全3件 (3件中 1-3件目)
1
長年歴史教育に携わってきた人間として反省を込めて書かねばならないのが、「先の大戦で日本がなぜ負けたのかという事が国民的基礎知識として共有されていない」と言う点です。 今年の夏のNHKは、本当に気合の入った番組を製作してくれたと思います。「インパール」では、無謀な作戦を立案した上にだれも責任をとらないという卑劣極まりない旧日本軍の体質を暴露してくれました。 「731」では、はっきりと実名を挙げ。さらに東大と京大が協力していたという事実、参加していた医師は戦後も医学界の重鎮となったこと、取材を申し込んだ東大は「大学として組織的にやったことではない」として協力を拒んだことなど、「今」を照らし出してくれました。 満蒙開拓団がソ連兵に安全を確保してもらうために盾となって我が身を差し出した若い女性たちのその後。自分を守ってくれた姉が子供を産めない身体になってしまったので、自分の子どもを養子として差し出した妹・・・。 「戦後ゼロ年」では、本土決戦のために集積されていた物資を横領し、隠匿してその後の地位を築いた政治家、高級軍人、元右翼。米兵相手の売春組織を立ち上げた笹川良一。 「国民に対する犯罪を犯した彼らをなぜ尊敬しなければならないのか」とはジョン・ダワー氏の言葉。 「法の支配」が近代国家のあたりまえの姿であるのに、それがもろくも崩れていくのは、ドイツでも日本でも同じでした。 そしていま、同じことが行われようとしています。「日本ファーストの会」を立ち上げようとしている若狭氏は、「テロを行おうとしている人間は事前に逮捕しなければならない。裁判所の令状を待っていては遅い」と言いました。これは、ナチがやったことであり、日本でも「治安維持法」が無制限に拡大されて起ったことでした。「日本ファシストの会」と読んだ方が良いと思う根拠です。 朝鮮人虐殺への追悼文を断った小池は、この「日本ファシストの会」の事実上の指導者です。「あの」石原でさえ送った追悼文を拒否した小池は、確信犯としてのファシストであり、歴史修正主義者です。 歴史を学んでほしい、それも近現代史を。切なる願いです。
2017.08.26
コメント(2)
『ナチスの知識人部隊』クリスティアン・アングラオ 河出書房新社 2012 本文だけで430ページある。時間がなくて、内容だけ知りたいという人は、413~430までの「終章」を読めばだいたいの内容はつかめる。 私にとって、この本の新鮮さは、第一章にあった。 「本書で取り上げるグループのメンバーに共通する第一の経験は第一次世界大戦である」(P15)という文章で始まる第一章は、一次大戦でドイツが受け入れねばならなかったヴェルサイユ条約がいかに苛酷なものであったか(英代表団のケインズは、その内容、特に賠償金の支払い額に反対して帰国している)、また、食糧難の経験、肉親を失った経験などがトラウマとなってドイツの若い世代(子どもも含む)に対していかに襲いかかったかが示され、その後も通奏低音のごとく多様な例が引用される。 ドイツは領土を奪われ、文化を踏みにじられ、特に東方地域(ロシア)ではとんでもない残虐行為に曝された、それというのも、ただ「敗者である」という理由だけで、という考え方が国民の心の中にしみわたって行く。そこに、「ドイツは勝利を収めつつあったのに、共産主義者・社会主義者たちの「背後からの一突き」によって敗北を余儀なくされた」という事実に基づかない、それだけにドイツ人のプライドを満足させる「敗北理由」が重なる。そして、「ドイツ人を堕落させたのはユダヤの連中との混血である」というまことしやかな「原因」も付け加えられる。 1923年のフランスによるルール占領はドイツで超インフレ(物価が一兆倍になった)を引き起こし、西のフランス、東のポーランドによってドイツは消滅させられるのではないかという恐怖心を喚起する。 これらすべての「思い込み」は、シュトレーゼマン時代の協調外交と、アメリカ資本の導入による経済復興の時代には、記憶の「下層」に閉じ込められる。しかし、1929年のアメリカ発の世界恐慌はドイツの「復興」を木端微塵にし、ヒトラーの台頭を招く。 そのイデオロギーに共感した若者たちは、大学で学んだ知識を総動員して、以上のような「思い込み」「根拠のない噂」に「学術的な」衣をかぶせていく。 歴史の場合、その初発が1618~48年の三十年戦争であることに驚かされる。(P269~70)この戦争はドイツを戦場とし、人口の三分の一が失われたと言われる。ドイツの歴史は、近隣諸国によるドイツ侵略の歴史であり、ドイツは民族と文化を守るために正当な防衛戦争を戦ってきた、という「論証」から、一次大戦でドイツがこうむった「不当な措置」に説き及び、現在戦われている戦争は、ドイツが殲滅されるか敵を殲滅するかの戦争であると結論付けられる。 人種論も、政治的敵対者に対する容赦ない措置とセットになって「整備」される。ユダヤ人は、「アーリア人の血を汚したもの」として殲滅の対象となり、ロシア人、特にボリシェヴィキも殲滅の対象となる。最悪は、「ユダヤ人のボリシェヴィキ」である。 ヒトラーが権力を奪取して反対派を弾圧し、強制収容所を設立した時も、その事実は隠蔽されることなく堂々と報じられた。 法の概念も「民族主義的」に変えられ、警察に対する考え方も大きく変えられた。 知識人の一人である、ヴェルナー・ベストは、ゲシュタポの使命を以下のように述べている。 「政治警察の予防的警察使命とは、国家の敵を暴き、監視し、時至ればこれを撲滅することにある。この使命を果たすために政治警察は、必要目的の達成に求められるあらゆる手段を自由に使えなければならない。国民社会主義指導国家において、国家意思を実現するために国家と国民の保護を求められる政治警察のような制度は、当然ながらその使命達成に必要な権威、国家の新概念にのみ由来する権威を持ち、いかなる特定の法的正当性をも必要としない」 『ヒトラーを支持したドイツ国民』ロバート・ジェラテリー みすず書房 P49 第二次大戦は、徹頭徹尾「防衛戦争」、「ヨーロッパに散在し、迫害を受けている同胞ドイツ人を救う戦争」「ドイツ人が正当なる生活圏を確保するための戦争」として位置付けられる。 戦争開始とともに、まずポーランド軍によるドイツ人たちの死者がカウントされる。三週間で五万八千人(p233)。そして、ドイツ軍の住民殺害は「治安維持のため」とされる。ここでも殺害は「防衛的なもの」である。 そして、対ソ戦が開始される。1941年6月の事である。「ソヴィエトはナチスにとってユダヤ支配と野蛮なボリシェヴィキの国であり、そこではドイツ社会に内在するふたつの不倶戴天の敵が手を組んでいるのであった」(P235) ボリシェヴィキの野蛮さと卑劣さとは何度も兵士たちに訓示され、「強迫観念に近い考えを浸透させ、戦争の初期から極度の暴力行為を生み出すことになった」(P241)。 占領地域でのユダヤ人の殺害は、その多くが住民(ウクライナの例が多い)の協力を得て行われ、詳しい報告書が上層部に挙げられている。しかし一方で、労働力としてのユダヤ人の確保とユダヤ人の絶滅という問題は占領した地域の行政機関或いは国防軍と親衛隊との確執を生むこととなった。最終的には、「労働ユダヤ人の確保」は暫定的措置となるのだが。 絶滅、ジェノサイドという行為にとって、一つの「障害」が現われる。それは、「女子どもも殺すのか」という問題である。 「我々の子や孫に復讐するかもしれない子どもが育つのを放置することはできない。それはかつて経験したことがないほど辛いことです。兵士も将校も苦しむ危険はあるのです」1943年10月のヒムラーの演説の概略。P263 しかしこの「障害」も、東方のゲルマン化、ナチス千年王国の実現のためには必要なもの、絶対不可欠な条件とされることによって「乗り越えられて」行く。 だが、絶滅、処刑を実行する部隊に問題が生じなかったわけではない。 「大量の人間をいかに効率よく殺していくか」という「マニュアル」を自ら作っていかなければならなかったという事である。「初心者」たちはとまどった。殺すべき人間を一人づつ見つけ、森に行って射殺する。「人が人に暴力を行使する」(P299)という面が強く自覚され、混乱が生じ、処刑者のトラウマとなっていく。その中から、「まず犠牲者に穴を掘らせてから、穴の縁にひざまずかせ、二つのチームが交代に射殺していく」方式が生まれていく。 トラックを利用したガス殺はもっと嫌われた。死体の片づけ、その表情、垂れ流された汚物の処理のために。 最終的解決として、強制収容所に置いて収容者の中から死体を片付けるメンバーを選出し、収容者が収容者を管理するという方式が成立していく。 独ソ戦がドイツの敗色濃厚となり、ソ連軍の進撃が始まるとともに、ドイツの蛮行が知られるようになっていく。強制収容所で何が行われたかも徐々に伝わるようになる。一方で、ソ連の占領地域では、三人に一人がロシア兵から暴行を受けたとみられる。(P367) ドイツ軍は最後の抵抗を試みる。ドイツ軍の戦死者の三分の一以上が終戦直前の数カ月に亡くなった。 ドイツは敗北し、ナチス知識人たちは裁かれることとなる。かれらは、自分の仕事を「学術調査」(P379)に見せかけようとしている。更に、犯罪的命令を知ったのは「ロシアに入った後であると断言」さえしている(P379)。膨大なエネルギーを費やして自らの部局の活動を隠蔽し、自らの責任を小さくし、同僚の無実を証明しようとしている(P391~2) 「いかなる国も単独で罪があるのではありません。国々は生存と将来のために戦っている」(P405)という証言は、当初からのナチのイデオロギーを平穏に表現しているに過ぎない。実際は、言語に絶することが行われ、それは次々と肯定されていったのだ。 戦っている相手を貶め、自分たちとは違った人種であると強弁し、敵を殺害する精神的負担を軽くしようとする行いは第二次大戦参加国のすべてがやっていると言っていいかもしれない。 しかし、だからと言って、ナチスのやったことが免罪されるわけではない。更にもっと重要なのは、ナチスの例を引いて日本のやったことを大したことではないと言い募ることは過去の歴史を直視しない臆病者のやる事であり、そのような健忘症は、再び同じ道を歩む第一歩となることを忘れたくない。
2017.08.18
コメント(2)
「アイヒマン実験」とは、東欧地域のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンが、ドイツの敗戦後にアルゼンチンに逃亡、のちにイスラエルの諜報機関によって拉致されてイェルサレムで裁判にかけられた時(1961年)に、そのあまりにも平凡な容貌と人間像に対して、「普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提出され(『イェルサレムのアイヒマン』(悪の陳腐さ)ハンナ・アーレント みすず書房)、その翌年にイェール大学のスタンレー・ミルグラムによって行われた実験の事である。 実験参加者に対しては、「これは、記憶力を向上させるために罰は必要かどうかを試す実験です」と説明がなされる。例えば、「バナナ」「曲がっている」という一対の単語が複数提示され、生徒役の人物に対して、それを記憶するように指示が出される。時間を置いて、「バナナ」という単語のあとに、四択で単語が示される。続いて別の単語が提示され、また四択の単語が提示される。「生徒」が不正解の場合、「教師」役の実験参加者は、45ボルトから始まり、15ボルトづつ上がっていくスイッチを押して「生徒」に対して電気ショックを与えていく。「生徒」は、スピーカーを通じて苦痛を訴えるようになる。「やめてくれ!!」「早くここから解放してくれ!!」と絶叫する声が響き渡る。「教師」役の参加者は、後ろに座っている白衣を着て権威のありそうな指示者に対して、不安を訴える。指示者は、「続けてもらわなくては困ります」とか「これは社会的に意義がある実験なんです」、「私が責任を持ちますから」と言って、継続を促す。 実験の結果、最大450ボルトまで電圧を挙げた参加者(被験者)は、25人中16人いた(62,5%)。 この実験は、アーレントの著書とともに、「ナチは我々とは関係ない性格異常者の集団である」と思っていた人々に大きなショックを与えた。「我々も状況次第ではアイヒマンと同じことをやるかもしれないのだ」という衝撃が広がって行った。 2015年にオーストラリアのテレビ局が、ミルグラムの実験を検証した番組を作った。「「アイヒマン実験」再考」という題名で放映され、私は8月11日再放送の番組を見た。 方法は同じである。パターンはいくつかある。「生徒」の誤りだけが表示されるもの。マイクを通して絶叫が聞こえるもの。被験者(生徒)が「教師」の隣に座って苦痛を訴えるもの。「権威ある指示者」が途中で退席するパターン。被験者は不安そうに「権威ある指示者」の方を振り向いて見る。「続けてください」「重要な実験なんです」と「指示者」は続行を促す。 「生徒」は、途中で継続を拒否する。「いやだね、加計の様子を見に行く方が先だ」「私には無理、続けられない」と言って。 決定的だったのは、「指示者」が「選択の余地はないのです」と言った時に、全員が、「あるよ。止めることだ」と言ったのである。 番組は、最後に以下のように結論付ける。 一、ミルグラムの実験でも、37,5%の人間は途中でおりているのに、62,5%の方が強調されていること。 二、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』との相乗効果もあって、「私たちの中にもアイヒマンが潜んでいる」という事が強調され過ぎたこと。 三、アイヒマンは、決して「平凡な一市民」ではなく、ナチのイデオロギーを信奉していた確信犯であったことが無視されていたこと。 「ナチは私たちとは全く別の精神異常者である」という考え方に私たちはもはや安住は出来ない。しかし、「ある状況下におかれたら「誰でも」そうなる」という考え方もまた極端であるという事になる。 アイヒマンは、「私は命令されたことをやっただけでそれ以外の選択肢はなかった」とイェルサレムの法廷で語った。 テレビに写される「官僚」たちは、「記憶にありません」「記録は廃棄しました」と言っている。彼らはのちになって自分の発言が真っ赤な嘘であったと白日の下にさらされた時に「私には他に選択肢はありませんでした。命令に従うだけだったのです」と弁明するのだろうか。 72年前の敗戦から何を学んだのか?日本の上級官僚は、ミルグラムの言うところの「権威に従順な人々」なのだろうか。※「生徒」役の人はプロの俳優さんで、実際に電流はながされておらず、自分の目の前にある「今、何ボルト流れているか」の表示を見ながら、それにふさわしい演技(絶叫)をしているのです。 「再考」の番組では、最後にタネあかしがあって、被験者(教師役)は、胸をなでおろすのですが、「指示者」に殴りかかる人はいなかったか心配です。
2017.08.12
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1