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本日、68歳になりました。まさに、「冥土の道の一里塚」でしょうが、この一年を振り返ってみて、全く理解できないことが二つあります。 一つは、日本で、安倍総理が辞任に追い込まれていないこと。状況証拠は完全に黒なのですが、肝腎の記録が廃棄処分されたり、総選挙で国民が自民党に多数を与えてしまったから延命できたという事でしょう。 ひたすら「政治の安定」を求め、そのためには政治倫理もなにも知ったことではないという事なのでしょうか?自らの「決断」が大混乱を引き起こし、結果的に野党共闘を破壊した前原氏は、辞任もしていません。 「小池バブル」もあっという間にはじけました。なぜ何度も騙されるのか。有権者の責任は大です。 もう一つはアメリカのトランプ政権です。政権の重要ポストについている人々が解任されたり辞任したり。駐韓大使も決まっていないと思います。 こんな「政権」を延命させている共和党は何なのか?34%程度の支持者は確かに強固です。何があっても、何を言っても崩れない。狂信者としか見えません。 この人物が、アメリカの最高権力者となっており、歴代大統領が延期を続けてきた「イスラエルの首都はイェルサレムである」という1995年の議会決議を実行しました。アメリカに対するテロは増大する2018年になりそうです。その巻き添えが日本にも来るかもしれません。それが恐ろしい。 福沢の言い方を真似れば、「吾は東方の悪友を謝絶するものなり」であります。日本の安全はトランプ政権から距離を置く所にあるでしょう。
2017.12.30
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「リアル日本人」と言う番組を見ていたら、「暮れの大掃除は妻と夫とどれくらいの割合でやっているか?」という質問に対して、女性側で第一位に輝いた(?)答は、「妻10 夫0」。対して夫の方は「妻5 夫5」。街の声、スタジオの声はたいそう面白かった。男性は、「やってるやってる、オレはやってるよ」と言う系が大半。女性は「5対5」という結果について、完全に上から目線で発言。「普段やってないんだから、たまにやるとやってるように思いこむのよ」とか、「思い上がりよ」なんてお言葉も。 で、私も風呂場と窓の掃除。今日はホントにぽかぽか陽気で助かった。でも、窓を拭いていたら、途中で息が切れてきた。明日は雨模様。
2017.12.30
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この部屋の中で、様々な情報を集めることが出来る。人々の生活状態を知ることも出来るし、その国、地域でどんなことが話題になり、どのように報じられているかも知ることが出来る。半年間ではあるが、現地に滞在することもできる。肌で実感できるとこのシステムは好評だ。 仲間同士で情報を交換し合ったり、意見の交換もできる。なにしろ重大な決定だから、みんな慎重になっている。 ただ、各人の決定までのリミットは約10ヶ月と決められている。これだけは上も譲ってはくれない。いい方にとれば、このくらいの期間の方が決定するにはちょうどいいかもしれない。悩みだしたら果てがないんだから。 「面白いニュースがある」とAが私の方を向いて声を掛けてくれた。 「なんだい」 「この国に新幹線が導入されたんだそうだが、開業式の日に、出発時間が10分遅れたんだそうだ」 「それのどこが面白いんだい」 「まぁ、聞きなよ、問題はマスコミがどう報じたかだよ」 「「開業式の日に10分も遅れるとは何事だ!」って批判が集まったのか?」 「それじゃあ、面白くないだろう。「遅れを10分に抑えるなんてすばらしい!!」とべた褒め」 「なるほど、いいねぇ。候補にするよ、ありがとう」 私に残された日にちはあと十日。ただ、余り焦りはない。大体のところは決まっている。報告に行ってこよう。 ノックをする。 「入りますがよろしいでしょうか?」 「どうぞ」といつもの柔らかい声が聞こえる。 「決まりましたので報告に参りました」 「あと十日あるのに、いいの?」 「かなり自分なりに考えたつもりですから」 「どんなところが決め手になったの?」 「まず第一に美人が多いことです」 「体験旅行の時に気持ちが決まったみたいね」 「そうですね。そして第二に、食べることにみんなが情熱を傾けていることでしょうか」 「食いしん坊のあなたにとっては大切なポイントね」 「人生は楽しむためにありますからね」 「同感よ」 「では、その線でお願いいたします」 「出発は早めるの?」 「できれば、二、三日のうちに」 「そうね。手続きはこちらでやっておくから、準備に入って」 「ありがとうございます。これまでお世話になりました」 身の回りを片付けて、友人に別れを告げる。ささやかなパーティーが開かれる。 カプセルにはいる。カプセル内に水が満たされる。私は、そっと目を閉じて、聴覚に全神経を集中した。声が聞こえる。この声が、これまでの世界と違った世界への扉を開いてくれる。 いきなり、視界が開けた。 「男の子ですよ!!まぁ、立派な唐辛子がついてるわ」 紅潮し、汗まみれの顔が目に入る。泣いてるんだ。気が付いたら私も大きな声を出していた。 「元気のいい子ねぇ。3200g、はい!」 私はやわらかい手から、もう一つの柔らかく、汗に濡れた手に渡された。窓から、体験旅行の時に見たことのある高い塔を持つ教会が見えた。しかし、こんな記憶もあと二時間もしたらきれいに初期化されるはずだ。 こんにちは、スペイン! 「」
2017.12.28
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「現象学」なるものに初めて触れたのは学生の時だから、50年ほど前になる。とにかくわからなかった。皆目わからない。それがトラウマになったのか、倫理を担当するようになっても敬遠していた。意を決してある解説書を読んだのだが、これまた皆目わからない。 書店で『これが現象学だ』(谷徹 講談社現代新書)を買って読んでみた。もちろん、買う前に数ページ読んでみたのだが、買って(800円)みようと思ったのは、「なぜフッサールは「現象学」を構想する必要があったのか」と言う点について懇切丁寧に説明してあったからだ。 言い換えれば、この点の説明がない解説書は、私のような初学者にとっては無用の長物であるという事だ。 古代ギリシア人の思考はまず「自然哲学」と言う形をとる。彼らは自然に向かい合って、その根源(アルケー)を探ろうとした。ある者は「水である」と言い、「数である」、「火である」、「原子である」と言っている。その後、関心はいったん人間に移り、ソクラテス、プラトン、アリストテレスと来るのだが、アリストテレスが「万学の祖」とたたえられたように、その業績は、形而上学、倫理学、政治学、生物学、詩学などと実に多岐にわたっている。 その後、中世スコラ哲学を経て、ルネサンス期に入り、従来まで「哲学」と言う枠の中にあった諸学問が、枠の中から飛び出していく。政治学などはそうだろう。 しかし、19世紀になって哲学を取り巻く状況は一変する。 「論理的であり、かつ実証的でない学問は「学問」の名に値しない」という考え方の元、「自然哲学」は、物理、化学、生物、地学などに分かれて「哲学」から飛び出して行った。数学もそうである。コント(1798~1857)が、「経験的事実によって実際に検証されうる知識だけが本当の知識である」と主張。知識の発展を三段階に分ける。 第一段階は、神学的段階であり、超自然的な神によってすべての現象は擬人的に説明される。 第二段階は、形而上学的(哲学的)段階で、観察が重視されるようになってきてはいるが、いまだ、本質や本性と言った現象の背後にあるものが想定されて、現象は説明される。 第三段階は、実証的段階でここでは経験的事実に即して諸現象の法則が探求される。 コントは本質とか本性と言った「現象の背後にあるもの」を突き止めようとする従来までの「哲学」に「科学ではない」という宣告を行ったことになる。 フッサールは1859年に生まれ、1938年に亡くなっている。彼がまず取り組んだのは数学である。その後、哲学に興味を持つようになるのだが、彼は「ドイツ観念論」を心底軽蔑し、「事象そのもの」にはどうやったら迫ることが出来るかを考えるようになる。それは、「学問としての哲学は可能なのか?」と言う問いと同義語になる。ただ、万能のように考えられている科学も事象そのものを覆い隠してしまうかもしれない。そうなると、判断中止(エポケー)を行いながら、事象そのものが何に根差しているのかと言う確実な根拠となるものを見つけなければならない。その道のりにおいては、「自分で考える」ことが必須であるが、望ましいのは「ともに哲学する」人物と出逢う事である。 ここまでは分かった。そして、「現象学」が、他の学問分野に対しても絶大な影響を与えたという事もわかった。しかし、まだもやもやしている。ここから先が分からない。フッサールが何をやったのかと言う肝心な部分が著者の努力にもかかわらずまだ朦朧としている。 図書館に三冊ほど予約している本が届いているので読んでみよう。まず、門はくぐれたけれど、家の中に入るまでの道のりは遠そうである。
2017.12.27
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免許証の更新に行ってきて、新しい免許証を受け取った。「平成33年01月30日まで有効」と書いてある。 現天皇の退位の日も2019年4月30日と発表された。つまり、「平成」は、31年までしかないわけである。よほどのことがない限り、退位中止、続投という事はありえない。なのに、平気で「平成33年」と記す思考はいったい何なのか? ありえない日付を平気で使用する。この免許証を作成する担当者たちの中には、異論はなかったのか? 「昭和で言えば今年は昭和〇〇だね」と言う言い方はよく聞く。しかし、個人の身分証明書にもなる大切なシロモノを惰性で作っているとしか思えない。 西暦に切り替えるという発想はなかったのだろうか?だとすれば、何か大きなものが欠落しているように思えてならない。
2017.12.25
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NHKニュースを見ていると、今年の日本では134万人が亡くなり、94万人が新しく生まれたと報じていた。 『古事記』で、イザナギ、イザナミの神の話をするときに、イザナミを喪ったイザナギが黄泉の国へ行き、イザナミの「見てはいけませんよ」と言うタブーを破ってついイザナミの無残な姿を見てしまい、驚いて逃げだすと、イザナミが追ってくる。なんとか地上へ逃れることが出来たイザナギは、大きな石で蓋をしてしまう。イザナミが、「一日に千人殺してやる!」と呪いをかければ、イザナギは「なんの、一日に千五百人産んで見せる」と応じ、人口が増えるという事になりましたとさ、と言う話をする。 江戸期は、ほぼ3000万人で人口は停滞し、明治以降は増加に転じる。 それが人口増加は停滞し、減少傾向があらわになってからすでに数年経っている。 一方、軍事費は5兆1911億円が計上され、史上最高だという、イージス・アショアとか巡航ミサイルとかを二つ返事で買うようである。 「国を守る」のだそうだが、その「守るべき国」の姿はどんどん貧相になっている。一方で、「リニア談合」が問題となっている。ゼネコンは、老朽化したインフラを改修し、国民の安心を増大させることには興味がないようだ。私が本当にわからないのが、「東京と大阪を一時間で結ぶ」というキャッチフレーズだ。東京と大阪との間には活断層はないのか?M7.0クラスの地震に襲われた時に、リニアが走るチューブ(といっていいのかな)は絶対に破断しないのか?第一、誰が乗るのか? オリンピックだの万博だのと、1108兆円の借金がある国のやる事とは到底思えない。
2017.12.22
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『魂でもいいからそばにいて』 3・11後の霊体験を聞く 奥野修司 新潮社 柳田國男の『遠野物語』第99に、大津波で亡くなった妻と再会する男の話が収録されている。 私の師は山形出身で、何度か山形のお宅に泊めていただいたことがある。その時はじめて、ここら辺には、お盆という風習がないのです、と教わった。 お盆というのは、亡くなった方たちが西方浄土に行き、そこから帰ってくる期間のことを言いますね。ですから、迎え火を焚いたり送り火を焚いたりするのですが、この辺では、亡くなった人たちは小高い山や丘の上から親しい人を見ていると信じられています。ですから、お盆という風習がないのです、と。 柳田國男の著作を読んで、そのように思われている地域もあるという事をその後知った。 なので、この本に記してある事に対する違和感は全くなかった。 話は少し違う方向に行くのだが、私が大好きな漫画に「夏目友人帳」という作品がある。主人公は、普通の人には見えない「あやかし」が見え、周囲からは気味悪がられ、傷つくことの多かった少年時代をすごす。しかしその後、彼をふんわりと包んでくれるような遠い親戚の人と出会い、「あやかし」を用心棒として様々な困難を乗り越えていくというお話。 「普通の人には見えないものが見える」というのは、本当に異常なのだろうか?嘘つきなのだろうか? 「この天と地の間にはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」『ハムレット』 人間が何を見、聞くか。それは脳の機能であり、神経細胞の機能であると考えれば、両者の機能が百パーセント解明されていない段階で、「見えるはずがない」とか「聞こえるはずがない」と断言することはできないのではないかと思うのだ。 生者と死者との距離が近い東北では、それ以外の地域とは異なった精神風土があるのではないか。 著者は、阪神大震災の時には、霊体験が多くあったとは聞いていないと記し、日本で唯一地上戦に巻き込まれた沖縄では霊的体験をいくつか聞いたことがあると記している。 「集合的無意識のように、人間の奥深いところに組み込まれたもので、強い恐怖が引き金になってあらわれるのだろう。人間が予測不可能な大自然の中で生きぬくための能力だったかもしれない」(在宅緩和医療のパイオニアである岡部健さんの言葉)(P11) 阪神大震災の時も、霊体験はあったかもしれない。しかし、そういう体験をした人は誰にも語らず、語った人は一笑に付されて本人も納得するという形で終わってしまい、結果として世に出なかった可能性はある。 「納骨しないと成仏しないと言われますが、成仏してどっかに行っちゃうんだったら、成仏しないほうがいい。そばにいて、いつも出てきてほしいんです」という言葉がある。死者と生きる空間を共にしたいという思いがこの言葉に詰まっている。 「夜中に目が醒めると目の前に二人がいたんです。マスクをしてしゃがんだ妻に寄り添うようにしながら、娘が僕に手を振っていました。ただ、映像が、テレビ放送が終わったあとの砂嵐のようにザラザラしていて、輪郭しか見えないんです。ああ、妻と娘が逢いに来てくれたんだと泣いて手を伸ばしたら目が醒めたんです」(P25) 多くは夢の話だが、おもちゃが勝手に動いたり、死者からのメールが届いたりと、私の「常識」の範囲では本当に「不思議な話」なのだ。 ライアル・ワトソン『エレファントム』(木楽舎)を読み始めているのだが、この本の冒頭に、すでにこの地上から姿を消してしまった象の姿を「見る」少年の事が紹介されている。 このような「不思議な話」にも、私は惹かれる。 科学を否定するわけではないし、不可知論を擁護するわけでもない。ただ、「今の段階での科学」は完全ではないと思う。聞きかじりなのだが、宇宙には「ダークマター」という物質が存在していることは確かなのだが、まだその物質は観測できていないという。それと同じではないかと思う。 くり返しになるが、脳の機能も神経細胞の機能も完全に解明されているわけではないし、科学は万能であるともいえない。そんな段階で、「不思議な事」を全面否定することはないと思う。 震災に巻き込まれた人がどのような体験をしたのか、そしてその後、どのような体験をしたのか、一読の価値はあると思い紹介する。
2017.12.20
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『動的平衡』福岡伸一 木楽舎 を読了。氏の本はこれまで『生物と無生物の間』『世界は分けてもわからない』『フェルメール 光の王国』と読んできたのだが、今回がもっとも衝撃的だった。 一か所だけ取り上げると、第二章 汝とは「汝の食べたもの」である 「消化」とは情報の解体 という部分。 食べ物をよく噛んで、胃の中に送り込んで、胃の中で胃酸なんかでさらにバラバラにされて、腸で吸収されて私の身体の栄養になってくれる、というのがこれまでの私の考え方だった。 問題は、「バラバラにされて」の程度の問題だった。 「もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、どうなるだろうか。当然のことながら、他者の情報は、私たち自身の情報と衝突し、干渉し合い、さまざまなトラブルが引き起こされる。アレルギー反応やアトピー、あるいは炎症や拒絶反応とは、すべてそのような生体情報同士のぶつかり合いのことである。そこで、生命体は口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。 消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質では決してなく、情報を解体することに本当の意味がある。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位つまりアミノ酸にまで分解されてから吸収される 」。P67~68 うーん、「消化という機能の本質」。そこまで考えていなかった。 第八章 生命は分子の「淀み」の中のデカルトの考え方。倫理で何回か取り上げたのだけれど、「物心二元論」「機械的自然観」についての考え方、つまり「人間のパーツは取り替え可能であり、人間は一種の機械である」という考え方への違和感が一気に解消した。 氏が翻訳されている『エレファントム』『思考する豚』は、市立図書館で予約。来週には読めそうだ。また、『動的平衡』の2、3は学校の図書館に入れてもらうようにリクエスト。 周囲が「目から落ちたウロコ」で埋まりそうだ。
2017.12.17
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