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リュック・ベッソン「DOGMANドッグマン」キノシネマ神戸国際 「レオン」のリュック・ベッソン監督の新作「ドッグマン」をキノシネマ神戸国際という映画館で見ました。 犬と暮らす女装した男、DOGとGODのアナグラム、展開のいたるところで露出する神の言葉、主人公の死と教会のラストシーンの重ね方、暗示とヒントに満ちているのですが、キリスト教とか全くわからないボクには、単なるこけおどしというか、意味の分からない看板のようなもので、ただ、ひたすら、問答無用の父親の虐待で犬小屋に放りこまれて、その結果、なんと、犬として生きることを見つけた男が、さて、どうするのか? という興味で見ましたが、納得でしたね(笑)。 主人公が女装している意味も、わかったような、わからなかったような、ですし、何がよかったのかと聞かれても困りますが、多分、気に入ったのは、出てくる犬たちと、犬小屋に閉じこめられることで始まった、イヌになった主人公の関係のゆるがない絶対性ですね。 彼ら、だから犬たちと主人公を同類として、ほぼ、理屈なしで描いたのが、まあ、マンガ的といえばマンガ的なのですが、卓抜だったんじゃないでしょうか。 上下関係とか、支配と被支配とか、見ているこっちは、人間社会のアナロジーで捉えたくなるのですが、映画が犬の論旨で貫かれている のでしょうね。その結果、犬として生きた男が、犬として死を迎える、 それで、一匹の犬の一生であり、且つ、一人の人間の一生が、見事に終えられるわけで、文句ありません(笑)。まあ、文学にせよ、映画にせよ、結局は、人間の姿を描くほかないわけですが、この作品の、そういう突き放し方は面白かったですね。 もっとも、最後のシーンで鐘楼のそびえる教会の庭に犬たちが集まってくるところを映し出した結果、まあ、そう描くよなぁ! と納得はしながらも、映画を寓話化してしまうというか、チラシにもありますが「愛は獰猛で純粋!」 という感じの方へというか、下手をすると人間社会での、飼い犬というか、ペットの犬の論旨の方へ引き戻してしまうというよなという気もしましたが、それにしても、犬たちの活躍ぶりは面白かったですね。拍手!監督・脚本 リュック・ベッソン撮影 コリン・ワンダースマン美術 ユーグ・ティサンディエ衣装 コリーヌ・ブリュアン編集 ジュリアン・レイ音楽 エリック・セラキャストケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(ダグラス)ジョージョー・T・ギッブス(エヴリン・デッカー)クリストファー・デナム(アッカーマン)クレーメンス・シック(マイク)ジョン・チャールズ・アギュラー(エル・ヴェルドゥゴ)グレース・パルマ(サル)イリス・ブリー(ダグラスの母)マリサ・ベレンソン(貴婦人)リンカーン・パウエル(青年期のダグラス)アレクサンダー・セッティネリ(リッチー)2023年・114分・PG12・フランス原題「Dogman」2024・03・15・no044・キノシネマ神戸国際no07追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.04
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クロード・ミレール「ある秘密」元町映画館「拘留」を観て「これは通わなきゃ!」 と慌てた「クロード・ミレール映画祭」の二作目は「ある秘密」、2007年の作品でした。 「拘留」が1987年に亡くなったリノ・バンチェラや、1982年に亡くなったロミー・シュナイダーの晩年の姿を刻印した映画だったと思うのですが、今回の作品は2012年に亡くなったクロード・ミレール監督自身の晩年の映画の一つでした。 「拘留」では、クロード・ミレールという監督のストーリーのひねり方に驚きながらも堪能しましたが、この作品では、監督が描こうとしている社会や、その歴史の実相を描こうとする、監督自身の歴史観、社会観の奥の深さが半端でない印象を持ちました。 主人公の、映画の現在においてはすでに成人している、小説でいえば語り手のポジションにいるフランソワ(マチュー・アマルリック)という人物が、自分が育ってきた家庭、彼の父マキシム(パトリック・ブリュエル)と母タニア(セシル・ドゥ・フランス)と幼い少年であった彼自身という家族の中で隠されていた「ある秘密」をさぐる過程と、その結果、事実を知ったフランソワと老いた父の姿を描いていた作品でした。 ヨーロッパ社会における「ユダヤ人問題」の「深さ」が1940年代のフランス、ナチスに敗北したヴィシー政権下の社会を舞台に、二組の夫婦と一人の子ども、マキシムと妻アンナ(リュディビーヌ・サニエ)、二人の間の子どもであるスポーツ好きの少年シモン、アンナの兄ロベールとその妻タニアという人物たち登場しますが、やがて、マキシムとタニアが結ばれ、新たに二人の子供であるフランソワが生まれてくるという経緯のなかに「ある秘密」が隠されていました。 アンナ、シモン、ロベールの「死」の経緯と、生き残ったマキシムとタニアの二人がどんなふうに生き残り、結ばれて、フランソワが生まれ育ってきたのか。 映画は、1940年代から、おそらく1960年代にかけて、そこで、その時、何が起こったのか、それをつぶさに見ていたルイーズ(ジュリー・ドパルデュー)という二つの家族の共通の友人女性を配することで、すべてを暴いていきます。 フィリップ・グランベールという人の「ある秘密」(野崎歓訳・新潮クレスト・ブックス)の映画化らしいですが、戦中、戦後のフランス社会を包み隠さず暴いている印象で、歴史に翻弄されて生きてきた老マキシムと成人したフランソワの姿が胸を打ちました。 おそらく21世紀に入って全世界で起こっているのであるでしょうね。歴史の捏造による現在の肯定という風潮に「ノン!」 という宣言を残そうとでもするかの作品で、あくまでも、歴史の実相に迫ろうとしているかに見える監督クロード・ミレールに拍手!でした。監督 クロード・ミレール製作 イブ・マルミオン原作 フィリップ・グランベール脚本 クロード・ミレール ナタリー・カルテル撮影 ジェラール・ド・バティスタ美術 ジャン=ピエール・コユ=スベルコ編集 ベロニク・ランジュ音楽 ズビグニエフ・プレイスネルキャストセシル・ドゥ・フランス(タニア 母)パトリック・ブリュエル(マキシム 父)リュディビーヌ・サニエ(アンナ マキシムの先妻)ジュリー・ドパルデュー(ルイーズ友人で家族同然の付き合いの独身女性)マチュー・アマルリック(フランソワ キリスト教に改宗したユダヤ人)ナタリー・ブトゥフ2007年・107分・フランス原題「Un secret」日本初公開2012年4月21日2023・02・15-no019・元町映画館no166
2023.03.21
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クロード・ミレール「勾留」元町映画館 「クロード・ミレール映画祭」という企画を元町映画館がやっています。 1942年、ナチス占領下のパリで生まれた監督の、まあ、ご本人は2012年に亡くなっているらしいのですが、生誕80周年記念特集だそうです。ロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」とか、ゴダールやトリュフォーの作品の制作主任とかやっていたそうだということを知って、ちょっと興味を持ちました。企画は今週で終わります。「うーん、どうしよう???」 とか、なんとか思いながらやっていた元町映画館でした。 観たのはクロード・ミレール監督の1981年の作品「勾留」でした。日本では、今回の特集上映が、日本では劇場初公開だそうです。 で、ど真ん中のストライク!でした。でも、球種はフォーク・ボールだった気もします。見事に空振り三振をきっしました(笑)。 幼女連続殺人事件の容疑者として公証人の男(ミシェル・セロー)が召喚されていて、尋問をする刑事(リノ・バンチュラ)がK察署に帰ってきて、混雑している一般受付の前を通り取調室に入って来るシーンから始まりました。 訊問が始まりますが、状況証拠しかないようで、刑事と容疑者の会話が、延々と続きます。それが、なんとも、おもしろい! 焦点の定まらない二人の会話に書記役の若い刑事がイラついています。何をのんびりやっているんだ、そんな気分を発散している様子が、タイプライターの扱いかたとか仕草、目つきで伝わってきます。やがて彼は暴発するのですが、これが、また、おもしろい!。 インチキ臭い容疑者を演じるているミシェル・セローです。そして、彼の妻を演じるのが、あの、ロミー・シュナイダーでした。まあ、その時代の映画ですから、当然なのですが、刑事役のリノ・バンチュラともども、やたら懐かしさがこみあげてきて困りましたね(笑)。 この映画のロミー・シュナイダーは、謎の妖艶さに包まれた雰囲気で、まあ、映画の中の人物としてもボクには謎の女性でしたが、ボクの記憶のイメージとは少し違っていて驚きました。すでに晩年というか、ものすごく大人の女性のイメージでした。彼女が亡くなったのは1982年で、43歳だったそうですが、この映画の翌年ですね。 執拗に繰り返され、次第に事実が暴かれていく訊問シーンの会話劇の面白さに酔いながら、灰色の無実でしのぎ切るのかと思いかけたところで、自ら署にやって来た妻の証言によって、ついに、ここまでの証言の破綻を認める公証人に、「そうか、そうか、やっぱりお前はインチキ野郎だったんだな。」 と納得した途端のドンデン返しの、それも、二連打でスクリーンは暗転しタイトルロールでした。文字どうりアングリでした(笑)。「ああ、これが映画、いやいや、これこそ映画!ですねえ・・・。」 何よりも、ここまで、渋く渋く観客をひきつけ続けながら、最後には見当違いも甚だしい哀れな(多分?)刑事を演じたリノ・バンチュラに拍手!です。「で、結局、本当は、お宅ら夫婦の関係はどうだったの?」 と問い詰めたくなるご夫婦を演じたミシェル・セローとロミー・シュナイダーに拍手!。 そして、まあ、ジワジワ、ジワジワと観客をだまし続けたクロード・ミレール監督に拍手!でした。 「凄いじゃないですかこの人!」監督 クロード・ミレール脚本 クロード・ミレール ジャン・エルマン ミシェル・オーディアール撮影 ブルーノ・ニュイッテン音楽 ジョルジュ・ドルリューキャストリノ・バンチュラ(刑事)ミシェル・セロー(公証人)ロミー・シュナイダー(公証人の妻)ギイ・マルシャン1981年・84分・フランス原題「Garde a vue」2023・02・14-no018・元町映画館no163
2023.03.02
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アニエス・バルダ「冬の旅」元町映画館「ああ、アニエス・バルダが終わってしまう!」 夜の7時を過ぎてから映画館にやってくるのは久しぶりです。先週からやっていたアニエス・バルダの「冬の旅」は、二週目に入って19時30分から1時間半です。終わるのが21時を回って、そうなると、垂水駅の駐輪場は閉まってしまいます。「ああ、どうしよう!」 ははは、バスで行けばいいのです。で、バスでやってきました。 アニエス・バルダ「冬の旅」です。 冬なのでしょうね、緑がなくて、煙が上がっていて、トラクターが動いているとうです。冬のブドウ畑で働いている人がいます。ちょっと荒涼としたブドウ畑の風景が、だんだんズーム・インされていって、女性の凍死体が発見されます。見ていて、唸りました。「ワぁー、そこから始めるんかい!」 亡くなっていたのは、最近この辺りを旅していた18歳の少女モナ(サンドリーヌ・ボネール)でした。証言者が、その少女との出会いを、次々に語りはじめました。 通りすがりのこの少女が、どこから来たのか、どこへ行こうとしていたのか、それはだれにも分かりません。自由だと評する人もいれば、無鉄砲だと非難する人もいます。いかにも親切に援助、宿を貸す人もいれば、隙を見て襲いかかろうとする乱暴者もいます。 いろんな人との出会いと別れのシーンで映し出される彼女の表情が笑顔であれ、怒りであれ、見ているぼくに浮かび上がってくるのは、踏み外せば奈落であるタイト・ロープで綱渡りして少女の姿でした。誰もが、通りすがるよそ者として見ているだけです。 村人たちが熱狂するブドウ祭りの仮面に恐怖しながら、酒まみれ、泥まみれで奈落に転げ落ちる少女の姿を映して映画は終わりました。 1985年の映画です。円熟のアニエス・バルダの最大のヒット作だそうです。原題は「Sans toit ni loi」です。訳せば「屋根も無く、法も無く」でしょうね。 人間はだれもが死にますが、誰もが、18歳で放浪者になって、冬枯れのブドウ畑の側溝に転がり落ちで凍死するわけではありません。にもかかわらずアニエス・バルダがこの作品をとった理由は「Sans toit ni loi」に明示されているのではないでしょうか。 40年以上も昔に撮られた作品ですが、自己責任などというインチキな流行り文句に踊らされている現代社会をこそ根底から批判する傑作だと思いました。上映してくれた元町映画館に感謝ですね。 勇敢な、しかし、哀れな18歳の少女モナを演じたサンドリーヌ・ボネールと監督アニエス・バルダに拍手!でした。 「ああ、あの娘とおんなじやん!」 元町映画館からの暗い帰り道、思い出した映画があります。浮かんできたのはケリー・ライカートの「ウエンディ&ルーシー」(2008)です。あの映画のラスト、貨物列車に座り込んだウエンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の姿が映し出される、忘れられない、あのシーンでした。監督 アニエス・バルダ製作 ウーリー・ミルシュタン脚本 アニエス・バルダ撮影 パトリック・ブロシェ編集 アニエス・バルダ パトリシア・マズィ音楽 ジョアンナ・ブルズドビチュキャストサンドリーヌ・ボネール(モナ18歳)マーシャ・メリル(ランディエ教授)ステファーヌ・フレス(ジャン=ピエール)ヨランド・モロー(ヨランド)パトリック・レプシンスキ(ダヴィッド)ジョエル・フォッス(ポロ)1985年・105分・フランス原題「Sans toit ni loi」日本初公開1991年11月2日2022・12・16-no139・元町映画館no152
2022.12.30
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フランソワ・トリュフォー「大人は判ってくれない」シネ・リーブル神戸 2022年10月9日は雨の日曜日でした。その上、連休の真ん中です。普通は出かけませんが、まあ、見るチャンスが最後なのででかけました。「フランソワ・トリュホーの冒険」シリーズで上映中の「大人はわかってくれない」です。これを見落とすわけにはいきません。 「大人は判ってくれない」、いわずと知れたトリュフォーの始まりの傑作です。見る前から「傑作」というのも、ちょっと、とは思うのですが、40年前に見た記憶が「傑作!」とだけ残っているので仕方がありません。 シネ・リーブルに到着して、映画館のポスターを見て、ハッと気づいて笑ってしまいました。家を出てから、ここまで、「今日見るのは『子供は判ってくれない』だ」と思い込んでいたのです。 なんで、そんなふうに思い込んでいたのか、なんとなく気になりながら予約していたいつもの座席に座りました。日曜でしたが、十数名の「お年寄りの会」でした。 原題の「Les Quatre Cents Coups」は、フランス語なんてできませんが、むりやり直訳すれば「400回の殴打、打撃」でしょうか。両親の不和、先生の無理解、いきなりの平手打ち、いや、ホント、「大人は判ってくれない」仕打ちにさらされ続けるドワネルくん(ジャン=ピエール・レオ)ですが、そこはそれ、この作品から20年、トリュフォー映画の主役を張り続ける少年ですからね、ただでは起きないというやつですね。 最後の最後に、感化院(?)を逃げ出したドワネルくんが海の向こう向かって歩き出して、振り向いてこっちを睨み据えた、その顔に向かって「異議なし!」と、久しぶりに叫びそうでした。 何処まで行っても「判ってくれない」大人たちの社会の現実に対して、あくまでもたたかい続けるこの少年の姿を初めて見たのは40年ほど前のことで、粋がって「異議なし!」と叫んだ(まあ、叫んではいませんが)記憶が沸沸と湧いてくる鑑賞(そんな、ええもんかよ!)だったのですが、寄る年波のせいでしょうか、「なるほど、トリュフォー版『恐るべき子供たち』やな。」という、若干、日和った懐古気分を抱えながら映画館を出ましたが、家にたどり着いたころには、「いや、そうはいっても、子供は判ってくれないよな。」と思う始末で、まあ、元の木阿弥でした(笑) 1960年に日本で初公開されたそうですが、ぼくが見たのは70年代の半ばでした。「アメリカの夜」とか「アデルの恋の物語」が封切られたころで、「ヌーベルバーグを見なくっちゃ!」という焦りのようなものに駆られて、大毎地下だか元映だか、今はもうなくなった名画座で、とにかく地下にあった映画館で見たような気がするのですが、館内には若い熱気が充満していたような印象が残っています。映画にアジテーションの力が、まだ、あった時代だったのでしょうね(笑)。しかし、もう一度それにしても、最後のシーンは素晴らしいですね。このシーンを残した監督、トリュフォーとドワネル少年に拍手!でした。監督 フランソワ・トリュフォー原案 フランソワ・トリュフォー脚本 フランソワ・トリュフォー マルセル・ムーシー撮影 アンリ・ドカエ撮影助手 ジャン・ラビエ アラン・ルバン美術 ベルナール・エバン編集 マリー=ジョゼフ・ヨヨット音楽 ジャン・コンスタンタン助監督 フィリップ・ド・ブロカキャストジャン=ピエール・レオ(アントワーヌ・ドワネル)パトリック・オーフェイ(ルネ・ビジェー親友)アルベール・レミー(ジュリアン父)クレール・モーリエ(ジルベルト母)1959年・99分・PG12・フランス原題「Les Quatre Cents Coups」日本初公開 1960年3月17日2022・10・09-no118・シネ・リーブル神戸no168
2022.11.02
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ジャン=リュック・ゴダール「気狂いピエロ」シネ・リーブル神戸 つい、調子に乗ってみてしまいました。ゴダールの「気狂いピエロ」です。「勝手にしやがれ」を見て、「ああ、これこれ!」という感じで、40年前の思い出に浸ったわけで、「これ見たら、やっぱりこっちも!」というノリでした。 遠い記憶のおかげで、ストーリー(まあ、そんなものがこの作品にあるとして)にはついていけて、結末も完全に予想(この場合は、知っているというべきですが)できるのですが、「古び」ていました。 まあ、映画が古いというのではなくて、見ているボクが「古び」た、うーん、このいい方はおかしいかな?、じゃあ、「老い」た、うーん、こっちはちょっとシャクかな? 40年前に、この作品にコラージュされている映像の断片や絵画、詩や哲学、一つ一つが新鮮で衝撃的で、「詩的感性」とやらを叱咤激励された記憶が、なんというか、偶然出てきた古い日記のページをパラパラやっていると、読めもしないフランス語の詩の断片が書き込んであるのを見つけて、ギョッとする(少し大げさですが)感じで甦ってくるのです。 ようするに、目の前の映像が、今、見ているこの場での「おお、すごいな!」というカンド―というよりは、過ぎてしまった時間に対するジジ臭い「思い出耽り」の引き金みたいなもので、それで連射されて打ちのめされる感じでした。(全然要するにになっていませんね(笑)) 今回、フト、まあ、新たに思ったのは、例えば、主役のベルモンドは出来上がった作品を見てどう思ったのかな?ということでした。彼は、個性的で快活な俳優として優れた演技者だと思いますが、この映画では俳優としてのベルモンドというより、人間そのもの。いってしまえば演技以前のベルモンドが露出しているようにぼくには見えたのですが、そういう映像を俳優自身はどう思うのでしょうね。 黒沢映画の三船とか、小津映画の笠智衆とかもそうですが、そういう時に俳優自身は何を感じるのでしょうね。 ハチャメチャでアナーキーな展開ですが、ポスターになっている海辺のシーンとか、やっぱり新たな記憶として残りました。映画そのものは決して「古び」てはいないですね。 最後に、予想通り(笑)爆死する、懐かしいジャン・ポール・ベルモンドに拍手! お出会いする映画、いつもそうなのですが、何を考えているのか最後まで分からないアンナ・カリーナに拍手! そして、今更ながらですが、いくつになっても(誰が?)、意味不明なジャン・リュック・ゴダールに拍手!でした。監督 ジャン=リュック・ゴダール原作 ライオネル・ホワイト脚本 ジャン=リュック・ゴダール撮影 ラウール・クタール美術 ピエール・ギュフロワ音楽 アントワーヌ・デュアメルキャストジャン=ポール・ベルモンド(フェルディナン・グリフォン ピエロ)アンナ・カリーナ(マリアンヌ・ルノワール)グラッツィラ・ガルバーニ(フェルディナンの妻マリア)ダーク・サンダース(マリアンヌの兄レッド)サミュエル・フラー(アメリカの映画監督)ジミー・カルービ(小男)レイモン・ドボス(港の男)レイモン・ドボスラズロ・サボ(政治亡命者ラズロ・コヴァックス)ロジェ・デュトワ(ギャング)ハンス・メイヤー(ギャング)ジャン=ピエール・レオ(映画館の若い観客)1965年・105分・フランス・イタリア合作原題「Pierrot le Fou」日本初公開1967年7月2022・06・01・シネリーブル神戸no153
2022.06.14
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ジャン=リュック・ゴダール「勝手にしやがれ」シネ・リーブル神戸 今年に入ってレトロ・スペクティブという企画が頻繁に行われている映画館ですが、ルイス・ブニュエルといい、今回のゴダールといい、20代に見てほぼ40年ぶりに見直すという体験を繰り返しています。 今回はジャン=リュック・ゴダール「勝手にしやがれ」でした。テレビでも繰り返し放映されてきた作品で、今さらあれこれ言ってもしようがないとは思うのですが、劇場でやるとなると「見に行こうかな」という誘惑に勝てないたぐいの作品の一つです。 ジャン=ポール・ベルモンド扮するフランスのチンピラ青年の、まあ、元の題にもある通り「息せききった」破滅の物語なのですが、ストーリーについてあれこれ言っても仕方がないし、チンピラ青年の人柄や行動、お相手のアメリカ娘との男女関係についてどうこういうのも気が引けます。ベルモンドの自在な演技も、ジーン・セバーグの重くて軽い、あるいは、遠くて近い存在感も誰かの口真似だしなあという感じです。映画についても、俳優についても、そして、まあ、監督についても語り尽されている作品です。 まあ、黙ってみるに如くはないと座ったのですが、脈絡や目的なんて何もない、ただ、ただ、「息せききった(A bout de souffle)」主人公の行動と発言の「リアル」が、あのころ20代だった青年の胸をえぐった記憶を呼び起こしながら、ボンヤリ座って見ていた老人を、今さらながら、じわじわ「リアル」に、揺さぶり始めたのです。「うーん、なんだ、これは!?」 で、とどのつまりには「サイテー」という主人公の最後の言葉で、40年後の今になっても、日ごろは忘れていた性根か何かに触れて「異議なし!」と叫びそうになってしまう上に、「サイテーってなによ!」というジーン・セバーグの言葉に、冷や水を浴びせられたのようにオロっとしてしまう自分に驚くという、恐るべき映画でした。 もしも、この映画を、今、初めて見て、同じようなリアルを感じるのかどうか、それはわかりません。ただ、最後のセバーグの言葉への反応は今だからでしょうね。 今の若い人が、この映画をどう見るのかというのも気にかかりますが、40年後に、オロッとするとは、40年前の青年には思いもよらなかったことでした(笑)。 いやはや、ジャン=ポール・ベルモンドにもジーン・セバーグにも、あらためて拍手!ですね。はい、もちろん、ジャン=リュック・ゴダールに拍手!はいうまでもありませんん。監督 ジャン=リュック・ゴダール製作 ジョルジュ・ド・ボールガール原案 フランソワ・トリュフォー脚本 ジャン=リュック・ゴダール撮影 ラウール・クタール音楽 マルシャル・ソラル監修 クロード・シャブロルキャストジャン=ポール・ベルモンド(ミシェル・ポワカールあるいはラズロ・コヴァックス)ジーン・セバーグ(パトリシア・フランキーニ)ダニエル・ブーランジェ(ヴィダル刑事)ジャン=ピエール・メルビル(作家パルヴュレスコ)アンリ=ジャック・ユエ(アントニオ・ベルッチ)ジャン=リュック・ゴダール(密告者)1960年・90分・フランス原題「A bout de souffle」日本初公開1960年3月26日2022・05・31・シネ・リーブル神戸no152
2022.06.01
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レミ・シャイエ「カラミティ」KAVC 久しぶりに神戸アートヴィレッジセンターに来ました。お目当ては「カラミティ」というアニメ映画です。 昨年だったでしょうか、公開された「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」のレミ・シャイエ監督の新作でした。 西部開拓時代、19世紀の中頃でしょうか、アメリカに実在した女性のガンマン、カラミティ(厄介者)・ジェーンが誕生するエピソードを描いた作品だそうです。 フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で2020年に長編部門のクリスタル賞(グランプリ)を受賞した長編アニメーションです。90年代に「紅の豚」がグランプリだったこともある映画祭のようです。 映画は新天地に向けて旅する幌馬車隊のシーンから始まりました。眉の太い、なかなかいい顔の少女がマーサ・ジェーンです。母のいない旅のようです。妹のレナと弟のエリージャの世話をしながら新天地の夢を語り聞かせています。 で、しゃべり始めたジェーンを見ていて焦りました。吹き替え版だったのです。好き嫌いの問題にすぎないのでしょうが、日本のアニメ映画の子どもの声がぼくはあまり好きではありません。「ドラえもん」の大山のぶ代くらいになると、まあ、芸といっていいのでしょうが、のび太やジャイアンの声にはついていけません。あんなしゃべり方をする子供は、世界中どこにもいないでしょう。 まあ、そうはいっても聴いていればなれるもので、慣れたころに事件が起こりました。幌馬車の運転(?)を誤った父親が大けがをしてしまうのです。 で、ジェーンは父親に代わり、馬に乗り、投げ縄を投げ、ズボンをはいた「男たち」と同じ行動を開始するのですが、それを見た周りの大人たちからこのカラミティ(厄介者)! と罵倒されます。でも、くじけないんです。で、そこからジェーンの「冒険(?)」、「闘い(?)」が始まります。 彼女の行動は、当時の社会の目線から見れば「カラミティ」なわけですが、ケガをした父に代わり幼い妹と弟を守ろうとした「愛と責任感」の少女ジェーン・マーサとして、実に肯定的、積極的に描いているところがレミ・シャイエ監督の心意気でした。 そこから、彼女が、ホンモノの「カラミティー・ジェーン」へ成長する冒険は見ていただくほかありませんが、なんといってもシーン、シーンの美しさ、明るさは、北極海の話だった「ロング・ウェイ・ノース」をしのぐものでした。 こちらがフランス語版のチラシです。西部の自然の色彩の美しさが画面いっぱいに広がります。チラシをご覧になれば気づいて頂けるかもしれませんが、画面の「色彩」の扱い方が独特で、色を混ぜないのですね。色紙を張り重ねて、グラデーションを面で作っている感じで、見ていて時間がゆっくり流れている印象を持ちました。その画面の印象を支えているのが音楽で、バンジョーの音が軽やかなブルーグラスの曲調がピッタリはまっていて、いい気分です。 ズボンをはいて頑張った、太い眉のマーサ・ジェーンに拍手!でした。それから、西部のじゃじゃ馬カラミティ・ジェーンを「男」の壁を越えて自由に生きる女性の誕生として、イヤミなく描いた監督レミ・シャイエに拍手!、すばらしい色彩のアニメを描いた色彩監督パトリス・スオウに拍手!でした。 帰ってきて、フランス語版の予告編を見直しましたが、やっぱり、そっちの方が格段にいいですね。幌馬車隊の隊長が「カラミティ!」と罵倒するセリフなんかもはっきり聞こえます。まあ、フランスの子どもを知らないからいえるのですが、子供たちの言い合いも自然気聞こえます。大人の方でご覧になる人には字幕版がおすすめだと思いました。監督 レミ・シャイエ製作 アンリ・マガロン クラリー・ラ・コンベ脚本 レミ・シャイエ色彩監督 パトリス・スオウ音楽 フロレンシア・ディ・コンシリオ2020年・82分・G・フランス・デンマーク合作原題「Calamity, une enfance de Martha Jane Cannary」2022・03・30-no43・KAVC(no19)
2022.04.02
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ルネ・クレール「巴里祭」シネ・リーブル神戸 2021年の11月にシネ・リーブル神戸で上映された「ルネ・クレール・レトロスペクティブ」の企画で見た作品です。 シネ・リーブル神戸では入場者に一作ごとの絵ハガキを配っていらっしゃって、この絵ハガキを全部いただきたい一心で、全部見ました。 こんなことを言うと「アホか!」といわれそうですが、案外、本音です。なんでもいいから、出かけていくための「起動力」が必要なのです(笑)。 この日に見た映画は原題は「7月14日」というシンプルさですが、日本公開用につけられたのが「巴里祭」だそうです。フランス革命のバスティーユ監獄襲撃記念日、革命記念日だったと思いますが、そりゃあ「巴里祭」の方がお客は入るでしょうね。 映画はタクシー運転手のジャン(ジョルジュ・リゴー)と花売り娘のアンナ(アナベラ)の恋のお話でした。それぞれ、お二人ともに1930年代の顔という印象です。ぶっちゃけ、ラブ・ストーリーというより人情コメディというほうがぴったりな気がしましたが、パリの屋根の下で暮らす庶民の姿が、「ああ、フランス!」という感じの「音楽」と「ユーモア」で描かれていました。 映像のせいもあって古めかしくはあるのですが、そんなに古びているとは思いませんでした。まあ、古びていてもいいのですが、「この監督の人間の描き方はいいなあ」と素直に思いました。 シリーズを見終えて、もう、100年になろうかという映画の始まりから、いろんな作品が撮られてきて、今があるわけですが、「この監督が撮っているように撮ったらいいじゃないか」という気分と、「なんでこんなふうに撮れなくなったのだろうか」という疑問が湧いてきました。 現代という時代の目で、こういう作品を見ると、やはり、ある種の退屈さを感じるわけです。変な例ですが、その退屈さは江戸川乱歩とか芥川龍之介を読み返していて感じるものと、ちょっと似ているのかもしれません。じゃあ、今の方がいいのかというと、そうでもないわけで、どう考えればいいのでしょうね。とかなんとかいいながら、新しい作品に飛びついては、まあ、感心したりシラケたりするのでしょうね。 それにしても90年の時間を見事に飛び越えて見せてくれたルネ・クレールに拍手!でした。監督 ルネ・クレール製作 ロジャー・ル・ボン脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール美術 ラザール・メールソン衣装 ルネ・ユべール編集 ルネ・ル・エナフ音楽 モーリス・ジョーベールキャストアナベラ(アンナ:町の娘)ジョルジュ・リゴー(ジャン:タクシ―運転手)レイモン・コルディ(レーモン)ポール・オリビエ(イマック氏)レイモン・エイムス(シャルル)トミー・ブールデル(フェルナン)ポーラ・イレリー(ポーラ)1932年・86分・フランス原題「Quatorze Juillet(「7月14日」)」日本初公開1933年2021・11・14‐no110シネ・リーブル神戸no131追記 ルネ・クレール(1898年11月11日 - 1981年3月15日) フィルモグラフィー無声映画1924年「幕間 Entr'acte 」・「 眠るパリ Paris qui dort」(未公開)1925年「ムーラン・ルージュの幽霊 Le fantôme du Moulin-Rouge」(未公開)1926年「空想の旅 Le voyage imaginaire」(未公開)1927年「風の餌食 La proie du vent 」(未公開)1928年「イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d'Italie」「 塔 La tour」(未公開)「気弱な二人 Les deux timides 」(未公開)発声映画1930年「巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris」1931年「ル・ミリオン Le Million 」「 自由を我等に À nous la liberté」1933年「巴里祭 Quatorze Juillet」1934年「最後の億萬長者 Le dernier milliardaire」1935年「幽霊西へ行く The Ghost Goes West (英)」1938年「ニュースを知らせろ Break the News (英)」(未公開)1941年「焔の女 The Flame of New Orleans (米)1942年「奥様は魔女 I Married a Witch (米)」1943年「提督の館 Forever and a Day (米)」TV放送/8分間の挿話のみ監督1944年「明日を知った男 It Happened Tomorrow (米)」(未公開/ビデオ)1945年「そして誰もいなくなった And Then There Were None (米)」1947年「沈黙は金 Le Silence est d'or (仏=米)」1949年「悪魔の美しさ La Beauté du diable (仏=伊)」1952年「夜ごとの美女 Les Belles de nuit (仏=伊)」1955年「夜の騎士道 Les Grandes manoeuvres (仏=伊)」1957年「リラの門 Porte des Lilas(仏=伊)」1960年「フランス女性と恋愛 La Française et l'amour (伊=仏)」1961年「世界のすべての黄金 Tout l'or du monde (伊=仏)」(未公開)1962年「四つの真実 Les quatre vérité 第4話「二羽の鳩 Les deux pigeons」(スペイン=伊=仏)」(未公開)1965年「みやびな宴 Les fêtes galantes (仏=ルーマニア)」
2022.01.14
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ルネ・クレール「自由を我等に」シネ・リーブル神戸 新年あけましておめでとうございます。 2022年のお正月、1月2日、新年初感想文です。とかなんとかいいながら、去年、2021年の11月見た映画で「なんのこっちゃ」なのですが、映画は名匠ルネ・クレール監督の「自由を我等に」です。ルネ・クレール・レトロスペクティブの1本ですが、題名が、新年にふさわしいと思いませんか。今年こそ、自由を我等に!そういう気持ちです。 さて、映画ですが、1931年のモノクロ作品ですが、現代映画の出発点に輝く傑作だと思いました。映画を見ながら「あれ、この感じどこで・・・」という記憶のようなものが浮かんできて、二十代から今日まで見て来た様々な映画に、この作品の片りんというか雰囲気というか影響というかを感じる作品でした。 刑務所で、あろうことか囚人たちが「自由を我等に」と歌っています。まず、このシーンに脱帽でした。喜劇というのはこうでなくちゃいけませんね。 男前のチビ、エミール(アンリ・マルシャン)と、どこか怪しげで、妙な愛嬌というか、いくら真面目な顔をしても笑えるという雰囲気のルイ(レイモン・コルディ)の二人組の活躍です。そう凸凹二人組です。 その次が脱獄のドタバタです。このシーンにも70年代頃のテレビ・コントからからドリフのケンちゃん・カトチャンのコントまで、あるあるで思い出せるギャグが詰まっていました。で、その結果、ルイだけ牢屋から逃げのびて、なぜか、走ってもいない自転車レースのチャンピオンになってしまうに始まって、あっという間に電蓄、日本でいえばナショナルの松下さんですね、の社長さんになるという、テンポのいいご都合主義も最高です。 その間、牢屋暮らしのエミールがやっとのこと出獄して出会うのは大金持ちになったルイですが、働き始めたルイの工場のベルト・コンベアシーンなんて「ああ、チャップリンや」と誰でも気づくであろうモダン・タイムスぶりで、今となっては二重の意味で笑えます。なにしろこちらがチャップリンより古いのですからね。 実は、ラブ・ロマンス風のドタバタもちゃんとあるのですが、端折りますね。で、とどのつまりはというと、すべて御和算で、おかしな二人組が「自由を我等に」とばかりに、歌を歌いながらトンズラをかますという最高のエンディングでした。 喜劇映画の鉄則でしょうね、明るくてテンポがいいうえに、音楽が楽しいんです。まあ、ぼくごときが言うまでもないのでしょうが素晴らしいと思いました。さすがのルネ・クレールに拍手!でしたね。 ああ、それと、なんだかしみじみとおかしいルイ役のレイモン・コルディにも拍手!です。ぼくはこのタイプが大好きです。ちなみに、もう一人のエミール(アンリ・マルシャン)はチッチキ夫人が気に入ったようですね。「男前やん!」とか言ってました、ということでついでに拍手!です。 監督 ルネ・クレール脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール美術 ラザール・メールソン音楽 ジョルジュ・オーリックキャストアンリ・マルシャン(エミール:脱獄失敗の男)レイモン・コルディ(ルイ:脱獄成功の男)ローラ・フランス(ジャンヌ:エミールが一目ぼれの女性)ポール・オリビエ(ジャンヌの伯父)1931年・84分・G・フランス原題「A Nous la Liberte」2021・11・17‐no111・シネ・リーブル神戸no130
2022.01.02
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ルネ・クレール「ル・ミリオン」シネ・リーブル神戸 ルネ・クレール・レトロスペクティブという特集番組に通いました。これが三本目で、作品は「ル・ミリオン」です。ルネ・クレールが「巴里の屋根の下」に続いて撮りあげた1931年の制作で、トーキー第2作だそうです。 で、お話は、宝くじの当たり券を巡って繰り広げられるドタバタ・コメディですが、やはり歌と踊り、いや、いや、ダンスというべきでしょうか(?)が、実に楽しい作品でした。 1930年ごろの、ヨーロッパ、パリが映っていることにも興味を惹かれました。衣装とか髪型も時代のものなのでしょうね。 パリのアパートで暮らす借金まみれの画家ミシェル(ルネ・ルフェーブル)と、その婚約者でオペラ座ダンサーのベアトリス(アナベラ)のカップルに、狂言回しのようにチューリップおやじ(ポール・オリヴィエ)と呼ばれる、結局、最後まで素性も年齢もよくわからなかったのですが、まあ、その「オヤジ」が絡みます。 ミシェルが買った宝くじの当選を友人プロスペール(ルイ・アリベール)知らせに来るところから、映画は始まるのですが、当たっているはずの宝くじの行方がミシェルの上着とともに転々とするのを追っかける話です。 あほらしいほど、定型ですが、これが始まりだというところがすごいわけで、今見ても飽きずに見続けてしまう「間合い」というか、「テンポ」というか、次々と勃発する他のエピソードとの絡み合いに感心しました。 フランス語はわかりませんが「ル・ミリオン」というのは「百万長者」くらいの意味なのでしょうかね、この題と上の絵ハガキのカップル写真を見た時には、その時代っぽい、ゆったりしたメロドラマを予想していましたが、大違いでした。 特に面白かったのは、映画の始まりと終わりが、くじが当たったことを大喜びする、同じアパートとか町内とかの人々の大宴会シーンだったことです。 踊って歌う民衆の世界です。実に古典的というか、ラブレーとかブリューゲルの世界まで思い起こさせるそれって、映画という「見世物」の起源につながっているシーンなのかもしれませんね。 今の目で見ると、みんなで盛り上がって笑ったり泣いたりする世界が、一人で納得する世界へ洗練(?)されていったのが、映画の歴史だったことを実感させてくれる名シーンですね。 今更な感想かもしれませんが、男と女のメロドラマなのに、ドタバタで、あれあれと思っていると大団円で歌って踊る、楽しいことはみんな出てくるルネ・クレールの手練手管に拍手!でした。監督 ルネ・クレール原作戯曲 ジョルジュ・ベル マルセル・ギュモー脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール美術 ラザール・メールソン音楽 アルマン・ベルナール フィリップ・バレス ジョルジュ・バン・パリスアナベラ(ベアトリス)ルネ・ルフェーブル(ミシェル・ブフレット)ポール・オリビエ(クロシャール) ルイ・アリベール(プロスペロー)ヴァンダ・グレヴィル(ヴァンダ)1931年・83分・G・フランス原題「Le Million」2021・11・14‐no109シネ・リーブル神戸no128
2021.12.12
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ロベール・ブレッソン「やさしい女」KAVC 監督がロベール・ブレッソン、原作がドストエフスキー、この二つの条件で、見ないわけにはいかないという結論に達してやって来たKAVCでした。50年前の作品です。朝一番、の10時過ぎの上映という悪条件にもめげずやってきたのは、何かがよく分かることを求めてではありません。何しろ、ロベール・ブレッソンですから。薄暗い、モノクロの映像のなかのロバと少女の表情に、ある種呆然としながらも、なんだかよくわからいまま揺さぶられた相手です。どうせ、わからないに決まっています。だから、どうっだっていうのでしょう。 今回はカラーでした。誰もいないベランダでテーブルが倒れ、白いショールが空中に舞うシーンで映画は始まりました。 「死んでいないもの」という小説の題名がありましたが、最後のシーンまで繰り返し、その題名を思い浮かべていました。 死んでしまった女(ドミニク・サンダ)について、残された男(ギイ・フライジャン)が、祈っているメイド(ジャン・ロブレ)に語り続ける作品でした。 男が語っている部屋の真ん中には、最初から最後まで、ベッドから足が少しはみ出している女が横たわっています。この、ベッドからはみ出ている足というのが気にかかりって、記憶に残りました。 養老孟司すが、死者に対する人称ということを想起させる映画でした。 死体に1人称はあり得ないが、2人称の「あなた」であるかぎり死者は死体になりきれない。ゆっくりと3人称、つまりは、未知の他人、ただの死体になってゆくという話です。2人称である限りにおいて、死者は「死んでいないもの」ということなのですが、この映画は男にとって女は3人称でしかありえないということを語っているように思えました。 映像はベッドに横たわっている女を「私の恋人」あるいは「妻」として、すなわち、2人称の存在として語り続けている男の記憶と、カメラだけが知っている一人の女の素顔の組み合わせなのですが、語り続ける男にとって女は永遠に「あの女」、3人称でしかありえない空虚な事実と、女が1人称として垣間見せる表情が謎のまま差し出されていることが印象深い作品でした。 男の職業が質屋の鑑定士であることが、なかなか意味深だと思いましたが、ただただ「謎」として存在する女を演じたドミニク・サンダに拍手!でした。ともかく、そこに映っている表情が謎なのでした。もっとも、この表情を撮ったというか、そのまま映し出した、いや、それ以上に、こんなふうに「女」を描いた監督ロベール・ブレッソンに拍手!ですね。蛇足ですが、色がついても、ブレッソンはブレッソンでした。 やっぱり、というか、覚悟していた通りというか、何がなんだかよく分からない魅力的な映画でした(笑)。監督 ロベール・ブレッソン製作 マグ・ボダール原作 フョードル・ドストエフスキー撮影 ギスラン・クロケ美術 ピエール・シャルボニエ音楽 ジャン・ウィエネルキャストドミニク・サンダギイ・フライジャンジャン・ロブレ1969年・89分・フランス原題「Une femme douce」日本初公開:1986年3月29日2021・11・23‐no113・KAVC
2021.11.27
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ルネ・クレール「リラの門」シネ・リーブル神戸 今日は土曜日でした。いつもは出かけないのですが、昨日から見始めたルネ・クレール レトロスペクティブの2本目、「リラの門」をお目当てに、ちょっとお天気も危なそうだったのですが出かけました 「JRの神戸駅から元町商店街を抜けて・・・」 とのんびり歩きをもくろんで歩き始めたのですが、商店街に入ってみると、あまりの人出に怯んでしまって道を変えました。コロナはどこへ行ったのでしょうね。 大丸前の交差点では聞いたことのない政治団体の人が街宣車の屋上から演説をしていました。日の丸を持った人がたむろしている中で「ニッポンのオカーサンのこころ!」とか聞こえてきて、車の屋上から若い女性が手を振っているのに、ちょっと引いてしまいましたが、維新なんとかの悪口を聞いて立ち止まってしまいました。まあ、信号が赤だったのですが、その場の妙にズレたレトロな雰囲気が不思議でした。もっとも、ズレているのはこっちかもしれないのが、最近の世の中なのですが・・・。 で、映画館について座ってみると、お客さんは数人で、懼れていた人出の心配は皆無でした。 酒場のシーンで、何とか盗み飲みしようとする主人公と、バーテンのオジさんとの珍妙なやり取りから映画は始まりました。 酒場のカウンター、小太りの飲んだくれ、石畳の路地、地下室の蓋、髭のギター弾き、フォアグラの缶詰、おしゃれな人殺し、偽のパスポート、かたそうなフランスパン、新聞の指名手配写真、胸の突き出たオキャンな美人、服屋の露店、荷物を背負った老婆、煙突の煙、如雨露のシャワー、戦争ごっこ、悪ガキ集団、目つきの悪いネコ。 記憶に残った断片を思いつくままに書き上げました。ギター弾きが歌うシャンソンとアコースティックなギターの音色が映画の底に流れていて、ひなびたパリの下町の風景の中で、生涯金持ちにもなれそうもないし、女性にもてるなんていうこととも、やっぱり、一生、巡り合えそうもない男の「ある秋の物語」でした。 毎日酒場にやってきて、何とかマスターの目を盗んでいっぱいやろうとしながら、結局、「もう帰って首を括る」と啖呵を切って出ていきながら、翌日、やっぱり同じことをしているこの「愚か者」、主人公ジュジュの末裔は、戦後の日本の喜劇映画の人気者にもいますね。それが森崎東なのか山田洋二なのかわかりませんが、彼らがこの映画にインスパイア―されたことは間違いないと思いました。 とはいえ、作品の随所に、何の関連もなさそうにちりばめられた、シーン、シーンの面白さにはうならされました。大人同士のやり取りに加えて、筋とは直接関係のない子供たちの、生き生きとしたイノセントの描き方や、なんの意思もあろうはずのない窓際の猫の表情の撮り方には、笑いを忘れて、ただ、ただ、拍手!でした。 怠け者で、役立たずの「愚か者」ジュジュは、酒場の娘マリアに恋し、指名手配の人殺しバルビエをかくまう羽目になりながら、そんなふうにしか生きられない「素直さ」を、どんくさいながらも、活き活きと生きていて、記憶に残るにちがいない登場人物でした。 「愚かしさ」ということが、人間にとってかなり上等な「美徳」でありうることを、これだけ丁寧に描いた映画を今まで見たことがありませんでした。 今更なのですがルネ・クレールという監督に拍手!でした。 もちろん、情けなくて、やるせないジュジュを演じたピエール・ブラッスール、ギターの弾き語りでシャンソンを歌い続けたジョルジュ・ブラッサンスにも拍手!です。 そして縦横無尽に画面を走り回った下町のちびっ子たちにも拍手!拍手!でした。 それにしても、最近、この映画のようなガキどもを、とんと見かけなくなりましたが、まあ、当たり前ですよね。この映画のような「町」の雰囲気は今や記憶のかなたなのですからね。監督 ルネ・クレール原作 ルネ・ファレ脚本 ルネ・クレール ジャン・オーレル撮影 ロベール・ルフェーブル美術 レオン・バルザック衣装 ロジーヌ・ドラマレ音楽 ジャック・メテアン ジョルジュ・ブラッサンスキャストピエール・ブラッスール(ジュジュ:人のいい飲んだくれ)ジョルジュ・ブラッサンス(芸術家:ギター弾き)アンリ・ビダル(ピエール・バルビエ:人殺し)ダニー・カレル(マリア:酒場の娘)1957年・99分・フランス・イタリア合作原題「Porte des Lilas」日本初公開1957年10月6日2021・11・13‐no108シネ・リーブル神戸no127
2021.11.17
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ルネ・クレール「巴里の屋根の下 」シネ・リーブル神戸 「ルネ・クレール レトロスペクティブ」という企画がシネ・リーブル神戸で始まりまっていました。勘違いしそうですが「禁じられた遊び」のルネ・クレマンとは違います(笑)。 1930年代のフランスの監督で、その作品特集で、代表作が網羅されています。見たことがある作品もあるような気がしますが、あやふやであてになりません。 これは、もう、見ないわけにはいきません。11月の第1週の週末から始まっていたらしいのですが、気づいたのが水曜日で、出遅れました。 しようがないので、今日から、土・日返上で頑張ろうと思っています。初日の今日は「巴里の屋根の下」でした。 これが、チラシの裏にまとめられた筋書き解説です。1930年の作品で、ルネ・クレール最初のトーキーだそうです。もちろん白黒映画です。 出だしから「巴里の屋根の下」の合唱です。トーキーですからセリフもありますが、必要最小限という感じで、それで十分でした。 パリの町が上空から映し出されて、下の方から歌声が聞こえてきます。アパートらしい建物のベランダには生活している人の人影があって、1階の通りに面した戸口に女性が立っています。 で、そのアパートが立ち並んでいる前の街角で、楽譜売りのアルベールが人を集めて歌っています。楽譜売りという商売が、何とも言えない、いい感じなのですが、彼が拍子をとって町の人が声を合わせて歌う「巴里の屋根の下」を聞きながら、映像に見入っていくのです。 「映画」を見る見ごたえというか、ハラハラ、ドキドキする感情のなかに浸りきるというか、何とも言えない「満足感を経験しました。 見ている人が映像を見て音楽を聴きながら、自分で予想して、落胆し、やっぱり、ホッとする体験を堪能させてくれる充実感という感じでしょうか。 映画を見終えた後、「あなたは映画がお好きですか?」と聞かれたとしたら「はい。大好きです。」とキッパリ!です。間違いありません。 街角で合唱する人々に拍手! 酒場で青年たちの恋の争いを見ながら「天国と地獄」のレコードをかけてワインを啜っている、ノンキで、当意即妙なオジサンに拍手! この作品は1931年の「キネ旬」の外国映画ベスト10のベスト2位だそうです。 余談ですが、「キネマ旬報」っていう映画雑誌は今でもありますが、1919年創刊だってご存知でしたか?「キネ旬」が始めたベスト10が世界初の映画ベスト10だそうで、ちなみに世界最古のベスト1は1924年で、チャップリンの「巴里の女性」(原題「A Woman of Paris」)というサイレント映画だったようです。見たことはありませんが、なんか、「見なきゃ!」って思ってしまいますね(笑)。監督 ルネ・クレール脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール ジョルジュ・ローレ美術 ラザール・メールソン唄「巴里の屋根の下」作曲ラウール・モレッティ作詞 ルネ・ナゼル編曲 アルマン・ベルナールキャストアルベール・プレジャン(アルベール:楽譜売り)ポーラ・イレリー(ポーラ:恋人)エドモン・T・グレビル(ルイ:親友で恋敵)ガストン・モド(フレッド:チンピラで恋敵)作曲:ラウル・モレッティ/作詞:ルネ・ナゼル/編曲:アルマン・ベルナール 1930年・93分・G・フランス・仏語・白黒・スタンダード原題「Sous les toits de Paris」2021・11・12‐no107・シネ・リーブル神戸no125
2021.11.14
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ロベール・ブレッソン「田舎司祭の日記」神戸アートビレッジ 2020年の暮れだったでしょうか、「バルタザールどこへ行く」を久しぶりに見直す機会を作ってくれたのも神戸アート・ヴィレッジでした。 今回は、同じ映画館で、同じ監督ロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」をみました。「バルタザール」ではロバが主役でしたが、今回は北フランスの田舎の村に赴任した青年司祭の物語でした。 まあ、ロバに眼差しがあるとしてですが、ロバの眼差しが印象的だった「バルタザール」でしたが、この作品では司祭の眼差しに引き付けられました。 司祭の眼差しの先にあったのは「娘の家庭教師と不倫する伯爵の姿」、「回心した喜びを告げる伯爵夫人の手紙と突然の死」、「イノセントな笑顔の少女の悪魔のような裏切り」、「正直さゆえに排斥される田舎医師の孤独とその死」、「世俗とのなれ合いを示唆する上級司祭の思わせぶりな笑顔」、エトセトラでした。 神の不在を暗示するかのような、こうした現実に対して、青年司祭によって日々書き綴られる日記の文面が映し出され、読み上げるナレーションがあります。 日記の次の日の出来事が、翌日の司祭の目の前に映し出されます。おおむね、映画はこの繰り返しで、もちろん、司祭には見えないシーンもありますが、ぼくにとって面白かったのは、現実 ⇒ 内省 ⇒ 現実という順序で映し出されて主人公の表情でした。 主人公が司祭という役ですから、当然、「神の存在」とか「信仰の不可能性」とかが話題なのですが、ぼくには、若い主人公が理解を超える世間の「悪意」や「不条理」と遭遇し、苦悩とアイデンティティの危機に落ちっていく様子を、実に無表情に撮っているところが、「バルタザール」のロバの表情描写と共通していて、興味深く思えました。 この作品は、実は映像が紡ぎだす物語の世界の表象としてではなくて、映像と観客との間に生まれる「裂け目」をこそ意識して作られているのではないかというのが見ながら感じたことでした。 それは、映し出される映像を、見ているぼくの自由勝手に任せるというか、見ているぼくの中で司祭の表情や、ほかの登場人物の行為について、「自由?」に想像していく「場所」のようなものを、映画が作り出しているということです。あてずっぽうで、かつ、デタラメを承知で言えば、「作品の零度」ということが、かなり意識されているのではないかということでした。 1950年代に、こういう作品が作られていたことは、ロベール・ブレッソンという監督の才能と考え方に負うところが大きいのでしょうが、やはり驚くべきことのように感じました。監督 ロベール・ブレッソン原作 ジョルジュ・ベルナノス脚本 ロベール・ブレッソン撮影 レオンス=アンリ・ビュレル音楽 ジャン=ジャック・グリューネンバルトキャストクロード・レデュジャン・リビエールアルマン・ギベールニコール・モーレイニコル・ラドラミルマリ=モニーク・アルケル1951年・115分・フランス原題「Journal d'un cure de campagne」2021・06・21-no57・神戸アートビレッジ(no15)
2021.06.27
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ロベール・ゲディギャン「海辺の家族たち」シネ・リーブル 予告編で見て、気になってやってきたシネ・リーブルです。とはいいながら、題名の印象でしょうか、さほど期待していたわけではありません。映画は「海辺の家族たち」でした。監督はロベール・ゲディギャン、フランスのケン・ローチだそうです(笑)。 始まるとすぐ、海に面したベランダでタバコを吸っていた老人が、脳出血でしょうか、脳梗塞でしょうか、倒れてしまいます。以後、この男性は一切言葉を口にできません、表情も無反応です。 実は、彼は、タバコをふかしながら一言つぶやいたのです。それが「残念だ!」 だったのか、それとも、もっとほかの言葉だったのか。 うかつにも、ぼくが亡失してしまったこの言葉が、この作品のすべての会話の底に流れていたことにラストシーンで気づいたのですが、あとの祭りでした。 イタリアの監督ヴィスコンティの作品に「家族の肖像」という、ぼくの好きな映画があります。この言葉を英訳すると「カンヴァセーション・ピース」になるということを、小説家の保坂和志が、同名の自作の中で書いていたような気がしますが、この映画はフランスの現代版「家族の肖像」でした。 父が倒れた「La villa」、田舎の家に、女優をしている娘アンジェルが帰ってきます。実家では、父のレストランを継いだ長兄のアルマン、若い恋人を連れた次兄のジョセフが待っています。この三人の子供たちも十分に「人生」というキャリアを生きた年齢にさしかかっているようです。ここから「一族再会」の「カンヴァセーション」が始まりました。 ポイントは、登場する人物たちすべてが「脇役」ではなくて、いわば「主役」として描かれていることでした。 意識の所在が不明な父親、三人の兄妹。隣人の老夫婦とその息子。次男の恋人、アンジェルに恋する青年、難民の三人姉弟、国境警備の軍人までほぼ10人の登場人物たち。 映画に登場する、その10人ほどの人物たちの「肖像」が、タッチの違いはあるにしても、海岸を捜査する軍人に至るまで、一人一人、「人」として、その姿が記憶に残る映画でした。 誰かと誰かの会話と回想の組み合わせが、何もしゃべることも表情を変えることもできない父親の周りを巡るかのように配置されていて、家族の記憶の物語の中心にいながら意識さえ確かではない「父親」が、決して、象徴的な存在としてではなく、今ここにいる一人の人間として、生きている人間として描かれているということを感じました。これは、稀有なことではないでしょうか。 映画の始まりに、不意打ちのようにつぶやかれた、父親の「ことば」は「カンバセーション・ピース」の、大切な一つの「ピース」として、映画の終わりになって光を放ち始めました。 高速鉄道が石造りの橋を渡ってさびれた村の上を通過しています。時代から取り残された海辺の村で再会した家族の数日間の「記憶」の物語の美しさもさることながら、ラストシーンで響く子供たちの名前を呼びあう声の木霊が「時間」を超え、父親の遠い意識に届いたかに見えるシーンの感動は何といえばいいのでしょう。 「リジョイス」という、ノベール賞作家のキーワードが自然と浮かんできて、涙があふれて困りました。ぼくにとっては美しい再生の物語でしたが、やはり老人の感想なのでしょうか。 ロベール・ゲディギャンという監督の作品で常連の俳優たちの出演のようですが、回想シーンに若かりし俳優たちの姿が自然に挿入されていて、その、あまりの「はまり具合」には驚かされました。 それにしても、ときおりの回想シーンのたびに涙がこみあげてくるのは、ほんと、なぜなのでしょうね。困ったものです。 マア、数年前の作品らしいですが、今年のベスト10に入ることは間違いなさそうです。拍手! 監督 ロベール・ゲディギャン 脚本 ロベール・ゲディギャン 撮影 ピエール・ミロン 美術 ミシェル・バンデシュタイン 編集 ベルナール・サシャ キャスト アリアンヌ・アスカリッド(アンジェル末娘) ジャン=ピエール・ダルッサン(ジョゼフ次男) ジェラール・メイラン(アルマン長男) ジャック・ブーデ(マルタン隣人) アナイス・ドゥムースティエ(ヴェランジェール次男の恋人) ロバンソン・ステブナン(バンジャマン漁師の青年) ヤン・トレグエ ジュヌビエーブ・ムニシュ フレッド・ユリス ディオク・コマ 2016年・107分・G・フランス 原題「La villa」 2021・06・22-no58シネ・リーブルno97
2021.06.23
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フロリアン・ゼレール「ファーザー」シネ・リーブル神戸 久しぶりのシネ・リーブル神戸でした。 2021年の4月25日に、5月11日までの予定で発令されていた兵庫県に対する緊急事態宣言が、先の見通しは立たないまま延期され、閉館している映画館はどうなることかと思っていましたが、なんと、シネ・リーブルをはじめOS系、松竹系、ああ、それからアート・ビレッジも再開しました。ほんと、よかったのですが、このタイミングも、微妙といえば微妙ですね。 マア、いろいろ気にかかることはありますが、早速やってきたシネ・リーブル、復活の最初の作品が「ファーザー」でした。今年、2021年のアカデミー賞でアンソニー・ホプキンスが主演男優賞をとった映画です。 アンソニー・ホプキンスといえば、トマス・ハリスの小説「羊たちの沈黙」(新潮文庫)の連作の登場人物、レクター博士の印象が焼き付いている名優ですが、目が怖いという印象ですね。 で、今日は、その「まなざし」を、見に来たわけです。先日見た「ノマドランド」のフランシス・マクドーマンドは、まあ、言ってしまえば「強さ」の「まなざし」を演じていたと思いましたが、アンソニー・ホプキンスはどんなふうに演じて、主演男優賞をかっさらったのでしょう、というわけです。 映画が始まって、最初にギョッとしたのは、映画の作り方、観客を引き込んでいく演出というのでしょうか、スクリーンに映し出される空間と時間のミステリアスな「ずらし」でした。 アンソニー・ホプキンス演じる老人、アンソニーの「意識が見ている世界」と「現実の世界」との「ずれ」の中に、観客として映像を見ている、ぼくならぼくを実に巧妙に引き込んでいく手法は、実に見事で、異様にリアルな現実喪失感を映像を見ている人間の意識に作りだしていくカットの組み合わせの工夫はただ事ではありませんでした。 しかし、ぼくは、正直、少々やり過ぎじゃないかという印象を持ちました。ぼく自身は引き込まれていく自分にあらがって、もう少し、この老人を離れて見ていたいという気持ちでした。 どうでしょう、こう思った、この気分さえ、作られた意識の反応かもしれないところが、この映画のすごさかもしれないわけで、だから、ココが評価されるのは当然でしょうね。 で、ちょっと引いた感じで見ていて興味ぶかく感じたのは、アンソニーが音楽を聴くことでした。音楽は彼の中で生きているということが、どういうことを意味しているのかは分からなかったのですが、とても気になりました。ただ、残念だったのはラジオのような小さな装置で聞いている音楽は、歌曲だったと思うのですが、その曲名と歌詞の内容が分からなかったことです。 もう一つ気にかかったのが、彼が部屋の窓から外を見ているシーンですね。向かいに見える公園や、下に見える通りをじっと見ているのですが、何を見ているか、どういう「意識」で外の世界は見えているのかが、妙に引っ掛かりました。 このチラシに写っていますが、いかがでしょう。この時アンソニーは何を感じながら何を見ていたのでしょう。人格の崩壊をサスペンスフルに畳みかけてくる映画の時間の中で、彼の、この表情に、もっとゆっくり見入っていたいというのが、ぼくの率直な感想でした。 やがて、映画は、老優アンソニー・ホプキンスの「演技」の真骨頂ともいうべき哀切きわまりないラストシーンを映し出します。 しかし、そのあとに本当のクライマックスがやってきたのでした。ぼく自身にとっても他人事とは思えないそのシーンをゆっくり撮り続けるだろうと思っていたカメラが、窓から外へ向かい、窓辺に佇むアンソニーの日ごろの視線をたどるように、通りを映し出し、最後に、繁茂した緑の葉を風にそよがせている木立を映したところでカメラは停止ししました。スクリーンには緑の木立が風に揺れ続け、やがて、音もなく暗転し、映画は終わりました。 すばらしいラストシーンでした。風に揺れる緑の木立が、こんなにも懐かしく、美しいことに気付かないまま、67歳を迎えようとしている老人がボンヤリ映画館の椅子に座っていることの哀しさが一気に押し寄せてきました。 教えてくれたのは、窓辺に佇む老優アンソニー・ホプキンスの、眩しげで、やさしいまなざしでした。監督 フロリアン・ゼレール製作 デビッド・パーフィット ジャン=ルイ・リビ サイモン・フレンド製作総指揮 オリー・マッデン ダニエル・バトセック ティム・ハスラム ヒューゴ・グランバー原作 フロリアン・ゼレール脚本 クリストファー・ハンプトン フロリアン・ゼレール撮影 ベン・スミサード美術 ピーター・フランシス衣装 アナ・メアリー・スコット・ロビンズ編集 ヨルゴス・ランプリノス音楽 ルドビコ・エイナウディアンソニー・ホプキンス(アンソニー)オリビア・コールマン(アン)マーク・ゲイティス(男)イモージェン・プーツ(ローラ)ルーファス・シーウェル(ポール)オリビア・ウィリアムズ(女)2020年・97分・G・イギリス・フランス合作原題「The Father」2021・05・14‐no46シネ・リーブル神戸no93
2021.05.22
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アントワーヌ・ランボー「私は確信する」シネリーブル神戸 この映画のチラシには「ヒッチコック狂」の完全犯罪 フランス全土の関心を集めた「ヴィギェ事件」と宣伝されていて、妻殺しを疑われながらも、一審で無罪判決を受けた大学教授が上告されて、という実話があるそうで、その裁判のドラマ化という、法廷もの映画でした。 法廷もの映画というのは、ぼくの好きなジャンルですが、最近、あまり見かけません。というわけで、普段はあまり読まない「チラシ」と「予告編」につられてやって来ました。見たのはアントワーヌ・ランボー監督の「私は確信する」です。 レストランの調理場で、女性のシェフが料理をしていますが、高級なフランス料理というわけではなさそうです。お昼ご飯を食べる食堂という感じのお店ですが、お昼の仕事を終えて女性は、黒人の同僚とシャワーを浴び、おやおや、そういう関係ですかという行為に及びます。それが映画の始まりでした。 この女性シェフが、実はシングルマザーで、この事件の探偵役のノラさんでした。彼女は、何の資格もないのですが、事件を担当することになった弁護士の、にわか助手として、膨大な通話記録から「真犯人」を見つけ出していく「女性探偵」へと変貌していくのですが、なぜそれほど気合を入れて「探偵」になってしまうのかよくわからないのがこの映画の残念なところでした。 「死体」のない殺人というミステリーを、法はどう裁くのかという筋書きで映画は進むのですが、当然、見ているぼくは、「で、真相はどうなの?」 という気分なわけです。そして、その気分を代行してくれるのがノラさんだったわけです。 真犯人と思しき男の、通話の矛盾を見つけ出し、事件の「真相」に迫っていくノラ探偵の様子は、ワクワクする展開なのですが、1審の陪審員だったことを隠していたことから弁護士と決裂し、疑った相手からは開き直られ、とどのつまりは、あわてて道路に飛び出して車にはねられるわ、職は失うわという展開で、「万事休す」となってしまいます。 ところが、そこからが弁護士の登場でしたね。ぼくは、敗色濃厚なこの裁判で、弁護士が何をするのか予想がつきませんでしたが、見終えてみると、なるほどそうかでした。 ぼくの好きな作家、大岡昇平に「事件」という「法廷小説」があります。野村芳太郎が同名の映画にしたのが1978年、大竹しのぶと渡瀬恒彦が印象的でしたが、その、小説にしろ映画にしろ、記憶に残ったのが「推定無罪」という「法」をめぐる概念でした。 「有罪」が証拠立てられる、あるいは、判決される以前の容疑者は「無罪」だということだったと思いますが、大事なことは「有罪」を論証するためには、原則として「物証」が必要だというのは、おそらくどこの国でも同じ事だと思います。 ただ、日本でも導入されているわけですが、「陪審員制度」で行われる裁判の場合、そのあたりがどうなるのかは、よくわかりません。おそらく単なる印象で判断してはならないくらいの心得は教えられているのではないでしょうか。 この映画の事件で、モレッティ弁護士は、なぜ弁護を引き受けたのかということを考えた時に、上に書いた「推定無罪」という原則に則れば「負ける」はずがないという読みだったのではないかと気づいたのは、彼の法廷での演説を聞いた後でした。 そういえば、最後の弁論を前にして「真犯人」という獲物を狙う「狼」のようになった探偵ノラに対して、モレッティ弁護士がいうセリフがこうでした。「その獣のような目つきは何だ。カン違いするな。この裁判は真犯人を見つけ出す場ではないんだ。」 とまあ、こう書きましたが、実は、正確な記憶ではありませんが意味はこうだったと思います。「真相」探しに熱中しているのらと、彼女がいかにそれをつかむのかと見入っていたボクにとって、なんとも鼻白む発言じゃないですか。 しかし、弁論をきけば「なるほどそうか」なのでした。実際、未解決の事件なわけで、オール実名で映画化しているスクリーンで「真犯人」を決めつめることはは無理でしょうね。でも、彼の演説の見事さが「推定無罪」を思い出させてくれたのはクリーン・ヒットでした。 弁護士役のオリビエ・グルメという役者さんも、ノラを演じていたマリナ・フォイスという女優さんもよかったですね。 ああ、それにしても、実話には存在しない「架空の人物」であるノラの「執着」の説明は、どこかにあったのでしょうか。そこが引っ掛かりましたね。監督 アントワーヌ・ランボー製作 カロリーヌ・アドリアン原案 アントワーヌ・ランボー カリム・ドリディ脚本 アントワーヌ・ランボー イザベル・ラザール撮影 ピエール・コットロー衣装 イザベル・パネッティエ音楽 グレゴワール・オージェキャストマリナ・フォイス(ノラ)オリビエ・グルメ(デュポン=モレッティ弁護士)ローラン・リュカ(ジャック・ヴィギェ)フィリップ・ウシャン(オリヴィエ・デュランデ)インディア・ヘア(セヴェリーヌ)アルマンド・ブーランジェ(クレマンス・ヴィギェ)ジャン・ベンギーギ(スピネル弁護士)スティーブ・ティアンチュー(ブルノ)フランソワ・フェネール(リキアルディ裁判長)フィリップ・ドルモア(検察官)2018年・110分・フランス・ベルギー合作原題「Une intime conviction」2021・02・26シネリーブルno83 大岡昇平の「事件」はこれです。創元推理文庫に入っているようですね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.03.07
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エリック・ロメール「緑の光線」元町映画館 元町映画館が企画に参加している「現代アートハウス入門」というシリーズの第4夜の上映に出かけました。今日はこのプログラムが狙いです。昨夜のトークの面白さに惹かれて、今日もやってきました。 今日は、ひいきの劇団「青年団」の脚本部にいたらしい深田晃司監督のレクチャーがありました。友人がブログで激賞している「淵に立つ」という映画の監督です。そういうわけで、興味はあるのですが、この人の作品は1本も見ていません。まず、本人のトークと出会ってしまったわけです。 映画はエリック・ロメール、最後のヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれることもあるらしい人で、ぼくでも名前だけは知っている監督ですが、この作品も含めて、たぶん、やっぱり1本も見たことのない監督の「緑の光線」という作品でした。 あちらこちらの美しい風景が満載の映画なのですが、実はデルフィーヌという女性、二十歳すぎでしょうか、パリで秘書か何かしているようですが、その女性が猛烈にしゃべりつづけた挙句、泣きだしてしまうという映画でした。 会話の場面が始まると、とにかく、しゃべるのですが、所謂、おしゃべりな女性というわけではありません。自分を取り巻いている他者に対しての違和感を「ことば」にしないではいられない様子なのですが、しゃべるハナから、相手には自分の言葉が通じていないことに苦しみ、泣き始める人物なのです。 映画は、この不安定な会話の場面を実にナイーブに活写しているのですが、見ているぼくは、少々「うんざり」してくるわけです。 普通に考えれば、他者とのコミュニケーションの不全に苦しむ自己などというものは、至極当然の現象なのだと言えるのですが、そういう、当然視する視点を与えられていないデルフィーヌは苦しみ続けるわけです。 そういう意味では、最近、何となく見かけがちな、過剰な自意識の登場人物たちが、他者世界とは微妙にずれていく「孤独?」を描く小説作品の世界と共通するものがあるかもしれません。言ってしまえば、今風な人物として、案外リアルなのかもしれません。 もっとも、ロメールには、まあ、当たり前と言えば当たり前ですが、すべて見えているようで、「緑の光線」を実際に目にするラストシーンにも、単純にハッピーエンドというわけにもいかない「不安」を漂わせているわけです。 「緑の光線」というのはグリーンフラッシュとも、緑閃光(りょくせんこう)ともいわれる自然現象で、太陽が完全に沈む直前、または昇った直後に、緑色の光が一瞬輝いたように見える現象らしいのですが、映画ではジュール・ヴェルヌの小説を偶然の会話ネタで使って、通りすがりの主人公にその現象を教え、最終的には「幸運の象徴」として、これを見せるわけですが、そのあたりの筋運びには笑ってしまいます。 まあ、そのあたりの事情は深田晃司さんのトークでも出てきますから、そちらをお読みください。 で、今回の深田さんのレクチャーですが、彼がこの映画にほれ込んでいる理由に、「青年団」の口語演劇に共通する「会話」の描き方があるという話は面白かったですね。 ぼくにとっても、我々のリアルな会話というのが、一対一のコミュニケ―所ではなく、その「場」に投げ込まれたノイズの集合としてあることに気付かせてくれたのは「青年団」の芝居だったのですが、深田さんがそのことを意識して映画を作っている人だとおっしゃっているのには「オッ!」と思いました。そういう人がいるのですね。 彼が「映画」に引き込まれていった最初の映画が「ミツバチのささやき」だったという話にも、グッときましたね。最後に、舞台上でマフラーを取り忘れて話していたことを恥ずかしがっていらっしゃったのもよかったですね。 興味のある方はネットの「現代アートハウス入門」でご覧ください。ああ、それからこれがライン・アップです。監督 エリック・ロメール製作 マルガレート・メネゴス脚本 エリック・ロメール マリー・リビエール撮影 ソフィー・マンティニュー編集 マリア・ルイサ・ガルシア音楽 ジャン=ルイ・バレロマリー・リビエール(デルフィーヌ)リサ・エレディア1985年製作/94分/フランス原題「Le rayon vert」2021・02・02・元町映画館no70
2021.02.04
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マルセル・カルネ「天井棧敷の人々」元町映画館 2021年の「映画始め」はこれと、年末から決めて、何と、予約チケットを二人枚購入して、アベック鑑賞をと、年が明けての上映開始を待ち構えていたつもりだったのですが、そこは老夫婦、新年そうそう襲いかかってきた寒波に、すっかり怖気づき、気づくと第2週ということで、お互いの、たいしてありもしない予定がバッティングして、10日を過ぎて、ようやく、結局、一人で出かけました。映画はマルセル・カルネが監督の「天井桟敷の人々」でした。 まあ、時節柄、行動する人数は少ない方がいいわけで、案の定、映画館ものんびりした客足で、支配人には申し訳ないのですが、実に快適な「映画始め」でした。 パリの街の雑踏、いや群衆シーンに一人の女性をカメラが見つけ出すところから映画は始まりました。 ヒロインのガランスの登場ですが、どうみても、あだな年増のオネーさんなのですが、パントマイムの芝居小屋の前でジャン=ルイ・バロー扮する、白塗りの男バチストと出会います。 アメリカ映画ならジーン・ケリーとかのタップダンスのシーンの使い方みたいな感じですね。ジャン=ルイ・バローの見事なパントマイムが披露されて、見ているこちらは、いつの間にか映画の中に吸い込まれているのです。バカ見たいなことをいいますが、これが映画ってものなんでしょうね。 ここから、だれもが何度も何度も、アッチやコッチで繰り返し見てきたにちがいない「ロマンス=物語」の典型が、型通り展開します。 偶然の出会いがあり、邪魔が入り、別れがあり、時がたちます。再びの出会いがあり、心の炎を確かめあい、ヒッシと抱き合い、この絵ハガキのように口づけする二人。 通俗といえば通俗、ありきたりといえばありきたり、にもかかわらず、とどのつまりのシーンで部屋を出てゆくガランスと、それを追うバチスタの姿に胸がときめく66歳のシマクマ君でした。 犯罪大通りの雑踏の中をガランスを乗せた馬車が遠ざかって、永遠に追いつくことができないバチストが群衆の中に取り残されます。彼には戻ってゆく世界も、もう、ありません。サイコー! フラレ男の話こそが、恋愛の真髄なのでしょうね。初めて見たわけではないのですが、映画館で見るのは学生時代以来です。大いに納得して、感想でも書こうかと思っていると、翌日でしたか、チッチキ夫人が見て帰ってきていいました。「ねえ、enfantってこどもでしょ。どうして『天井桟敷の人々』になるのよ?『楽園の子供たち」っていう意味じゃないの?」「ええー、そういえばそうだよね・・・」 考えてみればそうですよね。要するにバチストとガランスは、結ばれなかったアダムとイブなんでしょうかね。 上のチラシにもあるお芝居の舞台のシーンでは、ガランスはキューピッドのようですが、バチスト演じる「白い男」は何なんですかね。そのあたりはどうなっているんでしょうね。これだけ有名な映画です。きっと、だれかがどこかで解説しているのでしょうが、今はちょっとわかりませんね。 何はともあれ、今年も映画の日々がようやく始まりました。世の中は不穏で、二度目の非常事態宣言が神戸にも出ました。「新コロちゃん」と茶化していう雰囲気ではなくなっています。 しかし、映画と映画館は不滅であってほしいものですね。今年の最初のメッセージはやっぱりこうですね。映画館がんばれ!監督 マルセル・カルネ脚本 ジャック・プレベール撮影 ロジェ・ユベール マルク・フォサール美術 アレクサンドル・トローネル レオン・バルザック レイモン・ガビュッティ音楽 モーリス・ティリエ ジョセフ・コスマキャストジャン=ルイ・バロー(ジャン・バチスト)アルレッティ(ガランス・母親の名はレーヌ)マルセル・エラン(ピエール・フランソワ・ラスネール強盗・殺人を繰り返す男) マリア・カザレス(ナタリー「フュナンビュール座」の女優、座長の娘)ルイ・サルー(モントレー伯爵)ピエール・ルノワール(古着商ジェリコ)1945年・190分・G・フランス原題「Les enfants du paradis」配給「ザジフィルムズ」日本初公開:1952年2021・01・13元町映画館no68
2021.01.19
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リュック・ベッソン「レオン 完全版」CINEMA・KOBE なんというか、今更な映画を見ました。感想も、今更な、になりそうですが、リュック・ベッソンの傑作「レオン・完全版」です。 この記事を書いている今日は1月17日ですが、神戸で大きな地震があったころ公開されて、その後、テレビでも何度も放映されてきた映画です。流石のシマクマ君も、テレビでは見たことがありましたが、映画館で見るのは初めてです。 俳優の名前が、なかなか覚えられないシマクマ君ですが、ジャン・レノという俳優の顔と名前は一致することを確認しました。おそらく、今後、忘れることはないでしょう。 今回、新たに、ナタリー・ポートマンという少女の顔と名前を、名前はマチルダで覚えちゃうかもしれませんが、焼きつけられました。もっとも、あれから26年ですから、今のナタリー・ポートマンの顔を見ても、たぶんわからないでしょうね。 ニコール・キッドマンという女優さんの「ストレイ・ドッグ」という映画と二本立てで見ましたが、この映画との二本立てでは、かなりな映画に分が悪いでしょうね。女刑事の孤独と無骨な殺し屋の一人ぼっちを並べてお見せしましょうというのがプログラムの狙いかもしれませんが、「卵のゆで加減」 にちょっと差がついてしまいましたね。 繰り返しですが、今更、あれこれいう映画ではないのでしょうが、書き残しておきたいことが二つありました。 ひとつは、「映画の映画」ということですね。この作品の中にはレオンが「雨に唄えば」を映画館で見るシーンがあります。「ボニーとクライド」、「テルマとルイーズ」という、それぞれ、まあ、誰でも敷いてる映画の二人組のことをマチルダが、自分たちの二人組をたとえる例として挙げたりするセリフもあります。とりわけ、二人で「映画ごっこ」 をして、お互いにチャップリン、マリリン・モンロー、ジーン・ケリー、ジョン・ウェインに扮装するシーンの楽しさは、他の映画には、なかなかないシーンですね。 話の筋とは別にして、リュック・ベッソンという監督の映画に対する気持ちのあらわれた、いいシーンではないでしょうか。 ふたつめは、植木鉢を抱えながらニュー・ヨークの街角を二人が歩くシーンです。ネットでこんな写真を見つけましたが、このシーンは忘れられないでしょうね。なぜだかうまく説明できませんが、人が人と出会うということが、このシーンに凝縮されていると思いました。お互いが自分より大切に思う人と出会ってしまった瞬間というべきでしょうか。植木鉢を抱えているところが、大切なポイントなんでしょうね。 この映画は、見ている時には不思議と泣きませんでしたが、今この写真を見ると涙がこぼれそうです。 映画が終わって外に出るともう夜でした。ウインドーの灯りの中にマチルダが座っていました。 Cinema・KOBEは新開地本通りの南端近く、JRのすぐ北にありますが、兵庫まで歩きました。神戸にも非常事態宣言が出た翌日の夕刻です。人っ子一人いないJR神戸線の高架沿いの道でした。 月が出ているのを見あげながら、40年前の詐欺師と少女の映画を思い出しました。テータム・オニールとライアン・オニールが親子で共演していた映画、聖書売りの詐欺師のおっさんを助ける、あれも10才くらいの少女でした。「ぺーパー・ムーン」ですね。田舎者の大学生を映画館通いという、悪の道に引き込んだ作品の一つですね。70年代の傑作のひとつですね。 あの頃から、「オッサンと少女」 という組み合わせが好きだったんですね。まあ、そういう事は変わりませんね。監督 リュック・ベッソン製作 パトリス・ルドゥー製作総指揮 クロード・ベッソン脚本 リュック・ベッソン撮影 ティエリー・アルボガスト音楽 エリック・セラジャン・レノ(レオン)ナタリー・ポートマン(マチルダ)ゲイリー・オールドマン(ノーマン・スタンフィールド)ダニー・アイエロ(トニー)1994年・136分・PG12・フランス・アメリカ合作原題「Leon The Professional・ Uncut International Version」2020・01・15神戸シネマno1 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.01.15
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ジャン=リュック・ゴダール「女は女である」元町映画館 ミッシェル・ルグランの特集プログラムで、ゴダールの映画を2本見ました。1本目がこの映画、1961年に撮られた「女は女である」ですね。 御存知アンナ・カリーナがヨーロッパの、どこかの田舎からやって来たお上りさんで、場末のストリッパー、アンジェラを演じ、恋人のエミール(ジャン=クロード・ブリアリ)は、パリの小さな書店に勤める青年であるという設定の「コメディ」です。 ストリッパーと本屋の店員のカップルというだけで、もう、ぶっ飛んでいるのですが、そのストリッパーのアンジェラが、突然、24時間以内に赤ちゃんが欲しいと言いだすわけです。 エミール君はなんやかんやとしり込みするのですが、アンジェラは、「それならほかの男に頼む」と言い放ち、エミール君は「勝手にしろ。」と応酬します。というわけで、アパルトマンの下の階に住む、駐車場のパーキングメーター係のアルフレード(ジャン=ポール・ベルモンド)の登場です。 こんな感じですね。 で、あれこれあって、結局、エミール君のところに帰ってきます。ホッとしたのでしょうか。エミール君は、試しに子どもをつくってみようとアンジェラに抱きつき、アンジェラは寝室のカーテンを閉じて映画は終わります。 ミュージカルらしいのですが、歌は歌いません。別にダンスもありません。にもかかわらず、こんなシーンが印象に残ります。 二人で映画のシーンを作っていますが、カメラがあれこれやっているわけではないのですね。きいたふうなことを言い始めると、いろいろありそうですが、何なんですかね、この映画。 20代に観たような、ぼんやりとした記憶があるのですが、若かりし日のシマクマ君は、一体何に心をつかまれたのでしょうね。 ジャン=ポール・ベルモンドもアンナ・カリーナも若いですね。映画の中で遊んでいるようです。それはそれで、今見ても、なかなかいいんですが、「女は女である」という題名の意味も、全く分かりませんでしたね。ホント、何なんですかね?この映画? クエッション・マークが二つ入りますねヤッパリ(笑)。監督 ジャン=リュック・ゴダール製作 カルロ・ポンティ ジョルジュ・ド・ボールガール脚本 ジャン=リュック・ゴダール撮影 ラウール・クタール美術 ベルナール・エバン音楽 ミシェル・ルグランキャストジャン=ポール・ベルモンド(アルフレード・リュビーシュ)アンナ・カリーナ(アンジェラ)ジャン=クロード・ブリアリ(エミール・レカミエ)マリー・デュボワ(アンジェラの友人)1961年・84分・フランス原題「Une Femme est une Femme」日本初公開:1961年12月8日2020・09・29・元町映画館no67
2021.01.06
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ロベール・ブレッソン「バルタザールどこへ行く」神戸アートヴィレッジ 実は、ロベール・ブレッソンの特集で、「少女ムシェット」と週替わりのプログラムでした。で、「バルタザールどこへ行く」が前の週でしたが、「バルタザール」を見た翌週に扁桃腺をはらしてしまい、「少女ムシェット」は見損なってしまいました。というわけで、「バルタザールどこへ」の感想を、とりあえず載せることにしました。 ロバのバルタザールの誕生から、その幸せな生い立ちにもかかわらず、なんとも、不幸な一生の物語でした。 あどけない少女マリー。少女の幼馴染みなのでしょうね、農家の少年ジャック。生まれたばかりだったでしょうか、ロバのバルタザール。フィルムが廻りはじめて、すぐに気づきました。 「この映画は、30年以上前に見たことがある。主役はロバだ。」 で、そのとおりでした。 畑で犂を引くバルタザール。子どもたちを載せた馬車を引くバルタザール。粉ひきの臼を、鞭打たれながら、立ち止まり、立ち止まり引くバルタザール。再会したマリーに、頭や首すじを撫でられながら遠くを見るバルタザール。サーカスのバルタザール。酒乱の飼い主を背に載せ、主が転がり落ちたすきに、ヨタヨタと逃げ出すバルタザール。こん棒で打たれ、蹴りつけられるバルタザール。密輸の荷を積み上げられて山を登ってゆくバルタザール。流れ弾に当たり倒れているバルタザール。羊たちが草を食む草原で静かに息を引き取るバルタザール。 ロバとはいえ名優バルタザールの名演技が、少女マリーの不幸な有為転変を見事に際立たせてゆきます。 このポスターをご覧ください。ただのロバとして画面の下方で、うれしいのか悲しいのかわからない顔付きでそっぽを向いているバルタザールがいます。 右手で彼の首を抱え込み、鼻筋をなでる、美しい少女マリーの眼差しが、まず、印象に残ります。 しかし、フィルムは回り続け、ロバであるからという理由だけで、なにを考えているのかわからないと思い込んでいたぼくの前に、生きていることの哀しさをたたえたバルタザールの眼差しのクローズアップが、繰り返し突き付けられ、最後に眠るように息を引き取ってゆく姿が映し出されるに至って、名優バルタザールの存在に気付くことになったのでした。 たしかに、ポスタ―でも、このチラシでも、お気づきだと思いますが、少女マリーを演じたアンヌ・ビアゼムスキーの表情のすばらしさがこの映画の見どころであることは間違いありません。しかし、バルタザールの存在なしには、映画そのものが成り立たないのではないでしょうか。 いやはや、それにしても、すごい映画でしたね。ぼくは40年前に、いったい何を見ていたのだろうと、つくづく思いました。監督 ロベール・ブレッソン製作 マグ・ボダール脚本 ロベール・ブレッソン撮影 ギスラン・クロケ美術 ピエール・シャルボニエ編集 レイモン・ラミ音楽 シューベルト ジャン・ウィエネルキャストアンヌ・ビアゼムスキーフランソワ・ラファルジュフィリップ・アスランナタリー・ジョワイヨーバルダー・グリーンジャン=クロード・ギルベール1966年・96分・フランス・スウェーデン合作原題「Au Hasard Balthazar」配給:コピアポア・フィルム、lesfugitives日本初公開:1970年5月2020・12・05アートヴィレッジ(no13)追記2023・05・12 最近、ポーランドのイエジー・スコリモフスキ監督の「EO」というロバが主役の映画を見ました。スコリモフスキ監督がこの「バルタザールどこへ行く」にインスパイアーされて作ったと評判の映画でした。 で、昔の記事を思い出して修繕しました。で、比較してしまうのですが、この映画の「そっぽを向いているバルタザール」 が、やっぱりすごかったのだということを感じました。まあ、何故すごいのかはわからないのですが、スゴイです!
2020.12.23
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セリーヌ・シアマ「燃ゆる女の肖像」シネリーブル 映画の始まりは、絵画教室のようです。女性ばかりの生徒に絵を教えているのはモデル役の女性のようです。生徒の一人が、彼女の作品であるらしい絵について何か言います。それがチラシにあるスカートが燃え上がっている様子の肖像画でした。見たのはセリーヌ・シアマ「燃ゆる女の肖像」でした。 そこから、その肖像画について、その画家のモノローグとして物語が始まりました。時代は18世紀のようです、小さな船に乗って女性画家マリアンヌが島につきます。 チラシによればフランスのブルターニュ地方の島で、彼女は領主である貴族の邸に呼ばれ、結婚を控えた娘の肖像画を描くためにこの島にやって来たようです。 ボートに乗っている最初の場面から、画材を海に落とした画家が服を着たまま海に飛び込むという、妙に印象的なシーが挿入されていて、屋敷に到着した彼女がずぶぬれなのですが、さて、この「水の女」の運命やいかにというわけですが、本人の回想ということですから、死んじゃったりはしないのです。 面白かったのは、画家の回想という手法の結果、「部屋」であるとか、「海辺」、「草原」、「燃え上がる炎」といった映像がとても、そしてかなり意図的な印象で、「絵画的」に美しい ことでした。自然の描写はもちろんですが、部屋の調度や壁の写し方、女性たちの衣装の写し方、映り方は「絵のよう」でした。 もう一つ、主人公が「画家」であることによって、映画において強調されていたのが、モデルを拒否する対象を盗み見ることから始まり、一方的に見つめ続ける、凝視することによる「美」の発見へと至るイメージが強調されてる映像で、「絵描き」と「モデル」という関係であればこそのリアルで、わざとらしさが、上手に回避されていました。 さて、互いが「見つめ続ける」ことによってはじまるのが、例えば、スタンダールの「恋愛論」で有名な「結晶化」です。 見つめ続けることで、そこから「美」を生み出していくのが画家マリアンヌの仕事ですが、その画家が女性であり、自らの内面に宿る「美」を形象化していく画家を見つめ続ける伯爵令嬢エロイーズもまた女性であることが、おそらく、この映画の肝心なところなのでしょうね。 残念ながら、この二人の間に生まれる「結晶化」の顛末に関しては、何となくありきたりな印象を持ちました。 とはいうものの、チラシのシーンですが、スカートに燃えうつる炎として描かれる、伯爵令嬢エロイーズの、思いがけない「愛」の発見の描写と、いったんは結ばれるのですが、結婚によって別れを余儀なくされた画家マリアンヌとの、偶然の再会の場で、マリアンヌの「眼差し」を、確かに感じながら、決してふりむくことなく、「埋火」のように燃え続ける「愛」をビバルディの音楽が強調するラストシーンのエロイーズの表情には、一種、異様な美しさが宿っていることは確かだと思いました。 「水」、「炎」、「絵画」、「音楽」、ネタは山盛りで、最初に触れた「水の女」のネタも誰かが語りそうな、凝った映画だと思いますが、ちょっと型通りだったように思いました。 偏見で言うわけではありませんが、女性しか出てこない不思議な映画で、監督も女性なのだろうと思って確かめると、やはり、そうだったことに笑ってしまいました。監督 セリーヌ・シアマ製作 ベネディクト・クーブルール脚本 セリーヌ・シアマ撮影 クレール・マトン衣装 ドロテ・ギロー編集 ジュリアン・ラシュレー音楽 ジャン=バティスト・デ・ラウビエキャストノエミ・メルラン(肖像画家マリアンヌ)アデル・エネル(伯爵家令嬢エロイーズ)ルアナ・バイラミ(召使ソフィル)バレリア・ゴリノ(伯爵夫人)2019年・122分・PG12・フランス原題「Portrait de la jeune fille en feu」2020・12・08・シネリーブルno76 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村にほんブログ村
2020.12.14
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ジャック・ドゥミ「ロバと王女」元町映画館 ミッシェル・ルグランの特集映画シリーズの中の一本、ジャック・ドゥミ「ロバと王女」を元町映画館でみました。1970年、今から50年前の映画です。 まあ、何といってもカトリーヌ・ドヌーブです。お母さんの王妃カトリーヌ・ドヌーブより美しい、お母さんがなくなると、お父さんの大さまから求婚される娘の、王女カトリーヌ・ドヌーブがいます。 この方ですね。物語がシャルル・ペローの童話なので、「青の国」の家来たちが顔を青く塗っているとか、「父が娘に求婚する」とかいう話しの展開の理不尽に呆れても仕方がないのですが、一人二役の母より美しいむすめというのが、同じ女優の、同じ顔という所に、「カトリ―ヌ・ドヌーブ」という女優さんが、1970年当時、少なくともフランスで、どういう存在だったのかが、あらわれているとは思いますが、ちょっと、想像が及ばないですね。 その上、この映画は「コケタ」わけではなくて、当時の大ヒット作なんだそうです。スゴイもんですねえ。 さて、その王女様ですが、「リラの妖精」の力を借りて、金貨とか宝石を生む、超お宝の「ロバ」の皮を被り、お城を逃げ出して、頬っぺたに泥を塗った「ロバの皮」の娘のカトリーヌ・ドヌーブになって「赤の国」で暮らすことになりますが、それが最初の写真です。 そこから、今度は「赤の国」の王子様に求婚されて、復活したのがこの写真です。 で、どれが一番「美しい」のでしょうというのが、この映画が突き付けた「問い」ですね。答えは、当然ひとつで、「どれも同じである。」です。(笑) まあ、泥を塗っても少しも容色が衰えない最初に載せた「ロバの皮」の姿が、ぼくは好きなのですが、皆さんはいかがだったでしょう。 で、このおとぎ話、仕込みはそれだけじゃないんですよね。遊び心というかなんというか、とどのつまりには、王子との結婚式に駆け付けた、王様と新しいお后「リラの妖精」は、なんと「ヘリコプター」で登場してチャン!チャン!なのです。 笑わせにかかった、フランス映画って、ホント、際限を知らないということなのでしょうね。英語なら「ウィット」、フランス語なら「エスプリ」というのでしょうか。笑うよりしようがないですね。 監督 ジャック・ドゥミ 製作 マグ・ボダー 原作 シャルル・ペロー 脚本 ジャック・ドゥミ 撮影 ギスラン・クロケ 音楽 ミシェル・ルグラン キャスト カトリーヌ・ドヌーブ(青の国の王妃・王女・ロバの皮) ジャック・ペラン(赤の国の王子) ジャン・マレー(青の国の王様) デルフィーヌ・セイリグ(リラの妖精) ミシュリーヌ・プレール(赤の国の王妃) フェルナン・ルドゥー(赤の国の王様) 1970年・89分・フランス 原題「Peau d'ane(ロバの皮)」 日本初公開:1971年8月7日 2020・10・06元町映画館no56・写真は「映画.com」から。追記2020・10・15この映画から、50年後のカトリーヌ・ドヌーヴを是枝裕和が撮った「真実」の感想はこちらからどうぞ。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.14
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アニエス・バルダ「5時から7時までのクレオ」元町映画館 60年前、フランスのヌーベルバーグの先頭に立っていた一人アニエス・バルダの「5時から7時までのクレオ」を見ました。映画音楽では忘れることのできない「ミシェル・ルグラン特集」で取り上げられた一作です。 カード占いのシーンから始まります。全編でこのシーンだけがカラーで、あとは白黒ですが、その組み合わせが印象的でした。 コリンヌ・マルシャンという女優さんが演じるシャンソン歌手のクレオのある日の午後が、時刻のクレジットをスクリーンに刻みながら入れながら進んでいきます。 この方が「死」の妄想に憑りつかれた女性ですが、彼女の、今日の、今この時が映像になって進行します。出来事に妙な空白感があるのは、かえってリアルですが、どこかで、見ている観客をからかっているような、ちぐはぐとした滑稽感も漂っています。 たぶん「死」をめぐる無意識が、意図的に映像化されているのだろうと思いますが、そこに漂うちぐはぐ感が面白さだと思いました。 この文章の書き出しで、アニエス・バルダの映画であることを書きましたが、実は、彼女の映画だと気づいたのはそのあたりのムードでした。 占い師の手、顔、秘書だかマネージャーだかの顔、もちろん、クレオの手と顔もですが、写真のようなアップの繰り返しです。アップされた、手つきとか、顏つきが突如迫ってきて、声には出しませんが、笑えるのです。そして鏡。何故、妙におかしいのか、この60年前のフランス映画が何を写しだそうとしていたのか、奇妙な不思議さは印象に残りました。 いろいろな批評がある映画なのだろうと思いましたが、例えば、映像の中の「街並み」や「ジュークボックス」が古いのではなくて、ここで映し出されている人間の有様が古いと感じたのはなぜなのか、とても気がかりな「問い」を残した映画でした。 監督 アニエス・バルダ 製作 ジョルジュ・ド・ボールガール カルロ・ポンティ 脚本 アニエス・バルダ 撮影 ジャン・ラビエ ポール・ボニ アラン・ルバン 美術 ベルナール・エバン 音楽 ミシェル・ルグラン キャスト コリンヌ・マルシャン アントワーヌ・ブルセイユ アンナ・カリーナ ジャン=クロード・ブリアリ エディ・コンスタンティーヌ サミー・フレイ ミシェル・ルグラン ダニエル・ドロルム セルジュ・コルベール 1961年・90分・フランス・イタリア合作 原題「Cleo de 5 a 7」 日本初公開:1963年5月24日 2020・09・28・元町映画館no54追記2022・12・16アニエス・バルダの「冬の旅」という作品を見てきました。「どうして、この少女はこんなにも切なく描かれなければならないのだろう!」そんな気持ちで見終えましたが、家に帰ってきて、ようやく、アニエス・バルダの作品だったことに思い当たり、3年前のこの映画のことを思い出して、読み直しながら、まあ、何が言いたいのかわからないことはともかく、彼女の描く若い女性は明るい未来とは縁遠いことに納得しました。ボタンをクリックボタン押してね!
2020.10.01
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ブノワ・ジャコー「カサノヴァ 最期の恋」アートヴィレッジ 新コロちゃん騒ぎが始まって半年たちましたが、6月に復活した映画館で、以前と変わったことがいくつかあります。 折角の現場体験ですから、ちょっと、数え上げてみます。 劇場にやってくると、とりあえずアルコール消毒して受付に向かいます。受付にはビニールのカーテンが下りています。チケット買って、あるいは、買う前に入口で体温を測るところが生まれました。今日のアートヴィレンジだとこんな機械です。 あるところとないところがありますが、必ずしも正確というわけではなさそうです。38度5分ですと宣告されて、青ざめたところもありますが、次に身体直接タッチ式が現れて、もう一度びっくりしました。 劇場内では、客席が一つ飛ばしになりました。これは全館共通しているようです。経営者には申し訳ないのですが、ぼくは歓迎しています。 劇場内での飲食に、新たに制限が設けられたところもあります。予告編の時間に注意事項が流れますから、劇場内でのおしゃべりが減りました。 観客数が、以前に比べてかなり減っているのは気の毒だと思いますが、お客さんは皆さんマスク着用で、静かに座って「よいこ」の集団です。 劇場によっては、ホールのベンチが撤去されたところもあります。小さな劇場では気になりませんが、アートヴィレッジのような、少し広いホールにテーブルが並んでいるような場所で、座席が完全に撤去されているのはちょっと辛いものがあります。 もっとも、ここの場合、地階の劇場入り口のベンチは利用できますから、ぼくのような、とりあえず座りたがる老人に気を使っていらっしゃることは確かで、ありがたいことです。 まあ、そういうわけですが、こういう変化に、思いのほか簡単に順応して、以前を忘れている自分が少し変だとは思います。 で、今日は思いがけない体験をしました。やって来たアートヴィレッジの作品はブノワ・ジャコーという監督の「カサノヴァ 最期の恋」でした。 一応、R18+という分類ですから、昔でいえば、「成人映画」というわけで、ちょっと、ときめきました。中に、女性の豊満な、白いお尻のシーンはありましたが、最後まで見た結果は、そういえばいえる程度だと思いました。 希代の色男カサノバが、「若い娼婦にフラれた話」を、家庭教師をしている、これまた、もっと、若い女性に語る話でした。今話している、その女性とはどうなるのかという期待はまったく外れました。 カサノバとマリアンヌ・ド・シャルピヨンという若い娼婦とのやり取りなのですが、こういう話を「恋物語」として見る感受性は、ぼくにはもうないことがよくわかりました。カサノバ役のバンサン・ランドンという役者さんは、なかなか渋くて、上手な俳優さんだと思いましたし、相手役のステイシー・マーティンという女優さんも悪くなかったのですが、「恋の葛藤」は退屈でした。 それより、この映画は18世紀のヨーロッパの風俗映画としての見ごたえがありました。会話に現れる人間模様もそうですが、男女の衣装や鬘、部屋の内装や庭の迷路、そして馬車です。 大型の馬車の中で、カサノバがヒマな貴族のおばさん、失礼、御婦人と「ことに及ぶ」シーンには、思わず身を乗り出した(ウソですが)のですが、すぐにカットが切り替わって馬車の外側からのシーンになってしまいました。 フランス文学の鹿島茂さんに「馬車が買いたい」(白水社)という名著がありますが、その中で、クーペとかセダンという、自動車の形式を呼ぶ用語は、みんな馬車の形式で使われていたものだという解説があったことを思い出して、目の前に映画に出てくる「馬車」のどれがクーペで、どれがセダンなのか、その中で不埒な行為はどうやって実行されるのか、まあ、興味津々という感じでした。 というわけで、結構楽しい映画だったのですが、いちばんの経験は、それを一人で見たことでした。劇場借り切りの「個人上映会」だったのです! 一人しかいないホールというのは、いわく云い難いものがありましたよ。 ホールを出るときに、入場係の女性から「ご苦労様でした。」と声をかけられて笑ってしまいました。 それにしても、こんな経験できたのも、新コロちゃんのせいでしょうね。まったく困ったものです。 監督 ブノワ・ジャコー 製作 クリスティナ・ラルサン ジャン=ピエール・ゲラン 脚本 シャンタル・トマ ジェローム・ボジュール ブノワ・ジャコー 撮影 クリストフ・ボーカルヌ 美術 カーチャ・ビシュコフ 衣装 パスカリーヌ・シャバンヌ 編集 ジュリア・グレゴリー 音楽 ブリュノ・クーレ キャスト バンサン・ランドン(ジャコモ・カサノバ) ステイシー・マーティン(マリアンヌ・ド・シャルピヨン) バレリア・ゴリノ(話を聞いている女性) 2019年・100分・R18+・フランス・ベルギー・アメリカ合作 原題「Dernier amour」 2020・09・17神戸アートヴィレッジセンター(no10) にほんブログ村にほんブログ村
2020.09.26
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エリック・トレダノ オリビエ・ナカシュ「スペシャルズ!」シネリーブル神戸 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話 朝からシネリーブル、アートヴィレッジ、パルシネマ、どこで何を見るか悩んでいました。 シネリーブルには見たい映画が複数ありましたが、結局、選んだのは「スペシャルズ!」でした。話題作「最強の二人」の監督コンビの新作らしいのですが、「最強の二人」を見ていないので、判断の材料になりません。 結局、選んだ理由は「1本見終わった後、もう一本見たらええやん。」 でした。ヒマですね(笑)。 躊躇した理由は「題名」でした。副題はいいのですが、「スペシャルズ!」ってなんやねん? という気分だったのでした。 ところが結果は大当たりでした。同じフランス映画で「レ・ミゼラブル」にノックアウトされたのが、今年の春でしたが、現代フランス映画に連続してぶっ飛ばされました。 実は、映画を選ぶときに、躊躇していたもう一つの理由は「自閉症」という言葉にありました。 ぼくは長い間、「普通」の学校教育の現場で暮らしてきました。「自閉症」という言葉が、その、教育現場でどんなふうに扱われてきたか、「学習障害」や「多動」といった言葉が「職場」でどういう意味を持ったのか、振り返ると気が滅入る事象が次々と浮かんできます。「おたくのお子さんについて、ぼくは医者ではありませんから、特別に出来ることはありません。」 進級して、ぼくのクラスになったある生徒、自閉症と診断されていた少年の母親が、前担任の発言をそう伝えてくれました。そして、一言こう付け加えました。「先生も、そうなんですか?」 その後の顛末はここには書きませんが、この映画が「そういう世界」を描いているのであれば・・・・という躊躇でした。 結果的に「スペシャルズ!」と題されたこの映画は「そういう世界」を描いていました。そして、見終わったぼくはぶっ飛ばされたのでした。 「現代」という社会では資格によって認定された「職業名」が、その責任範囲を明確にし、例えば、病院で有資格の医師が患者を診察、治療し、学校では教員が生徒と出合います。 この社会の常識では、この映画のような「無認可の自閉症支援施設」や、「資格を持たない支援員」は「危険」であったりするわけです。 しかし、それならば、高速道路の真ん中を、その場の「危険性」に気付きもせずに歩いている青年を、一体どういう「資格」の持ち主が救うことができるでしょうか。 それが、この映画が、見ているぼくに、真っ向から問いかけてきた問いでした。 問いは厳しいのですが、答えはシンプルでした。ぼくなりに言いかえますが、「いきもの」である「人間」として、「人間」である「他者」と出合うということ でした。 映画の中に、動物による療法の場面でしょうね、自閉症の子供たちに触られる馬の顔と、その馬の見ひらいた眸がアップされる印象的なシーンがあります。 もう一つのシーンは、コミカルといっていいかもしれないシーンです。主人公の一人、ブリュノが、仕事に出かけることが不安なジョセフ青年に5秒間ほど、肩を貸す場面です。額をブリュノの肩に、ジーっと押し付けたジョセフは、気が済むと走って仕事場に向かいます。 ジョセフはボタンがあれば押したくてたまらないし、好きになった人には頭を押し付けたくて辛抱できない青年です。そのために職業訓練に失敗してしまうのですが、その二つのシーンが語っていたのは、ブリュノは子供たちに触られる馬であり、馬はジョセフに肩を貸すブリュノだということでした。 自閉症児たちの生活の予測できない「危険」を避けるために、彼らを「安全」の中に閉じ込める考え方があります。その考え方は彼らから「自由」に生きることを奪います。 激しい発作を起こした少年に対して、「安全」確保のためのマットレスが大急ぎで床に引かれ、その上で少年が看護士二人がかりで抑え込まれるシーンがあります。「資格」を持った医療従事者の判断は的確で、敏速です。ベッドに寝かしつけても発作のおさまらない場合には、鎮静剤が処方され、マットレスを張り巡らせた部屋に「閉じ込める」ことになるのでしょう。 映画は無資格者の支援が自閉症の人間にとって、いかに危険であるか、容赦なく実相を映し続けます。仕事欲しさに「支援」者を目指す、貧困で、文盲で、癇癪持ちの黒人青年ディランの行動は、最も危険な「支援」の実例として映し出されているかのようです。 しかし、映画が問いかけていたのは、「危険」にさらされている自閉症の人々と、最も危険な「支援」者ディラン青年との「出会い」の可能性 でした。 この可能性を否定してきた私たちの社会は自閉症の人々だけでなく、私たち自身をも「医者ではない」という、「資格」を盾にした言い訳の中に閉じこめてきたのではないでしょうか。「私の子供は人間という『いきもの』なのですが、先生も人間という『いきもの』ですか?私の子供のそばに立ってもらえますか?」あのときの母親が、ぼくに尋ねていたのはそういう問いだったのではないでしょうか。 そのことをまざまざと思い起こさせたこの映画は忘れられない作品になるに違いありません。 調べてみると、バンサン・カッセルのブリュノとレダ・カティブのマリク以外のキャストの多くは、自閉症支援施設で仕事をしている若者や自閉症児だそうです。 二人の名優が、「俳優」とか「演技」という「資格?」を脱ぎ捨てたかのような姿でスクリーンに登場するありさまは、なにげないシーンにドキュメンタリーの迫力を感じさせました。 ちなみに、フランスでの原題は「Hors normes」で直訳すれば「ノーマルの外」、「異常」でしょうか。映画全体が、何が「異常」なのかを問うていると見たぼくには、こっちのほうがいいですね。 エリック・トレダノ とオリビエ・ナカシュというの二人の監督に脱帽でした。こうなったら「最強の二人」を見ないわけにはいきませんね。 監督 エリック・トレダノ オリビエ・ナカシュ 製作 ニコラ・デュバル・アダソフスキ 脚本 エリック・トレダノ オリビエ・ナカシュ 撮影 アントワーヌ・サニエ 編集 ドリアン・リガール=アンスー 音楽 グランドブラザーズ キャスト バンサン・カッセル(ブリュノ) レダ・カティブ(マリク) エレーヌ・バンサン ブライアン・ミヤルンダマ アルバン・イワノフバンジャマン・ルシュール マルコ・ロカテッリ カトリーヌ・ムシェ フレデリック・ピエロ スリアン・ブラヒム 2019年・114分・フランス 原題「Hors normes」 2020・09・15シネリーブル神戸no66ボタン押してね!
2020.09.19
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ジャン・ルノワール「フレンチ・カンカン」元町映画館 元町映画館の「復活の日」第二弾は、御存知、ジャン・ルノワール「フレンチ・カンカン」でした。チラシがなかったので、看板の写真です。 1954年につくられた「名画」中の「名画」ですね。なんか絵画みたいですが、映画です。なんてことを聞いた風にいってますが、実は初めて見ました。そして、感心じゃなくて、感動しました。ここからどれほどの映画が、この映画を観た人によって作られたのでしょう。しみじみ、そんな感想を持ちました。 この映画を見た数日後、テレビで矢口史靖という人の「ウォーターボーイズ」という映画をぼんやり見ていて、「ああ、この人もジャン・ルノアールの、あの映画をきっと見たんだろうな」って思いました。そっくりです。 懐かしいジャン・ギャバン。二人の踊り子の、恋というよりもスターの座を争う鞘当て合戦。何といってもロートレックが愛し、極東の島国のフランスかぶれの文学青年が憧れた、キャバレー「赤い風車」、ムーラン・ルージュの誕生秘話。そして、圧巻は最後に繰り広げられるフレンチ・カンカンの群舞。 「素晴らしい!」 まあ、その一言でした(笑)。 いやはや、映画館「復活の日!」を飾るプログラムとしては、「ニュー・シネマ・パラダイス」といい「フレンチ・カンカン」といい、実に申し分なしでした。 なんといってもシマクマ君と同い年、1954年生まれの映画を用意して待ち構えてくれた元町映画館に、心から拍手!監督 ジャン・ルノワール 脚色 ジャン・ルノワール 原案 アンドレ・ポール・アントワーヌ 台詞 ジャン・ルノワール 製作 ジャン・ルノワール 撮影 ミシェル・ケルベ 美術 マックス・ドゥーイ 音楽 ジョルジュ・バン・パリス 録音 Antoine Petitjean編集 Borys Lewin 衣装デザイン ロジーヌ・ドラマレ 振り付け Claude Grandjean キャストジャン・ギャバン (Danglar)フランソワーズ・アルヌール (Nini)マリア・フェリックス (Lora (La BelleAbbesse)フィリップ・クレイ (Casimir)ミシェル・ピッコリ(Paulo) エディット・ピアフ(Eugenie Buffet)1954年・フランス 原題「FrenchCancan」2020・06・18元町映画館no48追記2020・06・24「ニューシネマ・パラダイス」の感想はこちらをクリックしてみてください。
2020.06.25
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アニエス・ヴァルダ「ラ・ポワント・クールト」元町映画館 緊急事態宣言発令の直前の、元町映画館で、ぼくはアニエス・ヴァルダの3本立て特集を観ました。この映画が1955年に撮られたヴァルダの長編デビュー作だそうです。「ラ・ポワント・クールト」は舞台になっている港町の名前だそうですが、「岬の先」くらいの意味のようです。 チラシの中ほどにある男の横顔と女の正面を向いた顔が直角に交差している写真がありますが、このモノクロ映画の一シーンです。 現実に、二人の人間がこのような重なり方をするシーンは十分あり得ますが、この角度で、この重なりを見ると意識することはよくあることとは言えないでしょう。ここに、若き日のアニエスがいるわけです。 70年代の学生たちは「これがヌーベルバーグだ!」と吹き込まれたことを鵜呑みにして、フランスのヌーベルバーグと呼ばれる監督たち、ゴダールやトリュフォーといった人たちの作品に飛びつき、憧れるために憧れたわけですが、何処がヌーベルバーグなのか解っていたわけではなかったということがよく解りました。 今見ても、映像の作り方が斬新なのです。立ち上がり始めた「物語」に亀裂を入れるかのような、こんなシーンが突然現れます。たとえばこのシーンは先ほどから続いていた、二人の会話のシーンの一部なのです。 ここだけ、ストップモーションで写真が挿入されているような印象とともに、見ている側の意識の中で、ようやく立ち上がりかけていた男と女の心理に、新たな陰影を残します。 映画.com「ラ・ポワン・クールト」フォトギャラリー 映画全体には、さしたるドラマがあったとは思えません。鄙びた港町がドキュメンタリーなタッチで素描されていて、それはそれで飽きないのです。飽きないといえば上の写真のようなシーンです。いいでしょ。しかし、見ているぼくにはこの港町に、主人公(?)の二人がいる理由がわかりません。 どうしても、意識はそこを追うわけです。が、結局よくわかりませんでした。にもかかわらず、ただ事ではなさそうな印象だけは残るのです。 結局、女はパリに帰ります。見ているぼくは、あまりなアンチクライマックスにため息をつくという結果でした。 にも関わらず、この映画は記憶に残りました。ぼくはあまりそういう見方をするわけではないのですが、ストーリーではなく、映像の面白さです。 彼女はヌーベルバーグの祖母と呼ばれているらしいのですが、何故、祖母なのかは知りません。が、確かにここには「新しい」ものがあると思いました。 さあ、意味不明な感想ですが、アニエス・ヴァルダをどこかの映画館で見せてくれる企画があれば、ぼくは必ず駆け付けますね。それは確かです。監督 アニエス・ヴァルダ編集 アラン・レネキャスト フィリップ・ノワレ シルビア・モンフォール1955年80分フランス原題「La Pointe Courte」2020・04・07元町映画館no43ボタン押してね!
2020.05.26
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アニエス・ヴァルダ「ダゲール街の人々」元町映画館 見終わって、この映画が日本初公開だということにとても驚きました。「世界には、日本人が知らないスゴイ映画がきっと、他にもたくさんあるに違いない。」 そんな気分になりました。 もっとも、ぼくはアニエス・ヴァルダという映画監督を、このシリーズを偶然見る以前は見たことも聞いたこともなかったわけですから、素朴に「世界にはぼくが見たことのない素晴らしい映画がたくさんあるに違いない。」でもよかったわけで、むしろそっちの方が「見られてよかった。」という気分にはぴたりと重なりますね。「日本人」なんて関係ありません。 ドキュメンタリー映画なのですが、昨秋シネ・リーブルで見た「カーマイン・ストリート・ギター」や想田和弘の「港町」に似ていると思いました。 「カーマイン・ストリート」とは、人が暮らしている「通り」のお店のお話しというところで、一軒のお店にカメラが入って、かなりな至近距離のシーンを重ねていくところが似ていました。「邪魔にならないの、カメラ?」っていう感じのところです。 「港町」とは何が起こるかはカメラに任せているところが、これは、「とても」をつけたくなるくらい似ていると思いました。編集で作り上げていることは両者に共通していて、想田和弘の原点の一つがここにあるという感じでした。 映画はアニエスが、、当時、住んでいた「通り」の生活を撮ったようです。顔見知りのパン屋、肉屋、香水の調合士の営む雑貨屋が、どの店も夫婦で働いていて、それぞれの夫婦のニュアンスが、それぞれ異なっていて面白いのです。そこから「通り」や、町の「集会所」へとカメラは巡ります。 肖像写真のように映し出される街の住人達を見ながら、「通り」の名前がダゲレオタイプが発明された町だったことを暗示していることを思い出したり、手品師の登場する街の集まりでの手品のシーンに、「映画の手品」の秘密が隠されているのを感じたり、見どころは満載でした。 何よりも、雑貨屋のおやじとその妻の姿に対する無言の「観察」は、想田和弘の映画を彷彿とさせる人間の物語の記録でした。 ナレーションも何もなし、二人の会話とお店に来た客の声だけです。チラシの左下の夫婦ですね。 約80分、まったく退屈しませんでした。これが50年前に撮られてたんですからねえ。映画というのもは奥の深いものだと思いましたね。監督 アニエス・バルダ 撮影 ウィリアム・ルプチャンスキー ヌーリス・アビブ1975年製作/79分/西ドイツ・フランス合作原題「Daguerreotypes」2020・04・08元町映画館no43追記2020・05・19 非常事態とかで映画館が閉まって40日経ちました。開いていた最後の日あたりに観た映画の感想がまだ書けずに残っています。別に書かなくてもいいのですが。 今日は5月19日で、映画館の再開の知らせも聞こえ始めました。このまま無事に終息するのを祈るばかりですが・・・。ボタン押してね!!
2020.05.19
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ラジ・リ「レ・ミゼラブル」シネ・リーブル神戸 この題名を見て、ヴィクトル・ユーゴーの小説を思い浮かべない人はいないでしょう。ぼくはそう思い込んでいました。どんなリメイクなのか、それが興味の焦点でした。ガラすきのシネ・リーブルでした。真ん中に陣取って一息ついてもお客さんは増えません。と、映画が始まりました。 少年が三色旗を首に巻いて、人ごみの中を歩き回っています。歓声が上がって、どんどん人が増えてゆきます。凱旋門に向かって大群衆が進んでゆきます。サッカーのワールドカップでフランスが勝ったんです。このシーンだけでも見る価値があると思いました。 ドローンが飛んでいて、パリの郊外の高層アパートを映し出します。地上では町を巡回するパトカーの警官とバス停の少女たちがやりあっています。警官の仕打ちを写真に撮った少女のスマホが叩き壊されます。この現場を映しとっていた上空のドローンの存在が、警官と子どもたち戦いの前哨戦を写しています。 第一ラウンドはライオンです。ロマの巡回サーカス団のライオンの子供が盗まれます。ジプシーといういい方の方が腑に落ちるかもしれませんが、「ユダヤ」とはまた違う「被差別」の人たちですね。 「ライオン」は百獣の王、「サーカス」の宝、「イスラム」では聖獣、なにより、子どもたちにとっては可愛いいネコ科の赤ちゃん、イノセントの象徴かもしれません。 警官が追いかけ少年たちが逃げます。威嚇のためのゴム弾銃が水平打ちされ、顏に弾を受けた少年は気絶します。警官対少年の第一ラウンドはあっさり警官の圧勝です。 第一ラウンドの展開で、映画は町の仕組みを映し出したかったようです。中近東、アフリカ、あらゆる国からやってきた移民が暮らす貧困の街。街の「平和」を維持しているのは顔役のヤクザ、ムショ帰りの教祖、ジプシーのサーカスの団長、そして、仲を取り持つ警官のシーソーゲームのようです。本来、平等であるはずの警官も、なかなか悪辣です。 第ニラウンドはドローンです。違法な水平打ちのシーンは、覗きの少年のドローンがすべて映しとっていました。警官、町のボス連、ガキ、三つ巴のデータ争奪戦が始まりますが、ヤッパリ警官の勝利です。 痛い目を見るガキもいましたが、すべて世はこともなしです。警察の日常が挿入され、一人一人の警官の生活が映し出されます。 ここまで、フランスの下層社会解説とでもいうドキュメンタリー風の味付けです。 ところが、起こるはずのない第三ラウンドのゴングが鳴ったのです。ライオンの檻にでも放り込んで小便をチビラせて置けばとたかをくくっていた、ガキどもの反乱です。結末やいかに、というわけですが、見る人によって、ここから評価が分かれるようです。 しかし、子供が、ただ子供というだけで「貧困」と「被差別」と「暴力」の最下層に押しやられている現実を映画はいったいどう描けばいいのでしょう。こう描くしかないでしょう。 ブレイディみかこがイギリスの「ワーキング・クラス」の中学生生活を報告して話題の著書「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)の中に、眉毛のない、最下層の少年、中学生の「ジェイソン・ステイサム」君が歌うこんなラップの歌詞が載っています。父ちゃん、団地の前で倒れてる母ちゃん、泥酔でがなってる姉ちゃん、インスタにアクセスできずに暴れてる婆ちゃん、流しに差し歯落として棒立ち七面鳥がオーブンの中で焦げてるおれは野菜を刻み続ける父ちゃん、金を使い果たして母ちゃん、2・99ポンドのワインで漬れて姉ちゃん、リベンジポルノを流出されて、婆ちゃん、差し歯なしのクリスマスを迎えてどうやって七面鳥を食べればいいんだいってさめざめ泣いてる俺は黙って野菜を刻み続ける姉ちゃん、新しい男を連れて来て母ちゃん、七面鳥が小さすぎるって婆ちゃん、あたしゃ歯がないから食べれないって父ちゃん、ついに死んだんじゃねえかって、団地の下まで見に行ったら犬糞を枕代わりにラリって寝てただが違う。来年はきっと違う。姉ちゃん、母ちゃん、婆ちゃん、父ちゃん、俺、友よ、すべての友よ。来年は違う。別の年になる。バンコクの万引きたちよ、団結せよ。 燃え盛る火炎瓶を手にした「ライオン泥棒」君の、怒りに満ちた眼差しで映画は終わります。そのシーンは監督に社会批判はありますが、映画の意思表示としてあやふやだと取られたようですが、そうでしょうか。 ぼくは、ぼく自身が「わかったふう」な「大人」の都合の眼差しで映画を見ていたことを痛烈に批判されたと感じました。彼らの将来はとか、彼らを追い詰めたものは、とかいう以前に、ここには少年や少女たちの、彼らには何の責任もない「抑圧」があり、怒りがあります。いつの間にか、それこそが、例えば15歳の少年にとって、最も切実な現実であることを見落として、聞いた風なことをいい始めていたのではないでしょうか。 若ぶっていうわけではありません。しかし、もう、世界中のどこの国にも、こう叫ぶべき時がやってきているのです。 万国の「ライオン泥棒たち」よ、決起せよ!監督 ラジ・リ 脚本 ラジ・リ ジョルダーノ・ジェデルリーニ アレクシス・マネンティ 撮影 ジュリアン・プパール 編集 フローラ・ボルピエール 音楽 ピンク・ノイズ キャストダミアン・ボナール (ステファン:警官)アレクシス・マネンティ (クリス:警官)ジェブリル・ゾンガ(グワダ:警官) イッサ・ペリカ (イッサ:少年)アル=ハサン・リ(バズ:少年)2019年 104分 フランス 原題「Les miserables」2020・03・13シネ・リーブル神戸no52追記2020・05・05「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)の感想は題名をクリックしてみてください。ボタン押してね!
2020.05.05
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アニエス・ヴァルダ「アニエスによるヴァルダ」元町映画館 2020年4月、映画と映画館がピンチ!でした。「新コロちゃん」と笑っていたシマクマ君もマジ顔になりつつある今日この頃ですが、そんな「空気」が世間に充満するなかで、ぼくがこの二年間お世話になっている「元町映画館」と「パルシネマ」が健闘していました。 休業や新コロちゃん被害に対する責任を放棄したかに見える政権の有様には驚きをこえた憤りを感じます。実際には開けていても、「自粛」という言葉におびえた社会にあって、それぞれの映画館や居酒屋にお客がくるわけではありません。小さな映画館や居酒屋はつぶれてしまえという態度です。 その、小さな映画館の一つである元町映画館が3月の末からの企画もので上映していたのが「アニエス・ヴァルダを知るための3本の映画」でした。 アニエス・ヴァルダという人は、昨年、2019年に90歳で亡くなった、フランスの映画監督ですが、「シェルブールの雨傘」のジャック・ドゥミの配偶者というほうが見当がつきやすかもしれませんね。フランス・ヌーベルバーグの祖母と呼ばれてきたそうです。そのおばーさんが亡くなる直前に撮った映画が「アニエスによるヴァルダ」です。 なにがおもしろいかって問われると答えるのは難しいですね。どこかのセミナーで自作を語るアニエス・ヴァルダの姿と、彼女の実作のシーンをコラージュしたドキュメンタリーなのですが、これがなんともいえず面白かったんです。 無理やり説明するなら、本当は、方法にとらわれない「方法の人」なのでしょうが、そういう解説で理解する以前に、まずアニエス・ヴァルダという人の「たたずまい」が面白いというしかありません。 見てから時間が立ってしまったので、彼女が「海」とか「浜辺」が好きだということ以外ほとんど覚えていないのですが、見るからに強烈な意志の人なのだけれど暑苦しくない。ノンキそうでどっちかというとユーモラスなのだけれど冷静。だいたいフィルムに映っている様子が、ウケでも狙っているのかといいたくなるほどで、笑えますが、何の衒いもない。要するに自由なんです。 この写真の、この頭、帽子じゃないんですよ。もちろん鬘でもなさそうで、東洋的には河童の親玉でしょ。その河童の親玉が猪八戒みたいに小太りで、堂々として、「海」を見て座っているんです。面白がり方は悟空で、眼力は三蔵法師かもしれませんね。で、やりたいことはやり尽くしたんでしょうか、90歳まで映画を撮ったんです。 彼女が自宅で、映画についてのおしゃべりをするテーブルにネコのズググが座っているシーンがあるのですが、ネコ好きの方はこのシーンを目にしただけでも、ちょっと得したとお思いになるに違いありませんよ。えらい存在感のあるネコなんです。 この存在感は何なんだ、というのはアニエス・ヴァルダその人に感じる驚きと同じでしたよ。なにせ、こうなったら、残りの映画を見るしかありませんね。監督 アニエス・ヴァルダ 製作 ロザリー・ヴァルダ キャストアニエス・ヴァルダ 2019年 119分 フランス原題「Varda by Agnes」2020・04・06元町映画館no41ボタン押してね!!
2020.05.02
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レミ・シャイエ 「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」元町映画館 今日は日曜日なので、映画はパス。働いている人たちには、誠に申し訳ない言い草なのだけれど、徘徊老人は日曜の混雑した映画館が苦手。そんなことをうそぶきながら、元町映画館のスケジュールを開くと、なんとワイズマンの特集が始まっているではないか。「あ、ヤバイ!来週やと思い込んでた。エー、そうすると、ああ、今日、ロング・ウェイ・ノースを観とかんとアカンやん。」 何のことかといぶかしくお思いでしょうが、今週ワイズマンが立て込んでいるということは、他の映画を見る余裕がなくなりますね。この映画の字幕版は今週限りなのです。日本語吹き替えがあまり好きではない、(べつに外国語が分かるわけではないから、単なる好み)徘徊老人は、急に思い立って一言。「ちょっと、元町行ってくるわ。」「映画?」「うん、アニメ。一緒に行く?夕方6時からやけど。」「エー、しんどいやん。」 というわけで、やっぱり一人徘徊出発です。なんと、おにぎり、コヒー付きの至れり尽くせりの徘徊です。。 日曜の元町映画館、午後6時。ヤッパリ、けっこうお客さんはいましたね。席に着くと、さっそく、おにぎりを頬張って、コーヒーで一息です。ちょっと取り合わせがおかしいですが、チッチキ夫人のありがたい心づかいですからね。 おっと、映画が始まりました。 船の汽笛が聞こえて、港から出ていきます。少女と母親が見送っているようで、船では白髪の老人が手を振っています。 時代は1880年代のロシア、サンクトペテルブルグの港です。少女の名前はサーシャ、白髭の船長が北極点を目指す探検家で、彼女の最愛の祖父オルキンです。祖父が乗っているこの船が最新の砕氷船(?)ダバイ号。 華やかな船出とは裏腹に、やがてダバイ号は消息を絶ちます。皇帝は100万ルーブルの賞金を懸けて、船と探検隊を探させますがその行方は杳として見つかりません。 孫娘サーシャは、祖父の部屋から、その計画の海図を、偶然、発見し、捜索が見当外れであることに気付きます。ここから、サーシャの冒険が始まりますが、波乱万丈、ドキドキ満載の展開は、徘徊ゴジラ老人も大満足の結末まで続きます。 主人公サーシャ、北極海に面した港町アルハンゲリスクの酒場の女将オルガ、少年水夫カッチ、サーシャを乗せるノルゲ号の船長ルンド、登場人物たちの表情が素晴らしい。 とてもハスキー犬とは思えない登場の仕方だったのに、サーシャの命を救うシベリアン・ハスキー、カモメや海鳥、もちろん、シロクマも、出てくる生き物の絵の面白さがなんとも素晴らしい。 海、空、、雲、降りしきる雪、ブリザード、崩れ落ちる氷壁、流氷、真っ白な雪原のシーンも素敵です。 北極圏の白いだけの自然描写が、どうして、こんなコントラストがついて、リアルに見えるのか、ため息ものです。見た目には、たとえばジブリアニメとは全く対照的な素朴な印象なのですが、こういうリアルもあるのだと納得させてくれた映像でした。 1880年には、あるはずのないペニシリンに、ちょっと「えッ?」と思いましたが、最後のシーンで、北極点に祖父オルキンが立てた小さな紙の旗が抜けるというオチがあって、で、エンドロールが終わる、その時、ちょっと笑えてOKでしたね。 先日の「ディリリとパリの時間旅行」にも感心しましたが、こんなアニメを見ているフランスの子供たちはいいですね。監督 レミ・シャイエ 脚本 クレール・パオレッティ パトリシア・バレイクス 音楽 ジョナサン・モラリ2015年 81分フランス・デンマーク合作原題「Tout en haut du monde」2019・12・01・元町映画館no25にほんブログ村にほんブログ村
2019.12.03
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ミッシェル・オスロ「ディリリとパリの時間旅行」元町映画館 元町映画館、またまたクリーン・ヒットでした。映画館徘徊の、この二年間で、初めてのアニメ。予告編で「なんか面白そうやん。」と気付きました。帰りにカウンターで声をかけると「ベルエポックのパリですよ。」と笑顔のお返事。「なにっ?ベルエポック?」 19世紀世紀末から20世紀初頭のパリですね。エッフェル塔、博覧会、飛行船、パサージュ・・・チラシを見ていると、いろいろ思いうかびますね。「こら、見なあかんやん!」 いつもの席に座って、お茶を一口、映画が始まりました。シーンはどこか南洋の島ですね、ゴーギャンの登場人物と似ていますね、と思いきや・・・。なんと、パリの見世物小屋、まさに、ベルエポックのパリ!このスタートはただ者ではありません。 見世物の出演者、ニューカレドニア、オーストラリアの向こう、フランスの植民地からやってきた少女ディリリが、三輪車乗りの青年オレルと出会うんです。三輪車というのがいいですね。 ここから、パリの街を縦横に駆け巡る二人の冒険が始まります。挑むのは少女誘拐事件。エッフェル塔、オペラ座、広場、大通り、地下水道、美術館。この背景の美しさは何でしょうね、街角に貼られたロートレックやジュール・シュレのポスター、塔から俯瞰したパリの街、まさに「巴里」って感じですよ。まあ、パリなんて空想でしか知りませんが、写真なのか、絵なのか、ともかく、こんなアニメ見たことないっていう感じですね。 その夢のような世界をディリリとオレルが滑るように動くんです。二人のパトロン、素敵なオペラ歌手、エマ・カルヴェもきっと実在なんでしょうね。 キュリー夫人、パスツール、ピカソ、マティス、モネ、ルノアール、プルースト、サラ・ベルナール、ギュスターヴ・エッフェル、ツェッペリン伯爵 、出てくるわ、出てくるわ、みんな二人の味方です。 敵は「男性第一団」。警視総監も悪役ですね。字幕がそうなっているのですが、最近、どこかで、似たような名前を見たことがあるような気がしますが、小さな女の子を誘拐して、「奴隷の女性」を育てる調教をしているんですね。このあたりの批評センスも納得ですね。 映画の結末はチラシの絵が描いていますが、とても美しくてシャレてます。フランスの子供たちは幸せですね。植民地主義も「男性」権力主義もきちんと批判しています。繁栄のパリの地下、汚水が流れる下水道を活写した社会批評も鋭い。そして、何よりもエッフェル塔に降りてくるツェッペリン飛行船の美しさ。こんなアニメが映画との出会いになるのですから。 一つだけ不満を言えば、「言わなくてもいいのに」ですが、このアニメの邦題を「時間旅行」とつけた、この国の配給会社には、あんまりセンスを感じませんでしたね。 監督・脚本 ミッシェル・オスロ 音楽 ガブリエル・ヤーレ キャスト(声) プリュネル・シャルル=アンブロン(ディリリ) エンゾ・ラツィト(オレル) ナタリー・デセイ(エマ・カルヴェ) 原題「Dilili a Paris」 2018年フランス・ドイツ・ベルギー合作94分 2019・10・23・元町映画館no22追記2022・11・14 久しぶりにパルシネマに行きました、パルは朝と夜、「朝パル」・「夜パル」と名付けて、1本立て別メニューを始めていらっしゃって、ぼく自身は早すぎるのと遅すぎるのがネックで、うかがうことはできませんが、アイデアには拍手!なのです。 で、11月の後半の朝パルのプログラムが、このアニメで、またまた拍手!でした。皆さん、このアニメは間違いありません(何がやねん!)、面白いですよ。というわけで、便乗というか、応援というか、昔の感想を修繕して再掲します。ぜひご覧ください(笑)。にほんブログ村
2019.10.28
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ルドビク・バーナード「パリに見出されたピアニスト」シネリーブル神戸 10月の最初の金曜日の朝、悩みに悩んでこの映画を選択しました。おそらく音楽映画だろうというのが決め手でした。シネリーブルのアネックスホールです。 パリの、どこかの駅のコンコース(?)、青年がピアノを弾いています。今はやりのストリート・ピアノというやつですね。曲はバッハかな?髭のハンサムな中年が興味深そうな様子で、ピアノを聞いています。青年が弾き終えて、近づこうとすると、お巡りさんらしき制服が3人で、青年目指してやってきます。ピアノを弾いていた青年は、脱兎のごとく逃げだして、お巡りさんが追いかける。映画はそんなふうに始まりました。 驚くべきことに、最後まで「追っかけっこ」のような映画でした。ピアノコンクールでの成功というわかりやすい標的が設定されているのですが、お話のメインの標的の周辺では、先生と生徒、男と女、理想と現実、逃げるものと追いかけるものが入れ替わるだけで古典的というか、ありきたりというか、おそらく「アメリカ映画」だったら許されそうもないワン・パターンのビルドゥングス・ロマンです。筋を追っていると、たぶん腹を立てる人が出て来るに違いない展開ですね(笑)。 にもかかわらず、ボクにとっては、後味はさほど悪くなかったんです。理由は簡単で二つ思いつきますね。 一つ目は音楽です。コンクールの課題曲がラフマニノフのピアノコンチェルトの2番なのですが、この曲が、「ありきたり」を倍化させるくらいありきたりの曲なのですが、そこが、かえってよかったですね。 練習している様子を聞いていて、あるフレーズが響いてくると(ここを何楽章とか指摘できないところが、まあ、ボクのレベルですが)結構泣けるんですね。ぼくのようなミーハー愛好家は、手もなくやられてしまう曲なのです。まあ、音楽そのものの凄みということなんでしょうね。 二つ目は、「女伯爵」とか呼ばれているエリザベス先生役だったクリスティン・スコット・トーマス とかいう女優さんが気に入ったことですね。これも、実に、ミーハー的にはまりました。要するに好みの問題なのですね。 最後に笑ったのが、一丁前になったマチューのスーツ姿でした。フードのパーカーに比べて全然似合っていなかったですね。でも、まあ、大した問題ではありませんね(笑)。「まあ、こういうのもありかな?」劇場を出て、元町映画館に立ち寄って「サタンタンゴ」の様子を聞いてしばらくおしゃべりしました。「入ってる?お客さん?」「うーん、ちょっと?」「そうか、来週来るわ。大丈夫やろ。」「はい、お待ちしてますよ。」 トコトコたどり着いた神戸駅で仕事帰りのチッチキ夫人とばったり出会いました。電車に乗って、再びおしゃべり。「映画行ったん?」「うん、ピアノのやつ。なんかすごかったで、少女漫画みたいやねん。ビンボーな子が天才やねんけど、めっちゃ厳しい先生。まあ、ぼくはちょっとええなあいう感じやったけど」「エースをねらえやん。」「そうやなあ、音楽は悪ないけど、演奏の時の手と体は合ってなかったような気もするな。でも、音楽のんやからどう?」」「エースをねらえかあ?やっぱりやめよ。」「うん、100円上がったしなあ。」監督 ルドビク・バーナード脚本 ルドビク・バーナード ジョアン・ベルナール キャストランベール・ウィルソン (ピエール・ゲイトナー)クリスティン・スコット・トーマス (エリザベス)ジュール・ベンシェトリ (マチュー・マリンスキー)カリジャ・トゥーレ(マチューの恋人)2018年 106分 フランス・ベルギー合作 原題「Au bout des doigts」2019・10・04・シネリーブル神戸no33ボタン押してね!にほんブログ村
2019.10.06
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ジャック・オーディアール「ゴールデン・リバー」 2018年の第75回ベネチア国際映画祭で「銀熊賞」を取った映画で、監督はフランスのジャック・オーディアール。かなり有名な人らしいのですが、知りませんでした。俳優たちもホアキン・フェニクスとかジョン・C・ライリーとか名優ぞろい。これもよく知らない。映画館徘徊一年、まだまだ知らない人ばかりです。まあ、だからこそやって来たシネ・リーブルでした。 西部劇サスペンスでしたが、西部劇の感じはしませんでした。ゴールド・ラッシュの時代のアメリカ西部が舞台の「宝探し」映画でした。単なる金鉱堀の話ではなくて、何だかよくわからない化学薬品で川の中の砂金が一気に掘れるという、映画としてはかなり大事な筋運びの小道具に、何となく、引っかかってしまったぼくは、終始、冷静に見終わりました。 大物俳優四人組の終結と破滅の結末。暴れるだけ暴れたシスターズ・ブラザーズの二人兄弟の、とどのつまりの帰郷。この二つが大筋なのですが、「アメリカ」の荒野での追跡行や逃避行の中に面白いシーンはたくさんあります。初めて、海に面したシーンも印象的でした。 それはそれとして、やっぱりこれは西部劇ではありませんね、 というのがぼくの結論。なぜそう思うのか、よくわかりませんが、映像のイメージと、登場人物が、そこにいる感じとでもいうのでしょうか。なんか、アメリカじゃないんです。 上にも書きましたが、追跡する「シスターズ兄弟」の二人組が、ゴールド・ラッシュのカリフォルニアかどこかの海岸にたどり着くシーンがあるのですが、「西部劇のアメリカ」の感じはしませんでした。なんか、陽気さがないんですよね。 ヨーロッパの映画とアメリカの映画。何が理由でそう思うのかわかりませんが、やはり、ちがいますね。監督がヨーロッパの人だからとか、でも、俳優はアメリカの人だよとか、条件はいろいろあると思いますが、映画にして見せようとしているところに、違いがあるのかもしれませんね。 だから、どっちが面白くないなどと、いいたいわけではありません。マカロニウエスタンが一世を風靡していたころ映画を見始めたぼくがいうのも変ですが、西部劇はアメリカ映画だったという気がしました。(S)監督 ジャック・オーディアール原作 パトリック・デウィット脚本 ジャック・オーディアール トーマス・ビデガン撮影 ブノワ・デビエ美術 ミシェル・バルテレミ衣装 ミレーナ・カノネロ編集 ジュリエット・ウェルフラン音楽 アレクサンドル・デスプラキャストジョン・C・ライリー(イーライ・シスターズ) ホアキン・フェニックス(チャーリー・シスターズ) ジェイク・ギレンホール(ジョン・モリス) リズ・アーメッド(ハーマン・カーミット・ウォーム) レベッカ・ルート(メイフィールド) アリソン・トルマン(酒場の女) ルトガー・ハウアー(提督) キャロル・ケイン(ミセス・シスターズ) 原題「The Sisters Brothers」2018年 アメリカ・フランス・ルーマニア・スペイン合作・120分2019・07・12・シネリーブル神戸no29 ボタン押してね!ゴールデン・リバー [ ジョン・C.ライリー ]
2019.09.10
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グザビエ・ルグラン「ジュリアン Jusqua la garde」 部屋がある。窓があります。庭(?)の木立が見えています。女性が入ってきて、もう一度タイトルの詳細の画面に戻って、カメラは部屋に戻りました。誰かが呼びに来て、二人は廊下を歩きはじめます。映画が始まったようです。 暗い部屋に入ります。5人の女性と一人の大柄な男性がいて、机の向こうに二人の女性、一人は速記者のようです。向かい合って4人。隣り合っている二人が夫婦らしい。 子どもの手紙が読み上げられて、読み上げている女性が、この場を取り仕切っている、判事(?)、あるいは調停者のようですね。 子どもたちの親権を争っている母親ミリアム(レア・ドリュッケール)と父親アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)。父親と週末を過ごすことを裁判所に命じられた少年ジュリアン(トーマス・ジオリア)。 チラシにも映っていますがジュリアンの表情は、たんに父親を嫌っているというよりも、恐れています。父親の自動車の助手席に座っていることの居心地の悪さは、嫌悪ではなく恐怖そのもののよですなのだが、それ以上に、その気持ちを隠し切れないことをこそ彼は恐れているようです。「そういう映画なんや!」 一旦、少年の震えるまなざしに気づいてしまうと、やるせなさと、このあと何が起こるのか気が気でなくなって落ち着きません。 ジュリアンを脅し、ミリアムの居場所を探し当ててやってきたアントワーヌが復縁を迫り、泣きながらミリアムを抱きしめます。ミリアムの目は、怯えと恐怖。嫌悪と怒り。アントワーヌは何に涙してるのでしょう。「あかん、これは悲惨な結末しかない。しかし、この男は、ホントはどんな奴やねん?」 「以前あったこと」が回想されるわけではありません。アントワーヌが自分の両親に対して激高するシーンが一度あるだけです。浮かんでくるのは、連鎖していくなにかです。彼が何者なのか、それで、何となくわかるように思えます。 「オイオイ、どうやって終わるん?ああ、こういうの、あんまり好きちゃうなあ。」 ドアベルが執拗に鳴り響きます。廊下から足音が聞こえてきます。音が消えて静かになりました。再びドアが激しくたたかれます。時刻を気にしている様子はありません。ミリアムの名を呼び始めました。次の瞬間、銃が発射されました。 闇の中で音が迫ってきます。 母親と少年は棺桶のようなバスタブの底で抱き合って震えています。やっとのことで警察に通じた携帯電話の画面だけが光っています。 まず、真夜中の、この騒ぎを通報したのは隣の住人でした。警官が到着し、やっとのことで騒ぎが納まったミリアムの部屋を、ドアの隙間から覗いていた老婆がいました。ミリアムの部屋のドアが閉じられ、老婆の部屋のドアも閉まりました。画面も暗くなりました。 映画が終わって、エンドロールが回りはじめる。あまりの呆気なさに、何をしていいかわからないような終わり方だった。 元町駅まで歩きながら、最初のシーンを思い出していた。 「そうか、たんなる狂ったDV男の話じゃないな、これ。最初の裁判所と、最後のドアを閉める隣の人。それがポイントやな。この監督は、なかなかやるな「しかし、まあ、それにしても疲れた。これも、人にはすすめんなあ。これが世界中に蔓延してることは、やっぱり気付かんとあかんなあ。やわい『おとこ』が『男性性』とかいう力に頼り始める。拒否や否定に出くわすと逆上する。ありがちやなあ。」 帰ってきて原題を調べると「Jusqua la garde」でした。直訳すれば「保護されるまで」という意味のようです。英語の「custody」も、「親権」というよりは「援け」とでも訳したほうがよさそうですね。 この映画の感想は男性と女性で大きく違うかもしれません。最後には銃までぶっ放してしまうこの男を、どこかで、愚かで滑稽で、弱いヤツだと思うのは男性的な視点でしょうね。子どもや女性は、それをどう感じるのでしょう。この映画の「リアル」の一つは、そこにあると思いました。ズレ、ですね。 もう一つ印象に残ったのは、日本でいうなら「世間」の描き方ですね。他人の現実は「形式」や「マニュアル」でわかったつもりになることはありますが、「できれば関わり合いになりたくない」の連鎖の中から、それを断ち切ることは至難ですね。そこに「暴力」の温床がありますが、それが、きちんと描かれています。 自分が常識的だと思い込んでいる「男性」諸君にほ「ひょっとして」のやるせなさを残すにちがいない作品だと思いました。ぼくも例外ではありませんね。 監督 グザビエ・ルグラン Xavier Legrand 脚本 グザビエ・ルグラン 撮影 ナタリー・デュラン キャスト レア・ドリュッケール(ミリアム・ベッソン) ドゥニ・メノーシェ(アントワーヌ・ベッソン) トーマス・ジオリア(ジュリアン・ベッソン) マティルド・オネブ(ジョゼフィーヌ・ベッソン) 作品データ 原題「Jusqu′a la garde(「保護されるまで」かな)」ちなみに英語の題名は「custody」(保護・親権) 2017年 フランス 93分 2019・01・30・シネリーブル神戸no27ボタン押してね!
2019.08.26
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ギョーム・セネズ「パパは奮闘中!」シネ・リーブル神戸 シネ・リーブルでもらったチラシに「クレイマー・クレイマーの感動から今・・・」って書いてあるのを読んで出かけた。 「あの映画でメリル・ストリープが嫌いになってんなあ。」 「そうや、40年も前から、おまえはフェミニズムが嫌いやってん。」 「いや、いや、・・・」 「人前ではごまかしてても、性根は変わらへんのやろ。」 わけのわからん独り言をブツブツ言うてるうちに始まった。 おかーさんのローラさんと二人のおチビさんの毎日。おにーちゃんのエリオットはけがの薬を胸に塗ってもらってる。小学校三年生くらいか。妹のローズ(弟だと思っていた)は、まだ、ぐずぐずする年頃。絵本読んでもらうのがうれしい。幼稚園ぐらいかな。おかーさんは洋服屋さんで働いてる。 おとーさんのオリヴィエが働いているのは大きな集荷場のようなところ。なんか、「希望の灯り」のマーケットの倉庫とちょっと似ている。ベルトコンベアーに箱が並んでやってくる。次々に商品を入れて蓋をする。朝早くから、遅くまで、そんな仕事。 仲間思いのマジメな奴らしい。組合の活動家かな?退職を勧告された高齢の同僚が自殺して死んじゃったり、妊娠がばれて首になりそうな女性の苦情を聞いたり、ちょっと、何なんだよここっていう感じの職場。なんか、家にいる時間なんて、寝てるだけ。 ああ、あ。ローラさん消えちゃった。出て行っちゃたんだ。おとーさんボー然としてないで、なんとかしなきゃあ。彼女は本気だよ。ああ、着替えもわからないし、食事作るなんてことは無理そうだね。どうするの? まあ、まず母親に頼るわけだ。ああ、ああ、なんですかオリヴィエさん、そのいい方は。相手のいうこと聞きなさいよ。お母さん心配して、手伝ってくれてるのに。子供も気つこてるやん。一人で意見まくしたてんのやめなよ。 妹が手伝いにきてくれたんや。おチビちゃんたちもおばちゃん大好きや。いい家族やねえ。 おいおい、ローラの故郷まで探しに行くのはいいけど、見つからないからって、ほかの女の人のとこ行っちゃうって、どうなんよ。 ほら、少しはわかってきたの、自分のこと。妹にも見破られてるでしょ。でも、やっぱり子供のことわかってないでしょ?ローズちゃん、しゃべらなくなっちゃったじゃないか。 ほらほら、カウンセリングにでかけるのはいいけど、実家に帰ってるとか、相変わらずだねえ。見栄はってる場合じゃないでしょ。自分は悪くないと思ってるでしょ。 いろいろ、一人で考えてるけど、おチビちゃんが二人でいなくなっちゃったじゃないの。朝、学校まで送ったのにねえ。やるね、おチビちゃんたちも。で、どうするの? まあ、あなたなりに、なんとかしなきゃあって、まじめに考えているのはわかるよ、でも、帰ってきたら叱るんでしょ、また。 子供たちが母親探しの冒険から無事帰ってくる。ここからダメオヤジと本当に「奮闘」していた子供たちに「コミュニケーション」が生まれはじめる。 家族にダイアローグが生まれる楽しさを映画は映し始める。ここまで、子どもたちも、おとーさんも、そしておかーさんも、モノローグの世界にいたことがよくわかる。 エリオットがいう。「パパが探しに行かないから。」 「いや、パパは一人で、行ったんだよ。」 「どうして、ぼくたちと一緒に行かなかったの?」 「いや、それは・・・」 黙っていたローズが一言。彼女に言葉が戻った。「おにーちゃんも、本当は嫌だったカバンのこと黙ってたよね。」 「えっ、あの新しい鞄イヤだったのか?」 そうそう、それが会話ってもんでしょ。イヤだったり、話したかったりすること、あなたは聞く耳持ってた?あなた、この家族で何様だったの? ローラの言葉に、本気で耳を傾けたことあったの?ローズが拒否ってたことが何だったのか分かった? 大人の都合で子供を見て心理学とかで解決できるとか、仕事優先で妻と話して、シンドイのはお前だけじゃないとか、自己弁護してなかった?気持ちはわかるけど、やっぱり、それはダメだったんじゃない? チビのローズが紙に、お絵かきみたいにして、慣れない字を書きながら、あどけなく言う。このチビちゃんの可愛さはちょっと説明できない。ヨタヨタしゃべるのが、またいい。「これって、デモク、デモク・・・?」 「そうだよ。デモクラシイ。これからどうするか、三人で投票するんだ。この家を出て、新しい職場に移るか、ここでママを待つか。」 こんどは投票で負けたエリオットの負け惜しみ。 「デモクラシイなんて嫌だよ。」「いや、これは、結果をいやだと思う人が少ない選択なんだ。」 堅物で、まじめなパパが、一緒にやっていくために、民主主義というルールで暮らすことを提案したらしい。 こう書くと、何だか教条的、民主主義映画のように受け取る人もいるかもしれない。 しかし、話し合うことからたどり着いた民主主義は、子どもを大人が認める場を作ることであり、それは、とりもなおさず、人間として生きる場を失った「おかーさん」が帰ってこれる場を作る方法なのだと納得させる展開は、決して教条的ではない。 崩壊寸前の「家族」を描きながら、デモクラシーという方法の原点を浮かび上がらせたところに、作り手の現代社会に対する視点の確かさがあったし、ラストシーンもなかなか爽快だった。 壁いっぱいに描かれた落書き。それは、不在のローラに対するダイアローグの呼びかけだったからです。 帰り着いて、自宅の食卓に座り込んで尋ねた。 「ねえ、クレイマー・クレイマーって、どっちが勝ったんだっけ?」 「メリル・ストリープが裁判で勝って、息子が泣くのに負けるのよ。」 「愛は勝つか?」 「どやったの、今日は?」 「ええ、思うで。」 「見行こうかな。」 「うん、そうし、そうし。でも、帰ってきて。あれ、誰かと同じやいうのはなしな。あ、原題〈ぼくらの闘い〉やし。」 「えっ?」 「いや、そんだけ。」 監督 ギョーム・セネズ 製作 イザベル・トゥルク ダビド・ティオン フィリップ・マルタン 脚本 ギョーム・セネズ キャスト ロマン・デュリス(夫オリヴィエ ) ロール・カラミー(同僚クレール) レティシア・ドッシュ(妹ベティ ) ルーシー・ドゥベイ(妻ローラ) バジル・グランバーガー (息子エリオット) レナ・ジラード・ヴォス(娘ローズ) 原題「Nos Batailles」 2018年 ベルギー・フランス合作 99分 2019・05・29・シネリーブル神戸(no11)ボタン押してネ!にほんブログ村クレイマー、クレイマー コレクターズ・エディション [ ダスティン・ホフマン ]懐かしいですね。タイピスト! [ ロマン・デュリス ]主役のお父さん。この映画が有名らしい
2019.06.08
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ティエリー・フレモー 「リュミエール!」 パルシネマ さすがのぼくでもリュミエール兄弟が何者かぐらいの知識はあります。映画の父たちだ、とまあ、その程度なんだけれど。1890年代のフランス、リヨンで始まった映画というものがどんなものだったのかという興味もあります。というわけで、パルシネマしんこうえんの前列3列目、中央で待ち構える事態とあいなったわけです。「リュミエール!」始まりました。映画の始まりの映画の始まりです。 どうやら一話50秒がサイズらしいですね。何だかおおぜいの人が門から出てきます。続けて、少し変化して、三本目は馬車が立派になりました。どうも、これが始まりらしいですよ。 太ったおかーさんがいて、おちびちゃんが食事をしています。子どもが二人で踊っていた、別のおちびちゃんは猫にエサをやりながら、逆に、猫に絡まれています。かわいい!それにしてもデカい猫ですねえ。 我が家にも、この手のちびちゃんや猫たちの40秒から1分のビデオ画像が送られてくるのですが、孫に限らず子役と動物はすごい!ですね。100年以上も前から、誰もがポケットにカメラを忍ばせている現代まで、この可愛らしさは変わらないようです。 この猫も、おチビちゃんも、もちろん映像の中にしか生きていません。今でも生きていたら、確実に「化け猫」になっているに違いないわけで、そんなことを考え始めるノンビリ感が何とも言えません。 機関車が向うから近づいてきます。残念ながら、当時の観客のように「思わずのけぞる。」とはならなかったのですが、「なるほど、これが、あの有名な‥‥」 と、変なことで満足しています。 水撒きのギャグがあります。壁を壊すシーンの逆回しがあります。これは、きっとウケたでしょうね。曲芸があります。これなら、単純に、今でもウケます。水浴びがあります。軍隊が訓練していますねえ。軍隊なのに雰囲気がいい加減なのが、みょうに面白いですね。赤ん坊と看護婦(?)が次々とやって来ます。何ですか、これは、なんかの喜劇のシーンですか?なんで列をなしてやってくるの?「50秒で、次々と、こんなに面白くていいんですかね。映像があるだけなのに・・・」 世界の町が、次々と映っています。ニューヨークも、ロンドンも、パリも、エッフェル塔もあります。「パリの博覧会の頃やな。漱石もこれを見上げたんか、いや、登った?」 そんなことを考えていると、カメラは垂直に上昇して、やがて俯瞰します。今では当たり前のこの視界の変化が、新しい世界の見方を作り出したんじゃないか、そんな感じが確かに実感できます。 なんと、日本の剣術の練習の映像までありますよ。「スゴイ。これは日本のどこなんやろう。それにしても、やっぱり日本人や。なんでやろう。シーンの雰囲気が「ニホン」やなあ。ヨーロッパ目線か?そうか、そうなんや。」 植民地ベトナムのシーンがあります。ヨーロッパ人の女性が二人、小銭をまいている。ベトナムの子どもたちが、我先に、夢中になって拾っています。「アーロン収容所」(中公新書)の会田雄次を思い出しました。 そう思っていると、一方で、少女がカメラに向かって歩いてくるシーンに変わります。不思議なことに、シネマトグラフ(?)はアジアとヨーロッパの壁をやすやすと越えて、ベトナムの少女の明るい美しさを映し出し始めるんですね。それにしても、やはり目線はヨーロッパのものかもしれないとは思いますが。 どの映像もフィルム(?)が修復されたのだと思いますが、映像の美しさに感心させられました。多分、100本を超える50秒。堪能しました。「これって、まあ、映画が始まってるよな。どういうことなのかなあ?音楽とか、セリフとか、ストーリーとかないのになあ。今これだと、寝ちゃうけど。」 結構、お客さんが入っているパルシネマの午後でした。 監督:ティエリー・フレモー 音楽:カミーユ・サンサーンス 原題:「Lumiere!」 2016年フランス90分 2018・12・13・パルシネマno3追記 「映像」とか「カメラ」という装置やシステムこそが、近代的な風景を作り出した。そんな実感を強く感じた映画でした。その上で、サイードが言った「オリエンタリズム」って、こういう視線なんだ、きっと。 観終わって、しばらくたって、そういう得心がやってきました。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.05.18
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ジャン=リュック・ゴダール「イメージの本」シネ・リーブル神戸 ゴダール、ベルイマン、エリセ、ブニュエル・・・・。40年前に映画少年だったシマクマ君にとって、当時ですら名画座でかかるのを待った人々。(名前をクリックしてみてくださいね。) 30年映画館に通う余裕も金もない生活から、仕事をやめて映画館に戻ってきて一年。元町映画館とかアートヴィレッジとかで、そんな懐かしい名前の特集を組んでくれると、うれしい。なんとか見直そうと出かける。 そういう映画を見ていると、目の前の映像の展開が不思議な既視感とごっちゃになる新しい映画体験に揺さぶられる。それは、どこか哀しくて、でも、こたえられない。このまま映画館の椅子に座りっぱなしで、次の映画をかけてほしいと思う。先日も元町映画館でブニュエルを見て感動した。やっぱりすごい! シネ・リーブルのチラシを見ていて、驚いた。「勝手にしやがれ」や「中国女」のゴダールの新作がかかる。「ええー?ゴダールって生きてんねや!」 まさか、生きているゴダールの、新しい映画が見られるとは想像もしていなかった。 広げられた掌。五本の指。映画が始まった。 ピアノを弾く指がある。切り貼りの映像とセリフが一章ごとに五つ展開されるらしい。 古い映画のシーンに新しい映像が重ねられて、セリフがかぶさる。それぞれの映画を特定することは、とても出来ない。かろうじて、「あれは溝口の『雨月物語』か?」と浮かんでくるが、すぐに消える。 暴力、戦争、革命、セックス、女、男、子供。くりかえされる手の動き。イメージは、いやな記憶のフラッシュバックのようにとりとめがない。薄い眠気の霧が繰り返し襲ってくる。 映像が終わる。カタルシスはとうとうやってこなかった。 歩きはじめると三宮の雑踏が遠い。ふと、見たことがある世界を見ている感じが襲ってきて立ちどまる。 「そうか、老いか。あの、一見、時間にそって重ねられているように見えたイメージは、意図されていたのかはともかく、こんなふうに見えてしまう今の意識かもしれんな。」 老人の記憶の中で、繰り返しフラッシュバックするイメージのカケラ。奇妙な納得が沸き上がってくる。 グロテスクな映像にさしはさまれた、異様に美しかったシーンが浮かんできて、重ねられるセリフが、そのシーンにつながっているなにかを示していた。 一本の指が天を指していた。子供たちが海辺で遊んでいた。最初の指の記憶が戻ってきた。 「何ひとつ望みどおりにならなくても希望は生き続けるって、あれがゴダールの声か?」「なんか、怒っとったな、あのおっさん。」 監督 ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard 製作 ファブリス・アラーニョ ミトラ・ファラハニ 脚本 ジャン=リュック・ゴダール 撮影 ファブリス・アラーニョ 原題「Le livre dimage」 2018年 スイス・フランス合作 84分 2019・05・15・シネリーブル神戸(no5)ボタン押してネ!にほんブログ村にほんブログ村
2019.05.16
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フィリップ・ド・ブロカ「まぼろしの市街戦 Le roi de coeur」元町映画館no5 元町映画館とか神戸アートヴィレッジセンターの企画で、時々やってくれる古い映画の再上映。デジタル・リマスター版という言葉の意味もよくわかっていないが、うれしいですね。 この日は一日に三つもすることがあって大変でした。須磨の高倉台で一つ目の用事を済ませて、JR須磨海浜公園まで徘徊。兵庫駅からアートヴィレッジまで再び徘徊して「マクベス」のお勉強会に参加。元町映画館まで歩いて、午後7時20分のブザーに無事着席。ペットボトルのお茶で一息ついていると劇場が暗くなりました。 「まぼろしの市街戦」が始まりまりました。 第一次大戦、だから1910年代のヨーロッパです。フランスの小さな町のようですね。ドイツ軍のヘルメットはこのころから同じスタイルです。街では戦況危ういドイツ軍が時限爆弾を仕掛けて、撤退の準備をしています。 占領されているフランス領土の解放にやってきたのはスコットランド軍です。例のスカートをはいていますね。もうそれだけで笑いそうになるのですが、スクリーンの中の人々は懐かしい喜劇特有のドタバタ歩きをしているのが、なんともいえずおかしいですね。 成り行きで爆弾解除を命じられたのが通信兵ブランピック(アラン・ベイツ)。通信兵とはいううものの、要するに伝書鳩の飼育係が、最も危険な任務、「アホかいな」と叫びそうになるお仕事をやらされているところが不可解至極です。 いやいや、そういう映画なのでした。街に入ったブランピックはドイツ軍と遭遇してドタバタ。わけのわからない通信文を伝書バトに託し、ほうほうのていで逃げ込んだ先が精神病院(?)というわけでした。 ドイツ軍の爆弾騒ぎで人っ子一人いなくなった街に、ゾクゾク繰りだしてくる狂気の人々。いったいどこにこんなに大勢の人がいたんでしょうね。 教会で礼服を手に入れた司祭、入念に化粧しエロティックに着飾った娼婦たち、きどった公爵、パスし続けるラガーメン、ブンチャカ楽しい楽隊。ハートのキングをひいて王様になった男だけが、気もそぞろのようすです。 サーカス、戴冠式、記念撮影、パーティー、乱痴気騒ぎ、あれこれ、これ荒れ、何がないかわからないカーニバル状態、もちろん壁の模様はすべてハートですよ。 檻から出ようとしないくせに、やたら咆哮するライオンもいれば、街角をうろつきまわる熊もいます。オジサンととチェスをするチンパンジー、こっちを向いて立っているアフリカゾウ。ラグビーボールがパスされて、美少女が綱渡りをしています。あどけない娼婦は王様に恋していて、こちらでは、将軍だか元帥が奪い取った装甲車を陽気に乗り回しています。 一つ一つのシーンがバカバカしくて、で、陽気で、なぜか美しい。素晴らしき「阿呆たち」。いつかどこかで見たことがある、そんな気分を煽り立てています。 正気といえばいえないこともない、王様で通信兵のブランピックですが、彼は彼で、成り行きまかせと偶然の大活躍。時限爆弾は解除され、花火が乱れうちのように打ち上げられて、カーニバルは最高潮に達します。 花火を爆発だと思い込んで、戻ってきたドイツ軍。バグパイプを鳴らしながら進駐してきたスコットランド軍。二つの軍隊が正面対峙し、互いの銃が連射される。双方の兵士たちは次々に倒れ、死者の山が築かれていく。 目の前で繰り広げられた「狂気」にシラケた「狂気」の人々は、きっとこう思ったに違いないでしょう。「俺たちの芝居に比べて、お前たちの芝居はやりすぎだ!気が狂っているとしか思えない。付き合いきれない。」 とうとう、王様役だったブランピックに向かって、恋人役の美少女コクリコがこういいます。「帰るところに帰りなさい。」 別れの言葉を残して、陽気で夢見る人々は鉄格子の錠前を自らおろし病院の中へ去ってゆきます。 軍に復帰し、勲章をもらい、最前線を命じられ、軍服に身をかためたプランピックを乗せたトラックが、ずっと向うの戦場に向かって去ってゆきます。映画はあっけなく終わりました。 と、トラックの去った街角から、銃を捨て、ヘルメット捨てながら走ってくる男がいるじゃあありませんか。病院の鉄格子の前にたどり着いた彼は素っ裸ですよ。その「狂気」の男を修道女はにっこり笑って受け入れるのです。 通信兵ブランピックは修道院へ戻り、再びハートのキングの生活が始まりましたとさ。 スクリーンが暗くなる。思わず拍手!そういう気分ですね。元町映画館の企画にも拍手!映画館を出ながら、顔なじみの受付嬢と目が合いました。「よかったでぇ、明日も来るし。」「ありがとうございます。」 外に出ると商店街は暗くて、不思議な文字の垂れ幕が薄緑色に浮かんでいた。「令和てなんやろ?だれが、正気なんかわからん時代が始まってノンかな?えらいこっちゃなあ。はよ帰ろ。」 帰って調べてみると、原題の「Le roi de coeur」はトランプカードの「ハートのキング」。映画を見ていて、このままの方が「題名」の意味はよくわかるような気もしましたが、邦題というのは、まあ、そういうもんなんでしょか。 監督 フィリップ・ド・ブロカ 製作 フィリップ・ド・ブロカ ミシェル・ド・ブロカ 原案 モーリス・ベッシー 脚本 ダニエル・ブーランジェ フィリップ・ド・ブロカ 撮影 ピエール・ロム 音楽 ジョルジュ・ドルリュー キャスト アラン・ベイツ(プランピック) ピエール・ブラッスール(ゼラニウム将軍 ) ジャン=クロード・ブリアリ(公爵 ) ジュヌビエーブ・ビヨルド(コクリコ ) アドルフォ・チェリ フランソワーズ・クリストフ ジュリアン・ギオマール ミシュリーヌ・プレール ミシェル・セロー 原題「Le roi de coeur」 1967年 フランス 日本初公開 1967年12月16日 上映時間 102分 2019・04・25・元町映画館no5にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.29
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