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豊臣秀次事件のとき、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、結果として事務処理をせざるをえなかった三成が秀吉の代わりに憎まれ役になったという事実があったにしろ、それをもって「秀次を謀反の罪で直接糾弾したのは三成」と断言できるかどうかについては意見がわかれる。 改正三河後風土記等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康と前田利家に秀吉の死を連絡するかどうかの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期彼は家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政は不信を抱かれている。ただし、このスタンドプレーは最終的には家康、利家、長政の三人にバレてしまい、三者を激怒させる結果に終わっている。 関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は三成に対して「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜田秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と諫言し、三成の立案した作戦を「それは作戦などではなく博打というものだ」と語ったといわれている。三成は当初は諫言に従ったが、後にはいつもの横柄さに戻ってしまったという。 蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったと見られている。 蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われる。蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、三成のために死んでいるという反証もあり、現在は否定されている。父母 父:石田正継、母:石田氏兄弟 正澄、女子(福原長堯室)妻 正室:宇多頼忠の娘長男:石田重家、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。次男:石田重成、津軽氏に匿われ杉山源吾を名乗る。子孫は津軽家臣。娘:辰姫、高台院養女。弘前藩2代藩主津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)隆嫁により側室に降格。子に3代藩主津軽信義。娘:某、石田家臣の山田某に嫁ぐ。山田某の叔母は家康の側室茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に仕えた。(異説有)娘:某、蒲生家臣の岡重政室。重政が藩主蒲生忠郷の母振姫(家康の三女)の勘気に触れ切腹処分になると会津を離れる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)。お振の方は家光の長女千代姫を産み、尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血が7代藩主徳川宗春まで続く(異説有)。来年も宜しく♪
2008.12.31
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関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝国大学の渡辺世佑が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大坂城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。 太閤検地の企画発案者で、検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。 毛利輝元は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、島津義弘は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、高野山の木食応其上人は「治少、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」とそれぞれ評し、三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことをあらわしている。 不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を司っていた。そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られず、加藤清正ら武功派諸将の三成襲撃を招いた。 江戸時代には三成は悪人と見なされたが、明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に「稿本石田三成」を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。 後世に五人組の制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。桃源遺事によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ。」と言ったとされる。 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な行政官僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。 領内の古橋村が飢饉に襲われたとき、年貢を免租したともいわれている。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があったが、三成は手厚い保護を与えていたという。 文禄4年(1595年)の豊臣秀次失脚時には、諸将が秀次を見限る中で三成は「秀次公無罪」と信じ、最期まで秀次の助命に動き、秀次の家臣であった前野忠康(舞兵庫)ら若江八人衆はその三成の姿に感激し、以後、三成の下に加わったという記録もある。またこの際、細川藤孝と共同しようとしたが、三成が遠方の検地に赴いていた為、思うように動けなかったとする説もある。
2008.12.30
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大一大万大吉、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味ともされるが、本来は山内首藤氏の紋である。鎌倉時代の武将、「石田次郎為久」(源義仲を射落とした武将)も使用している。石田家ではこの他に九曜紋や桔梗紋も使用している。 関ヶ原の戦いで敗走した三成は近江(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。そのときに村人たちに「このように逃れてきたのはふたたび家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人たちはこの言葉にひかれて石田三成を匿った。しかし隣村出身で古橋村に養子に来ていた与次郎太夫という者が裏切ったため三成は捕えられた。古橋村ではこれ以降、他村より養子を取らない習慣ができた。 前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こったり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役をつとめた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物「刀剣名物帳」では、毛利輝元が所持していたものを宇喜田秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。 三成は秀吉から初めて200石(400石とも)の知行を賜った時、その全てを投げ打って渡辺勘兵衛を召し抱え、家臣である彼の屋敷に起居したという逸話がある。勘兵衛は秀吉や柴田勝家から2万石の誘いを受けても「10万石でなければ仕える気はない」と断っていたほどの人物であり、秀吉を大いに驚かせたという。その後、勘兵衛は三成から何度も加増の話を受けるが、すべて断わって終生200石(400石)で仕えたという。島左近召し抱えのエピソードは、この話が入り交じって伝えられたとされている。 文禄の役の際には軍目付として戦地に赴いた。幸州山城の戦いでは負傷したとされる。 斬首される前に三成は柿(干し柿)を勧められたが「柿を食べると腹を冷やすために身体に障る」と言って食べなかったとされる。これに対して「すぐに死ぬ身が身体を気にする場合ではなかろう」と嘲笑されると、「大事を成す者は最期の最期まであきらめないものだ」と答えたという。 よく犬猿の仲とされる加藤清正とは元々仲が良かったという説もある。実際、名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。二人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。 三杯の茶(三献茶)は、近江国観音寺にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓だった三成に茶を所望したのを出会いとするが、史料が江戸時代のものであることから等から、創作と思われる。 一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家はたしかに近江の土豪だが浅井氏とは敵対関係にあった。その意味ではむしろ「仇敵の姫」とも言える。 また、豊臣秀頼が秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である「萩藩閥閲録」において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したという説が有力である。秀頼は文禄2年8月(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。 その一方で近年、三成は秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説も浮上している。その論拠として、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどがあげられる。
2008.12.29
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7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・益田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜田秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。 8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して息吹山に逃れた。 その後、息吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。このとき、三成は極度の空腹から沢の水を飲み、生米を食べたため、下痢を起こしたと言われている。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。 一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 9月22日、大津城に護送されて大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。 10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。 また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われている。辞世の句筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
2008.12.28
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しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将(史料によっては蜂須賀家政や藤堂高虎の名もある)が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和睦が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した(この事件時、三成が単身で向島の家康の屋敷に難を逃れたとする書物が多いが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の「日本戦史・関原役」などで、江戸期に成立した史料に家康屋敷に赴いたことを示すものはない)。 利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉に遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。9月、家康が重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため大坂に赴いたとき、三成の屋敷を宿所としたと言われている。 慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る(この密約は無かったという説もある)。その後上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したためその友情に報いようとしたためという説もある。 7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止(ただし、鍋島勝茂は父・直茂より大坂の屋敷にとどまるよう命令されており、勝茂もこれをいぶかしんだものの、直茂は自分を三成に助勢させようという意図があるのだろうとして従ったとする説もある)、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・細川ガラシャ(明智光秀の娘)に人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最後を見せられて、人質作戦は中止された。
2008.12.27
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天正17年(1589年)美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。そのため、この城攻めは三成の戦下手の証拠であるとする書物が多いが、これには異説もある。なお三成は、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋したり、奥州仕置の後、奥州の検地奉行を務めるなど着実に実績を重ねており、有能な行政官僚としての功績は相変わらず大きかった。 文禄元年(1592年)、朝鮮出兵(文禄の役)が始まると朝鮮に渡海し、益田長盛、大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。その後明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。 文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。 文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に佐和山19万石4千石の所領を秀吉から与えられた。 慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕えられるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。 慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走するが不調に終わった。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われている。 秀吉の死後、豊臣氏の家督は豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉死後の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
2008.12.26
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石田三成は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。 永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を名字とした土豪であったとされている(また、観音寺で学習していたとも言われる)。 羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駆衆として一番槍の功名をあげたと「一柳家記」にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。 天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。 天正14年(1586年)1月、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうち半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれる。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた(ただし、佐和山19万石を得た時に家臣とした説、それとは別に秀吉からの寄騎であったとする説もある)。同年、越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられる。 天正15年(1587年)、九州征伐に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われている。ただし、先年の四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだと言われている。九州征伐後、博多奉行となり博多復興に従事した。天正16年(1588年)、島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。
2008.12.25
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後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。人々は信玄と謙信の優れた軍略を賞賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。 狭い川中島を巡る局地戦で、信玄と謙信が兵力と10年以上の時間を浪費したため、いたずらに信長の台頭を許す結果になったと、古来、多くの論者がこの戦いを評している。それゆえに、信玄・謙信は、所詮は地方大名にすぎず、天下人となった信長、秀吉の方が器量は遥かに上であると断ずる作家や評論家は多い。 一方で、近年の論者には、双方にとって必要な戦いであったという見方もある。すなわち、甲相駿三国同盟が戦略の大前提であった信玄にとって、後北条氏の敵対者であった謙信との対決は必然であり(後に三国同盟を破棄して駿河国へ乱入した信玄は孤立して厳しい戦略状況に陥っている)、謙信にとっても信玄の北信濃領有を易々と許せば、高梨家のみならず本国の越後自体が危機に陥りかねないことから、両者の衝突は必然であったとするものである。両軍の兵力(江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく)両軍の規模 上杉軍 武田軍 備考第一次 8千人 1万人 小競り合いにて終結。上杉軍勝利?第二次 8千人 1万2千人 膠着状態になり今川義元の仲介にて、旭山 城の破却と、犀川を境として北を上杉領、南を武田領とすることで和睦第三次 1万人 2万3千人 足利義輝の仲介(御内書)にて和睦。晴信が信濃守護となる第四次 1万3千人 2万人 前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。武田方は武田信繁・諸角虎定・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしているが、上杉方に名立たる被害は無し。但し北信濃の地は武田が制圧第五次 ?人 ?人 両軍睨み合いのまま双方撤退・川中島の戦いは、戦を行う理由として、武田、長尾(上杉)両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったする説がある。また、同盟関係の証明のため、武田が攻めざるを得なかった、という説もある。・古くから流布されている「啄木鳥の戦法」については、いくつかの異論や反論が存在する。まず、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため、実際には挟み撃ちが可能かについて疑問が出されている。そこで妻女山に陣をしていた上杉軍を取り囲んで兵糧攻めにしたところ、窮地を脱しようと上杉軍が全軍で武田軍本陣に突撃をかけたのではないかとする説が生まれた。また、両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという「予期せぬ遭遇説」もある。この説は、当時の合戦にしては異常ともいえる死亡率の高さの説明にもなり、状況証拠などの分析により一定の信憑性があるとされる。そもそも「啄木鳥の戦法」自体が「甲陽軍鑑」を唯一の出自としており、その「甲陽軍鑑」は史料性に疑問が持たれており、引用には注意が必要とされている。・妻女山は戦術的に死地にあたり(兵を動かしにくく補給も困難で囲まれやすい)、直江景綱・柿崎景家だが反対したにもかかわらず謙信はあえて陣を敷いたともいわれる。稀有な戦術眼の持ち主である上杉謙信が川中島の地形を理解していなかったはずはないため、背水の陣を敷いたのではないかとの推測もある。・また、第四次川中島合戦に関して「浄興寺文書」と言う文章に川中島合戦に関連する一節があり、そこには永禄4年9月28日、合戦の折に寺が戦火にあった旨の記述がある。文章の真偽のほどは確定していないが、この記述が事実だとすると、9月10日の戦いで両軍共に全軍の2割に達する戦死者を出しながら、のも長期間戦いを続けていたことになってしまい、文書の日付が、合戦の日付か、戦死者数の記述のどれかが怪しい事になる。
2008.12.24
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川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった・ 上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。 永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていたため、戦略的には武田氏の勝ちといえる。 永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁して大軍を率い、上洛を果たした。同年11月、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河国に乱入。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれて以降、弱体化していた今川氏の領国はたちまち瓦解し、当主の今川氏真は逃亡した。これに激怒した北条氏康は、駿河国へ出兵して武田軍と戦いになり、三国同盟は崩壊した。そして時代は織田信長の台頭を巡る新たな局面に移ることになる。 武田信玄と上杉謙信の両者が病死した後も甲越両軍は川中島の領有を巡って争いが続いた。やがて互いに織田信長という共通の敵を抱えるところとなり、上杉景勝は武田勝頼の異母妹と婚を通じて和睦して甲越同盟を築き両軍の戦いに終止符は打たれた。その後上杉軍は柴田勝家を主将に前田利家、佐々成政らからなる織田軍の攻勢を本能寺の変までしのいだものの、武田軍は織田本隊と徳川連合軍によって滅亡させられた。武田家壊滅後の川中島は織田の家臣森長可によって支配されたが本能寺の変で後ろ盾を失い撤退する。その後は上杉、徳川、北条三つ巴の草刈場と化して上杉景勝が一応の成果を収めるものの豊臣秀吉によって上杉家は会津米沢へ移封されて川中島の地域は徳川の勢力下となった。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、徳川政権により上田から海津城(松代)に移された真田氏は藩主は勿論、家臣団にとっても武田配下だった「御先祖様」活躍の地であるためもあって幕末まで戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。
2008.12.23
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乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。放生月毛に跨り、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、史実とは考えられていない。ただし、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれ、もぬけの空の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着した。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利をとなった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3千と合流して、越後国に引き上げた。 この戦いによる死者は、上杉軍が3千余、武田軍が4千余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となった。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実験を行った上で越後へ帰還している。「甲陽軍鑑」はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。ただ、武田軍は最高幹部の武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいないため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある。いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。 この合戦に対する政虎の感状が六通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、文体や書体、筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると鑑定されている。武田軍 ・旗本本隊(8千人)総大将:武田信玄 武田信繁、武田義信、武田信兼、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯尾昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部勝資、今福善九郎、浅利信種、山本勘助・妻女山別働隊(1万2千人) 高坂昌信、馬場信房、飯尾虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡尾張守上杉軍(1万3千人)・総大将:上杉政虎 柿崎景家、本庄実乃、色部勝長、新発田治時、山吉豊守、安田能元、長尾政景、斎藤朝信、加地春綱、中条藤資、村上義清、高梨政頼、北条高広、宇佐美定満、荒川伊豆守・直江実綱(小荷駄護衛)・甘粕景持(殿(しんがり))*「甲陽軍鑑」などによる。なお、小山田信茂については戦力や当時の情勢から判断して別働隊に参加していたと推測されているが、史料上確認ができていない。「妙法寺記」に「郡内弥三郎(中略)よこいれを成され候ひて」とあり、よこいれ=側面攻撃をしたと言う記録が別働隊説の根拠とされることが多い。
2008.12.22
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上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5千を善光寺に残した。自らは兵1万3千を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。 信玄は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、「甲陽軍鑑」には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。 更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信春は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下りるから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥が嘴で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから「啄木鳥戦法」と名づけられた。(信玄の軍師として知名度の高い山本勘助だが、一般的なイメージは江戸期以降の創作物によるものである。江戸期に広く読まれていた「甲陽軍鑑」でも、勘助について軍師という表現は用いていない。戦後に発見された「市河文書」では伝令将校的な武士とも取れる記述があるが、有力な支配下豪族や他国の領主との外交においては、有力家臣を「取り次ぎ役」することは当時としては一般的であり、単なる伝令とするのは事実誤認との指摘もある。評価はいまだ定まっていないが、武田家内においてしかるべき地位にあったことは、確かなようである)。 9月9日深夜、高坂昌信・馬場信春らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8千は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの吹煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩「川中島」の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」の場面である。政虎は、甘粕景持に兵1千を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。 10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸かりの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死するなど、劣勢であった。
2008.12.21
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8月29日、両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが決定的な戦いではなく、戦線は膠着した。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げた。晴信も10月には甲斐国へ帰国した。 京では、将軍・足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国朽木谷へ逃れる事件が起きた。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は、長尾氏との和睦の条件として、義輝に信濃守護職を要求した。義輝はこれを許し、武田氏と長尾氏の和睦が実現した。これにより、武田氏の信濃国支配が幕府により正当化されることになった。 永禄元年(1558年)、晴信は和睦を無視して北信濃へ出陣。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、晴信は「信濃守護の職責を果たすため他国の侵略と戦っている」と自らの正当性を主張して、逆に景虎を責めた。 一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化する。このため、景虎は残る長尾方の北信濃国人衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。 川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。 一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、合戦の具体的経過を述べる史料は「甲陽軍鑑」など江戸時代の軍記物語しかない。「妙法寺記」や武田氏、上杉氏の感状など、この合戦があったことを伝える信頼性の高い史料は残っており、この年にこの地で激戦があったことは確かである。 天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。 北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。 関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向した。
2008.12.20
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善光寺 川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。 天文23年(1554年)、晴信は後北条氏、今川氏とそれぞれ同盟を結んで背後を固めた(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。 天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。4月、景虎は善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣した。栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3千は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城、景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。 晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信濃国人衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、善光寺平の北半分(犀川以北)を確保したことになる。 その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。 川中島の戦いの第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく、長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。 弘治2年(1556年)、越後国では景虎が出家隠遁を図る事件が起きている。家臣団が景虎への忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。長尾氏が内輪もめを起こしている間に、晴信は北信濃国人衆への調略を進め、同時に真田幸隆に善光寺平東部の尼巌城(長野県長野市松代)を攻めさせ、8月にこれを陥れた。更に景虎と不和になった大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図った。結局、大熊朝秀の反乱は失敗し、甲斐国へ逃れている。 弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。2月、晴信は長尾方の前進拠点であった葛山城を落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫った。積雪のため信越国境が封鎖されている時期であり、長尾方諸将の動揺を誘った。 4月18日、ようやく景虎は信濃へ出陣。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、武田領深く侵攻し善光寺平奪回を図るが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城に引き揚げた。7月、景虎は尼巌城を攻めるが失敗。一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(おたりじょう)を落とし、別方面から長尾軍を牽制する。
2008.12.19
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千曲川と犀川の合流地点 信濃国北部、千曲川のほとりには善光寺平と呼ばれる盆地が広がる。この地には名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。善光寺の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の遡上も多く経済的な価値は高かった。古来から交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては善光寺平以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば中信地方(現在の松本平)に至る要地であった。 この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。 川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは八幡の戦いとも言う。長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信と戦った。 天文22年4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5千を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。 9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、青柳城を攻めた。武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠った晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。 この戦いは川中島を含む善光寺平より南の千曲川沿いで行われており、善光寺平の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏になびく事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、善光寺平進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。 景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。
2008.12.18
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武田信玄・上杉謙信一騎討像(長野市八幡原史跡公園) 川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その地の場所で行われた戦いも総称して川中島の戦いと呼ばれる。 川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第四次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある。1.第一次合戦:天文22年(1553年)2.第二次合戦:天文24年(1555年)3.第三次合戦:弘治3年(1557年)4.第四次合戦:永禄4年(1561年)5.第五次合戦:永禄7年(1564年) 戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。歌川広重作「川中島合戦之図」 武田信虎時代から信濃国佐久郡に侵攻を始めていた甲斐の武田氏は、武田晴信(武田信玄)の時代の天文11年(1542年)に、ついに諏訪頼重を攻めて諏訪氏を滅ぼす事に成功する。その後も信濃国への出兵を繰り返し、徐々に領地を広げて行った。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。 武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を次々と攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で大敗させ、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。同年、村上義清の支城の戸石城を攻めるが、一方的とも言える大敗を喫する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、砥石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。 対武田では村上氏と協力関係にあった善光寺平以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信濃の覇権を争そっていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。
2008.12.17
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信玄の死因に関しては、侍医御宿藍物書状にみられる持病の労咳(肺結核)、肺炎、「甲陽軍鑑」による胃癌若しくは食道癌による病死説が有力である。 藩翰譜:新井白石著の菅沼氏の項で、武田信玄が、三河国野田城を攻囲中、城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを、鉄砲に狙撃され負傷したという俗説があると記載されている。甲陽軍鑑には、そのような記述はないという。 また、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病による体力の低下という説もある。また、織田信長に砒素で毒殺されたとする説もある。 父の信虎の追放について、近年、信玄は老臣の操り人形で、父追放は甲斐の有力国人衆のクーデターだという説がある。その理由に、信玄が16歳にて初陣に出たと言う輝かしい日に、駒井高白斎は日記に、今川家の家督争いを書いている。なお学会の見解としては20歳にて初陣に出たという意見で一致しているが、これは戦国大名としては遅すぎるので、このような説が出たと思われる。また、板垣信方が主君の意向を無視した行動をたびたび起こしていることもこの説の信憑性を強めている。このことから信玄の支配確立は上田原の戦い以降だと述べる識者もいる。 武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また山梨県警機動隊の車両などの装備品にも用いられている。 なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である。 武田家は勝頼の代で滅亡しているが武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、武田遺臣のなかには幕府に仕えて活躍したものもいる。また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち特権を保持していた武田浪人が存在していた。 江戸時代には「甲陽軍鑑」が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広く知られることになった。原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えたことはない。庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。他に武田四天王(武田四名臣とも。信玄・勝頼を支えた馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信の4人を指す)も有名。 徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめた、人間として成長させた武神」として、また信玄の手法を家康が参考にしたことから、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。 江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした「甲陽軍鑑」が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州舛の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、祟められるようになった。 明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。戦前は内務省が武田神社の別格官幣社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、英雄史観や皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。 信玄は清和源氏の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とし、代々甲斐の守護を務め甲斐源氏と呼ばれる武田氏の第19代当主に当たる。武田家は源平時代には武田信義が(源頼朝や源義仲と共に)平清盛討伐の命令を受けるなど、古くから武力に秀でていた。 信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、史料にて確認できるのは、上杉の方、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の五人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出世時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記三人以外の側室の墓が残されていることからほかに側室がいた可能性が高い。なお、新田次郎の小説「武田信玄」の作中人物あかねの方は上記の事情から着想された人物である。現在の武田家臣の子孫には「三枝家」が有名である。
2008.12.16
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信玄は鉄砲の威力を過少評価していたと言われるが、それは事実ではない。天文24年(1555年)の段階で鉄砲300挺以上も所有していたと言われる。妙法寺記の天文24年の項に「旭の要害(旭山城)へも武田晴信公人数三千人鉄砲三百挺入候」とある。 武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項)。 髑髏ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。髑髏ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。信玄は初め上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを10月3日まで先延ばししたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている。 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行わせていたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。このため、信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称された。しかし、甲陽軍鑑の歴史資料としての信憑性は他の資料との比較から疑問視されており、この様な事を本当に行っていたかどうかは疑問である。 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取って都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸寺の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」 元亀2年(1570年)の織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐へ移して再興させようと図った。このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だったため、上洛は難しいとされていたと言われる。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である犬筑波集では、次のように揶揄する句が記されている。「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」 信玄は生涯で同盟を破った事は多く、諏訪、織田、今川、徳川(結果的には北条)などがあげられる。そのため外交における信用がほとんどなく、勝頼の代となって上杉と同盟を結ぶ際にその事を指摘されている。 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最後まで長尾姓のままで呼び続けたという。
2008.12.15
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近年は、・39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後髪が残されている。・服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。・(持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。・右側に止まっている烏は、能登の烏である。・絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期能登から出た形跡が無いこと。 などの疑問点から、畠山義続ではないかという学説がでている。成慶院画像も等伯作であることが揺るがないことから、依然として像主を信玄に比定することは支持されているが、最近の教科書では「絹本着色武田信玄画像」は使われておらず、「持明院蔵」の肖像画が使用されている。現在、NHKやフジテレビでは「絹本著色武田画像」を使用しないなどの傾向も見られる。また、東京都の浄真寺に所蔵されている吉良頼康像を信玄画像とする説も提唱されている。・「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇は増やせば国は滅びる)」 この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の髑髏ヶ崎館に住んだ。ただし、後背には詰めの城である要害山(積翠寺)城があり典型的な戦国武将の山城ともいえる。・「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励みを生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」 勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽年軍鑑の脚色とする説もある。・「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」(現在では米沢藩主・上杉鷹山の言葉としての「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の方が良く知られているが元々は信玄の言葉である)。 風林火山は、孫子に記された{其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」(さらに「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。 ただし、武田信玄が使ったことで有名ではあるが、信玄が最初と言うわけではない。風林火山の旗印は信玄より200年ほど前の南北朝時代に北畠顕家が陣旗として使っていた。とは言え一般的には武田信玄=風林火山と言う印象は強く、その名を冠した作品は多い。
2008.12.14
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仏教の信仰は篤かったと言われている。しかし、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずぬいるなど仏教に背く行為がみられた。このことに関しては信憑性は今ひとつである「甲陽軍鑑」(元々信玄本人が著したのでないのと、成立が江戸初期という事で、徳川幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述では、当時信玄が熱心に勉強していた「碧巌録」の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、導師岐秀元伯に「あなたはこれ以上する必要はありません。武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか」と言われ、信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。 当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧侶は繋がりが深く、多くの武士が出家しているが、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていない。当時の有力寺社には僧兵、神人と呼ばれる武装した下級の僧侶、神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落し、俗世に関わり武装闘争をも辞さなかった。信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされる。「甲陽軍鑑」の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られる。また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言える。このように、形骸化したとはいえ本来あってなならない僧侶の婚姻を推し進めたり、信者を使って一揆を誘発したりしていたことから少なくとも純粋な信徒ではなかったようである。 信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県の持明院所蔵の「絹本著色武田晴信画像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」(重要文化財)が知られる。 前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髷があり、足利将軍家家紋「二引両紋」のある太刀が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日尭上人像」と同時期に描かれている。 同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には「甲陽年軍鑑」が流行し、赤法衣と諏訪法性の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野深信や柳沢吉里により描かれた信玄個人の肖像画や武田二十四将図、浮世絵などにおいて定着した。また、明治後半には成慶院所蔵の肖像画が「武田信玄像」として紹介されると大正から昭和初期にかけて定着し、甲府駅前や塩山駅前にある銅像のモデルにもなっており、歴史教科書においても採用されていたため信玄の一般的なイメージとなっている。武田二十四将
2008.12.13
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寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。 この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信玄の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物も存在していた。 もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官~氏」「同心~氏」であれば信玄直属の被官、「~氏同心**氏」であれば誰かの又被官、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。 また、「中尾之郷軍役衆名前帳」には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。 なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、甲州法度之次第では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。 信玄は家臣との間の些細な争いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(後の春日虎綱)に対して、浮気の弁明を記す誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学資料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。甲府駅前の武田信玄像 信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。 武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)でが信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。 日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力社寺への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金掘衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。 寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招聘、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわてずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。 駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮造酒丞(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小船15艘)、向井正勝(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、間宮忠兵衛(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。
2008.12.12
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軍政・旗本武者奉行・・・弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝どきの儀などの責任者か。・旗奉行・・・諏訪法制の旗などそ差配する。・鑓奉行・・・騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。・使番衆・・・百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。・奥近衆・・・奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。・諸国使番衆・・・諸国への使者を務める。・海賊衆・・・海軍。・御伽衆・・・御話衆とも。側近。・新衆・・・工兵集団。架橋や陣小屋作成など。 行政・軍政とも職の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。 軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついてた甲州内に存在する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。 寄親とされているものは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。
2008.12.11
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1.武田親族衆 信玄の兄弟・親族らが中心、「甲斐国志」には「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため一条家など、別姓もありえる。また、木曽氏のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。2.譜代家臣団 基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。ただし、春日虎綱(高坂昌信)のように武田信玄の代に侍大将に抜擢された家なども含まれるため、代々仕えていたと言う点が基準となるわけではない。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。3.外様家臣団 同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。武田海軍である海賊衆もここに含まれる。4.その他(地域武士団) 武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し辛いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。 現代ではこのように分けられる例が多い。しかし、「壬午起請文」では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。これらについて服部治則は「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるものではないかとしている。 職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度はなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されているのは治世も後半の事である。 構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の 名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。・行政 ・職・・・行政面での最高責任者。二人任命されていたので両職とも呼ばれる。 ・公事奉行・・・公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。 ・勘定奉行・・・財政担当官。 ・蔵前衆・・・地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。 ・侍大将・・・出陣・警護の任務に当たる。 ・足軽隊将・・・検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。 ・浪人頭・・・諸国からの浪人を統率する。
2008.12.10
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信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。 4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53.臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写しによれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。 「甲陽軍鑑」によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信房、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。 信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれており(「軍鑑」によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、信憑性に関しては軍鑑作者と言われる高坂昌信(春日虎綱)の意思が介在していることが指摘されている一方で、同時代史料で確認できるものもある。 信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の円光院などには信玄の火葬地とする伝承があり、円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたと言われ、死の直後に火葬して遺骸を保管していたと考えられている。 葬儀は、「甲陽軍鑑」品51によれば長篠の戦いの直前にあたる天正3年(1575年)4月12日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったという。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)に本葬を行った」としているが、この記事を天正4年(1576年)の本葬の誤記であるとする説もある。
2008.12.09
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永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。 元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。 永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。 元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2千も加わり、総勢は2万2千ともされる)。 信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。 これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。 劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1千を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。 しかしここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。 信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。
2008.12.08
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川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗捗しい成果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。 永禄3年(1560年)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傳役・飯尾虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565年)に飯尾虎昌を切腹させ、永禄10年(1567年)10月には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ(病死説もあり)。 その上で、永禄11年(1568年)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真軍を破り今川館へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が今川氏の援軍に駆けつけ、大軍をもって薩垂山を封鎖。両軍は睨み合いとなったが、輸送部隊を襲われたことにより物資が不足、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年(1569年)横山城に穴山の信君を抑えに残し、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退した。 同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照・北条氏那等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取った。10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏那軍が激突、序盤は北条軍優位であったが、山県昌景の高所からの奇襲が成功し戦局は一変、北条本隊が到着する前に敵陣を突破し窮地を脱した。(三増峠の戦い)。北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もある。 この合戦の頃から、北条氏康は病を得ていたようで、北条家は本国の防衛に重きを置くこととなった。越相同盟が完全に機能せず、武田と佐竹、里見の同盟が成立し、関東の防備に不安を覚えたこともその理由とされる。こうして北条軍の駿河守備は手薄となった。元亀元年(1570年)7月、満を持して再び駿河に侵攻、北条の守備隊を撃破し完全に平定するに至る。
2008.12.07
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勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫し、横田高松や小山田信有らを初めとする1千人以上の将兵を失った。 しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。後に、信濃守護となる。 天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。 信玄は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は相互に出兵し軍事同盟として機能した。 弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受諾の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。また、この頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。 信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。両軍合わせて6千人余の死者が出たと言われ、武田方でも信玄の弟・武田信繁をはじめ諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失ったという。 第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。
2008.12.06
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父・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してくるが、晴信はこれを撃退した。そして天文11年(1542年)6月、晴信は逆に諏訪領内への侵攻を目論むようになる。折りしも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていたため、晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定した。続いて同年10月、諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小渕沢で破った。 天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊那の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。 天文16年(1547年)、志賀城の笠原清繁を攻める。このとき、笠原軍には上野の上杉憲政の援軍も加わったため苦戦したが、8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。ところがこのとき、晴信は小田井原で討ち取った約3千人の敵兵の首級を城のまわりに打ち立てて城方への脅しとし、結果、城兵は篭城を解かず笠原清繁始め城兵の多くが討ち死に、さらに残った女子供と奉公の男は人質・奴隷にするなど過酷な処分を下した。この事件が信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となったと言われている。同年、分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定める。 天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失った。晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をした。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝した。 天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。
2008.12.05
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大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に次郎(武田信繁)が生まれる。「軍鑑」によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代を徐々に疎むようになったと言う。傳役は不明だが、「軍鑑」では板垣信方が傳役であった可能性を示している。 信虎後期には今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条と敵対していた扇谷上杉氏と結び、甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。「勝山記」によれば、天文2年(1533年)に武蔵国川越城主上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であると考えられているが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去した。 天文5年(1536年)に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める(「高白斎記」による、「信」は武田氏の通字)官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている。 信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、「軍鑑」によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。「軍鑑」に記される晴信が一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。 晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平合戦にも参加しているが、「高白斎記」によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯尾虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家第19代家督を相続する。 この信虎追放には「勝山記」や塩山向岳禅庵小年代記など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因とする説から、「甲斐国志」による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。「軍鑑」では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。
2008.12.04
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武田晴信画像(高野山持明院蔵) 武田晴信/武田信玄は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。本姓は源氏。家系は河内源氏の傍流・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。 甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男としてうまれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。 江戸時代から近現代にかけて「甲陽軍鑑」に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも)呼ばれ、強大な武田軍を率いて上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人である。 大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護武田信虎と正室の大井夫人との間の子として生まれる。父は甲斐源氏の名門・武田氏の第18代当主で、信虎期には一族や国人領主を制圧して甲斐統一が達成され、甲府の髑髏ヶ崎館を本拠とした城下町が整備され戦国大名としての地位が確立された時期にあたる。母は信虎期に屈服した西郡の有力国人大井氏の娘。 生地は武田館の背後にあたる要害山城(または積翠寺)で、「高白斎記」によれば信玄が誕生した大永元年(1521年)には駿河国今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5千人の軍勢が甲府に迫っており、大井夫人は要害山へ退いていたといわれ、武田方は荒川幡(甲府市)において今川方を撃退する。信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、「甲陽軍鑑」によればこのときの勝利に因み「勝千代(かっちよ)」と名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、「軍鑑」や「武田三代記」などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曽我五郎が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
2008.12.03
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謙信は有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東甲信越や越後では畿内と違い関東管領職の権威はある程度通用したとの評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さをあらわしているとも言える。 一方で、大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然であるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さ証左である、との評価も一部にある。また、名門への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとも言える。 関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う(これについては、近年の研究で冬季に比較的温暖な関東に南下し、略奪を行う目的もあったという説もあるが、上杉家は経済的困窮ががなく、略奪を行う理由に乏しい)。また、数々の戦の多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。 生前に前もって後継者を決定しなかったとされ、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって極めて甚大な痛手となり、のちに景勝一代で急速かつ極端な衰退と没落の道を辿る元凶となった。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は,後に柴田勝家によって奪われる。 謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。 また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にはある。謙信は人に頼られれば断れない性格だったようだ。 謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られてという。遺骸は当初春日山城下の林泉寺に埋葬されたが、長尾上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山のも墓が残されている。 江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。上杉四天王 柿崎景家・直江景綱・宇佐美定満・甘粕景持
2008.12.02
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謙信は軍事面で評されることが多いが、内政面に関しても大きな失政はなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7千石、武田信玄は推定83万5千石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げており、太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下している。 野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、城攻めには失敗し撤退することもしばしばあった(小田原城、臼井城、唐沢山城等)。小田原城といえば巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も失敗に終わっており、その後の北条の逆襲を招く結果となった。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦で露呈した脆さは致命的であり、直接の対陣での敗北は殆ど無いにも関わらず、関東においては最終的に上野の一部以外は殆ど失ってしまった。 持久戦の弱さは、豪雪地帯から遠く補給線の貧弱な敵地に向けて長期的な軍事行動を取ることが不可能であり、それゆえに短期的な活動で多大な軍事活動を得なくてはならなかったことが原因であると見られる。また、直接の軍事行動では敗北は殆どなかったものの、占領地を直接支配しなかったがために謙信が帰国するたび関東衆の離反を許すこととなり、北条・武田に対しての長期戦略は上野の一部を得るにとどまってしまった。結果として武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、国防に成功したものの、侵略の成果は乏しいものとなった。特に臼井城の攻防では原胤貞2千の軍勢に上杉1万5千の7倍以上であたったにもかかわらず、胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三に大敗している。ただしこの合戦は一次資料による裏づけが存在しないため、議論の余地を残している。 第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。謙信は信玄の意図を見抜いて作戦続行を主張したが、関東諸将の反対で撤退するしかなかった。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時、時間を置かず一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった」と述べたと伝わる。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。上洛が出来さえすれば成功の可能性は高く(若狭・越中間は航路があり上杉氏には水軍もあったため加賀一向一揆は無視できた。また、幕臣である越前の朝倉氏・若狭の一色氏の協力は得られた可能性が高い)、謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。しかし、このときも家臣の反対で実行に移せなかった。いずれも謙信の電光石火・神出鬼没ぶりや戦術眼の高さがうかがえる逸話だが、家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
2008.12.01
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