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10「義仲・京都から追放」
一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。
義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが、法皇は延暦寺や 園城寺 の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ 法住寺殿 の武装化を計った。
さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。
院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。
その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。 院宣 に背いて頼朝軍と戦うのであれば、 宣旨 によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった。
これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。
義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に 後鳥羽天皇 、 守覚法親王 、 円恵法親王 、 天台座主 ・ 明雲 が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。
法住寺殿襲撃
法住寺合戦 (ほうじゅうじかっせん)は、 寿永 2年 11月19 日 ( 1184 年 1 月 3 日 )、 木曾義仲 が院御所・ 法住寺殿 を襲撃して 北面武士 および僧兵勢力と戦い、 後白河法皇 と 後鳥羽天皇 を幽閉、 政権 を掌握した軍事クーデターである。 平安時代 末期の内乱、 治承・寿永の乱 の戦いの一つ。
平氏都落ち
寿永 2年( 1183 年 )7月に入ると、義仲・ 行家 軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に 安徳天皇 が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。
ところが、後白河自身はその日のうちに 比叡山 に避難してしまった。これを知った 内大臣 平宗盛 は京都脱出を決意、 平清経 ・ 時忠 に命じて天皇及び 摂政 荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。
院殿上除目
議定の席上、経宗は院殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。
8月6日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『 百錬抄 』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は 院近臣 勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。
16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。
伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。
天皇擁立を巡る紛糾
後白河は 時忠 ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。
やむを得ず、都に残っている 高倉上皇 の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として 以仁王 の子息・ 北陸宮 の即位を主張する。
兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は 治天の君 の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に 平家没官領 140余箇所を与えている(『平家物語』)。
治安回復の遅れ
義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、 9 月になると略奪が横行する。
「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。
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