全89件 (89件中 1-50件目)
自民党政治の終焉(89)国会が始まりました。内閣と共に第1党で内閣を支える民主党の国会対策を眺めて見ましょう。国会については、議院運営委員会と国会対策委員会で、方向が定められます。民主党の動きを見ると、与党である国民新党と社民党に手厚く、さらに野党時代に共闘したことのある共産党にもそれなりの配慮をしています。野党については、自民党に厳しく、国会第3勢力の公明党には、それなりの配慮をしている節が見えます。問題は非与党の小党「みんなの党」に対する態度です。昨日も触れた、私の若い友人の山内康一議員は、現在「みんなの党」に属しますが、自民党を離党するまでは、私の地元の神奈川9区を選挙区とする若手議員で、良く勉強会などで顔を合わせていた勉強家です。その彼が小党ゆえに、国対と議運の責任者を務めています。以下は彼のブログからの転載です。10月22日の項に次の文章が掲載されています。「 来週から臨時国会がスタートします。冒頭で鳩山総理の所信表明演説があり、各党の代表質問があります。政権交代後初めての鳩山首相の国会の演説でもあり注目されます。が、残念ながら、みんなの党は代表質問の時間がありません。1)代表質問の時間配分は、衆議院の「議院運営委員会」で決められます。2)実際には、議院運営委員会の下の「理事会」という場で決まります。3)もっと言うと、理事会の前の「筆頭理事のインフォーマルな協議」で、 重要なことが決められています。筆頭理事間協議といっても、民主と自民の筆頭理事で話し合うだけです。みんなの党は理事ですらないので、筆頭理事間の協議にも参加できません。議院運営委員会の理事会も、みんなの党は正式な理事ではなく、発言権のない「陪席」という立場でしか参加できません。筆頭理事のインフォーマルな協議の場で大事なことが決められます。こういうよくわからない議院運営委員会の意思決定プロセスで、とても大事なことが決まっているのが、まさに「国対政治」です。代表質問の時間の割り振りについても、何か明文化されたルールがあって「小政党に代表質問をさせない」と決まっているのなら理解できます。しかし、明文化されたルールもなく、何となく話し合いで決まります。その「何となく話し合い」に参加させてもらえない政党は、自分たちの主張を国会で訴えることができません。議会運営委員会の理事会では、自民、公明、共産の3党が、みんなの党にも質問時間を割り当てることに賛成してくれました。自民と共産という対極にあるような政党までそろって支持してくれました。しかし、民主党の理事は「話を持ってくるのが遅いからダメだ」と回答。議院運営委員会理事会の初回は一昨日で、二回目は昨日でした。昨日の理事会で「みんなの党も代表質問をすべきだ」という提案があり、それに対する民主党の答えが「遅いからダメ」というものでした。有権者の声を代弁する政党として適切な質問時間が割り当てられるべき、という正当な主張に対する答えが、「遅いからダメ」というのは変です。もうちょっとまともな理由で拒否されるなら引き下がるかもしれませんが、単に「遅いからダメ」という手続き的・官僚的な理由で拒否されるのは、まったく理解できないし、有権者に説明がつきません。そもそも何をもって「遅い」といっているのか理解不能です。みんなの党は、民主と自民の筆頭理事の間のインフォーマルな協議には、まったく参加を許されていないわけです。当事者がいないところで協議されて決まったことに関して、あとになって抗議したら「遅いからダメ」という反応は不当です。民主党政権になってから国対政治の弊害が多少は改善されるのでは、と期待していましたが、期待はずれになりそうな気配です。この前の衆議院比例区の得票数を見ると、社民党とみんなの党は同等です。 社会民主党: 3,006,160票 質問時間=15分 みんなの党: 3,005,199票 質問時間= 0分わずか961票の差で、質問時間15分と0分の差になってしまいました。議席数で言えば、社民党7議席に対して、みんなの党5議席です。2議席の差で15分と0分というのも、やっぱり納得できません。せめて社民党が15分なら、みんなの党は10分くらいは確保すべきです。」社民党との比較を力説するあたりに、彼の悔しさが良く出ていますが、私が注目するのは、民主党の拒否の論理です。1日遅れたからダメというのは、形式主義に堕した出来の悪い官僚の作文答弁です。民主党国対は、これでは自民党のそれから少しも進歩していないことになります。小数意見の尊重は、民主主義を民主主義たらしめる最大の要件です。それを拒否してどうなるか。ここは党を仕切る小沢幹事長の腕の見せ所です。もう少しゆとりを持った、大人の国会運営を、期待したい所です。 続く
2009.10.31
コメント(4)
デパートの誕生(20)ボン・マルシェやルーヴルといったデパート経営者の店員掌握術の要諦は、徹底した歩合による報奨金システムでした。売り子の収入は、固定給の外に売り上げごとにプラスされる歩合給が大きなウェートを占めていました。目の前にニンジンがぶら下げられているのですから、売り子は皆熱心に働きます。ここでの売り場主任の仕事は、客が来るたびに売り子を割り当てるローテンション制を厳格に適用することと、しつこく客に商品を勧めすぎるなど店の評判を貶める行為に出る店員が出ないようにすることでした。特に後者の点は、顧客の苦情が届いた場合、その売り子ではなく、売り子を教育する売り場主任の俸給に響くようになっていましたから、売り場主任も息を抜けません。ただ、売り場の売り子を採用する権限、失敗が続いた場合にクビにする権限は、一義的には売り場主任に委ねられていたようです。次に会計係には、売上伝票の間違いを見つけた場合に、報奨金が支払われるシステムがありました。こうなると、売り上げ伝票のチェックに自然と身が入りますから、当然伝票の整理作業は順調に進むようになります。仕入れ部門では、これまた仕入れ商品の売れ行きが好調であれば、報奨金が支払われますから、自然に売れ筋商品の新規開拓に熱が入ります。搬入部は搬入された商品の数と不良品のチェックによって、報奨金を得ますし、配送部は、配達伝票の処理スピードと配送先のご記入に目を光らせます。店員の増大と共に、末端の店員にまで、幹部の目は届かなくなります。目が届かなくても、個々の店員が真剣に働くようにする、人心掌握術もまた、この時代に開発されていたのです。 続く
2009.10.31
コメント(6)
クロニクル イラクで日本人青年殺害2004(平成16)年10月31日5年前の10月中旬、日本人青年香田証生さん(当時24歳)が、訪問先のイラクで、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループに拉致され、人質とされました。拉致を実行したグループは、インターネットで犯行声明を出し、日本政府が48時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると通告してきました。これに対し日本政府は、青年の解放を求めたが、要求についてはテロリストとは交渉しないとの立場から拒否しました。この結果、青年はグループにナイフによって首を切断され殺害され、5年前のこの日未明、バグダード市内で放置された香田さんの遺体が発見されたのです。当時私は、日々入院中の病院でニュースを見ていたのですが、香田さんが拉致された3日後に、これは助け出せない、残念ながら香田さんは拉致グループに殺されるだろうことを確信しました。香田さんがヨルダンからバスでバクダッドに移動したことは早くから報道されていましたが、どうやら香田さんは、ヨーロッパからイスラエルに渡り、そこから隣国ヨルダンに渡り、イラク入りしたらしいことが、分かってきたからです。イスラエルに入国した事実はパスポートに記録されます。多国籍軍に加わってイラクに自衛隊を派遣している日本人が、イラクの人々にとって不倶戴天の仇のような存在であるイスラエルからやってきた事実を、拉致グループが知ったらどうなるか、それは想像するに難くないことでしたから。少なくとも中東情勢に多少とも知識があれば、イラク入りを考えながら直前にイスラエルに立ち寄るような無謀なことはしないものです。その点香田さんは、あまりに無謀でした。丁度検温にやってきた看護士さんと共にテレビニュースを覗きながら、思わず「これは助からない」とつぶやき、問われて事情を説明したことを、今でも良く覚えています。その想像は有り難くないことに、当たってしまったのです。もう一つ指摘したいことがあります。自衛隊撤退を求められた時の日本政府は、小泉首相自らが、間髪を要れずに拒否の回答をしたことです。誘拐犯との交渉は、時間を稼ぐのが基本であり、回答を引き延ばしながら救出の可能性を探るのが鉄則です。たとえ香田さんがイスラエル経由でイラクに入っていたとはいえ、日本がイラクに派兵していなければ、日本人が拉致されることはなかったのですから、少なくとも小泉首相は、彼の救出の可能性を探るために、いずれノーの回答をするにしても、当初は野良りくらりと時間を稼ぐべきだったと、私は考えています。
2009.10.31
コメント(10)
自民党政治の終焉(88)日本郵政の副社長の1人に納まった坂篤郎は、前内閣官房副長官補を紹介されていますが、出身は大蔵官僚で、斉藤次官の下で仕事をしていた人物です。坂氏は、官房副長官補として何をしたというと、渡辺善美行革担当大臣当時の最強の抵抗勢力として、公務員制度改革つぶしのために、心血を注いだのでした。私はうっかりしていたのですが、私の若い友人の1人「「みんなの党」の山内康一議員が教えてくれたのです。当時坂氏は必死で自民党の族議員に根回しし、渡辺大臣の公務員制度改革への組織的抵抗の司令塔の役割を果たしていたというのです。もう1人の足立盛二郎副社長は、元郵政事業庁長官でしたから、バリバリの郵政官僚です。こんな3人が組織を仕切る日本郵政が、民営化路線とサヨナラするであろうことは、見えていますね。公務員制度改革に反対し、官僚制と官僚組織の温存を図った人物がNO2として君臨するのですから…どうも、民主党は財務官僚と手を組み、財務官僚を重視して、他省庁の既得権益にメスを入れている。こういう構図が透けて見えるように思えます。今回の郵政人事も、旧郵政省の利権を財務省の管轄下に移そうとする策略の一環であるように思えてきました。これでいいのかというと、大きな問題であるように思います。 続く
2009.10.30
コメント(6)

デパートの誕生(19)こうした目玉商品で客を吸い寄せ、利幅の大きい商品を買わせて元を取るという商法は、顧客が大売出しに慣れ、次第に買い物上手になってゆくと通用しづらくなります。広告が普及し、消費者が色々な広告を比べるようになると、値引率の低い商品は、今までのようには売れなくなります。ですから、競合するデパートは、元をとるための利幅の大きい商品についても、他社との見合いで値段を下げる必要に迫られます。こうなると、商品以外のサーヴィスで顧客の関心を引く必要も出てきます。この点でボン・マルシェが特に重視したのが、顧客の利便と信用を買うことでした。その1点が配送サーヴィスです。顧客が購入した商品の配送を希望する場合、最寄のカウンターに預ければ、その日の内に購入済みの他の商品と共に自宅へ届けるサーヴィスです。デパートの売り子は、顧客が購入した商品を抱えて、顧客を案内して、顧客の求める次の売り場まで店内を歩く任務も負っていたのですが、配送カウンターまでお供すると、その任から解放されるようになりましたから、これは店員の業務にもプラスでした。地下の配送部の作業と配送馬車への荷積み。大型馬車が夜のパリを疾駆します。そして中流階級の顧客は、夜にかけて繁華街の有名デパートから大型馬車で荷物が運ばれてくるのですから、ご近所の手前自尊心もくすぐられるわけです。従僕を従え、自家用馬車でやってくる上流階級の貴婦人には、あまり必要でないサーヴィスでしたが、数は力の中流階級の顧客には、願ってもないサーヴィスでした。このためにボン・マルシェは、地下に搬入部と共に搬出部を設け、その日の内の配送(ただし地方は別)を徹底したのです。この配送の絡みで、地方向けの通信販売部を設け、その日に届いた注文は、その日の内に梱包し、配送に回すことを実行したのです。ゾラの小説に寄れば、郵便での注文は、日に500件を超えることも多く、通信販売部のスタッフは30人を要する規模になっていたとされています。通信販売部員が、顧客の注文を読み、整理します。次に返品の問題です。マガザン・ド・ヌヴォテは返品の自由を歌いました。しかし、返品に対して店員は良い顔をしません。現金を返すことを極端に嫌い、類似商品との交換をしつこく勧めるのが常でした。事実上返品の自由は絵空言だったのです。プシコーはこれを改めました。商品の返却が定められた期間内で、破損していなければ、顧客の希望に従って交換や現金の返却に応じることを、内外に宣言したのです。彼は、販売店員には販売に応じた歩合給を定めていたのですが、返却に応じない店員が出た場合、上司の申告や客の苦情によって、歩合を減じるシステムまで作って、スムーズな返品を実現したのです。これは顧客の信頼を得るには、実に良い方法でした。ボン・マルシェなら品質の良い物が確実に安価で手に入る。しかも返品にも確実に応じてくれるという、顧客のボン・マルシェに寄せる信頼感こそが、ボン・マルシェの無形の財産となっていたのです。プシコーはそのこともまた良く知っていたのです。 続く
2009.10.30
コメント(6)
クロニクル 上信越自動車道全面開通1999(平成11)年10月30日この日、関越自動車道の群馬県藤岡ジャンクションから、長野県長野市を通り、新潟県上越市の上越ジャンクションまで、上信越自動車道(正式名称は関越自動車道上越線)が全線開通しました。この高速道は、上越ジャンクションで北陸自動車道に接続しているため、単に長野県北信地方や新潟県上越地方と首都圏を結ぶだけでなく、関東と北陸方面を結ぶ動脈としての役割も持つ幹線道路の役割を果たしています。
2009.10.30
コメント(4)
自民党政治の終焉(87)日本郵政の今後の方向が見えてきました。斉藤社長の他に4人の副社長の内2人が元官僚です。そして4分社化を見直し、全国一律サーヴィスを目指すそうです。仕事量を増やすために、地方の郵便局は行政サーヴィスの代行も行ないたいとまで言うのですから、これは完全に本家帰りの、再実質国有化です。これは明らかに、改革に背を向けて逆走を始めたようにしか見えません。世評で悪く言われる西川社長ですが、住友時代は別として、さすがに金融界のドンでした。悪く言われる簡保の宿の一括110億円程度での売却計画は、良く出来ていたと思います。この点は既に述べました。くどくならない程度に再論すると、失業者を出さないように従業員コミで売却するのですから、営業赤字の施設はマイナスいくらでの売却です。黒字の施設を積み上げると110億円を大きく超えるという議論は、赤字の施設は抱えたままとし、買い手のつく黒字の施設のみ売却する時に言えることなのです。赤字の施設をそのまま従業員付きで引き受けるのですから、110億円はかなり奮発した提示額だったと私は思います。それなら、赤字の施設は売らずに残せばいいではないかですって。とんでもない。実は今も赤字を垂れ流す宿が運営されており、簡保の営業収益の一定部分を食べているのです。積みあがる赤字は黒字施設を売った利益をドンドン食いつぶし、やがてマイナスに転じるのです。損を最小に抑えるには一括売却しかない。凄腕のバンカーだった西川社長らしい判断だったと、私は受け止めています。今後はどうあがいても、せいぜい80億円から70億円程度でしか売れないでしょう。そんな西川社長が、なぜ悪人のレッテルを貼られて退任することを強いられたんでしょうか。そしてなぜ後任は官僚上がりなのでしょうか。ここに一つの数字があります。西川社長時代に炙り出され、整理淘汰された郵政公社のファミリー企業は、なんと219社に上っています。そしてこの219社には1社平均10人、合計2千人以上が総務省と郵政公社から天下っていたのです。西川社長はこのしがらみを断ちきったのです。郵政民営化に反対し、西川社長追い落としに動いた真の理由はそこにありました。郵政の実質再国営化は、許してはならない逆走です。亀井化石大臣は金融知識に欠けています。大怪我になる前に、交代に追い込めると良いのですが、さて… どうなるか… 続く
2009.10.29
コメント(6)
デパートの誕生(18) ところで大売出しは、バーゲンセールではありません。一つのテーマに沿った商品を集中的に展示して顧客の注目を集め、販売を促進するのが目的です。ですからバーゲンセールほどには値引率は高くありません。しかし、消費者の来店への意欲と購買心理を刺激するには、売り出し商品の全てがいかにも奉仕価格で売られているように思わせる、何らかの仕掛けが必要です。そのためにプシコーが思いついたのが、目玉商品を設ける商法でした。何点かの高品質の人気商品を、思い切った破格の廉価で販売し、ともかく顧客に足を運んでもらおうというわけです。連載の最初にゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』のノートのことに触れました。このノートについてゾラは、デパートの商法については主にボン・マルシェを取材し、店員の生態については主にルーブルで取材したとしています。さて、ゾラは『ボヌール・デ・ダム百貨店』の経営者ムーレが、次のように判断するシーンを実に生き生きと活写しています。シーンは、大売出しの目玉商品として、リヨンで仕入れてきた「パリ・ボヌール」と呼ばれる上質の絹織物に、5フラン60サンチーム(5600円)という利益のほとんどない価格と設定するか否かを巡る売り場と経営側の議論に、ムーレが安い価格に軍配を上げるところです。ゾラの文章をそのまま引用しましょう。「確かにこの商品については、1枚に何サンチームかの損が出るだろう。だがそれは私の望むところなのだ。損は出る。しかしその後は? もし女という女をこの店に引き寄せることが出来れば、… 女たちは山と積まれた商品を見て、幻惑され正気を失うはずだ。そして良く考えもしないで、財布を空にするだろう。… 要は女たちの欲望に火をつけることだ。そのために女たちの気に入るような目玉商品が一つは必要なのだ。いったん女たちの欲望に火をつけてしまいさえすれば、外の店と同じような値段の商品でも、たやすく売ることが出来るのだ。女たちは決して安くない品物でも、安いと思って金を払うだろう。」「例えばうちの『キュイール・ドール』という7フラン50サンチームのこのタフタだ。何処でも同じような値で売っているが、一緒に並べておくと、とてつもない奉仕品のように思われるに違いない。この分だけでパリ・ボヌールの損を十分埋め合わせてくれるのだ。… ま、いいから見ていなさい。」こう彼は売り場主任の肩をもって、総責任の取締役をなだめるのです。実際大売出しは、ムーレの予言通りになるのです。パリ・ボヌールの破格値に釣られた女たちは、これでもかと並べられた大量の商品の洪水と、華やかさに我を忘れ、購買欲の奴隷となってゆくのです。ゾラの小説は、取材ノートに忠実なことで知られていますから、ここで記されたコンセプトは、まず現実のボン・マルシェの姿だったと考えて間違いはありません。現在の激安量販店の出血セールに近いものが、既に存在していたのです。 続く
2009.10.29
コメント(12)
クロニクル トルコ共和国誕生1923(大正12)年10月29日86年前、関東大震災の約2ヶ月後という時期の出来事です。第一次世界大戦にドイツ側で参戦したオスマン帝国は、戦い敗れて大きく領土を縮小、屈辱的なセーヴル条約を押し付けられたのでした。この条約に納得しなかったムスタファ・ケマルらは、アナトリア高地中央部のアンカラに連合軍への抵抗政府を組織し、トルコ人のトルコの建設を目指して戦いを開始したのです。民衆の支持を得たケマルらは、次第に形成を挽回、英仏軍の支持を得てイズミール地方に侵入したギリシア軍との戦いに勝利し。ついにこの日トルコ共和国の成立を宣言、ケマルは初代大統領に就任しました。
2009.10.29
コメント(8)
自民党政治の終焉(86)昨日の鳩山首相の所信表明演説の全文を一読しました。大所高所から堂々と自身の思いを自分の言葉で語った格調高い演説でした。鳩山政治=民主党政治の目指すべき方向を語った序説としては、十分合格点の内容だったと私は評価しています。とりわけ、民主党の政権奪取を「無血の平成維新」と語り、官僚依存から国民への大政奉還、中央集権から地域・現場主権へ、島国から開かれた海洋国家へと国のかたちの変革の試みると述べた部分に、鳩山首相の並々でない決意を感じました。この心意気を最後まで貫いて欲しいと思っています。鳩山政治の目指す方向を述べた総論ですから、いまだ具体論に駆欠けています。この時点ではやむをえないと思いますが、現実の政治は総論ではなく各論で動きます。既に第1章は始まっていますし、現実は待ってくれません。ここは早急に各省庁の政務三役(大臣、副大臣、政務官)が張り切って、競い合って出してくる目玉政策に、優先順位をつける作業をやる必要があります。各大臣が張り切っているのは分かりますが、あれもこれもというわけにはいきません。内閣のチームプレーが必要です。現実の大臣たちの張り切りぶりを見ていると、特にその感を強くします。時にはバントをしたり、守りに徹したりも大事なことで、そうしたところがなければ、勝利はやってきません。国民との約束である「マニフェスト」を守ろうとする姿勢は大いに評価します。しかし、「マニフェスト」にあるからと、それらの政策を1度に全て実現しようとするのは無理というものです。ここは鳩山政権として政策の優先順位をつけ、すぐにやること、第2段階にやること、そして第3段階にまわすこと。それらをきちんと仕分けし、仕分けの理由を国民に示すことが求められています。近く、鳩山演説の第2弾として、各論の部分を聞いてみたいものです。国民と痛みを分かち合える政権であって欲しいと期待しています。
2009.10.28
コメント(6)

デパートの誕生(17) プシコーが思いついたのが、雪をイメージした白物の大売出しでした。彼は1月のパリで降り積もる雪を見ながら、この着想を得たとも言われますが、真偽のほどはわかりません。繊維業界で言う白とは、リンネルや綿布など白生地を使ったワイシャツ、ブラウス、下着、シーツ、タオルやテーブル・クロスなどを指します。プシコーは暮と年頭のバーゲンの後、春物の売出しにはまだ寒い2月という時期に、季節商品とは関係の薄い「白物」を集中的に売り出すことを、思いついたのです。19世紀には、まだロクな洗剤がありませんでした。洗濯方法も中世以来の伝統的なやり方でしたから、汚れをちゃんと落すことは出来ず、すぐに汚れが目立つ白のワイシャツや下着をを身につけることは、最高の贅沢の一つとされていたのです。こうした時期にプシコーは、「エクスポジシオン・ド・ブラン」と銘打って、白物の大売出しを始めたのです。エクスポジシオンは展覧会の意味ですから、あえて大売出しにこの名を冠したプシコーは、店内を白一色の銀世界のように白生地商品で埋め尽くし、来客の度肝を抜いたのです。後は宣伝の徹底です。いくつ物新聞広告、それにポスターの掲示です。街中の至る所に、ボン・マルシェの白物セールの宣伝が堕されました。これは効果がありました。当時の最高のぜいたく品である白物を、破格の奉仕値で入手できるかも知れないということから、パリ中の人々や、近郊の人々、そしてさらに遠くの人々にまで、ボン・マルシェの白物セールを好意的に受け止め、その日の到来を待ちわびたのです。写りが良くないのですが、下に掲げたのが白物セールのポスターです。とりわけ当時は嫁入り道具として、白物を揃えて持参する習慣がありましたから、若い娘や母親たちも、この白物セールを歓迎しました。当時のパリ紹介記事の一つは、「白物セールが行なわれる日は、フランス中の女性たちが指折り数えて待つ日になりました。最もエレガントな女性から最もつつましい女性まで、家庭の主婦も裕福なブルジョワ女性も、白の下着には一種の憧れを抱いているからです。」と記しています。白物セールは大成功を収め、以後毎年の習慣となったのですが、この白物セールの時だけは、普段ボン・マルシェに足を運ぶことのない上流の夫人たちも、この時ばかりは例外だからと、ボン・マルシェに出かけたと言われます。 続く
2009.10.28
コメント(6)
クロニクル カンカンとランラン来日1972(昭和47)年10月28日37年前のことになります。時の田中首相の訪中によって、日本と中国の国交回復が果たされましたが、それを記念して、周恩来中国首相の肝いりで、日本に贈られることになった2頭のジャイアント・パンダが、この日日本に到着、ただちに上野動物園に移送されました。2頭のパンダは、オスは「カンカン」、メスは「ランラン」と名付けられ、日中友好のシンボルとして多くの人に愛されました。上野動物園のパンダ舎は、いつもすごい人の波で、デリケートなパンダは、さぞお相手に疲れたことでしょう。でも、それだけ愛されたことでもあります。2頭のうち「ランラン」は7年後の1979年9月に、「カンカン」は8年後の6月に、それこそ突然死に近い状態で、あっけなくなくなりました。現在は剥製として多摩動物公園で展示されています。
2009.10.28
コメント(8)
自民党政治の終焉(85)昨日の成田のハブ化の続きです。日本は貿易立国です。この点はどなたからも異論は出ないと思います。その日本で物流が途絶えてどうするというのでしょう。港湾についても、地方の小さな港にまで金をかけて、地方負担まで重くする傍ら、大型化した巨大コンテナ船が接岸できる港は日本にはありません。世界各地への物流は、現在韓国の釜山港とシンガポールの港に集中し、日本はカヤの外に置かれています。中国もしきりに大型の港湾つくりをはじめていますから、近い将来は超大型船が何艘も接岸できるハブ港を持つようになるでしょう。今年の幕張のモーターショーは、外国勢の参加が少なく、見物に行った友人の話では、前回に比べ人出が寂しかったということでした。果たせるかな最初3日間の入場者は計15万人程度と計画を大きく下回っています。これに対して上海で実施された同じモーターショーは、海外勢も揃って大賑わいで、来場者も500万人を超える大成功だったと報じられています。この差は何によるのでしょうか。確かに上海は今や最大の市場となった中国の表玄関です。しかし、日本も中国に比べると小さくなっていますが、食を中心としてまだまだ大変贅沢な暮らしぶりで、かなりの量の車が売れる国です。それなのに、世界の車のトップブランドの多くが幕張への参加を見合わせたのはなぜか。物流の不便さと成田の足の悪さです。不便では人は集まりません。人が集まらなければ金も物も集まりません。金をかける利便性があるからこそ、人も企業もそして物も金も集まるのです。これが盛り場であり、催し物場です。ハブ空港であり、ハブ港です。前原大臣には、「今後小さな港湾は地元で勝手に運営してもらい、全国に2,3超大型船が接岸でき、荷役作業も24時間できる港湾を整備する」とぶち上げてもらいたいものです。羽田の話に戻ります。千葉県知事が吠えまくっていますが、彼はどうかしています。バカじゃないのと正直に書いておきましょう。成田がハブ空港に出来なかったのは、なぜですか。地元の反対を千葉県は説得したのですか。そんな気配はカケラもなかったじゃないですか。空港を作ることにも反対し、不便を解消するために機能を移すのにも反対というのでは、とてもまともな議論とはいえません。グローバルなハブ空港は、24時間発着できることが大前提です。世界は昼と夜の時間帯がひっくり返っている所もあります。そんな世界各地から飛んでくるのが国際線です。何時から何時までは来ちゃいかんというのでは、ハブ化は無理です。利便性で、人を集めることが出来なければ、盛り場としては失格です。貿易立国に人が集まらなければ、それだけ絶好の商機は減ります。ハブ空港にハブ港が出来れば、そこに物や金、そして人も集まって、様々な商機が訪れ、仕事の場も広がって、雇用機会も創出されます。よいことが続くのです。しかし、既にして、韓国、シンガポール、中国に対して周回遅れなのですから、結論は急ぐ必要があります。折角言い出したのですから、前原大臣には、腰折れにならずに、羽田のハブ化を推進してもらいたいものです。 ザビ
2009.10.27
コメント(6)
デパートの誕生(16)売れ残った流行品の在庫処分は、ボン・マルシェ以前にもあることはありました。しかし、それらは、そう大掛かりなものではありませんでした。プシコーの始めたボン・マルシェのバーゲンセールは、従来のそれに比べて遥かに徹底していました。プシコーは、夫々の季節商品の在庫期間を3ヶ月とし、最初の2ヶ月は通常販売とし、残り1ヶ月になると、先ず定価の30%引きで、2週間後には50%引きとし、最後の1週間には、そこからさらに値引きして、全ての商品を売り尽すのです。不良在庫を長い間抱えているよりは、損を承知で処分してでも、資本の回転率を高めた方が良いという考え方を、この時期にプシコーは確固たる信念としていたのです。それでもなお問題がありました。初期のデパートはボン・マルシェに限らず、どのデパートをとっても、衣料品が売り上げの殆どを占めていました。ですから、いくらマージンを下げて安価な販売価格を設定し、さらにバーゲンセールを定期的に行なったとしても、食料品店のように毎日商品が回転することはありえません。ですから、1年の間には回転が落ち込んでしまう時期が出来てしまいます。最近は使われなくなりましたが、業界用語なのでしょうか良く「ニッパチ」という言葉を聞きました。2月と8月は顧客が落ち込み、売り場に閑古鳥が鳴くというのです。このうち8月は、金持ちの有閑階級がパリを離れてしまうのですから、手の打ちようがなかったのですが、雪に閉じ込められてる2月は何とかできるかもしれない。2月に顧客層の眼を惹きつけ、ボン・マルシェに足を運んでもらう企画が何かないものか。プシコーはこの点に頭を悩ましたのでした。 明日に続く
2009.10.27
コメント(8)
クロニクル 日経平均株価バブル後最安値を更新2008(平成20)年10月27日昨年の今日、日経平均株価は、バブル経済崩壊後の最安値(2003年4月の7603,76円)を更新、7141,27円をつけました。日本だけでなく、世界的な金融メルトダウンがおこったわけですから、日本だけの金融危機よりも、より深刻な影響を及ぼしたのも、当然と言えば当然でした。
2009.10.27
コメント(6)
自民党政治の終焉(84)前原大臣の打ち出す方針は、良い線行ってる政策とちょいとクビをかしげる政策とが混在していますね。後者は何といっても公的資金によるJALの救済です。この件は既に書きました。前者はダムの見直しもありますが、ここに来てウルトラ級の拍手喝采すべきプランが、またひとつ飛び出しました。「羽田のハブ空港化」です。これはヒットです。実はこのプラン、自民党が数年前に打ち出したのですが、自民党は成田空港をハブ空港とするとして、地元の建設反対の声を力で押し切って建設を進めた歴史的由来から、構想を打ち上げただけで推進するに至らず、お蔵入りさせてしまっていました。しかし、成田は既に満杯で、新しい滑走路が出来ても、乗り入れを希望している航空便の一部しか使用が出来ません。さらなる拡張は既に無理になっています。成田空港を構想した当時の日本の技術水準では、海上を埋め立てて空港を拡大することは考えるべくもないことでした。しかし、その後の土木技術の進歩で、海上に空港を広げることは、土地買収のコストを考えると、陸上に建設するのとそう変わらないコストで、建設可能になっています。それゆえ、拡大が物理的に無理な成田よりも、遥かに離着陸数の多い空港にしていくことが可能です。しかも何といっても都心に近い。成田の不便さで逃している様々な経済チャンスを取り戻すことも可能になります。韓国の仁川や中国の上海に差をつけられている、アジアのハブ空港の一廓の座を取り戻せるとすれば、それは羽田のハブ化しかありえません。成田では無理なことなのです。 続く
2009.10.26
コメント(4)
デパートの誕生(15)薄利多売を看板にしたボン・マルシェでは、現金決済と大量購入で仕入れ価格を抑えた上に、マージンも抑制して低価格を実現、安さを強調して売り上げを伸ばす販売方法をとっていました。そのためボン・マルシェの販売マージンは、通常の商店の4分の1程度だったと推計されています。だとすると、1回の仕入れの量が通常商店の4倍あって、はじめて利益額が同じになります。しかし、店の面積が広く店員数も多いのですから、これでは話になりません。商品の回転率を高め、さらに売り上げを高めることが欠かせませんでした。当然回転率が落ちれば、利益はガクンと落ちます。短期の手形や現金で仕入れているのですから、売り上げ減はただちに次の仕入れに影響してきます。このように回転率の低下は、商品の滞留を招いて、絶えず流動する新しい商品群が次々に登場してこそのボン・マルシェ等のデパートにとって、致命傷になりかねない危機的状況を招くのです。仕入れたらすぐに販売し、販売したらすぐに仕入れるという、在庫を最小に管理すること、商品の寝ている時間を徹底的に短くすることが、大切でした。悪い意味ではない自転車操業が目指されたのです。ボン・マルシェでは、地下に商品の搬入部と仕分け部がありましたが、それ以外の一階以上は全て売り場でした。そこには在庫品を置く場所は、設けられていないのです。そこでは不良在庫ゼロが目指されていたのです。しかし、当然ながら顧客のニーズを読み違ったりの、見込み違いが全くおきないということはありえません。時には売れ残る商品も出ます。時代のテンポは、現代に比べて遥かにゆっくりですが、マガザン・ド・ヌヴォテとは流行品店のことですし、デパートはその発展形態です。そこで扱う商品の大部分は、流行の先端を行く商品です。ですから流行遅れになった商品が、売れる見込みはないのです。バルザックは『幻滅』の中で、旧来の衣料品店が売れ残り商品を地方からの旅行社や外国人に、最新流行と偽って売りつける手口を紹介しています。しかし、顧客の信頼を得るために史実をモットーとし、返品にも応じていたボン・マルシェらデパートでは、こうした顧客を騙すような商売は一切ご法度でした。ここでプシコーのもう一つの戦略が飛び出したのです。それが在庫一掃セール、即ちバーゲンセールの発明でした。 続く
2009.10.26
コメント(6)
クロニクル 桶川ストーカー殺人事件1999(平成11)年10月26日もう10年になるのですね。10年前の今日、埼玉県桶川市のJR高崎線桶川駅前で、女子大生が元交際相手とその兄が雇った男によって殺害されました。事件の被害者は犯人グループから監視・中傷・脅迫・プライバシーの侵害等のストーカー行為を受けていたため、事件は「ストーカー殺人事件」と呼ばれます。またこの事件がきっかけとなって、「ストーカー規制法」が制定されました。 日本で最初に認知された集団によるストーカー事件です。この事件では、写真誌『フォーカス』の頑張りにより、警察の怠慢な捜査や隠蔽工作が暴かれました。被害者とその家族は、幾度となく埼玉県警上尾署に相談し告訴状を提出していたのですが、警察側は捜査をせずにこれを放置し、被害者の家族に告訴の取り下げを要求していたというのです。この警察の不正は週刊誌『フォーカス』が明らかにしました。こうしたいきさつは、翌年3月にテレビ朝日『ザ・スクープ』が大々的に取り上げ、視聴者の関心を高め、マスコミの集中砲火を浴びた埼玉県警が立ち上がり、遂に告訴状を改ざんしていたこと事実を内部調査の結果として、明らかに下のです。最後に埼玉県警が不正捜査を認めて被害者遺族に謝罪することになりました。この事件に関しては、写真誌『フォーカス』の頑張りが目立ちました。
2009.10.26
コメント(8)
世界経済の現状 (82)為替市場でドル・円関係が、再び円安に振れてきました。斉藤元大蔵次官の日本郵政会社の社長就任が発表されると、その動きは一機に加速してきています。この動きは世界が斉藤元次官の就任を、郵政改革ひいては規制緩和の動きへの逆行と捉えていることを示しています。斉藤元次官の社長就任と同時に、日本郵政の民営化法を見直す新法が臨時国会に提出される旨も発表されました(詳細な内容は未定)。当然かつての国営銀行としての郵貯に再び近づけるる方向で見直されることは間違いないでしょう。これは、とてつもなく大きな問題を含みます。郵貯の民営化はなぜ必要だったのかをおさらいしてみましょう。問題を分かりやすくするために、簡保を外して考えますが、郵貯の貯金高はダントツの世界トップでした。そこに集められた500兆円近い貯金は、郵貯が国営銀行であるがゆえに、ごく一部を除く全額を政府が財政投融資資金として、低利で借り受け国会審議にもかけられず、国民の眼に触れない形で第2の政府の財布として好きなように使われてきました。20数兆円に上った国鉄の大赤字であるとか、○○公団の大赤字であるとか、皆郵貯資金が使われました。後になって、どうにもならなくなってから、税金で穴埋めされたのです。これではいけないということで、郵貯全体が赤字化する前に民営化して、政府が郵貯を都合の良い財布代わりに使うのを止めようとしたのが、小泉改革の狙いでした。まず、郵貯を民営化して、しかる後に、郵貯資金を当てにしていた政府系金融に大ナタを振う、これが小泉=竹中路線でした。2人は昨今ボロクソに言われることが多いのですが、この点の狙いは正しかったし、必要な改革だったと私は評価しています。ただ、志半ばで小泉氏は政治を投げ出してしまい、彼自身の強烈な個性に頼ってきた改革そのものまで放りだした結果にしてしまったことは、批判されるべきでしょう。改革半ばの郵貯はどうしたか。自由化、民営化を見越して財政投融資への貸し出しを減らし、さらに財政投融資そのものがなくなった現在、郵貯資金はどうなっているかというと、その8割が国債への投資となっているのです。民間への貸し出しは僅かで、残りの資金のかなりの部分が100%政府出資の政策投資銀行や住宅金融支援機構、日本政策金融機構などへの貸付となっているのです。西川社長下の郵貯銀行は、こうした公的機関への貸付を減らし、徐々にではあっても民間への融資を増やす傾向にありました。そこには民間銀行との競争条件をどうそろえるかという問題がありましたが、少なくとも民営化を意味あるものにする方向は読み取れました。今回の民営化法の再改正と斉藤社長の就任は、こうした改革を逆行させるものであり、日本経済全体の再活性化にマイナスになると、世界が見抜き、世界経済の中での日本経済の立ち位置は弱まると受け止め、円売りに出たことが、今回の円安の背景にあると私は見ています。ここに、亀井モラトリアムが加わるのです。 続く
2009.10.25
コメント(4)
デパートの誕生(14)ボン・マルシェは、自ら工場を経営しようとはしませんでした。それは以下の2つのリスクを避けたかったからです。第1は、工場経営には大きな設備投資が必要で、工場建設に投資した分、仕入れを減らさなければならないことでした。そして第2は、経営がうまくいかない場合に、そのリスクも背負わなければならなくなることでした。そんなリスクを犯すよりも、複数のメーカーと契約し、何種類もの衣料品を仕入れた方が、顧客の多様なニーズに応えることが出来ますし、業者同士を競わせて、仕入れ価格を下げさせることも期待できたからです。仕入れ価格を叩いて、痕は企業努力をなさって下さいという、大企業の論理もこの時期に確立していたのです。こうしてボン・マルシェ式の薄利多売方式は、商品の回転を早め、在庫にかかる費用を軽減し、さらに仕入れ価格の低下をもたらしたのです。しかしこのシステムにも弱点がありました。順調に行っている間は良いのですが、ひとたび何らかの理由で、商品の回転効率が鈍ってしまうと、たちまち悪循環に陥ってしまうからです。この弱点を克服できるか否かに、ボン・マルシェの躍進の鍵がありました。 続く
2009.10.25
コメント(8)
クロニクル 池田首相辞意表明1964(昭和39)年10月25日東京オリンピックが閉幕したまさに翌日の事でした。この日池田勇人首相が、オリンピックの閉幕を待って、入院先の国立癌センター病院で、退陣を表明、後継首相としてライバルだった佐藤栄作を、指名しました。翌65年8月13日、咽頭癌の術後肺炎のため死去。享年65歳。明治生まれとしては最後の首相でした。
2009.10.25
コメント(6)
デパートの誕生(13)ボン・マルシェの経営手法は、やがてプランタン、ギャルリ・ラファイエット、トロワ・カルティエといった同業者も取り入れる所となってゆきます。そうなると彼らは、互いにより安い工賃で、同品質を確保できないかという競争を始めます。ここに工賃の安い地域を探して、全国各地の繊維工場を捜し歩き、さらには外国にまで足を伸ばすのです。安く仕入れが出来るなら、何処へでも出向くのが腕っこきの良い買い付け係のやり方でした。こうしてボン・マルシェに限って言えば、リヨン、ルーベ、サン・テチエンヌ、さらにはイギリスのロンドンにまで、買い付け事務所を置いていたのです。そして、こうした薄利多売方式の当然の帰結でもある大量買付けは、商人と製造業者の関係そのものを変容させてしまいます。買い付け商人に対する生産者の優越は否定され、大規模店、とりわけパリなどの大型店が優位になってくるのです。プシコーらは、こうした優位を最大限利用して、外国でしか作られていない製品を、輸送に便利な手近な所で確保できないかと考え、納入業者にかけあって国内、それも比較的パリに近いところに工場進出するよう要請したり、衰退していた地場産業の再興を図ったりもしたのです。もうデパートと呼んでも良いでしょうか。こうしてデパートは、流行の品を単に買い付けるだけではなく、流行を自らの手で作り出す手段をも手に入れることになったのです。時代が下って1900年のことですが、ボン・マルシェ社は、こう語っています。「当社の買い付け係と生産業者は、同じ利害を共有していますので、新しい商品を作り出すために一緒に考え、一緒に努力しています。商業も工業も、こうして絶えず新しさを求めて、成長してゆくのです。…… つまりわが社は、わが国の工業に仕事を提供すると同時に、大量の注文を出すことによって、有利な条件で製造業者の方々と取引できるようになるのです。その結果、消費者の皆様にも有利な形で、店頭に商品を並べることが出来るのです。」しかし、ボン・マルシェは、ただの一度として自ら工場を経営しようとはしていません。それはなぜでしょうか。 続く
2009.10.24
コメント(4)
クロニクル 東京五輪閉幕1964(昭和39)年10月24日45年前のこの日、15日間の会期を無事に終え、東京オリンピックが閉会式を終え、無事に幕を閉じました。10日の秋晴れの開会式、その夜いきなりの重量挙げ三宅義信選手の優勝シーンから、毎日日本選手の活躍を、テレビにかじりついて応援していたのが、いまだについこの間のように感じられてなりません。重量挙げという競技は、この時はじめて見学したのですが、見ているだけで肩が懲りました。はじめて肩こりを経験したのが、この時です。卒業論文の執筆をそろそろ始めなければいけない時期だったのですが、五輪の誘惑には勝てず、この2週間を棒に振りました。そのツケは、12月15日の締め切りギリギリにようやく自家製の製本を終えるという、最後は72時間で、睡眠1時間という強行軍で、支払わされました。古き良き時代でした。
2009.10.24
コメント(16)
デパートの誕生(12)薄利多売方式は、マガザン・ド・ヌヴォテでも実践していました。しかし、それは機械生産の量産品に限られ、品の良い高級品は高いままだったのです。これに対し、プシコーが「ボン・マルシェ」で実践した商いは、高級品を含めて店で扱う全ての商品のマージンを下げて安売りを仕掛け、商品の回転効率を高めたのです。店の名に相応しい商法でした。今まで、安売り商品に釣られて、マガザン・ド・ヌヴォテに買い物に行き、高いものを買わされることも少なくなかった客たちは、良い物が安く買える「ボン・マルシェ」に吸い寄せられるようにやってきました。一例を挙げましょう。一般の衣料品店のマージンは、30~40%が妥当と言われます。そのマージンを「ボン・マルシェ」では20~18%に抑えたのです。純益ベースでは、4~5%の薄利でした。良い物が安い「ボン・マルシェ」は、当然リピーターの確保に成功します。こうして薄利多売方式が軌道に乗ると、商品の回転効率も飛躍的に良くなります。そうすると、3ヶ月期限の手形を使っていた取引から、例えば1ヶ月期限の手形へと、変更することが可能となります。手形の期限が短くなった分、取引先にはさらに値引きを要求することが出来るようになります。そして、安くなった分は、さらに買い付けに回すのです。そして、手形期限の短縮は、納入業者に支払い猶予をお願いする必要がなくなったことを意味しますから、取引における「ボン・マルシェ」の立場を強めます。今までは、長期の手形払いを認めてもらう必要上、仕入先を固定し、将来にわたって取引を固定することが要求され、その通りにしていたのです。支払い条件の改善により、その恩義(義理)は消滅します。こうして複数の納入業者に価格と品質を競わせることが可能となったのです。仕入れ値の低下は、さらなる値引きを可能にし、消費者の信頼をさらに高めることを、可能としたのです。折からの鉄道建設の発達は、特定の地域に偏っていた仕入れ先を、フランス全国に拡大することを可能にします。いやそれどころか、ベルギーやオランダさらにはイギリスにまで、仕入先を拡大することを可能にしたのです。プシコーはナポレオン3世の政府が推進する自由貿易政策を、最大限利用したとも言えるのです。それは、少しでも安く品質の良い物を仕入れようと、最大限努力することによって、大きな果実を手にすることを可能にしたのです。こうした努力の結果は、仲介問屋さんの存在価値を希薄化し、工場や作業場からの直接仕入れを主流の座に押し上げます。現在でも通用する「直接仕入れ」「直接販売」は、既に19世紀半ば過ぎに、プシコーらの先駆的経営者の意欲的な試みの中から、生まれていたのです。 続く
2009.10.23
コメント(4)
クロニクル 中越大地震発生2004(平成16)年10月23日5年前のこの日、間もなく午後6時になろうとする時刻でした。私の住む神奈川県川崎市北部でも、大きな揺れがありました。これが中越大地震の始まりでした。最初の揺れで震度7を観測した地点もありましたが、中越大地震の恐ろしい所は、その後何度にもわたって、激しい揺れが続いたことにありました。最初の揺れは、多少の地域的ズレを含みながら、5時56分~59分に発生、以後、12分後、35分後、そして106分後の3回にわたって、震度6を超える大きな揺れが襲ってきたのです。翌日以降も激しい揺れが数日間収まらなかったのですから、それは益々厳しい状況でした。あれから5年、大地震の影響は今なお、大きな痕を残しています。
2009.10.23
コメント(12)
自民党政治の終焉(83) 民営化した日本郵政グループの持ち株会社の社長に、斉藤次郎元大蔵事務次官を起用する案が、昨日発表されました。これには驚き、かつ呆れました。あってはならない人事ですし、民主党の品位を大きく傷つけたことになります。民主党は、日銀総裁人事に関して、財務省(旧大蔵省)とりわけ次官経験者は絶対に認めないとして、拒否を貫きました。結果として学者肌で日銀出身の白川現総裁が実現したいきさつがあります。官僚OBの独立行政法人への再就職(普通天下りと呼びます)も9月末に原則禁止にしています。いわば、党是ともいうべき「天下り禁止」の方針と、どう弁解をしようとも、整合性の取れないことは明らかです。この人事は鳩山内閣にとって、大きなミスキャストとして、後々大きく祟りそうな気がしてなりません。実を言うと、歴代大蔵次官や財務官の中で、私は特に斉藤次郎氏を評価していないのです。マスコミは、大蔵省内の評価を受け売りして「10年に1度の大物次官」などと評していますが、それはおそらく政治家の懐に入って、政治家の力を借りて謀を成就しようとする、突破力を評してのことのように思います。彼は、1993年から95年にかけて、宮沢内閣の末期から細川・羽田・村山内閣にかけての大蔵次官でした。94年2月のある日、夜11時近くなっての緊急記者会見で、突然細川首相が消費税を改組して、7%(4%アップ)の国民福祉税を導入するという、寝耳に水のプランを発表したことがありました。皆さんも覚えておられると思います。この構想の出所が彼です。斉藤氏が想を練り、連立政権の黒幕で新生党幹事長だった小沢一郎氏に説明して、タッグを組んで細川首相を説得して発表に至ったものでした。結果はご存知の通りです。寝耳に水の連立各派は、こぞって反発し、ヒビの入った細川連立政権は立ち直ることが出来ず、東京佐川急便の献金疑惑もあって、4月には退陣の憂き目を見るのです。斉藤氏は細川内閣を空中分解させた張本人なのです。まだあります。村山内閣の村山首相と武村蔵相は、96年1月に、住宅金融専門会社(住専)への税金投入の責任を取って、辞任に至りました。この時の大蔵次官は斉藤氏の後任の篠沢恭介次官でしたが、大蔵省内で住専処理を先送りし続けてきた責任の大半は、斉藤次官にありました。当時最大の住専は、東証一部に上場していた「日本住宅金融」でしたが、その親会社の三和銀行は、93年の時点で大蔵省に破綻処理も選択肢にある旨を説明していたのです。その案はただちに却下され、三和はその指示に従ったのです。斉藤次官のミスリードであったことは議論の余地のないところです。さらに、彼のお墨付きの下に、農協を管轄する農水省との間で、農協の住専への貸付分については、住専の親会社の責任とするする旨、念書が作成されていたことが、農水と農協が貸し手責任をごく一部しか追わなかった根拠とされ、その差額分が、多額の税金の投入となったのでした。この責任も斉藤氏が負うべきものです。こうした事情で、私は、金融に関わる斉藤氏の力量を全く信用しておりません。しかも彼は小沢人脈に連なる元次官です。これ以上ない天下りです。この人事、明らかに禍々しい匂いがして仕方ないのですが、鳩山政権の命取りにならないことを願うばかりです。 続く
2009.10.22
コメント(8)
デパートの誕生(11)世界史で1848年という年は、19世紀の分水嶺として知られています。産業革命で登場した労働者階級が、表舞台に登場し、この労働者階級をどう制御するかが、政治権力にとっても大きな課題となってくるのが、この時からなのです。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』えお共同執筆して出版したのも、この年初めのことでした。西洋世界は。まさしく革命の年として大揺れに揺れたのも、この年から翌年にかけてでした。さて、フランスの小売業界の話に戻ります。48年~52年にかけての混乱期、消費の落ち込みという逆風を食らったマガザン・ド・ヌヴォテの多くは、持ちこたえられずに倒産しました。青雲の志を抱き、節約に節約を重ねてチャンスを待っていた人たちには、こうした倒産のラッシュ、不況の底は大きなチャンスでもありました。倒産した店舗を底値で、しかも居ぬきで買えるからです。後の「ボン・マルシェ」の経営者プシコー夫妻が、折半出資の共同経営者と共に、従業員12人、売り場は4つという小さなマガザン・ド・ヌヴォテを買い取ったのは、1852年のことでした。店には安い店を意味する「ボン・マルシェ」と名をつけました。初年度の売り上げは、45万2千フラン(当時の1フランは約千円ですから、4億5千2百万円)でした。店の権利一切は、10万フラン(約1億円)でしたから(プシコー夫妻の出資額はその半額の5万フラン)、実に安井買い物だったわけです。因みにこの共同経営者だったジュスタン・ヴィドー氏は、1863年に引退を決意し、自分の持分を152万フラン(15億2千万円)でプシコー夫妻に譲っています。10年少々の期間に、いかに急成長を遂げたかが理解できようというものです。因みにこの年の売り上げ総額は、700万フラン(70億円)に達していました。「ボン・マルシェ」の創業者、アリステッド・プシコーが現役のまま没したのは、それから9年後の1872年ですが、この時「ボン・マルシェ」は、押しも押されもしない、世界最大のデパートになっていました。ところで、1852年という年は、前年12月のクーデタで終身大統領となったルイ・ナポレオンが、国民投票の結果として帝位に就き、ナポレオン3世と名乗って第二帝政を始めた年でした。このナポレオン3世の経済政策は、金融資本の育成、鉄道建設や万国博覧会の誘致などの国家的プロジェクトの導入、株式会社設立の簡素化といった、経済の高度成長を狙いとした買う台政策でした。マガザン・ド・ヌヴォテで修行し、経験を積んだプシコーは、積極経営に打って出ます。彼は。マガザン・ド・ヌヴォテで学んだ、入店自由、正価の明示、現金販売、返品可能などの販売方法を徹底すると共に、薄利多売方式を強力に推し進めたのです。 続く
2009.10.22
コメント(8)
クロニクル 「白蛇伝」公開1958(昭和33)年10月22日もう51年前になります。この日、日本初の長編カラーアニメーション映画『白蛇伝』が東映系で公開されました。東映アニメはその後も1年1作ペースで続けられ、『ワンワン忠臣蔵』などの傑作を生みだし、今日のアニメ大国日本の原点を作り出しました。
2009.10.22
コメント(8)
自民党政治の終焉(82)JALの再建スキームが次第に固まりつつあるようです。しかし、注意が必要な点がいくつかあります。メガバンクが取引銀行に入っていますが、JALの主取引銀行は、政府系金融機関である政策投資銀行です。金融機関に債権放棄を求めると言っていますが、放棄する2200億円(他に300億円は、株式に転換することで、計2500億円の債権放棄となります)の7割から8割が、税金で賄われるわけです。第2に、税金投入で救っておいて、それでJALは再建できるのでしょうか。近くは米国のGMの例がありますし、20数年遡ると日本でも旧国鉄の例があります。JRは苦戦する貨物などもありますが、本州の3社は見事に優良会社に変りました。今回JALはJRになれるのでしょうか。これが実は非常に難しいと思われるのです。JRは東海に新幹線という黒字に出来る資産がありました。また東日本には東京圏の山手線を中心とする、いくつものドル箱路線がありました。同じく西日本には大阪環状線を中心とした黒字路線があったのです。JALにそんなドル箱はあるのでしょうか。国際競争の激しい国際線は、世界中が競争相手です。物価が安く従業員の給料も安い国々にも航空会社は存在します。ですから従業員の給料が相対的に高い国々の航空会社は何処も苦戦しています。そういう競争の激しい業界で、JALが生き残って行くためには、少なくとも国際線のクルーを、中国やヴェトナムなどで雇い入れたチーム(貨物船などで、良く使われている方法です)に委ねるなどの手法を執らないと難しいでしょう。GMの救済には、救済しないと本体と裾野を合わせて、大変な数の失業者を生み出してしまうという、大きな社会問題が背景にありました。国鉄の場合は、国民の足が奪われてしまうという、これまた国家的な問題がありました。JALにこういう問題が何かあるでしょうか。何もありません。一つの航空会社がなくなったとして、その分の発着枠は、枠を増やしたくて仕方がない、各国の航空会社が喜んで埋めてくれます。ですから、困るのは、高給をむさぼってJALを食い物にしてきた、JALの社員だけなのです。空港の職員を含めて、関連施設の職員は誰も困りませんし、私たち旅行者は、JALよりも安い運賃でフライト出来るのですから、何も困ることはありません。民主党政権も、なぜ最初に救済ありきで考えるのか、本当にその必要があるのか。なぜタスクフォースに救済を前提としたプランのみを考えさせるのかを、もっと丁寧にそしてしっかりと説明する必要があるように思います。今後の苦戦をも視野に入れると、私にはJAL清算の方が、遥かに安価で合理的であるように思えてなりません。郵政問題は改めて記します。こちらは世界経済というか、金融の問題に深くかかわりますので、どう料理しようか考慮中です。 続く
2009.10.21
コメント(8)
デパートの誕生(10)一方で手織りの高級品は、熟練の技術者が限られますから、大量購入による割引などは期待できません。その上技術力のある親方は、昔からの付き合いのある商店との取引を優先します。そのため資本力のあるマガザン・ド・ヌヴォテといえども、高級品については、既存店との差別化を、価格面で計ることは出来なかったのです。廉価販売が可能だったのは、商品の品質に問題の残る工場生産の機械製品に限られたのです。そしてこちらは返品も多かったのです。マガザン・ド・ヌヴォテの新商法には、こうした限界がありました。新商法が大きく羽ばたいていくためには、いっそうの時代環境の整備が必要だったのです。そのため、銀行家がわが世の春を謳歌したといわれる、七月王政の全盛期は良かったのですが、1846年にイギリスに始まった過剰生産恐慌が、47年の夏を過ぎてフランス経済にも大きな影を落すようになると、経営難は次第に深刻となってゆきました。イギリスから飛び火した過剰生産恐慌の影響がきっかけとなった1848年の二月の革命と、その後のフランス社会の混乱(これはほぼ、ナポレオン3世による第二帝政の成立まで続きます)は、数年にわたるフランス経済の停滞を招きました。この時期に、持ちこたえることの出来なくなったマガザン・ド・ヌヴォテの多くは、倒産の憂き目を見たのです。それは、若き野心家たちにとっては、チャンスの到来を意味していました。 続く
2009.10.21
コメント(6)
クロニクル 東京専門学校設立1882(明治15)年10月21日127年前のこの日、大隈重信は、現在の地に東京専門学校を設立、政治経済学科、法学科、英学科、理学科の4学科を設置しました。入学者80名の小さな学校でした。20年後の1902(明治35)年に早稲田大学と改称しました。この東京専門学校は、現在の早稲田大学の前身だったのです。
2009.10.21
コメント(6)
世界経済の現状 (81)米国の金融機関の決算がモルガン・スタンレーを除いてほぼ出揃いました。大手でいうと好調なゴールドマン・サックスとJPモルガン・チェースに対し、いまだガタガタのままのシティとバンカメという、二極分化の傾向がはっきりと出ています。中小銀行は既に100行以上が倒産し、なお毎週数行が倒産し続けています。JPモルガンとGSは、ただ同然の政府資金で相場を張り続けて大きな利益を得ました。さらに政府の後ろ盾があるという、これ以上ない絶対的な信用を背景(政府の後ろ盾があるので、支払い不能に陥る可能性がなきに等しいこと、金融用語で、カウンターパーティリスクがないこと)に、大規模なスワップやオプションの、ほぼ独占的な受け手になったことで、さらに利益を膨らませました。この事実は、国際金融界において、いまだ信用できる取引相手が極端に少ないことを意味しています。G7の国々が揃って過剰なほどに資金を市場に供給し続けていますから、市場では資金の動きが滞ることはなく、資金の動きは一時に比べると改善していますが、取引相手は信用力の高い相手に限られており、前期2社にモルスタを加えた3社に集中する傾向が続いているのです。法人相手の取引が中心の3社はよいとして、その他の個人を顧客として数多く抱えるバンカメやシティ、そしてその他多くの中小銀行は、相変わらず不良債権の増大に悩まされており、その結果決算数字の改善は、遅々として進まないのです。その状況については、昨日の(80)に数字を出しておきました。この数字がこれからどう変化していくのか、米国政府の強引極まりない力技が、今後も機能し続けるのか否か、年内にはもう少しはっきりしてくると見ています。 続く
2009.10.20
コメント(8)
デパートの誕生(9)マガザン・ド・ヌヴォテは、もう一つ新しい販売方法を実現しました。それが掛売りを認めない現金販売でした。地域の固定客でなく、不特定多数の客を相手にする以上、それは当然の試みでした。地元の顔見知りの客だからこそ、付け買いは成り立ちます。当然その分の利息は商品代金に繰り入れられていますが、この方式では資本の流動性が低くなり、投下資本の回収は遅れます。勢い、商品の仕入れに現金買いの手法や手形の期間を短縮するなどの新しい取引手法を取り入れることは出来ません。当然ながら、こうした手法を取り入れるなら、その分の値引きを製造業者や問屋に対して要求することが出来ます。現金正価販売の店は、こうして旧来の店より安い価格とすることで、さらに顧客にアピールすることが出来たのです。さらに、店によっては、現金買いの条件として、返品を認める店も出てきます。これも従来はありえなかった新商法です。よほど、店の商品に自信がなければ、打ち出せない新商法でした。当然、新業態のマガザン・ド・ヌヴォテとりわけ大型で優良なマガザン・ド・ヌヴォテに人気が集中し、集客力も高まってゆきます。しかし、19世紀の前半という時代にあっては、そこに大きな落とし穴が待ち構えていたのです。優良な商品を大量に集めることが、まだ出来なかったのです。フランス社会での産業革命は1830年代に始まりますが、その初期の時代にあっては、工場での生産品にかなりのムラがあることが避けられなかったのです。生地の生産技術には、手織りの高級品と機械生産の廉価品の差は大きく、前者の数は限られ、後者には多数の不良品が混じっていたのです。そのため、大量販売による収益の拡大を思うように実現できず、大型店という設備投資の費用を考えると、経営が十分に安定するという状況には、なかなかなれなかったのです。 続く
2009.10.20
コメント(6)
クロニクル 日比谷公会堂開場1929(昭和4)年10月20日日比谷公会堂、丁度築80年になるのですね。日比谷公会堂は、その必要を説く東京市長(当時)の後藤新平の主張に、安田財閥の安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円の寄附、「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画、建設されました。1929年の本日開場しました。かつて、東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなどが数多く開かれました。しかし、戦後になると、東京文化会館を皮切にNHKホール、昭和女子大学人見記念講堂、サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホールといったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備され、コンサートホールとしての日比谷公会堂の地位は低下しました。現在では、講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会はほとんど開催されなくなっています。1960年の浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件は、ここ日比谷公会堂での出来事でした。
2009.10.20
コメント(10)
世界経済の現状 (80)高級品の売れ行き不振を尻目に、価格破壊の安くて質の良いものは良く売れています。この限り売れ筋商品の価格が回復する見込みは、当分ないようです。米国の住宅市場における、支払い繰り延べの対象になっている延滞債権の比率は、昨年末の7,8%から3月末には9,6%に、6月末には10,2%に、そしてこの9月末には12,5%にまで上昇しています。そして、延滞債権は延滞期間の終了後、90%以上の確率でデフォルトとなっていると言います。米国景気、確かに一部の限られた企業や業種によっては回復に向かっているようですが、その数字が全体の回復に繋がるかどうかは、かなり疑わしく危ういように思われます。そして、発行済み米国債や政府機関債の保有状況にもかなり危うい面が出てきています。かつて、その70%は外国で販売されていたのですが、外国政府等の保有分が、ここに来て減少を続け、9月末現在では6兆9千5百億ドルの発行残のうち、3兆4千8百億ドルと、ほぼ50%にまで落ちているのです。預貯金の少ない米国の個人がそう多くの国債を引き受けることはないので、この分は米国政府とFRBによって、買い支えられていることになります。悲惨なのは政府機関債で、こちらはファニー・メイやフレディ・マックの債権を購入するような外国人は既にありませんから、新規の債権はFRBや政府が引き受けるしかない状況になっています。こちらは、8兆1千4百億ドルの発行残のうち、外国の保有残は1兆3千6百億ドルと15%近くにまで落ちています。このうち、半分強はおそらく日本勢の保有でしょう。米国の発行する国債や機関債は、急激に外国勢の信頼を失い、今や発行した政府自らが政府機関を通じて引き取らざるをえなくなっているのです。いずれドルは暴落し、基軸通貨としての信頼は、単独では確保できなくなる。だからドルに変る基軸通貨を…という動きが出てくる背景は、こういう所にあるのです。
2009.10.19
コメント(6)
デパートの誕生(8)1830年代に入るとマガザン・ド・ヌヴォテは、雨後のタケノコのように次々と開店していきます。となると店同士の競争も熾烈になります。競争の第1は、いかに他社以上に人の心をひきつけるかにありました。顧客となるべき人々の意表をつくネーミングが必要だと考えた店主は、店の名前に知恵を絞ります。「メアリー・スチュアート」や「テンプル騎士団」と言った当時流行った歴史小説風のネーミングから、「魔法のランプ」、「芸術家の屋根裏部屋」、「さまよえるユダヤ人」、「哀れな悪魔」といったオペレッタや新聞小説のタイトルを、ちゃっかり借用したものまで、ともかく目立とう主義のネーミングが目立ちました。ネーミング以上に目立たせる必要があるのが、店構えです。「定価販売の店」という宣伝文句を店舗の外壁のいたるところに張り出す店、店全体をショウウィンドーに見立てて、壁面を出来る限りガラス張りにして、店内の様子が見えるようにした店まで登場したのです。そして、店から離れたところに住む人々向けには、宣伝ビラが配られたのです。こうした外観や宣伝の効果で客が店内に足を踏み入れたとしても、店内が窮屈で、すぐに店員と対峙しなければならないとしたら、顧客の好奇心はたちどころに萎えてしまいます。実際に外見だけは変えても、店内では相変わらずの貧弱な商品と強引な売りつけ商法に依存していたために、評判を落として消えていったマガザン・ド・ヌヴォテも多かったのです。この競争に生き残ったマガザン・ド・ヌヴォテは、慧眼な経営者が外観と内容を一致させようと、試行錯誤を繰り返したところばかりでした。先ず、店内に入ったところで、ゆったりした気分になってもらうために、1階部分に広くて豪華なホールを作り、顧客の気分をくつろがせる工夫をしたのです。ポール・ド・コックの『大都市ーー新パリ情景』からの引用です。彼は豪華なマガザン・ド・ヌヴォテに入った時の驚きを記します。「1階には広々としたホールがあり、贅沢にかつエレガントに飾られている。カウンターの台はルネサンス様式で、いたるところに鏡がはめ込まれている。床は…ピカピカに磨きこまれて、客の通り道には絨毯が敷き詰められている。客は一瞬間違った所に入り込んだのかと錯覚する。ここはヴェルサイユの廊下なのではないか。こんな宮殿のような所で、フランネルのチョッキを買いたいとか、キャミソール用の生地をくださいとか、頼んでよいものかと思う。しかし、そのときになって、ようやく行ったり来たりしながら布を折りたたんだり、伸ばしたり寸法を計ったり、積み重ねたりしてる店員の姿が眼に入る。」後にデパート王と呼ばれるようになる、「ボン・マルシェ」の創業者、アリステッド・プシコーは、客が店に入った時に味わう「閉じられた空間のゴージャスな開放性」を、何よりも重視しています。この点について彼は、マガザン・ド・ヌヴォテの手法から学んだように思えます。 続く
2009.10.19
コメント(12)
クロニクル 運命のロッテ対近鉄ダブルヘッダー1988(昭和63)年10月19日21年前のことです。この年パリーグの優勝争いはもつれにもつれ、西武と近鉄がデッドヒートを繰り広げたのですが、先に全日程を終えた西武に対し、4試合を残した近鉄は3勝すれば優勝という有利な立場に立ったのです。緊張して固くなる選手も多く、17日の阪急戦に敗北、後がなくなりました。18日のロッテ戦に勝ち、こうして19日の対ロッテダブルヘッダーを迎えたのです。第1試合は辛くも逆転勝ちし、最終戦を迎えたのです。試合は延長戦に入りましたが、審判団は日没を考慮し、延長10回を最終回とする旨を両チームに伝えたのです。しかし、ここでも決着することはなく、近鉄は涙を呑んで、2位に甘んずることになったのでした。
2009.10.19
コメント(8)
世界経済の現状 (79) 消費市場の縮小が続いています。ニューヨークではウォール街周辺の高級店が息を吹き返しているという情報もあるようですが、それは限られた範囲のことに過ぎず、広がりは持っていないようです。スタバが利益を増額修正したと、大きく報じられましたが、決算数字を読み込んでいくと、売り上げの縮小は続いており、利益の増額は売り上げの増加を伴う本物ではなく、原料費の切り詰めとリストラによるものであり、手放しで喜べる性格の増額修正ではありません。不況時に売り上げを伸ばし、結果として利益も増えたというのであれば、喜ばしいのですが……日本国内でも、海外からの輸入高級ブランドの市場は底冷え状態にあります。昨年」2008年の海外高級ブランド品の市場規模は、07年度に比べ10,2%減の1兆643億円でした。それが今年は1兆円を割り込み、9927億円の見込みと予測されてイマス。ピークだった1996年度に比べると、ほぼ半分の規模になります。個別では、ルイ・ヴィトンは東京銀座への大型店出店計画を白紙に戻しました。今年に入ってフランスのシャネルは、福岡県小倉の百貨店内の店舗を、アメリカのポロ・ラルフローレンは東京銀座の店舗を、夫々閉鎖しています。イギリスのダンヒルも渋谷区の新名所表参道ヒルズから退去しました。このように、昨年のリーマンショック以降の消費の落ち込みは、まさに高級品市場を直撃しています。これは米国や欧州にも共通する現象です。今回の不況が従来の不況と決定的に異なるのは、従来はさほどの落ち込みを見せなかった高級品市場を直撃している点にあります。そして消費者の節約志向は、高級品を買うのではなく、必要な時にレンタルするという新しい傾向に火をつけました。昨年6月からこうしたサーヴィスを始めた「Cariru(カリル)」は、「昨年9月の会員数は120人ほどでしたが、現在は1800人を超えています。週単位で相当数伸びています」と話しています。ユニクロら、安くて良い物を売る店は大きく売り上げを増やしています。こうした傾向は当分続きそうです。景気は回復に向かいつつあるという、各国政府や中央銀行の大合唱も、消費者の買い物傾向から分析すると、国民はちっとも信じていないし、そうした実感も持っていない様子が窺えますね。
2009.10.18
コメント(14)
デパートの誕生(7)フランスの乗合馬車は、早くも17世紀に高名な哲学者パスカルの発案によって生まれています。オムニビュスと呼ばれたパリ市内の乗合馬車でした。しかし、1680年代に経営難から姿を消してしまい、ようやく1828年に150振りに復活したのです。料金が日本円換算で約250円と、辻馬車(今のタクシーに当たります)に比べて、グンと安かったので、たちまちパリ市民の支持を集めたのです。ちなみに辻馬車の料金は、一乗り1500円ほどでした。こうして下層の中産階級の夫人達も、マガザン・ド・ヌヴォテに買い物に行くことが出来るようになったのです。買い物の足が確保されても、潜在的購買層に消費マインドが芽生えていなければ、絵に描いた餅に終ってしまいます。こちらは、5代目のオルレアン公の画期的な試みによって、準備されていたのです。彼は、1784年にパリの居城パレ・ロワイヤルを改造して、1階部分を商店街として解放したのです。ここには回廊がありますから、訪れた人たちは雨に濡れることもなく、ずらりと並んだ商店のショウウィンドーを冷やかしながら、散策することが出来、疲れれば商店街の一廓にあるカフェで談笑することも出来たのです。しかもパレ・ロワイヤルは、王家の最も近い親戚にあたる名門中の名門であるオルレアン公爵家の居城の一廓です。いままでパリの各所に散らばっていたファッション関係の各業種が競うように店を移してきましたから、回廊を一回りすれば、当時の流行の品々を残さず眺めることが出来たのです。こうして、パレ・ロワイヤルは、さしあたって商品を購入する必要を感じていない人々までもが、何となく足を運ぶパリ1番の賑やかな場所となったのです。19世紀に入るとバサージュが登場します。バサージュは1840年代頃までに、パリの各所に建設されたアーケードの商店街です。ここはガラスの屋根で蔽われていましたので、やはり雨風を気にせず、気楽にウインドショッピングを楽しむことが出来たのです。こうしたウィンドショッピング熱をさらに煽ったのが、ガス灯の普及でした。ガス灯は1816年に、バサージュ・デ・パノラマに設けられたのが最初とされていますが、1830年代に入ると、パリの主要な盛り場には、全て設置されるようになり、従来のオイルランプとは比較にならない明るさで照らすようになりました。その結果、それまで日暮れと共に(冬場は4時頃です)店を閉めていた商店の営業時間も長くなり、ショウウィンドーもライトアップされたのです。1830年、オルレアン公ルイ・フィリップの七月王政の誕生を境に、社会がマガザン・ド・ヌヴォテを受け入れる素地は、このように整っていたのです。 続く
2009.10.18
コメント(8)
クロニクル フラフープ発売1958(昭和33)年10月18日51年前のことになります。フラフープはご存知ですね。特に女性の方は…。実は51年前の今日は、日本でフラフープが発売された記念すべき日なのです。
2009.10.18
コメント(14)
デパートの誕生(6) マガザン・ド・ヌヴォテは、界隈の固定した得意客ではなく、不特定多数の浮動客をターゲットにしたのです。絶対的な必要によって、買い物に来る客以外に、潜在的な買い物願望を抱いている人々を、店内に引き入れようとしたからこそ、ショウウィンドウに工夫を凝らし、人々に店内を見たいという気持ちを、起こさせようとしたのです。そしてその意図は、店の概観ばかりでなく、商売の方法にも現れていました。商品に掛け値なしの正価をつけたことでした。これは大きかったのです。顧客にとって、値段の交渉こそが大きな心理的負担になっていたからです。掛け値なしの正価は、顧客をこの心理的な負担から解放し、ウィンドショッピングを心行くまで楽しみ、ノビノビとした気持ちで商品を選び、場合によれば、予定外だけれどこのぐらいならと、財布の紐を緩ませる効果を持ったのです。こうした不特定多数を対象とした商売を成り立たせた条件は何でしょうか。この商売が成り立つには、こうした誘いに乗って、店にやってきてくれる客が、一つの社会層として成り立っている必要があります。外的条件も整わなければなりません。それが、中産階級の層としての厚みであり、また歩道が整備されて街路が歩きやすくなったり、乗合馬車の運行が開始され、かつ軌道に乗ったことでした。パリの道路は汚れ放題で、少し長い距離を歩くと靴ばかりかズボンやスカートまで汚してしまうことになったのです。こうした道路に安心して歩ける歩道が取り付けられ始めたのが、王政復古期だったのです。マガザン・ド・ヌヴォテが開店したのは、例外なく歩道を備えた広い通りだったのです。そしてこうした通りこそ、乗合馬車の通る道でもあったのです。
2009.10.17
コメント(6)
クロニクル 川端康成にノーベル文学賞1968(昭和43)年10月17日41年前になるんですね。この日川端康成氏にノーベル文学賞が授与される旨が発表されました。日本人初の受賞でした。西洋人には、最も理解し難い日本人作家と思われていた人に付与されたことに、新鮮な驚きを感じました。その川端が4年後の1972(昭和47)年にガス自殺を遂げたのは、残念なことでした。
2009.10.17
コメント(2)
自民党政治の終焉(81)日本航空(JAL)の資産査定を行なっていた「JAL再生タクスフォース」の再生私案が発表になりました。それによると、JALの経営実態は驚くほど劣化しており、完全な破綻状態にあったことが指摘できます。JALは昨春、日本政策投資銀行や3メガバンクなどの主取引銀行や商社などに、1500億円もの第三者割当増資を引き受けてもらっています。その上、今年の6月にも1千億円の協調融資に応じてもらっています。1年少々の間に2500億円もの資金の提供を受けながら、一向に経営の改善を図れないばかりか、保有資産の劣化による資産の評価損を正しく計上すると、実質的には2千億円を超える債務超過に陥っていることが、明らかにされたのです。昨年来調達した資金は、経営改善に投じられたのではなく、JAlの運転資金に投じられたことは、ここから明らかです。当然2500億円もの追加融資に応じたのに、一向に経営再建の実が挙がらず、赤字を垂れ流す一方のJALに対する金融機関の不信感は強く、タスクフォースにも「抜本的なリストラ実施しない限り、JALには協力出来ないとの姿勢を貫いています。そのJAlに対し、タスクフォースの再生案は1、企業年金の支給額を、退職者、現役を問わず半減させ、年金関連債務を現在の3分の1に 圧縮する2、主取引銀行に、3千億円規模の債権放棄や債務の株式化をお願いする。3、人員削減規模を9千人に拡大する4、経営悪化の責任をとって、現経営陣は退陣するの4点にまとめられます。このうち、第1の点は、日航OB9千人のうち、3分の2以上の同意がないと支給の削減は実施できません。既得権を削減されるOBの説得が出来るか否かが、鍵を握っています。債権放棄も金融機関の同意が必要です。9千人の人員削減もすんなり行くとは限りません。タスクフォースは、関係機関の同意が得られなかった場合、破綻処理も辞さない構えを見せて1歩も引かずにいます。消費者金融のアイフルが取り入れた「事業再生法による事業再生ADR(裁判外紛争解決手続き)}は、全ての要債権者の同意が必要なため、金融機関の足並みが揃わないJALに適用することは、難しいでしょう。こうしたいきさつから、タクスフォースは、米国でGMがそうしたような、同意が得られなければ、会社更生法か民事再生法の適用を申請せざるをえないという、二段構えで、金融機関と退職者に揺さぶりをかけています。しかし、金融機関にとっては、株主や社債の保有者にも責任が及ぶ、法的整理を選択した方が有利な面もあるため、どちらに向かうかは、まだなんともいえません。それにしても、JALの赤字のひどさは、凄まじいですね。
2009.10.16
コメント(10)

クロニクル マリー・アントワネットの処刑1793(寛政3)年10月16日216年前のことです。日本では老中松平定信による寛政の改革が、なお猛威を振るっていた時代の後期にあたります。毀損令による札差イジメが、深刻なデフレを招き、江戸市中にご老中への怨嗟の声が上がっていた時期でした。1月に処刑された夫のルイ16世に続き、この日王妃だったマリー・アントワネットもギロチンの露と消えたのです。コンシュルジュリーの獄に繋がれた王妃は、子ども達とも離されて次第に体調を崩し、かつての美貌はその面影をなくしていました。晩年の様子を表した肖像をご覧下さい。彼女も革命裁判にかけられ、前日の15日に革命裁判所は、死刑の判決を下しました。判決の下った翌日早速刑は執行され、彼女は10月16日午後12時15分に、この世を去りました。
2009.10.16
コメント(16)
デパートの誕生(5) 1820年代後半に登場した新しいタイプの商店は、人々にマガザン・ド・ヌヴォテ(流行品店)と呼ばれる商店でした。婦人物の布地などの流行品を扱う衣料品店です。ここでは、今までの商店とは決定的に異なる、画期的な販売方法が採用されていました。先ず、店構えが違っていました。旧来の商店は、一応正面にはガラスが嵌まっていて、中を覗けるようになってはいたのですが、店内は薄暗く、奥の方に座っている店員は、顧客を獲物とでも心得て待ち構えている猟犬のように見えました。そこでは、衣料品店の場合でも、埃を被った布地が、何の工夫もなく積重ねられているだけでした。もちろんショー・ウィンドーなどは、ないに等しく、客が外から店内にある品物の見当をつけるための配慮などは、一切されていなかったのです。これに対して、マガザン・ド・ヌヴォテは、明るく大きなショウウィンドー、複数階を使った広々とした店内。そして棚にきちんと整理された色とりどりの布地や衣服。それを効果的に演出するまばゆいばかりの照明など、旧来の店とは大きく違っていたのです。そしてマガザン・ド・ヌヴォテは、近くの界隈に住む固定的なお得意先ではなく、不特定多数の浮動客をターゲットにしていたのです。 続く
2009.10.16
コメント(6)
自民党政治の終焉(80)また一つ、政党間の政権交代による目玉政策が飛び出してきました。今まで議論の対象としてこなかった教育問題に関してです。川端文部科学相以下、副大臣、政務官の文部科学政務三役のチームが、検討内容を明らかにしたものです。ポイントは3点あります。(1)学力テストは、全国一斉ではなく、抽出テストに変更する。(2)教員免許の更新制は、平成11年度をもって廃止し、職歴10年を目安に1年間の研修期 間を設ける(3)教員養成課程は6年とし、教員の質向上をはかり、同時に教育実習についても、1年を メドに、期間の延長と実習内容の充実をはかるマスコミ報道を見て、わが意を得たりで、思わず頬が緩むのを覚えました。いじれも日頃の私の主張に近いものばかりだったからです。まず第1点の学テですが、既に地域によって、学テで良い成績をとることを自己目的化し、日曜日に特訓を科したり、授業中に模擬テストを科したりと、学テで好成績をとることを自己目的化した逸脱行為が、いくつも出てきていたからです。これでは、本来伸ばすべき考える力や応用力は育ちっこありません。教育の質向上にプラスになるどころかマイナスになること必定だったのです。悉皆調査をやめ抽出調査にすれば、こうした弊害をある程度減じることが出来ます。第2に教員免許更新制は、30時間の研修を部活動の指導を含む本務の間に受けるというものですから、研修効果に大きな疑問が残るものでした。教員の質向上を図るには、1年程度本務を中断して、有給の研修期間を設けるなど、思い切った方針転換が求められるとしてきました。そして第3の教員養成期間の延長と、教育実習期間の延長です。実は、フィンランドやスウェーデンなどは、早くから大学院修士課程の修了を教員免許取得の条件にしていましたし、ドイツもまた正規の教員資格は、大学院の卒業者にしか付与しないシステムをとっていました。当然日本でも、児童・生徒を納得させ、その学習意欲を掻き立てるような質の高い授業を行なうためには、学生時代の学びの質を高め、教養教育と専門教育の両方の質を高めることが、焦眉の急だったのです。今回の民主党内閣の方針は、その期待に前向きに取り組むことの決意表明でした。なお課題もあります。第1の点は、予算措置を伴いませんから、すぐにでも実現可能ですが、第2、第3の措置については、多額の予算措置が必要ですから、おそらく実現までには、かなりの紆余曲折があるものと思われます。時間をかけても、是非実現して欲しいものです。もう1点、教員養成の最後の2ヵ年、大学院修士課程について、教職大学院の活用が考えられているようですが、もう少し広く、多様な大学院の活用を考える必要があるように思います。なぜかというと、教員の質は多様であることが求められるからです。旧師範学校出身の教員は、どこか同質で、考え方も似ている特徴がありました。しかし、日頃私が主張しているように、児童・生徒・学生は多様な個性や性格を持ち、考え方も様々です。そうした多様な集団のニーズに応えるには、教員集団もまた同じような考え方、感じ方の集団ではなく、様々な考えや感じ方を持つ個性派集団でなければならないと考えるからです。同じような教職大学院の出身者ばかりでは、とてもこうしたニーズに応えるのは無理だと、私は考えます。
2009.10.15
コメント(6)
クロニクル これきりこれきりこれきりですか1980(昭和55)年10月15日29年前のこの日を最後に、山口百恵が芸能界を完全に引退しました。理由はご存知の通り、三浦友和と結婚して家庭に入るためでした。彼女の引退サヨナラ公演は、この日の10日前の10月5日に日本武道館に大入り満員の観客を集めて行なわれました。また現役最後のテレビ生出演は、13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日テレ)でした。そしてこの日、15日は所属していたホリプロの20周年記念式典で、この日歌ったのは「いい日旅立ち」でした。式典後、午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれ、その会見の模様は、一部が生放送されたため、これが芸能人として現役最後のテレビ生出演となりました。引退時は21歳9ヶ月、芸能人としての活動はわずか7年半でした。
2009.10.15
コメント(18)
デパートの誕生(4)値札のない商品を巡って、客と商人との値段を巡る交渉はどうなるでしょう。フィリップ・ペローはこう書いています。「両者の関係は、常に不平等である。客のほうは用心はしていても商品知識の点で無知であり、売り手は勝手知ったる領域なので余裕十分である。売り手にとって夫々の値札は頭の中に常に二つあった。一つは先ず客に言い出してみる最高価格であり、もう一つは絶対にそれ以下に譲ることが出来ない最低価格である。このような条件の下で、客が種々の不正商法の裏をかき、量と品質を見定めて最終的に選択し、適正な価格を主張して売り手と戦うには、一瞬といえども弛緩することのない、たぐい稀な注意力と闘争心を必要としたのである。」と。買い物には、こうした大変な苦労が必要だったのです。19世紀の初めになっても、大都市パリといえども、市内の交通はなお不便なものでした。歩道の整備はまだなされていなかったので、高価な自家用の馬車を有する上流階級や、いつでも気ままに辻馬車(今のタクシー)を雇える準上流階級を除けば、買い物といっても、歩いて行ける範囲に限られたのです。近所のかぎらてた店で、必要最小限の買い物をするしかない。こうした世界で、人々は暮らしていたのです。それゆえ、そこではお店同士の競争は、ごく限られたものでしかありませんでした。そうなると当然ですが、店には顧客を呼び込むための工夫やサーヴィスが必要だといった発想は、一切存在しませんでした。そこでは良い商人とは、たくさんの商品を売る商人ではなく、高く売る術を心得た商人を意味したのです。こういう状態でしたから、金銭に頓着しなくて良い1部の富裕層を除くと、顧客にとっての買い物というのは、必要を満たすためにやむを得ずしなければならない行為だったのです。こうした買い物は、いつ頃から楽しめるものに替わったのかというと、その緩やかな変化の最初の兆しは、およそ王政復古期の後半、1825年頃に求めることが出来ます。 続く
2009.10.15
コメント(10)
デパートの誕生(3)最初にデパート誕生以前の商店とはどういう店だったのか、買い物をするということはどういうことだったのかを見ることにしましょう。題してデパートの誕生前史です。王政復古期の前半、1825年頃までのフランスで、商店で買い物をすることは、日々付き合いのある食料品店(パン屋、肉屋、魚屋、八百屋など)での買い物をを除くと、現在で言うとアンティークショップで買い物をすることに似ていました。つまり、商品に値札はなく、値段が良く分からないのです。店主は客の顔を見て値段を吹っかけ、少しでも高く売りつけよう、客をカモにしようと、あの手この手を繰り出すのです。そうはさせまいと客は値切りに入ります。現在でも東京のアメ横などでは、客と売り子とがこの手の駆け引きを楽しんでいますし、外国へ行くと、正価で買わず、しっかり値切ってくださいとアドヴァイスを受けることがあります。そうなんです。フランスに限らず、当時のヨーロッパでは、商品には値段がついていなかったのです。食料品のように、日々購入する商品については、客も多いですし、日常のこととして値段についても知識がありますから、ベラボウな値段がつくことは先ずありません。しかし、当時の高級品であった衣料品については、そうは行きません。貴重品である衣料の購入は、そうあることではありません。ですから商店の側でもやってきた客が、何も購入せずに帰るようなことがないように、あの手この手で客を攻め立て、何かを買わせようとするのが常でした。つまり、客の側にもいったん店に入ったら、何も買わずに出てくるには、大変な労力が必要だったのです。ですから、この時代の買い物は、けっして楽しいことでも、心躍ることでもなかったのです。ですから、客にとってもこうした買い物は、決して楽しいことなどではなく、必要のために、いやいや決死の覚悟で取り組まなければまらないことだったのです。 続く
2009.10.14
コメント(14)
クロニクル 祝日法改正案成立1998(平成10)年10月14日この日、祝日法改正案、いわゆるハッピー・マンデー法案が成立し、成人の日と体育の日が1月と10月の第2月曜日ということになりました。その後、海の日と敬老の日も7月と9月の第3月曜日に変更され、4つの祝日が日にちと切り離されることになりました。このうち、成人の日は、かつての全国一斉徴兵検査の日という、日本の過去の重い歴史を背負った日で、祝日としても長い歴史を持った日でしたし、体育の日も東京オリンピックの開会式の日という、我々世代の日本人にとって、記念碑的な意味を持つ日でしたから、できれば動かして欲しくない日でした。何よりも連休を増やして、行楽地に資金が落ちるようにという発想そのものに、いかにもエコノミックアニマルが考えそうな、卑しさが感じられてなりませんし、特定の曜日ばかりに祝日が集中するという点で、特に学校などでは、困った問題を惹き起こしており、私などは困った悪法だと感じています。
2009.10.14
コメント(12)
全89件 (89件中 1-50件目)


![]()