PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
縄文の鬼や都の妖怪に会いに行く話 でした。
みてきたように、この 物語 では 二つの現実 が語られているように見える。 一つ は、いうまでもなく主人公ラヴァナ王が王として生きている現実である。廷臣にかこまれて、肥沃な国土を支配している国王の生活である。それにたいして もう一つの現実 が、夢の中で体験した不可触民に身を落とした生活である。 ボクが、この部分を、この1冊の本の中で、とりわけ面白いと思ったのは、実は、今、 村上春樹 の最新作 「街とその不確かな壁」(新潮社) 読んでいる最中だということにジャスト・ミートする話題だからでした。
(中略)
この物語には、われわれが慣れ親しんでいる、 夢の世界 と 現実の世界 というあの 二元論 の枠組みが初めからとりはらわれているのではないだろうか。
(中略)
私はいま、この物語には 二つの現実 が描かれているといったけれども、しかし考えてみればそれと同じような意味において、そこには 二つの幻想世界 、もしくは 夢の世界 が語られているともいえそうである。
そうなると、いったいどちらが 本当の現実 なのかといったような問いははじめから成り立たないことになるのではないか。物語の作者は、どうもそのように主張しているように私には思われるのである。
一つの夢物語を語りながら、その夢の世界がそのまま現実世界にすり替わったり、逆にまたわれわれの現実世界がそのまま夢物語に変貌してしまうという具合に話が展開していく。
その一種ねじれたような関係が奇妙な違和感を読む者の側にひきおこす。そういう語り口は、フロイトなんかの西洋人の考え方に慣れ親しんだ者の目にはやや異質なものに映るのではないだろうか。
この物語の作者は、 夢(幻想)の世界 が 非現実 であるように、夢や幻想をみる われわれの現実の世界 もまた、 非現実 の一様相であると主張しているようにみえる。
そしてそのようなものの見方の中にインド人が考えだした 「空」 の意味は隠されいるのであり、そのことにとりわけ 晩年の河合さん は共感していたのだろうと私は想像しているのである。
「仏に逢うては仏を殺し、師に逢うては師を殺せ」 という臨済禅の言葉をカギにしての立論は刺激的でしたし、 梅原猛 について、もともと好きということもあって、面白く読みました。 卒寿 を迎えた 著者 が あとがき でこう書いています。
米寿とか卒寿とかいわれると、かつての還暦とか古稀の場合とは打って変わり、むしろ銀河鉄道の各駅停車に乗って、ゆっくり周囲の景色を楽しみながら旅をしている気分になっていた。時間がゆるやかに流れ、過ていったはずの光景が何ともなつかしく蘇ってくる。 梅原さん や 河合さん の立ち居振舞いが 棟方志功 や 土門拳 のシルエットと重なり合い、たがいに対話している姿までみえてきた。それがまた私の心のうちに不思議な元気を誘い出し、思いもしなかった恍惚感に包まれるようになってきた。(P184) というわけで、乞う、ご一読ですね。一応、目次を載せておきますね。
目次
1 棟方志功 板を彫る(血噴きの仕事 ;「二菩薩釈迦十大弟子」 ほか)「教えること、裏切られること―師弟関係の本質」(講談社現代新書)加筆
2 土門拳 闇を撮る (筑豊の子どもから奈良の古寺へ;肉眼はレンズを通して、レンズを超える ほか)「見上げられた聖地」(新潮社)加筆
3 河合隼雄 夢を生きる (臨床心理士と宗教家;聴く人の背中 ほか)「夢とそら」(イマーゴ臨時増刊+書き下ろし)
4 梅原猛 歴史を天翔ける (絶滅危惧種の王座に坐る;梅原さんとの出会い ほか)「梅原猛さんの世界」増補・加筆
週刊 読書案内 立花隆「思索紀行 上」… 2024.06.10
週刊 読書案内 島田裕巳「京都がなぜい… 2024.01.30
週刊 読書案内 島田裕巳「日本人の神道… 2023.11.26