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大宰府の紅梅白梅水仙なにしてる高貴な色なんでしょ白い薔薇黄色い薔薇白鳥神秘な薔薇ピンクの薔薇しずく森の中妖艶蕾洋蘭椿イージス艦の犠牲者の方へ哀悼
2008.02.28
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残念な結果になりましたが、町長選挙の顛末を報告します。 長崎新幹線の賛成、反対が一つの争点でしたが、反対派の多選候補が僅差で当選しました。5選です。組長は3期12年が限度だと思います。 当選した候補は現職を悪用して、区長会(区長は町より報酬を得ている準公務員)名で、各区の区長に選挙の世話人を2名を出すよう指示をだしていた。 これは公選法違反の疑いがある。区長とは中立の立場をとるべきで現職の応援に回るのはおかしい。何名かの区長は、現職と一緒に選挙活動をしている。また、助役、教育長が現職と一緒に個別訪問をしている。特別公務員である助役、教育長は、事実なら地方公務員法、並びに公選法違反である。 一部現職の役場職員、採用に際して、最終決定者である町長により採用され、結婚の仲人などをして取り巻きにした職員が選挙活動をした疑いが濃厚である。これが事実ならば、完全に地方公務員、公選法違反である。 県警も動いているようだが明確な証拠がなければ立件できないので、今のところ逮捕者は出ていない。 県との関係もこれでは、期待がもてない。赤字再建団体に関しては問題ないと強調しているが、はだはだ疑問である。江北町は農業が基盤である。これにかんしても具体的な農業振興策を提示してない。行政人口を増加させなければ地方への交付金削減の現今どうしようもないが、これについても明確な施策も提示してない。抽象的な政策の羅列のみで具体論を一つも示していない。 このような町長に一票を投じた町民に問いたい。あなた方は本当に町の将来のことを熟慮したのか、自己のしがらみ、利権、地縁、血縁のみで投票したのではないかと。
2008.02.27
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道真の死後、京では異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。さらに朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。さらに、子供たちも流罪を解かれた上、京に呼び返され重用された。 また、清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、100年ほど大災害が起こるたびに道真の祟りとして恐れられてきた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになった。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。 道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名で、その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名である。 天満宮は、政治的不遇を被った菅原道真の怒りを静めるため神格化し祀っている神社。怨霊信仰の代表的事例である。「天神」、「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社、祭神の生前の名前から菅原神社、天神を祀ることから天神社などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については。天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がない。 清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が亡くなったことから、道真は雷の神である天神と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道長の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。 道真が生前優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、今なお多くの受験生が合格祈願に詣でる。参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使(祭神の使い)としている。 道真が大宰府に流されていった道筋に主要な天満宮の多くはあり、その内特に道真と関係が深いという北野・大宰府の二つに大阪・防府のいずれかを入れた三つの天満宮については、日本三天神と呼ばれる。 しかし実際には、北野よりも大宰府のほうが天満宮の総本社と見做されることがある。これは、大宰府の本殿が道真の墓の上に建立されたことによる(通常神社は魂のみを祭るだけに珍しい)。
2008.02.18
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菅原道真(すがわらのみちざね、845年~903年)は幼少より詩歌に才を見せ、18歳で文章生となっている。さらに867年には文章得業生となり、その後、順調に昇進し886年に讃岐守を拝任し、4年間の勤めを終えて帰京する。 その後、宇多天皇の信任を受け、以後、要職に歴任することとなる。当時、皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に有力な者がいないこともあって、宇多天皇は道真を用いて、藤原氏を牽制し、天皇による政治を取り戻そうとした。その結果、左大弁・勘解由長官・春宮亮、春宮権大夫、民部卿と昇進していくことになる。 一方、894年に遣唐大使に任ぜられるが、唐が衰退していたこともあり、道真の建議により遣唐使は停止される。しかし、907年に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった。 一方、道真自身も天皇との閨閥を作るため、長女を宇多天皇の女御し、さらに897年には娘を宇多天皇の子・済世親王の妻とするなど姻戚関係を形成し影響力を強めた。同年、宇多天皇が醍醐天皇に譲位するが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求めたため、藤原時平と道真にのみ「内覧」を許し、藤原氏と並ぶ権勢となった。 しかし、道真の主張する中央集権的な政治に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになる。さらに、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じ、反道真の動きに同調する者が増えていった。 道真は899年に右大臣に昇進するが、901年に反道真らにより、済世親王(ときよしんのう、宇多天皇の第三皇子)を皇位に就け、醍醐天皇を退位させ簒奪を謀ったとされ、罪を得て太宰権師(だざいごんのそち)に左遷された。さらに、長男高視を初め、子供4人が流刑に処された。道真は903年大宰府で没し、同地に葬られた(現・大宰府天満宮)。
2008.02.17
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199年、許都にて曹操誅殺の陰謀に加担。実行に移せぬうちに袁術の北上を阻止するために徐州に派遣される。ここで曹操に反旗を翻すがたちまち打ち破られ、妻子と関羽を生け捕りにされて、袁紹の元に身を寄せる。官渡の戦いが始まると、袁紹の別働隊として許都の南方の汝南に回りこみ曹操の背後を脅かしたが、袁紹が敗れると荊州の劉表を頼っていった。以後7年間、荊州で平穏な日々を送る。この間、諸葛亮を「三顧の礼」をもlちて迎え、優秀な人材を集める。 208年、烏丸討伐から帰還した曹操が南征を開始。急死した劉表のあとを継いだ劉綜が戦わずして降伏した為、夏口まで落ち延びる。諸葛亮を呉に派遣して同盟を締結し、「赤壁の戦い」にて曹操を撃退する。翌年、荊州の牧となり長江以南の四郡を手に入れ初めて根拠地を得る。211年、蜀の領主劉障の招きに応じて蜀に入ると翌年、彼に反旗を翻す。214年成都を陥落、益州の牧となる。219年、漢中を曹操から奪取。魏王となった曹操に対抗し漢中王を称す。しかし、魏呉の挟撃により関羽が戦死し、荊州を失う。「関羽の仇」を討つべく群集の反対を押し切り東征を開始するが、夷陵の戦いで呉に大敗。白帝城にて病に倒れ、223年死去す。身を屈して、分を守り、天の時を待つ。劉備(161年~223年)
2008.02.14
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劉備は蜀(蜀漢)の初代皇帝で、後漢末から三国時代の武将である。前漢の中山靖王劉勝(景帝の皇子)の庶子の陸成亭候・劉貞の末裔と称し、草履売りなどをして生計を立て、15歳の時に儒学者として名高かった魯植の元で公孫讃らと共に学ぶ。桃園の誓いにより、関羽・張飛と主従関係を結ぶ。 184年に黄巾の乱が起こると地元の若者を組織し、黄巾の乱討伐軍に参加すると、その効により県の警察署長に選任される。その後、黄巾賊に敗れ公孫讃のもとに身を寄せる。公孫讃のもとで別働隊参謀として袁紹との戦いに参戦。平原郡の執政官となる。このころ趙雲が配下となる。192年、界橋の戦いで公孫讃が袁紹に大敗すると、徐州におもむき陶謙を助け曹操と戦うが、陶謙が病に倒れたため徐州の牧を譲り受ける。しかし、その座を呂布に奪われ、許都の曹操のもとに身を寄せる。曹操とともに呂布を滅ぼすと、朝廷より左将軍を拝命する。
2008.02.13
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唯我独尊7さん提供 下巻(しもつまき)には仁賢天皇から推古天皇(日本最初の女性天皇)までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述にとどまり具体的な著述が少ない。これは、書かれた当時においては、時代が近く自明のことなので書かれなかったなどと言われている。 追記 以前太安万侶の墓が発見された。何故、彼の墓であるかが分ったのは墓誌名が書かれたものが一緒に埋葬されていたからである。残念ながら天皇陵に比定されている古墳から、墓誌名が記されている発掘は一件もない。 イザナギが訪れた「黄泉の国」は、古墳内部を描写したものだと思っている。 天照大御神の天岩屋戸に閉じこもる話は、「日食」をモチーフにしたもので、紀元200年頃に日食が実際あったことが証明されている。 スサノオノミコトに関しては、出雲大社に注目する必要がある。普通神社にお参りする場合二拍二礼であるが、「出雲大社」と「宇佐神宮」のみは四拍である。歴史の秘密が隠されている気がする。
2008.02.11
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中巻(なかつまき)には初代神武天皇から十五代応神天皇までを記す。神武東征に始まり、日本武尊(ヤマトタケル)や神功皇后の話など神話的な説話が多く、神の世と人の世の間の時代であることを示している。二代から九代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述にとどまり、説話などは記載されていない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であると説かれているが、実在説も存在する。なお、「神武天皇」といった各天皇の漢風諡号は、「古事記」編纂の時点では定められていないため、国風諡号のみで記されている。なお史実性が確認されているは応神天皇以降である。神功皇后と卑弥呼を同一視ないし関連づける説もあるが、一般にに受け入れられるには至っていない。
2008.02.10
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一方、スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなって有名なヤマタノオロチ退治を行う。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の因幡の白兎や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナと共に国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は、葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂に降臨させる。次にニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎の説話のルーツとも言われる、海神の宮殿の訪問や異属の服属の由来などが語られる。山幸彦は海幸彦の娘と結婚し、彼の孫の神武天皇が誕生することをもって、上巻は終わる。
2008.02.09
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天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。そのなきがらは比婆山(島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。 イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミニミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。これら三神は、三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関しては、その誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉の天照大御神に反逆を疑われる。そこで、天照大御神とスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って狼藉を働いてしまう。我慢の限度を越えた天照大御神は、天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で引き出すことに成功する。(日本最初のストリップ)
2008.02.08
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古事記は、稗田阿礼が暗誦していた「帝紀」(天皇の系譜)・「旧辞」(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。712年(和銅5年)に元明天皇に献上された日本最古の歴史書で、上・中・下の全3巻に分かれている。 「古事記」は、帝紀的部分と旧辞的部分とから成り、天皇系譜が「帝紀」的部分の中心をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、およびその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩御干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬のもがりの祭儀などで誦み上げるならいであった。それが6世紀半ばになると文字によって書き表された。「旧辞」は宮廷内の物語、天皇家や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。 おそらく、聖徳太子が編纂し、蘇我蝦夷が自殺した後、焼け跡から持ち出されたものが残っていた可能性が高いと考えている。 構成は、上つ巻(序・神話)、中つ巻(初代から十五代天皇まで)、下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っている。内容は、神代における天地(アメツチ)の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。 上巻(かみつまき)には天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦までの神代の話を記す。いわゆる「日本神話」が記されている。
2008.02.07
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紅梅なんでしょうツグミ白梅神秘水仙アニメ鷺ラン・スー・ミキ春よ来い
2008.02.05
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その他、アブダグション現象には、時間の喪失、記憶の喪失などがあげられる。具体的には周囲の物や環境の変化も報告されている。トランスミッションを後からMRIで発見した、手術によって取り出した、とする事例もある。 また、本の内容などが変わっていたり、テレビなどから普段と違う放送などを見るケースもあり、これらの体験者は、UFOあるいは宇宙人が、「人間にはできないかなりのハイテクの持ち主」であることを信じる人が多い。また、実験体験とは別にアブダクション中に宇宙人と話した体験者もいる。平和や環境保護についての警告を受けている事例がいくつかあるが、これは破壊の予告ではなく、保護することによって地球と人類を守ることを意味しているとの説が多い。 聖書とUFO 聖書の文章をUFOに関すると解釈する主張はしばしば見られる。古代宇宙飛行士説と関連づけて解釈されることもある。真っ先に挙げられているのは、イエス・キリスト誕生の際に現れたという「動く星」である。キリスト誕生のとき東方の三博士は動く星に導かれ、星は厩の上にとどまった、というものである。 また、旧約聖書・エゼキエル書第1章には、輝く人の姿をした生き物の横に輪があり、輪はその生き物の動きに従って移動し、屋根のようなものの上には椅子があり、人の姿をした者がいた、と記述されている。これもUFOとその搭乗者として解釈されることがある。 キリスト教の絵画にはUFOらしきものが描かれていることがある。「受胎告知」。「雪の奇跡」、「聖母と聖ジョバンニーノ」、「キリストの洗礼」。「三位一体」、「キリストの磔刑」など枚挙に暇がない。描かれている内容も、「円盤が光線を発射している」、「円盤を見上げる人がいる」、「円盤が火を噴いて飛行している」、「2つの円盤が飛行しており、それぞれに表情の異なる人物が搭乗している」など、意図的に描いたことは明らかである。
2008.02.04
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メキシコ空軍UFO事件 2004年3月5日、メキシコのカンペチェ州南部で通常の麻薬取引警戒任務を行っていたメキシコ空軍機の上空に十数機の未確認飛行物体が出現。未確認飛行物体はその後数分間に渡って空軍機の周辺を囲むように飛行し続けた。当初空軍機のパイロットは未確認飛行物体を麻薬密売組織の飛行機ではないかと考えたが、その後この飛行物体の3機はレーダーにも捉えられたが、目視確認はできなかつた。 その後5月11日にメキシコ国防省はこの時に撮影されたビデオを公開し、未確認飛行物体であることを公式に認めたことにより、このビデオは世界中のマスコミによって報道された。なお、この事件の前後にはメキシコ国内で未確認飛行物体の目撃、撮影が相次いだこともあり、メキシコ国内だけでなく世界的に話題となった。 アブダクション アブダクション(誘拐)の事例報告は年々世界で増えている。体験者によると、UFOによりUFOの中に誘拐され、医学的な手術を受けたり、小さなトランスミッション(発信機)を埋め込まれたり、実験や研究の対象となったという証言、場合によっては性の対象となったという報告もある。 2006年に放映されたアメリカのテレビ局「ヒストリーチャンネル」の番組内においては、妊娠8ヶ月の女性がUFOによってアブダグションされて、おなかのなかの子供を取り出されれたという。アブダグション後、彼女のおなかの子供はこれによって体内から消えた。その後数年して彼女は再びアブダグションされたが、その際に自分の子供rしき子供をUFOで見る。その子供は宇宙人とのハイブリッド(混血)だったようだと語っている。
2008.02.03
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BOAC機事件 1954年6月、ニューヨークのアイドルワイルド空港を離陸し、ロンドンへ向かった英国海外航空(BOAC)のボーイング377「ストラトクルーザー旅客機」のハワード機長は、上空を飛ぶ巨大な葉巻型のUFOとそのUFO周囲を守るように飛ぶ小さな6機の小型UFOを目撃した。 同機とUFOはしばらく平行して進み、やがてカナダのニューファウンドランド上空でアメリカ空軍の戦闘機が接近すると、小型UFOが葉巻型の母船内に収容されるとともに母船が縮小し、やがて飛び去った。なお、この一連の動きは同機の他のパイロットや客室乗務員、乗客によっても目撃された。 トリニダーデ島事件 1957年12月から翌年の1月にかけて、ブラジル海軍が国連地球観測年に向けての観測基地を南大西洋に浮かぶトリニダーデ島周辺に設営する際に、数回にわたり観測隊員や島民が円盤型の飛行物体や光を目撃した。 1958年1月1日にはブラジル海軍長官と観測隊員がトリニダーデ島周辺を飛行する光体を目撃。同月15日と16日には海軍練習船アルミランテ・サルダナ号が観測船としてトリニダーデ島に接近したときに円盤型の飛行物体が出現し、カメラマンのアルミーロ・バラウナが写真の撮影に成功した。後にブラジル海軍はこの写真を公開すろとともに未確認飛行物体の存在を公式に認めた。 調査船「開洋丸」の遭遇記録 1998年の日本版「サイエンス」誌9月号に、観測・調査の複数の専門家が目撃証言した科学的記録として、水産庁調査船「開洋丸」の遭遇記録が掲載された。 一度目の遭遇は、1984年12月18日に、南アメリカ大陸南端付近のフォークランド島付近で不規則な運動をする発行物体を観察。二度目の遭遇は、1986年12月21日に、北緯26度の日付変更線付近において、船の周囲でマッハ4の速度で音もなく飛行し180度ターン等の不規則運動をする、巨大タンカーほどのレーダー映像を確認したが、肉眼では見えない不可解な現象に遭遇した。飛行物体は「船の真上を通過したとき自動車ほどの音を出した後、最後に発行して消えた」との記録を残している。
2008.02.02
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しかし1978年になって、破片回収を行った軍人ジェシー・マーセルに対してUFO研究家がインタビューを行った際、マーセルはこの事件を軍による隠蔽とする意見を表明した。この話題はUFO愛好家の間で関心を持たれるようになり、1980年にはタブロイド紙「ナショナル・エンクワイアラー」がマーセルへのインタビューを載せたことで、広く世間に知られるようになった。 「ロズウェル事件」が有名になると、既に30年以上経過していたにも関わらず、軍の圧力があったとする証言や「政府の秘密文書」などが多数表れるようになった。「ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム」なるものまでが現れた。1997年には、アメリカ政府より正式報告書「ロズウェル・リポート」が改めて発行された。この報告書では「当時墜落したのは実は秘密実験に使用されていた気球で、後に発見された異星人の死体と言われるものは高度での人体への影響を調べるための観測用ダミーである」としている。 政府見解を信じない人々の全てがエイリアンクラフト説というわけだはなく、他にも様々な説が唱えられている。その一つとして、1940年代から開発されてきた電磁力推進方式の円盤型航空機をアメリカ軍が改良・製造する過程で、飛行試験中の機体が墜落したのではないかという説もある。この説は異星人などの存在を必要としないが、電磁力推進方式の航空円盤が実際に高空を飛ぶほど開発が進まなかったため、あまり信じられていない。 なお、この事件で有名になったロズウェルは、その後もUFO目当てに世界中から訪れる観光客が後を立たず、現在は町の中心地にUFO博物館が建設され、町のところどころでUFOや宇宙人を模した土産物が売られるなど、まさにUFOがこの町にとっての町おこしの道具になっている。同様に、ロズウェル事件で回収されたUFOが秘密裏に運ばれ修理されたといわれるネバダ州の砂漠地帯にある空軍基地、「エリア51」周辺でも起きている。
2008.02.01
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