全3184件 (3184件中 151-200件目)
2月5日から6日にかけて南岸低気圧が通過したため、都心に5cmから10cmの積雪があった。朝起きると自宅の周辺も、4cmほどの雪景色。車の往来もなく静か朝を迎えた。但し、厚い雲が残る曇天空。 自宅前を除雪して、日課朝散歩する。幹線道路の雪は融けていた。今回の雪質は湿った雪で長靴が必要。泥まじりの雪が脚裏に跳ねてズボンを汚す。「すっぱね」で汚れるとも言う。朝刊のコラム(編集手帳)に、「津軽の七つの雪」の話が載っていた。夜中の雪は、「みず雪」だったのだろうか。 6日朝、都心の道路は大渋滞になった。5日午前中に東京23区に大雪警報が発令された。それを受けて、首都高などに、首都圏で初めてとなる大規模な「予防的交通止め」が実施された。首都高入口付近の一般道路に、立ち往生する大型車両が多かった。従って、操業停止する工場もあった。雪に弱い「東京の道路」の再現。写真1 公園のシーソ上の積雪。写真2 アリコ広場と雪だるま。写真3 散歩道の「みず雪」。写真4 散歩道から見た田んぼと江戸川土手。写真5 住宅街の道と山茶花。写真6 雪除けになる大きな樹。
2024年02月07日
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江戸川中流エリアに新しい道路橋「三郷流山橋」が昨年11月に開通した。橋の左岸側(東側)は、千葉県流山市。右岸側は埼玉県三郷市。流山側から自転車で渡河区間を渡る。 橋の上からは、江戸川の上下流景色と西側の富士山を望むことができる。三郷流山橋有料道路の規模は、全長約2km(渡河部0.5km、取付け部1.5km)、7径間連続鋼桁橋。暫定2車線(幅員11m)で供用開始。事業主体は埼玉県道路公社で総事業170億円。橋の下流側に歩道(自転車)3.0mがある。トラス橋ではないので、見通しが素晴らしい。花火大会の際にはとうなるのだろうか・・。 自転車は、流山消防署脇の取付け斜路から進入することになる。自転車の通行料金は20円、ちなみ普通自動車は150円。30年間過ぎた2053年以降無料となる予定。歩行者は、橋台がある堤防付近を嵩上げした土手から歩道に入れるようになる。流山側は工事中だった。写真1 三郷流山橋を江戸川左岸上流より望む。写真2 人道・自転車道の取付け斜路と流山方面。写真3 三郷流山橋と左岸土手の状況。写真4 三郷流山橋有料道路を望む。写真5 富士山を望む。写真6 江戸川上流と橋名板。
2024年02月06日
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今年の梅開花は、各地で早いようだ。梅が咲き始めた柏の葉公園を散歩する。公園のボート池畔に紅梅と白梅がある。青い空に紅梅が映えて、季節が進んだことを実感する。早咲きの紅梅は満開、白梅は2分から3分咲の開花状況。 立春頃に咲く梅は、春の訪れをつげる花で「春告花」とも呼ばれる。厳しい寒さを乗り越えて、様々な生命が新に息吹を営み始める頃が立春と言える。地球からみて太陽が冬至と春分の中間地点にある。今後の降雪は、春の雪となる。写真1 柏の葉公園のミニ梅園。写真2 池畔の紅白梅。写真3 立春に咲く梅。写真4 池畔の紅梅。写真5 梅の匂いを・・。写真6 紅梅と白梅。
2024年02月04日
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昌徳宮仁政殿の東側に、青瓦で葺いた宣政殿(ソンジョンジョン)が並ぶように建っている。1461年に建てられ、もともとは王の寝殿だったが、後に王の執務室として使われた。座って話したり、書いたりできるように、月台が置いてある。各天井には、鳳凰柄と花柄が描かれている。 現存する韓国の宮殿で、唯一青い瓦葺きの屋根をもつのが宣政殿。少し前までの韓国大統領府は、青瓦台(せいかだい)だった。青色の瓦屋根は、位の高い者がそこで政治など国家の大事を司っているという象徴的な意味があった。また、宮殿に緑色が多く使用されるのは、陰陽五行説における「木」に対応する色で。健康や成長・繁栄を象徴するという。 宣政殿の奥に大造殿(デジョジョン)がある。この建物は、王と王妃の寝殿であった。特徴として、やるに棟瓦がない。国王が龍に例えられたので、棟瓦を省いたとされる。殿内の中央に、螺鈿の椅子が置かれていた。建物の床下にオンドルを温める焚き口が、裏庭の花階にその煙突があった。寒い冬を乗り切る古い暖房施設が観ることができた。[韓国世界遺産-16]写真1 青い瓦を葺いた宣政殿の屋根。写真2 宣政門を進んで宣政殿へ。写真3 宣政殿とその内部(日月五峰図)。写真4 大造殿とその内部の路殿の椅子。写真5 大造殿の床下暖房施設。写真6 花壇と煕政堂前広場。
2024年02月03日
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夕方土手を散歩していると色々な夕焼け雲に出合う。薄い雲の場合、空をオレンジ色に染め上げる。厚みある雲場合、夕日の当る面は暗紅色に燃える。燃える茜雲は、川面に映り込む。暫くすると、盛んだった夕焼けは、消えてゆく。沙羅双樹の花の色ように・・。 連日「政治とお金」問題について、報道が流れて来る。多くの政治派閥が解散になるようだ。しかし政治派閥は、「栄枯盛衰」を経て復活するのでないか。裏金を得て盛んだった国会議員は、凋落の道を歩んでいるようにも見える。「盛者(じょうじゃ)必衰」の理(ことわり)の如くに・・。写真1 太陽を雲が包み込む。写真2 富士山頂上空の雲景色。写真3 夕日が富士山に隠れてゆく。写真4 馬蹄形の茜雲。写真5 川面に映る暗紅色雲。写真6 暗茜雲と半富士。
2024年02月02日
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ソウル五大古宮のひとつ昌徳宮(しょうとくきゅう、チャンドックン)を訪れた。昌徳宮は、正宮である景福宮の離宮として建設された宮殿。広い敷地(13万5千m2)に13棟の宮殿関係建物がある。世界文化遺産の建物が多いので、分割してアップします。 昌徳宮の正門にあたる大きな敦化門(トンファムン)から入場する。1412年建てられ、ソウル市内最古の門とされる。王の行列などの儀礼の時、出入口として使用された。文禄の役の際、一度全焼したが1609年に再建された。再建から415年経過しても、当時と変わらずに堂々として大建築物だ。 敦化門を抜けて進み、仁政門、仁政殿を観賞する、仁政殿は、王宮の儀式を執り行う、昌徳宮の中心的な場所。見た目には二階建てのようだが、中は吹き抜けになっている。絢爛たる玉座が設置されていた。朝鮮王朝末期の建築様式を観ることができる。広場の花崗岩による石畳みが眩しかった。[韓国世界遺産-16]写真1 昌徳宮の正門、敦化門。写真2 進善門と仁政門屋根の雑像。写真3 仁政門と広場の石畳。写真4 仁政殿と玉座。写真5 粛章門と敦化門広場。写真6 古木と世界文化遺産碑。写真7 仁政殿付近の案内図。
2024年01月31日
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1月のある日、利根川を越えて墓参・墓掃除へと出向く。常磐道の流山ICから矢田部IC、そして牛久沼聖地公苑へ車で移動した。身体が元気で動く間は、墓掃除に出かけられる。しかし、年齢を考えると、簡単に行くことが難しくなりそうだ・・。 聖地公苑から牛久沼を見渡す展望台がある。冬季は、木立の枝葉が少なくなるので、見通しが良くなる。冬枯れした沼原や水位の低下した沼面をしばし眺める。牛久沼は、小貝川の支川にあたる。周囲長が25.5km、水深1mから3mの湖沼。霊苑は、沼の北西の常陸台地・泊崎に広がる。 墓参復路では常磐道・守谷SAに寄ることが多い。10年前にリニューアルされ「パサール守谷・上り」となる。守谷SAを過ぎて都心に向かう前に、休憩・食事するに適した位置にあたる。フードコート等の建物内部は、「恵みの森」と名付けられ、ショップ21店があり、いつも賑わっている。写真1 牛久沼霊苑内の展望台景色。写真2 冬枯れの牛久沼。写真3 霊苑のシンボル「蓮のつぼみ」。写真4 守谷SAの名物おやつ。写真5 フードコートのメニューと店内の様子。写真6 パサール守谷のお土産の例。
2024年01月30日
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薄い靄がかかった夕方、太陽が高くて、更に逆光なので、富士山は見えない。太陽が富士山頂に差し掛かると、丸い夕日が見えて来る。日が沈むと、黒い富士山のシルエットが浮かび上がる。そして空気の「スクリーン」に山頂の影が映し出される。二重富士と呼ばれ影富士。黒富士が影を背負うような光景だ。 利根運河口付近かに見る富士山は、北東斜面になる。いわゆる吉田ルート・須走ルートのある斜面だ。白い太陽をバックに外輪山の幾つかのピークが見える。富士山の最高峰・剣ヶ峰(3776m)は、外輪山の反対側のため見えない。左側のピークが朝日岳(3733m)。伊豆岳、成就岳と続き、左端のビークは、白山岳(3756m)と思われる。写真1 オレンジ色スクリーンに二重富士が。写真2 山頂外輪山に複数のピークが見える。写真3 山頂に夕日が沈む。写真4 影を背負う黒富士。写真5 富士山頂外輪山図。写真6 月と鉄塔。
2024年01月29日
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宣陵を後にして再び漢南大橋を渡り、ソウル中区の北倉洞地区へ向かいランチとする。北倉洞(プクチャンドン)は、3つの大通りに囲まれた台形のエリア。北に市庁、南に南大門が控えている。プラザホテルの南側、韓国銀行本館の西側辺り一帯は、雑多な飲食店が軒を連ねる「食い倒れ通り」。 小公路に面して建つ、韓国銀行の旧館・貨幣金融博物館は、日本統治時代に辰野金吾氏が設計したもの。旧小樽日本銀行の建物に似ていた。また日本橋にある日銀本館の面影もある。金融街の裏手、北倉洞にはホテル、雑多な食事処、コンビニがある。ビジネスマンがランチ、夕食をとる通りで、「風流通り」とも呼ぶ。 ガイドさんの案内で韓国銀行の裏路にある「全州会館」に入り、石焼ビビンバをいただく。全州ビビンバの特徴は、牛骨肉スープで炊いたご飯の上に、野菜やユッケ、卵の黄身を石鍋に盛り付ける。冷めにくい石鍋で暖かい混ぜご飯は、大変美味しい。海鮮チヂミと一緒に食した。韓国旅行において、最後の団体食事となった。写真1 漢江に架かる漢南大橋を再び渡る(車窓)。写真2 韓国銀行本館と貨幣金融博物館。写真3 北倉洞の「風流通り(食い倒れ通り)」。写真4 韓国銀行本館の裏手にある「全州会館」。写真5 全州石焼ビビンバのランチ。写真6 プラザホテル南側の台形エリアが北倉洞。
2024年01月27日
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江戸川に架かる玉葉橋の少し上流まで足をのばすと、煙突を利用した展望台が良く見える。夕日が富士山に沈み辺りが暗くなる頃、白くライトアップされた「煙塔」が暗紅色の空に浮き上がって来る。黒いシルエット富士と白い煙塔を観る土手スポットだ。 白い塔は、越谷市にあるゴミ処理場(第一工場)の高さ100mの煙突。その頭部に360度見渡せる展望台を設けたもので、「リユース展望台」とも呼ぶ。平日9時から17時まで無料で入場できる。展望台からは関東一円の街並みと富士山から筑波山まで、関東の山々を望むことができる。写真1 白い煙塔と黒い富士山。写真2 山頂に載る夕陽と影。写真3 暗い黒い富士。写真4 白い塔が際立つリユース展望台。写真5 展望塔と第一工場。写真6 東京スカイツリーを望む。
2024年01月26日
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再度、漢南大橋を渡って、江南区三成洞にある宣陵(せんりょう、ソルルン)を訪ねた。宣陵は、朝鮮王朝第9代王成宗とその王妃が祀られている。隣接して中宗の靖陵もあるので、三陵公園と呼ばれ、敷地面積19万m2を超える広大な敷地。周辺のビル群と緑豊かな王陵のコントラストが印象的な場所。 2009年世界文化遺産に登録された朝鮮王陵は、歴代の王たちが眠る。ソウルを中心に40基が点在している。王朝時代のソウルは、漢陽(ハニャン)と呼ばれ首都だったので、近郊に王墓が多い。韓国の伝統文化と美しい自然が調和する空間で、600年前の祭礼が今日まで受け継がれている生きた文化遺産と言われる。 朝鮮王陵は、基本的に3つの空間で構成されている。上段に王と王妃が封墳されているのか陵寝空間。その手前にT字閣があり祭礼を行う祭祀空間。そして、王陵の管理や祭礼の準備のするための進入空間。陵寝には、虎や羊の石像、そして王墓を守る武人石像が配置されている。[韓国世界遺産-15]写真1 江南区三陵公園の宣陵。写真2 紅箭門からT字閣。写真3 祭礼を行うT字形の建物。写真4 王の業績を刻んだ石碑と碑閣。写真5 陵寝空間の石像等。写真6 案内図と世界文化遺産碑。
2024年01月24日
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富士山頂に笠雲らしきものができる様子を眺めた。富士山頭部の上空に、レンズ雲のように纏まった。笠雲の一種、「離れ傘」だろうか。しばし眺めていると、大きな鳥が舞い下り、飛び去ってゆくような感覚。富士山に笠雲ができると、天気は下り坂とされる。 山頂の「大鳥」は、富士山を神輿本体と考えると、神輿頭部にいただく鳳凰のようにも思える。神田祭や浅草三社祭などで繰り出される神輿の頭部は、「金色の鳳凰」がいる。神輿が上下に揺れると、鳳凰が舞っているように見える。鳳凰は、中国神話の霊鳥で、縁起の良い鳥とされるが・・。 辰年の令和6年正月早々、大地震と重大事故が起きた。龍神が能登地方を動き回り、地霊を目覚めさせたのだろうか。龍神は、日本の神話にも登場し、水や雨を司る神とされる。龍神や地霊を鎮める有効な手立てない。昔行われていた人身御供で、地震、噴火、風水害を止めることはできない。賢く生きるしかない・・。写真1 富士山頂雲に陽沈む。写真2 「離れ笠」の笠雲が現れる。写真3 「鳳凰」のような形の笠雲が。写真4 鳥が飛び出そうする姿に似ている。写真5 上空高いところに茜雲が伸びる。写真6 神輿頭部で舞うのは金色の鳳凰。
2024年01月23日
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チヂミと大餃子スープを食べ温まったところで、明洞からほど近いNソウルタワーに上り、ソウル市内の夜景を眺めた。日没から2時間近く経っているので(マジックアワーをずらす)、展望台へはスムーズに入場できた。混雑することなく360度のパノラマを観る。但し、三脚撮影出来ないため、暗い写真となる・・。 ソウルタワーは、ソウル城郭の南側標高240mの南山(ナムサン)に、1971年テレビ塔として建設された。1980年から一般公開され、ソウルの街並みやビル風景を眺めるビュースポットとなる。2005年にリニューアルされて、Nソウルタワーと改称。タワーの高さは236m。しかし南山高台分を加算すると、海抜360mの展望台となる。東京スカイツリーの展望デッキよりも少し高いことになる。 2017年に松坂区に、韓国一高いビルが出現した。高さ555mのロッテワールドタワーで、その展望台が人気となっている。入場料は、ソウルタワーの1.7倍程度で東京スカイツリー並か・・。当日、ソウルタワー展望台からは、うす暗いワールドタワーの輪郭がやっと見えた。写真1 ソウル繁華街・明洞の夜景。写真2 ライトアップされたNソウルタワーを見上げる。写真3 タワー街のエントランスと展望台デッキ。写真4 ソウルタワー展望台からの市内ビル夜景。写真5 漢江方面、聖水大橋とロッテワールドタワー。写真6 夜景ビュースポットを追加。
2024年01月21日
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当初ぼやけていた朝富士が、陽が昇り始めるとそのシルエットが見え始めた。よく見ると山頂に大きな笠雲が懸かっていた。富士山が笠を被ると、天候が悪化する前ぶれだとされる。昨晩の天気予報では、西から崩れて関東地方は、曇り所により雨だった。前線の影響で富士山周辺に、湿った空気が流れ込み上昇気流となったようだ。 江戸川土手から観るとも垂直に厚みのある笠雲で、帽子のように見える。ロシア帽子のウシャンカ、またはメーテル帽子を連想させる雲形だ・・。自宅に戻って、インターネットで山中湖観光協会のライブカメラをみると、レンズ状の笠雲が懸かっていた。 当地・流山市は、18日午後からやはり曇の天気となる。風は西風から南東の風になり、気温が14度まで上昇。湿度も適当にあり、過ごしやすい一日となる。写真1 朝富士の笠雲とレンズ雲。写真2 淡い紅色富士と大きな帽子雲。写真3 ウシャンカ帽とメーテル帽子を連想させる。写真4 六重蓋笠または「かき氷雲」・・。写真5 山中湖ライブカメラ、18日7時45分。写真6 変化に富んだ富士山の笠雲だった。
2024年01月20日
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夕食前にソウル市内の仁寺洞(インサドン)小通りの石畳みをそぞろ歩く。仁寺洞は、王朝時代に両班(リョウハン)と呼ばれる貴族や官僚が住んでいた街。陶磁器や絵画、および骨董品から伝統アレンジ小物の洒落た店舗が軒を連ねる。裏路地に入ると昔ながらの韓屋が並び、食事処や伝統スイーツを提供するカフェがある。 ガイドさんの案内で、行き止まりの裏路地に進む。耕仁美術館の向いに、行列のできるマンドゥの店「クン(宮)」がある。半月型マンドゥ(饅頭)を作る様子が見学できる。この名物店で、大きな半月型餃子6個入りスープとチヂミを食した。スプーンですくい上げて醤油ダレを浸けていただいた。6個は多かった・・。 饅頭(まんとう)の起源は、中国三国時代にさかのぼるという。蜀漢の諸葛孔明にまつわる伝説があるそうだ。南蛮を征服して帰還する際に、ひどい波風に遭った。この災難を乗り越えるために、人の頭の代わりに49個の饅頭を水神に捧げたという話・・。写真1 石畳舗装の仁寺洞小通り。写真2 仁寺洞6街の陶磁器やお土産店。写真3 ガイドさんの案内で裏路地の飲食店へ。写真4 行列ができる(マンドゥ宮)。写真5 6個入りの餃子スープとチヂミの夕飯。写真6 ビルグルマン評価の有名店。
2024年01月19日
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早朝、江戸川土手を歩くと、しばしば淡い紅色の朝富士とその空を見かける。今のところ富士山の積雪は少ない。例年1中旬には、南岸低気圧と寒気で、ここ流山市で降雪が3~10cmがある。今年は、積雪ゼロが続いている。しかし能登半島の被災地では、断続的に雪にみまわれている。災害関連死の増加が心配されている。 風が強い日は空気が乾燥するため、あまり朝富士がピンク色に染まらない。今朝のように、少し靄がかかると淡く渋い紅色になる。このような色合いを「御所染」色とも言われている。寛永年間、宮中で小袖を着用するようになったため、雅(みやび)な呼び方が生まれという。写真1 江戸川土手と朝富士。写真2 徐々に淡い紅色へ・・。写真3 鉄塔の下から昇る朝日。写真4 令和6年正月の富士見景。写真5 江戸川と富士。写真6 朝日に照らされる草もみじと冬枯れ樹。
2024年01月17日
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ソウル市内の観光名所のひとつ「北村韓屋村」を歩く。北岳山の南麓の傾斜地に形成された住宅街。朝鮮王朝の古宮・景福宮と昌徳宮に挟まれた位置にあり、韓国の伝統家屋が密集して建っている。主に王族・貴族等が住んでいため、他の韓屋村より格式が高いとされる。 市内の目抜き通りだった「鐘路」の北に位置する街だったことから「北村」と呼ばれている。その北村韓屋村は、坂の街だ。坂道に沿って韓屋が並んでいる。車1台が通行可能な狭い坂に、大勢の観光客が上り下りしている。坂の上に建つ「展望台カフェ(北村東洋文化博物館)」でひと休みの、ミルクチョコレートを飲む。テラスからは、韓屋村の瓦屋根と市街地を展望できる。 北村の坂道を登る前に、繁華街。地下鉄明洞駅近くの焼肉専門店「知牛」で、純豆腐チゲ(スンドゥブチゲ)のランチをとる。一人前用の石鍋に、豚肉、アサリ、ネギ、唐辛子などの具入りスープに、豆腐がたっぷり入れた料理。ご飯と共に美味しくいただいた。写真1 韓国の伝統家屋が密集する北村韓屋村を観光する。写真2 北村韓屋村の代表的な坂道。写真3 高台まで上るとソウルタワーが見えた。写真4 展望台カフェとテラスからの展望。写真5 北村東洋文化博物館でティータイムする。写真6 明洞の焼肉専門店で純粋豆腐チゲランチを・・。
2024年01月16日
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夕日が富士山頂部に沈むと、南西の空は茜色に染まった。山頂の上空には薄い雲があり、筆で刷いたような縞状の光景に逢う。2重夕日やダイヤモンド富士も鑑賞する。 日没後、建物に明りが灯る頃、富士山の北斜面から裾野の辺りの上空に光の帯が出現した。羽田空港を発着する飛行軌跡でないようだ。恐らく静岡空港を利用する飛行コースでと思われる。愛称「富士山静岡空港」(2009年に開港)は、静岡県島田市と牧之原市に跨る滑走路をもっている。 正月2日17時50分頃、羽田空港C滑走路上において、重大航空機事故が発生した。JAL旅客機が海保の航空機にぶつかり、両機とも炎上・灰塵と化す。幸にも着陸後18分間で379人全員が脱出できた。奇跡と言われている。海保側は残念ながら5名死亡した。過密飛行場で何が起きたのかを解明し、再発防止を徹底してほしい・・。写真1 茜空に光の帯。写真2 二重夕日が一つに・・。写真3 富士山頂の夕陽。写真4 江戸川の水面。写真5 「羽ばたく鳥」と山頂へ道路のような光景。写真6 真っ黒富士と丹沢山地の夕景。
2024年01月14日
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ソウルの中心を東西に流れる漢江(ハンガン)は、市のシンボル的な存在。東京の隅田川を大きくしたイメージ。その漢江に、橋長さ915m×12車線の漢南大橋が架かっている(2004年拡幅)。市道41号線ではあるが、京釜高速道路に繋がっている交通の動脈。この橋を往復して、南の新沙洞と北の梨泰院の街歩きをする。 先ず、江南エリアの新沙洞を訪れた。漢江の南はおしゃれな町が多いといわれているが、なかでも新沙洞路は人気のストリート。カロスキル(街路樹通)とも呼ばれ、イチョウ並木のメイン通りから路地通りまで、ファションからグルメまでソウルを代表するトレンドスポットとされる。 漢南大橋を南から北へ渡って、梨泰院(イテウォン)を散策する。米軍関係や大使館があることから外国の人々が集まる街。異国の雰囲気ただよう賑やかカルチャースポット。ランドマーク的なハミルトンホテルがあるが、このホテル西側の路地坂で、不幸な雑踏事故が2022年10月末に起きた。160人近くの若者が命を落としている。写真1 島山大路(トサンデロ)からカロスキルの起点。写真2 カロスキル(街路樹通)を散歩する。写真3 2000年頃の漢江と漢南大橋。写真4 梨泰院(イテウォン)路。写真5 梨泰院路T字路の地下に地下鉄梨泰院駅がある。写真6 雑踏事故現場に近接するハミルトンホテル。
2024年01月13日
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夕日が富士山頂に沈んだ直後、しばしば山頂付近の空に影が出現する。「二重富士」または「影富士」と呼ばれる。江戸川土手が暖かく感じられる夕刻に観られる。 二重富士は、山頂近くに冷たい空気があり、見る側の空気層が暖かいことが条件だという。密度・温度が異なる空気層がもたらす現象のひとつ。山頂付近に冷たそうな黒い雲が忍び寄ってきた。写真1 二重富士が現れた。写真2 富士山頂に夕陽が沈む。写真3 山頂に山頂の影が・・。写真4 影は大きく薄くなってゆく。写真5 赤黒い雲が忍び寄る。写真6 真っ黒な綿雲に成長した。
2024年01月11日
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ソウル明洞(ミョンドン)のランドマーク的なデパートは、ロッテ百貨店本店と言われている。免税店も併設されているので、観光客が買い物に立ち寄る場所だという。小生は、化粧品やブランド品に興味がないので、10階と11階を一回りして地上に降りる。 ロッテ百貨店は、南大門路と乙支路(ウルチロ)の交差する南側に立っている。乙支路口交差点の地下は、地下鉄2号線の乙支路入口駅となっている。また西側に地下2号線市庁駅がある。東京日本橋三越本店のような場所。ソウルを代表するビジネスと商業エリアだ。 乙支路沿いには、金融、銀行そして有力企業の高層ビルが立ち並んでいる。交差点から眺めると、「鉄鋼の水晶体」と呼ばれるフェラムタワーや「九の字」に曲がった携帯通信会社・SKテレコムの特徴あるビル風景がある。「ビルの森」とも呼ばれる。韓国は地震が少ない土地柄でもあり、高層ビル群が各地にある。写真1 乙支路口交差点。写真2 ロッテ免税店(ホテル)側その他。写真3 南大門通りの店舗と地下鉄駅入口。写真4 免税店へ続くスターアベニュー通路と有名人手形。写真5 ロッテ百貨店と反対側の高層ビル群。写真6 フェラムタワーとSKテレコムビル。
2024年01月10日
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夕散歩の当初、江戸川土手から富士山は見えなかった。しかし日が沈むにしたがって、暗灰色の富士が見え、バックの空が暗紅色(あんこうしょく)に変化した。暗紅色の空に、暗灰色の富士山のシルエットが浮かび上がってきた。写真1 灰色の富士山。写真2 清楚の富士。淡いピンクをバックに雪の白さが似合う。写真3 ピンク色からワイン色の空へ変化。写真4 暗紅色の空と暗灰色の富士。写真5 美しいシルエット。写真6 東京スイカツリーを望む。
2024年01月08日
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儒教精神が今も残る韓国で、その聖地とも言える場所が「宗廟(そうびょう)」と言われている。ソウルの中心部(鐘路区)にあり、辺りは静寂に包まれている。朱塗りの柱に、黒瓦をいただく荘厳な建物に、朝鮮王朝(李氏朝)歴代の王と王妃の位牌が祀られている。訪れ時期、正殿は修復工事中だった。 朝鮮王朝を興した太祖李成佳は、儒教を国教と定め、1393年に宗廟を建てた。正殿と別廟の永寧殿がある。正殿には功績がある19人の王と王妃が、永寧殿には正殿に祀られなかった、その他の王族が祀られている。東西に連なる正殿は、位牌が増えるたびに増築され、101mもの長大な建物になった。単一の木造建造物では世界最長という。 宗廟は、独特の建築様式もさることながら、伝統行事「宗廟祭礼」が知られている。年に一度5月初めに、朝鮮王族の末裔たちが集まり、歌舞と音楽を祖先の徳を称える。500年以上も続けられているこの儀式は、世界無形遺産となっている。中国や台湾にも宗廟が残っているが、伝統の祭礼が継承されているのは韓国のみとか・・。[韓国世界遺産-14]写真1 宗廟外大門前広場。写真2 沐浴して祭儀の準備をする斎室。写真3 「三道」脇を歩いて正殿南門へ。写真4 仮囲いの正殿と祀られている19人の王と王妃。写真5 正殿に祭られなかった王と王妃などの祭る永寧殿。写真6 案内図と世界文化遺産碑。
2024年01月07日
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例年初詣は、地元の駒木諏訪神社へ参拝する。新しい御神矢とお札2つ(天照皇大神宮と諏訪大神)を頂く、古いお札等は、神社の所定場所へお返しする。諏訪神社ではあるが、地元では「駒木のおすわさま」、「諏訪の宮」とも呼ばれる。 1200年の歴史を伝える神社とされるが、馬に縁がある。参道口に「神馬像」、拝殿近くに「義家献馬像」のブロンズ像が置かれている。平安期「後三年の役」で、奥州追討に赴く際、源義家がこの地に寄り、人と馬を集めたとされる。昔から馬産地として知られていた。 神社の周辺は住宅密集地であるが、神社の敷地は約1万坪に及び、鬱蒼とした大樹が茂る森が残っている。第1鳥居-第2鳥居-神橋-隋神門-第3鳥居-神門-拝殿-本堂へと続く。本堂の脇には、御神水が湧く場所もある。また、当該神社の神紋(家紋)が梶の葉なので、「梶の葉みくじ」が置かれていた。写真1 駒木諏訪神社の馬像。写真2 第二鳥居と神橋・舟形石手水。写真3 随神門と拝殿前参拝列。写真4 新年の干支絵馬。写真5 神社の神紋になっている梶の葉とそのおみくじ。写真6 本殿脇の御神水を容器に入れて帰宅。
2024年01月06日
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強い北風が吹くなか、夕日が富士山に沈んで行く光景を観る。富士山上空では、風が上下に波打っているようだ。様々な雲をつくる雲富士となった。山頂に笠が懸かったり、離れた場所にレンズ雲が出来きたりした。ダイヤモンド富士は、山頂の雲の影響で、拡散した光源となった。 写真1 荒々しい雲を作る富士山。 写真2 いつとき、笠をかぶる。 写真3 ダイヤモンド富士のような輝き。 写真4 夕日が沈んで・・。 写真5 南稜線に「小規模噴火」・・。 写真6 富士山系のシルエット。
2024年01月04日
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九龍浦港でズワイガニを食べた後、一路首都ソウルをめざす。バスは、高速道路を繫いで走るが、約250kmの行程。お腹が満たされているので、車中昼寝タイムとなった。眠りから覚めると、高速道路のサービスエリアだった。ドライバーさんに感謝しつつ、トイレ休憩とコーヒーブレイクする。 ソウルに着く頃には辺りが暗くなり、夕食タイムなる。ソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)の裏道にある食堂に直行。ソウル市の郷土料理「ソルロンタン」をいただく。お腹があまり空いていないので、ありがたいメニュー。牛の足、頭の骨、内臓をじっくり煮詰めたスープだ。スープの中には、牛肉、ソーメン、青ネギが入っている。後味があっさりしている。 ソルロンタンは、その昔農業の豊作を祈るお祭りで、先農壇(ソンノンタン)という祭壇で祈りを捧げた後、牛骨スープを飲む風習が謂れともされている。小生らは、塩と胡椒で味を調えてから、白菜キムチや大根キムチを添えてご飯と共に食べた。食後、ソウル市庁近くの「コリアアナ・ホテル」に宿泊する。写真1 休憩した高速道路のサービスエリア。写真2 サービスエリアの施設など。写真3 ソルロンタンとキムチ。写真4 明洞街角の食堂で夕食。写真5 ソウル市内目抜き通りの夜景。写真6 宿泊したコリアナホテル。
2024年01月03日
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元日の富士山は、より白く見えた。神宿る神聖な山。前日関東一円、大晦日に珍しく雨が降ったためか・・。早朝、江戸川土手は、初日の出を見る人出が多かった。日の出時刻7時前の気温が約9度。風が強かったももの、元日としては暖かかった。 富士山を「縁起が良い」と思う日本人は多いと思う。理由としては、(1)末広がり 日本一高く裾野が広いこと。(2)語呂合わせ良い 「不死」、「無事」などから健康長寿、無病息災、家内安全などの御利益を連想させる。(3)神聖な山 昔から山岳信仰として崇められて来た。 初夢を見ただろうか・・。縁起ものとして「鷹」と「茄子」がある。タカは高貴に通じ、運気が上がる。ナスは物事を成すに通じ、成功しそうだ。小生も初夢をみたのだが、何だったのかは思い出せない。老化が進んでいるようだ・・。写真-1 初日の出の朝陽を受ける富士山。写真-2 丹沢山地と新雪の富士山。写真-3 玉葉橋の富士見景。写真-4 正月の富士見景。写真-5 江戸川と富士山。写真-6 草もみじの土手とゴルフ場。
2024年01月02日
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新年あけましておめでとうございます。今年も「清・多・夢」をよろしくお願いいたします。と共に、皆さまのご多幸をお祈りします。大空を悠々と翔ける龍のように、開運となる辰年を願っています。 世界各地でミサイルや爆弾搭載無人機が飛び交う世の中。平和維持を目的とする国連が機能しなくなって久しい。ミャンマー国軍による自国民への空爆やロシアによるウクライナ侵攻に引き続き、そして昨年10月、イスラエルによるガザ地区への無差別攻撃が付加された。「中東の火薬庫」が爆発しないよう祈るしかない。 2023年の干支は、甲辰(きのえ・たつ)。甲辰は降竜とも言われる。幸福を地上に届けてくれる言い伝えがある。コツコツと蓄えたものが花開く、辰年になれば思う。多くの人々が平和で安全な生活を続けられるよう切に願います。写真-1 房総から白富士を見る。写真-2 北流山 物流施設と初日の出。写真-3 浅草寺本堂外陣の龍の図(天井図)。写真-4 布施弁天の龍図。
2024年01月01日
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小生の棲んでいる地域では、年末の風物詩として「ダイヤモンド富士」が観られる。特に利根運河口から玉葉橋の間(河口から34.8km~35.5km)は、送電線や鉄塔がないので視界が開けている。利根運河の散歩コースなので、この時期毎日のように江戸川土手へ足を運ぶ。 東京の日の入り時刻は、12月6日、小寒の頃がもっとも早く16時28分。一方、DM富士を見るポイントは、江戸川の下流から遡上して来て、玉葉橋で反転(12月25日頃)して下って行く。従って江戸川35km付近では、比較的長くDM富士を楽しめる。今年の12月中旬以降、年末まで比較的暖かい日が続いた。土手の上で寒い思いをしないで助かった・・。 撮り溜めた富士山と夕日をしばらくの間、掲載させてもらいます。写真1 富士山頂に沈む夕陽。写真2 ダイヤモンド富士。写真3 炎の山頂天辺。写真4 夕焼けシルエット。写真5 綿のような茜雲写真6 東京スイカツリーと茜雲。
2023年12月30日
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師走の丸い月を江戸川土手から観る。利根運河の上流方面から昇る。今年の満月を見納めか。12月の満月は、「コールドムーン」とも呼ばれる。冬の寒さが厳しくなり、夜が長い頃に出現。しかし関東の年末は、暖冬と予想されているが・・。 2023年は、癸卯(みずのとう)のウサギ年で、ラッキーな飛躍が期待された年だが、アンラッキーな年でもなかった。年間の世相を表す漢字一文字は、「税」だった。増税・減税の話題が多かった年。この師走、にわかに国会議員(自民党)の裏金問題がクローズアップされている。新年会を兼ねた政治パーティは自粛となるだろう・・。写真1 師走の夕暮れ。写真2 秩父方面の夕山並み。写真3 利根運河上の月。写真4 物流施設上のコールドムーン。写真5 師走満月とスカイツリー。写真6 今年の漢字「税」。
2023年12月29日
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慶尚北道・浦頁(ポハン)市へ向かう。韓国最東部に位置する浦頁は、小さな漁村だったが、1970年代に浦頁製鉄所が開設されると、経済成長の後押しもあり急速に発展した。人口49万人の工業都市。迎日湾の西裏側に九龍浦(クリョンポ)港がある。その港通りの「カニ料理通り」で、蟹ランチをとる。 九龍浦港は、ズワイガニの産地で、韓国での水揚げ第一位をほこる。そのため新鮮なズワイガニを安価で食べることができる。カニ料理通りには、大きな蟹看板を掲げたカニ専門店が軒を連ねる。船溜りに面した店に入り、美味しく頂いた。 日本統治時代、豊富な漁場を求めて日本から集団移住して開拓場所が九龍浦だという。日本家屋がまとまって残っているエリアがある。カニ料理通りの北側に平行して伸びる「近代文化歴史通り」として整備されている。日本の西ノ島町(島根県隠岐郡)が、九龍浦港の緯度にあたる。写真1 九龍浦港のカニ料理通り。写真2 店舗の前でズワイガニをさばく。写真3 入店したカニ食堂。写真4 ズワイガニのランチをいただく。写真5 九龍浦港浜通りと船黙り。写真6 日本的な街並がのこる「近代文化歴史通り」。
2023年12月28日
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師走になると、期間限定で富士山に洛陽する光景がみられる。夕散歩の楽しみだ。利根運河口の江戸川土手からは、南西方向の視界が開けている。「ダイヤモンド富士」になるのを期待して、カメラを持った人が多くなる。この日は、富士山頂に後光がさすように光景が見られた。[撮り溜めた写真から]写真1 富士山頂に後光が・・。写真2 江戸川から見る師走の日没。写真3 低い雲が夕陽で焼ける。写真4 蠢く雲たち。写真5 レンズ雲も見えた。
2023年12月27日
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仏国寺の創建は774年とされる。日本の法隆寺の創建(607年)より160年余り後に造られた木造建築物。いずれも古墳時代の仏教建築で、伽藍配置が共通しているようだ。門-塔-本堂-講堂が南北に直線に並ぶ伽藍配置。仏国寺の場合、紫霞門-多宝塔-大雄殿-講堂そして毘盧殿と続く。 石垣の上建てられた伽藍は、回廊によって大きく3つの領域に分けられている。本殿の大雄殿は、秀吉の朝鮮出兵により焼失したが、1975年に再建された。現世の娑婆(しゃば)世界を表わす大雄殿、天界の西方極楽浄土を表わす極楽殿、そして来世の蓮華台蔵世界を表わす毘盧殿を観て回る。 仏国寺は、もとは毘盧遮那仏を本尊とする華厳宗の寺院だったが、現在、禅宗系の豊渓宗の寺院。大雄殿に釈迦三尊仏が安置され、奥の毘盧殿に毘盧遮那仏が安置されていた。[韓国世界遺産-13]写真1 佛國寺大雄殿とその境内。右端手前は多宝塔。写真2 大雄殿の建物と釈迦像。写真3 無説殿(講堂)と祈願の提灯。写真4 奥の毘盧殿へ石段を昇る。写真5 毘盧殿と毘盧遮那仏像。写真6 極楽殿を観た後、西門から出る。
2023年12月25日
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近隣のお寺の境内に、イチョウとムクロジの大樹が立っている。今年も黄金色に黄葉した。すこし前に撮影したもの。銀杏と無患子が番いのような佇まいだ。良く晴れた日には、輝いて見える。[撮り溜めた写真から]写真1 銀杏と無患子の巨木。写真1 銀杏と無患子の巨木。写真3 黄金色のイチョウが青空に映える。写真4 ムクロジの葉が黄葉になり始めた。写真5 イチョウの葉と無患子の実。写真6 浄信寺のイチョウ樹。
2023年12月24日
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慶州吟含(トハム)山の中腹に造られた仏国寺(ぶっこくじ)。仏教において、仏の世界とされる仏国土を現世に再現するとの目的に、770年代(新羅)に完成したという。最盛期には、約60棟の木造建築物で構成されていた。しかし、秀吉による朝鮮の役で、大半を焼失するも、1973年に復元された。 新羅芸術と仏教文化をそのままに語り伝える仏国寺。天王門をくぐり、しばらく進むと城壁前のような場所に出合う。石造りの階段・橋、そして門を仰ぎ観る。東側、青雲橋・白雲橋の階段34段の上ると(現在立ち入り禁止)紫霞(しか)門。西側、18段の蓮華橋・七宝橋の階段を上ると安養門がある。いずれ花崗岩で築造されている。 紫霞門と本堂にあたる大雄殿との境内には、加工した花崗岩を巧みに組み上げた多宝塔が、その西側に釈迦塔が立っている。花崗岩を切り出し、加工して様々なものを作り出した新羅の技術の高さをみる思いだ。一方、日本統治時に国を奪われた悲しみを伝える意義深い塔でもあるようだ・・。[韓国世界遺産-13]写真1 慶州吟含山の中腹に造られた仏国寺。写真2 天王門と四天王像。写真3 紫霞門し青雲橋・白雲橋。写真4 安養門と蓮華橋・七宝橋。写真5 仏国寺のシンボル、多宝塔と釈迦塔。写真6 世界文化遺産碑と案内図(パンフレット)。
2023年12月23日
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慶州吟含山(トハムサン)の山頂近くにある(標高約550m)を訪れる。山腹をくねくねした道路をバスで登ること約30分。新羅時代長い歳月を費やして8世紀後半に完成した石窟庵だ。入場ゲートとなる山門から更に、山道(整備されている)を約20分歩くと辿りつく。 当該石窟の大きな特徴は、山の斜面を円形に削り、花崗岩の石材を積上げもので、珍しい人口石窟とされる。その構造は、前方後円形をしていること。地界を表わす木造方形の全室と、天界を表わす石造りむの主室からなる。特に、ドーム天井は、360個以上の加工石材で巧みに築造されている。世界文化遺産の評価部位だ。 主室中央に、本尊である如来坐像(たかさ3.45m)が鎮座している。この如来像は。新羅仏教芸術の最高傑作と云われる。硬い花崗岩を彫刻ではあるが、滑らかな曲線で表現されている。眉毛、長く垂れた耳など、崇高で慈悲深さが伝わってくる。 朽ちた状態でこの石窟は、1909年偶然発見される。崩壊寸前の石窟を、当時統治していた日本側が修復工事をしたとされる。そのことが逆に反日感情に利用された経緯があるらしい・・。[韓国世界遺産-12]写真1 吟含山石窟庵。写真2 山門ゲートから少し山道を歩く。写真3 斜面に造られた石窟と木造の前室。写真4 ドームに鎮座する如来坐像(花崗岩を彫刻)。写真5 如来像が見つめる景色。写真6 駐車場の石段を上ると世界文化遺産碑がある。
2023年12月21日
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宿泊したコモドホテルの裏手に、晩秋の湖「普門湖(ポムンホ)」が広がっていた。慶州市中心から約6km離れた一帯は、慶州観光団地とも呼ばれる。1975年に開発されたリゾート地。湖周辺には、大きなリゾートホテルや「慶州ワールド」など各種娯楽施設、公園施設が整備されている。 普門湖大きさは、面積約160万m2あり、東京ドーム35個。湖の西端に堤防と排水路があるという。慶州市の水道水は、地下水が主体とされ、この人造湖を水源としていない。日本でいうの「観光ダム」で、ボート遊びや、湖を周回するサイクリングロード、ハイキング道も整備されている。 慶州市は桜の街で、普門湖も桜の名所のひとつ。この湖周辺を巡る「慶州さくらマラソン」が今年4年ぶりに開催されたという。ハーフ、10kmコースに約1万2千人のランナーが国内外から集まったという。この時期、周辺の宿泊施設は盛況を取り戻したという・・。写真1 ホテルの部屋から普門湖を見る。写真2 慶州普門リゾートエリア。写真3 普門湖と遊園地。写真4 いまは誰もいない湖畔。写真5 コモドホテルの庭と廊下の写真パネル。写真6 サクラの頃のホテル周辺とさくらマラソン。
2023年12月19日
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慶州での夕食は、暗くなってから大陵苑近くのレストランとなる。慶州名物の「サンパブ」を4人でシェアする。韓国料理は、テーブルいっぱいにおかずが並ぶのが特徴だ。食事後、今夜の宿泊場所へバスで移動する。普門リゾートの「コモドホテル慶州」に宿泊。 ご飯等を野菜の葉で包んで食べる料理がサンパブ。「サム」は包む、「パブ」はご飯との意味がある。サンチャ、エゴマ、サニーレタスなどの葉に、様々な食材や味噌サンジャンを添えてご飯と一緒に食べる。サンジャンは、各食堂により微妙に異なる、ピリ辛味噌ダレ。 店内の壁に、ハス田の大型写真が掲げられていた。膽星台近くの「雁鴨池」の蓮田とのこと。6月下旬から7月上旬にかけて見事な蓮景色が楽しみ。また、慶州はさくらの名所で有名。コロナ前には毎年「慶州さくらマラソン」が開催され、日本から参加者も多いという・・。写真1 大陵苑近くのレストランで食事する。写真2 慶州サンパブをいただく。写真3 野菜の葉は、サンチュ、エゴマ、サニーレタス。写真4 店内の雰囲気。写真5 店内に飾られている雁鴨池付近の蓮田写真。写真6 普門リゾート・コモドホテル慶州に宿泊する。
2023年12月18日
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慶州大陵苑の南側、隣接する広大な広場に、ぽつんと石造り塔「膽星台(たんせいだい)」が立っている。夕闇のなか淡いピンク色にライトアップされ、訪れる人も多い。周囲の古墳もライトアップされ、薄緑色の小山が浮き上がって見える。幻想的に光景だ・・。 膽星台は、新羅時代の善徳女王の在位(632年から647年)中に造られもので、東洋最古の天文観測台とされる。祭壇説もあるが・・。塔の規模は、直径5.2m×高さ9.4m、地台石の一辺の長さ5.35m。直線と曲線を取り入れた安定感がある建造物。2000年に世界文化遺産に登録されている。 花崗岩を加工した基壇の上に、27段の石を円筒形の曲線で積上げている。上部には長大石を井桁に重ね、天空を眺める構造だという。南壁面に、下から13段と15段の間に窓のようなものがあり建物内部に入ることができるらしい。陰暦を連想させる361個の石で積み上がっている。 膽星台の更に南側に明るく輝くスポットがある。慶州中心を流れる南川に架かる「月精橋」。新羅時代、王宮月城と南山を結んだ橋。2018年に当時の形に復元され、ライトアップされている。[韓国世界遺産-11]写真1 慶州の膽星台。写真2 淡いピンク色の輝き。写真3 夕闇に浮かぶ古墳。写真4 古墳と柿そしてホウキ草。写真5 復元された月精橋。写真6 膽星台と月精橋の位置図。
2023年12月16日
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夕闇迫る中、新羅王朝王族の大規模な慶州古墳群を訪れた。慶州(キョンジュ)は、地域一帯に散らばる古墳や文化財などの数から、屋根のない博物館と称される。古墳公園となっている大陵苑内には7基の王陵をはじめ、23基の古墳が集まっている。苑の敷地面積は、12万5千坪と大規模だ。 慶州エリアに存在する古墳のほとんどは、誰が埋葬されたかも判っていないという。その中で、最も有名なのが「天馬塚(チョンマチョン)」。1970年の発掘時に「天に昇る馬の姿が描かれている絵」が見つかったことで、この名が付いている。大陵苑の中で唯一内部が公開され、内部構造や埋葬品のレプリカを展示。 韓国南東部にある慶州に都を定めていた新羅は、百済、高句麗の三国時代を経て、朝鮮半島を始めて統一した国(7世紀から10世紀)。長らく王宮があったので、仏教施設を含む建築物の発展が見られる遺跡が並んでいる点が評価されて、世界文化遺産して登録された。[韓国世界遺産-10]写真1 慶州大陵苑の大皇南塚と池。写真2 大陵苑後門と天馬塚チケット売り場。写真3 天馬塚入口と木槨石積の様子。写真4 木槨と副葬品。白樺の樹皮に描かれた白馬の絵。写真5 副葬品のレプリカ。写真6 大陵苑案内図と世界文化遺産碑。
2023年12月15日
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海印寺を15時半頃に出発して、慶州(キョンジュ)へ向かう。その頃から、山岳方面に縞々の雲「波状雲」が広がり始めていた。大邱付近の高速道ジャンクションで、京釜(キョンブ)高速道路に入る。 東大邱JCTから約7km進んだ平沙(ピョンサ)サービスエリアで休憩する。空を仰ぎ見ると、波状雲が更に広がっていた。波状雲は、水面が波立つように見えることからそう呼ばれる。空気が波打っていることを現わしている。長くみていると、頭がくらくらしてくる。日本にSAと変わらない施設状況だ。 京釜高速道路は、首都ソウルから南部港湾都市・釜山を結ぶ416kmの高速道路。韓国内を縦断する動脈道路。但し、高速道路の一部は、有事の際に滑走になるため、8車線道路・直線区間がある。 現在も続く休戦状態の朝鮮戦争。当初北朝鮮軍の侵攻をうけた韓国軍は、釜山近くまで後退させられた(釜山橋頭保攻防線)という。国連軍の援軍によって巻き返し、現在の北緯38度線がある。ソ連の指導者スターリンが亡くなって休戦が実現できたとか・・。写真1 海印寺の麓から山を望む。写真2 海印寺の雲景色。写真3 京釜高速道路・平沙(ピョンサ)サービスエリア。写真4 平沙SAから西の空を望む。写真5 車窓からも波状雲が見えた。写真6 七十三年前の釜山橋頭保攻防ライン。
2023年12月13日
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海印寺の本堂・寂光殿の裏手の、一段高い場所に世界文化遺産「海印寺蔵経板殿」がある。13世紀、モンゴルによる侵攻が続いた高麗で、国を守りたいとの願いを込めて、仏教の経典を版木に刻んだ「八万大蔵経」が製作された。この15世紀の高麗八万大蔵経を保管するために、建造されたものが蔵経板殿。 大蔵経版木が8万枚以上作られたことから「八万大蔵経」と呼ばれる。推定文字数は5200万字とか。初版は江華島(現ソウル)で作られたが、モンゴル軍によって焼失する。その後15年もの歳月をかけて、1488年復刻された。白樺の版木は、縦24cm×横70cm×厚さ4cmの大きさ。文字は、美しい古代朝鮮文字で漢字がびっしりと刻まれている。推定文字数は5200万字とか。 600年以上も版木が損なわれずに保存されていたことに驚嘆する。殿内部の底には、塩・炭、石灰・砂が順に敷き詰めてあるという。害虫予防だ。室内の空気が滞留しないように、窓の大きさ・形も工夫されている。この高麗八万大蔵経の版木から刷られた大蔵経を、増上寺(東京都)が所蔵しているという。[韓国世界遺産-09]写真1 海印寺蔵経板殿の中庭。写真2 蔵経板殿の門に登り、入口に入る。写真3 蔵経板殿内部の様子と版木。写真4 八万大蔵経の保管状況。写真5 奥の蔵には仏像が安置してある。写真6 中庭三層石塔と世界文化遺産碑。
2023年12月12日
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伽那山海印寺は、韓国中南部に位置する大邱(テグ)の郊外にある。伽那山(標高1430m)の山あいに広がる寺院は、1200年の歴史をもつ名刹。韓国最大規模の宗派・曹渓宗の三宝寺院。「海印」とは、海のように澄み渡る仏の境地を示す仏教用語だという。 海印寺入口の最初の門は、「一柱門」、紅霞門とも呼ばれ、周辺の景色と調和している。更に参道を進むと、「鳳凰門」がある。金剛力士像が描かれているので仁王門。そして「海東国宗大伽藍」の額を掲げた「解脱門」を抜けると広い境内が広がる 本堂にあたる「大寂光殿」には、毘廬遮那仏など3体が安置されている。左から観音菩薩像、毘廬遮那仏、法規菩薩像。建物壁面には、法宝壇などの額が掲げられ、楽器を奏でる天女や仏陀にまつわる仏教画が描かれている。隣に緑色を基調とした、装飾模様が美しい「大毘廬殿」が並ぶ。写真1 海印寺の大毘廬殿と大寂光殿。写真2 紅葉を観ながら長い参道を歩いて、第一の門「一柱門」へ。写真3 更に進むと鳳凰門(仁王門)へ。写真4 解脱門を潜ると境内が広がる。写真5 大寂光殿と汎鐘楼。写真6 大毘廬殿と本堂外壁と御本尊。写真7 海印寺の境内案内図。
2023年12月10日
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全州韓屋村の目抜き通り「太祖路」に面して、「慶基殿」の正門がある。朝鮮王朝を建国した李成桂(キョンギジョン)の御真(公式の肖像画)を奉るために、1410年に建てられた。その後、慶長の役などで正殿は焼失するも、1614年に再建される。日本では、戦国時代・大阪の陣があった頃・・。 慶基殿とは、「慶ばしい場所に建てる」との意味。正門でチケットを購入して、石垣に囲まれた晩秋の殿地へ入る。紅箭門(こうせんもん)と慶基殿門へと続く。正殿の屋根に亀二匹が載っている。火災除けのお守り。次に、高床式の全州史庫および朝鮮時代の家屋を巡る。 韓国ドラマや映画などのロケ地にしばしば使用される慶基殿。民族衣装を着飾った観光客が思い思いの場所で記念撮影していた。女性はチマチョゴリ、男性はパジチョコリとのこと。また正殿東側にある竹林も、撮影ポイントらしい。また石垣道と聖堂の建物は、異国的な情緒があった。写真1 民族衣装を着た人々が集まった慶基殿前広場。写真2 正門(チケット売り場)と紅箭門。写真3 慶基殿門とその美しい装飾絵。写真4 慶基殿正殿と李成桂肖像画。写真5 イチョウ絨毯と全州史庫その他。写真6 韓国で最も美しいとされる西洋建築の殿洞聖堂。
2023年12月09日
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扶余から約55km南下すると、全羅北道・全州(チョンジュ)到る。全州中心部に、観光地「全州韓屋村」がある。韓国の伝統家屋である韓屋700軒あまりが密集している。実際に住民が生活する集落だ。高台から眺めると、黒瓦と木造建築を一望できる。 韓屋村を東西に伸びる「太祖路」の両側に、伝統工芸、性格体験館、およびカフェ・ショップが並ぶ。交差する脇路に入っても、朝鮮王朝時代の景観を保存している。伝統衣装をまとって街歩きするカップルが多い。日本の浅草・京都のように、着物姿で観光するのと同じ感覚。紅葉が残る街を歩いた。 街歩きしてお腹が空いたところで、ランチとなる。美食の町・全州は、「ビビンバ」発祥の地と云われる。ビビンバは、「混ぜ」と「ご飯」との意味がある。全州ビビンバは、真ちゅう製の器に入っている。具材として、陰陽五行説に基づいた食材が盛り付けられる。色鮮やかなで。目でも楽しめる食事だ・・。写真1 全州韓屋村を歩く。写真2 黒瓦の韓屋700軒の歴史保存地区。写真3 韓屋村のメインストリート(太祖路)。写真4 脇路をそぞろ歩く。写真5 伝統茶屋と店舗棟。写真6 ランチは全州ビビンバ。
2023年12月07日
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扶余各地を巡り終えて、東へ約40km離れた儒城温泉に19時30分に着く。150万都市大田(テジョン)の奥座敷と言われている。宿泊ホテルは、老舗の「儒城(ユソン)ホテル」。大浴場は、ホテルのホビーと繋がった別館にあった。但し、入浴時間21時まで。 日本の統治時代に大きく発展した儒城温泉。儒城ホテルは、1915年創業以来、温泉街の中心的存在で、これまで4回ほど増改築し現在に至る。泉質は、地下350mから湧き出すラジウム温泉とされる。全室に温泉が供給されるという。しかし小生らツアー客は、全員大浴場で寛ぐ。 朝風呂にゆっくり浸かる。宿泊者以外の入浴客が少なくない。地元の人のようだ。ホテル前の通りと商店街は、足湯などあり観光地らしいが、夜になるとネオン街に替わる。少し妖しい雰囲気が漂う街だった。写真1 大田(テジョン)から西11kmにある儒城ホテル。写真2 ホテルエントランスのイルミネーション。写真3 樹や花をライトアップ。写真4 ホテル前にコンビがある。写真5 創業時のホテル建物とロビー展示物。写真6 温泉浴場と客室。
2023年12月06日
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扶余での夕食は、きのこの形をしたレストランでハス料理をいただく。この建物の裏にハス池があり、自前のハスを使用した料理が並ぶ。扶余名物と言われる「蓮の葉蒸し御飯」は、ハスの葉にもち米とレンコン、松の実などの穀物を包んで蒸したもの。この他にレンコンの天ぷら、カモの肉、焼き鯖など食べきれないほどの料理だった。 扶余は、ハスの名所としても知られている。定林寺址の南に、「宮南池(クンナムチ)」あり、池の周辺で沢山の蓮が見られるという。宮南池は、韓国最古の人口庭園の池。仏教と結びつく蓮の花。蓮を愛(め)で、食して、古代百済を偲ぶ、そんな土地柄なのだろう・・。 お腹いっぱいに食べた後、大田(テジョン)の儒城温泉へ向けてバスは走る。写真1 扶余市内のキノコの形をしたレストラン。名前は「ハスの花物語店」らしい・・。写真2 蓮の葉蒸し御飯定食。写真3 ハスの葉の中は・・。レンコン、栗、豆、松の実などが。写真4 食堂の傍のミニ庭園。蓮を植えている。写真5 店内に明り灯る。写真6 食後の夕景。
2023年12月05日
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かつて白村江(はくすきえ)と呼ばれていた白馬江を、軍船を模した船で遊覧した。白馬江は、錦江とも呼ばれる大河で、黄海に注ぐ。かつての百済は海運で栄えた。倭国(日本)との人的・文化交流も頻繁に行われた。ゆったりと流れ白馬江は、湖のようでもある。船上から落花岩と扶蘇山を眺めた。 白馬江クルーズは、皇蘭寺船着場から出港し、白馬江橋手前で反転してクレゥド渡し場まで移動する約20分間のコース。遊覧船は、30名程度集まったら出航するようだ。途中、水陸両用のバスとすれ違う。日が傾いた「百済」の夕景に出逢う・・。 遥か昔の663年、白馬江の河口で、「白村江の戦い」があった。百済復興を目指す百済遣民・倭国の連合軍と唐・新羅連合軍が戦う。日本側では、情報不足とリーダー不在で大敗を期す。そして百済が滅んだ。その際、百済から逃れて、日本に帰化した人は少なくなかったという。写真1 扶蘇山北絶壁と白馬江。写真2 皇蘭寺船着場と連絡船。写真3 日が傾いた白馬江と白馬江橋。写真4 百済末期の悲劇を伝える「落花巌」。写真5 クレゥド渡船場と駐車場。写真6 白馬江の碑と夕景。
2023年12月03日
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扶蘇山城(プソサンソン)は、百済(起源前18年から660年)の全盛期から滅亡までともにした象徴的な砦があった場所。白馬江に面し、扶蘇山という自然防壁で守られた泗泚(サビ)時代に最も栄えた百済。土城・扶余羅城とつながって王都を護る役割があった扶蘇山城。百済の最後の瞬間まで、王宮を守護した砦だった。 自然が豊かな扶蘇山の断崖絶壁の上に四阿「百花亭」が建っていた。新羅・唐の連合軍が王宮に迫った秋、敵軍から純潔を守ろうとした女官たち3千名が崖から身を投げたとされる。女官たちの飛び落ちる姿が、まるで花がヒラヒラと舞い落ちるようだったことから、崖を「落花岩」と呼ばれる。 百花亭から白馬江を眺めた後、落花岩を下りて河岸に建つ「皇蘭寺」を観る。このお寺は、百花岩から身を投げた女官たちの霊を鎮めるために、高麗時代初期に創建された。寺の外壁には、「身を投げる女官」や「十牛図」が掲げられている。また寺の奥にある岩から湧水を、一口飲むと3年若返るという「皇蘭薬水」が保存されている。扶蘇山城は、2015年に百済歴史遺跡地区のひとつとして世界文化遺産に登録された。[韓国世界遺産-08]写真1 扶蘇山への登山口、扶蘇山門。写真2 扶蘇山門と世界文化遺産碑。写真3 豊かな自然の中、山頂を目指して歩く。写真4 百花亭と白馬江。写真5 落花岩の下に建てられた皇蘭寺。写真6 極楽寶殿と寺院外壁の絵画。
2023年12月02日
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扶余(ぷよ)市の中心街にある定林寺(じょうりんじ)址を訪ねた。百済が扶余に都を移した泗泚(サビ)百済時代に建立されたお寺。見どころとして、高さ8.3mの定林寺址五層石塔。1400年の歳月、風雨に打たれながら凛として立っている。高麗時代にも定林寺は再び繁栄したという。 定林寺の伽藍配置は、中門から五重塔、金堂、講堂の順で直線になっている。そしてこれらの建物は、回廊が囲む「一塔一金堂式」という。この様式は日本でも見られる。定林寺址五層石塔は、加工した149枚の花崗岩を組み合わせて作られた。扶余の空に優雅に立っている。 講堂址には、木造の講堂が建てられている。その中に高さ5.6mの石仏座像がぽつんと安置してある。素朴な表情が魅力的に高麗時代の石仏とされる。傷みがひどいが、狭い肩幅や左手の位置などから毘盧遮那(びるしゃな)仏と言われている。頭と笠が独特の雰囲気を醸し出している。[韓国世界遺産-07]写真1 扶余中心部の広がる定林寺址を南から望む。写真2 金堂址(盛土)と講堂を観る。写真3 加工された花崗岩149ピースで造られた五層の石塔。写真4 復元した講堂とその装飾。写真5 高麗時代の石仏座像。写真6 世界文化遺産碑と博物館外壁沿いを歩く。
2023年11月30日
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