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6月15日は「国恥記念日」が相当する。一部を除いてマスコミは沈黙して政府の暴挙に手を貸した。 なぜ、「国恥」なのか? まず、戦後、日本国民が築き上げてきた(はずであった)「法の支配」が見事に無視され、「良識の府」として知られてきた参院の「良識」が、自・公・維の泥靴で踏み躙られた日である事。 次に、海外からこのような状況がどのように「評価」されるかという事。国連の報告者の書簡、懸念に対してほとんどヒステリーとしか言いようがない対応をし、このざまである。 私も恥じ入らねばならない。もっとできることがあったはずなのに、やっていなかった。 「これからできること」をやりたいと思う。
2017.06.15
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自由党の森議員が、「公益通報者保護法」について述べたのに対して、義家は、以下のように答えた。「一般論として、当該告発の内容が法令違反に該当しない場合、非公知の行政運営上のプロセスを上司の許可なく外部に流出させることは、国家公務員法違反になる可能性もあると認識している」(6/13)本日「仮に公益通報制度であるならば、それはマスコミに対して出すのではなく、きちっとした手続き制度があるので、大臣・副大臣に「こういうことがあったのか?」と訊くのが当然」。 馬鹿に磨きがかかっているというのはこのことで、「公益通報者保護法」の趣旨は、「これは、公益を侵害している」という判断をした個人、あるいは集団が、身の安全を確保しつつ告発を行うための制度で、「保護」の部分に力点がある。ストレートに上司に言ったとして、まず身の安全が確保されるのか?左遷、嫌がらせは続き、精神的に追い詰められて・・という事もありうるのだ。 「墜ちたなぁ」と思っていたら、まだ底があったという事だ。 彼はどこまで墜ちていくのだろう? 墜ちて行って、最高機密にふれ、その時初めて暴露する・・・なんて、テレビドラマの見すぎの事を考える。 もう一件。去年の11月9日に「国家戦略特区諮問会議」が開かれて、事実上、京産大は没という事になった。で、その前日に、内閣府の職員が、「特区諮問会議の議事次第資料」をよりにもよって今治市の職員に渡していたという事が明らかになり、内閣府は、「不適切な行為」と認めたという。 共謀罪をなにがなんでも通過させたい。国会早く終わりたい、というのはコレか?今度は「内閣府」であり、そのヘッドは安倍君だ。文科省の失態に対して激怒していた足元から煙が立ち上ってきたわけだ。 「キャスト」で、冒頭言っていた。「これだけの事が起きているのに、他の局はなぜ報道しないのでしょうね?」。正解は一つしかない。※目の前に三冊テストが並んでいる。だいぶ採点はしたのだが、採点に専念する環境は与えられない。 これもすべて安倍のせいである。
2017.06.14
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※えー、前もって申し上げておきますが、談志、圓楽、小朝のファンの方はお読みにならない方が良いと思いますよ。 まぁ、読んでいただいても良いんですがね、読んでる途中で台所へ走って行って包丁取り出して、私んチへおいでになられても、切っていただくものと言えば夏大根しかございませんので、なにとぞご容赦を願いたいと。 あー、でもこんなこと書いちゃうと、無性に読みたくなるってのも人の常なんですが、止めといた方が良いですよ。あくまで「個人の感想」なんですからね。 「アナザー・ストーリー」ってえ番組で、古今亭志ん朝師匠を取り上げておりました。ワタクシ、録画してDVDに落としちゃうと、HDDのほうは消しちゃうんですよ。ところが、これは消さない。いつでも、「見たい気分だな」ってえ時に、パッと見れる。これですよ、残り少ない人生での楽しみ。酒は飲めない、タバコは止めたし、パチンコ、麻雀とは縁を切ったし、小指の方とはとんとご縁がございませんので、テレビでこれっ!てえ番組をじっくり見る、面白い本を読む、晩飯をつくる、安くてうまい店に食べに行く、コーヒーのうまい店に行ってブラックで飲む・・・ぐらいしか残り少ない人生で楽しみてぇものがございませんからね。 志ん朝師匠の高座でのお姿は、ほんのちょこっとしか映りませんよ。いや、そこに文句があるてぇわけじゃあない。ワタクシすでにDVDを持っておりますからね。「落語研究会」編集になります上下巻。高座でのお姿はこれで拝見すりゃいいんですよ。 番組は例によって、「複数の視点から志ん朝師匠を見る」って趣で進行するんですが、談志がやけに出てくる。編集して談志のとこだけ削っちゃおうかなってぐらい出てくる。1936年生まれですから、49年生まれのワタクシと、そんなに違わない。「誤差の範囲だよ」って言いたいくらいしか離れてない。ですから、何度か見ましたよ、テレビで。だけど、面白くない。ワタクシ、御幼少のころから気が付けば、古典落語ばっかし聞いていたんですな。志ん生、文楽、圓生。圓生師匠はテレビで「死神」を演じてらっしゃるとこをみまして、サゲのところで震えが来たのを憶えてます。後にも先にもこれっきりの体験でしたがね。で、カセットテープを買い込みまして、車の中で何度聞いた事かわかりません。「文七元結」「鰍沢」、もちろん「死神」も。 ところが、志ん生師匠は違う。二、三度聞いて、「あっ、こりゃ誰にも真似ができない芸だな」って思いましたからね。 文楽師匠の「芝浜」、いいですねぇ。圓生師匠はもちろん。だけど、頑張ったら、何とか近くまでは行けるんじゃないかなって錯覚できそうなところがある。 ところが志ん生師匠は違う。ワタクシが談志が嫌いだってのは、「こいつ、志ん生になろうと思ってやがるな」と思ったからなんですね。で、何かと言うと、志ん朝師匠と張り合ってた。・・・無理なんですよ、どだい。マッチ棒削って奈良の大仏作ろうってなもんでね。それで嫌んなっちゃった。 圓楽はもともと好きじゃなかったんですが、たまたま高座で「浜野矩随」をやってた。おっかさんが息子をいさめるシーンがあるんですが、圓楽は本当に涙をこぼすって演じ方をしてました。志ん朝師匠の演じ方は、「落語研究会」編の「古今亭志ん朝全集」(上)を見ていただくしかないんですが、違う。突き放した言い方んなりますが、「本当に泣いてどうすんだよ、この馬鹿」と思っちゃった。芝居じゃないんだ、落語なんだよ!ってことでしょうね。 あ、小朝。これは短いですよ。聞けたもんじゃない。 あー、すっきりした。日ごろ思ってたことを全部言っちゃいましたからすっとしました。 さて、採点にかかりますか。 えっ、米朝師匠の事ですか?それはまた日を改めてゆっくり語らせていただきます。
2017.06.14
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いま、『源氏物語』を読んでいます。「須磨」まで読み進みました。知人によると、「須磨がえり」とかいって、ここでダウンしてしまう人が多いようですが、私の主目的は、源氏の因果応報(女三宮と柏木)を読んで、「ざまみろ!」と思う事ですから(かなりゆがんだ動機ですが)、こんなところで挫折なんてしておれません。 関連図書で、『「源氏物語」を江戸から読む』(野口武彦 講談社)を読んでいて、「「もののまぎれ」と「もののあはれ」」という8ページほどのエッセイが目にとまりました。「もののあはれ」というのは、「倫理」で扱います本居宣長の重要な論点です。「もののあはれ」で宣長が肯定しているのは、源氏と藤壺の恋の姿です。これを当時の儒学者はどう見たか。中々面白いのであります。 で、図書室に行きますと、なんとも古色蒼然とした本「日本文学研究資料叢書」(有精堂)があり、三巻が「源氏」にあててあります。第一巻の冒頭が、与謝野晶子さんの「紫式部新考」(1928年)。その中に、「もののまぎれに就いて」(山口剛 昭和14年)という短い文章があるのですが、これがまた面白くて、どんどん先が読みたくなるのです。 が・・・明日、自分の試験があります。三冊、120人分。金曜に一冊。趣味の読書は当分お預けとなるのです。
2017.06.12
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普通は、「『忠』ならんとすれば『孝』ならず、『孝』ならんとすれば『忠』ならず」といったふうに使用される場合が多い「忠」と「孝」。 ところが、孔子が使用した「忠」には、「自分を欺かない」と言う意味があります。そして、「人を欺かない」、のちに「上司に献身的に仕える」と言う意味が出て来たようです。 言葉というものは生きているモノであり、どんどん移り変わってゆく、廃れて行ったり、意味が変わったり、時には正反対の意味にもなる、というのは私たちが日常体験していることです。これを日本の儒学者の中で本格的に研究し始めたのが、荻生徂徠。その方法論から影響を受けたのが国学者たちですが、「忠」と言う字に本来「自分を欺かない」という意味があるというのは、まことに現代的なトピックに結びつく要素を持っていると言えます。 「上司への『忠』」を貫こうとすれば、「自分に対する『忠』」がおろそかになってしまう。文科省の現役の職員の方たち、内閣府の職員の方たちの中にもそういう方がいらっしゃるのでは・・・とつい余計なことを考えてしまいます。
2017.06.11
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他策なかりしを信ぜんと欲す」という言葉は、陸奥宗光が、日清戦争の時の外交交渉を回顧した『蹇蹇録』(岩波文庫 p371)に出てくる。 『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』という本は、佐藤栄作に依頼されて、沖縄返還の密使を勤め、この本の出版以後に自死を選んだ若泉敬氏の著作である。 どちらも、政策の形成過程を詳述し、後世に判断を委ねようという意図で書かれている。 世界史でいま、ギリシャを教えているのだが、『戦史』で、トゥキュディデスは、執筆の意図を以下のように記している。 「また、私の記録からは、伝説的な要素がのぞかれているために、これを読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性の導くところふたたびかつてのごとき、つまりそれと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見極めようとするとき、私の歴史に価値を認めてくれればそれで充分である。この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべくつづられた」中公クラシックス p25 資料を残すという事は、未来の法廷で裁かれることを前提としている。それは、己の行動に対する自負に裏打ちされている。 然るに最近、省庁において、「資料を残す」ことを軽視する風潮がみられる。財務省では、パソコンの更新とやらで、森友関係の書類が「合法的に」闇に葬られるようだ。防衛省の「日報問題」、文科省の加計学園関係の「メモ」も、政府は依然として「怪文書」扱いをし、前川氏の人格攻撃にいそしんでいる。 敗戦後の数日間、霞が関では大量の文書が焼却されている。今政府がやっていることは、1945年8月15日直後の数日間を再現しているかのようである。そういう意味では、すでに、「戦中」なのかもしれない。 資料が残っていれば、政策の形成過程を追って、評価を下すことは可能になる。しかし、肝腎の資料が失われてしまえば、評価はくだせない。証拠隠滅を図るのは悪党のすることであるという共通認識がなぜ日本では共有されないのか。 森友学園、加計学園、レイプで逮捕される直前に所轄署から警視庁が捜査権を奪い取り、不起訴に持ち込む。すべて安倍首相のお友達である。これはすでに「法が支配している国家」ではない。その認識も薄い。 お友達を優遇する政府は、かつて中南米の独裁国家でよく見られたし、旧ソ連、或いは北朝鮮でも、中国でも「よくある光景」として批判的に論ずる向きもある。しかし、今や日本がそうなっており、国連の人権担当者から事実を挙げての批判が出てきている。政府はそれをも否定している。 司法と立法府が、機能していない国はすでに近代国家とは言えない。 早く引き返さないと、禍根を残す。
2017.06.02
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