャカランダ遊歩道入口から『お宮緑地』へジャカランダ:ノウゼンカズラ科。中南米原産の落葉高木。ラッパ形で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種がある昨夜来の雨でしっとりとしていた若木のため保護用の杭とロープ。昨夜来の雨&強風で花が落ちていたハトが餌を求めてジャカランダ遊歩道沿いに咲く「カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)」時間が早く人がいない、ジャカランダ遊歩道のお宮緑地ジャカランダ世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となりました。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ、本州では珍しい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く梅雨のシーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩りますまさにラッパの形をした小さな青紫色の花こちらはつぼみか?ブラシの木、花も終盤花言葉は「はかない花」、原産地はオーストラリア原産お宮緑地熱海市とカスカイス市カスカイス市はポルトガルの国際的なリゾート地であり、大西洋に面した美しい海岸線と町並みで有名です。熱海市とは、ポルトガルに柔道を伝えた日本人柔道家を通じた交流がご縁の始まりとなり、1990年7月に姉妹都市の締結を行いました。その時、記念に贈られたジャカランダは1999年に初めて開花して以来、カスカイス市と熱海市の友好のシンボルとして、市民や観光客に愛されています 2014年6月6日熱海市はポルトガルのリスボン県のカスカイス市と、平成2年7月に国際姉妹都市を提携した。カスカイス市内には、国際的なリゾート地であるエストリルを含む。また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着している。「カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携紀念樹木」ヤシの木の間にジャカランダ。平成2年7月に植樹されたジャカランダで樹高は、2mから30m程度になるジャカランダとブーゲンビリアのコラボブーゲンビリアジャカランダの開花期は、5月下旬から6月花言葉は、名誉・栄光ジャカランダ遊歩道の国道135号線の山側にはホテルが並ぶサンゴシトウ(珊瑚刺桐)サンゴシトウは、オーストラリアのシドニー植物園で、アメリカデイゴと北アメリカ原産の ヘルバケア(Erythrina herbacae)を交配して作られた園芸種です。 アメリカデイゴと間違われることがありますが、別名をヒシバデイゴというように葉の形が菱形に近いことと、アメリカデイゴと異なり、サンゴシトウの旗弁は完全に開かずに花が筒状になることで見分けられます とネット&旅友から赤色が鮮やかで好きな色だが花言葉は、「夢」「優しい気持ち」キング・プロテア(King protea)花言葉は、「王者の風格」「甘い恋」プロテア(Protea)とは、花の王様と賞賛される南国のヤマモガシ目ヤマモガシ科プロテア属の常緑低木です。 花色や形、大きさ、感触、光沢などが異なる多数の種類があります。 中でも、このキング・プロテア(King protea)は、代表的な品種とされ、 南アフリカ共和国の国花ともなっています。 熱帯植物なので日本では高価な花であり、あまり生花では使われませんが、ハワイではホテルやレストランのフラワーアレンジメントの花材としてふんだんに使われています。と、これもネット&旅友情報から尾崎紅葉の「寛一・お宮の像」左に「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」と熱海城 石碑には「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」国道135号線沿いに『お宮の松』現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのことで、初代の根株はそばに展示されている8:11熱海沖に浮かぶリゾートアイランドの『初島』。初島へは、熱海港より定期船で30分で行ける。現在、新型コロナウイルスの関係で減便しており6/1~6/30まで1日5便。船は熱海発8:00が一便。通常は10~11便運航(一便は7:30発)しており、往復運賃は2,640円だが駐車料金が高いジャカランダ遊歩道の東側でここで引返す風にあおられて落ちた花ジャカランダ越しに熱海城昨年はユリがちょうどよかったが今年は遅かった国道135号線の海側に建つ、昨年見落とした石碑。長谷寺山門錦浦景勝花が密集して重そうなジャカランダサンビーチ花火大会來宮神社旅友が行ったことがないとのことでこの後行くことに熱海のジャカランダはまだ低木が多いが将来が楽しみだ 熱海のミニドライブー続く
2020.06.23
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新型コロナウイルス騒動もまだ終わらず、5月6日まで全県に「外出自粛要請」。国民一人当たりの支給額が30万から10万円に、今回は全員に支給とか。3月23日に東海道五十三次も終え早一ケ月、今はそのまとめで二度目の旅をしており、これが終了した後は何をするか・・・・・・。桜前線も山形、弘前へと北上、他県へ行くのも往時のように通行手形がいるのか?東北地方へ行くのも「白河の関」が厳しそーだ!!!!!4月5日(日) 野球の帰りに、グランド近くの工場沿いの桜を撮影。場所は、JR相模線の倉見駅から近い『倉見桜緑道 寒川町』いつもはこの時期、提灯があり夜桜も綺麗で賑やかなのだが今年は中止満開を過ぎ花びらが地面を覆い三密を避けて一人散歩枝垂れ桜ワンちゃんとも濃厚接触を避けいつもは手をつないでいるのだが家族も濃厚接触は避けてレギュラーガソリンは値下がりして、120円/ℓに、ドライバーにはうれしいが自宅への帰路、茅ヶ崎の『浄見寺』へ、桜が満開であった浄見寺山門の前に『大岡越前守菩提所』の石碑本堂と「旅たちの法然さん」、近江当たりでは「せいし丸(勢至丸)さま」の像が建っていた。浄見寺は、茅ヶ崎の堤村を本領とした大岡家の二代当主、忠政が父忠勝の追善のために、慶長16年(1611)に建立した浄土宗の寺院です。忠政の法名 ”大綱院殿忠誉窓月浄見大居士” から、四文字を取って、山号、窓月山、寺号、浄見寺と名付けたとされています山門を入ると右側に新築された鐘楼本堂左裏の桜は終わっていた。浄見寺は、大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615)に、この寺に改葬された初代、忠勝の墓石を始めとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。山門左の一段高い所に並ぶ13代の墓所は、市指定の史跡になっていますが、中でも5代目越前守忠相の墓は柵に囲まれている咲き終えた桜。茅ヶ崎ではこの時期、『大岡越前祭』が開催されるが新型コロナウイルスで開催中止になった。今年は、第65回大岡越前祭が4月18日(土)、19日(日)に開催予定であったつつじも咲き始め色鮮やかに何とも言えない鮮やかな赤浄見寺南側に隣接する「スリーハンドレッドクラブ゙」のメタセコイアは芽吹き前枝垂れ桜も終了、奥に古民家があるが耐震構造改築のため立入禁止にシャガも咲き始めていた山門から公園、左に古民家芝桜も八重の桜も咲き、ソメイヨシノと競演新型コロナウイルスのパンデミックが早く終結し、通常の生活に戻ることを祈る!!!!!!テレビでは出演者も自宅からのテレワークで参加! 4月5日ヒロ散歩ーEND
2020.04.20
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外出禁止要請が出る前に自転車で桜観賞に。4月2日(木) 茅ヶ崎中央公園から千の川沿いへ向かう。今年は例年より一週間満開になるのが早いズームアップ川面にはカモが泳ぎ回っていた。小魚を探しているのであろうか。野球仲間の自宅そばにある『蛇塚、ぽんぽこ山』本社丘 (ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(八幡42番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前9年の役に向う頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後3年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っていると。桜は既に満開に野球仲間の近くの民家の桜、樹齢約40年とか。家を新築した時に、庭に桜を植えられたのであろうが。40年も経ると木も大きくなり、根が家の下まではびこり、夏前には毛虫も付き手入れが大変。昨年の1月に枝を下ろしていた主人が落下したとか。千ノ川の上流側とはま(十・浜)人道橋 際の『取水堰跡(登象の堰)』昔、この地域には千ノ川の水を利用した水田が広がっていました。その水を田に引くために、この場所に堰が設けられていました。ここでせき止められた水は、取水口から用水路を流れ、鶴嶺八幡あたりまで広がる水田を潤しました。余った水は、現在の富士見橋脇で、再び千ノ川に流れる仕組みでした。昭和のはじめに造られたこの堰は、がっちりしたコンクリート製で、約80cmほどの幅をもっていましたので、橋の役目も果たしました。また、相模川左岸農業用水導入後の堰はいつも豊富な水量をたたえていたので、子供たちにとって自然のプールでもあり、魚とりを楽しむ集いの場でもありました。橋の役割は、十間坂と浜之郷をつなぐ「とはま人道橋」として現在に残されましたが、かろうじて原形を留めていた堰跡と取水口は、平成19年の護岸工事の際に、県の協力を得、その位置を護岸に刻むことにしました。新しい護岸に付設された四角い囲みがその原位置で、上端の高さが本来の土手の高さを示しています。この土手と堰は多くの人々が行き交う場であり、鶴嶺神社参道を前景にした富士山、箱根、丹沢の眺望は人々の目を楽しませました。下流側を見るが、上記跡は確認できなかった。我が家辺りの雨水もこの川を流れ相模湾へと、河川敷にこれだけ草が生えていると水の流れもスムーズに流れず上流側は浸水の危機に野球友が鶴嶺八幡宮で「北斎桜」が咲いているとのことで自転車で向かう。鶴嶺八幡宮の参道:7月の浜降り祭にはこの参道を神輿をかついで進んで海岸へ行くが、今年の開催は新型コロナウイルスの影響で中止か?左に【女護ヶ石】、右に【朝恵上人と参道 松並木】の句碑。【朝恵上人と参道 松並木】八幡宮別当常光院住職 朝恵上人は、慶安2年(1649)三代将軍家光より、御料として七石の御朱印を拝領した記念に地頭山岡景信と相計り、まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人である。その偉業を賛え後世に語りつぐために、ここに上人の碑を祀る。 ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎 今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女【女護ヶ石】女性の守護神として、信仰されていた石神です。からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、からだの部分もなでる鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462境内の右側に『北斎桜』英国から里帰りした稀少な北斎桜を境内に植樹!北斎の描いた日本の美しい森羅万象の姿に魅了され、欧米にジャポニスム旋風が湧き上がっていた20世紀初頭、英国人コーリング・イングラムは日本から様々な桜を輸入し、英国ケント州ベネンドンにある邸宅、ザ・グランジに、桜の庭園を造園しました。彼はその中にまだ学術名の無い桜を見つけ、自らが尊敬する葛飾北斎に因んで”Hokusai”(ホクサイ)と命名しました。今回の鶴嶺八幡宮に植樹された北斎桜は、イングラム邸の北斎桜を起源とし、世界遺産英国「キュー王立植物園」から、日本花の会を経てこの鶴嶺八幡宮の地に里帰りをしたとても稀少な桜です。日本では数カ所でしかその存在が確認されていませんネームプレートに「北斎桜」と。北斎桜ズームアップ更にズームアップ鶴嶺八幡宮のイチョウ境内の右側に鐘楼鶴嶺八幡宮拝殿拝殿の彫り物相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている・・・・・・・・・鶴嶺八幡宮大銀杏このイチョウは実生かまたは・・・・・中略・・・・・・。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前9年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれているイチョウの木の前に、厄割石祈願所「かわらけ投げ」県指定天然記念物「鶴嶺八幡のイチョウ」多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29m、胸高周囲:9.0m、樹齢:約1000年(伝承)右側には「神輿殿」「淡嶋神社」拝殿の右側から奥へ、拝殿と本殿右奥には『鶴嶺稲荷神社』拝殿奥から大イチョウ本殿横には『御神木「槙」樹齢900年余』淡島神社淡島神社の横に「針塚」、左下に石があり針を入れる穴拝殿の左奥に『鉾宮神社』境内から松並木の参道を見る(南方向)。国道1号線まで松並木が続き約五百メートルあるか 4月2日のヒロ散歩-END
2020.04.12
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野球友から近くの鶴嶺八幡宮に珍しい『北斎桜』が咲いているとのことで訪れる。4月2日(木)鶴嶺八幡宮の拝殿前から参道。所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462参道を振り返る。境内の左側に植えられた『北斎桜』英国から里帰りした稀少な北斎桜を境内に植樹!北斎の描いた日本の美しい森羅万象の姿に魅了され、欧米にジャポニスム旋風が湧き上がっていた20世紀初頭、英国人コーリング・イングラムは日本から様々な桜を輸入し、英国ケント州ベネンドンにある邸宅、ザ・グランジに、桜の庭園を造園しました。彼はその中にまだ学術名の無い桜を見つけ、自らが尊敬する葛飾北斎に因んで”Hokusai”(ホクサイ)と命名しました。今回の鶴嶺八幡宮に植樹された北斎桜は、イングラム邸の北斎桜を起源とし、世界遺産英国「キュー王立植物園」から、日本花の会を経てこの鶴嶺八幡宮の地に里帰りをしたとても稀少な桜です。日本では数カ所でしかその存在が確認されていません木の根元に『北斎桜』と八重の桜の『北斎桜』ズームアップ以降の写真は、4月8日(水)今年二月に旅友が根府川で買い植栽された『楊貴妃桜』旅友から、この楊貴妃桜が咲いたとの情報を頂き4月8日(水)訪れた。まだ背丈は1メートルほどだが見事に咲いていた。廻りの木の束は、昨年の台風で倒れたアカシアの木であったか?楊貴妃桜のルーツは!サトザクラの一品種。花は八重で4月ころ咲き、花びらは淡紅色であるが先端は濃紅色。名前の由来は、奈良興福寺の僧玄宗が愛でたことからついたという10年後には大木になり見上げるのではなかろうか、それまで・・・・・ END
2020.04.11
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しとどの窟(いわや)から坂道を上る。3/6(金)12:45しとどの窟は、「土肥椙山巌窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝がこの地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当のもとに逃れた後、真鶴のしとどの窟から安房国へ脱出したと伝えられています。また、「しとどの窟」の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。しとどの窟周辺は箱根外輪山の溶岩と火山砕屑物(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削られてできた洞ですしとどの窟に落ちる滝しとどの窟(いわや)治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年8月23日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている頼朝主従七騎源頼朝、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、安達藤九郎盛長、田代冠者信綱、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏の7氏。土肥実平の菩提寺・城願寺には、この7人の武者像が安置されています。尚、土肥実平の嫡男遠平は安房国へは渡らず、源頼朝の妻である北条政子のもとへ頼朝の安否を知らせに行ったため、七騎には含まれていません。この辺りの標高は300mか?駐車場から急な坂を下り、上りするので観光客は少ないようだ!しとどの窟から狭い道を下る12:47ここから急な坂道を約400m上り駐車場へ、左方向へ下ると「湯河原梅林 2,200m」途中で休憩しながら登る12:56ようやく駐車場へ着く、上りも約9分駐車場横には、『鳥獣之碑』 12:57車に乗り、城山隧道を潜り再び椿ラインに戻り大観山に向かった13:10椿ライン(県道75号線)を走り、大観山展望台への途中にある『史跡 土肥の大椙跡』治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝主従地元豪族土肥実平一族に僅かに七騎、この辺りの大杉の伐木の空洞に隠れた所と伝えられる。平家方・大庭影親の命により梶原平三景時は、伏木の中をうかがい、頼朝と目が合ったが、助けようと決意し、蜘蛛の糸を鎧に付け出て来て、誰もいないと他の者の探索を許さなかった。後に、景時は頼朝の家来になったという。世に言う「土肥大椙の一件」まさに歴史の転機鎌倉幕府発祥の起源である。大正6年大暴雨風で倒れるまで、大朽穴のある大杉があり、頼朝主従が隠れたと伝えられていた土肥の大椙跡へ北東へ約400米13:15大観山展望台へ到着。期待通り、富士山が正面に日本景勝百選地「箱根大観山」、標高1,011m箱根ジオパーク元箱根港から出港する海賊船芦ノ湖周りの新型コロナウイルスの影響はどうか?芦ノ湖の元箱根港辺りこの後、この場所へ下り、旧東海道を走ることにこの日は風もなく絶好の観光日和であった石楠花の時期には、「富士山と石楠花」のコラボで撮影富士山の宝永山をズームアップ宝永山は宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山で標高は2,693m左から、富士山、駒ケ岳、上二子山、下二子山大観山展望台の「アネスト岩田スカイラウンジ」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根この先からは有料道路で「アネスト岩田ターンパイク箱根」アネスト岩田ターンパイク箱根料金表ここの通行料は日本で一番高いとか、このため無料の箱根新道を走る13:25道路脇には雪があったが、気温は9℃。この後、県道75号線を走り元箱根へ13:52県道732号線を走り甘酒茶屋経由畑宿へ。ここ畑宿は、東海道53次の道中記で平成30年(2018)11月28日に、箱根湯本の三枚橋から歩いてきたが、今日は車で立ち寄る。『間の宿 畑宿』宿の名が付くが正式には畑宿村といい、江戸時代以前からの集落である。畑宿の先には西海子坂、橿木坂、猿滑坂と急坂で続くので、上り下りの旅人は畑宿で休憩した。東坂でもっともにぎわった間の宿で、茶屋本陣もあった箱根旧街道一里塚・石畳へ日蓮宗 守源寺所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿167-2守源寺は、寛文元年(1661)に乗善院日連上人によって建立された日連宗平賀本工寺末の寺です。この寺は、たびたびの災害で本堂を失い、昭和5年豆相大地震の後、ようやく再建され現在にいたっています守源寺本堂本堂内本堂前から旧東海道を振り返る(三枚橋方向)守源寺から旧東海道へ、まっすぐ進むと箱根石畳へ旧街道石畳・元箱根方面これより先は、国指定史跡箱根旧街道の石畳が残っていますので、車輛の進入は禁止しますと箱根旧街道 畑宿一里塚畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現代に伝えるものです。山の斜面にあるこの塚は、周囲を整地した後、直径が約5間(9m)の円形に石垣を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられていました左側の、ケヤキ上からご夫婦が下って来られた。話をすると、芦ノ湖へ車を止めて峠を越えて来たとのことで、行けるところまで行ってバスで再度芦ノ湖へ帰るとのこと右側のモミ14:05左側に「そば処 桔梗屋」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿172とろろそばの看板を見て、めずらしく昼食を摂ることにする店内に入り、時節柄、二人供「日本人です」とメニューを見て私は「鳥南ばん 950円」をオーダー創業50年目で、店主は若く二代目か鳥南ばん久しぶりに食べたが、量も多く美味しかった!Kさんは、とろろそばを食する旧街道のバスは、一時間に二本の運行14:34ミツマタも咲き始め昼食後、西湘バイパス経由で帰宅 15:30着。今日のヒロ散歩の総歩数は、7,400歩でした。明日から、2月20日~22日の東海道五十三次シリーズ「七里の渡しの脇街道佐屋街道」「関宿から土山宿」をアップします。 源頼朝ゆかりの地-END
2020.04.02
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佐奈田霊社から根府川の「おかめ桜まつり」へ向かう。3/6(金) 8:33県道740号線をJR根府川駅へ向かう。途中車を止めビューポイントから、下の道路は国道135号線で、小田原市内小田原城、大山をズームアップ相模湾の照り輝く海面JR東海道本線沿いの道路で、線路沿いでは特急「踊り子号」を待つ鉄撮りが待機。30分後に列車が来ると8:35真鶴半島と三ツ石。旅友Kさんはその昔、三ツ石に渡り気がついたら「潮が満ちてきていた」と失敗談を10:30 ~ 10:55おかめ桜まつりの会場のひとつ『きのこ苑 お山のたいしょう』おかめ桜の生いたち2月に行った「河津桜」も片親は寒緋桜であった11:11県道740号線の「白糸橋バス停」白糸橋バス停から、白糸川に架かる「白糸川橋梁」の東海道新幹線、JR東海道本線。運よく、新幹線、在来線が通過。以前風が強い時は在来線は運行を止めていた遠くに三浦半島、房総半島が見える白糸川橋梁の左手前に『根府川関所跡』があるこの位置からの日の出も良いのではなかろうかこの後、富士山が綺麗であろうと予測してカーナビを『大観山展望台』にセットして走るが、カーナビは小田原方面へ戻り有料道路を利用しての「アネスト岩田ターンパイク箱根」を案内。一般道路優先の我々は、湯河原からの一般道を走ることにして湯河原方面へ向かうがカーナビは小田原へ戻れと案内するが無視して進む。11:23県道740号線を走り、小田原市との境にある産地直送のみかんを購入。ここからの湘南海岸もビューポイント国道135号線(真鶴道路)に出て海岸沿いを湯河原駅方面に向かう11:40JR湯河原駅前のロータリーに車を一時停車して撮影ロータリーに立つ『土肥實平(どいさねひら)公並夫人像』と『土肥氏館阯』碑土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。 公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その "心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである土肥實平公並夫人像の前に『土肥氏館阯』碑。 『乾坤一擲(けんこんいってき)』の文字が。 源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)8月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る。石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である。茲に挙兵780年を記念して、土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。 乾坤一擲とは、のるかそるかの大勝負をすること椿ライン(県道75号線)にて箱根・大観山方面に向かう。カーナビはまだこのルートを案内しないので、途中コンビニで道路状況を確認。オレンジラインは土砂崩れで通行止めになっていた 12:09椿ライン(県道75号線)を登るが車の数は少なく、以前は猿が出没した道であるが今回は出なかった。バス停「しとどのいわや」、運行は昼間に2本だけかながわの景勝50選『椿台』相模湾に浮かぶ、初島、伊豆大島がかすかに見える伊豆大島をズームアップ熱海から初島への船が、初島にはまだ行ったことがないのでいつかブログ取材に行きたい椿ライン(県道75号線)の大観山展望台方向JR湯河原駅の『土肥氏館阯』石碑に書かれていた、『しとどの窟(いわや)』の案内板。治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に導かれて、椙山(スギヤマ)(湯河原町の山中)に隠れ、このいわやへかくれた。この付近は、地蔵信仰の霊地で、いわやに至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている上空を見ると羽田空港からの飛行機がズームアップ、この色の機体は???社椿台の駐車場にある『城山・幕山ハイキングコース案内図』幕山の地名は、湯河原の町で有名な「梅の幕山公園」ではなかろうか石碑の字は判読できず『土肥郷椙山瑦ノ窟之碑』源頼朝ノ志ヲ天下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 昭和17年8月23日 建立椿台から南東方向の山、昔この辺りを源頼朝は逃げ回ったのだと思いながら休憩南西の熱海方向12:30椿台から歩くと『しとどの窟屋』まで徒歩20分とあったので車で来て城山隧道を通過。城山隧道を越えると駐車場、この辺りの標高は約500メートル城山隧道を振り返るこの付近は地蔵信仰の霊地で、いわやに至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている桜郷史蹟由来箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである12:31しとどの窟まで、四〇〇百米の石柱、百はいるのか?、Kさんは既に坂道を下る急な坂道には五百羅漢の如く、多くの石仏が連なるしとどの窟まで、二五〇米の石柱ようやく下が見えてくる12:38約7分を要して急な坂を下る、またこの道を引き返すのだが、しとどの窟へはまた50m上る。右は下って湯河原梅林(幕山公園?)へ2.2km約50m坂を登る大きな岩が覆いかぶさる12:40しとどの窟(土肥椙山巌窟)上の駐車場から約9分を要した、小さな広場に説明板源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平兼隆の監視によって20年間をすごした。治承4年8月望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが8月16日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め19日伊豆を出発、土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館において作戦を練り3百騎を以って館を出発、・・・・・・・・平家の軍勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって、土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている。暫くして敵も引揚げたので山から降りて来たら、吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。実平のお蔭で平氏を滅し、鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和55年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢通夫氏の寄進によって案内板を建立した湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和54年4月1日指定 一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三 一、所有者 吉浜財産区この観音像群は立像及び坐像61体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以後近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永6年、元治元年、新らしいもの大正15年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものであるこの説明板は、上の駐車場に欲しかった。源頼朝と土肥実平頼朝主従七騎神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地) 昭和30年11月一1日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。『吾妻鏡』には源頼朝が治承4年(1180)8月17日伊豆の蛭島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、23日三百の兵で石橋山に陣し、大庭景近親三千、伊東祐親三百の兵と戦って敗れ、24日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、28日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている窟の上から水がしたたり落ちる。山肌をくり抜いたような真っ暗な洞窟内ひな壇状の岩盤に安置された観音像群。この観音像群は立像及び坐像61体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟洞窟の中からこの岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが、水は一年中湧いているしとどの窟を振り返る 源頼朝ゆかりの地-続く
2020.04.01
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東海道53次シリーズの間に、3月6日(金)に旅友のKさんと源頼朝ゆかりの地、石橋山古戦場へ行ったヒロ散歩を3日間アップします。この日の主目的は『根府川のおかめ桜まつり』であったが、かねてより伊豆方面へ行く途中、石碑等を見ており、二人とも行ったことがないとのことでカーナビを『佐奈田霊社』にセット。西湘バイパスの早川I.Cから国道135号を走り、途中から斜め右の山側へ入り細い道を上る。3/6(金) 7:47JR東海道本線を越える東海道を越えると右手に『石橋山古戦場』、源頼朝挙兵之地の石碑、佐奈田霊社の道標石橋山古戦場この附近は、源頼朝が治承4年(1180)8月20日に挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取る。その後、相模国へと兵を進める頼朝は大庭景親率いる平氏方の多勢とこの地で『石橋山合戦』を行なったのであった佐奈田霊社 駐車場へ到着。天気予報を見て行動したので、今日は快晴、途中西湘バイパスからも富士山が綺麗に見えていたがここでは残念ながら見えず、しかし、おかめ桜が綺麗に咲いていたおかめ桜が点在して植えられていたおかめ桜は寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられましたと青空に映えるおかめ桜寒緋桜と同じように花数が多く、下向きに咲いている。花が小さいのは豆桜似か?佐奈田霊社 行事予定 元旦日ノ出護摩供・・・・・・1月1日~1月3日 例祭日・・・・・・・・・・・毎月23日 護摩供修行・・・・・・・・・随時 祈願別 ぜんそく・せき・のど・家内安全・身体安全・商売繁盛・自動車安全祈願・ 交通安全・その他 と全てに御利益がある石橋山古戦揚と佐奈田霊社この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。 このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。 しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であ ったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎て豪雄俣野五郎の75騎と戦い、両将組討ちとなったが与一が勝ったが俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが 刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。 また、その先100mの処には、文三を祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。 霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物は、すべてねじれてしまうとも伝えられる。頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる石柱は『史跡 源頼朝 石橋山古戦場 佐奈田霊社』所在地:神奈川県小田原市石橋420佐奈田霊社の境内へ『小田原ふるさとの原風景百選』案内板。 5,石橋山古戦場と佐奈田霊社 石橋山の合戦場(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した源頼朝が 平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。 佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与―塚の傍らに建ってい て、与一の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている観音堂と拝殿?観音堂の扁額「観音堂」神奈川県指定史跡『石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂』。石橋山古戦場は、治承4年(1180)8月23日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し、平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。 与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠と その家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。 佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎討ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。 「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています佐奈田霊社への表参道の石段を見下ろす石段を上った左右にある石碑。左に明治天皇の第六皇女の常宮昌子殿下の『常宮殿下御手植松』右に明治天皇の第七皇女の周宮房子殿下の『周宮殿下御手植松』碑。 御手植え松とあるが、松がなく住職に聞くと『桜』を『松』と呼んだと。中央には、「川崎 古式消防?保存會」の石柱 境内からの三浦半島方向ここからの初日の出も良いのでは。定置網も、下を走る国道135号線沿いには魚料理のレストランもあるJR東海道本線を見下ろす石段を登り拝殿方向へ、石段の左右に親子の『狛犬』 左手の『狛犬』は父親であろう。かわいい子供が背中に乗っていた右手の『狛犬』は母親であろう。こちらは足元に子供を抱き寄せて左手に「御神木」と「与一塚」大正7年正月𠮷祥日『御神木』 治承四年八月、義忠公戦士の時、臣家安其遺骸を埋めて傍らに植うる所と傳ふ 小田原市 佐奈田飴本舗 劔持真作 県指定史跡『与一塚』 以仁王の平家追討の令旨によって兵を挙げた源頼朝が石橋山で平家軍と戦い大敗を喫した。このとき頼朝より先陣を命じられた佐奈田与一は、大庭景親の弟俣野五郎景久を組み伏せ刀を抜こうとしたがなかなか抜けず、手間取っているうち敵の応援によって討ち取られたという。 与一の亡骸は与一塚に葬られ、その傍らには与一を祀る神社が建てられたのだと現天皇陛下の『徳仁親王殿下登山記念之杉』何年に植えられたのかは未確認木陰から相模湾を望む霊社の場合の呼び方は拝殿?住職から「霊社を探しているのですか?」と、霊社とは神と仏を祀る社で日本では数少ないと。親切なご住職さんで、喉の祈祷をしてくれ、のど飴も買えると(ネット情報)軒唐破風屋根の正面鬼瓦。紋は「丸に三つ引き」。佐奈田霊社は、三浦一族の岡崎義実(三浦義明の弟)の子・『佐奈田与一義忠』を祭神とするので三浦一族の紋と同じなのであろう扁額「佐奈田霊社」木遺塚、常夜燈とあるが社殿の下には「ぜんそく・せき・のど」気管支炎等、等、日本唯一の祈願所ですと奉祝碑『天皇陛下御在位六十年』 昭和60年11月吉日。 この石碑も、「江戸消防記念會」消防に関係する霊社か?表参道を振り返る、桜の時期もまた良しか境内の隅に、そろばんの石碑『五三七九八八九八〇〇八四六四五』は 『誤算なく 速くやれればよろしい』と。即ち正確 迅速が計算の使命なりと 玉誠8:12駐車場へ戻り、快晴の空におかめ桜が満開8:18この後『佐奈田霊社』を後にし、狭い道を『文三堂(ぶんぞうどう)』に向かって車を進める。 途中右側にあったのが、『佐奈田霊社』の表参道の階段。 『霊社』であるためか、鳥居の姿はなかった表参道の石段、数十メートルで境内へたどり着く。ここにも石段中央に「川崎 古式消防?保存會」の石柱来た狭い道を振り返る道の左手にいろんな案内板。『佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)』の碑。治承4年(1180)8月23日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死にしたと伝えられる与一が敵方の俣野五郎景久を組み伏せた畑は「ねじり畑」として残り、作物が全てねじれてしまうという言い伝えがあるのだと道路標識8:20狭い道を進み左側にある、神奈川県指定史跡『石橋山古戦場のうち文三堂』階段を上ると正面に『文三堂』。石橋山古戦場にあるこの『文三堂』は、石橋山の戦いで先陣を切って戦い討死した佐奈田与一義忠の郎党陶山文三家康を祀る堂。 文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、稲毛重成の手勢によって討たれたのだとおかめ桜8:27狭い道を戻り、佐奈田霊社下へ 源頼朝ゆかりの地ー続く
2020.03.31
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根府川のおかめ桜まつりの、第二会場『離れのやど星ヶ山』の散策を続ける。3/6(金) 10:17第二会場:離れのやど星ヶ山所在地:神奈川県小田原市根府川592受付:レストラン、宿泊の受付椿もきれいに咲きシャガも咲き、暖冬を感じる、近くでは沈丁花も咲き香りが漂っていた何か合図の鐘か豆相人車鉄道施設ご案内 ①ミニカーハウス:米国大統領・世界の消防車・ハーレー他 1500台以上を展示している ②豆相人車鉄道:走行は受付で許可を受けて下さいおかめ桜祭り会場露天風呂付きのリラックスできるカナディアンログハウス駐車場横にある休憩処10:22離れのやど星ヶ山の上にある第三会場へ向かう10:31第三会場『きのこ苑お山のたいしょう』所在地:神奈川県小田原市根府川657農家レストラン『きのこ苑お山のたいしょう』 営業時間:10:30 ~ 15:00(受付) 定 休 日 :毎水・木曜日苑内ご案内図山道に入るがこの時期蛇がいないので安心して行動できるきのこ栽培ハウスしいたけ狩りができるハウスお山のたいしょうは、昔ながらの原木栽培を行っておりますが、この方法は日本での生産量のわずか15%しか行われておりません。のこり85%はおがくず等で発生させる菌床栽培です。原木(コナラ)の栄養分100%で育つしいたけは、安心してお召し上がり頂けます。お召し上がりの際は、しいたけの香り食感を楽しめるよう水洗いせずそのままお使い下さい。しいたけのカサの部分に白い斑点が沢山ついておりますが、これは新鮮な証拠です。また、カサの広い大きなしいたけも大変おいしくお召し上がり頂けます。まだ小さな赤ちゃんしいたけは採らないであげて下さいカブト虫ハウス山の斜面に植えられた、おかめ桜たけのこ堀りもできる竹林が山の上へと延びるおかめ桜の間からハウス10:37苑内の一番高い場所に『みはらし台』みはらし台からのしいたけハウス斜面に咲くおかめ桜菜の花とのコラボ河津でも河津桜と菜の花屋外に15cm位の大きなしいたけ醤油をつけて焼いて食べると最高菜の花にピントを合わせ、後ボケで前ボケのおかめ桜10:45しいたけ植菌場既に菌を植え付けているのか営業種目炭火焼料理、しいたけ狩り、みかん狩り、コンニャク作り、タケノコ堀り、カブトムシ捕り、ブルーベリー狩り、草木染 といろんなことが体験できる駐車場から苑内への道ふじの苑藤の花が咲く時期もよさそうだ椿もきれいに芯をとらえるきのこ苑しいたけ等を焼いて食べれる染井吉野と違いおかめ桜は色が濃く映える紅梅、桃の花も同じようだが野良ネコか?暖かいので猫ものんびり春のお山(4月上旬)照手桃(テルテモモ)今年は3月末にはこの光景になるのかまた来たいものだが農家レストランも営業をしていたがおかめ桜の生いたち農家レストラン『きのこ苑お山のたいしょう』10:55相模湾を望む歩いて登ってくる人も多くこのあと、朝富士山が綺麗に見えていたので、JR湯河原駅経由椿ラインを走り大観山展望台へ。根府川の『おかめ桜まつり』散策前後に源頼朝ゆかりの場所へ行ったが後日アップします。13:15大観山展望台からの富士山このあと、旧東海道の畑宿経由帰宅した。 根府川のおかめ桜まつりへーEND
2020.03.09
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根府川のおかめ桜の散策を続ける。気温も上がり風もなく4月初め頃の気候になり、多くの中高年の方が訪れて来た。3/6(金) 9:26白糸川橋梁の下に『釈迦堂』大正関東震災では土砂で埋まったとのことであるが、最近はゲリラ豪雨で流されるのではと白糸川の桜が咲くとまた最高では東海道本線鉄橋下の道路脇にある「釈迦堂入口」の石柱車へ戻るため坂を登る道路標識根府川関所跡 120m、白糸橋 1.1km、釈迦堂 160m。ポールには、潮騒の駅根府川・江之浦漁港コース3月中旬には吉野桜が咲く高台をズームアップ菜の花をズームアップ河川敷に咲くカタバミおかめ桜は、豆桜(富士桜)の血で花が小さい富士桜は、富士山の麓で咲いており以前行ったことが白糸川から県道740号線に戻り、西へ進み途中右上の坂へ上る。第二、三、四会場がある9:41急な坂を登り、第四会場『オーランジェ・ガルデン』所在地:神奈川県小田原市根府川524-111月 ~ 12月は相模湾を一望しながらミカン狩りでリフレッシュできる場所である駐車場に入り、ここからの相模湾も絶景であったが、撮影を忘れる。今年の初日の出では数名の方が車で撮影に来ていたと(売店の女性より)。ここの上に『ヒルトン小田原リゾート&スパ』があるヒルトン小田原リゾート&スパを見上げる旅友Kさんが、おかめ桜と楊貴妃を各一本購入。昨年の台風で倒れたニセアカシアの後に植えると、既に花芽を持っていたので来年は花見か?既にミカン狩りの時期は終わっていたが、店頭で「湘南ゴールド」「はるか」ジャム他を販売。試食で両方を食べたが私の口には、甘味は、はるか > 湘南ゴールド(酸味が強い)。メジロがたくさん飛んできていたが。売店の女性(50歳)は奈良から嫁いできたと。高級リゾートのお茶とお菓子で一休みできる場所。根府川駅へは送迎用のバスが運行している。9:58第四会場『オーランジェ・ガルデン』から坂を下り途中にある第二、三会場入り口。第二会場:離れのやど星ヶ山、第三会場:きのこ苑お山のたいしょう。離れのやど星ヶ山。カフェレストラン「ななつの星」があり食事ができる。既に満開のおかめ桜おかめ桜は寒緋桜の系統でピンクが鮮やかである路面には花びらが飛び散り東海道本線の白糸橋を貨物列車が通過上流側の山道にはおかめ桜が咲き誇る徒歩の人はこの道を歩き、我々は車で登る。10:04第二会場:離れのやど星ヶ山所在地:神奈川県小田原市根府川592露天風呂付きのリラックスできるカナディアンログハウスを備えたリゾート。少々高いので我ら一般庶民には・・・・・・・。おかめ桜祭り会場白糸川の上流側白糸川の源流に近い、川岸には紫陽花が見上げるとおかめ桜清流の川下犬連れの人がスマホで飼い主に了承をえて撮影4歳で名前は「くまちゃん」、男の子だが矯正したとおかめ桜と河津桜。どちらも寒緋桜との交配種であり、河津桜はオオシマザクラ、おかめ桜は豆桜(富士桜)河津桜は既に葉桜に、河津桜は今年も2月12日(水)に訪れた。その時のブログは『南伊豆の日帰りドライブ』へリンク願いますスイセンも咲きクリスマスローズも咲き、旅友はラインで「おかめ桜」を送信敷設された線路が10数メートル豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)明治29年全開通から10年間、風光明媚な海岸線を人間が押して、熱海 ⇔ 小田原間を4時間かけて走る、人車鉄道が運行していました。この復元車両は当時の資料を基に製作しました。この復元車両は当時の資料を基に製作しました。定員6名ないし8名の乗った客車を、3人の人が押して動かした。まるでトロッコのような明治時代の運行状況。石垣の上の線路を、一車両に三人で押している。本来なら馬であったのであろうが崖で危ないので人頼りだったのか10:17おかめ桜の花数が多いのは寒緋桜に似ている 根府川のおかめ桜まつりへー続く
2020.03.08
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旅友Kさんから、小田原市の根府川(ねぶかわ)で『おかめ桜まつり』が開催されているとの情報から行かないとのことで、3月6日(金) の7時に我が家へ来ていただき合流して出向いた。新型コロナウイルスの関係でまつりは中止と伝えられていたが。根府川『おかめ桜まつり』パンフレット。開催期間:令和2年2月29日 ~ 3月22日(日)おかめ桜まつり 実施施設案内図会場が4カ所ある 第一会場:JR根府川駅前 第二会場:離れのやど星ヶ山 第三会場:きのこ苑お山のたいしょう 第四会場:オーランジェ・ガルデン3/6(金) 7:00我が家を出発、西湘バイパスを走り早川I.Cで国道135号線へ。西湘バイパス石橋I.Cの先を国道135号線から山側の側道へ入いり進む。JR根府川駅へ行く途中に、源頼朝ゆかりの『石橋山古戦場』『佐奈田霊社』があるとのことで立ち寄る。今回このブログは、おかめ桜まつりを優先しますので後日アップします。3/6(金) 8:37海岸線(国道135号)より山側にある県道740号線(小田原湯河原線)を走る。JR東海道本線下に咲く「寒緋桜(かんひざくら)」寒緋桜は、旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元旦桜)と呼ばれることもある。別名ヒカンザクラ(緋寒桜)、タイワンザクラ(台湾桜)、ヒザクラ(緋桜)ともいうおかめ桜は、この桜と豆桜のかけあわせた品種である8:45県道740号線(小田原湯河原線)沿いにある『JR根府川駅』所在地:神奈川県小田原市根府川小田原ふるさとの原風景百選海と山に挟まれたJR東海道本線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅・・・』と謳われている駅前のおかめ桜まつりの幟駅前のおかめ桜無人駅で自由に出入りできた関東大震災殉難碑改札を入り左側の駅構内に建立された、根府川駅列車転落事故の石碑何となく懐かしい表示板上りの回送電車が通過東京方面蒸気機関車が走っていた頃の東海道本線の『白糸川橋梁』であろうか(構内の写真から)。この辺りで風が強いと列車が止まる駅構内からの東京方面。撮影に夢中の旅友蜜を求めて野鳥がズームアップ🌸 おかめ桜まつり 🌸今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と、年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さいところで「おかめ桜」の生いたちは?寒緋桜と豆桜をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました駅前の観光案内箱根ジオパーク 小田原エリア 根府川(片浦海岸)根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東震災の際の駅裏の斜面の地滑りやその南側を流れる白糸川で起きた岩窟なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれる戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれた為、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します早川・片浦ウオーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんでください。早川・片浦ウオーキングルートは、Aルート:3時間、10.9km、Bルート:3時間半、12km例年より一週間ぐらい早く満開に上り電車「宇都宮直通」下田行きの「踊り子号」この車両を撮るために鉄撮りの人が30分以上沿線で待っていたが9:05約20分ぐらい鉄撮りになり9:10根府川駅から、県道740号線(小田原湯河原線)を西へ走り、狭い道を白糸川へ川沿いに大きなサボテン下流側の、東海道新幹線、東海道本線の陸橋上流側の県道740号線(小田原湯河原線)9:14根府川関所跡江戸時代初期、白糸川岸に置かれた根府川関所は、箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地で、通行を取り締まっていた。常駐する役人の数が箱根関所に次ぐ多さで要衝として重要視された東海道の脇街道であり、熱海や伊豆へ通じる根府川道の関門として、この地に根府川関所は設置されました。新編相模国風土記稿などによると、江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされており、以後、明治維新のため明治2年(1869)に廃止されるまでの約250年間に渡り、明け六つ(午前6時頃)の開門から暮れ六つ(午後6時頃)の閉門まで、破れば磔により罰せられることもある厳しい掟により通行が取り締まられていました。箱根関所のほか、小田原藩内には、仙石原、矢倉沢、川村、矢ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数が箱根に次ぐ多さで、要衝として重要視されていたことがうかがえます。根府川関所は白糸川の南側にありました。関東大震災前までは礎石もあり、当時の様子がうかがえそうですが、震災により埋没し、その後の新幹線の工事等により川の形も変化してしまい、関所跡は、現在、川底となっていますこの桜の木はつぼみが大きくなっている菜の花とおかめ桜東海道本線の陸橋、橋の向こうには相模湾白糸川の流れ9:17東海道新幹線の陸橋この辺りの新幹線はスピードが速く騒音防止の遮音壁がつながる庭先に富士山を作り、白糸川橋梁を列車が通過坂を海方面へ下ると『白糸川橋梁』神奈川の橋100選に選ばれた赤い鉄橋で、東京方面大阪方面、風が強いと列車がよく止まっていた9:23白糸川橋梁の下に『釈迦堂』所在地:神奈川県小田原市根府川248大正関東地震の前は高台に位置していた釈迦堂は、震災により土砂の中に埋まったが、その後釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができるJRの陸橋の真下、おかめ桜の傍に立派なお堂があり、その中にお釈迦様白糸川の釈迦如来釈迦堂横で咲くおかめ桜白糸川の釈迦如来根府川の旧家広井家の古文書によると広井家22世広井長十郎重友の代に頻発地震多く、特に寛永9年1月21日と正保4年9月14日と慶安元年4月22日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も襲来する等で世相は不安にみちり居り、長十郎重友は、村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩磐に釈迦尊像を建立して世相の安泰を祈ったとあります。・・・・・略・・・・・・・・。階段を下り左側に祀られている地下から外を見上げる9:26白糸川の下流には国道135号線に架かる『新白糸橋(しんしらいとばし)』 根府川のおかめ桜まつりへー続く
2020.03.07
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下田まちなかを散策する。2/12(水) 15:11下田八幡神社所在地:静岡県下田市一丁目17-1北側に宝福寺があり車を置いて参拝する手水舎から社殿へ下田八幡神社再建之碑当下田八幡神社は正応年間(1288) 既に鎮座せりと云う。縁起書によれば永正4年(1507)建設になる社殿は、享和2年(1802)失火により焼失、文化4年(1807)再建さる。爾来170有余年に亘り、下田の総鎮守として崇敬をあつむ。昭和58年11月22日不慮の事故により出火全焼せり、氏子崇敬者一同大いに恐懼 奮起してその再建に当る。昭和61年8月10日旧にまさる権現造りの壮麗堅固なる社殿及び手水舎新築完成す神門、鐘楼下田八幡神社の仁王像江戸時代後期の作と伝えられるこの仁王像は、昭和初期まで参道に据えられ、見事な均整美を保ちながら満身の力をたくわえ、八幡神守護の睨みをきかせています。粗い凝灰岩から豪快に彫刻された等身大の石像。肋骨が浮く無骨な体、歯をむき出す口元など見慣れた石像とは一線を画す迫力があります神門の右側の仁王像同左側の仁王像下田八幡神社拝殿拝殿の扁額「八幡宮」拝殿右側にある「力石」一の鳥居の向こうは、マイマイ通り商店街マイマイ通りに、絵は『下田八幡神社』、『ペリー艦隊日本遠征記』より ウィルヘルム ハイネ 画下田八幡神社入口左側に『迎神の松』下田市民文化会館前(下田八幡神社入口左側)銀座の柳二世、1837年製 カノン砲銀座の柳二世この柳は寝姿山頂にある「蓮杖写真記念館」に展示してある下岡蓮杖翁が撮ったとされる「銀座の写真」の複製を贈呈したお礼として、銀座金春通り会長であられた故勝又康雄氏と銀座御門通り会長であられた故椎葉一二氏が育てた「銀座の柳二世」を下岡蓮杖翁生誕の下田市に贈られたものです 平成18年4月1837年製 カノン砲後方は、下田市民文化会館第50回黒船祭を記念して 贈 米海軍横須賀基地司令官 スチィーブンH.ハウエル大佐 1989年5月16日向かい側の稲荷神社15:19宝福寺を後にし、アメリカ総領事館があった玉泉寺へ向かう。境内の大きな石柱は「坂本龍馬飛翔之地」「山内容堂 勝海舟 謁見之寺」帰路に着き、国道135号線の柿崎交差点を右に入り県道116号線を進み爪木崎方面へ。15:28県道116号線沿いの駐車場に車を止め曹洞宗 玉泉寺所在地:静岡県下田市柿崎31-6階段左の石柱は「安政年間 日本最初 米国領事館」安政元年に締結された下田追加条約によって、アメリカの休息所となり寺域内に同国人の墓地が設けられることになった。つづいて同3年8月アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田に上陸して、この寺を住居とし同月9日始めて領事旗を掲げ以後同6年6月まで総領事館となった。本堂はハリスの居室、ヒュースケンの居室及び事務室があって当時の規模をよく伝えており、幕末外交史上重要な史跡である。尚、本堂の北側にアメリカ人の墓地、南側にロシア人の墓地があるハリスは、通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人と共にここに住んだ。ハリスの使命は、通商条約の締結であったが幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健康を害しながらも辛抱強く交渉にあたったハリスは、安永4年5月26日、下田奉行との間に締結した「下田条約」(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに、安政5年6月19日、ポーハタン号艦上で日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。通商条約により横浜が開港されると、安政6年5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。なお、境内には米人の墓5基、露人の墓3基が残されている山門を入ると右側に『米国大統領来訪記念碑』 アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領 昭和54年(1979)6月27日 玉泉寺来訪 随行者:カーター夫人、娘左側のプレートは大統領のサイン牛乳の碑牛乳発祥の辞安政5年正月21日 北風晴天 今午後八ッ時頃上氣船・・・・・・・安政5月2月3日 今夕異人御掛リ様より被仰候は牛の乳少々異人所望につき下役人二人白浜村へ願遺候安政5年2月4日 昨晩白浜村へ注文・・・・・・・・・・・・・玉泉寺本堂この本堂は、天保6年(1835)当山19世大陵道眉大和尚の発願により、嘉永元年(1848)3月4日遺弟20世翠岩眉毛大和尚の代に現在の地に、間口7間半、奥行き7間、総欅造りの堂宇として上棟落慶されました。その6年後、嘉永7年(1854)黒船の下田来航により日本開国史上の表舞台として登場しました。●嘉永7年3月、ペリー黒船来航。玉泉寺は条約により黒船乗組員の休息所、埋葬所に指定される (日本最初の外人墓地)●安政元年12月より、北の黒船ディアナ号乗組員の宿舎、埋葬所、日露交渉の場として使用●安政2年5月 ドイツ商人リュードルフの約半年の滞在●安政3年8月 ~ 安政6年5月まで、タウンゼント・ハリス、秘書通訳ヒュースケンにより、 日本最初の総領事館として使用(2年10カ月)足掛け6年間、この本堂に於いて様々なドラマが展開され、日本開国の中心舞台として、その役割を果たしました。大正15年、渋沢栄一子爵と日米協会の援助の下、本堂の大修繕が行われ、その姿は当時の儘に現在に保存されております。日本開国の最も重要な遺構です本堂裏へ進む石段を登った上に、米国人乗組員の墓 5基がある大きな錨はアメリカ海軍からの寄贈屋根で養生された、米国人乗組員の墓 5基黒船(ペリー艦隊)乗組員の墓所1854年3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約が神奈川で調印されると、下田は即時開港され黒船(ペリー艦隊)七隻が下田港に入港した。日米和親条約付録条約第五条により、玉泉寺境内にアメリカ人用の墓地が設けられた。日本最初の外人墓地である。本堂側から向かって右の墓石より玉泉寺外人墓地から下田港鎮 魂米国海軍を代表し、ここに眠るペリー提督指揮艦隊乗員の霊に捧ぐ 1987年5月16日 米国海軍横須賀基地司令官 海軍大佐 S.H.ハウエルストーブの煙突を出した石ストーブの煙突を出した石タウンゼントハリス日記よりの一文1856年10月4日火曜日(安政3年10月7日)昨日は一日中よく雨が降った。そして今朝夜明けに・・・・・・・・。ようやく晴れ上がった。午前8時に地震があった。激風を食ったように思われた。何か重いものが倒れたように、家が振動した。又、それに相當した音響がともなった。この大きな衝撃につづいて、二、三度軽い横揺れがあった。・・・・・・・ストーブを据え付けた。それは仕様のないしろもので、空気をよく吸い込もうとしない。はじめて火を入れたばかりで、その板金が歪み、ひびがはいってしまった。一握りの木炭を投げ込んだばかりなのだが、私の家は、いま煙だらけだ。・・・山門へハナミズキ アメリカ ヴァージニア州の花アメリカ建国200年記念植樹 1976年5月16日1976年アメリカ建国200年となるので日米友好記念植樹としてアメリカの花ハナミズキを昭和51年5月16日第37回黒船祭に際し植樹する。アメリカの花ハナミズキが我国に植えられたのは、明治45年当時の東京市長尾崎行雄氏が先に日米親善のしるしとして桜の苗木を贈った返礼として、アメリカから贈られたハナミズキを都内数カ所に分散して植樹したのが最初で現在は日比谷公園や尾崎記念館に数十本残っているに過ぎません。ワシントンに贈られた桜は、ポトマック河畔に植えられて見事に育ちアメリカの桜の名所と・・・・・・・。嘉永7年(安政元年ー1854)3月、日米和親条約により下田が開港され、・・・中略・・・・・。通商条約により横浜開港が決まり、安政6年(1859)5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終えて下田を去り、江戸麻布善福寺へと移ったハリス記念館入館料 500円昭和54年ジミー・カーター アメリカ大統領、平成3年には今上天皇・皇后両陛下のご来館を賜わっております玉泉寺前の民家中に洗濯ばさみを入れ書類等を挟めるようにしていると15:51玉泉寺のあと県道116号線を爪木崎方面へ走り「吉田松陰上陸の碑」を探すが、県道に案内板がなく旅友のiPhoneでどうにかたどり着いた。バス停、浜崎小学校前から歩いて5分の海岸吉田松陰上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ポーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松蔭が上陸した地点でがこの場所である現在の下田港下田港は、古くから荒天時の避難場所として利用されてきました。昭和26年に避難港に指定され、防波堤等の整備が進められてきました。本港の防波堤は、避難船舶を守るためだけでなく、背後の住民、財産を津波から守るために建設中です奥に「下田浄化センター」があった15:56県道116号線沿いに大きな案内板『ハリスの小径』駐車場がなく道路脇に車を止め撮影ハリスの小径の石碑1856年我国最初の米国領事館となった玉泉寺に初代総領事として赴任したハリスは、滞在日記に「この領事館旗の掲揚が日本のためになるように」と書き残している。領事館滞在中は日米通商条約の締結に努め、この周辺を思索にふけりながら散策したという。付近にはバンダリア崖、サザントンロックなど当時名付けられた地名も残されており、この歩道をハリスを偲び「ハリスの小径」と名付けたハリスの小径へ入ると『藤澤海軍航空隊 下田会記念碑』の案内板下田港ハリスの小径16:00弁天島名所の『踏海の朝』があり、吉田松陰と弟子の金子重輔の銅像があるズームアップ、弁天島の下田龍神宮このあと、一般道優先で国道135号線を北上、河津、東伊豆、伊東、熱海を走り帰宅した。今日一日の歩行数は15,000歩であった。 南伊豆の日帰りドライブーEND
2020.03.02
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ペリー上陸の碑から下田市中へ。2/12(水) 14:15ペリー上陸の碑この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである下田歴史の散歩道 『 9 ペリー上陸の碑』寛永7年(安政元年ー1854) 再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた日米友好の灯石碑の上のプレートには『日米交流150周年によせて ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ』1854年の日米和親条約調印から150周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向けて出航した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。 アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日日米友好の灯この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり「NEW わかふじ国体」の炬火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し「日米友好の灯」と名付けられました。炬火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。 日米友好の灯宣言下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します下田の街と「火山の根」下田市をはじめとする伊豆南部の広い地域は、伊豆が本州に衝突する前に噴火した海底火山や火山島によって作られた大地です。下田の市街地を取りまく2つの特徴的な山、寝姿山と下田富士は、かつて火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現した「火山の根(火山岩頚)(カザンガンケイ)」です。「火山の根」に囲まれた下田市街のあちこちに、海底にたまった火山灰や軽石からなる「伊豆石」で作られた建築物があり、独特な町並みを作り出しています。「火山の根」のでき方。火山の直下で冷え固まったマグマが、のちの浸食によって洗い出されたものを火山岩頚(火山の根)と呼びます。浸食に耐えた1枚岩は急峻な山を作ることがあります左に、下田富士、右に寝姿山下田富士は浸食に耐えた「火山の根」らしい三角形の急峻なシルエットを持つ山で、駿河富士(富士山)、八丈富士と三姉妹であったという民話が残されています。寝姿山は山の形が、仰向けに寝ている女性の姿を連想させます。山頂へはロープウェイで登ることができ、下田港や須崎半島、伊豆七島の島々を一望できます広場には「ジャカランダ」の木が一本植えられていた。ニューポート市・下田市 姉妹都市提携50周年記念 2008.5.16日本最初の開港地ここが、ペリー提督とその乗組員達が最初に上陸した地点です。絵には、ペリー艦隊停泊図、湾内には7隻が停泊している寝姿山山頂へのロープウェイ運転しているのか心配していたが・・・・・・・ズームアップ下田港内の漁船スクリューが4基のボート界隈の案内図上のMAPとは南北が逆になっております。ペリー艦隊来航記念碑からの散策ルート14:23なまこ壁の、史跡『安直楼(あんちょくろう)』所在地:静岡県下田市三丁目5-21この建物は唐人お吉が明治15年より料亭「安直楼」を経営した店で、お吉の没後当店が寿司店を開業。以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、現在は下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存しておりますので、どうぞお気軽にお入り下さい。安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます (主人敬白)米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が1882年に、小料理屋を営んだ建物である。1857年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消す。年月を経て、当家「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。幕末開港の陰に咲いた一輪の花、お吉は1890年、稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。48才であった。なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている大工町にある『史跡 安直楼』この絵は?14:25松本旅館所在地:静岡県下田市二丁目9-20入口の引き戸松本旅館内今は営業していないのであろう古いなまこ壁の旅館14:27船宿角谷跡下田における勝海舟(幕臣)と山内容堂(土佐藩主)が暴風のため共に下田に入港上陸した。山内容堂と勝海舟によるここ下田会談(宝福寺)で坂本龍馬の脱藩罪が許された。船宿角谷には勝海舟、板垣退助など宿泊、山内容堂は宝福寺に宿泊 文久3年(1863)右側のなまこ壁に「船宿角谷跡」の説明板奥に進むと稲生沢川14:28大横町通りの「日新堂菓子店」所在地:静岡県下田市三丁目3-7店の壁面に3枚の説明板日新堂菓子店大正11年創業の老舗の菓子店、昭和天皇献上銘菓「下田節」。作家 三島由紀夫がこよなく愛した「マドレーヌ」など歴史あるお菓子を作りつづけている。三島由紀夫が愛したマドレーヌは一個190円、食べたかった―!日新堂菓子店の壁面に『大久保婦久子』下田出身の日本画家「中村岳陵」画伯(文化勲章受章者)の影響を受け現在の女子美術大学に進み「皮の染色」を学び先例のない「皮革工芸」の世界で独自の技法を開発(金唐草技法)創造性豊かな作品を発表してきた。平成12年「文化勲章」を受章、同年11月4日急逝された。同年12月下田市名誉市民の称号を贈りました(現在のスナック房州屋(昔は旅館大正館)が生家でした)篠田雲風明治維新後、開拓使女学校?儒学を専攻したが・・・・・・・・・ 解読できず写真の「下岡蓮杖」、日本第1号薬剤師合格「森斧治郎」の看板森斧薬局跡、奥にはカフェを営業14:32下田まちなか案内図欠乏所跡の石柱所在地:静岡県下田市三丁目1-1市指定史跡『欠乏所跡』嘉永7年(安政元年ー1854) 3月に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判の上、取りきめ候事」(第6条)とのあいまいな条文があったため、ペリー艦隊が入港すると貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で事実上の貿易が開始された。尚、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。商人達は、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。幕府は欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった 平野屋所在地:静岡県下田市三丁目1-4日本式洋食レストランで、地元のおばちゃんオススメの店ネットでは、ハンバーク、ステーキ、カレー、ビザ等メニューも豊富ですと大横町通りの平野屋14:39市指定史跡『吉田松陰拘禁の跡』幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ、急行したが間に合わず、翌 嘉永7年(1854) 3月再航したペリー艦隊の後を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松蔭等がいさぎよく自首し、拘禁された場所がここ宝光院長命寺(廃寺)であった。さらに平滑の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一貫を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった14:48臨済宗 長松山 泰平寺所在地:静岡県下田市四丁目6-7本堂等は新築され、参道は舗装されていた。一般者は中に入れないと。左側には六地蔵が並ぶもと本郷にあって、建長寺73世仏印国師を請じて開山としたが、雪叟がこの地に移して、下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建した。三河国田原の豪族であった戸田忠次は、天正18年秀吉の小田原攻めに対し、徳川氏の下で功をたて、伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられた。海善寺の辺に居館を構えていたが、慶長2年(1597)死去し、ここ泰平寺に葬られた。跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたて五千石を加増、祖先の地三河田原に一万石をもって移封された。戸田氏が下田を統治したのは慶長6年(1601)までの十年余であったが、この間、町並みが整えられ、殿小路・紺屋町・町店町等の町名は当時の名残りを示している。・・・・・・・・塀の中は、本堂?入口右側の神社了仙寺近くの山に14:52了仙寺の駐車場に戻る。宝福寺へ行くことに15:07龍馬が飛び、お吉が眠る『八幡山 宝福寺』所在地:静岡県下田市一丁目18-26浄土真宗 八幡山 宝福寺本堂の前には大きな坂本龍馬像が立つ寛永7年(安政元年ー1854) 3月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久3年(1863)、下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調練が行われた。なお、墓地には『下田年中行事』八十七巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。また、安政の東海地震(1854)後の津波は、本堂の床上まで達した本堂前の大きな蘇鉄本堂の扁額「八幡山」飼い猫か?本堂の右側は「唐人お吉記念館」お吉の墓もあるが有料のため引き返すマイマイ通り商店街宝福寺に車を駐車し、南側にある八幡神社へ参拝 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.03.01
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ペリーロードの散策を続ける。2/12(水) 13:25ペリーロードは平滑川(ひらなめがわ)沿いに700mほど続いている。上流側の了仙寺方向小径脇に、絵は『ペリーロード』、『ペリー艦隊日本遠征記』よりウィルヘルム ハイネ 画今でも石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの小径である枝垂れ柳の並木と石畳が美しい小径である河津桜も咲きペリーロード沿いは、異国情緒あふれるレトロな雰囲気を醸し出していて、アンティークショップやカフェなどが軒を連ねている平滑川には干潮で水位も下がり鴨がなまこ壁の『旧澤村邸』開設時間 10:00 ~ 16:00 入館無料 水曜日定休訪れたこの日は水曜日で生憎定休日、見学できず、残念!澤村邸の隣にある『的場稲荷神社』枝垂れ柳の並木と石畳が美しい「ペリーロード」。明治時代や大正時代に作られた石造りの洋館や古民家が数多く残っていて、歴史を感じることが出来る。2016年夏のドラマ「時をかける少女」のロケ地として知られている13:30ペリーロードから路地を入った南にある『お吉霊社』お吉霊社へは石倉の裏の石段を登り必要があるお吉霊社について「唐人お吉」のモデルとなった斎藤きち所縁のお稲荷さん昭和のはじめ、日本中でブームとなった「唐人お吉」。そのモデルとなった斎藤きちの実家があったのが、ここ旧坂下町です。安政4年、16歳のきちはここ坂下町からアメリカ領事館となった柿崎・玉泉寺に通いました。当時、村人が山へ薪を取りに行く時には、このお稲荷さんに通じる細い石段を登り、お稲荷さんに挨拶をして山へ入りました。きちも幼い頃には、四つ年上の姉・もとに手を引かれ、何度もここを上り下りしたことでしょう唐人物語(ラシャメンのうた) 作詞・作曲 桑田佳祐お吉霊社への石段石段の途中に「階段が崩れやすくなっていますので、参拝はお控え下さい」 自己責任看板を見て参拝を取りやめるペリーロードへ戻るペリーロード脇に大砲1829年製 30ポンドカロネードロード脇に「ペリーさんの隠れ家」とあり訪れたが営業前のレストランであった。所在地:静岡県下田市三丁目6-648テラスがあるレストラン 粉もん茶屋あほや所在地:静岡県下田市三丁目17-56下田焼、玉子焼、タコ焼きを販売していた。タコ焼きの味が良いとの投稿。建物にかき小屋と13:37丘へ登ることに下岡蓮杖翁之碑下岡蓮杖(1823 ~ 1914)我が国写真師の開祖となった下岡蓮杖は、浦賀船改番所問屋である下田町中原町の桜田家に生れ久之助と称した。少年の頃、狩野薫川の門に入り、狩野派の絵を学んだ。江戸の薩摩藩屋敷で銀版写真を見て、その精巧さに驚歎したことを契機に写真術の習得を志した嘉永6年(1853)30才の時に蓮杖と号した。安政3年(1856)ハリスが玉泉寺を領事館とすると、下田奉行所の足軽となり、外国人との接触の機会を得た。オランダ人通訳ヒュースケンから写真の手ほどきを受け、下田開港場が閉鎖されると横浜に出て米人ウンシンと知り合い、彼の帰国の際写真機を譲り受けた。そして、実験を重ね辛苦の末ようやく湿版写真術を習得した。横浜野毛ついで弁天町に写真館を開業、画家としての心得を生かして人工着色や画像の演出を行い、写真館は繁盛した。蓮杖の門下からは優れた写真家が輩出した。写真の他、牛乳搾取業、京浜間乗合馬車の開設、石版印刷等多方面に活動し、明治日本の近代化に貢献した。なお、靖国神社遊就館に蓮杖の描いた「函館戦争図」「台湾戦争図」の巨大油絵が残されている下岡蓮杖翁之碑の前からの稲生沢川と寝姿山。寝姿山は山の形が、仰向けに寝ている女性の姿を連想させます。山頂へはロープウェイで登ることができ、下田港や須崎半島、伊豆七島の島々を一望できますスダジイ(すだ椎)大地をつかむように根を張ったこの巨木は、園内にあるスダジイの中でも最も大きく、幹の太さは、丸い方で約4m、細い方でも約1mほどあり、樹齢は500年ともいわれている。シは下、ヒは実の意味で、果実が熟すと自然に下に落ちることから「シイ」と呼ばれる。果実は、生のままか炒って食用にし、材は、建築・器具・薪炭材のほか、シイタケ栽培の穂だ木に用いる。樹皮は、魚網・釣り用具の染料となる日米友好の木「はなみづき(ドッグウッド)」石碑には「ここ下田で」日米両国長の友情が初めて根をおろし花開いた。私たちは共に信頼と理解に基づいた永遠の友情を築き上げてきた。私たちのパートナーシップはすべての人々が、いつの日か兄弟愛と繁栄と平和のうちに共に暮らすことを学ぶだろうという希望そのものである 1979年6月27日 第39代米国大統領 カーター13:44開国記念広場にある『村松春水翁 碑』村松春水翁は維新の志士、後の・・・・・・・・・歌碑「春の港の街にて」 佐藤惣之助開国記念広場からの、稲生沢川と寝姿山、左に下田富士開国記念広場の山側にある『開国記念碑』2012 下田トモダチ宣言ー 今から150年以上前に、ここ下田の地にて ー日本とアメリカ合衆国の交流が始まりました。それ以降、私たちはともに友情を深めてきました。2011年3月11日、東日本大震災が起こり、日本中が悲しみと嘆きの中にいたそのとき、「トモダチ作戦」でいち早く手を差し伸べてくれたのは、アメリカ合衆国のみなさんでした。私たちはその気持ちと行動を決して忘れません。「本当にありがとうございました」今、日本は、復興への道を力強く歩み始めました。両国の「絆」をさらに強め、光り輝く未来に向い、永遠の「トモダチ」であることを宣言します 2012年5月19日 第73回下田黒船祭開国記念碑嘉永7年(安政元年-1854) 日米和親条約の締結により、日本最初の開港場となったここ下田にペリー艦隊が入港し、同3年には米国総領事ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和29年(1954)に開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーとハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥。ハリスの言葉はウイリアム・J・シーボルト。「開国記念の碑」の揮毫は、戦後の日米時代をきりひらいた吉田茂総理。碑の設計とペリー、ハリスのレリーフの制作者は、日展審査員をつとめた西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である ハリス「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」 ハリスペルリ「余は平和の使節として此の地に来れり」 ペルリ13:50開国記念広場から下田城公園へ登る下の広場は開国記念広場稲生沢川と下田市街地、正面に「下田富士」。下田富士は浸食に耐えた「火山の根」らしい三角形の急峻なシルエットを持つ山で、駿河富士(富士山)、八丈富士と三姉妹であったという民話が残されています山道に像が馬場ヶ崎いくつもの像が立つLa Mer大 地 山本利治陽 炎13:59東宮殿下(後の昭和天皇陛下)御行啓趾開国記念広場を見下ろす鵜島城址(下田城)の石碑小高い所が天守台跡、右方向は「あじさい園」へ下田市指定文化財『下田城址』天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長700mを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。天正17年(1589) 12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が整えられていった14:03鵜島城(下田城)天守台跡、標高 68.7m。天正18年3月、清水湊(江尻)に集結した豊臣方水軍は、長宗我部元親や脇坂安治らが率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、50日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出たあじさい郡落から下山途中にあった『幸福稲荷』幸福稲荷は元は金花稲荷と呼ばれていました。創建年代は定かでありませんが、江戸時代の後期の天保14年(1843)に、下田奉行土岐丹波守頼旨によって再建されてから幸福稲荷と呼ばれるようになったと伝えられています。土岐丹波守は上州(現在の群馬県)沼田城主であった土岐氏の一族で、浦賀奉行を経て幕府大目付兼海防掛に任ぜられ、日米通商条約のハリスとの交渉では日本側代表の一人として活躍しました。社殿の傍らに残る石の祠は、土岐丹波守が奉納したもので側面には次のように刻まれています。 天保14年11月 土岐丹波守 再建之なお、土岐丹波守は安政の東海地震と津波による犠牲者の霊を弔う市内稲田寺の「つなみ塚」の建立者の一人でもあります幸福稲荷を振り返る14:15ペリー艦隊来航記念広場へ 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.29
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国道136号線を南下して南伊豆町日野の菜の花畑へ。2/12(水) 12:14目的地は国道136号線の日野交差点の角に位置する元気な百姓達の菜の花畑 南伊豆町所在地:静岡県賀茂郡南伊豆町湊307第22回 みなみの桜と菜の花まつり開催期間:2月10日(月) ~ 3月10日(火)会場前の、ファミリーマート南伊豆日野店に車を止める。車を下りると、甘い菜の花の香りが迎えてくれた昨年も来たが、今年はここも中国人観光客が少ない国道136号線沿いのファミリーマート南伊豆日野店。左側へ進むと道の駅「下加茂温泉 湯の花」まで1.8km菜の花の中にヒマワリ同色のヒマワリだが着物姿の女性が二人本人に断って撮影させていただく。着物は貸衣装ではなく本人のものであると菜の花の香りが漂うがミツバチが少ない愛犬を連れ記念写真を先程の女性二人鯉名川(こいながわ)の桜の開花はまだ。河津桜でないのか蕾は硬い、桜とのコラボがいいのだがこちらのステージでも愛犬を連れ若い子達が自動で撮影12:30国道136号線の日野交差点。駐車させてもらったのでファミリーマートで昼食を買う。ここで下田市のペリーロードへ折り返す13:00了仙寺の駐車場へ到着了仙寺から、ペリーロードを歩き開国記念碑へ駐車場から「了仙寺境内」へ所在地:静岡県下田市三丁目12-12ペリーロードの終点であるが、逆に歩くことにする了仙寺本堂国指定史跡『法順山 了仙寺 日蓮宗』寛永12年(1635)創建、開山 日朝第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の墓域の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四代伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられている嘉永7年(安政元年-1854)3月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。当寺で、日本最初の洋楽のコンサートが行われた本堂内に掲げられた絵。安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図 黒船従軍画家 ハイネ筆原画はアメリカ海軍兵学校所蔵。石版画は了仙寺所蔵。写真は了仙寺所蔵の石版画の複製。調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で日米下田条約が締結された。図中の本堂は現存、庫裡鐘楼は安政の大津波によって消失した本堂の扁額御朱印を頂く合間に小僧と記念写真境内の梅の花本堂から山門を了仙寺調練の図旅友が御朱印を頂く了仙寺の2種類了仙寺山門山門の扁額「法順山」山門を出て参道を南側へ参道の右側に「黒船ミュージアム」ガラス面に、購買の方法はパントマイムである。品物を指差して、How much ? と聞く。店主はハウマッチ~という言葉を繰り返して、暗算をし、我々の目の前に片手か両手の指を立てる。指一つが百キャッシュで、1ドルは千二百キャッシュである。 スポルディング日本遠征記13:14今回の目的地の『ペリーロード』へ。ペリーロードは、ペリー艦隊が下田に上陸し、300人の部下を引き連れ了仙寺まで行進した約400メートルの道のり。今でも石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの小径下田市のマンホールのデザインはアメリカ艦隊?振り返る:ペリーロードを進みこの先の橋を渡ると了仙寺へ。この橋を渡り左側の路地へ入り階段を上り『長楽寺』へ橋のたもとの案内板13:17日露条約調印所・日米条約批准交換所『長楽寺』所在地:静岡県下田市三丁目13-19 ナマコ壁に囲まれた鐘楼。参道左側の高台にあった梵鐘は良く響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。現在の鐘楼と梵鐘は昭和51年に再建された本堂前の境内真言宗 大浦山長楽寺 本堂市指定史跡『大浦山 長楽寺 真言宗』弘治元年(1555)中興開山尊有により再興安政元年(1854)12月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の間に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫島以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。また、同2年(1855)1月、米国使節アダムス中佐と日本側応接掛井戸対島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されているロウバイ境内に咲いていた???鐘楼、後方に寝姿山境内の隅に「日魯通好条約」署名150年 記念植樹北方四島在住ロシア人訪問団 平成17年4月24日手前の桜の木 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.28
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涅槃堂から駐車場へ向かう。2/12(水) 10:29河津川の上流側まつり期間の3月10日まで花が持つか下流側今週末には、桜吹雪になっているのではなかろうか上流の「かわづいでゆ橋」先程登った「涅槃堂桜見晴台」周辺案内図英語、中国語で説明、珍しく韓国語がない桜のトンネル畑には珍しい黄色の実がズームアップするが、この実は?田中親水園地周辺案内図川に降り立ち下流側の豊泉橋葉ボタンと河津桜いちご大福、栗大福、みかん大福 それぞれ一個250円10:56桜並木から、「国の天然記念物の大楠」がある川津来宮神社へ神社横に「鈴木久五郎 翁」碑来宮神社の横に建つ碑。碑の裏に説明があるが?????川津来宮神社の二の鳥居所在地:静岡県賀茂郡河津町田中154手水舎川津来宮神社拝殿拝殿左奥に樹齢推定1000年以上の「国の天然記念物の大楠」がある拝殿の扁額天然記念物 大楠杉桙別命神社(スギホコワケノミコト)の大クス杉桙別命神社(来宮神社)は、平安時代につくられた『延喜式』という書物の中に記されている古く格式のある神社である。このクスの木は、県下でも有数の巨木として知られ、昭和11年、国の天然記念物に指定された河津には、江戸時代から明治時代中頃まで「河津七抱七楠」とよばれるクスの巨木が七つあったが、その中で、現存する唯一の木である目通り周十四メートル、高さ二十四メートルあり、樹齢は千年以上といわれている。「来宮様の大クス」とよばれ、古来より御神木として崇められてきた当社は「鳥精進・酒精進」の行事があることでも有名である。氏子は毎年12月18日より23日まで禁酒し、鳥肉・卵を食べない。これを破ると火の災いがあるという。その由来は、祭神杉桙別命が酒に酔い野原に寝ていたところ野火が起き、火に囲まれてしまった。そこへ羽に水をふくませた小鳥たちが飛来し、水を降らせて火を消し、野火から命を守ったという。「鳥精進・酒精進」の行事は、現在でも町内の氏子はもとより、町外の氏子や多数の崇敬者に守り伝えられている。拝殿の左奥に「秋葉山神社・山神社」杉桙別命神社(来宮神社)の境内大楠と拝殿拝殿の右側にも樹齢1000年近い大楠境内の売店で甘酒を一杯(100円)飲みながら待つ。旅友が頂いた御朱印は2ページに両サイドの楠に囲まれた拝殿参道の左側にはポールの保管場所11:11一の鳥居を入るとここにも大楠11:20 河津の駐車場を出て南伊豆町へ向かう。11:31国道135号線を南下して下田方面へ進む。伊豆半島の稲取方面11:34尾ヶ崎ウイング無料駐車場を完備する白浜海岸や竜宮島を望める展望所所在地:静岡県下田市白浜お手洗い、自動販売機があり、自転車のチューブも販売している尾ヶ崎ウイングより伊豆諸島を望む南側眼下には、手前に「竜宮島」、後方に「白浜海岸」半島左は「爪木崎」、右に「寝姿山」伊豆大島伊豆大島、利島、鵜渡根島手前にはアロエの花利島、鵜渡根島、新島、式根島 と見える11:40竜宮島、白浜海岸を望む11:50国道135号線を南下、進むと交通事故で渋滞。救急車、消防者が数台11:58国道135号線の中島橋交差点。右側に伊豆急下田駅、この先は国道136号線になる12:14国道136号線の日野交差点。右側が目的地の『元気な百姓達の菜の花畑 南伊豆町』 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.27
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中国人観光客が少ないので静かな河津の桜並木である。2/12(水) 9:40河津桜原木所在地:静岡県賀茂郡河津町宝泉橋から右側に折れ町役場の前を通り県道を右折。いつもは観光バス、車が多く走るがこの日は少なかった河津桜原木物語昭和30年頃の2月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた、約1m位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えたのが始まりでした。約10年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めた。同年4月 主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠した。その後、綺麗に咲く桜を見て譲ってほしいという話もあったが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。満開の原木原木の大きさ木 高:約10メートル樹 幅:約10メートル幹 周:約115センチメートル開花時期 一月下旬から三月上旬民家の庭先に有り道路から撮影義援金竹筒その後の調査で新種の桜とわかり、昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されました 河津桜はオオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されます旅友はラインで状況を送信アロエの花と河津桜ズームアップ道を挟んだ向かい側から日本三大寝釈迦霊場のポスター『涅槃堂』河津桜まつり期間中(2/10~3/10)は公開しています。 AM. 9:00 ~ PM. 4:00涅槃堂&桜見晴台へ行くことにする山の斜面にも河津桜を植付け河津桜原木から北上、道路脇に『伊豆横道 十四番札所 小峯堂』六地蔵とプラスワンの一回り大きい地蔵に挟まれた墓説明板がなく・・・・・・・先程の斜面に植えられた 河津桜河津町はいたるところに河津桜が植えられている。桜の苗は2、3年もので一本1,500~2,000円で売られていたが温室ではカーネーションも栽培涅槃堂 桜見晴台10:08ねはん堂の案内標識河津町沢田黄色の鮮やかなスイセン涅槃堂本堂所在地:静岡県賀茂郡河津町沢田108涅槃堂由来本 尊:釋迦牟尼如来 堂内涅槃像の製作年代は詳かでないが寛政8年(1796)頃のものと誕 生:西暦前566年4月8日印度釋迦族の王子として無憂樹の下で誕生すると出 城:29才の時生老病死の四苦を見つける城を抜け出て修行者となり苦行の生活を送った成 道:六年間の苦行の後12月8日・・・・・・・・・・・・・・涅槃堂・涅槃像群この堂は寛永年中(1624~1643)に筏場三養院の控寺(住職の休憩所)として建てられたものらしい。涅槃像群は、釈迦が紀元前4世紀の2月15日に、故郷に近いクシナーラの紗羅双樹の下で、80歳の生涯を閉じた様子を表現している入館料 200円涅槃像は一木造、像高2メートル58センチで、重量感あふれる漆箔像で、江戸時代中期頃の作である。像の後に立つ阿弥陀三尊像は、釈迦を極楽浄土に導くため迎えに来た様子を表し、両側に配された22躯の像が、悲しむ人々の姿を表現している。涅槃像は全国的に少なく、県内では類例のない稀少な文化財である。これらの像は、近世における民衆の、極楽浄土を願う気持ちがあらわれたものであろう。毎年2月15日には沢田区による涅槃会が行われており、「寝釈迦さん」と呼ばれて、今でも身近な信仰の対象となっている堂内の梁には、華鬘(内陣にかけて仏前を飾る装飾)が施されている。飛天が雲上を飛ぶ姿を表し、顔料で彩色された地方色豊かな文化財である。また、地区に災害や流行病があるときは、老若男女が集い、百万遍念仏の祈祷が行われた。今でも使われた数珠や版木などが残されている旅友が御朱印を頂きました案内板から沢田 ねはん堂の旗が、裏山の『涅槃堂 桜見晴台』へ鯉のぼりも泳ぎ河津の町並み河津川に沿って桜並木相模湾にそそぐ河津川沿いには約800本の河津桜が植えられています。河口からここ涅槃堂近くまで約3kmの堤防が遊歩道となっております天嶺山手前はカーネーションの温室かわづいでゆ橋涅槃堂10:23沢田ねはん堂下の駐車場は満車状態河津駅まで2.6kmこの木の開花は遅いが木によって違うようだ川に鳥が10:27 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.26
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本来は2/12~18まで中国『春彩 感動の秘境6つの絶景めぐり7日間』の旅であったが、今回の新型コロナウイルスに伴う催行中止になり、同行予定であった旅友Kさんといつも行っている南伊豆へ日帰りドライブに出かけた。先日は建国記念日の祝日のため、休日明けのこの日で計画。2/12(水) 6:39旅友Kさんに6時半に我が家へ来ていただき、海岸線に出て国道134号線を走る。昨日も天気がよかったが、相模川の「トラスコ湘南大橋」からの富士山。助手席から私のカメラでKさんに撮影願うトラスコ湘南大橋からの箱根の山大磯海岸辺りから西湘バイパス「大磯西I.C」カーナビを「一般道優先」にするとこのインタを出る案内になる。小田原市内の渋滞を考え、毎回ここは直進して有料道路へ入る。東海道五十三次で西へ行く場合も同様で箱根新道、箱根峠を越えている西湘バイパス「橘 料金所」 270円相模湾には陽も上がり6:58西湘バイパスから熱海方面は別料金のため早川I.Cを出て、一般道で真鶴・湯河原方面へ。直進は箱根新道、箱根峠を越え静岡県下へ7:36国道135号線を走り「熱海城」ズームアップ8:34熱川温泉を過ぎこの辺りから伊豆大島までは何キロあるのか伊豆大島の南に位置する「利島」。今日は気温が低いので伊豆諸島がよく見えた8:46国道135号線からの稲取を見下ろす。ここは好きな風景で、クロアチアのドブロブニクを思い出す。夜景も良いのではなかろうか、また、稲取は日本三大つるし飾りが有名である9:10河津桜観光交流館近くの駐車場へ車を止める。所在地:静岡県賀茂郡河津町笹原72-12駐車料金は一回700円でどこのパーキングも均一。駐車場の係員の話では昨日は祝日で8時には満車であったと。また、今回の新型コロナウイルスの影響で中国人観光客が少ないと。確かに昨年と違い観光客が少ない感じがする。河津桜は昨年も、2月21日(木)に訪れ、通算七回目になる今年は『第30回河津桜まつり』 開催日:2月10日(月)~3月10日(火)菜の花と河津桜とのコラボの撮影ポイント店のおばさんから呼びこまれる「テレビでやった90歳のおばあちゃんが作ったつるし飾り」と。一つる、1,500円 ~ と高価である河津川の上流に向って歩くズームアップ河津桜はピンクが濃い桜である河口の浜橋までは、1,325mこの橋は河口から4番目の「来宮橋」来宮橋からの上流側、西の空は青空が同橋からの下流側は曇り空西の空は晴れており、西伊豆からは富士山が綺麗に見えているのではこの辺りの桜は満開染井吉野に比べ色が濃い河津川の上流は修善寺へ向かう今年は暖冬でこの週末には満開になると河津桜のトンネル昨年のこの時間は観光客でいっぱいであったが食事処「ラビット」以前、「金目煮付」を食べたが見事なトンネル家族連れ子供の服まで桜色だ!黄色のカタバミカタバミ科の多年草で、庭や路傍に普通に生え、雑草として広く世界に分布するこの花は昨年行ったポルトガルのロカ岬にも、山の斜面一面に咲いていた河口から5番目の橋「豊泉橋」左側には「豊泉の足湯処」もある豊泉橋から上流側同橋から下流側ズームアップ豊泉橋の角に道案内河津桜原木へ向かう。ラインで送信する旅友Kさん9:38河津町役場 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.25
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新港ふ頭客船ターミナルから汽車道を歩きJR桜木町駅へ。13:22新港ふ頭客船ターミナルからJR桜木町駅へ。国際大通りのサークルウォーク横浜みなとみらい新港サークルウォーク横浜みなとみらいにある赤レンガとワールドポーターズを行き交う円形の歩道橋で、斬新なデザインと群を抜く美しさが魅力です。夜間には、独特のイルミネーションで新たな魅力が浮き出ています・平成11年(1999)土木学会田中賞(作品賞)受賞・型 式:4径間連続ループトラス・橋 長:225.5m余談ですが、静岡県掛川市の『潮騒橋』もこの田中賞を受賞していました!新港サークルウォークの上から、国際大通り沿いの「よこはまコスモワールド」歩道橋の外側に鉄骨がないので周りの景色が見やすい新港サークルウォークの直径は約70m万国橋交差点から「ナビオス横浜」を潜り運河パークへ。ナビオス横浜:3つ星ホテル汽車道の入口にあるナビオス横浜、日の出のタイミングがよければ、ナビオス横浜の間から昇って来る朝日を撮ることができる汽車道の運河パーク13:30正面に、高さ296.33mの「横浜ランドマークタワー」港三号橋梁汽車道の途中にある第三号の鋼ワーレントラス橋汽車道は、桜木町駅から横浜新港を結ぶ鉄道廃線を、遊歩道にした眺めの良い場所「TAKAMI BRIDAL アニヴェルセル」と「よこはまコスモワールド」結婚式場の「TAKAMI BRIDAL アニヴェルセル」13:34港二号橋梁橋の銘板は「AMERICAN BRIDGE COMPANY、OF NEW YORK、U.S.A. 1907」港二号橋梁この橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、明治42年(1909)に架設された100フィートの複線トラス橋です。重量機関車の出現によりそれまでのイギリス系トラス橋にとってかわり、明治30年代から主流となったアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものです。大きさは、長さ×幅×高さ=31.623×8,002×8,049mm日本丸のマストが見える紅葉がきれいであったよこはまコスモワールド、夜景も綺麗だと港一号橋梁この橋は、明治42年(1909)に鉄道院によって架設されました。2連の30フィート飯桁橋と100フィートの鋼プラット・トラス橋(クーパー型トラス橋)からなっています。100フィートのトラス橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、港二号橋梁と同形のものです。大きさは、長さ×幅×高さ=(9,638+9,638+31.623)×8,002×8,049mm13:40港三号橋梁 → 港二号橋梁 → 港一号橋梁の橋を渡り「日本丸メモリアルパーク」へ日本丸メモリアルパーク日本丸と右に横浜ランドマークタワー汽車道の奥に「港二号橋梁」と右側に「港一号橋梁」先程潜った「ナビオス横浜」と「港二号橋梁」をズームアップ旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)に展示されている日本丸帆船日本丸は、全国の商船学校の練習船として、昭和5年(1930)に建造されました。外航商船の船長を目指す若者の訓練に、太平洋を中心に航海してきました。昭和59年(1984)、新日本丸の建造を機に現役を退くまでの54年間に、地球を45.4周する距離(野べ183万km)を航海し、約11,500人の実習生を育てました。練習船としての使命を終えた日本丸は横浜市が管理することになり、昭和60年(1985)4月から旧横浜船渠第一号ドック(国重要文化財)で現役当時のまま保存されています。現在は、水平区域の練習帆船として整備・維持されながら、船内公開をはじめ、帆船の訓練・生活を体験する海洋教室やボランティアの協力で、29枚すべての帆を広げる総帆展帆などを行っています。平成29年(2017)に国の重要文化財に指定されました日本丸は昭和2年3月、練習帆船霧島丸 999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗組員及び学生全員が船と運命を共にしました。この惨事をきっかけに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻当たり91万円が認められました。当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費を除くと8億7千万円程度に過ぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨費でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第一船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初の遠洋航海に出帆しました国指定重要文化財『旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・所在地:横浜市西区みなとみらい2丁目7-10・構造及び形式:石造 煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドック)、左右翼壁 附属 附・旧排水ポンプカバー 二基第一号ドックは、隣接する第二号ドック(現ドックヤードガーデン)と同様、安政6年(1859)の横浜開港以来進められていた港湾施設の拡充整備に伴い、横浜船渠株式会社が船の修繕用に建設したものです。横浜港修築第一期工事計画を構想した英国人技師H.S.パーマーが、明治22年(1889)に作成した計画案に基づき、海軍技師恒川柳作が設計し、明治31年12月に竣工しました。建設当初は総長約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年(1917)5月から7年8月にかけて、ドックの渠頭部を内陸方向に延長し、総長約204mとなりました。横浜船渠㈱は昭和10年(1935)三菱重工㈱と合併し、三菱重工横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました日本丸は塗装工事中『海鳥達の風』 峯玉義郎 作みなとみらい21彫刻展ヨコハマ・ビエンアーレ ’86 協賛賞・㈱横浜高島屋賞・市民賞の受賞作『海鳥達の風』 峯玉義郎 作この旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つで、大正期に建造された躯体延長部分も土木技術の時代的特徴をよく示し、ドライドック築造技術の変遷を知るうえで価値が高く、また、官民の協調により実現した横浜港修築第一期工事の最後を飾る土木構造物で、近代横浜の都市形成史上も重要です現在は全面改修中で見学平成29年(2017)1月27日 の夜景13:52旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー1918年 ニューマチック・ツール社(アメリカ)製このエアー・コンプレッサーは(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業㈱横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、昭和58年(1983)に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示しますみなとみら大通りにある13:54桜木町駅への動く歩道からの日本丸13:59JR桜木町駅へJR桜木町駅前バス乗り場旅友は、JR桜木町駅で「しゅうまい弁当」を購入駅ホームから12/6(金)は横浜駅から、バスで三渓園へ、再度バスで山下公園へ戻り、赤レンガ倉庫、桜木町駅と歩いたが今日一日の歩行数は、17,700歩でした。16:00地元に帰り、時間が早かったがいつもの居酒屋に立ちよる。いつもオーダーする「明太子とジャガイモ炒め」おちょこは昨年ウズベキスタンで購入したマイオチョコ18:35若い女の子が来るとのことでサラダを作っていたがわが口には入らず 山下公園からJR桜木町駅ーEND
2020.01.16
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山下公園から赤レンガ倉庫へ歩いて進む。12:00日本大通りの奥に横浜公園の「横浜スタジアム」横浜スタジアムの照明塔右側は神奈川県庁象の鼻地区の波止場右上の写真は「開港当初の象の鼻地区の波止場」象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛称で親しまれてきました。開港当初の波止場は東西2本の直線状の突堤で、東側の突堤は「東波止場」と呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積卸しに使用されました。西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積卸しに使用されました。元治元年(1864)貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになった開港波止場エリアポールの内側の透明板の下に『鉄軌道と転車台』開港波止場エリアにある『鉄軌道と転車台』明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です象の鼻パーク象の鼻パークは横浜港発祥の地であり、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として、開港150周年を記念して整備されました象の鼻防波堤象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元しています。当時のガス灯を模した照明灯が設置されているほか、工事中に発見された関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部を、そのままの形で保存・展示しています象の鼻防波堤象の鼻パークには、象の鼻防波堤から象の鼻パーク全体を包み込むようにスクリーンパネル(照明)が整備されており、港の夜景を彩ります赤レンガ倉庫12:08赤レンガ倉庫への途中の左側に「開港の丘」があり、小学生が遠足で訪れ寒い中、弁当を食べていた国際通りから、高さ296mの「横浜ランドマークタワー」ネームプレートには、横浜市認定歴史的建造物「新港橋梁」建造年:1912(大正元)年、設計者:大蔵省臨時建築部新港橋梁から「赤レンガ倉庫」赤レンガ倉庫海外の飲料品、土産物店が出店していたクリスマスツリーも飾られていたロシアのマトリョーシカ綺麗に並べてレストラン内にはワイングラスを積み上げていた左:横浜ランドマークタワー右:ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル海上保安資料館横浜館(北朝鮮工作船展示)入館は無料、館内は撮影禁止。館内には、北朝鮮の不審船の実物が展示されており、没収した装備(無線機、北朝鮮のバッジなど)、武器等が展示されていた旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)「横浜港駅」は、明治44年(1911)横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期を迎えました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新材料で復元していますプラットホームから赤レンガ倉庫12:31右は「横浜海上防災基地」左の碑:第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資右の碑:香淳皇后 御歌 「ララの品つまれたる見て とっ国のあつき心に 涙こほしつ あたたかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時 へぬとも」上記歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸になられた時に詠まれたものである『第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資』第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、靴、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大な尽力もあったと伝えられる。昭和21年11月30日に「ララ」を積んだ第1船が、横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月までの6年間送られ続けた着岸している「青雲丸(SEIUN MARU)」青雲丸は、独立行政法人海技教育機構が保有する航海練習船。進水:1997年3月4日、全長:116m、トン数:1,767トン(純トン)船種:フェリー、建造所:住友重機械工業 横須賀造船所(1220番船)新港埠頭8番バースと「新港埠頭 ハンマーヘッドクレーン」横浜海上防災基地の青雲丸横浜海上防災基地には他の船も着岸手前は「新港ふ頭客船ターミナル」12:36新港ふ頭客船ターミナルのSHOP&RESTAURANT所在地:神奈川県横浜市中区新港2-5-1複合施設「横浜ハンマーヘッド」内に開設された『新港ふ頭客船ターミナル』レストラン麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 の看板いろんなラーメン店があるJAPAN RAMEN FOOD HALL12時も過ぎお腹が空いたので、ラーメンを食べることにメニューとチケット販売機左にチケット販売機があるが、新しいターミナルだけに日本語、英語、中国語で対応。この新しい販売機には、田舎者で高齢者の私には対応できなく店員に尋ねるが、この人も外国人であったが日本語で対応してくれたのであった醤油ラーメンをオーダー。スープにこくがあり美味しかった!昼食を終え、ターミナルの2階へ上がる横浜ハンマーヘッドまだ工事をしているが?新港ふ頭客船ターミナルの2階デッキ垂れ幕は、2020年 OPEN 『HAMMER HEAD PARK』とある臨港パーク方面横浜海上防災基地、後方に横浜ベイブリッジ横浜ランドマークタワー、右:ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルクルーズ船の乗客用通路2019年11月4日には第1号入港船として、カーニバル・コーポレーションの「ダイヤモンド・プリンセス」が入港した。ダイヤモンド・プリンセスは、今後ファンネル(煙突)を変更しベイブリッジ下部を通るのが困難となるため、2020年より橋外側の大黒埠頭に停泊するという情報もあり、第1号入港がこのターミナルにおいて最初で最後の貴重な停泊となった可能性もあるここから見える夜景もビューポイントヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルヨットの帆をイメージした外観の、港を一望する洗練されたシティホテル。クラブフロアの客室や和室のスイートなども揃える。全室禁煙の五つ星ホテル再度一階に降りレストランエリア店内に設備があったが地ビール?13:20新港ふ頭客船ターミナルを後にして、JR桜木町方面へ向かう 山下公園からJR桜木町駅ー続く
2020.01.15
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三渓園の散策後、山下公園前のイチョウ並木がきれいとのことでバスで移動。12/6(金) 11:18横浜市「中部水再生センター」前を通過11:27バスを下車して、山下橋東交差点へ高架橋は「首都高速神奈川3号狩場線」、いつもここを走っている山下橋東交差点から、山下公園通りへ道路標識私にとって久しぶりの山下公園へ元町・中華街駅(みなとみらい線) 250m 方面上の高架橋は、「首都高速神奈川3号狩場線」11:31山下公園通りのイチョウ並木大阪の御堂筋線もよく見たがここも素晴らしい横浜マリンタワー。横浜開港100周年の記念事業として、昭和36年(1961)に建設された横浜のシンボル。当時は日本で一番高い灯台として、長く横浜の港を見守ってきた。高さ106m、2層の展望フロア、360度の大パノラマから見える夜景は必見としかし現在は、2019年3月31日から改修工事に伴う工事で全館一時休館。営業再開は2022年4月以降を予定と山下ポンプ場この公園の下には、山下ポンプ場があります。山下ポンプ場は関内地区、山下地区などの浸水防止を目的とした雨水排水ポンプ場で、1987年に建設され、毎秒11.7m3の排水能力を持っております山下公園通りのイチョウ並木山下公園所在地:神奈川県横浜市中区山下町279開 園:昭和5年(1930)3月15日 駐車場:有料(500台)面積は、74,121㎡関東大震災のがれきを埋め立てて造られました世界の広場のメタセコイア世界の広場からの山下公園世界の広場を見上げる横浜市の散水車横浜マリンタワー横浜港観光船のマリンシャフトシーバス乗り場日本郵船氷川丸氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれたかつての大型客船。昭和5年から30年間就航し、チャップリンも乗船した日米友好ガールスカウトの像未来のバラ園2016年の再整備により、約190種・2,650株のバラ園となったアンブリッジ ローズ1990年 イギリス、いい香りがしていたかもめの水兵さんの歌碑山下公園内水の守護神水の守護神サンディエゴ市民より横濱市民に寄贈 1960年5月左側のマークは両市の姉妹市としての友好関係を表徴する後方に「HOTEL NEW GRAND」開業は昭和2年で、横浜・山下公園前に立つ日本のホテル史と共に歩んできた由緒あるホテル。本館にある「レイボーボールルーム」「フェニックスルーム」は開業当時の趣を残す日本でも有数のクラシカルな会場。近辺には中華街、元町等があり、観光やショッピングの拠点としても便利日本郵船氷川丸アールデコ様式の一等食堂や、一等喫煙室、一等特別室など客室を見学できるほか、プロムナードデッキからは、横浜港の風景を楽しめる。2003年に横浜市指定有形文化財に指定された桜木町方向と横浜港大さん橋右は横浜港大さん橋の税関?赤い靴はいていた女の子像横浜といえば「赤い靴」を連想する方が多い。現に横浜土産にも赤い靴をデザインしたものが多い。野口雨情の詩になる童謡「赤い靴」をはいていた女の子にはモデルが存在した。明治37年(1904)に静岡市清水区に生まれた「岩崎きみ」・・・・・・。・・・・・、現在この「きみ」にゆかりの地にあわせて4つの像が建えられている。 ①静岡市の「日本平」 ②北海道虻田郡留寿都村 ③北海道小樽市 ④東京都麻布十番 ⑤山下公園叶わなかったアメリカでの暮らしを夢みて遠く海を見つめるように銅像が昭和54年(1979)に建てられた潮位標尺について海面の変動を身近に感じられるように、標尺(ものさし)を設置している潮位標尺と横浜ベイブリッジインド水塔インド水塔関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものです。華麗なモザイク模様のドームのイスラーム建築をはじめ、その意匠は様々な要素がたくさん組み合わされています11:53山下公園通りへ出る産業貿易センター前山下公園通りの歩道のタイル9種類のタイルが貼られている右に入ると「大さん橋」 300m直進すると「赤レンガ倉庫」 700mバスは「あかいくつ」開港広場前交差点から「大桟橋通り」11:58右の高架は「山下臨港線プロムナード」この後、赤レンガ倉庫から日本丸、JR桜木町駅へ向かう。 山下公園からJR桜木町駅へー続く
2020.01.14
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三渓園の外苑エリアを散策。10:33旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)この建物はもと岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありました。江戸時代宝暦年間(1751~1764)飛騨三長者の一人といわれた岩瀬の矢箆原佐助の家として飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられています。御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、所有者矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960)移築されましたこの建物の特徴は、左半分が式台付玄関をもつ書院造り、右半分が普通農家の造りで、左右で全く異なる形式構造をもっていることです。これは上流農家の平面を示しています。屋根は入母屋造りで、火灯窓が珍らしく、この家の格式の高さを物語っていますー 三渓園 昔むかし ー六角堂(ろっかくどう)正式には ”望仙亭” と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられていた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん)建築年:江戸時代 寛永11年(1634)、移築年:明治40年(1907)縁切寺の名で知られる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏堂旧東慶寺仏殿(重要文化財)この建物は、室町時代永正6年(1509)直後に再建された鎌倉東慶寺の仏殿です。明治40年(1907)三渓園に移築されました。東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼が創建した寺院で駆込寺あるいは縁切寺として有名でした正面からの『旧東慶寺仏殿』寒霞橋と横笛庵横笛庵(よこぶえあん)建築年:明治41年(1908)、田舎家風草庵奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、詳細は不明振り返り紅葉の木々の中に『旧東慶寺仏殿』モデルさんか撮影会?10:37前撮り写真か?、花嫁と花婿が見つめ合いカメラマンにポーズを言われて。結婚指輪を渡すシーンか、それとも・・・・・集中豪雨になるとこの『寒霞橋』もどうなるのか寒霞橋をズームアップ10:39お休み処の『待春軒』待春軒のメニュー三渓園創始者の原三渓が考案した『三渓麺(さんけいそば)』 850円が美味しそうだった三渓そば とは三渓園の創設者、原三渓が考案した伝統の味で「おつゆ」のない麺になっていると黄色のツワブキとのコラボズームアップ10:41旧燈明寺本堂(きゅうとうみょうじほんどう)建築年:室町時代 康正3年(1457)、移築年:昭和62年(1987)三重塔と同じ、京都・燈明寺から移築した旧燈明寺本堂(重要文化財)燈明寺は現在廃寺となっていますが、近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。昭和22年の台風で被害を受けた後、解体し保存されていましたが、昭和62年(1987)に三渓園に移築されました方向を変えて大池の観心橋淡墨桜散りぎわに淡い墨色を帯びることから、淡墨桜といわれる。国指定天然記念物である岐阜県根尾村淡墨桜の種子から育てた苗木を植樹した。写真は、継體天皇のお手植えともいわれる10:43旧燈明寺三重塔サクラの時期には、桜とのコラボも良いのでは三渓園天満宮この天満宮はもと間門天神といい、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。昭和52年(1977)三渓園に移されました10:45大池の観心橋の上でも前撮り。カメラマンが花嫁の衣装を整えていた花嫁&花婿にスタッフが数名ー 三渓園 昔むかし ー楠公社と観心橋楠公とは、南北朝時代の武将・楠木 正成のこと。社殿の建物は、もと大阪・観心寺にあったもので、楠木正成が建武元年(1334)に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三渓園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による観心橋を渡り『旧燈明寺三重塔』観心橋の上での前撮り、後方に『三渓園天満宮』10:48正門へ向かうがまた別のカップルが。少々肌寒い感があったが正門近くの藤棚藤棚の下に入り、三渓記念館方向今日は前撮り写真で何組と出会ったか、5組はいたであろうか。前撮りは受付でチェックし、首から札をぶら下げていた撮影を終えたのか10:55三渓園正門門柱の建築年は明治39年(1906)で、開園時には三渓自筆による「遊覧御随意三渓園」の表札が掲げられました。9時前に入ったので丁度2時間の散策で、6,000歩であった。この時間になると多くの観光客が。三渓園は四季折々楽しめるので、次回は天気がよい時に訪れたいものですみなと横浜回廊マップこの時間になると土産物店もオープン。朝下車したバス停へ向かう10:59バス停への途中にある『亀の子石』亀の子石の由来は大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある道路側からの『亀の子石』横浜駅・桜木町駅方面バスのりば11:03バス便も多く便利三渓園の散策を終へ山下公園前のイチョウ並木へ行くことに。 三渓園ーEND
2020.01.13
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三渓園の内苑エリアから外苑エリアへ散策を継続。外苑エリア:明治39年(1906)、一般に向けて公開されたエリア。京都・燈明寺から移された室町時代の建築・三重塔がランドマークと配され、ウメ・サクラ・ハナショウブ・ハスなど、四季折々の花を中心に楽しめる。9:49蓮華院(れんげいん)建築年:大正6年(1917)三渓の構想による茶室蓮華院この建物は、原三渓が大正6年(1917)に建てたもので、六畳と二畳中板の茶室があります。土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります旧天瑞寺寿塔覆堂竹林、春先には竹の子9:52海岸門(かいがんもん)を出る。建築年:江戸時代、移築年:大正時代御門と同じ、京都・西方寺にあったもの。ここから外が外苑エリアになる松風閣(展望台)・三重塔へ坂を登る坂道を登り展望台へ。 ー 三渓園 昔むかし ー左:御谷館(おやつかん)御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。明治41年(1908)に移築され、来園者の休憩用に当てられたようであるが、詳しくは不明。大正4年(1915)に焼失した。右:造成中の内苑(大正10年頃)当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアであった。写真では公開部分との境に仮設の塀が設けられ、その向こうに資材置場であろうか、簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源頼朝の木像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない 9:57緩い坂を上り終えると、建物の残骸が。松風閣跡地ー 三渓園 昔むかし ー松風閣(しょうふうかく)初代・善三郎が別荘として明治20年頃に築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三渓の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5年(1916)には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数か月間滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。またその一室 ”観山の間” には三渓が支援した中で最も好んだ日本画家・下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが大正12年(1923)の関東大震災により建物とともに消失した9:58松風閣展望台へ登る。遠く富士山が顔を出していた石油タンクは『JXTGエネルギー 根岸製油所』ズームアップ雲の合間に雪を被った富士山が見えた東方向の、JXTGエネルギー 根岸製油所10:00再度西方向の富士山を望む10:04旧燈明寺三重塔(きゅうとうみょうじさんじゅうのとう)建築年:室町時代 康正3年(1457)、移築年:大正3年(1914)京都・木津川市の燈明寺(廃寺)にあった建物。現在、関東地方にある木造の塔では最古三渓園の海に面した高台にあり三重塔の高木が台風15号の被害で折れたりしていた旧燈明寺三重塔(重要文化財)この建物は、もと京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを大正3年(1914)三渓園に移築したものです。寺伝によりますと燈明寺は天平7年(735)聖武天皇の勅願によって建てられた寺院とされています。建物の様式などから、室町時代に建てられたものと推定されます旧燈明寺三重塔への途中に『出世観音』旧燈明寺三重塔から、大池、正門方向旧燈明寺三重塔からの下り坂の途中の木も倒木していた旧燈明寺本堂10:11ー 三渓園 昔むかし ー初音茶屋(はつねじゃや)開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎をいれたものや温かい麦茶がふるまわれたという。大正4年(1915)に三渓園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三渓の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、”ひとはかり 浮く香煎や 白湯の秋” という句を詠んで締めくくっている。また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその葛の端が六方の軒に垂れ下がっていたとあるが、写真はまさにその風情である現在の『初音茶屋』かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書き記された茶屋。当時はいつでも麦茶がふるまわれたという林洞庵(りんどうあん)建築年:昭和45年(1970)宗徧流林洞会から寄贈された茶室林洞庵この書院は、昭和45年(1970)に宗徧流林洞会から寄贈された茶室です。屋内には流祖山田宗徧筆 ”林洞” の板額があります紅葉の外苑エリアを進む案内板は『寒月庵(かんげつあん)』だが建物は『林洞庵』奥に『横笛庵(よこぶえあん)』建築年:明治41年(1908)、田舎家風草庵奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、詳細は不明10:13正面に『待春軒』道案内紅葉の中に『寒霞橋』ー 三渓園 昔むかし ー待春軒(たいしゅんけん)寒月庵と同じく、もと江戸の豪商 川村伝左衛門(迂叟)が所有していたもので、栃木県大嶹製糸場内から移された建物。場内にあった明治12年(1879)には、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント(1822-1885)が日光滞在中のある日ここに遊び、昼食をとったという。三渓園に移築後、この建物には ”御やすみ、御茶御随意、待春軒” という案内書きがつけられ、初音茶屋と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらには句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようである奥に『旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)』『旧矢箆原家住宅』(重要文化財)ー 三渓園 昔むかし ー月影の茶屋屋根は杉皮葺きであろうか、隣接した田舎家の風情にあわせた簡素な建物である。詳細は不明であるが、園遊会などの際に茶の接待などに用いられたものと考えられる。明治41(1908)の新聞(横浜貿易新報)記事によれば障子に "白露の里 月影の茶屋” と記されているとある。今ではこの月影の茶屋も田舎家もその姿はなくなってしまったが周辺の山里の風情は変わらずに漂っている旧矢箆原家住宅(合掌造り)建築年:江戸時代後期、移築年:昭和35年(1960)飛騨・白川郷にあった建物旧矢箆原家住宅の庭の隅に『茶筅塚(ちゃせんづか)』皆様は「茶筅」という道具を御存じでしょうか?茶道でお抹茶を点てるための茶道具なのですが、文京区にある大本山護国寺では、この茶筅を供養する行事が、毎年12月に開催されている。針供養や人形供養などは聴いたことがあるかも知れませんが、茶筅も供養されてきたことは、中々知られていないのでは?そういえば三渓園には、茶室が多く移築されておりそのゆえんか?10:16旧矢箆原家住宅外からは内部は見えないが、室内からは外が見える格子戸住居内は見学可能になっている。内部見学は、9:00 ~ 16:30囲炉裏別の間の囲炉裏は火をつけ煙を出していた昔のいろんな台所用品が保存されていたミズフネ(水舟)現在、旧矢箆原家住宅内部に展示している民具は、昭和35年の建物移築にあわせて、矢箆原家の資料とともに飛騨地方から収集されたものです。この水舟は、ブナの大木を二つ割りにして中をくりぬいた大型のもので、明治から大正時代にかけて、岐阜県大野郡朝日村(現・高山市)の工場でワラビ粉製造の際のデンプン沈殿用の水槽として使用されていたといわれている室内から外苑エリア旧矢箆原家住宅(接客空間)各部屋の説明欄間の木彫り一枚板から造り、釘は使用していないとボランティアの方から「この格子戸は外からは内側の部屋は見えません」と昔の杵・臼二階への階段から一階を見下ろすおばさんが床・手すりを拭いていたカイコの棚もあったまた、床・手すりが黒光りしていたおばさんの話では、一階の囲炉裏の煙が二階に立ち込め、これを拭くことにより黒光りしていると大きな木の屋根部分10:32軒先に柿の干し柿あと10日ぐらいで美味しくなるのであろう 三渓園ー続く
2020.01.12
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紅葉の三渓園の内苑エリアの散策に。内苑エリア 原家が私邸として使用したエリア。江戸時代初期に建てられた、雁行形に3棟が 連なる外観の臨春閣を中心に、古建築で構成された微細なつくりの庭が広がる。12/6(金) 9:22亭榭を渡り亭榭から特別公開の『聴秋閣(ちょうしゅうかく)』紅葉に囲まれた聴秋閣臨春閣(りんしゅんかく)建築年:江戸時代 慶安2年(1649)、移築年:大正6年(1917)紀州徳川家初代藩主の頼宣が、和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築内部には、狩野派などの絵師による障壁画の複製(オリジナルは三渓記念館で保存・展示)や洗練されたデザインが各所にみられます上に上がれたのか?、庭先から見学天楽の間(TENGAKU-NO-MA)臨春閣の庭先から『亭榭』『旧天瑞寺寿塔覆堂』亭榭臨春閣から石段を登り『月華殿(げっかでん)』へ月華殿から『天授院(てんじゅいん)』天授院(重要文化財)建築年:江戸時代 慶安4年(1651)、移築年:大正5年(1916)鎌倉・建長寺近くの心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂の建物天授院この建物は、もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれています。大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていました。昭和39年に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書きが発見され、建立の年が明らかとなりました月華殿(重要文化財)建築年:江戸時代 慶長8年(1603)、移築年:大正7年(1918)京都・伏見城にあった、大名来城の際の控え所として使われたといわれる建物この建物は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てたものと伝えられています。その後、京都本山修験宗の三室戸寺金蔵院に移され、大正7年(1918)に三渓園に移築されました月華殿と金毛窟(きんもうくつ)金毛窟は、原三渓が大正7年(1918)に建てた一畳台目(1.8畳ほど)の茶室です。千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高欄の手すりを、この茶室の床柱に使っています。扁額は明治の数寄者・三井の益田純翁の書です9:30月華殿・天授院前からの見事な紅葉石段を下りながら見事な紅葉をズームアップ天授院を振り返る左に天授院、右に月華殿谷間にある天授院、月華殿9:32特別公開の古建築(重要文化財2棟)。いずれも江戸時代初期の建造物で、デザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめる。聴秋閣(ちょうしゅうかく)。建築年:江戸時代 元和9年(1623)、移築年:大正11年(1922)京都・二条城内にあったといわれる、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築この建物は、元和9年(1623)徳川家光が将軍職受任のため上洛した折、京都二条城内に建てられ、のちに乳母の春日局が所持したといわれる建物ですが、江戸城にあったとの伝えもあり、確かな来歴は不明です。しかし、最近この建物が写されている、明治時代初期の稲葉家江戸屋敷の写真が発見されました。稲葉家は春日局の嫁ぎ先であることからも、聴秋閣の来歴の一部には信憑性がありそうです。三渓園には、大正11年(1922)に移築されました聴秋閣内部三つの屋根がバランスよくまとめられた外観の形状から、かつては "三笠閣” の名で呼ばれたこの建物は、内部にも変化に富んだデザインが見られます。特に注目されるのは正面入口の部分で、奥の畳の間より一段低くしたその床面には正方形の木製タイルをL字状に敷きつめ、天上の形もそれと呼応する意匠となっていますこのスペースは、池や川沿いの水辺から直接舟で乗りつける ”舟入の間” の趣向を採ったものともいわれ、この建物が庭園の一郭を飾るために建てられたものであったことがうかがえます聴秋閣の前を沢が流れるが最近の集中豪雨での被害は?聴秋閣の奥は遊歩道になっている特別公開で遊歩道(季節公開)へ遊歩道を登る遊歩道の最上部より『聴秋閣』を望む赤・黄色の紅葉に囲まれた聴秋閣紅葉とのコラボを楽しむ9:38聴秋閣越しに『旧燈明寺三重塔』三重塔をズームアップ逆光で晴天だとまた違う写真に遊歩道から降りる正面からの聴秋閣9:42聴秋閣前からの亭榭ススキが映える聴秋閣を振り返るズームアップ旧天瑞寺寿塔覆堂9:46特別公開の古建築(重要文化財2棟)の一つ『春草蘆(しゅんそうろ)』建築年:江戸時代 (小間)、広間部分は三渓園移築後に増設、移築年:大正11年(1922)。三畳台目(3.8畳ほど)の小間は織田信長の弟・有楽(うらく)の作といわれる茶室。右側にイチョウの木があるが先の台風15号で一部折れていた春草蘆と右にトイレ(使用加?)いずれも江戸時代初期の建造物で、デザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめる。春草蘆(しゅんそうろ)四畳に満たない小さな空間ながら、九つもの窓がリズミカルに配されているのがこの茶室のみどころ。窓から差し込む淡い光が、幾何学的な障子の桟のシルエットを際立たせ、モダンデザインのような印象さえ感じさせますまた、躙口の脇には刀掛けが設えられ、この春草蘆が武家にゆかりの茶室であったことを物語っていますトイレ?旧天瑞寺寿塔覆堂9:49古くは ”九窓亭” と呼ばれ、京都宇治の三室戸寺金蔵院にあったこの茶室は、桃山時代のものと推定される建築です。織田信長の弟・有楽の作ともいわれていますが、確証はありません。三室戸寺にあった当時は、伏見城の遺構と伝えられる客殿(園内の月華殿)に付属する茶室でしたが、原三渓は移築に際しこれを切り離し、あらたに広間を付け加えました。露地には、京都天竜寺旧蔵で南北朝時代の禅僧・夢窓疎石使用と伝えられる蹲(奥の蹲)や、東大寺旧蔵といわれる伽藍石(礎石)も配されています 三渓園ー続く
2020.01.11
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横浜で古都の風情の紅葉を愛でる『三渓園』。昨年の12月6日(金) 旅友Kさんと私にとって初めての『横浜の三渓園』を訪れた。11/23(土) ~ 12/8(日)まで『聴秋閣(ちょうしゅうかく)』『春草蘆(しゅんそうろ)』の2棟が特別公開されているとの情報もあり、紅葉とのコラボを楽しみにした。8:05朝7時過ぎに自宅を出て横浜駅へ。三渓園へのアクセスは ・横浜駅東口2番乗り場(市バス8・148系)35分、三渓園下車・徒歩5分 ・土・日・祝は、ぶらり三渓園BUSで45分、三渓園下車(駐車場内)徒歩すぐ横浜駅東口、横浜シティ・エアターミナル(YCAT)のバス案内所でもらった印刷物。窓口でバス乗り場を聞いたら即座に頂いた、皆さん尋ねるのだろう指定の乗り場へ乗車賃は前乗りで、一律220円。ぶらり三渓園BUSの案内も8:10通勤時間帯で通勤客が多く乗り降り。我々は最後部に乗車してしばしバスの車窓を楽しむ8:20JR桜木町駅近くのバス停よこはまコスモワールドの大観覧車8:22JR桜木町駅8:28文化遺産の『開港記念横浜開館』所在地:神奈川県横浜市中区本町1-68:31市街地の紅葉並木国道133号線を走り、ビルに映えるイチョウ並木8:32元町・中華街入口『中華街東門』8:49横浜本牧当たり8:52次は『三渓園入口』バスを降り、バス停の案内図三渓園まで300m住宅街を歩き横浜市のマンホール8:57予定の時間に『三渓園正門』へ到着。三渓園は東京ドーム約4個分(約17万5000平方メートル)の広さに三重塔など京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物が点在する日本庭園。この時期、あざやかな紅葉と調和した景観は、横浜でありながら古都の風情を満喫させてくれるとチケット売り場の左側に駐車場があった。三渓園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名 富太郎)が、東京湾に面した”三之谷”と呼ばれる谷あいの地に造りあげた日本庭園である。明治39年(1906)に一般公開された外苑と、三渓が私邸としていた内苑の2つの庭園からなり、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころとなっている入場料金、禁止事項、特別公開の案内。三渓は、芸術家や文学者などの文化人たちと広く交流したことでも知られ、三渓園は美術・文学・茶の湯など近代日本文化の一端を育んだ場所でもある。美術上・芸術上そして観賞上優れていることから、平成19年(2007)には国の名勝に指定され、庭園全域も文化財として位置づけられた園内の茶店の案内料金表一般:700円、シニア料金はなく少々割高。横浜市民は200円だが。交通費を払ってくる人を割引して歓迎してほしいものですネ!9:00チケットを見せて園内へ入る。所在地:神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1三渓園の案内図右回りに回り、2時間コースを歩くことに。三渓園の歴史。明治初年 ・原 善三郎(原家初代、三渓の義祖父)、後に三渓園となる一帯の土地を購入明治20年代 ・善三郎、山上に別荘 松風閣を建てる明治35年頃(1902) ・善三郎が死去し(明治32年)、この頃から三渓は庭園の造園に着手。住まいとして 鶴翔閣(かくしょうかく)を建て、三渓園の地を本宅とした。昭和14年(1939) ・三渓、死去昭和28年(1953) ・原家から財団法人三渓園保障勝会の管理となる園内案内図内苑エリア:原家が私邸として使用したエリア。江戸時代初期に建てられた、雁行形 に3棟が連なる外観の臨春閣を中心に、古建築で構成された微細なつくりの庭 が広がる。外苑エリア:明治39年(1906)、一般に向けて公開されたエリア。京都・燈明寺から 移された室町時代の建築・三重塔がランドマークと配され、ウメ・サクラ・ ハナショウブ・ハスなど、四季折々の花を中心に楽しめる大池と旧燈明寺三重塔蓮池と奥に睡蓮池が連なる手入れされた松曇天で写真が今一だが大池に鴨が泳ぐ小高い丘に『旧燈明寺三重塔』をズームアップ ー 三渓園 昔むかし ー明治末頃の園内現在では園のシンボルとなっている三重塔も、まだ移築される前の珍しい写真。園内には当初2,000本もの梅の木が東京・蒲田、川崎・小向(御幸)、横浜・杉田の梅林から移植されたが、数年後には暴風により破壊的な被害を受けた。次いで植えられたのが花菖蒲である。その数は、96種10万株であったといわれるが、これも海からの塩害により長くは定着しなかった ー 三渓園 昔むかし ー大正初期頃の園内現在と比較すると、もの足りないほどすっきりとした園内の景観である。主園路沿いに松の木が植えられたのは近年のことで、今では雑木となっている三重塔の山は往時黒松ばかりであった。『鶴翔閣(かくしょうかく)』(旧原家住宅・横浜市指定有形文化財)鶴翔閣(旧原家住宅)は原富太郎(三渓)が明治30年代に自宅として建てた住宅9:06鶴翔閣前の紅葉茅葺の鶴翔閣鶴翔閣内建築年:明治35年(1902)、平成12年(2000)修復。三渓が住まいとして建てた、延床面積950㎡の規模を誇る建築。三渓と交流のあった文化人や政財界人らが多く出入りした場所としても知られている。第二次世界大戦中に改築されたが、近年の復旧整備により創建当初の姿にもどされた。現在では、さまざまな利用に対応可能な貸出施設として活用されています紅葉の古建築公開重要文化財2棟 春草蘆・聴秋閣期間:11/23~12/8内苑エリアへ向かう ー 三渓園 昔むかし ー大正はじめ頃の御門内苑は、戦後に初めて一般公開されたエリアで、それまでは原家の私邸として、一般には立ち入れなかった。よって当時三渓園のみやげ物として売り出された絵はがきにも内苑の写真はほとんど見られない。御門は、当時 ”桃山御殿門” あるいは ”桃山御門” と呼ばれ、これは奥の臨春閣が豊臣秀吉築造の桃山建築・聚楽第の遺構とされていたことによる呼称であった。戦後、臨春閣は江戸初期に建てられた紀州徳川家の別荘 ”巌出御殿” と判明したため、”桃山御門” は ”御門” となった。写真には、現在ある脇のくぐり戸が見られず、また左に受付所のような建物が付設されている現在の『御門』御門(横浜市指定有形文化財)この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三渓園に移築されたものです。規模の大きい薬医門(本柱の後方に控室を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の遺構として貴重なものです御門越しの紅葉白壁と紅葉9:13三渓記念館建築年:平成元年(1989)建築家・大江宏(1913~1989)の設計による展示施設。若き芸術家の支援や大震災後の横浜の復興など多方面にわたって尽力した三渓の業績やゆかりの資料・美術品などを紹介。茶席 ”望塔亭” 、ミュージアムショップも併設している茶席『望塔亭(ぼうとうてい)』三渓記念館ロビーにある茶席。気軽に本格的なお点前(立札スタイル)での抹茶が楽しめる(10:00~16:00)時間が早くオープン前の茶席右に『臨春閣』、最奥に『聴秋閣』『亭榭』と『聴秋閣』をズームアップ臨春閣(りんしゅんかく)建築年:江戸時代 慶安2年(1649)、移築年:大正6年(1917)紀州徳川家初代藩主の頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築。内部には、狩野派などの絵師による障壁画の複製(オリジナルは三渓記念館で保存・展示)や洗練されたデザインが各所にみられます池には大きな鯉が旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)建築年:桃山時代 天正19年(1591)、移築年:明治38年(1905)旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。この建物はその寿塔の覆堂で、明治38年(1905)三渓園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、龍翔寺にあります9:22旧天瑞寺寿塔覆堂を振り返る 三渓園ー続く
2020.01.10
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今日11/12(火)は、早朝から藤沢の旅友宅へイチゴを頂きに向かう。11/12(火) 7:50旅友の畑から富士山を望む。いつも思うのだが、国道467号線の電柱&電線が美観を損なっているのが残念だが。昨夜の雨で富士山の雪の量が増えたようですイチゴの苗を10数株頂く。イチゴの苗は、長男は親から悪い遺伝子を引き継ぐので、次男から孫が良いと。私は長男のため親から悪い遺伝子を引き継いでいるのか。ミツバチの古い箱に入れて持ち帰る持ち帰り早速庭の花壇に植えつけるいつものように、二人でコメダ珈琲店 藤沢亀井野店にてモーニングを ①10月に行った、ブルガリア・ルーマニアの反省 ②ブルガリア・ルーマニアの旅友との飲み会、11/28(木)の確認 ③次回、東海道53次の弥次喜多道中の予定、11/23(日)?から二泊三日 ④併せて、香嵐渓へ行く ⑤来年はギリシャヘ行こうと等々の打ち合わせで一時間を過ごす9:42国道1号線(藤沢バイパス)からの「藤沢市 石名坂環境事業所」の煙突国道1号線の城南交差点からの富士山交差点は現在工事中で、建設機材が立ち並ぶ帰宅途中、富士山がきれいに見えるので、赤羽根からの富士山この写真はスマホですSONY DSC-HX90V で撮影雪の稜線が麓へ下りている、今年の初冠雪は遅れたようだが又、先日11/9に行った萩園へ富士山とコスモスを見にまだ綺麗に咲いていた訪れていた人に聞くと、台風15&19号で水に浸かったが元気に咲いていると富士山とのコラボを求めたが、ここでも電柱&電線が美観を富士山、大山がきれいに。話を聞くと来年は栽培されるかどうか不明とのこと近くのざる菊畑へ東方向のコキアとざる菊コキアと富士山コキアを前景にざる菊畑来年度はこの倍になるとのことで今から楽しみ小出川そばの公園から首都圏中央連絡自動車道と新湘南バイパスの茅ヶ崎中央JCT小さな公園があり四季折々の花を楽しませてくれる。春先から、河津桜、紫陽花、彼岸花、ざる菊、コスモスと咲く公園の掲示板には会員募集「花とともにくらす会」 ・一般会員 年会費 1,000円 ・賛助会員 年会費 一口1,000円 ・里親・オーナー 一口3,000円「ざる菊まつり中止」のお知らせ上流には水鳥が水の中にはシラサギ小出川の下流以前は河川敷には葦が、土手には雑草が生い茂っていたが、ここの某会長が河川敷と土手の草を1万㎡程?刈り取っているとのこと。このため豪雨時の水もスムーズに流れ被害を少なくし、また散歩をする人が多く近くの住宅街からの人が訪れている公園からの住宅規制地?11/12(火) 16:50妻から夕焼けがきれいだといわれ急遽、赤羽根へ車で出かける。既に陽は沈んでいたが富士山がきれいにこの辺りも住宅規制地?で農地が広く保存されているこのため富士山の撮影ビューポイントであるここでもダイヤモンド富士が見えるのか16:56次回はもう少し早く訪れて陽の沈みを撮影したいものです追 加茅ヶ崎市内の遺蹟の発掘調査現場茅ヶ崎にはいたるところに遺跡があるようです深さは2mから3mか? END
2019.11.15
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11/9(土) 午前中買い物の後、先日のタウンニュースに載っていた「ざる菊」を見に茅ヶ崎西部の農地へ。タウンニュースに「小出川ざる菊」の記事。茅ヶ崎市の北西部を流れる小出川沿いで、花とともにくらす会(金子孝一会長)が丹精込めて育てた黄色や赤の「ざる菊」が見頃を迎えているとざる菊とコキア北側の高架は首都圏中央連絡自動車道後方は茅ヶ崎中央JCTここは小出川の西側で、春には河津桜が咲き、紫陽花と市民の目を楽しませてくれる昨年は小田原市のざる菊を見に行ったが近郊でもあったのだ皆さんスマホを持ち撮影。天気の良い日は西に富士山、大山が見えるのだがこの日は曇り空で見えず一株に数千個の小菊が重なり合い、大きな丸い形を作るその姿が、ざるを伏せたように見えることから「ざる菊」と呼ばれるようになったコキアも色を染め会長の話では「今年は台風や大雨の影響で、割れてしまった花があった」とこのため、毎年開催していた「ざる菊まつり」を中止したとコキアの背が高くなっているが、これも丸くなるのだが今の時期綺麗に咲いているが、これまでの管理が大変とのこと折しも金子会長がおられ話をしたが、苗は紫陽花の咲く頃に販売している栽培面積を広くしたいが、管理しているメンバーは70歳後半で若い人がいなくて困っているとので、会員にならないかと誘われたが。昨年行った平塚市の土屋地区では小学校のクラスで管理して咲かせていた。『西湘のざる菊(その3)、平塚市』へリンク願います。前回のブログをよく見ると小田原、平塚の帰りに立ち寄っていたようです。ここからはオッカナイが撮影ズームアップ(女性の感性は違う)前ボケを入れざる菊は自然に丸くなる梅雨時には菊の間に雑草が生い茂る高架は茅ヶ崎中央JCTからの新湘南バイパス。来年は栽培面積を倍にするとのことで今から楽しみ近くでは、満開のコスモス畑同じタウンニュースに載っていた「秋晴れのコスモス」茅ヶ崎養護学校西側「萩園ファーム21」のコスモス畑が11月3日まで一般開放され、多くの人でにぎわったと北側の高架は首都圏中央連絡自動車道ここは「ざる菊畑」の西側に位置するコスモス畑コスモスは自由に摘み取ることができる毎年10月末から11月初めにかけて1万本ほど開花するコスモス最近これだけ開花しているコスモスは見たことがない。そういえば昨年、立川の昭和記念公園で見たか!キバナコスモスもいいがピンク一色も良いものですネ話を聞くとこの綺麗な風景も来年は見れないかも。いろいろと事情があり栽培をやめるかもとオーナーが言っていると左方向には富士山が見えるのだが ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11/1(金)の早朝、ルーマニア・ブルガリアの旅から帰り、畑の収穫に出向く。11/5(火) 9:20霜が降りる前にサツマイモの収穫サツマイモを掘っていると、上で小さな連続音がしたのでその方向を見ると、フェンスの上にジョウビタキのオスが飛来俺を撮ってと言っているように私を中心に周りを飛び回るジョウビタキは自分の縄張りを決めていると(オッカナイ談)小鳥は目が映らないとしばらく止まってくれるので撮影しやすい鳥であるちなみに我が庭にはジョウビタキのメスが飛来する2時間ほどで掘り終える、今年の収穫は良好であった我が畑のコキアも咲き終える午後、玉葱の苗床をつくる、165本11/8(金) 11:30玉葱の苗を購入、158本植え付ける、苗は一本7.5円 END
2019.11.14
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掛川市の潮騒橋から続日本百名城の「浜松城」へ向かったが、弥次さんが途中にある遠州三山の「可睡斎」へ行ったことがないので行こうと。私は以前香嵐渓の帰りに遠州三山へ立ち寄っていると言うが。帰宅後のチェックで平成24年(2012)11月25日(月)に訪れていた。9/24(火) 15:02車を総門左の駐車場に止める。秋葉総本殿可睡斎総門に工事シート萬松山 可睡斎所在地:静岡県袋井市久能2915-1曹洞宗の寺院で寺紋は丸に三つの葵である。山号は萬松山で本尊は聖観音。江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹と同等の権威を持った遠州三山の一つ。総門の手前に「徳川家康公深きゆかりの禅寺」の石柱総門は老朽化による補強工事と思ったが、帰宅後写真を見ると「秋葉総本殿可睡斎総門新築工事」の看板であった。工事期間:2019年4月1日 ~ 11月中旬までネットで調べると、昨年の9月30日の台風24号で倒壊した総門の写真が可睡斎境内ご案内図主な行事 ・初詣 ・ぼたん祭り 4月中旬~5月上旬 ・奥之院花火大祭 8月18日 ・火防大祭 12月15日~16日(火わたり・七十五膳献供)おもしろいっぱい袋井のまちロードマップ遠州三山の紹介:油山寺、法多山、可睡斎総門を入り右手にお手洗洗心閣:中では土産物を販売している【可睡斎の由来】600年前(応永8年)如仲天誾禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹。十一代住職仙麟等膳大和尚は、幼い家康を戦乱から救うことがあり、後に家康が、浜松城主となった折、報恩のため城に招かれた。その席でコックリコックリ居眠りを始めました。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡(ねむ)る可(べ)し」(御前にて睡っても無礼ではないとの意)と言い「可睡和尚」と愛称せられ、寺号東陽軒から可睡斎と改め、後に拾万石の待遇と徳川幕府最初の僧録司という職を与えられた【火防守護の総本山】秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から1,300年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の・・・・・・・・石段を登り「山門」日本では寺院の入口の門の左右に仁王様が立っている。像客は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している山 門禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して三つ、あるいは参道に沿って三つ設けられたところから三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた可睡斎の四季折々本堂、おさすり大黒、右側に総受付がある「瑞龍閣」手水舎、本堂山門を入り左側に新設(平成28年?)された「活人剣」可睡斎には、日清講和記念碑の「活人剣」がある。それは、明治31年奥の院に通じる小道のほとりにある「六の字六」の前に建立された。剣の創作者は、明治を代表する彫刻家、高村光雲である。しかし、第二次世界大戦中に、金属製の剣部分は供出され、石造の基壇と副碑のみが創建当初の面影を残し、長いこと寂しく佇んでいた。その後募金活動を行い、足掛け4年の歳月を経て竣工の運びとなった李鴻章が交渉会場からの帰途、暴漢に狙撃され顔面を負傷する大事件が発生した。佐藤は勅命により直ちに下関に赴き、全身全霊で李の治療にあたり、見事に快癒させて、条約は無事結ばれた左:日清戦争の清国講和全権大臣として来日した李鴻章右:陸軍軍医総督医学博士佐藤進(順天堂第三代堂主)おさすり大黒、瑞龍閣福徳さずかる「おさすり大黒様」可睡斎輪蔵堂輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または「一切経」と称す)を収め置く、寺院建築において古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです本 堂本堂前から山門本堂左奥に位置する「秋葉総本殿三尺坊 御真殿」御真殿への石段は茶色に染まり、鉄分の多い水を撒いているのか石段を登り「秋葉総本殿三尺坊 御真殿」御真殿前から左に本殿本 殿位牌堂の佛様(観音堂)位牌堂慈母観音大書院、萬松閣遠州三山紅葉めぐり関東からもバスツアーがある弥次さんが御朱印を頂く山門に向って僧侶が列をなして山門を入る僧侶蓮の花柄小高い丘に瑞龍閣15:26新築工事中の総門 東海道53次の豊橋へー続く
2019.10.07
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掛川市の南部エリアにあるお城を見学後、同じエリアにある以前から行きたかった潮騒橋を訪れた。観光案内に記載されている「夕焼けの潮騒橋」9/24(火) 13:55菊川の河口に架かる「潮騒橋」所在地:静岡県掛川市国安地元の人曰く、珍しい構造の橋で建築好きな人がわざわざ橋を見る目的だけで、JR掛川駅から(約16km)タクシーで来る人もあると。我々はここまでマイカーで来たが菊川河口近くにある『高松川水門』とその後ろに巨大な風車群。 菊川左岸支川の高松川の合流点に、菊川本川による洪水や海からの津波・高潮による高松川への逆流防止施設として、平成4年度に高松川水門を建設したのだと。水門を入るとマリーナ係留地があるのか猫ちゃんがお出迎えつるし橋「PC吊床版橋(つりしょうばんきょう)」型式:4径間連続上路式PC吊床版橋竣工:1995年(平成7年)3月設計:(財)静岡県建設技術センター 施工:住友建設㈱(現三井住友建設㈱)、㈱ピー・エス日本最長、世界初の連続上路吊床版橋。土木学会で平成7年に「土木学会田中賞」を受賞しているとPC吊床版橋とは、プレキャスト(PC)床版を両岸のアンカーブロックから張り渡したPCケーブル(PC鋼材)で吊っている橋。この構造から、中央付近で飛び跳ねるとゆっくりと揺れを体感できる。橋を渡りながら願い事をするとその願いが叶うと言われている橋長:232m 幅員:3.0m橋格:群衆荷重(350kg/㎡)歩道部高さ:実測18m(中央橋脚で砂浜から)潮騒橋の銘板浜松御前崎自転車歩行者専用道路橋。ネットには富士山も見えるとのことだが、天気が悪く風力発電の風車とのコラボ。弥次さんが盛んに強度的にどうなのかiPhonで調べていたが潮騒橋の東側にある「大東温泉シートピア」所在地:静岡県掛川市国安2808-2入場料510円でお風呂とプール、グラウンドゴルフが楽しめる。風景の良い海岸沿いにあるので入浴前に砂浜を散歩するのも良いと浜松方面左遠方に「浜松アクトタワー」が見える、右側は、大東総合運動場浜松市街地をズームアップ「浜松アクトタワー」橋の手前に看板潮騒橋の橋上から菊川の上流を望む国道150号線に架かる橋大東海洋公園歩きか自転車しか渡れない橋である河川許可票占用期間:平成5年3月31日 ~ 平成35年3月31日とあるが潮騒橋の径間長さ:55+61+61+55m支間長では広島県世羅郡にある「夢吊橋」が147.6mで世界一近くのマリーナ係留の舶が出入りするため、舶路高9.5mが確保されている今日は朝から「つるし雲」を見たり「つるし橋」を見たりと「つるし日」であった14:15近い将来東海地震が予想されているが、その時この水門は強度的に大丈夫なのか。東日本大地震では水門が無残にも倒壊していたPC吊床版橋の関連の橋として『夢吊橋』所在地:広島県世羅郡世羅町大字小谷竣工:1996年(平成8年)3月施工:住友建設㈱(現三井住友建設㈱)、設計:新日本技研群集荷重:0.2t/㎡1996年この橋も土木学会田中賞を受賞している広島県東部の芦田川水系の八田原ダムにある歩行者専用の吊り橋PC吊床版橋の中では支間長が世界一長く、ギネス・ワールド・レコード社により認定されているこの橋は私の故郷の奥にあり十数年前に帰郷の時、渡ったことがある橋である。ネットで調べると歩くと揺れを体感できると、確か揺れていて怖かった潮騒橋の後は、続日本百名城の「浜松城」へ向かった。 東海道53次の豊橋へー続く
2019.10.06
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先日の15日(日)に小出川へ彼岸花を見に行ったが、まだほとんど発芽しておらず、この日、朝目が覚めたら天気がよかったので車で向かう。9/19(木) 7:00小出川 ”彼岸花” の看板小出川沿い ”大黒橋” からの彼岸花観賞コースをお楽しくだし!観賞期間:9月下旬 ~ 10月上旬(見頃:お彼岸の頃)小出川の大黒橋4つの会場をつなぐスタンプラリーがあり先着者には景品がプレゼントされる。9月22日(日) 9時から15時まで ①遠藤会場 ②打戻会場 ③おおぞう会場 ④せりざわ会場今年のパンフレット第12回 小出川彼岸花まつり9月22日(日) 10:00~15:00 小雨決行 雨天時順延パンフレット裏にはスタンプラリーおすすめスポットの案内大黒橋から下流側ここから下流側に遠藤会場(メイン会場)があり、9月22日(日) 10:00~ に式典が行われる小出川に架かる大黒橋、この先の交差点が「刈込」上流側の川幅は狭い大黒橋近くではようやく芽を出してきている。彼岸花は球根で夏は休眠しており、秋口に芽を出して花を咲かせる。今年は例年より10日程遅れているようです。彼岸花は発芽してから、10日 ~ 2週間で開花すると道祖神遠藤会場近くの小出川の下流側、遠藤会場はメイン会場で22日は模擬店が出る空は秋空か?幟が立ち遠藤会場近くではチラホラと咲いている。花後は葉のみが残る花に露が付きズームアップして露を追うがトリミングしてアップ白の彼岸花が一輪咲いていたつゆくさ小出川沿い大黒橋から追出橋まで3kmの彼岸花コース栗の木実がはみ出し収穫時か?下に落下したものをイガグリから出して収穫、今年も田舎から送って来るか?彼岸花が発芽ニラの花遠藤会場から下流の小出橋ここからは富士山が見えるのだが、この辺りは彼岸花の発芽が遅い草の中から発芽10日後位が見頃になるのか道路には立て札小出橋近くの畑の里いも小出橋から川沿いに下り振り返るこの辺りも発芽が少ない大庭獺郷線の「打戻会場」から稲穂も実り彼岸花まつりの日は稲刈りか?大庭獺郷線沿いの畑にはキャベツが育ち小出川の新道橋近く神奈川県立茅ヶ崎里山公園の北側今年はコスモスの成長も遅い感じだがいつもはコスモス、彼岸花が咲いているのだが、今年は開花が遅いコスモスも花数が少ないズームアップ富士山の頂上が見えるこの週末には稲刈りか道路脇に道祖神新旧の道祖神が前後して9月22日の彼岸花まつりには模擬店も出るので、3kmの観賞コースを歩くか? END
2019.09.20
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梅雨の合間の天気の良い日 6/17(月)の午前中、今が盛りの花菖蒲を撮影に藤沢市と、綾瀬市の境にある『蟹ヶ谷公園(カニガヤコウエン)』を訪れた。ここは冬場に、野鳥のルリビタキを撮影に訪れる場所でもある。6/17(月) 10:35蟹ヶ谷公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡905-10公園案内図。上側に『??上水道』が隣接する駐車場の横に管理棟小高い丘に芝生の広場。天気がよいと富士山が見える丘である広場から湿生地に降り、木道の遊歩道。湿生地の東側から西を望む。花菖蒲が植えられているが少々遅かった花札があったが花と一致しておりません今回のアップ写真のレンズは、100-400mmレンズを使用湿生地の中場から東側湿生地の中場から西側。ハスの花の開花にはまだ早かったが、カワセミも飛んでくる東側の木道をズームアップ先日行った熱海のジャカランダの木の葉に似ていたが『ネムノキ』であった葉の間に花が咲きネムノキの花が天に向かって、これから咲き始める西側から東を望むハナショウブは、江戸後期に約400品種を作出、江戸、伊勢、肥後で独特に改良紫陽花の道紫陽花も咲き11:15 小一時間の撮影で帰宅。 END
2019.07.02
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小田原城からの帰路、同行のKさんがiPhoneで「この近くの紫陽花の名所は?」で検索、中井町の「厳島湿生公園』がノミネートされ、二宮在住の先輩のOさんへ電話して誘い合流することに。その前に等覚院(藤巻寺)へ立ち寄る。6/6(木) 11:15真言宗 梅澤山 等覚院(藤巻寺)所在地:神奈川県中郡二宮町山西793旧東海道沿いに立つ古刹で、推定樹齢約400年という古い藤の木がある。徳川家光も上洛のとき、駕籠を停めてこの藤を見たといわれる今年の4/29(月)にその藤の花を見に来たおり、檀家の管理人の方から「紫陽花もきれいですよ」と言われていたので訪問したカシワバアジサイお寺の裏をJR東海道本線が走る11:21このあと先輩のOさん宅へ立ち寄り、合流して三人で移動。11:54厳島湿生公園(イツクシマシツセイコウエン)所在地:神奈川県足柄上郡中井町井ノ口1310水と緑に恵まれた町『中井町』この公園は、湧水を見ることができる面積2.5ヘクタールの公園で、園内は木道や四阿屋(アズマヤ)・水田が整備されており、自然観察や体験学習をすることができる。5月中旬から7月上旬にかけて、源氏や平家(ほたる)の幻想的な光の舞いを観ることができ、動植物にとって住みやすい環境となっている厳島湿生公園 花マップ池、湿原、木道、芝生、あずま屋、ポケストップ5ヶ所とジム1ヶ所と、四季折々楽しめる公園であると駐車場から公園を見下ろす駐車場石段を下り「厳島湿生公園」へ木道が整備され、正面に「厳島神社」。下る斜面に”ハチク(淡竹・はちく)がでており、先輩が採ろうかと。公園内の草花を、取らないで下さい!の看板木道にはカメラを構えた人がじっと。後で何を撮っているのかと聞くと「つばめの撮影」とのこと厳島神社境内からこの神社は、文化4年(1807)に建てられた天保11年(1840)、安政4年(1857)及び昭和62年(1987)に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命、倉稲魂命で、祭日は4月16日であったが、現在は、蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水にしかいない小動物が、今でも生息する湿原である成長とともに住みかを変える公園の水棲動物たち廻りより一段低い湿生公園トンボも飛び回り中井町 厳島湿生公園周辺あんない①厳島湿生公園②厳島神社③蓑笠(ミノカサ)神社のケヤキ④?????⑤軽便鉄道 下井ノ口停留所跡軽便鉄道 下井ノ口停留所跡馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革通称「けいべん」は、明治39年(1906)に湘南馬車鉄道㈱が吾妻村(現在の二宮町二宮)~ 井ノ口村(現在の中井町井ノ口) ~ 秦野町(現在の秦野市本町)間の道路9.6㎞に、巾二尺五寸(76.2㎝)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっている馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913)には動力を馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に替え、社名も湘南軽便鉄道㈱とし運転を開始したカワセミも飛来する(写真から)「あづまや」には他の年金グループの男女が新緑の湿生公園腕を組み何を考える・・・・・カワセミが飛来した12:22先輩のOさんが近くのスーパーから寿司弁当、ビール&お茶を購入木陰で小宴会を始めるが、ドライバーの私はノンアルコールここでも紫陽花が色づき金糸梅アゲハチョウ?の幼虫つばめが飛来して水面へ金糸梅と像水面を動き回る「???」トンボも多く飛び回っていた13:30 厳島湿生公園を後にする。先ほどの軽便鉄道の停留所が近くに三ヶ所あるとのことでブログ取材に行くことに。Kさんの話ではいつの日か芸能人が二宮駅から歩いたと。ネットで調べると「湘南軌道軽便鉄道跡を歩く 二宮から秦野」で歩く人もいるようだ。13:34軽便鉄道「下井ノ口停留所跡」軌道鉄道廃止後の現在、多くの区間は道路(県道71号の旧道)として残っており、神奈川中央交通の秦野と二宮を結ぶ路線バスが当時の軌道にほぼ沿って走っている軽便鉄道100周年記念として、平成18年(2006)に設置された。この附近には下井ノ口停留所があり、上井ノ口停留所との中間付近(井ノ口公民館の南側にある宮向自治会館)、列車を入れ替える「すり替え場」が設けられていた13:40軽便鉄道「一色停留所跡」この付近には一色停留所があり、もう少し北側には待避線の施設が設けられていた。二宮には、このほか、湘南軌道㈱本社の上屋が、今も当時の面影を残している二宮駅と、中里停留所跡がある秦野方面当時の沿線はわら葺屋根の民家がほとんどで、火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していた。中には火の粉が心配で、梯子を屋根にかけっぱなしにしていた家もあったと。客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が、貨車には葉たばこ・たばこ製品木材・綿糸など、この地域の産品が多く積まれ運ばれていた13:50軽便鉄道「中里停留所跡」県道71号の「中里交差点」中里停留所跡この付近には中里停留所があり、もう少し北側には待避線の施設が設けられていた。軽便鉄道は、大正7年(1918)には湘南軌道㈱へ軌道特許権が譲渡され、大正10年(1921)に秦野自動車㈱が秦野 ~ 二宮間の営業を開始、大正12年(1923)の関東大震災による軌道の損害、昭和2年(1927)の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、昭和8年(1933)に旅客運輸を昭和10年(1935)には軌道全線の営業を休止し、昭和12年(1937)に軌道運輸事業を廃止した【追加:浜松の軽便鉄道】軽便鉄道は、先日5月23日に東海道53次で浜松宿を訪れたときにも見た。ここの軽便鉄道は明治42年から、浜松 ~ 中野町の11駅間を走っていた”けいべん” と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車一輌を引いて、家並の軒先すれすれをのんびり走っていたとこのあと、先輩のOさんを自宅に送り帰路に着く。お昼の「寿司弁当&飲み物」御馳走になりました、ありがとうございました。今日一日の歩行数は、9,665歩でした。明日の朝、6月19日(水) ~ 26日(水)まで、『歴史を感じる 中国・東北地方7名所大周遊8日間』へ行ってきます。 6/6のヒロ散歩ーEND
2019.06.18
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小田原城の『あじさい・花菖蒲まつり』を見た後、本丸広場へ。6/6(木) 10:00常盤木橋から石段を上り常盤木門へ小田原城案内図小田原城と小田原合戦攻防図天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城が、豊臣秀吉の大軍に包囲された。その時の豊臣方の布陣常盤木門常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっている。元禄16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多聞櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去された常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も成長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もその内の一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971)に再建した常盤木門から銅門を望む天守閣左は、大久保家:大久保藤、右は北条家:北条鱗多くの外国人観光客が訪れていた15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏の小さな山城だった小田原城は、明応4年(1495)、後の北条早雲が大森氏を攻め滅ぼしてから、北条氏の居城となった本丸跡小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていた。本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建された。現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を超えています本丸広場からのあじさい本丸広場から東堀花菖蒲園を望む常盤木橋の下にある「小田原城跡のイヌマキ」この木は幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ地上5mのところで四支幹に分岐している。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも本丸の巨松と並ぶ双璧ですイヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます本丸広場から、馬出門(ウマダシモン)へ向かう。銅 門(アカネモン)江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元した。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれている。地震などによる被害を度々受けながらも、その都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体された解体される前の銅門(明治5年)住吉橋(スミヨシバシ)から銅門住吉橋(スミヨシバシ)銅門 開門時間:午前7時から午後9時照明時間:日没から午後10時まで住吉橋と銅門馬屋曲輪と馬出門馬屋曲輪に設置された「小田原城案内図」天守閣への赤い線が小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられている。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張された。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達した。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続馬出門馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文16年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで継続した。石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門からなります馬出門土橋(めがね橋)から馬出門馬出門から天守閣を望む馬出門土橋(めがね橋)から学橋馬出門土橋(めがね橋)と馬出門JR小田原駅方面の桜並木馬出門土橋(めがね橋)10:25三の丸小学校10:35南入口の駐車場から「小峯御鐘ノ台大堀切」へ小峯御鐘ノ台大堀切へ小峯御鐘ノ台大堀切東堀現在、小峯御鐘ノ台大堀切東堀と呼んでいる堀は、本来は三の丸新堀の一部であり、もともとは小田原城の外郭の一部でもありました。その後天正15年(1587)から、総構堀とともに小峯御鐘ノ台大堀切中堀・西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る一連の堀切としての役割を担うようになりました現在、堀は延長280mの長さで堀底が散策路となっており、途中2箇所の「横矢掛り」を確認でき、堀や土塁の規模が体感できる現況土塁上から測った堀幅は25~30m、深さはおよそ8~10mですが、発掘調査で確認された堀底までを含めると深さは12~15mであったことがわかっている小田原を守った総構と三本の堀切戦国時代の小田原城は、小峯御鐘ノ台(標高123.8m)を頂点とし、周囲9kmに渡って堀と土塁を構築して外郭とした大規模な城郭でした。小田原城では、この外郭の堀・土塁を「総構」と呼んでいます。小峯御鐘ノ台は、尾根伝いに箱根山と連なっているため、尾根上の往来を遮断するための大規模な堀切が構築されています。堀切は三本あり、現在「東堀」「中堀」「西堀」と呼んでいますが、東堀はもともと三の丸新堀の一部であり、・・・・・・・・堀法面の角度は50~60度で、堀底に堀障子を有する障子堀であったことも確認されています。障子堀を歩く旅友のKさん三の丸外郭新堀土塁方向日蓮宗 蓮船寺 蓮船寺のあじさい10:47蓮船寺本堂境内の紫陽花 二宮へ
2019.06.17
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熱海のジャカランダを見た後、一般道を走り小田原城の「あじさい・花菖蒲まつり」を訪れた。6/6(木) 9:30小田原城近くの駐車場に車を留め小田原城へ。報徳二宮神社の鳥居所在地:神奈川県小田原市城内8-10南入口の「御感(ギョカン)の藤」樹齢は約200年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、5月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観御感の藤の由来この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治16年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられている。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになった反対側から見ると根元が複雑に絡み。大正11年3月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませている小峯橋(御茶壷橋)この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」という。現在では石橋に架け替えられ「御茶壺橋」という名でも親しまれている小峯橋(御茶壷橋)御茶壺橋という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壷と購入代金が運ばれた。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気のないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされる小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壷を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと言われている内堀の蓮、これから咲く、左は藤棚あじさいが咲き小田原汚水マンホール小田原城跡のビャクシンビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています樹高約15mの「ビャクシン」銅門(アカガネモン)広場に展示された作品「大浄 空(DAIJO Aki)?」銅門(アカガネモン) 土塀模型銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たした常盤木橋小田原城『あじさい・花菖蒲まつり』花菖蒲花の名前が書かれていなかったので名前はわからず常盤木橋の下からの東堀花菖蒲園まつりでテントが張られ斜面にはあじさいが植えられハナショウブはアヤメ科アヤメ属の多年草であるハナショウブは初夏、梅雨の中でも、ひときわ華やかに咲き誇ります野生のノハナショウブをもとに、江戸時代を中心に数多くの品種が育成され、現在2,000以上あるといわれています優美な花形としっとりした風情が魅力で、色彩の魔術師とも呼ばれるように、花色の変化に富んでいる太陽光発電でライトアップの電源を貯蓄?ハナショウブは、アヤメやカキツバタに似ていますが、花弁のつけ根が黄色で、アヤメのような網目模様はなく、葉幅は狭く、葉脈がはっきりと隆起している点でカキツバタと区別できます花形は、三英咲き(サンエイザキ)と呼ばれる3枚の弁が大きく目立つものと、6枚の弁が広がる六英咲き(ロクエイザキ)、そして八重咲きなどがあります品種の育成地によって、江戸系、伊勢系、肥後系の3タイプに大別されますが、これらの交配種もあり、さらに、種間交配によって育生された黄花品種や、アメリカなど海外で育成された品種もありますなお、端午の節句のショウブ湯に利用されるのは、サトイモ科のショウブで、ハナショウブとは別の植物ですいろんな色のアジサイが斜面に植えられていたナハショウブは鉢に植えられて並べられていた鉢の下には水が流れ東堀花菖蒲園と常盤木橋珍しい品種だがあじさいもブルーが良いのか常盤木橋の南側本丸東堀跡江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛土により堀の形を表現し整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残りと言えます10:00常盤木橋からの東堀菖蒲園 小田原城内へ
2019.06.16
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ジャカランダは、世界三大花木(カエンボク、ホウオウボク、ジャカランダ)のひとつで、ノウゼンカズラ科の高木です。15mほどに成長し、春先になると、枝先につり鐘形の淡い紫色の花をつけ、満開時には木全体を覆うほどに花が咲きます。今年2月にポルトガルへ行った時ジャカランダ並木があり、一度見てみたいと思っていたので、いつもの旅友Kさんと朝6時半に我が家を出発して熱海へ向かった。 6/6(木) 7:48国道135号線沿いの駐車場に車を止め、ジャカランダ遊歩道へ向かう。道路沿いにジャカランダの木木を見上げると国道135号線の熱海港方向ジャカランダ遊歩道に貼られたポスター。『ATAMI ジャカランダフェスティバル2019』 開催日:6/8(土) ~ 23(日) ジャカランダライトアップは期間中、18:00 ~ 22:00場 所:ジャカランダ遊歩道、お宮の松エリアJR熱海駅から歩いて約10分ジャカランダ:ノウゼンカズラ科。中南米原産の落葉高木。。ラッパ形で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種があるジャカランダ遊歩道フェスティバルは、8日(土)からの開催で準備も整いジャカランダの葉はシダにも似ていて、とてもやわらかい感じ。ジャカランダは熱帯の中南米に多く分布し、街路樹として知られている花先にはまだ蕾があるノウゼンカズラ科だけに、花は釣り鐘形香りはしない?キンシバイ(金糸梅)オトギリソウ科オトギリソウ属の半落葉低木ブーゲンビリアとジャカランダ満開にはまだ早い熱海市はポルトガルの「カスカイス市」と姉妹都市今年2月に訪れたが、リスボン県の都市で国際的なリゾート地である木の上に咲くジャカランダジャカランダ遊歩道にはいろんな花木が植えられている。カシワバアジサイブラシの木キング・プロテア(学名:プロテア・キナロイデス)。樹 高:1~3m程度原産地:南アフリカ 開花期:4 ~ 10月花言葉:王者の風格、甘い恋プロテアは花の王様と賞賛される南国の常緑低木で、花名は自由に姿を変えることができるギリシャ神話の海神プロテウスが由来。南アフリカには多種類のプロテアが自生しており、中でもこの「キング・プロテア」は花が大きく優雅であることから南アフリカ共和国のシンボルであり国の花となっているサンゴシトウ花 期:6 ~ 8月花言葉:優しい気持ちお宮の松尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し命名された。この松は二代目で、樹齢はおよそ百十数年とのこと初代「お宮の松」寛一お宮之像紫陽花も咲き寛一お宮の汚水マンホールジャカランダ遊歩道に咲く百合芯をとらえるいろんな百合が植えられていたジャカランダ遊歩道に咲く花バス停は「お宮の松」6/8(土) ~ 23(日)の18時から22時まで「ジャカランダライトアップ」される紫色の花が幻想的になるのか日本で春の訪れを告げる花と言えば桜ですが、ジャカランダは桜の花のようにあっという間に散ってしまうことはなく結構長持ちするとのことまた花が散ってしまった後も、地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになり、町並みに彩りを与えている。ちなみに、日本では、ジャカランダの花の形が桐の花にも似ているため、「キリモドキ」と呼ばれることもあるようです海岸へ出る日本百名城、続日本百名城にも選出されなかった「熱海城」。熱海港沿いにある「ホテルニューアカオ」、「後楽園ホテル」熱海沖に浮かぶ初島熱海サンビーチと真鶴半島を遠望する熱海ムーンテラス餌を待つ鳩ヨットハーバー豪華なヨットが係留されていたアガパンサス:和名:紫君子蘭(むらさきくんしらん)。別 名:アフリカンリリー 原産地:南アフリカ科属名:ヒガンバナ科 アガパンサス属梅雨の時期に花開くアガパンサスは、紫や白など涼しげな色合いで見る人を和ませてくれます。西洋では「愛の花」とされ、恋や愛にちなんだ花言葉を持っている多年草で細長く伸びた茎の先から放射状に花を咲かせ草丈は30 ~ 150cmまで成長ジャカランダの木が道路沿いにもう少し多くあると見応えが出るのでは8:43駐車場近くに戻るまだ熱海のジャカランダの木は若木が多く、街路樹となっていないので本場を見てみたいが中南米は遠い、宮崎県日南市にもあるが。花が散ってしまった後も、地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになるとのことで、また見たいものです。55分の滞在でジャカランダを楽しみ小田原城へ向かった。オーストラリアのジャカランダ(ネットから)。地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになるデジブックでも公開しておりますので「熱海のジャカランダ」をクリック願います。 小田原城の花菖蒲まつりへ
2019.06.15
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我が家の玄関先に咲く胡蝶蘭。現役時代に会社からもらい受けた10鉢ほどある胡蝶蘭が今でも咲いている6/1(土) 7:44 車窓からのJR御徒町駅から上野駅間。孫の運動会があり出番が早いとのことで早朝に出かける車窓からの上野公園の西郷隆盛像7:49 東京メトロ日比谷線の「上野駅」へ地下道にきれいに東京メトロ日比谷線へ7:52 日比谷線の上野駅ホーム北越谷行きの電車8:00 国道4号線の「入谷交差点」言問通りに咲く紫陽花8:03 言問通りからの東京スカイツリー運動会は9時から開催だが、8時過ぎには校門前に到着。入門許可証をもらい校内へ、この日は薄曇りで暑くもなく運動会見物にはよかった。小学生の全校数は400~500人か? その孫に多くのジジババが応援に、私もその中の一人だが。最近は小学生がらみの事件が多く、詳細なブログアップができませんが感動した一部だけをアップさせていただきます。朝の開会式の挨拶も、近隣の住民の方のことを考えマイクを使用せず。9:24 3年生の「80m走」で孫は一位でゴール一年生の時はリレー選手に選抜されたが・・・・・・10:083年生の「エイサー・ケチャンバ」みんな元気に飛び跳ねて紙の太鼓を持ち飛び跳ねる校内の沈丁花11:235、6年生の「敵将討ち取ったり!!」まず一対一で帽子の奪い合いを行い、最後は男女に分かれて敵将の兜を奪いあう競技昼食は講堂内で弁当を頂く。午後の部は13時から始まる。最近は熱中症対策で学校も気を使っているようで①子供たちの控え席には黒いネットで覆い直射日光があたらないように②定期的に霧を噴霧③十分に水の補給をするようにと放送14:215、6年生の組体操ブリッジ、できない子もいたが倒立最後は全員が中央に集まりウエーブを組体操と言えば昔は5段ぐらいに組み上げていたが危険とのことで現在は殆ど中止最後は、4、5、6年の「高学年リレー」。リレーで一位になった選手には、令和最初とのことで全員にメダルを授与された。紅白の戦いは、孫の紅組が勝ち、孫にとって初優勝。閉会式の挨拶はマイクを使用していたが、聞こえる範囲の人へ今日一日のうるささを釈明する挨拶内容であった。運動会の開催でもいろいろと気を遣う世の中であることを痛感した一日でした。16:36運動会は15時に終わり、長男の家へ。12階からの東京スカイツリー国際通り、三社祭では神輿が浅草寺方面国際通りの入谷方面17:24西方面で、天気がよいと富士山が見えるとのこと。夕焼けも17:3217時半から夕食を予約しているとのことで国際通りへ国際通りから路地を、外国人観光客が多く17:43アサヒビールの本社ビル20:28孫は運動会で疲れ寝ていたが、運動会談議で盛り上がり夕食を終え店を出る20:50JR上野駅のホーム小腹がすき、「きつねソバ」を食べる21:04JR上野駅ホーム。21:04の電車に乗り帰宅自宅には22:30に帰宅、今日一日の歩数は、10,342歩で立ちっぱなしで疲れた。 END
2019.06.05
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山のホテルから箱根神社に立ち寄り、つつじを求めてホテル花月園へ。5/17(金) 10:24山のホテルのテラスで休憩する観光客。珈琲を飲みながらのんびりとつつじ&富士山を堪能できるポイント山のホテル本館内優雅なランチやティータイムを楽しめる10:26約一時間で山のホテルを後にするバス駐車場から多くの観光客が小田急 山のホテル神社通りの「山のホテル」入口10:31警備員が交通整理10:36芦ノ湖畔にある「箱根神社 平和の鳥居」外国人観光客が並んで記念写真を撮影平和鳥居の由来鳥居扁額の題字は前宰相吉田茂氏の墨蹟であります。・・・・・・・・・・・・・平和鳥居から箱根神社所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1手水舎鳥居と手水舎急な石段を上る参拝者本殿へは石段を上るが今回はスルー10:45箱根神社から、箱根町仙石原にある「ホテル花月園」へ向かう11:07ホテル花月園所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1244-2 TEL:0460-84-8621ホテル花月園玄関つつじまつり期 間:2019.5.10(金) ~ 5.19(日)駐車場&入場無料つつじが咲く頃に来たのは初めてのホテル花月園箱根の中でもつつじの名所として名高い、ホテル花月園のつつじ庭園庭園には赤白3,000株ものつつじが咲き誇る ホテル玄関先から玄関先の一段低いところにあるつつじ庭園赤白のつつじが何ともいえないつつじ庭園には椅子も置かれのんびりできる夜は20:00まで夜間ライトアップが開催される庭園を散策した後は、展望レストランで「優雅なつつじランチブッフェ」を。食べ放題! ソフトドリンクバー付き!価格:\1,800/60分(税込み) ランチ:11:30 ~ 14:00無料で見れるのが最高!三色のつつじが咲き乱れる庭園ズームアップ11:19約12分間と短時間であったが、ホテル花月園のつつじを堪能できた。山中城のつつじも見たいと思っていたので、向かうことにホテル花月園から箱根の関所経由、箱根峠を越え山中城跡へ。この時間には富士山は見えず。11:53バス停の「山中城跡」へ到着、駐車場には多くの車が駐車していた駐車場に車を止めて山中城跡へ行くがつつじはちらほら咲いていた。田尻の池障子堀(しょうじぼり)ここのつつじを期待したが遅かった富士山も見えず。つつじが満開だと・・・・・・・二ノ丸方面を望むまた来たいものですネ障子堀(しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。・・・・・・・・・開花時期を確認して再度来たいものです12:16バス停前の「山中城売店」所在地:静岡県三島市山中新田410前回来た時は月曜日で休日山中城売店内前回食べなかったので「寒ざらしだんご」と「ところてん」を食べる。寒ざらしだんごは「油で揚げているので熱いので注意してください」とおばさんから、ところてんも美味しかった!12:37平日であったが多くの観光客が訪れていたが、皆さん私と同じようにつつじを期待されて来られたのか13:30には帰宅したが、箱根路のつつじを堪能できた。次回は山中城のつつじを期待したい。 箱根のツツジ狩りーEND
2019.06.04
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つつじ園から、少し高台のしゃくなげ園へ向かう。5/17(金) 9:50ふじ棚のふじも咲き始め白と紫のふじ主なしゃくなげの種類:約20種300株。日本最古の輸入交配種群ゴーマー・ウォータラー花は大輪、白色で薄藤色が入り、ブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に作出。本品種は、岩崎小彌太が日本で初めて導入した西洋シャクナゲといわれているゴーマー・ウォータラー「小田急 山のホテル」があるこの地には、かって三菱4代目社長、岩崎小彌太男爵の箱根別邸がありました。岩崎男爵は別邸を明治44年(1911)に建てましたが、庭園を造るにあたり、多くのシャクナゲを英国から輸入しました。これが日本への洋種シャクナゲの最も古い導入ではないかといわれている。この「ゴーマー・ウォータラー」は、当時輸入された学術的にも貴重なシャクナゲの1株と見られ「日本ツツジ・シャクナゲ協会」にもその存在を認められたステラ・ウォータラー花は中輪で、紫がかったピンク、ブロッチは濃色で目立つ。葉は濃緑色で細長く裏毛が薄く生えている。商業的な生産はなく、栽培も非常に少ないと思われる希少品種。イギリスで1865年以前に作出現在のホテルの庭園には、約3,000株のつつじと約300株のしゃくなげが植えられていますが、これらも別邸を建築する際に男爵が植えたもので、樹齢100年以上の貴重な古品種が多数残っているフォーチュネイ中国に分布する野生種のシャクナゲ。7枚花弁のピンクの花が咲き、葉は長い。19世紀に中国からヨーロッパに渡り、多くの園芸品種の交配種となっている。この庭園には多数の株がある山のホテルには、ほぼ全園にシャクナゲ類が植えられているが、そのうちここ「シャクナゲ畑」はおよそ4,000㎡の範囲に、シャクナゲが植えらえている特に老樹になっている洋種シャクナゲは、ヒマラヤ地方産×北米産の品種がめだち、ヒマラヤ地方同志の交配種は現在まで残らなかったように観察されることは、日本の気候を考える上に重要な点と思われますと10:06しゃくなげ園から降りるつつじ園へ木の合間からホテル前のつつじ、後方に芦ノ湖入口には多くの観光客がホテル前にテラスがありコーヒーを飲める安藤楢六翁の像碑 文当社の前身小田原急行鉄道は昭和2年に開業、その後、一時期戦時統合政策により西南各私鉄とともに東京急行電鉄を形成するに至ったが、23年6月分離独立し、新たに小田急電鉄として発足した。戦後の荒廃と混迷のなお続く同年12月、新生小田急の初代社長に就任した安藤楢六翁は、労使一体を経営の根本理念に掲げ、疲弊した鉄道を復興し沿線地域社会の・・・・・・・・・白錦(しろにしき)白滝(しらたき)とも呼ばれている。中輪二重、白色、がくが不完全に花弁に変化し、縁が不規則に切れ込んだ花が咲きます。稀に関東地方の歴史ある庭園で栽培されている希少品種ですつつじの先に富士山が顔を出すズームアップして多くの観光客がひっきりなしに訪れる日時計10:23約一時間の散策で庭園を出たが、多くの観光客が訪れていた 山のホテルー続く
2019.06.03
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かねてより行きたかった、芦ノ湖湖畔の「山のホテル」へ今がつつじの見頃だろうと予想して5/17(金)の朝から箱根へ向かった。5/17(金) 8:41芦ノ湖畔へ、天気が良く富士山が顔を出していた東京箱根間往復大学駅伝競走復路スタートの杭国道一号線の箱根関所南交差点にある石碑往路のゴールは、この箱根関所南交差点を右折するこの方向からゴールへ向かってランナーが来る国道一号線沿いの、茶屋本陣「畔屋」茶屋本陣「畔屋」広場にある箱根駅伝の石碑と像勝承夫の詩碑「駅伝を讃えて」勝承夫略歴箱根駅伝栄光の碑 「若き力を讃えて」、ランナーの右手下に富士山がかすかに見える。先日大手町にある像を見たが、箱根町にもあると聞き訪れる9:00芦ノ湖からの富士山箱根海賊船 箱根町港。所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根161右側が新造船の海賊船「クイ―ン芦ノ湖」で桃源台船舶工場で建造された。新型海賊船のデザインは、列車の設計で有名なドーンデザイン研究所の水戸岡鋭治氏が担当した。起工式。主船体ブロックの搬入が完了し、2018年9月19日(水)に桃源台船舶工場(箱根町元箱根164)にて「新型海賊船」の起工式が執り行われた。試運転の実施。2019年3月15日に試運転を行い、芦ノ湖上を初めて運行した9:04山のホテルへ向かう途中富士山が見えたので湖畔へ。箱根海賊船 元箱根港近くの湖畔には釣り人も多く富士山をズームアップするが頂上は雲に隠れ9:24小田急「山のホテル」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80 TEL:0460-83-6321庭園見学時間:9:00 ~ 17:00いつもこの前の道を通るが、つつじの見頃であった駐車場は既に満杯ご飲食施設・イベント案内マップ斜面に植えられたつつじ元箱根から無料のシャトルバスがホテル玄関先まで送迎してくれる9:28受付でチケット(800円)を購入。年配の方が受付に「シニア割引はないのか」「今日は皆さんシニアですから」のやりとりが聞こえてくる2019 つつじ・しゃくなげフェア開催期 間:2019年4月下旬 ~ 5月下旬ホテル庭園見学券を購入(800円)して入園。12日目とは?つつじも満開で、富士も見え最高!ビューポイント多くの観光客が園内を散策早咲き遅咲きのツツジが満開に主なつつじの種類約30種3,000株の開花時期:4月下旬 ~ 5月下旬宿泊ホテル富士も顔を出し緩やかな傾斜地に咲く見南山荘の石碑ホテルの窓に映えるつつじ。宿泊したことはないがネットで調べると、部屋は昭和風モダンでよい味が出ているとつつじも人丈以上の大木つつじ越えに富士が4階にある展望台から富士山が見える。5月中旬から後半にかけてつつじも咲き時、温泉の質がよくて、お肌がツルツルになったと鮮やかな赤色パンフレットの写真から9:43園内にあるチャペルステンドグラスが綺麗チャペルの前にあるローズガーデン。ローズガーデン開花時期:6月中旬~7月中旬頃、9月中旬 ~ 10月中旬頃しゃくなげも咲きこの赤が何とも言えない鮮やかさ9:49しゃくなげ園へ 山のホテル-続く
2019.06.02
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GWに入って天候不順が続いていたがそんな中、昨年東海道53次で訪れている地元の神社・寺院へ、つつじ&ふじの花を求めて訪れた。4/29(月) 8:30 曇り空の中、自宅を車で出発。8:53JR平塚駅北側の国道一号線「宮の前交差点」。右前方に「平塚八幡宮(相模國一国一社)」8:55国道一号線「立野町交差点」8:57国道一号線「春日神社北側交差点」同交差点の中央分離帯のつつじ9:05旧東海道(国道一号線)、大磯松並木9:11江戸から十七里の「中丸の塚」9:16六所神社の駐車場へ、道路一杯に古木がはみ出し六所神社所在地:神奈川県中郡大磯町国府本郷935六所神社本殿相模国の総社であり、第十代・崇神天皇の御代の創建とされ、大化の改新後の養老2年(718)に現在地に遷ったと伝えられる。相模国の一宮から四宮までの四社と、平塚八幡の分霊と主祭神の柳田大明神を祀り、六所神社と呼ばれることになった本殿から境内を見る。昨年の11/20(火)、弥次喜多道中で歩いて訪れている。この時のブログは「大磯宿から二宮の吾妻神社ー3」で公開済み('18/12/17)六所神社裏のふじ棚紫色のふじふじの花が咲くと訪れる蜂がクマバチ(熊蜂)、クマンバチともいわれる。名前は怖いイメージだが・・・・・・9:24JR東海道本線の地下道をくぐり、旧東海道(国道一号線)沿いに建つ、六所神社の鳥居おすいマンホール「大磯」9:31旧東海道(国道一号線)の「吾妻神社入口交差点」を右折して旧東海道へ。前回はJR大磯駅から国府津駅まで歩いたが、やはり車は楽だ!9:34等覚院の駐車場へ到着。裏を走るJR東海道本線駐車場そばに咲いていたモッコウバラも満開9:35真言宗 梅澤山 等覚院(藤巻寺)所在地:神奈川県中郡二宮町山西793旧東海道沿いに咲くつつじが咲き昨年の11/20(火)、弥次喜多道中で歩いて訪れている。この時のブログは「大磯宿から国府津駅ー4」で公開済み('18/12/18)。前回ふじの花がきれいと聴いていたので、今回の訪問となったがつつじも綺麗に咲き等覚院本堂とふじこのふじの木は古くから有名で、元和9年(1623)将軍家光上洛のおり、当地に駕籠を止めてふじの花をご覧になったと伝えられている。また、寛文の頃仁和寺宮が関東に下向されたとき、ふじの花をご覧になり「藤巻寺」の別号を与えられたとここのふじはつぼみは淡い紫色だが、開花すると真っ白に咲くのが特徴。見頃となる4月下旬には壮麗なふじを愛でに近隣の人々や参拝者が訪れている昨日('19/4/28)、地元ケーブルテレビが撮影にきたとのことふじの花花 言 葉 :「決して離れない」「歓迎」「恋に酔う」名の由来:花が風に散る姿の「風散(ふぢ)」または「吹き散る」という意味に由来ふじ(藤)の花の花言葉「決して離れない」は、木に絡みつき大きく成長し木の周りには綺麗な花を咲かせることから、つけられたらしい。古くから、松を男性、ふじを女性にたとえて、庭木として松とふじを近くに植えたクマバチは、大きく黒く、大きな羽音で怖いイメージがあるが、名も熊と蜂、攻撃的な感じです。でも、そんなに怖くはありません、クマバチは温厚な性格で人間を攻撃することは殆どありません。クマバチに接近しても、殆ど気にせずに蜜を吸っている同じように大きな蜂でも、スズメバチ(雀蜂)は危険です!イメージ的に、クマ(熊)に比べ、スズメ(雀)なので、可愛い感じがしますが、攻撃的な蜂です。肉食の蜂なので、蜜を吸いに来てる蜂を狙ってくることがあるので、スズメバチには近づかないように!!!推定樹齢約400年を越えるといわれる白藤は、幹が根元からぐるりと渦を描くように伸びている大きなクマバチが「ブーンブーン」と飛び廻り梵鐘と満開のふじもと吾妻社の別当坊・千手院にあり明治のはじめ当等覚院に移された。寛永8年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の梵鐘である境内には観音堂、鐘楼が建ついろんなオダマキが植えられ咲いていたつつじも満開いろんな花が植えられていた、これからは紫陽花が咲くと9:52丁度、庭の手入れをしていた人(檀家のボランティア)の御茶の時間で、私もお茶と最中を頂く。縁台に座り込みお茶を飲みながら、住職のお母さん、檀家の方と雑談。ここの総本山は、東寺真言宗総本山「京都東寺」雑談は、 ①この寺は真言宗で、住職のお母さんも四国遍路をした。 ②檀家の方は定年退職時に、ツアーでマイクロバスで回った(連続で16日)。 ③私も昨年、一昨年の二回遍路に行ったが、一昨年二宮の住職さんと出会ったが。 帰宅して調べると、第71番札所「弥谷寺」:香川県三豊市で'17/10/16(月)に。 お母さんから「それはうちの住職(大きな体)です」。 ④昨年、空海が修行した中国西安の青龍寺へ行き、0番札所の御朱印をもらった。 ⑤お母さんは四国遍路で屏風の御朱印ももらった。 ⑥檀家さんは今年84歳になるので運転免許証を返納する。等々の雑談で、時の過ぎるのを忘れ、約30分間話し込む。10:19本堂前のサルスベリ手入れされた槙の木と六地蔵歴代住職の墓を案内していただいた檀家(半日ボランティア)さん、珍しい彫り物とこの御墓に珍しい彫り物があると。字が彫られていたが判読できず墓石に日光東照宮の「見🙈、聞か🙉、言わ🙊」の彫り物s10年生まれの私より一回り上の先輩先程まで座っていた縁台には他の方が。GWの間はふじが楽しめると!10:28約一時間の滞在で「等覚院」を後にする住職のお母さんから頂いたパンフレット。国宝 東寺「空海と仏像曼荼羅」。開催期間:2019.3.26(火) ~ 6.2(日) 9:30 ~ 17:00休館日:月曜日場 所:東京国立博物館 平成館(上野公園)おすいマンホール「にのみや」10:37旧東海道から、国道一号線へ、下りは大渋滞中。この川西交差点を左折して上りの帰路に着く、赤い幟は「金目の煮付」11:01旧東海道(国道一号線)の大磯「さざれ石交差点」。前方右側に、さつまあげ等の「井上蒲鉾店」11:05この化粧坂交差点を左折して、旧東海道へ入る東海道五十三次 大磯 虎ケ雨古木に「サルノコシカケ」11:10大磯の旧東海道の深緑11:16旧東海道(平塚市紅谷通り)。平塚宿は道を間違え全てを見ていないため、後日再度歩く予定自宅には11:45に到着、往復39kmのドライブでした。ふじが咲いているであろうと等覚院を訪れたが、お茶を頂き雑談の中で、一昨年四国遍路中に出会った体の大きな二宮の住職が、まさかここの住職であったとは!!! END
2019.05.07
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今年のGWは史上初めての10連休と長く、テレビ放送を見ているとどこの行楽地も人人で大混雑!毎日が休みの私は、自宅待機で、近場の花と畑仕事で過ごす。4/28(日) 9:30連休後に長野遠征があるので野球の練習に参加。高架は圏央道「海老名南JCT ⇔ 寒川北インタ」グランドからの富士山10:10練習の帰りに「関東の富士見100景 茅ヶ崎市からの富士」へ立ち寄る平成16年11月に指定された場所近くの「腰掛神社」15:00午後は買い物でイオンモールへ。休日にはライブが行われているので30分間を楽しむ。この日は初めての「Sinon」 青森下北半島在住の女性シンガーで歌姫とCarpentersの歌 等を歌う5/1(水) 11:50マルチの場所に、枝豆を植え付ける。ジャガイモも芽かきをして土寄せ畑に咲くタンポポ14:45令和を祝って村の神輿玄関先で咲く胡蝶蘭庭に咲く雨上がりの花「西洋しゃくなげ」オダマキシランスイートピーパンジーこれからはバラが咲き、バラの香りが漂う。5/2(木) 14:50高野山真言宗 甘沼山成就院新聞に載っていたということで多くの人が訪れていた。本堂裏にある「なんじゃもんじゃの木」なんじゃもんじゃの花の香りが漂い天高く咲く花ハンカチの木ハンカチの花の蕾、いつもなら咲いているのだが今年は遅いのかと5/4(土) みどりの日人出が多いことはわかっていたが、天皇陛下の即位を祝う一般参賀があるとのことで自宅を8時半前に出て東京駅へ向かう。9:48東京駅南口から皇居へ向かうが多くの人が皇居方面へ。ハトバスの二階建て観光バス9:53国道一号線「和田倉門交差点」の先には既に多くの参賀者が並んでいた。交差点の警官に人出を聞くと「年賀が10万人であったので、今日は13万人か?」と10:04内堀通り手前の「行幸通り」に並ぶ参賀者。行幸通りは、陛下が行幸される際に東京駅まで移動のために使用する道路。地下通路があって両壁には写真が貼ってあり、一種独特の雰囲気があるので、散歩コースとして歩かれてはと。また、更にその下には陛下専用の鉄道が引かれているとのことだが本当かどうか?。行幸通りには複数列あり動かず、待機状態に10:08行幸通りから馬場先濠と国道一号線の日比谷通り10:43既に参賀を終えた(10:00)人たちが帰路に10:5050分待ってようやく我々の列が皇居前広場へ移動始める。隣の列では多くの人が待機、日の丸の旗を係員からもらう10:52通行止めになっている、内堀通りを横切り10:53皇居前広場へ、この先で手荷物検査&セキュリティー検査。大きい荷物は一時預かりに10:54検査への協力を呼びかける婦警11:11セキュリティー検査後、8列に区別されたエリアで暑い中、何も放送がないため我慢強く約一時間立って待機。あちこちで「人が倒れた!」の声、また、時間を待てず帰る人も続出12:37ようやく一時間半待って「皇居宮殿 長和殿」へ向かう12:44正門石橋手前から正門鉄橋(二重橋)を望む。いつも皇居前広場から撮影している「正門石橋」は、明治22年(1889)、明治新宮殿の造営に伴って寛永元年(1624)に架橋された木製の西丸大手橋が、皇居正門石橋に架け替えられた12:47正門鉄橋(二重橋)と伏見櫓美しい弧を描く皇居の堀に架かる橋で、公式行事に使用される12:49正門を入り緩い坂を上る。この坂を上るのは、もう40数年前に父母&義父と昭和天皇の年賀以来になる正門を振り返る12:50伏見櫓江戸城西の丸の西南隅に建てられた二重櫓で、両横には大規模な多聞も続いている。1628年3代将軍家光の時代の江戸城修築に際して、京・伏見城から移築したものと伝えられている。石垣も櫓も堅牢で、関東大震災でも崩れずに往時の姿をとどめている。伏見櫓の高さは13.4mで、十四間多聞、十六間多聞が脇を固めている。別名で「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている12:52正門鉄橋(二重橋)から正門石橋を渡る参賀者12:55ようやく「皇居宮殿 長和殿」前に到着。既に多くの人が長和殿前に集まり、身動きできない状態に13:01今回は4回目のお出まし日の丸の旗を振り、前後から「天皇陛下万歳」の声が聞こえてくる前の人がカメラをあげるのでモニターにも映し出されたが瞬間にしか見れず13:18お出ましの場所で、約10分間のお出ましであった。後方にいた人は前に出て、次の14時まで待機する人もお出ましの横の生け花がきれいに13:27帰り道の案内坂下門は混んでいるとのことで、桔梗門へ向かう13:32富士見櫓(皇居東御苑)江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。現存する三重櫓は、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、万治2年1659)の再建。どの角度から見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」の別名も。天守焼失後の「代用天守」の櫓ともいわれている13:42桔梗門も帰る人でいっぱい。江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門で「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺された外桜田門に対して、内桜田門とも呼ばれている。この門を入ると江戸城三の丸で、大名などの登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)と定められていた。現在では皇居一般参観の入場門になっている13:45桔梗門を出て、桔梗濠と東京駅方面13:52桔梗濠に建つ「桜田巽櫓」城の隅角に造られた監視と防御を目的とする櫓が「隅櫓」ですが、江戸城で現存する唯一の隅櫓になっている。桜田巽二重櫓とも、単に巽櫓とも呼ばれている。関東大震災で損壊したのちに解体して復元し、往時の姿をとどめている13:53内堀通りの交差点、一般参賀を終えて帰る人で道はいっぱい。JR東京駅へは迂回した方がよいと交通警察が説明13:56皇居前広場方向。15時が最後のお出ましのため、行幸通りの参賀の受付を終えていた帰宅後のニュースで、今日の一般参賀には開門前には既に5万人の参賀者が訪れていたと。また、今日一日の一般参賀者は14万1130人で、気温も上がり121名が熱中症で収容されたとの報道。私はこの後、東海道53次に関連した江戸城のスタンプを、和田倉休憩所で再度頂き、将門首塚、日本橋を訪れて帰宅した。東京ではヒョウが降ったと報道していたが、皇居の周りでは雨も降らず。この日の歩行数は11,800歩で、ゾロゾロ歩きであったため疲れた一日でした。5日の朝日朝刊から。今日は朝10時から一時間ごとに六回宮殿のベランダに立たられたと END
2019.05.06
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昨日に続いてこの後アップする、東海道53次の弥次喜多道中シリーズが長くなりますので、その前に、4月の桜 他のブログをアップします。4/4(木) 朝日新聞から5月1日からの元号は「令和」に決まりましたが、その候補名が新聞に。又「令和」の考案者の名前も同じ日の新聞には「河原を覆うシバザクラ」の記事も、行ってみたいが4/6(土) 14:00 イオンへ買い物にミモザがきれいに咲いていた。旅友から、ミモザはアカシヤ科だが蜜蜂は好まないと高さが15mになる木で、この黄色が何とも言えないフランスのコート・ダジュールでは、この花を利用して香水を生産しているとTVで。南フランスに所在する、風光明媚な保養地と知られる海岸。まだ行ったことがないコート・ダジュールでは、山一面に咲き誇っているとばあさんは買い物を、爺は公園へ、満開の桜を撮影にズームアップして公園内では、桜の木の下で家族、仲間で宴会の最中今年は4月に入ってから寒くなり、花もちが長くなっている染井吉野も満開着物を着た女性も散策市民は桜のトンネルの下を桜のトンネルの下を(2)平成最後の桜見物を楽しんでいたそんな人通りの中で・・・・・・ズームアップこの桜の種類は?ズームアップして蜜蜂は来ないのか?約20分間の撮影で、ばあさんが待つイオンモールへ帰る散り始める桜庭先のアケビの花4/7(日) 11:30 野球のグランドでも4/8(月) 15:00 庭先のマーガレット冬場に霜よけをして防寒対策をしたため、きれいに咲く4/9(火)早朝から家を出て「青春18きっぷ」を利用して、JR掛川駅へ。有効期限が4月10日で、この日で無駄なく5回目の利用青春18きっぷを利用しての効果は、14,850円でした今回は延べ17回目の東海道53次で、掛川宿、袋井宿から見付宿へ。今年の静岡県下は寒く、桜はこの時期が満開であった。この日のブログアップは5月になりますので、一部を先にアップしました。9:45 掛川宿から袋井宿への途中にある満開の桜9:46平将門十九首塚への途中にある「松ヶ岡(旧山崎家住宅)」。明治11年11月1日に「明治天皇掛川行在所」でもある入り口に貼り紙があり、一般公開は毎月第4土曜日10:00 ~ 15:00 で次回は4月27日であった。あきらめて帰りかけたが、折りしも市関係者の方が中におられ、神奈川県から来たと伝えると説明付きで短時間の見学をさせてもらった。くぐり門を入ると本宅建物は敷地が1200坪で、江戸時代・明治・大正の建物があり、当家の山崎家から掛川市に寄付され、現在市で管理していると。本宅の裏には中庭があり、柿の木等が植えられている建物も傷んできているので早く修理を終え、公開日数を増やしたいとお忙しい中、約10分間の見学をさせていただいた、ありがとうございました!庭先にはアヤメが咲いていた。私が茅ヶ崎から来たと伝えたら、寄付された山崎氏は茅ヶ崎で獣医をしておられると10:15「平将門十九首塚」近くを流れる逆川の堤に咲く満開の桜並木逆川に架かる「将門橋」将門橋の近くの公園にある「平将門十九首塚」。首塚は民家の前にあり、何か目隠し(植木等)をしてほしいものです道路には、かけがわの「おすいマンホール」13:00袋井宿の「どまん中茶屋」所在地:静岡県袋井市袋井339袋井市役所前の桜も満開、「どまん中茶屋」が道路の角に建つこの日はJR掛川駅から、袋井宿、日本橋から28番目の宿場町「見附宿」まで歩き歩行数は36,100歩でした、天竜川は渡れずJR磐田駅から帰る。 END
2019.04.23
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