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「厳島の戦い 」
天文20年( 1551 年 )に、 陶隆房(のちの晴賢) が義隆に対して 謀反 を起こして甥の 大内義長 を擁立した( 大寧寺の変 )。
隆包は謀反には反対論を通したが、反乱後に陶晴賢(隆房から改名)と共に義長に属したことから、同調していたとされる。
なお、この頃の槌山城は 菅田宣真 が守っており、隆包の城ではなかった。
天文22年( 1553 年 )4月、陶家臣の 毛利房宏 と共に 筑前国 に出陣し、陶晴賢に対して反抗的であった 原田隆種 の 高祖城 ( 糸島市 )を攻めた。
天文23年( 1554 年 ) に生じた 三本松城の戦い にも従軍。三本松城( 津和野城 )の 支城 である 賀年城 を攻めた時には、近くにある茶臼山(八幡山)に陣を張ったと伝わる。
大内・陶と毛利の関係が決裂した後、天文24年( 1555 年 )3月に、毛利との内通が疑われた江良房栄を晴賢の命によって岩国で殺害する(晴賢は隆包の内通も疑い、身の潔白証明のために殺害させたともされる)。 厳島の戦い 直前の9月には、晴賢が 厳島 に全軍を移そうとしていることに反対し、陸路による安芸侵攻を主張。
元就の謀略であると義長に直訴したり晴賢の妻を通したりするなどして ] 再三諫言したが、 三浦房清 ら諸将の声に乗せられて血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。
ついに隆包は、実弟の 方明 を岩国に残して、嫡子の 隆助 と共に厳島に渡海したが、 村上水軍 が毛利方に付いたのを見て、大内軍の敗戦を覚悟したと伝わる。
隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は総崩れとなった。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、塔の岡( 厳島神社 のすぐ北にある丘陵)付近で自ら盾となって総大将の晴賢を逃がした。
潰走する大内軍の中で、弘中父子とその手勢500はさらに抵抗を続けるも、吉川元春らの攻撃を受けて大聖院付近から民家に火を放って逃亡する。
やがて晴賢は自刃したが、弘中隊は100名足らずで天険の駒ヶ林(標高約509メートル)の竜ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮戦の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
死後
隆包の智勇と忠節を深く悼んだ元就は、弘中の縁者を毛利家で登用・保護するなどして特に厚く遇した。
そのため、安芸や 周防 一帯では弘中家の縁の者が 住職 を勤める寺院が数多くあった。 吉川広家 が隆包の領土であった岩国の領主となった時、今地氏を名乗り始めた隆包の孫(今地良房)が白崎八幡宮の宮司になることが許され今に至る。
また、藩内に隆包の曾孫が通津専徳寺(岩国市)を開基することを許され、 昭和 16年( 1941 年 )に隆包の墓がその境内に移された。
自らの死を知りながら忠義のために渡海した弘中隆包の最期は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。
なお、岩国市にある「中津居館跡」が弘中氏の居館と推定されており、 大内氏館 (山口市)に匹敵する規模を誇る。
同跡は、かつて「加陽和泉守居館跡」と呼ばれていたが、加陽和泉守( 毛利水軍 の一人)は厳島の戦い後に中津居館跡に駐留しただけの人物であり、本来の館主ではないことが判明したため 2012 年 に改称された。
隆包が討死した後は、地元では弘中氏の名が語られなくなったことから、加陽和泉守の名が残ってしまったと推測されている。
「宇賀島水軍」 (うかしますいぐん)または 宇賀島衆 (うかしましゅう)は、 戦国時代 に 瀬戸内海 で活動した 水軍 ( 海賊 )。 周防国 の 浮島(うかしま) もしくは 備後国 の宇賀島を拠点にしていたが、 天文 24年( 1555 年 )の 厳島の戦い の前後に 毛利氏 ( 小早川氏 )に攻められて滅亡した。
浮島(周防)の海賊
通説では、周防国の 屋代島 (現在の 山口県 周防大島町 )の沖合にある浮島を本拠地にしていた海賊。
屋代島の海賊衆である大浜氏・桑原氏・神代氏・沓屋氏・浅海氏などと合わせて 屋代島衆 や 大島衆 とも呼ばれる。
大内氏 傘下の水軍(警固衆)だったが、天文20年( 1551 年 )9月に発生した大内重臣・ 陶隆房 (後の陶晴賢)による 大内義隆 への 謀反 ( 大寧寺の変 )後は、陶氏に仕えた。
隆房は、義隆が能島村上氏( 村上水軍 )に認めていた 帆別銭 ・荷駄別料の徴収権を剥奪、同年冬には将軍への献上米を積載した 廻船 の護衛を宇賀島水軍に命じて村上水軍勢力海域の強行突破を図っている。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでは、陶の水軍の大将を宇賀島衆頭取の 宇賀島忠重 (宇賀島十郎左衛門)が務めるも敗北により戦死。その直後から始まった毛利氏の周防侵攻( 防長経略 )により浮島は一時的に無人島になるほど徹底的に掃討され、宇賀島水軍は滅亡した。
宇賀島(備後)の海賊
尾道水道 にあった宇賀島(現在の 広島県 尾道市 )の 岡島城 を本拠地に、周辺海域で 礼銭 ・関料を徴収していた海賊衆。
『 老松堂日本行録 』によると 応永 27年( 1420 年 )⁷月に 李氏朝鮮 の使者・ 宋希璟 が小尾途津(尾道)で「海賊船十八隻」と、『 梅林守龍周防下向日記 』によると天文20年(1551年)4月に 東福寺 の僧・ 梅林守龍 が竹原で「関之大将ウカ島賊船十五艘」と遭遇しており、これらは宇賀島衆だと考えられている。
安芸国で勢力を拡大した 毛利元就 が大内・陶氏と対立( 防芸引分 )した天文23年(1554年)頃、元就の三男である 小早川隆景 により攻め滅ぼされた。岡島城陥落の時期は不明だが、同年10月には隆景の率いる軍勢が宇賀島の南側にあたる歌島(現在の 向島 )にある烏崎に陣を構えている。その後、岡島城は因島村上氏の支城となったと思われる。
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