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9「義仲と入れ替り頼朝入京」
後白河法皇への抗議
義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝廷を大いに喜ばせるものであった。
Ø 10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には 寿永二年十月宣旨 を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。
Ø そうとは知らぬ義仲は、 西国 で苦戦を続けていた。閏10月1日の 水島の戦い では平氏軍に惨敗し、有力武将の 矢田義清 を失う。
Ø 戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて 上洛 するという情報だった。
Ø 驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。
Ø 義仲は、頼朝追討の宣旨ないし 御教書 の発給 [16] 、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。
Ø 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。
Ø 19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には 興福寺 の衆徒に頼朝討伐の命が下された。
しかし、前者は行家、 土岐光長 の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。
決裂 [
11月4日、 源義経 の軍が布和の関( 不破の関 )にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。
源 義経 (みなもと の よしつね、 源義經 )は、 平安時代 末期の 武将 。 鎌倉幕府 の初代将軍・ 源頼朝 は異母兄。 仮名 は九郎、 実名 は義經(義経)である。
河内源氏の 源義朝 の九男として生まれ、 幼名 を牛若丸と呼ばれた。 平治の乱 で父が敗死したことにより 鞍馬寺 に預けられるが、後に 平泉 へ下り、 奥州藤原氏 の当主・ 藤原秀衡 の庇護を受ける。
兄・頼朝が 平氏 打倒の兵を挙げる( 治承・寿永の乱 )とそれに馳せ参じ、 一ノ谷 ・ 屋島 ・ 壇ノ浦 の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。
その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し 朝敵 とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・ 藤原泰衡 に攻められ、現在の 岩手県 平泉町 にある 衣川館 で自刃した。
その最期は世上多くの人の同情を引き、 判官贔屓 (ほうがんびいき [ 注釈 3] )という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。
生涯。
義経が確かな歴史に現れるのは、 黄瀬川 で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。
今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『 吾妻鏡 』に短く記された記録と、『 平治物語 』や『 源平盛衰記 』の 軍記物語 、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『 義経記 』などによるものである。
清和源氏 の流れを汲む 河内源氏 の 源義朝 の九男として生まれ、 牛若丸 と名付けられる。母・ 常盤御前 は 九条院 の 雑仕女 であった。父は 平治 元年( 1159 年 )の 平治の乱 で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、 数え年 2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・ 今若 と 乙若 と共に逃亡し 大和国 ( 奈良県 )へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。
後に常盤は 公家 の 一条長成 に再嫁し、牛若丸は11歳の時に 鞍馬寺 ( 京都市 左京区 )へ預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。
やがて遮那王は僧になることを拒否して 鞍馬寺 を出奔し、 承安 4年(1174年)3月3日桃の節句( 上巳 )に鏡の宿に泊まって自らの手で 元服 を行い、 奥州藤原氏 宗主で 鎮守府将軍 の 藤原秀衡 を頼って 平泉 に下った。
秀衡の舅で政治顧問であった 藤原基成 は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い。
『 平治物語 』では 近江国 蒲生郡 鏡の宿 で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある 尾張国 にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代 経基王 の「経」の字を以って 実名 を 義経 としたという。
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