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また「露地」も利休の業績として忘れではならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えるだろう。 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえるだろう。 大阪府堺市宿院には利休の茶室跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。京都市上京区の清明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ケ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられる。現在でも「利休饅頭」というお茶受けのお菓子が各地にある。 利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。彼の作品として次のようなものが挙げられる。 茶室・待庵:京都府大山崎町所在。利休作といわれる。国宝。 黄金の茶室:豊臣秀吉の命により製作。MOA美術館、大阪城に復元・展示がある。 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など。 書状「寄進状」 書「弧舟載月」 竹花入「園城寺」「尺八」 茶杓「なみだ」「面影」
2008.04.29
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「わび茶」の完成者としての利休像は、「南方録」を初めとして後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である「南方録」では、新古今集(実際は新古今和歌集には見当たらない)の家隆の歌「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきさまの草の 春をみせばや」 を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上(薩摩屋)宗二による「山上宗二記」が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間で行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、潜りや下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。利休は一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
2008.04.29
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利休死後数年を経て(文禄4年頃)徳川家康や前田利家の取り成しにより道安と少庵は赦免され、道安が堺の本家千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため少庵の興した分家である京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の薮内家と千家にも、この時期婚姻関係が生じる。 三千家は利休の養子となった宗恩の連れ子少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子千宗旦が還俗して家を再興し、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数奇道具を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。利休忌はグレゴリオ暦の3月27日および3月28日に大徳寺で行われる。
2008.04.28
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死罪の理由は定かではなく、大徳寺山門(金毛閣)改修にに当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)。安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれた。天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。秀吉と茶道に対する考え方で対立した。秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。などの説がある。 また、豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたため、という説もある。利休が秀吉の政事に大きく関わったことは、大友宗麟が大阪城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちされたことなどからも伺え、そのように利休が深く政務に関わることに反発し利休の失脚を望む勢力は確かに存在したと言われる。このような様々な要因が秀吉の勘気に触れたと思われる。 後継者としては先妻宝心妙樹の子である嫡男千道安と、後妻宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、子の他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。ただ道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。なお宗恩は自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかのも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を継いだ。
2008.04.27
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和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。 織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成にも関わり、碌も三千石を賜るなど、茶人としての名声の絶頂にあった。 1591年、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は切腹を命じられる。七十歳であった。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で晒された。樹齢200年
2008.04.26
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千利休(せんのりきゅう)は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。何もか削るもんがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。父は田中与兵衛、母は宝心妙樹。 「千家系譜」、「千利休由緒書」によると利休の祖父は足利義政の同胞衆だった千阿弥ちい、その名のをとって千姓としたとされている。ただしこの説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないので疑問視するむきがある。 「阿弥」号は当時の時宗門徒などには極めてありふれたものであったから必ずしも同胞衆に結びつくものではない。幼名は与四郎で、のち、法名を宗易(そうえき)と号した。広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。号の由来は「名利、既に休す」の意味する場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお「茶経」の作者とされる陸羽にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名はその人生の終焉での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。茶聖とも称される。
2008.04.25
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宇佐神宮参拝今は亡き友人から頂いた神奈川県陣屋で購入手作り草鞋伊勢神宮参拝記念伊勢神宮参拝記念黒檀の木刀葉隠れ書
2008.04.24
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本能寺の変で織田信長が死去したとき、孝高は秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これ以後、秀吉は孝高の智謀を恐れるようになったという。秀吉が、多くの功績を立てた孝高に対して、大阪から遠く離れた豊前の中津でわずか12万石しか与えなかった(加藤清正・福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。 「秀吉、常に世に怖ろしきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしぞ」(名将言行録)。 孝高が長政に家督を譲って隠居したのは44歳のときであるが、働き盛りの年齢で隠居したのは、秀吉に恐れられていることを知って身の安全を図ったためと言われる。 秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きてる間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は十万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達はやつの本当の力量をわかっていない。やつに百万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たという。 これは、わざと情報を流すことで周囲の反応を見ようとしたものと思われる。一方、隠居は石田三成ら若い人材の台頭なども理由と言われる。 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。 荒木村重謀反のとき、織田信長は、翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは村重に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた長政を殺害するように命じた。しかし竹中半兵衛(重治)は密かに長政を匿った。このため、竹中半兵衛への感謝の気持ちを忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。遺訓 「人に媚びず、富貴を望まず」
2008.04.22
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関ヶ原の合戦の後、長政は家康から勲功第一として筑前名島(福岡)で52万3千石を与えられた。如水も中津城から福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく、隠居生活を送った。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。享年59才。 一般に伝えられる孝高の活躍については、軍師の活躍をよりきらびやかに描こうとする江戸時代の軍記物などで誇張された部分も多いと言われる。竹中半兵衛(重治)と共に秀吉の双璧と謳われ、「両兵衛」・「二兵衛」と称された。徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(名将言行録)。また、孝高は梅毒により、頭部に醜い痣があったとも言われている。 虎視眈々と天下を狙う野心家として描かれることが多いが、実際には主君を裏切ったことは一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のであるし、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても、二人は同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、建前上は同じ東軍であったから、敵対すらしていない。坂口安吾は「天才ではあるが、ただの戦争マニアであって野心は二流」と評している。 諡号 如水、円清 戒名 「龍光院殿如水円清大居士」 墓所 福岡市博多区千代の横獄山祟福寺。京都市北区の大徳寺の龍光院。 官位 従五位下、勘解由次官 主君 織田信長ー豊臣秀吉 氏族 小寺氏ー黒田氏 父母 父 黒田職隆 母 明石宗和の娘(小寺政職の養女) 妻 正室 櫛橋伊定の娘 兄弟 黒田利高、利則、直之、浦上清宗の妻 子 2男(黒田長政、熊之助)
2008.04.21
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その後、如水は、西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としていった。しかし、関ヶ原の戦いがわずか1日で決着がついたことを知ると、占領した城を家康に献上して居城に戻り、軍を解散した。 如水のねらいは、九州を統一し、その兵力を率いて東上し、家康に決戦を挑んで天下を取ることにあったとも言われる。息子の黒田長政の活躍により、関ヶ原の合戦が短期に終結したのは、皮肉な巡り合わせと言えるかも知れない。 しかし、本気で天下を取ろうとしたのであれば、息子の長政と綿密な打ち合わせが必要であり、それをしなかったのは如水の手腕を考えれば手落ちというより不審である。そのため、天下を狙う野望を持っていたというのは見せかけで、如水は家康に脅威を感じさせ、一方で息子の長政が家康に忠誠をを尽くすことにより、黒田家の存続と繁栄を狙った深謀遠慮であるという説もある。 これに関しては、関ヶ原の戦いの後、帰郷した長政が「家康殿は右手を取って功労を褒めてくれた」と自慢したのに対し、如水は「その時、お前の左手は何をしていた(=何故空いている手で家康を殺さなかったのか)」と言った。これを聞いて長政は絶句したという。 このような逸話が広く世間に流布していた事実からは、逆に本気で天下を狙っていたとは考えにくい(本気だったならば固く秘密にしたであろう)。むしろ陰謀家の如水に対比することで、長政の家康に対する忠誠を強調した逸話と考えることが妥当である。
2008.04.20
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家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では、小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城をさせる功績を立てた。このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている(国宝、福岡市博物館所蔵)。 文禄元年(1952年)から、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加するが、文禄2年(1953年)に五奉行の石田光成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、如水円清と号して出家・引退した。 慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は、同年12月に上洛し、伏見屋敷に居住したいという。この頃、如水が吉川広家に宛てた書状が残されている。「かようの時はし合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」 これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していたことを窺わせる。慶長5年(1600年)徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、石田光成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから、秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。 この頃、如水は九州にいた。石田光成の挙兵を知った如水は、家康方(東軍)として行動を開始した。兵力の大半は長政が率いていたため、如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、1万人ほどの速成軍を作り上げた。如水はこの兵力を率いて、9月9日(10月15日)豊後に侵攻した。 同日、再興を目指して西軍に与した大友義統が、毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、如水はこれに応じ、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
2008.04.19
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高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり、信長が横死した。信長の死を知った孝高は、秀吉に対して、「御運が開かれる機会が参りましたな」と進言したと言われる。そして、秀吉が毛利輝元と和睦し中国大返しを行ったのも、孝高の進言によると言われる。 天正11年(1583年)の柴田勝家との戦い、天正12年(1584年)の徳川家康との小牧・長久手の戦いにも参加。天正13年(1585年)には四国征伐に加わった。このとき、孝高は敵将・長宗我部元親の策略を見抜いて、次々と敵城を陥落させた。 天正14年(1586年)、従五位下勘解由次官に叙任された。天正15年(1587年)の九州征伐では、毛利氏、宇喜多氏などの軍勢の戦目付として、戦勝に貢献している。九州平定後、豊前中津で12万5千石を与えられた。国人勢力の城井鎮房・野中鎮兼らが一揆を起こすが、孝高はこれを鎮圧し、翌年4月には城井氏を謀殺することで領内の平定に成功した。 この少し前、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がキリスト教禁教令を出すと、高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して棄教した。秀吉の側近である孝高の棄教は、宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。 天正17年(1589年)、家督を嫡男の黒田長政に譲って隠居し、如水軒と号した。
2008.04.18
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ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力である三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した。これに他の播磨の勢力は大きく動揺した。さらに、織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城(兵庫県伊丹市)に立て篭もった。このとき、孝高は村重を翻意させるため有岡城に乗り込んだが、交渉は成功せず、捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し、孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、劣悪な環境の土牢に長期に渡って押し込められていたため、脚部の関節に障害が残り、歩行がやや不自由になった。このため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うようになった。 荒木村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。孝高は、謀反人の名字を名乗ることをよしとせず、本来の黒田の名字に改めた。救出された孝高は、信長から播磨国内に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。 天正8年(1580年)、「姫路城は播州統治の適地である」として居城を秀吉に提供し、自身は飾東郡の国府山城に移った。天正9年(1581年)、羽柴秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により周辺の米を買い占めた上で、完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれて3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。 また、天正10年(1582年)、毛利氏の部将清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが、この作戦を献策したのも孝高だったと言われる。
2008.04.17
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黒田孝高(くろだよしたか)は、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国中津城主。通称の官兵衛、並びに出家後の如水の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。ドン・シメオンという洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。 天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。黒田氏は、「寛政重修諸系譜」などによれば、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県伊香郡木ノ本町黒田)の武家出身とされるが定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に播磨に入り、御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた小大名の小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重孝の子職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。 永禄10年(1567年)頃、孝高は家督を継ぎ、櫛橋伊定の娘を正室に迎え、姫路城代となった。天正元年(1573年)、小寺氏など播磨の小大名たちは、畿内で勢力を拡大する織田信長と山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の二つの大勢力に挟まれることになった。天正3年(1575年)、信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に命じて播磨に進駐させた。信長の才能を高く評価していた孝高は、早くから主君・政職に織田家への臣従を勧め、近隣勢力も説得していった。
2008.04.16
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吉野ヶ里歴史公園で実際に復元されているのは、環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓(柱の跡や木材が遺構として残っており、これから復元されている)、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などである。遺構の保護や更なる発掘のため、もともとあった場所から異なる場所に復元されたものもあるが、盛り土をして遺構を保護した上でもともとあった場所の真上の同じ場所に復元されたものもある。また、遺跡の周辺部では、遠くからも分る目印として物見櫓が立てられているところもある。 出土品の多くが、公園内にいくつかある施設内に保管され、展示が行われている。実際に手で触ることができるものもある。 公園では、「弥生人の声が聞こえる」をテーマに整備・情報発信を行っている。年に十数回イベントが企画され、古代の文化や生活の体験ができるほか、多くの店も並ぶ。テーマのように、弥生人の生活を再現したイベントや企画が多く、勾玉などの装飾品の試作、当時の衣服の試作・試着、古代米の育成、当時の食事体験などの参加型のものが多数ある。☆休園日:1月1日、12月31日、1月の第三日曜日とその翌日☆利用料金や駐車料金あり。 待っとーけん、一度、来てみんしゃい!(byタケル)吉野ヶ里公園管理センター〒842-0035佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843電話番号 0952-53-9333公式サイト:吉野ヶ里歴史公園
2008.04.15
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考古学者の佐原真氏をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、1989年2月23日、一部の報道機関によって大々的な報道が始まる。ちなみに、この前日の2月22日が「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされている。これによって連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、同年3月には県は遺跡と重複する地域の開発を中止する。 その後1990年5月に史跡、1991年4月に特別史跡に指定され、1992年には閣議によって国営歴史公園の整備が決定する。 報道がなされた当初は、邪馬台国に関係する遺跡ではないかとの見方もあり、一部で九州王朝説も取り上げられた。現在は、九州北部にあった複数の「クニ」の1つに過ぎないのではないかという見方が大勢を占めている。 遺跡とその周辺部の117haが公園として整備されることが決定された。公園としての整備が決定した後、公園となる部分の最終調査を経て、遺跡の状態を損なわないように盛土によって保存し、その上に復元や植樹を行い公園整備を行った。整備計画区域内にはまだ発掘を終えていない部分が多数残っており、現在のところ整備されて公園として開園しているのは58haにとどまっている。このうち、国営部分が27haで、残りは県営となっている。
2008.04.13
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所蔵の品 古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器がすてられ、埋め尽くされてしまう。3世紀ごろには、集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱(倭国の大乱)の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓できるようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。 奈良・平安の律令制時代には、神崎郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、旧神崎郡内には他にも「。。ケ里」という地名が多く見られる。 佐賀の乱の際には付近で激戦が展開されたが、戦前から、少しずつ遺物の出土が見られるようになり、小数ながらもこの遺物や遺構を学術的に研究する動きが始まる。しかし、大きな盛り上がりを見せることはなかった。 1970年代に、農地や果樹園造成、土採りによって遺跡の一部が壊される。また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で甕棺が出土するようになった。また、県立高校の移転改築の候補地になったが、広範囲にわたって遺物が出土していたため断念された。 1970年代後半に佐賀県によって調査が計画されたが、事前調査に追われて実施に至らなかった。1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画する。その際文化財発掘のための事前調査を1982年から始める。1986年の本格調査によって、約59haもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、県は工場団地計画を縮小する。
2008.04.12
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多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や菅玉などのアクセサリー類、銅剣、道鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いるものなどがある。1998年には、九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見された。九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。 出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるが、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島と共通・類似したものも多く見られており、吉野ヶ里への渡来人の来航や吉野ヶ里から各地域への渡来によるものとみられる、さまざまな面での共通性が見られる。また、遺跡内にある3基の前方後円墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。 縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。紀元前400年ごろには、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが後に大規模な集落へと発展することになる。 弥生時代前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。後期には、環濠がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。
2008.04.11
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タケル 吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字形に深く掘られた総延長約2.5kmの外壕が囲んでいる範囲は約40haにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ策が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。 内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土杭、青銅器製造の跡なども発掘された。 多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土杭墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、菅玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。
2008.04.10
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現在でも有明海は干潮時と満潮時の潮位差が平均5~6mと大きく、遠浅の干潟が広がっている。発掘された遺構から、すでに縄文時代にはこの地域に集落があったと考えられている。その時代に集落が形成された原因として現在推定されているのは、この地域が当時海に近かったことが大きく関係している。有明海の大きな干満差(これを利用して移動する航法が現在も残っている)や筑後川などの河川(縄文海進時には筑後川河口はもっと遺跡に近かったと推定されている)を利用して船の行き来が容易だったこと、貝類やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。 海面は時代が新しくなるにつれて低くなり、弥生時代には現在の神崎市千代田町や佐賀市諸富町付近が海岸線となると同時に多数の河川とつながる筑後川の河口があったと推定されており、この地域は船を通じた人や物の移動拠点として発達した(当時の遺構から、すでに弥生時代にはこの地域に港のようなものがあったと推定されている。この後奈良時代には、諸富津が現在の佐賀市大和町にあった肥前国府の国府津として機能したと推定されている)と考えられている。吉野ヶ里遺跡の東西両側には、現在も城原川と田手川が流れており、この川を通して吉野ヶ里丘陵にも人や物の交流があったと考えられている。 以上のような背景から、現在の吉野ヶ里遺跡の中核をなす弥生時代の集落ができ、紀元前4世紀(縄文時代晩期)~紀元3世紀(弥生時代後期)までの約700年間継続した。その後は、平野部に集落が移り、海面の低下によって広がった広大な平野が稲作の中心となる。
2008.04.09
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吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50haにわたって遺構が残る、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。1986年からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、2006年(平成18年)4月6日、日本100城(88番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。 佐賀県東部は、福岡県境に標高1,000m前後の背振山地を北端に、背振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野(筑紫平野)、有明海へと移るにつれて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの背振山地南麓の丘陵地帯の一つである。 最終氷河期が終わってからの温暖期には縄文海進と呼ばれる海面上昇があったため、吉野ヶ里丘陵の南端付近まで有明海が広がっており、最も海面が高い縄文時代前期には海岸線は遺跡から2~3km程度と非常に近かったと推定されている。この海岸線は、温暖化による海面上昇と筑後川をはじめとした有明海に注ぐ各河川の土砂の堆積作用によって次第に後退したと考えられている。
2008.04.08
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纏向遺跡の主な古墳は、纏向勝山・纏向矢塚・纏向石塚・東田大塚・箸墓・ホケノ山古墳で木製品の年輪年代測定などから、纏向石塚古墳は、遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と重なる。当時としては広大な面積をもつ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。出土土器全体の15%は、駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は、南関東から九州北部までの広域に拡がっており、人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纏向地域にあったと考えられる。(畿内大和説) 「記紀」では、垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞離(しきみずがき)宮、纏向珠城(まきむくたまき)宮、纏向日代(まきむくひしろ)宮が存在したと伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。「万葉集」にも纏向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。ヤマト政権発祥の地と考えられている。 纏向遺跡は大集落といわれながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは、祭祀用と考えられる建物と土杭、そして、弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、煩雑に人々や物資が集まったり、箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
2008.04.07
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纏向遺跡は、唐古・鍵遺跡の約10倍の規模をもち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡よりも大規模である。また、都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。 矢板で護岸した幅5m、深さ1m、総延長200m以上にわたる巨大水路の発見。底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土杭が約150基発見された。掘立柱建物跡と、これに付随する建物跡。弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝。導水施設跡。遺跡内に点在する古墳(大和古墳群)。現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性もある。 主な遺物は、朱色に塗った鶏形木製品。吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。絹製の巾着袋。瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作られたものと判明した)。ミニチュアの船。木製鏃。搬入土器。石見型盾形(いわみがたたてがた)木製品。日本全国でつくられたとみなされる遺物が出土しているが、なかでも東海地方の物が多い。
2008.04.06
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纏向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡群を指す。遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロ・南北約1.5キロに及び、面積は300万平方メートルに達する。古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかと注目されている。 佐賀県の吉野ヶ里遺跡とともに邪馬台国を考える上で重要な遺跡である。 現在の名称で呼ばれるまでは、1930年代は太田遺跡として扱われていた。小規模な遺跡群の一つとして研究者には認識され、特に注目されていなかった。しかし、1971年に行われた県営住宅、小学校建設の為の橿原考古学研究所がおこなった事前調査により、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が発見された事により、注目を集めた。その後も、さまざまな出土品が広範囲にわたって確認された。1977年の第15次調査以降、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続している。
2008.04.05
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「日本書紀」512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載され、「梁職貢図」(525年頃成立)にはすでに「任那」の記載はない。これを総合すると「任那」は512年から525年に滅亡したと考えられる。この後「日本書紀」には、「任那復興」と記されているが、これは「任那の貢納の再興」と解することができる。「日本書紀」の欽明天皇の項目では、任那の滅亡年を560年もしくは562年としている。これは任那の滅亡後に、「再興された任那の貢」を代行して納めていた国々の滅亡と捉えられよう。 なお、通説によれば「任那四県」は現在の全羅何南道に比定されている。全羅南道には5世紀後半に比定される前方後円墳が10基以上認められ、倭と密接な関係があったことを窺わせる。 「加羅」は現在の慶尚道に比定されており、したがって「任那」と「加羅」とは同一地域の別称ではない可能性が高いとされる。また、任那四県割譲(任那滅亡)後に残った加羅国、安羅国らの10国を総称して任那と呼んだという記述もあるが、これは滅亡した任那の貢を代行して納める国々として解される。 646年(大化2年)、高向玄理が新羅へ派遣され、質(人質の意味だが実質的には外交官と推察されている)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として金春秋(後の武烈王)が来日している。
2008.04.03
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朝鮮半島史料では任那は百済と新羅によって滅ぼされた伽耶諸国とされている。 広開土王碑文(414年建立):永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。 「鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文」(924年成立):大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、任那は金官伽耶を指している。 「三国史記」(1145年成立):本記には現れず列伝に1例が認められる(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。 日本史料では「肥前風土記」(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、「日本書紀」(720年成立)祟神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場し、「新撰姓氏録」(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。 地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。 東アジア情勢から任那を見ると、魏に続く晋代になり、290年頃に八王の乱が起きて中原が乱れると、鮮卑の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、楽浪・帯方両群は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして高句麗の攻撃を受けて、313年には楽浪郡が、翌314年には帯方郡が滅亡した。346年には前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年代、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。
2008.04.02
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