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2024年08月31日
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カテゴリ: 戦国




1、 「槙島の戦いの概略」・・・・・・・・・・・・・・2


2、 「槙島の戦いの起因」・・・・・・・・・・・・・・7


3、 「足利義昭と織田信長の対立」・・・・・・・・・・67


4、 「足利義昭の籠城」・・・・・・・・・・・・・・・107


5、 「今堅田・石山の戦い」・・・・・・・・・・・・・118


6、 「二条城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・144


7、 「上京焼き討ち」・・・・・・・・・・・・・・・・167


8、 「再挙兵までの出来事」・・・・・・・・・・・・・181


9、 「槙島城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・185


10、「義昭の追放・室町幕府滅亡」・・・・・・・・・・188


11、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・191







1、「槙島の戦いの概略」


元亀4(1573年)」足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。 織田信長が第15第将軍・足利義昭を追放したことにより、室町幕府は滅亡します。きっかけとなったのは、京都で行われた「槇島(まきしま)城の戦い」です。かつては友好関係にあった信長と義昭。二人はどういった経緯で敵対し、武力衝突にまで至ったのでしょうか。信長と義昭の対立の経緯、永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京しました。翌10月、義昭は念願の征夷大将軍に就任をする。以後、信長と義昭は非常に良好な関係であった。信長は義昭のために二条城(義昭の邸宅)を造ってあげたり、義昭は書状の中に「御父 織田弾正忠殿」なんて書いたり。しかし二人の間にはやがて確執が生まれていくのでである。 確執の始まり、永禄12年(1569) 10月、信長と義昭は初めて衝突します。伊勢平定を義昭に報告しに行った信長。その後しばらくは、京都に滞在する予定でした。ところが突然、当時の本拠地・岐阜へと帰ってしまった。どうやら二人はケンカ別れをしたようである。ケンカの原因は何だったのでしょう。おそらく翌年に信長が義昭に承認させた「五カ条の条書」だと推測されている。将軍の権限を著しく制限する内容に、義昭が反発したことは想像に難くない、義昭にとってみれば、将軍として軽んじられたと受けられた。信長に擁立されて将軍となった義昭。対して将軍の権威を “利用” して統一事業を進めようとする信長。二人の争いの火蓋は静かに切って落とされました。義昭は水面下で反信長勢力を結集し始めたのである。 水面下で信長包囲網を形成する義昭、元亀3(1572)には反信長勢力が拡大をみせる。 ( 信長包囲網 ) この頃には松永久秀・三好義継・武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景……など、そうそうたるメンバーが義昭と通じていたとみられている。しかし恐ろしいのは、義昭は表面上、信長との関係は穏やかだったことです。義昭は信長のため、京都に屋敷を造ったり(建設中に延焼)、高屋城攻めのときには応援軍を派遣したりしている。信長と義昭は、お互いにもはや敵であることを知りながら、表面上は穏やかさを保っていた。その後、 17か条の異見書で義昭を非難した信長、 同年9月、信長は義昭に全17か条からなる異見書を提出している。その内容といえば、義昭のことを痛烈に批判しているものばかりである。この頃になると、二人の対立は誰の目にも明らかになっていった。 武田信玄の西上、 一方、10月3日には武田信玄が本拠地である躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた/現山梨県甲府市)を出陣した。信長を追い詰めたい義昭にとって、信玄の出陣は待ち望んでいたものであった。とはいえ、このときの信玄の目的が一気に「上洛」を目指していたのか、それとも単に徳川・織田領の侵略だったのかという点は、専門家の間でも意見が分かれるところである。 義昭ついに挙兵、 年が明けた 元亀4(1573)は、信長の周りは敵だらけとなり、畿内では、義昭方につく者が続出したのである。同年2月13日、義昭は各方面に御内書を出し、ようやく反信長の立場を鮮明にした。 今堅田・石山の戦い、 一方の信長は、義昭との和睦を望んだが、ところが義昭はこれを拒否をする。信長がいくら下手に出ようとも、義昭は首を縦に振らなかった。


2月20日、義昭のこの行動に対し、信長は兵を動かします。これは義昭に多少のダメージを与え、講和に持ち込もうとしたものと考えられます。同月24日には柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆が、石山・今堅田の砦に攻撃を仕掛けた。両砦とも長く持ちこたえることはできず、26日には石山、29日には今堅田が開城してしまった。 信長、上京に放火、 4月2・3日、信長軍は京都の郊外に火を放ち、目的は義昭を脅し、和睦交渉に応じさせるためである、すぐに信長の使者が義昭のもとを訪れましたが、それでも義昭は和睦を拒否をした。翌4日、信長の軍勢は、かねてから信長に反抗的であった上京にも放火。同時に二条城を包囲し、義昭に和睦を迫り、しかし、これでも義昭は信長との和睦に応じませんでした。なぜだと思います? 義昭は、信玄や浅井・朝倉が助けてくれると、まだ期待していたからである。


一時的な和睦の期間、しびれを切らした信長は、正親町天皇に働きかけます。4月7日、関白の二条晴良が義昭を説得。こうして、ようやく二人は和睦したのでした。


大船の建造、 和睦したとはいうものの、義昭が再び反旗を翻すと踏んでいた信長。5月に佐和山を訪れ、大船の建造を命じました。7月5日に完成した大船は、長さ30間(54メートル)・幅7間(13メートル)という、当時としてはかなりの大きさ。そしてこの大船、すぐに使われることになるのである、義昭、執念の再挙兵 ( 福島の戦い ) しぶしぶ信長と和睦するに至った義昭は、信長が岐阜に戻る頃には怪しい動きを見せていた。5月になると反信長連合の結成を呼び掛けるため、諸国の大名たちに書状を送っています。朝倉・毛利・顕如・武田信玄など、 信玄? 信玄は先月に亡くなったのである。元亀4年(1573)7月3日、義昭は信玄の死を知ってか知らでか、槇島城(現京都府宇治市)に立て籠もりました。報せを聞いた信長は、造っておいた大船で琵琶湖を渡り、9日には京都の妙覚寺(みょうかくじ・現上京区)に着陣をする。二条城には、幕府奉公衆の三淵藤英や武家昵近(じっきん)公家衆の日野輝資・高倉永相らがいましたが、すぐに降伏。三淵藤英は降伏を拒否したものの、説得に応じて7月12日に開城をされた。七月16日には義昭の立て籠もる、槇島城に軍勢が派遣されました。織田軍はなんと、主だった武将たちが率いる総勢7万もの大軍勢! 翌17日には信長本人も京都を出陣している。


そして7月18日、織田軍は二手に分かれ、槇島城への攻撃を開始した。槇島城は巨椋池(おぐらいけ/かつて存在した周囲約16キロメートルの湖沼)の中に築かれた水城。難攻不落にも思えた槇島城でしたが、この日のうちに開城を余儀なくされた。


反信長包囲網の黒幕から一転、義昭は敗軍の将となります。ところが、信長はそんな義昭を殺すことなく、“追放”としたのである。これは信長が、世論を気にしたからとも考えられています。義昭の槙島城の退去をもって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡した。信長は7月28日、それまで義昭の存在によって実現できなかった、天正への改元を行った。義昭の追放によって、信長は改元の権限をも握ることができたのです。かつては蜜月関係だった二人。明暗がくっきりと分かれた。一方、京都を追放された義昭は、枇杷庄(びわのしょう)(現京都府城陽市)、津田城(現大阪府枚方市)を経て、若江城(現大阪府東大阪市)へと移ります。その道中、「貧乏公方」と民衆から笑われたのだとか……。若江城で義昭を匿ったのは、義昭の妹婿に当たる三好義継でした。義継にしてみれば、義昭を受け入れないわけにはいかなかったのです。しかしこの行動が、同年11月の若江城の戦いへとつながっていった。






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最終更新日  2024年08月31日 05時53分33秒
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