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ワシントン事件 1952年7月19日から27日にわたって首都ワシントンDC上空に68機ものUFOが現れ大勢の市民の目の前で飛び回り、ナショナル空港に着陸する旅客機を追跡、迎撃に上がったアメリカ空軍のロッキードF-94B戦闘機を取り囲んだりするという事件が発生した。この際、レーダーにもそれらしき反応があった。その後、アメリガ当局はこれを逆転層による気象現象と説明した。一説にはロズウェル事件で墜落した、UFOから回収した通信機器がワシントンDCにある政府研究機関に運ばれ、通信機器をいじった際に信号を発信し、信号を傍受したUFOが飛来したと言われている。 ロズウェル事件 ケネス・アーノルド事件の直後に起きた、いわゆる「ロズウェル事件」は極めて有名であり、複数のフィクションにおいて何度も題材にされているほどである。これは、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェル近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍にとって回収され隠匿されている」というものである。 1947年6月14日、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にある牧場で、マック・ブレーゼルは牧場内に散乱した金属片を発見した。7月に入ってブレーゼルと彼の家族は金属片を集め、保安官のジョージ・ウィルコックスに通報。彼はロズウェル空軍基地に連絡した。7月7日の午後、基地からやってきた2人とブレーゼルは残りの破片を捜してゴムや金属箔を見つけたのち、元の形を復元しようとした。翌朝、破片は基地へ持ち帰られた。 7月8日、ロズウェル基地付け報道官のウォルター・ハウト陸軍中尉が「陸軍航空隊がロズウェル近郊の牧場に墜落した空飛ぶ円盤を回収した」と発表し、マスコミの注目を浴びた。しかし同日中にロジャー・M・レーミー空軍准将が「発見された空飛ぶ円盤は軍が使用している気象観測用の気球だった」と訂正を行った。後に行われた発表では残骸も公表されて、事件はすぐに忘れ去られた。それから30年以上、UFO研究家も含めて誰も関心を持つことは無かった。
2008.01.31
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フー・ファイター事件 「フー・ファイター」とは第二次世界大戦中、連合国の兵士達の間で使用された「未確認飛行物体」の総称である。夜でも眩しいほど発行しながら正確な編隊を組んでいたり、信じられない速度で飛行していたようである。アメリカ本土付近で目撃された際は「ナチスの新型爆撃機だ」「大日本帝国が秘密兵器を飛ばした」、「近海に日本の大艦隊がいる」、「ついにドイツの科学力と日本の航空技術が結ばされてしまった」など、アメリカ軍の間では様々な噂が飛び出したようである。実際、当時のドイツは原爆やV2ロケット開発に着手し世界一とも言われている圧倒的科学力を持っていたため、戦後になっても実はドイツは円盤型の超音速戦闘機を完成させていたのではないか等の憶測を飛ばす事になった。そのせいか、架空戦記ではナチスドイツの円盤型戦闘機などがよく登場したりする。逆に、連合国側だけでなく日本軍やドイツでも未確認飛行物体が目撃され、戦地で噂になっていた。 ケネス・アーノルド事件 初めて空飛ぶ円盤が一般的に知れ渡るようになったのは、1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、アメリカ、ワシントン州のカスケード山脈にあるレーニア山付近の上空を自家用飛行機で飛行していた際に、レーニア山の上空を飛行する9機の奇妙な物体を目撃し「投げた皿か円盤が水面上をスキップするように凄いスピードで飛んでいた」と報告したのが最初といわれている。地元アメリカのマスコミはその物体を空飛ぶ円盤と名付けて大々的に報道し、その後同様の目撃談が相次いで報告された。この事件を受け、アメリカFBIのジョン・エドガー・フーバー長官は直後の6月30日にUFOの目撃例を調査するプロジェクトを発足させた。 ケネスは40Kmほど先に15~20m大の物が見え、特徴もはっきり分ったと述べているが、40Km先の物の細部まで観察するのはいかに視力が良くても困難なこと、熟練したパイロットであっても距離感を掴み損ねることは珍しくないことなどから、集団飛行する鳥か、観測用の気球を見間違えたのではないかという指摘もある。ちなみに、アーノルドは未確認飛行物体の形状ではなくその飛び方を説明するためにSaucerという語を使ったのであるが、報道で「空飛ぶ円盤」という呼び方が定着して以降は円盤型のUFOの目撃例が多くなったのは注目すべき点であろう。
2008.01.30
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ジャック・バーレーが考案したUFOの行動パターンによる分類。タイプ1:着陸もしくは低空飛行したUFO。地上・水上・搭乗者が目撃者に気づいたもの・UFOが地上の物体に偵察を行ったもの。タイプ2:円柱型や広がった雲を連想させるもの。変わった飛行をする。静止して中からUFOを吐き出す。他のUFOが周りを取り囲む。タイプ3:球や円盤、楕円球。空中に静止。落ち葉のような飛行。動いたり止まったりする。静止し、光が変化する。複数で群れる。急に軌道を変える。タイプ4:断続的な飛行。連続的な飛行。航空機に近づく軌道。編隊飛行。波形やジグザグに飛行。タイプ5:はっきりしない外見。輪郭がはっきりしない発光体。星のような物体。星より速く空を横切る。 遠く中世から、近代で言うUFOの目撃談は多数報告されていた。現在も世界中で目撃されており、その形状も大きさも、目撃した時間帯もまちまちである。いわゆる宇宙人らしきものとともに目撃される例もある。 飛行機からの目撃例が多い他、なぜか軍事施設や原子力発電所の近辺、戦争中に目撃される例が多い。その為、政府機関や軍から公式に未確認飛行物体であると認定されるケースも多い。また、アメリカのジミー・カーター元大統領は、自ら未確認飛行物体を目撃したことがあると公に認め、大統領在任中は情報公開法に基づいて多くの政府による未確認飛行物体情報を開示した他、カーターの後任であるロナルド・レーガン大統領も、公式の記者会見において未確認飛行物体の存在を認める発言を数回に渡り行っている。ただしこの場合、未確認飛行物体とは「自然現象か鳥か航空機か、あるいはそれ以外の物か判別できない物体」と言う意味であって、必ずしも空飛ぶ円盤やエイリアンクラフトを意味しない。
2008.01.29
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SFには無数のバリエーションにわたる異星人が登場して、その乗り物も構造から材質、推進法まで綿密に設定されており、世間に流布しているUFOのイメージ形成にも大きく寄与している。また、「日本空飛ぶ円盤研究会」の熱心な会員であったSF翻訳家の柴野拓美と星新一は初のSF同人誌を発刊しSF作家となったなど、SFとUFOの縁は濃い。 UFOの推進原理の説は反重力説などが有力であるとされているが、桑野勝久はその著書「質量場の存在について」の中で質量場からの反力がその原理であるとし、その物理学的論理が指し示す諸事象を述べている。その論理は「人類は皆、神々の子孫」という結論に至っている。 世界的に広がっているUFO目撃を発表しあう会では、元アメリカ軍関連者やNASA関連者、その他パイロットと称する人々がそれまで軍や政府、NASAその他職業上の理由から沈黙せざるを得なかったという自らの体験談を告白しあっている。 日本ではメディアで度々とりあげられるなどしているが、オカルト雑誌、番組などでしか取り上げられない、決定的な証拠が提示されないままに説が流布しているなどの理由から、UFO=超自然現象・エイリアンクラフトなどとする説はでたらめであるという考え方が根強い。 ハイネック博士の分類 ジョセフ・アレン・ハイネックが考案したUFO目撃者からの観測パターンによる分類。NL夜間発光体:夜間に目撃されたUFO。DD白昼円盤体:日中に目撃されたUFO.RVレーダーと目視の2つの手段によって確認されたUFO。CE接近遭遇 CE1第一種接近遭遇:近距離からの目撃。物理的証拠を残さないもの。 CE2第二種接近遭遇:UFOが周囲に影響を与えたりして何らかの物理的証拠を残したもの。 CE3第三種接近遭遇:UFOの搭乗者、宇宙人の目撃。 CE4第4種接近遭遇:アブダクション(宇宙人による誘拐)。誘拐体験を鮮明に記憶している。夢と現実が混在し、不明瞭。記憶が欠落している。直接の接触はせず、テレパシー等の方法によりコンタクトしたもの。
2008.01.29
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1954年にアメリカ空中現象調査委員会が組織された。これはUFOを科学的に解明しようと設立された初の団体であると見られている。民間の組織である。アメリカ空軍は、1967年にコロラド大学のエドワード・コンドン教授に依頼し、UFOに関する調査を開始した。コンドン委員会は、1969年に報告書をまとめ、「UFOが地球の外からやってきたという説には、なんの証拠も認められない」という結論に達した。イギリス国防省も同様の報告書を発表している。宇宙人の乗り物説 エイリアンクラフト説とも言う。現在ではUFOという語から想像される一般的なイメージの都市伝説となっており、エイリアンクラフトや空飛ぶ円盤とUFOは頻繁に混同される。この説はフィクションの世界において広く引用され、UFOの中の宇宙人との遭遇を第三種接近遭遇と言う。本説を支持する証拠は目撃談のみであるとされる。人工物誤認 これらの「人工物誤認説」の中には、ヘッドライトや飛行機、人工衛星などその存在が公になっている物の誤認や、新兵器や秘密兵器などその存在が公になっていない物の誤認など、いくつかのバリエーションがる。また新兵器や秘密兵器の存在を隠す為に、政府などがその目撃例を敢えて「超常現象」としてマスコミを通じて宣伝したり噂話を増長させる事で、肝心な部分から目を眩ます欺瞞工作であるという意見もある。秘密兵器説 実際に、極秘に開発した新型機(試験飛行中だったV173など)が目撃された際に「UFO」ではないかとして報告され例がある。アメリカのエリア51における新兵器開発説が有名だが、実際にエリア51で新型機の開発、試験飛行が行われていることは公然の秘密である。自然現象 珍しい自然現象を見た際に、そのショックと恐怖によりUFOと誤認したという説。誤認されやすい自然現象の例として球電現象、火球、流星、プラズマなどがある。金星や火星、木星も誤認されやすい物体としてあげられる。タイムマシン説 UFOは未来の人々が開発した、時間移動を行うために使用する乗り物であるとする説。UFOが消えたり現れたりする事を空間移動ではなく時間移動と考える人もいる。報告されるUFO搭乗員の姿形がほとんど人間型であること、宇宙人が地球に来訪するのは物理的に困難であることなどから、宇宙人説よりは可能性があるとする人もいる。宇宙空間は極めて広く、通常の光速以下で飛行する方法で宇宙空間を移動し地球に向かう場合には、移動に極めて長い年月を必要とする。そのためワープのような技術が想定されているが、比較的自由なワープが可能ならばその技術を利用してタイムマシンも可能になってしまう。つまり、この点でもUFOが宇宙人の乗り物であるよりは、タイムマシンである可能性が高いというのである。しかし、現在の物理学的知見では、色々な可能性は論じられているものの、時間移動は不可能化未来に向かってしか行えず、タイムマシンは実現が不可能であることが通説になっている。また、同様にワープも不可能とされている。
2008.01.28
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未確認飛行物体とは、その名の通り何であるか確認されていない飛行物体である。「Unidentified Flying Object」の頭文字をとってUFOと呼ばれる。本来アメリカ空軍で用いられる用語で、主として国籍不明の航空機などに用いられている。進路を見失った飛行機や他国のスパイ機、さらにはミサイルの可能性があるので、スクランブルの対象となる。必ずしも物体ではなく、自然現象を誤認する場合もあるため、未確認空中現象(UAP)が用いられることもある。 アメリカ空軍の公式用語としてUFOを採用したエドワード・J・ルッペルト大尉は、その著書で「ユーフォー」と読むとしている。公式用語では、あくまでも「正体を確認できない飛行物体」のことであるが、異星人の乗り物(エイリアン・クラフト)の総称として誤用されることもある。ちなみに日本では「ユーフォー」と呼ばれているが、他の国では「ユーエフオー」と発音する場合が多い。
2008.01.27
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春近し紅白大宰府管公タケルの誕生日
2008.01.27
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雨に濡れ、何思う心清き乙女よ舞の天子 人を魅惑す韓国の人華開くローマの休日可憐に咲く色香惑わす知的理性貴方を思うMiya感謝
2008.01.26
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1月25日には武田軍は二俣城を陥落させ、遠州平野内を西に進軍したが、家康の本拠である浜松城ではなく、浜名湖に突き出た半島の先端に位置する堀江城を目的地とし、三方ケ原台地を通過した。ここでついに、篭城策から方針を転換した徳川家康は、三方ケ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃する作戦を立て出撃した。しかし、この戦いで家康は討ち死に寸前まで追い詰められるが、追撃を振り切り浜松城に一騎で逃げ帰った。このあと全ての城門を開き、火を焚き「空城の計」を行う。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得た。その夜家康は何とか一矢報いようと野営中の武田勢をを奇襲、犀ケ崖の絶壁につぎつぎと転落させている。この惨敗において家康は、夏目吉信、鈴木久三郎らを身代わりにの憤死により失い、途中恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われている。また、この敗戦時に描かせた、苦渋の表情の肖像画が残されているが、これは家康にとって、軍略の重要性を自らの戒めにするため、と解釈されている。 三方ケ原の戦いいで勝利した信玄であったが、野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど、持病が悪化し武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。4月12日、軍を甲斐に引き返す途上の信濃国駒場で病死した。享年53。辞世の句は、「大ていは地に任せて 肌骨好し、紅粉を塗らず 自ら風流」。「甲陽軍艦」によれば、信玄は遺言で自身の死を三年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること。また、勝頼に対しては信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼ることを言い残し、重臣の山県昌景に対しては「源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残したと言われている。
2008.01.25
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三方ケ原の戦いは、1573年1月25日、遠江国敷知郡ので起こった武田信玄と徳川家康との戦いである。信玄の上洛の過程での合戦であり、徳川軍1万1000(うち、織田氏からの援軍3000)、武田軍2万5000の軍勢が戦い、武田軍が勝利した。武田勢は余勢を駆って遠江・三河の諸城を攻撃するものの大将の信玄が発病したために上洛は中止され、甲斐国へ帰還中に信玄は病死した。 当時、織田信長は畿内を平定中であった。そのため、1565年(永禄8年)には信玄と信長は東美濃の国人領主遠山氏の女を信長が養女とし武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んでいる。続いて信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立しており、同盟関係にあった。しかし、信玄は1572年8元亀3年)に将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄する。そして、上洛するために甲府を進発した。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万2000の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った。これには後北条家の援軍3000も加わり、総勢は2万5000となった。 信玄率いる本体は只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とし進撃した。山県昌景軍は柿本城、井平城を落として信玄本体と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた。
2008.01.25
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韓信はそれ以降、長安の屋敷で鬱々と過ごした。ある時、舞陽候の所に立ち寄ったが、韓信を尊敬する彼は礼儀正しく韓信を大王、自らを臣と呼んで最大限の敬いを見せたが、韓信は「生きながらえて貴方などと同格になっている」と自嘲した。 劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。劉邦が韓信に「わたしはどれくらいの将であろうか。」と聞くと、韓信は「陛下はせいぜい10万の兵の将です。」と答えた。劉邦が「ではお前hどうなんだ。」と聞き返したところ、、「私は多ければ多いほと良いでしょう。」と韓信は答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ。」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることが出来なくても将に対して将であることができます。これは天授のものであって、人力のものではありません。」と答えた。 歳月は流れ、陳が太守に任命された。韓信を尊敬していた彼は、出立にあたり長安の韓信の屋敷に挨拶にやってきた。韓信は彼に、あまりの冷遇にもう劉邦への忠誠はなく、もはや私が天下を取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い彼が謀反すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き、長安は空になる。鈴鹿は精兵の居る要衝であるから、容易には落ちないだろう。そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているので、諸国も味方に付くだろう、というのである。紀元前196年の春、はたして陳は鈴鹿で反乱を起こした。信頼する陳の造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、囚人を解放して配下として呂后と皇太子を監禁して政権を奪おうと謀った。だが韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため計画は事前に発覚してしまう。呂后に相談された相国は「陳が討伐された」という噂を流し、さらに韓信を招いて捕らえようとした。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕えられてしまう。用意周到に謀反を計画し、慎重さにもぬかりのなかった韓信だが、自分を大いに買って引きとめ、大将軍に推挙してくれた相国だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、彼の三族も処刑された。
2008.01.24
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その頃、楚漢の戦いは広部山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲い掛かった。韓信にもこれに加わるように要請が来るが、韓信はこれを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。漢軍は核下に楚軍を追い詰め,核下を脱出した項羽は烏江で自決し、5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した。 紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は韓信を斉王から楚王へと移した。故郷の准陰に凱旋した韓信は、かつて飯を恵んでくれた老女に大金を与え、またかつて自分を侮辱した少年を探し出して中尉の位につけた。その際に「あの時、この者を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登ることが出来たのだ」と自慢した。また、居候していた亭長には「世話をするなら最後までちゃんと面倒を見よ」と諫め、百銭を与えた。だが、ここが韓信の絶頂期であり、これから転落の坂を一気に転げ落ちることとなる。紀元前201年、楚の将軍・鐘離昧を匿ったことで劉邦の不快をかい、また韓信の異例の大出世に嫉妬したものが「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これを弁明するために自害した鐘離昧の首を持参し、謁見したところを捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗煮られ、高烏尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮られるのか」と述べ、劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を准陰候に格下げすることで収めた。侯には兵権がないため、劉邦は韓信が兵を持てないようにしたのである。
2008.01.23
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しかしこの時、韓信の軍中にいた弁士は「漢王からの命令で進軍してきたのであり、未だ停止命令は出ていないので、このまま斉に攻め込むべきです。このままでは将軍の功績が一介の儒者の功績に劣ることになってしまいます。」と述べ、韓信はこの勧めに従ってそのまま斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は儒者を煮殺して逃亡した。斉は楚に救援を求め、項羽は将軍竜且と20万の軍勢を派遣する。竜且は持久戦に持ち込むことを進言されたが、以前の「股夫」韓信を知っていたので、侮って決戦を挑んだ。韓信も竜且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い河が流れている場所を戦場に選んで迎え撃った。このとき、韓信は決戦の前夜に河の上流に土嚢を落としこんで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は負けた振りをして竜且の軍をおびき出し、楚軍が河を渡ろうとした所で堰を崩させた。怒涛の如く押し寄せた水流に竜且の20万の軍勢は散り散りとなり、竜且は捕虜になって斬刑に処された。 斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のために斉の仮王となりたいと申し出た。劉邦は自分が苦しい時に何を言い出すかと怒りかけたが、張良と陳平に諌められ、一転「仮王などとは言わずに、真の王となれ」と許可した。斉王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に楚に味方するよう説き、劉邦は見逃してやっても攻めてくるような義理のない信頼できない人物であるため、あなたにとって従わない方が良い主君だとも説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、劉邦に大抜擢され、さらに斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。この後に「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれを纏めれば、天下は付いてくる」と進言され、韓信も大いに悩んだが、結局これを退けた。
2008.01.22
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体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働隊が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に付いていたが裏切って楚へ下った魏の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて討伐に送り出す。魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信は囮の船を並べてそちらに敵をひき付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏で兵を渡らせて魏の首都安邑を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。 この後、北に進んで代を占領し、さらに趙へと進軍した。韓信は「背水の陣」という独創的な戦術を採り、20万と号した趙軍を打ち破って陳余と趙王を斬った。続いて、趙の将軍であった李左車の進言を入れ、燕に使者を送って降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出てこれを認められる。この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の漢軍に対して幾度も兵を送っていた。しかしついに劉邦は楚の包囲から逃げ出し、韓信たちがいた修武まで来ると幕舎で寝手入る韓信の所に忍び込んで怒鳴りつけ、指揮権を奪ってしまった上に、韓信に斉を平定するように言いつけた。ところが劉邦は韓信を派遣したあとに気が変わり、儒者を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。
2008.01.21
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劉邦はとりあえず韓信を治栗都尉としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。この頃の漢軍では、辺境の漢中に居ることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図った。しかし、韓信のような人物は国士無双で、漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ありませんが、漢中を出て天下を争おうと考えるのならば韓信がいなくてはなりません。との進言を受け、劉邦は、ついに韓信の才を信じ、全軍を指揮する大将軍の地位にまで引き上げた。 韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち項羽の強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇~本人は情があり勇敢だが部下を重んじず恩賞を与えない)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。関中の三秦の王は20万の兵士を見殺しにした元将軍達であり人心は離れている。その逆に劉邦は以前或陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。 劉邦はこの年の八月に関中攻略に出兵し、これに成功。関中を本拠地として項羽との対決に臨む。その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は諸侯との連合軍56万を率いて親征し、項羽の本拠地を陥落させる。しかし、斉から引き返して来た項羽の軍に大敗し、命からがら栄陽に逃走した。韓信は劉邦に同行していたが、途中で兵をまとめると追撃してきた楚軍を迎撃し、劉邦の撤退を助けた。
2008.01.20
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韓信(かんしん?~BC196年) 中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。中国のみならず世界軍事史上の名将として名高く、同時に悲運の将軍としても知られている。 准陰の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がりこんでは居候するという生活をしていた。ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑った。この逸話を韓信の股くぐりという。またこれにより「股夫(こふ)」というあだ名もついた。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ}と冷静に判断していたのである。 秦の始皇帝の没後、陳勝、呉広の挙兵を機に大規模な動乱が始まると、期限前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に使えて郎中となったが、項羽に度々進言した内容は用いられることはなかった。 紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも接待係りというつまらぬ役しかもらえなかった。ある時罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま劉邦の重臣の夏候嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ。」と訴え、韓信を面白く思った夏候嬰は、韓信を劉邦に推薦した。
2008.01.19
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214年には益州を平定すると、軍師将軍・署左将軍府事に任命される。220年に曹操が死去し、その子曹丞が後漢の献帝より禅定を受けて、魏を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・禄尚書事となる。 劉備が関羽の弔い合戦として呉へ進軍を計画。この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されると、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉(首都圏の長官)を兼務する。223年、劉備が死去し、劉禅が帝位に就くと、諸葛亮は、武郷候・開府治事・益州牧になり、蜀の政治のすべてを任される。 関羽の死によりこじれた呉との関係を修復し、魏に対する北伐を企画。227年に一回目の北伐を行う。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名。234年には第五次、最後の北伐に出征。持久戦の構えをとって五丈原で司馬いと長期に渡って対陣。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥の戦いで魏に大敗し、司馬いも大軍を擁して専守防衛に徹して動かなかった。すでに病に犯されていた諸葛亮は、陣中で病没した(234年)。人生とは、困難との戦いの連続である。
2008.01.17
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諸葛亮孔明(181年~234年) 父は泰山群の丞(群の副長官)を勤めるが、幼い時に死去。また、母も幼い時に死去する。その後、成人した孔明は晴耕雨読の日々を過ごす。その頃、中央では、曹操が袁紹を打ち破って華北を掌握。劉備は劉表を頼り、荊州の北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰う。 人材を求める劉備に「三顧の礼」をもって迎え入れられる。劉備に対して「天下三分の計」を提唱。魏(曹操)、呉(孫権)と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、しかる後天下を争うべきだと勧める。208年に劉表が死去し、劉宗が継ぐと劉備は手勢を連れて逃れ、孫権との同盟を画策。孔明は孫権の元へ行き、孫権に曹操への交戦、同盟の締結を説く。その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し勝利した。(赤壁の戦い)。赤壁の戦い後、荊州南部の四郡を占領。孔明は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たる。
2008.01.16
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あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る額田王(ぬかたのおおきみ、7世紀後半・生没年不詳) 女流万葉歌人。出生地に関しては、大和国平群群額田郷、島根県東部(出雲国意宇群)などの説がある。 斉明朝から持統朝に活躍した、日本の代表的な女流歌人である。「万葉集」では額田王と著され一般的であるが、「日本書紀」では額田姫王、「薬師寺縁起」では額田部姫王とも著される。 また、「日本書紀」によると鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を生む。鏡王は2世紀~5世紀の皇族(王族)と推定され、宣化天皇の曾孫、近江国野州群鏡里の豪族で、壬申の乱の際に戦死したとされている。 658年(斉明四年)、斉明天皇の紀温泉行幸に従い、歌を詠む(万葉集巻1~9)。また、661年(斉明七年)に天皇の新羅征討の際、熱田津の石湯行宮で歌を詠む。 668年には(天智七年)蒲生野遊猟に従い、大海人皇子と歌を贈答。 671年(天智十年)、天智天皇崩御の後、おおあらきの時に歌を詠んでいる。 さらに、693年(持統七年頃)に吉野行幸の際、弓削皇子より歌を贈られ、これに和している。 十市皇女の出世後、天武天皇の兄である中大兄(天智天皇)に寵愛され60歳頃まで生きていたと推定される。
2008.01.15
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2008.01.14
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2008.01.13
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585年に敏達天皇が崩御して厩戸皇子の父である橘豊日皇子が即位し、用明天皇になる。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。その2年後の587年に用明天皇が崩御すると、皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を謀殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍をおこし、大豪族であった物部氏を滅ぼした。戦後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、593年に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。 太子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋の進んだ管司制をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて髄の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、「国記」、「天皇記」の編纂を通じて天皇の地位を高めるなど大きな功績を挙げ、622年2月22日に聖徳太子は亡くなった。 593年、物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立。 594年、仏教興隆の詔を発す。 600年、新羅討伐の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 601年、斑鳩宮を造営 603年、天皇の中央集権を強める目的で、冠位十二階を定め、氏姓制によらず才能に よって人材を登用。 604年、十七条憲法を制定し、豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを定めた。 601年、斑鳩宮に移住。 607年に小野妹子、鞍作福利を遣隋使として髄に派遣し、国交を結んだ。 620年、馬子と議して「国記」、「天皇記」などを選ぶ。
2008.01.12
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604年1月11日(旧暦603年/推古天皇11年12月5日)に聖徳太子が冠位十二階の制度を制定した。 聖徳太子(574年~622年)は本名を厩戸(うまやと)と言い、厩戸の前で出産されたことによる伝説があるが、生誕の地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。また、別名、豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、「古事記」では、上宮之厩戸豊聡耳命と表記されている。また、「日本書紀」では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王とも表記されている。 厩戸の前での出産は、当時、中国で布教されていたキリスト教(景教)の影響を受けていると考えられる。 父は橘豊日皇子(用明天皇)、母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみや)とされている。また、「上宮聖徳法王帝説」などでは子に山背大兄王(やましろのおおえのおう)などがいる。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君であり、厩と皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
2008.01.11
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雄略天皇は、伊勢神宮外宮を建立している。元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまたかえりみられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったものと思われる。 先代の安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭皇女を、同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香と草香皇女は父系の叔父と叔母)。仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に就けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠?)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。安康天皇は大草香皇子を殺害、その妃である長田大郎女を奪って自分の皇后とした。彼女は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、やがて眉輪王に安康天皇は殺害される。御製歌 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべてられこそ居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも (万葉集巻1)(美しい籠をもち、美しい籠を手に、この丘で菜を摘む娘よ、そなたはどこの家の娘か 名はなんというのか この大和の国を、隅々まで治めている、全てを支配しているこの私から、名をも家をも名乗ろう) 夕されば小倉の山に 鳴く鹿は こよひは鳴かず 寝ねにけらしも (万葉集巻9)(夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寝てしまったらしいよ)
2008.01.10
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雄略天皇は、丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76メートル・島泉丸山古墳とも)平塚古墳(方墳・辺50メートル)に比定されている。近年一部の考古学者が、同県松原市西大塚と羽曳野市南恵我之荘に亘る河内大塚山古墳(前方後円墳・全長335メートル)とする説があるが、陵墓参考地のために詳細な調査がなされておらず不明確な点があるものの、埴輪の存在が明らかでないなどの特徴から、前方後円墳終末期のものであるとの説が強く、そうすると雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがあり妥当なものではない。 「古事記」によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祢命(後の仁賢天皇)自ら雄略天皇陵の墳丘を小規模ながら破壊した、とある。「書紀」にも顕宗が陵破壊を提案したとあるが、皇太子億計がこれを諌めて思い止らせたとする。
2008.01.09
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対外関係では、雄略天皇8年2月(464年)に日本府軍が高句麗を破り、9年5月には新羅に攻め込んだ。新羅を撃破し続けたが、将軍の紀子弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、指揮系統の内乱のために退却した。「三国史記」新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入している。こちらは新羅が打ち破ったと記載されている。20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)、大王は百済に任那を与えて復興したという(「三国史記」高句麗本紀・百済本紀に依れば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされた王は殺され、同年熊津に遷都している)。この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子末多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。 22年(478年)白髪皇子を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。
2008.01.08
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都は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。伝承地は奈良県桜井市黒埼だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡かと話題になった。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。尚、「日本霊異記」によれば、磐余宮(いわれのみや)にも居たという。 安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで板合黒彦皇子・眉輪王をも殺そうとした。この二人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、市辺押磐皇子(いちへのおしはのみこ、仁賢天皇・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して11月に大王の座に就いた。即位後も誤って人を処刑することが多かったため、後に、大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから両者は同一人物ではないかとの説もある。 平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に,大伴室屋(おおとものむろや)・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結びついていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴守屋が鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にした。「日本書紀」には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさのいらつこ・474年)を討伐した記事が見えている。
2008.01.07
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雄略天皇(允恭天皇7年(418年)12月~雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代天皇(在位:安康天皇3年(456年)11月13日~雄略天皇23年(479年)8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若健命・大長谷王(古事記)。大悪天皇・有徳天皇とも。また、「宋書」・「梁書」に記される「倭の五王}中の倭王武に比定されている。 倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に「獲加多支歯大王」と記載されていたことはこれを裏付ける。朝廷としての組織はまだ未熟であったが、「日本書紀」の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、「万葉集」や「日本霊異記」の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたことが窺われる。 雄略天皇は允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。安康天皇の同母弟。皇后:草香幡枇姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。仁徳天皇の皇女)妃:葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)白髪皇子(しらかのみこ、清寧天皇)托幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ、稚足姫皇女とも)斎宮妃:吉備稚媛(きびのわかひめ。吉備上道臣の女)岩城皇子(いわきのみこ)星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)妃:和邇童女君(わにのわらわきみ。春日和邇臣深目の女)春日大娘皇女(かすがおおいらつめのひめみこ、高橋皇女)仁賢天皇の皇后
2008.01.06
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日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるか定説はない。新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、ここに十市皇女が埋葬されているという説が有力である。 十市皇女が埋葬されていると伝えられている比売塚に、1981年「比売神社」が建てられ、現在もそこに祀られている。縁結びの神として遠方からの参拝客も多い。また比売塚の近所に赤穂神社があり、これを比売塚の拝殿であると考える人もいる。 筒森神社(千葉県夷隅郡大多喜町)は十市皇女を祀っている。壬申の乱に敗れた大友皇子に従って東国へ落ち延びた十市皇女はその時妊娠中で、山を分け入りこの地まで辿りついたが難産(流産)の末亡くなったので、哀れに思った里人の手で手厚く霊を弔いここに社を建てたとされ、安産の神とされている。十市皇女に関する歌 万葉集巻第1 22番河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな 常処女にて 万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)三諸の神の神杉 巳具耳埃自得監乍共 寝ねぬ夜そ多き三輪山の山辺真麻木綿短木綿 かくのみゆえに長しと思ひき山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく 156番の歌の訓読みとして、「去年(こぞ)のみを我と見えつつ(去年ばかりは私と逢ったが、共に寝ない夜が多い)」「夢にのみ見えつつもとな(亡くなった人の姿が夢にばかり見えて、共に寝なくなった夜が多い)」などが挙げられているが、いまだ定説に至っていない。「ともに寝る」という解釈により、高市皇子と十市皇女との間には恋愛関係(肉体関係)があったとする見方が多い。血縁関係 父、天武天皇 母、額田王(父、鏡王)異母兄弟姉妹 兄弟、 高市皇子・草壁皇子・大津皇子・磯城皇子・穂積親王・長皇子 弓削皇子・舎人親王・新田部親王 姉妹 大来皇女・但馬皇女・泊瀬部皇女・(夫、川島皇子)・託基皇女(夫、志貴皇子) 紀皇女・田形皇女(夫、六人部王) 夫、大友皇子(弘文天皇、父、天智天皇) 子、葛野王母、額田王は天武天皇と天智天皇との三角関係にあり、娘、十市皇女は大友皇子(天智天皇の子)と高市皇子(天武天皇の長子)との三角関係にあった。なにか因縁を感じる。
2008.01.05
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十市皇女(とおちのひめみこ) 天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。 天智天皇の皇子の大友皇子(弘文天皇)の正妃となり、天智天皇8年(669年)頃?葛城野王を産む。しかし、天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱では、父と夫が戦うという事態になってしまう。 壬申の乱後、父(天武天皇)の元に身を寄せたと思われるが、敗北した近江側の実質的な皇后として、また天皇の皇女として依然として大変複雑な辛い立場にあったと思われる。 彼女の動静はほとんど記録が残っていないが、天武天皇4年(675年)の2月13日、阿閉皇女とともに伊勢神宮に参詣したとある。ここで十市皇女が阿閉皇女とともに伊勢を訪れた目的としては、単に壬申の乱の戦勝を伊勢神宮に報告するという説と日本書紀に天武天皇4年(675年)1月に薬や貴重な品が朝廷に献上された記録があることから、それらを伊勢神宮に持参するために彼女らが派遣されたという説、天武天皇が壬申の乱で大友皇子を破って即位し、自分の子の草壁皇子を皇太子としたことから、皇太子の交代をそれぞれの妃に伊勢神宮に報告させたという説などがある。 その後未亡人であったにも関わらず泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日4月7日朝に急死する。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中にみまかせぬ」と記されており、14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際父の天武天皇が声を出して泣いたとされている。 そもそも、何故未亡人であり出産も経験した彼女が、未婚の女性でなくてはならない斎宮に選ばれたのか。これについても乱後7年経ち大友の喪が明けることと関係があると見なす見方もある。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後でありこの不審な急死については、自殺説・暗殺説もある。 彼女の死を悼んで高市皇子が熱烈な挽歌を捧げている(「万葉集」巻2)。このことから、夫、大友皇子との不仲説や、高市皇子との恋人説・夫婦説がある。
2008.01.04
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昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。) 草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でお付けなさいよ、この針でもって。) 「万葉集」に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令の終止法にに付く終助詞「~ろ」は、現代東日本の「~ない」「~ろ」に連なる可能性がある。 「万葉集」は全20巻であるが、その巻頭の歌が、倭の五王の一人とされる、雄略天皇の歌で始まっている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。大泊瀬稚武(おほはつせわかたける)天皇の御製歌(おほみうた) 籠(こも)よ み籠(こ)持ち堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも 巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、竹取物語との関連を示している。竹取物語は作者は不明とされているが、紀氏の誰かであると考えている。 巻9の高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型というべき内容が歌われている。すでに、この時代には伝説化されていた可能性が高い。
2008.01.03
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「万葉集」と方言 「万葉集」には「東風越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。即ち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。 東歌は東国地方の歌の意味で、東国(今の関東・東北地方から東海地方まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌90首+5首)と不明の歌(未勘国歌140首+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるが、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。 防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、最も著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人が詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言資料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。
2008.01.02
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「ますらおぶり」 「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な資料であり、派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりを、賀茂真淵は「ますらおぶり」と評している。 万葉仮名 全文がかんじで書かれていて、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなど多種多様である。 編纂された頃にはまだ仮名文字は作られておらず、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であった。 万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。そうして「平仮名」と「片仮名」が創造された。現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名などの多くは万葉仮名に由来するものが多い。
2008.01.02
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時期区分第1期 舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王(ぬかたのおおきみ)・舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女(かがみのおおきみ)・藤原鎌足第2期 平城遷都(710年)までで、代表歌人は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)などの官人達の儀礼的な場での宮廷賛歌や旅の歌などが有名である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子第3期 733年(天平5年)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情ににあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂(むしまろ)、女性の哀感を歌にした坂上郎女(さかのうえのいらつめ)第4期 759年(天平宝字3年)までで、代表的歌人は旅人の子で大伴家持・笠郎女(かさのいらつめ)・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・橘諸兄(たちばなのもろえ)中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王 歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌とみられ、また東歌や防人歌などにみられるように庶民にまで広がっていったことが分る。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代とともに拡大されていったと考えられる。
2008.01.01
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2008.01.01
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