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北条政子(保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は源頼家、源実朝、大姫、三幡姫。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局など。 伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後は出家し、尼御台(あまみだい)と称された。法名を安養院と呼称した。頼朝の跡を継ぎ鎌倉幕府の将軍となった嫡男頼家、次男実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として擁立された幼い藤原頼経の後見となって幕府の事実上の実権を握り、俗に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は健保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。 政子は伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。伊豆の在庁官人であった父時政は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中で留守の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。 この頃の政子と頼朝に関する史料はないが、「曾我物語」によると二人の馴れ初めとして「夢買い」の話がある。政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれた、とある。 治承元年(1177年)、頼朝と政子の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平氏の一族であり、平氏政権の成立とともに目代となり伊豆での平氏の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。 この時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べている。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。
2008.09.30
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庭の柿 継体天皇6年~7年のいわゆる「任那四県二郡の割譲」については、そもそも「任那日本府」をどう捉えるかによって解釈が分かれてくる。日本府の存在を否定する井上秀雄は、百済が半島南東方面へ勢力を伸長して伽耶諸国地域を領有するにあたって、第三者立場にあるヤマト王権の調停を要請し、ヤマト王権が百済に有利な裁定を行ったために伽耶諸国にそのことを了解させて領有を果たした、言わば百済の外交にヤマト王権が利用されたものと見ている。また、同じく田中俊明は、百済が自らの力で領土を拡大していったことを記した「百済本紀」などの史料を、「日本書紀」が改変して用いたものと見ている。日本府についての倭の軍事を主とした外交機関として捉える吉田孝は、任那加羅(駕洛国・金官伽耶)が高句麗・新羅への対抗手段として倭の軍事力を利用しようと当該地域に倭人を移住させたとし、倭系豪族が百済の支配下に入ったことを割譲と言っているとしている。庭の花 523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、「日本書紀」は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、一部には武寧王は若い頃倭国に滞在しており、淳陀は倭国で生まれ、そのまま滞在していたと主張する説がある。 「続日本紀」によれば、桓武天皇の生母の高野新笠は、この淳陀太子を遠祖とする百済系の帰化氏族和氏の出自であるとしている。新笠は皇后になることはできなかったが、桓武天皇の生母として皇太夫人っと称された。 1971年に忠清南道公州市(かっての熊津)の栄山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。 和歌山県隅田八幡神社旧蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に、「癸末年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」(癸末の年八月十日、男弟王が意沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る)とあり、「癸末年」(503年)、「男弟王」(継体天皇か)が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいたとき、鏡を作らせて男弟王の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。
2008.09.29
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武寧王(ぶねいおう、462年~523年)は百済の第25代の王(在位:502年~523年)。「三国史記」百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。「梁書」では余隆(余は百済王の姓)、「日本書紀」雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋歯王)の弟軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では「百済新撰」の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯摩王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋歯王の子であろう」としている。「三国遺事」王暦では「三国史記」と同じく、諱を斯摩とする。 武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年と判明しており、この年は雄略天皇5年、蓋歯王7年である。 東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛視佐平(禁軍を司る1等官)のハク加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかって高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの行都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王から使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。 武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋歯王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。 一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(東城王)が暴君であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。 継体天皇6年(513年)に、任那のオコシタリ(現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・アロシタリ(忠清北道錦山郡及び論山市)・婆陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟呂(ムロ、全羅北道鎮安郡竜譚面)の4県、7年(514年)にコモム(全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊禰に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。
2008.09.28
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各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江南に逃れた。煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての機能は失われていた。 618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊旱(13歳)と共に50歳にして殺害された。 煬帝は歴史上の暴君と描写されその業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを完成し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗ってこれを行幸するということを行ったために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世の小説などに書かれることになる。 しかし大運河の建設は長期間分裂していた中国を統一するための大事業であった。 また、その環境や行動に類似点の多い唐太守の正当性を主張するため、煬帝と言う貶字を諡号に用い、「隋書」にも暴君であるように編纂された可能性が指摘されている。 煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮風・アーサー・F・ライトなどが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像が後世の小説などにより誇張されたとする点では共通している。後継争い及び群雄蜂起の際に皇帝の責務を放棄して逃げ出した件を除けば、全体的に3度の減税が行われるなどその治世は善政であったとも考えられている。叛乱に関しては暴政に起因するものでなく、性急な高句麗遠征とその失敗による求心力の低下と事態収拾の失敗が反乱の原因であると考えられている。 煬帝は統治者としては失格であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行ったとされる。治世後半は自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。 飲馬長城窟行 突厥との戦いに赴く遠征軍の雄姿を描き出す。 春江花月夜 静寂におおわれた長江の夕暮れを描写。 野望 静かな村を描写。 第二回遣隋使(607年)が倭国から派遣されたのは煬帝の治世である。倭王(一般に多利思北狐は厩戸皇子(聖徳太子)とされる)から煬帝に宛てた国書の書き出しは有名である。煬帝はこの対等外交の姿勢を表す文面に激怒したが、当時隋は高句麗遠征を控えており、外交環境から倭国との友好関係が必要と判断し、斐清を倭国へ派遣した。遣隋使は、煬帝在位中には第二回も含めて計4回派遣された。
2008.09.27
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鷲の置物 煬帝(ようだい:569年~618年3月11日在位604年~618年)は中国隋朝の第2代皇帝。諱は広、廟号は世宗、諡は明帝。煬帝とは唐王朝による追諡である。中国史を代表する暴君とされる。 文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智誼より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智誼に対しては「智者」の号を下賜されている。青龍 生母独孤皇后は非常に貞操意識が強く、文帝に対して「自分以外には子を産ませない」と誓わせている。文帝は倹約を是としていたが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため皇帝に嫌われ、この状況を楊広が利用、両親の甘心を得るため自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素と張衝らによる諫言を行い、楊勇を廃立し自ら皇太子の地位に就いた。 604年に文帝の崩御に伴い即位、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとし暗殺されたとの俗説が以後根強く残った(この説については隋書でも言及されている)。庭石 即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また禁止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感は九族に至るまで処刑されている。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また百万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させこれを使い江南からの物資の輸送を行うと共に、美女宝物を運搬させた。 対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。更に612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は三度実施されたが失敗に終わり、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第二次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。
2008.09.26
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龍の掛軸遣隋使の派遣 600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ倭国は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(「隋書」倭国伝) 607年(推古15年)~608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。「日出処の天子・・・・」の国書を持参した。小野妹子、斐世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(「日本書紀」、「隋書」倭国伝) 608年(推古16年)~?(「隋書」煬帝紀) 608年(推古16年)~609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)・南淵請安ら8人、隋へ留学する。隋使斐世清帰国する(「日本書紀」、「隋書」倭国伝) 610年(推古18年)~?第4回遣隋使を派遣する。(「隋書」煬帝紀) 614年(推古22年)~615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(「日本書紀」) 618年(推古26年)隋滅ぶ。遣使の「日本書紀」と「隋書」の主な違い 第1回遣隋使は「日本書紀」に記載がなく「隋書」にあるのみ。 ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、「日本書紀」では「隋」ではなく「大唐国」に遣使を派遣したとある。 「日本書紀」では斐世清、「隋書」では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して斐清となっている。 小野妹子の返書紛失事件は「日本書紀」にはあるが「隋書」にはない(「隋書」には小野妹子の名前自体が出てこない)。 「隋書」では竹斯国と秦王国の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪摩堆」とあることから、都は「邪摩堆」にあったと推察される。庭の柿庭のムラサキシキブ
2008.09.25
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庭の薔薇第二回(607年) 第二回目は、「日本書紀」に記載されており、607年(推古15)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。 倭王から隋皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書が、「隋書」「東夷伝倭国伝」に「日出処天子致書日没処天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云云)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以って聞するなかれ」と命じたという。無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな、というのである。 なお、煬帝が立腹したもは倭王が「天子」を名乗ったことについてであり、「日出処」「日没処」との記述にではない。「日出処」「日没処」は「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈書「大智度論」に日出処是西方とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったことも考えられている。地蔵 小野妹子は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である斐世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。この事は、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が返書を破棄してしまったのではないかと推測される。 斐世清が持ってきたとされる書が「日本書紀」にある。 「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至極に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」 これも倭王となっており、天子とは認めずあくまで倭王を臣下扱いにする物である。「日本書紀」によるこれに対する返書の書き出しが東の天皇が敬いて西の皇帝に白すとあり、隋が王とした所を天皇としている。これを持って天皇号の始まりとする説もある。狛犬
2008.09.24
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庭の無花果 遣隋使(けんずいし)とは、推古朝のわ國(倭国)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8)~618年(推古26)の18年間に5回以上派遣されている。 なお日本という名称は遣唐使のときから使用された。 大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川。細井川駅)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を九州へ向かい、そこから玄界灘に出る。 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。天子社の石第一回(600年) この派遣第一回開皇20年(600年)は、「日本書紀」に記載はない。「隋書」「東夷伝わ國伝」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。 開皇二十年、わ王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雉弥と号(な)づく。使いを遣わして蕨(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、わ王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出て政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理努を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於いて訓(おし)えて之を改めしむ。 わ王(通説ではわは倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤り多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコ、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雉弥はオホキミで、大王とされる。 開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この時派遣された使者に対し、高祖は所司を通じてわ國の風俗を尋ねさせた。使者はわ王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雉弥」と云うと述べている。ところが、高祖からみると、わ國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのであろう。そこで改めるように訓令したというのである。庭石
2008.09.23
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掛け軸 始皇帝は大土木事業を好み、これが外征への負担と並んで民衆を圧迫したため、暴君とされる理由の一つとなっている。ただし、万里の長城建設は必要性の高い事業だった。匈奴は始皇帝の少し後の時代に冒頓単干が立って強大になり、秦を倒した前漢に大勝している。その前から匈奴が強勢になりつつあったからこそ、長城を築き、蒙恬に討たせたと言える。 しかし、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮(「阿呆」の語源と言われる)、1974年に一部分である兵馬俑が発見されて、あまりの巨大さに研究者を驚倒させた始皇帝陵の造営などは、必要性に欠けた。財政に負担をかけ、その人夫徴用から陳勝・呉広の乱が生まれたことからして、秦の崩壊の直接的な原因であるといえる。兵馬俑 始皇帝に先見性があり有能であったことは、始皇帝を嫌う人でも認めている。始皇帝が非常に人材を好んだエピソードは韓非、尉繚子などに対しての話が残っている。秦が崩壊した原因の一端は間違いなく始皇帝にあるが、その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる。 儒教を元にした伝統的な立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は悪逆非道であり、暴君の中の暴君と位置づけられていた。しかし最近では、始皇帝はそれまでの封建的な世界を法の下に近代的な国家へと生まれ変らせたとして、肯定する意見も出てきている。それまでとはまるで違った社会を誕生させたのは、始皇帝の才能にとる部分も大きいのは事実であるとの評価もある。漢が前漢・後漢を合わせて約400年続いたのは、秦からの成果を(秦と異なって)民衆の恨みを受けることなく受け継いだことによる部分が大きい。庭の花 とはいえ六つの文化背景の異なる国を統一した後の急激な中央集権化、当時の官吏たちの資料から伺える厳格な法治主義、統一まもない内からの大掛かりな造作などが、被征服民のにならず自国の民衆の反感をかったことは事実であり、始皇帝が伝統的なイメージ程ではないにせよかなりの独裁者であったことは事実である。また、さまざまな厳しい法律の強化によって多くの民衆を虐待したのみならず、自分のやり方に反対する者を誰として許さず、自分を諫めた者たちに対しても容赦ない仕打ちを加えたり、焚書に関しても、秦を除く国々の識字層(=政治に預かる立場の人々)からの憎悪を招くことになり、彼らが秦を見限る要因ともなった。 中華人民共和国建国後の中国では、文化大革命発動後の林彪失脚を受けての批林批孔運動の高まりの中、始皇帝、焚書坑儒を階級闘争であると規定し、賛美する論文が続出した。魯迅も、始皇帝の焚書坑儒を、ナチスの焚書とは明白に区別しており、肯定的に評価している。
2008.09.22
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天子社の狛犬 始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、統一したころから不老不死を求めて、方士を傍に近づけるようになった。特に有名なのは徐福である。2度目の巡遊の途中、斉に立ち寄り、徐福に東にあるという蓬莱の国へ行き、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は日本の事を指していると言われ、日本各地に徐福の最期の地といわれる場所がいくつもある(徐福伝説)。 徐福にせよ他の方士にせよ、最初から不老不死などできるとは思っていなかったと思われ、かつて人材を見極めることに驚異的な鋭さ見せた始皇帝も晩年にはこのような人物によいように騙されていた。方士以外でも、始皇帝は悪名高い趙高なども身辺に近づけるようになった。始皇帝は咸陽周辺の数百の宮殿を復道・甬道でつなぎ、あまり表に出ず、趙高などを通して命じることが増えた。庭のムラサキシキブ ある時に方士が持ってきた預言書に「秦を滅ぼすものは胡なり」と書かれているのを真に受けて、蒙恬に30万の兵を与えて胡(異民族)を討たせて安心している(この胡は異民族の事ではなく、2世皇帝の胡亥の事だと後に言われた)。 元より体が強くなかった始皇帝は、方士が飲ませた薬(水銀という説がある)でさらに体を悪くしと思われる。紀元前210年に5度目の巡遊を行い、みずから海へ出て大魚を射殺したが、その直後に発病。咸陽へ帰れないまま、巡遊の途中で死去した。死去したことは趙高によって巡遊の旅が終わるまで隠され、始皇帝の遺体を乗せた車が死臭で臭うことになると、趙高が始皇帝の車の後ろに魚の干物を乗せた車を走らせ、必死に始皇帝の死を隠した。 始皇帝は長子の扶蘇を跡継ぎとする遺言を趙高に渡していたが、扶蘇が二世皇帝になることで自らの身が危なくなることを恐れた趙高と李斯が結託して、胡亥が跡継ぎとなる遺言を捏造した。始皇帝が死んだ翌年には陳勝・呉広の乱が起き、秦は滅亡へと転がり落ちていく。 始皇帝の子孫は、二世皇帝の胡亥の権力を脅かすとして趙高らによりあらぬ罪を着せられて胡亥以外の子孫のほとんどが処刑され、また、胡亥死後に秦王となった子嬰も秦を下した項羽によって処刑されて、根絶やしにされた。枯木
2008.09.21
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万里の長城 紀元前214年、北の匈奴に備えるために万里の長城を修復し、将軍蒙恬に30万の兵を与えて北方へ派遣して匈奴を討たせ、オルドス地方に版図を広げた。また罪人を兵として使い、南の嶺南(ベトナム北部)を征服し、ここにも郡を置いた。その際に揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河霊渠を築いた。 紀元前213年に李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒学者達の書物を焼き払わせた。ただし医療や農業などの実用書は許した(焚書)。翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生と廬生が、仙薬ができないことで恐れて逃亡した。怒った始皇帝は咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにした(坑儒)。このとき、恐れた学者たちは互いに罪をなすりつけ合った。後に、長子の扶蘇が始皇帝のやり方に対して諫めたが、始皇帝はこれに怒って扶蘇を北方の蒙恬の元へと送り、防衛に当たらせることにした。 始皇帝は自らの領土を大行列を引き連れて巡遊することを好んだ。この巡遊は全部で5回に及び、全国の交通網整備を進めた。この巡遊には、後の天下の覇権争いを行う項羽と劉邦が見学しており、項羽は「いずれ天下を奪い取る」と述べ、一方の劉邦は「男はああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。 紀元前219年の2度目の巡遊の途中、始皇帝は泰山で封禅の儀式を行った。この儀式の方式を古例に詳しい儒家に問うたが、封禅の儀式などは最早太古の昔の話であって儒家の言うこともまちまちになっており、怒った始皇帝は儒家の言うことを無視して、儀式を執り行った。記念として泰山刻石を置いた。 紀元前218年の3度目の巡遊の途中、博浪沙(はくろうさ)に通りかかったときに、突然空から大きな鉄槌が始皇帝の車めがけて降って来た。張良による始皇帝への暗殺の試みである。鉄槌は副車に当たり、始皇帝は命拾いをした。怒った始皇帝は犯人の捜索を命じたが、見つからなかった。天子社の石
2008.09.20
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庭の青龍 戦国時代には、七国の君主すべてが王を名乗っていた(ただし一時期、秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはあった)。統一という大事業を成し遂げた後の新時代には、そのような旧来の称号はふさわしくないと考えた政は、家臣たちに新しい称号を考えるように命令した。 家臣たちは、「むかし天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇がおり、その中で泰皇が最も尊かったといいます。陛下はこの泰皇の名を取り、新しい称号にすればよいと存じます。」と言った。しかし、政は以前にあった名前を使うことが気に入らず、「泰皇の泰を取り、太古の帝号を付け皇帝と号することにする。」と宣言した。 このときに併せて王命を制、王令を詔、天子の自称を朕(後に真人に改めた。ただし、使用は始皇帝のみで、彼の死後、再び朕に戻される)と呼ぶことに決めた。更に、諡号の制度は子や臣下が先君を批判することになるので不敬だから廃止することに決め、以後は自分を始皇帝とし、二世皇帝、三世皇帝。。。万世皇帝と永遠に続けていくとした。 臣下たちは広大な領土を治めるのには各地に始皇帝の子らを封建して治めさせることを始皇帝に進言したが、李斯は周が封建した諸侯に逆に滅ぼされたことを例に挙げて反対し、全国的に郡県制を布くべきだと進言した。始皇帝はこれを容れ、全国を36郡(後に48郡)に分割し、それぞれに守る(行政担当)尉(軍事担当)・監(監察担当)といった官吏を置き、郡の下には県を設置し治めることを決めた。そのうえで亭と呼ばれる交番を制度化して10里ごとに置き、人夫徴発や治安維持、官吏用宿泊施設として役立てた。首都・咸陽には全国の富豪12万戸を強制移住させた。さらに滅ぼした六国の王宮に模した建物を咸陽に建てた。 始皇帝は、民間人の武器所有を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作った。さらに度量衡(度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位)、貨幣、車の幅を統一(「軌を一にする」の故事)した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。 ここに、後世の統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を持つ国家が誕生した。
2008.09.19
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始皇帝(紀元前259年1月~紀元前210年7月)は、中国秦の王ないし皇帝。姓はえい、氏は趙(ちょう)。諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー)または始皇帝皇(チンシーホワン)という。 もともと秦の王であり、紀元前246年~紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。 政の父、子楚(後の壮喪王)は趙の人質となっていたが、大商人呂不偉の力を借りて帰国し、秦の王になることができた。このときに子楚が呂不偉の愛人をもらい受け、この愛人が政の生母となる。 しかしその愛人は、子楚に渡されたときにはすでに身ごもっていたと言われる。つまり始皇帝の父親は子楚ではなく、呂不偉であるということになる。この話は当時かなり広く流布していた話らしく、「史記」では呂不偉列伝に事実として書かれているが、秦始皇本紀には書かれていない。司馬遷は両論併記の形をとったのであろう。「史記」秦始皇本紀所収の班固の上書とされる部分では「呂政」と書いて、はっきり始皇帝は秦の王室の血ではないと言い切っているが、これは秦王朝の正統性を否定するためという意味合いが強い。 しかし、同時代の春申君に同様の話があることなどから、事実ではないとする歴史家もある。また、子楚が後見人である呂不偉の愛人に手を出して懐妊させてしまったために、呂不偉がやむを得ず愛人を子楚に差し出したのではと見る歴史家もある。 この話が広く流布した背景には、始皇帝によって滅ぼされた六国の遺民たちの恨みがあり、始皇帝に不利な話が広まる要因になった可能性がある。 政について史記には、鼻が高く、目が長く、声はヤマイヌの如くで、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主と記載されている。 帰国した後は壮喪王を擁立した功績で、呂不偉が丞相として権力を握った。紀元前246年父壮喪王が死に、13歳にして政が秦王となる。即位後すぐは呂不偉が実権を握り、年若い政はまだ政治は執れなかったが、弟の成橋の謀反と実母の愛人であるロウアイが起こした反乱を鎮圧し、紀元前238年には呂不偉を中央から遠ざけ、親政を始めた。 呂不偉を殺す前に呂不偉の元から李斯を得て、李斯の主導の下に法家の思想から君主独裁、郡県制、厳罰主義をいっそう推し進め、強力な独裁権を手に入れた。また、有能な精鋭だけの軍隊こそ秦にふさわしいとして秦の軍隊の少数精鋭化も断行した。外征面では王前、王噴親子や李信などを起用し、次々と他国を滅ぼした。 紀元前227年、燕の太子丹は隣国の趙が秦に滅ぼされ危機感を抱き、起死回生を図って政に対して刺客の荊可を送りこんだ(巻物の中に剣を隠して政に近づいたとされる。殿中においては剣を抜くことは法令により禁止されていたので家臣は剣を抜けなかった)。政はあわやというところに追い詰められたが、侍医の機転により命拾いをし、荊可を斬り殺した。暗殺されかけたことに怒った政は王噴に命じ、燕を攻めて翌年に滅ぼした。 紀元前221年、六国の中で最後に残った斉を滅ぼし、中国を統一した。
2008.09.18
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ピンクの薔薇 「三国史記」高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「高」(こう/コ)としている。しかし、建国の当初から中国式の姓を称していたわけではなく、当初の5代慕本王までは扶余の氏族名である「解」(かい/ヘ)を本姓としており、後に王姓が「高」とされたことからの遡及記述であると見られている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現れており、「高」姓とともに記録に残ったのは「宋書」における長寿王が最初であるが、高姓の由来としては、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものと見られている。長寿王以後は「高句麗王・高連」というように中国式に姓名表記がされるようになった。それ以前には中国式の姓をもっていなかったか、自民族の固有語・土着語による姓(部族名)のようなものがあった可能性はあるが、記録からは確認できない。 高句麗には有力な地縁的集団が5つあり、これを五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂呂部)という。王は消奴部から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。これら五族は一定の地域を地盤とする部族国家であり、初期の高句麗は部族連合の態をなしていたと見られている。2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。3世紀前半の東川王の時代には魏の攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部のみに与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或は黄・前・後・左・右)の五部に改称された。この改称については地縁的部族に由来する貴族勢力の衰退とも見られるが、貴族層の構成要員が地縁的部族の有力者から王の直属の官僚へと移り変ったことによるものであり、新しい貴族層によって中央集権化が強められたものと見られている。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗の五部坊里、李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。 「三国史記」によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のものとして見られ、百済でも同様に左輔・右輔を最高位の官名としていた。高句麗では第8代新大王のときにそう上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が始めてその位についた。 「三国志」や「後漢書」などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には10段階の官制が整っていたものと考えられている。「隋書」や「新唐書」に見られる官位名についても異同は著しいがそれぞれ12階とし、第15代の美川王(在位:300年~331年)の時代に王権の下に、一元的な13段階の官制に整備されたと考えられている。 高句麗の末期に大対呂の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし、マンニジ)の位について専権を振るった。莫離支そのものの名称は「三国史記」職官志では「新唐書」を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている。
2008.09.17
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高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から漢文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった。 6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると、契丹などが弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。「三国史記」には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹などが隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。 やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略から突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗が唐に滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。畑の彼岸花 長野県には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように日本各地に分布する。 甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)・武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)・河内国大県郡巨麻郷・河内国若江郡巨麻郷・山城国相楽郡大狛郷、下狛郷 4世紀末から5世紀にかけて倭国と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗の関係も友好的なものになり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「鳥羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰璽によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と日本との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に訪れて後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に訪れて顔料や紙墨を伝えた曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、淵蓋蘇文のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。 668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建部された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも「新撰姓氏録」には以下のような高句麗系氏族が見られる。 狛人・狛造・狛首・狛染部・大狛連庭の灯篭
2008.09.16
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灯篭 朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は秦封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は、同時期に滅亡した渤海の難民を同胞として積極的に迎え入れた。 また、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。 日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。青龍 高句麗は、扶余から出た別種である。(「旧唐書」高麗伝)。高句麗は本来扶余の別種である(「新唐書」)という記述もあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れれていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている。但し、「魏書」百済伝の百済王蓋歯王の上表文には、「臣と高句麗は源は扶余より出る」(臣興高句麗源出扶余)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の扶余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、妖且・歳・百済(王族)などが朝鮮半島に広く分布し、高麗王朝以降、「朝鮮民族」のアイデンティティーが確立されてゆく中で、半島南部の韓族とともに民族を構成していった一部とみられている。 高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとあいて重要視されている。前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。 朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、「三国史記」高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊佛蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったことと見られる。広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、「道徳経」などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。
2008.09.15
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桜と楠 遷都直後は大城山城を拠点とし、しばらくしてから平壌城を居城とした。長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州を領有するに至り、高句麗の最盛期とされる。しかし5世紀末になると盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国の南北朝の両面に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結びながら包囲していく戦略を採ろうとしていた。 中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結びつこうとした。そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退することに成功し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳である)。隋が倒れて唐が興ると、今度は唐からも遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗しようとした。唐の太守による2回の遠征、さらに高宗期のの3回の遠征も撃退し、唐と争いながらもその間で百済と結んで新羅を攻める動きをとった。新羅と同盟関係にあった唐は長年の宿敵・高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済が滅亡、663年城村江の戦いで百済残存勢力が事実上壊滅、高句麗は孤立する格好となった。また淵蓋蘇文の死後にその子らの間に内紛を生じると、唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して滅んだ。庭のダリア 高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。 また北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の栗末鞍轄系高句麗人の指導者(乞乞仲象)により唐の支配を逃れ、その息子の大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興の契丹国(遼)によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗し、失敗のたびに指導者や領民のほとんどが高句麗の後継を掲げる高麗に亡命した。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金において大いに重用され、その中で女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
2008.09.14
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朝日 朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。 丸都城は吉林省安市(かつての玄兎郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄兎郡をされに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。正栄寺 公孫氏が魏の司馬氏に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍母丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。 その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容光に首都を落とされ、臣従せざるを得なくなった。355年には初めて前燕から(征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王)に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。青龍 391年に即位した19代広開土王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。その後、百済が倭と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結ぶことにより遼西地方にも進出を果たした。この時代には領域を南方にの拡げ、平壌城に遷都した。
2008.09.13
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高句麗(紀元前37年頃~668年)は扶余系民族による国家であり、最盛期は満州南部から朝鮮半島の北半分を領土とした。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。後述の王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。古木 「句麗」は土着語で「城」の意味らしいことは有力説として多くに認められているが、「高」の解釈は諸説あって一定しない。またすべての県城はみな城であるのに高句麗県だけが「城」の意味をもつのは不可解である。かつては「高句麗」の三字とも純然たる漢語で解釈する説もあった。 中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことがわかる。中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。以後は「高麗」が正式名称として認められていた。中国・日本の史書においては高麗と表記される例があるのはそのためである。後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるが、これは王氏高麗と区別する便宜のためで、「三国史記」から始まる表現である。庭の石楠花 紀元前1世紀中頃のこととして、漢の支配による玄兎郡・高句麗県は後退し、現在の集安使市付近には扶余系の豹族による高句麗の勢力が固まってくることとなったことが確認される。又、高句麗を形成した扶余系民族は中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主としてその他に牧畜・狩猟を生業としていたとみられる。 「三国史記」によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙というのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。畑の彼岸花
2008.09.12
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建国神話に現れる辰韓の六村はのちの新羅六村であり、王都金城(慶州市)に居住してそれぞれ自立的な政治的集団として存在していたが、王都外部に対しては王京人として結束して優位性を保ち続けた。新羅が周辺諸国を取り込んで領域を拡げていく過程で、これら六村の優位性を維持するために、元来は六村の内部的な身分制度が拡大していき、骨品制が成立したものと考えられている。第3代の儒理尼師今9年(32年)に、元の六村に対して部名を改めるとともに姓を下賜したと伝えられているが、「三国史記」と「三国遺事」との間でも伝える内容が異なっており、姓の表記については高麗の前半期に整備されて付加されたとする見方もある。 「三国史記」新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官命が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)が設けられた。また、三国統一に功績のあった金庚信を遇するものとして、第29代武烈王の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐食(角干)の更に上に「大角干」、さらに第30代文武王の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干」という位が設けられた。 新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現われであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという習慣は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。 京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方にに移り住んだものに対しては外位という別途に身分体系を併せて持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込み唐に対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。さらに唐との戦闘を終えて684年に報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿に対して京位7等の一吉食を当てた。このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。庭の梅 6世紀以来、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡・村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき独自の地方統治を行っていた。三国統一を果たした7世紀後半からは村を県に改めて、州・郡・県とする支配方法に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、県には県令を中央から派遣し、さらに州・郡に対しては外司正という検察官を別途派遣する二重化を図った。第31代の神文王の687年には九州が完成し、州治が地方統治の拠点となるとともに、旧三国のそれぞれを三州とすることで、三国の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。庭の青龍 新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち続けて遷都をしなかったが、領域の拡大に伴って王都が南東辺に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の強い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵国の地に小京が副都として設けられた。小京に対しては中央から仕臣・仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を担うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が図られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。 4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。
2008.09.11
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自宅2階から 780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が煩雑に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。この780年代から新羅滅亡までの期間を下代と呼ぶ。 この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。822年には熊州で新羅王族の金憲昌が、825年には、その息子の金梵文が反乱を起こしているがいずれも鎮圧。841年には、清海鎮(全羅南道莞島)で張保皐が反乱を起こしたが、暗殺されている。しかしながら、これらの動揺は地域社会に波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。青龍 その中でも有力な勢力であった農民出身の瓢宣が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。その中で後高句麗の武将であった王建が918年に弓裔えお追放して建てた高麗が勢力を伸ばし、935年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順したことにより新羅は滅亡した。 上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世居西干は朴、4代脱解尼師今は昔、13代味惣尼師今は金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている。13代金味惣は金閥智の子孫とされているが、後になってこの金閥智の子孫を称する一族が金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。ただし、統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間もなく滅亡したことになる。 新羅の王(君主)を表す称号としては「三国史記」には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で王号を「王」に定め、謚の制度が始まったとしている。
2008.09.10
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天子社 武烈王の即位から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。 武烈王の即位後、唐と結んだ新羅は唐の援軍と共に金庚信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に白村江にて倭国の水軍を破り(白村江の戦い)、668年高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。 その後、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、670年から争ったが、676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。楠の木 半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。鳥居 統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。庭の石楠花 天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本は激しい反感を持ち、その様子は、753年に遣唐使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争った事件や、恵美押勝(藤原仲麻呂)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張(新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている)に伺える。 国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。また、日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かった。秋桜
2008.09.09
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赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものであるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。 日本側伝承では、「新撰姓氏録」が新羅の祖は鵜草葦不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、「古事記」においては母の国の海原へ行ったとされ、また「日本書紀」においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされるなど、新羅と倭との関わりが暗示されている。鬼ヶ島の海 長らく高句麗に従属していたが、5世紀中頃からはその支配下から脱却しようとして高句麗と争うようになった。一方で辰韓諸国に対する支配力も高め、伽耶諸国の領有をめぐって百済とも対抗する姿勢を明らかにし、三国が相競う様相を示した。6世紀になると智証麻立千・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃して北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。桜・梅・楠 唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王と連携したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このとき唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毘雲が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庚信とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。鬼ヶ島の朝焼け
2008.09.08
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家の庭 「三国史記」新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。朴氏初代の朴赫居世 辰韓の六村の長の一人が、藤井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきたて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓢(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓢を表す「バク(=朴)」を姓として名乗った。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西千と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍がが現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英とを二聖と称した。また、建国時に腰に瓢をぶら下げて海を渡って来たことから瓢公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。楠の木昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今) 倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。金氏始祖の金閼智(第13代味髏尼師今の7世祖) 脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓢公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。座敷の壷
2008.09.07
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新羅(しらぎ・しんら・シルラ、紀元356年~935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。 7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。コスモス 「三国史記」の新羅本紀は「斯蘆国」の時代を含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。 3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中の斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。 「太平御覧」で引用する「秦書」には、377年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼観寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯蘆国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立千」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。この記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。薔薇 また、広開土王碑や中原高句麗碑により、時期によっては倭や高句麗によって一定の支配を受けていたことも明らかとなっている。 当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。 6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐を支援し唐軍とともに戦ったが、その後、百済の旧領の全土と高句麗の南半分から唐軍を駆逐し朝鮮半島をほぼ統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。 新羅の歴史は、「三国史記」新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。
2008.09.06
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鬼ヶ島の日の出 「周書」百済伝によれば、王を表す固有の呼称として「於羅瑕(支配層=扶余系百済語における呼称)」と「健吉支(被支配層=韓系百済語における呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「健吉支」については「日本書紀」古訓に見える「百済王」の「王」の和訓のコニキシ・コキシに相当すると考えられる。なお、百済王家の子孫で日本の朝廷に仕えた者に与えられた氏姓である「百済王」も「くだらのこにきし」と呼ばれていた。 扶余族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続く事となる。鬼ヶ島の海 「三国史記」によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官命が見られる。これは高句麗における最高官位と同名であるが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。百済では第8代の古尓王の27年(260年)のこととして、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15段階の官とあわせて16等からなる官制が整備されたとしているが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年~385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には佐平の上に上佐平の官位を置いている。 「周書」百済伝には、佐平(左平)は五人とし、各官職の帯の色(七品は紫帯、八品は皀帯、九品は赤帯、十品は青帯、十一品・十二品は黄帯、十三品以下は白帯)とし、三品以下は定員がなかったと伝えている。コスモス 漢城時代の墳墓は、土着の土坑墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に広く見られる墓制であり、百済が被支配者層(韓族)と支配者層(扶余族)との多重社会であったことを反映している。熊津時代には支配者層の墓は、積石に代わって石室墳や班築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室の典型のものである。泗比時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。 王都とは離れた全羅南道では、百済の勢力が及んだ5世紀末から6世紀初頭のことであり、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっている。これらは馬韓の勢力の名残りと推定され、前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭との関係も推定されている。 仏教の受容については、高句麗に遅れること10年、枕流王の元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、翌年には漢山に寺を創建したことを伝えているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかってはいない。百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他に熊津時代の寺としては、公州市には水源寺址、西穴寺址、南寺址などが残っている。聖王は泗比に遷都した後に、梁から「涅槃経」などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗比時代の仏教が盛んであった様子が「隋書」百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。 4世紀後半の近肖像古王の時代博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に「論語」や千文字をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国から文物の受容に熱心であったことが伺える。禅定寺
2008.09.05
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倭国との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、「日本書紀」の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。また中国の「隋書」にも、新羅・百済は、みな倭を以って大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。広開土王碑には百済が391年に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっている。 一方、「日本書紀」には百済の歴史書が多く引用され(「百済記」「百済新撰」などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。有名な文化財には、軍事的援助の礼として倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。天子社の社殿 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。 なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という説もあるものの、定かではない。畑の彼岸花
2008.09.04
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コスモス 聖王によって泗比に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。東アジアの歴史は「高句麗・百済・倭国」と「唐・新羅」のブロックが対立する構図へ傾斜していく。 660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。薔薇 唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らかなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫朝倉宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。 これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、これに反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し、百済の故地は新羅の支配下に入った。
2008.09.03
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白渓園 「三国史記」によると高句麗の朱蒙は北夫余から逃げ出す時、妻は妊娠していた。しかし避難する時、妻の礼氏と一緒に行けなかったので妻に刀を二等分に分けて男の子を生んだらこの子が成長して大人になる時、刀の欠片を持って一緒に来いと言った。北夫余から逃げ出して高句麗を建国し新しい王妃の召西奴から2人の息子が生まれ兄は沸流、弟は後で百済を建国する温祚だった。この王子たちが少年になる頃、北夫余から異母兄の瑠璃(高句麗の2代瑠璃明王である。)が刀の欠片を持って母の礼氏と高句麗に来たので沸流と温祚は母の召西奴と高句麗を去った。兄の沸流はミチュホル(現在の仁川)に、弟の温祚は漢江(現在の京畿道河南市)に都を決め各々の国を建てたが、沸流のミチュホルは土地がじめじめし水が塩辛いし農業が不可能だったので結局国は滅び、沸流は自殺した。庭の青龍 百済の起源は謎に包まれており、中国の同時代史料で実在が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は広開土王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋歯王が戦死した。 王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現:忠清南道光州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗此(現:忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためであると考えられる。 ただ過去の百済の記録を多く採用している「日本書紀」の雄略紀によれば、高句麗に漢城を攻め落とされた時に百済は一度滅び(475年)、その後(477年)に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って国を再興させたとある。庭の青龍
2008.09.02
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天子社社殿 百済の言語についてはじめて記した史書な「梁書」である。同書は百済の言語はほぼ高句麗と同じと記し、「魏書」もそれを踏襲したが、「周書」は、百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「健吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家であったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、「周書」以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる。天子社の境内 「後漢書」「宋書」「梁書」「南史」「隋書」などが採録した百済建国伝説をまとめると、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったというが、これは玄兎郡の設置から廃止までの経緯により先住民が高句麗と夫余の二系統にわかれていたことをいうのであろう。さて、夫余には、尉仇台という夫余の王がいた。後漢の太守として183年に遼東に割拠した群雄公孫度(?~205年。帯方郡を設置した公孫康の父)は、娘(一説に妹)をこの夫余王尉仇台に嫁がせ両国は婚姻関係を結んだ。これによって夫余は東夷の強国となったと書かれている(「隋書」百済伝)。この尉仇台(仇台ともいう)が、かつての帯方郡だった地(原文「帯方故地」。実際には「のちの帯方郡にあたる地」であり、帯方故地というのは誤解)に国を建てた(馬韓の伯済国か?ちなみに尉仇台と仇台は同一人物説、別人説、祖父と孫説などが「後漢書」は同一人物とみなしている。「帯方故地」という原文を尊重すれば314年以後の建国となり、尉仇台と仇台は世代の異なる別人となるが、帯方郡が健在だった3世紀にすでに「伯済国」があったことが魏志に明らかであり、もし「伯済国」が百済の前身だったとするならば、帯方郡滅亡後に建国したということは考えにくい)また晋時(317~420年)に高句麗が遼東を占領した頃(404年)に、百済もまた遼西・晋平の2郡を平定した(あるいは百済郡を置いた、またはその郡治は「晋平郡晋平県」ともいう)という。畑の干瓢の花
2008.09.01
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