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9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧日本陸軍の参謀本部が編纂した日本戦史関ヶ原の役によれば、東軍7万5千、西軍10万、会わせて17万を超える兵力が関ヶ原の盆地に集結したしたことになる。 西軍は三成の拠る「笹尾山」、宇喜田秀家の拠る「天満山」、小早川秀秋の拠る「松尾山」、そして毛利秀元が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷く。明治の世に軍事顧問として来日したクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。関ヶ原布陣図 関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならい。そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。 濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児才蔵が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜田秀家隊に向けて発砲、ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされた。 対する宇喜田隊も直ちに応射、関ヶ原はたちまちのうちに激戦の様を呈した。福島正則隊6千と宇喜田秀家隊1万7千は押しつ押されつ、両者一歩も譲らず、黒田長政隊5千4百、細川忠興隊5千は一斉に三成の部隊めがけて襲い掛かる。三成隊も配下の島左近や蒲生郷舎らが奮戦、襲い掛かる敵を撃退してゆく。大谷吉継隊4千1百と配下の戸田重政、平塚為広計1千6百は、藤堂高虎隊2千5百と京極高知隊3千と交戦。激戦をこの地で体験した太田牛一は次のように記している。敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、千戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う
2008.10.31
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7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である鳥居元忠が預かる伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城は宇喜田秀家、島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した(伏見城の戦い)。その後、丹波国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。 一方東軍は、家康が背後(上杉・佐竹)への危険から江戸に留まり、藤堂高虎、黒田長政らを使って、諸将に書状をしたため、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家と所領の安堵を、小早川秀秋に北政所への忠節を説いて、内応を約束させる。 この間、東海道を西進する福島正則、池田輝政ら豊臣恩顧の武将を中心とした先発組みが、8月22日、河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田信秀(三法師)が城主の岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。岐阜城が落ちたのを知ると、家康は9月1日に約3万3千の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。 宇都宮に残った家康の三男徳川秀忠は8月に約3万8千を率い、中仙道を進んだが、途中、真田昌幸の篭る上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わなかった。 家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に赤坂の岡山に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出し、東軍の一部を誘い出すと、これを散々に打ち破った。これを杭瀬川の戦いという。 9月14日夜、家康は赤坂を出て中仙道を西へ向かう構えを見せた。これにつられるように、大垣城に篭っていた石田三成らは関ヶ原へ転進した。
2008.10.30
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西軍の中心人物石田三成西軍本隊 石田三成・大谷吉治・島津義弘・安国寺恵瓊・長束正家・宇喜田秀家・大谷吉継・小西行長・長宗我部盛親・毛利勝永大津城攻撃部隊 毛利元康・木下俊定・立花宗茂・増田盛次・毛利秀包田辺城攻撃部隊 織田信包・竹中隆重・中川秀成・別所吉治・毛利高政美濃・尾張守備隊 ・大垣城:福原長堯、秋月種長、垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛、 ・岐阜城:織田秀信、木造長政、佐藤方政、百百綱家 ・犬山城:石川定清、生熊長勝、伊藤長俊 ・その他:池田秀氏、稲葉貞通、稲葉典通、遠藤胤直、杉浦重勝伊勢守備隊 氏家行継・新庄直定・鍋島勝茂・龍造寺高房・九鬼嘉隆北国口守備隊 青木一矩・木下利房・丹羽長重・織田秀雄佐和山城守備隊 石田正継・石田正澄・石田朝成・石田重家大坂城留守居・守備隊 毛利輝元・増田長盛・前田玄以(中立説もあり)・石川貞通 在国 ・奥羽:上杉景勝、小野寺義道、相馬義胤(16代当主、中立説あり)、岩城貞隆(上杉方に好意的な中立) ・関東:佐竹義宣、蘆名義広、多賀谷重経、山川朝信、結城朝勝 ・信濃:真田昌幸、真田信繁 ・北陸:前田利政 ・九州:太田一吉、鍋島直茂、南条元清、島津義久その他 ・生駒親正(病気を装い本戦には不参加) ・蜂須賀家政(家臣を大坂に派遣し自身は剃髪して高野山に上がる) ・織田信雄(西軍に属した説と中立説がある)内応積極的内応軍=積極的に戦に参加した西軍の部隊 ・小早川秀秋、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱など消極的内応軍=それ以外の内応部隊 ・吉川広家中立 ・大村喜前、片桐且元、片桐貞隆、木下家定、五島玄雄、松浦鎮信経過前哨 7月1日、宇喜田秀家が豊国社で出陣式を行い、これに高台院は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代参させている。7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。(このことから、秀家が先に決起し、三成はあとから挙兵を決意したという見解がある)。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を凝らし、毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。逆に佐竹義宣は三成よりだったが父義重の反対に遭って中立を余儀なくされた。朝焼け
2008.10.29
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7月25日に行われた小山評定における重大な問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちがどのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。こうしたなか、黒田長政は福島正則に秀頼には累が及ばないことを説明し、旗幟を鮮明にするよう説得した。 評定では、山岡道阿弥・岡野江雪から情勢の説明と妻子が人質になっているため、進退は各自の自由であるとの家康の意向が伝えられた。すると福島が大坂のことは考えず、家康に味方をすることを表明。黒田・徳永寿昌がこれに続き、豊臣恩顧の武将らは家康に従うことを誓約した。 つづいて山内一豊が自らの居城掛川城の提供を申し出、他の武将もこれにならった。この案は堀尾忠氏(一豊の盟友堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、東海道の諸城を確保したことで東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。東軍東海道本隊(家康隊) 東海道・近畿以西の豊臣恩顧大名と軍監(目付)として井伊直政・本多忠勝を先発隊としている。後日出撃した家康本隊は大名級がほぼ秀忠隊に配属されており、32,700の軍勢の構成は旗本が多く占めている。井伊直政は3,600程度の軍勢を連れていたが出陣前に病に倒れ、本多忠勝が臨時にこれと代わった為に忠勝隊は小姓・足軽ら400程度の軍勢であった(本多家の本隊は忠政とともに秀忠隊に配属。また、病の癒えた直政も後を追っている)。徳川家康・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明・藤堂高虎・福島正則・細川忠興・柳生宗矩・黒田長政・山内一豊・堀尾忠氏など東海道隊別働隊(大垣城包囲・周辺城砦攻略)市橋長勝・津軽為信・松平康長・水野勝成など東海道守備隊内藤信成(沼津城・興国寺城)・菅沼定仍(駿府城)・松平康重(掛川城)・保科正光(浜松城)・松平家乗(吉田城)・北条氏勝・松平忠頼(岡崎城)・松平家清・石川康通(清洲城)中仙道隊(秀忠隊) 徳川家大名クラスの多く(これは秀忠隊が当初は上杉、後に中仙道制圧を任務としていたからと思われる)と信濃の大名がこの隊に属している。徳川秀忠・小笠原信之・真田信幸・大久保忠佐・酒井忠利・本多忠政・土井利勝など対上杉守備隊結城秀康・小笠原秀政・松平信一など江戸城留守居武田信吉・石川家成・鳥居忠政・松平康元など伏見城守備隊鳥居元忠・松平家忠・内藤家長など在国・奥羽:南部利直、伊達政宗、秋田実季、戸沢政盛、六郷政乗、二賀保挙誠、最上義光・越後:溝口秀勝、村上義明、堀秀治、堀親良、堀直寄、柴田勝全、近藤重勝・北陸:前田利長、土方雄久・伊勢:九鬼守隆、富田信高、福島正頼、山岡景友、古田重勝、分部光嘉近畿:細川幽斎、京極高次、木下延俊、桑山一晴、桑山重晴・九州:黒田孝高、加藤清正、有馬晴信、伊東祐慶その他・中村一氏(駿府で病床にあり、療養中。決戦前に病死)・堀尾吉晴(三河池鯉鮒において加賀井重望に襲われ、負傷し休養)・長谷川守知(佐和山城で諜報活動)・柳生宗厳(大和で諜報活動)・伊東祐兵(大坂で病床にあり、療養中)伏見城
2008.10.28
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十三夜 主な東西の大名 徳川家康 255万石 毛利輝元 120.5万石 前田利長 83 上杉景勝 120 伊達政宗 58 宇喜田秀家 57.4 加藤清正 24.5 島津義弘 56 福島正則 20 小早川秀秋 35.7 細川忠興 18 石田三成 19.4 家康は前田利家の嫡男の前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が存在してとして、容疑者として五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らに蟄居をなどの処分を下す。さらに前田利長に対する謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画した。利長は実母の芳春院を人質として下すなどして恭順的な態度を示し、前田家の地位は保全された。朝日 慶長5年(1600年)になると、家康は上杉氏の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として会津の上杉景勝に対して軍備増強を非難し、上洛して釈明するよう警告を出す。景勝の重臣である直江兼続は家康の警告を無視し、豊臣軍による上杉征伐が開始された。家康を総大将として、豊臣大名の多くがそれに従軍し上杉の領地である会津に向けて行軍を開始する。 失脚していた石田三成は大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧で伊予国の大名でもある安国恵瓊らと共謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。しかし、その最中に、細川忠興の正室である細川ガラシャは、石田方の人質になるのを拒み、キリシタンのため自害が禁じられていることから、忠興の家臣に槍で胸を突かせて死亡する。 家康は伏見城に残した家臣の鳥居元忠の報告で下野国小山(栃木県)において、三成挙兵を察知する。家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った(小山評定)。 上杉討伐は中止され、真田昌幸や田丸忠昌らの大名は家康から離反することになるが、大部分は引き続き家康に従うことを決め、軍は西へと上ることになった。 家康の上杉征伐は石田三成を挙兵させるために行った策略だったという見方もある。畿内に隙を見せ、三成の挙兵を誘ったのである。この説に従えば、鳥居元忠は家康側が三成を攻撃する口実を作るため、死を必至とする任務についたことになる。
2008.10.27
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秀吉は晩年には五大老・五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月に伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。 ・徳川邸に参集した大名 福島正則、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼、大谷吉継など。 ・前田邸に参集した大名 毛利輝元、上杉景勝、宇喜田秀家、加藤清正、石田三成、増田長盛、細川幽斎・細川忠興父子、加藤嘉明、浅野長政・浅野幸長父子、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親など。 翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名(「義演准后日記」ではこの他に藤堂高虎・蜂須賀家政・脇坂安治の3名も参加したとある)により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる(この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは俗説)。三成の失脚や他の五大老の帰国により家康の対抗勢力はなくなり、家康は伏見城から大坂城へ入城して政務を指揮する。徳川家康
2008.10.26
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関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で戦われた戦い。関ヶ原に於ける決戦を中心として、日本全国を舞台にして行われ、徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。 豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立したと一般的に考えられている。 日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と反徳川派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたと考えられてきたことから「天下分け目の戦い」とも呼ばれている。なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。 よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、西軍総大将は毛利輝元であり、副将は宇喜田秀家である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。また、関ヶ原において戦闘の中心となった東軍の武将のほとんどは豊臣恩顧の武将であった。関ヶ原古戦場 天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派(文治派とも呼ばれる)の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。1.豊臣政権の中央集権的な全国統治政策 1.外様大名の領国への豊臣奉行による太閤検地の実施 2.外様大名領への太閤蔵入地の設定 3.大名の有力会家臣への知行宛行(伊集院忠棟、鍋島直茂など)と内政干渉2.秀次事件による、豊臣家及び豊臣家臣団の確執 秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。だが、天正19年(1951年)の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により、両派の溝は深刻なものとなっていた。
2008.10.25
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系譜 頼朝は聖和源氏の庶流だが、武家源氏の主流だった源頼信を祖とする河内源氏の七代目に当たる。父:源義朝-源為義長男。保元の乱で栄進するが、平治の乱で敗れ、敗走中に殺される。母:由良御前-藤原季範三女兄弟 源義平-悪源太。平治の乱後、平清盛暗殺のため京へ潜伏中に捕えられ斬首される。 源朝長-平治の乱後の敗走中に、戦傷が元で亡くなる。 源頼朝 源義門-早世。 源希義-同母弟。土佐国に流され、頼朝の挙兵後に討たれる。 源範頼-挙兵後の頼朝に仕えるが、謀反の疑いにより伊豆国に流される。 阿野全成-常盤御前の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、源頼家に殺される。 義円-常盤御前の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、墨俣川の戦いで平家軍に討たれる。 源義経-常盤御前の子。挙兵後の頼朝に仕えるが、対立し奥州に逃れ、藤原泰衡に殺される。 坊門姫-同母妹、一条能保室妻 八重姫-伊東祐親三女、千鶴丸母。病死したとも、頼朝を訪ねた際に政子の為に会えず、悲嘆し韮山の真珠ヶ淵に身を投げたとも伝わる。 北条政子-正室、北条時政娘、頼家・実朝・大姫・乙姫母 亀の前-良橋太郎入道娘 大進局-常陸入道念西(藤原時長、伊達朝宗)娘。三男・貞暁の母子女 長男:千鶴丸-伊東祐親に殺される。享年3。一部では生存して甲斐源氏逸見氏に預けられ、島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったという説もあるが傍証はない。 長女:大姫-源義高婚約者。享年20 次男:源頼家-二代将軍。伊豆修善寺に流され殺される。享年23 三男:貞暁-妾・大進局の子、仁和寺で仏門に入る。享年46 次女:乙姫(三幡)-頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14 四男:源実朝-三代将軍。頼家の次男・公暁に殺される。享年28家人 頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である畿内の河内源氏の源頼信、源頼義や源義家から恩を受けており、頼朝の父・源義朝に従っていた者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げた。また挙兵後には、平家の天下の下で苦しんでいた同族兄弟が、多く集まり従っている。関東平定後は、京都から公家を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。
2008.10.24
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朝日 頼朝の死因を伝える史料は、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、「保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑う余地はない。落馬説 吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。しかしその死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から13年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最後が不名誉な内容であったため、これを出版した徳川家康が「名将の恥になることは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいう。 なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。落馬から死去まで17日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある。尿崩症説 落馬して脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高い。糖尿病説 猪隈関白記の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとするが、そのような症状があったという記録はなく、可能性は低い。溺死説 史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れた事が死に繋がったのではと見る。また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至った事に由来するとも伝わる。溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲みすぎた事を意味すると見る。亡霊説 保暦関白記に記されている。当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。意識障害があったと捉えることもできる。暗殺説 頼朝は子の源頼家や実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく吾妻鏡への記載を避けたとする。誤認殺傷説 愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする。頼朝の墓
2008.10.23
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秋祭り義経との対立 吾妻鏡では、8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除いたことになっている(元暦元年八月十七日条)。しかし、この記述は同じ吾妻鏡の他の記事と齟齬を見せているとの説もある。8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を命じ(八月三日条)、義経は12日に出発している。つまり任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、26日、義経は平家追討使の官符を賜っている(文治五年閏四月三十日条)。頼朝は義経に対して何の処罰も下していないのであると言う。一方で、頼朝が義経の無断任官を知ったのは8月17日であるから、それ以前に何らかの命を義経に下しているのは当然であり、平家追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平家追討の官符を下しても、不思議はないとも考えられる。 義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平家追討で連戦連勝を遂げたので、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が藤原泰衡に討たれた直後に、奥州合戦を始めた事は、この説を裏付けるものとして用いられる。 平家滅亡後の鎌倉政権は、きわめて重大な時期に来ていた。内乱が収まると平家追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来なくなる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保し、補強しなけれがならない困難な状況に直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分に反抗する者は許しておくことは出来ない。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったのである。鬼 都落ちした義経を匿った事で鎌倉へ召還された興福寺の僧・聖弘は、義経を庇護した事を詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じた事から、義経を憎みきっていた訳ではない事が伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった。その相違が、平家滅亡後に露呈する事になったのである。 義経が鎌倉入りを止められ血涙をもって綴った腰越状が届けられた時、自害ののちにその首が届けられた時、頼朝がどのような反応を示したかは、「吾妻鏡」は何も伝えていない。天子社社殿
2008.10.22
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日の出北条政子と御家人 頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し次のように述べた。「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし。」これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。保暦間記 頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。豊臣秀吉 武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、次のように述べたと伝わる。「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」冗談ながらにも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると評している。徳川家康 頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれている。新井白石 読史余論の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであるとし、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽門した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いとし、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。 この他に「成敗分明(「玉葉」九条兼実」、「ぬけたる器量の人(「愚管抄」慈円)、「頼朝勲功まことにためしなかりければ(「神皇正統記」北畠親房)」、等がある。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤皇家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によって評価が揺らぐのも特徴と言える。宮沢賢治のように奥州文化の破壊者として批判的に見る者もいる。天子社神主清盛の遺言 「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は平家物語に記された文言であり、物語ゆえにその真偽を疑う声もある。 この遺言は戦国武士の感覚ならともかく、平安時代末期の武士感覚から考えてありえない遺言であるという説が近年では強く、清盛はむしろ頼朝との和睦と後白河法皇との協調政治を望んだとも言われている。しかし清盛の後を継いだ宗盛が暗愚だったため、宗盛の反対で何ひとつ実現しなかったと言う。 一方で、遺言に従ったのか清盛の墓所ははっきりと伝わっておらず、玉葉の治承5年(1181年)8月1日にも平家物語と似た意の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許す筈がないと記されている。
2008.10.21
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頼朝配下の東国武士団は独立心が強く、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らず、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体であったものを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げた。 文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。ある合戦の報告を聞いて「○は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい。○が遁走、△が討ち死にの間違いだろう」と指摘し、調べてみるとその通りであったというエピソードが「吾妻鏡」に多くある。側近の一人で公事奉行人の藤原俊兼が贅沢な衣服をまとっているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平などは善悪も判断できぬ程度の武士だが、衣服などは粗悪な品を用いて贅沢を好まない。だからその家は裕福で多くの家人・郎党を養い勲功をあげようとしている。それなのにお前は財産の使い方も知らず、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えた。このように側近官僚と東国御家人の双方ともよく知りぬき、適材適所を使いこなしていたのである。 異母弟義経や従兄弟義仲を滅ぼしているところから、「身内に厳しい人物」との印象が強い。反面、同母弟源希義の死に怒り狂い、仇に徹底的に復讐している面もあり、概して一条能保や足利義兼のような母方から繋がる縁者は優遇している傾向がある。自分の妻子には甘く、巻狩りで12歳の息子源頼家が鹿を仕留めた時にははしゃぎ過ぎて妻の北条政子に咎められている。 生涯において前線で戦うことは少なかったが、個人的な戦闘能力は意外と高く、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。戦術家・前線指揮官として義仲や義経に劣っていたことは本人も自覚していたが、軍事組織を運営する能力では上回っており、彼らとは違った意味で名将と言える。 頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡り長く続くこととなる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育で頼朝の名を学んでいる。 その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸では長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも希である。
2008.10.20
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鶴岡八幡宮境内白旗神社 墓所は鎌倉市の大倉山中腹に質素な石層塔が残っている。 死後その亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には薩摩藩藩主島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国指定史跡とされている。 鶴岡八幡宮境内にも白旗神社があり、社伝にとると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り正治2年(1200年)に創建したとされる。源頼家の創建とも伝わる。明治21年(1888年)に現在地に遷座した。明治以降は日光東照宮の相殿にも祀られている。 現在は源頼朝公墓前際が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われている。また、日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復し、兵庫県川西市の多田神社の源氏まつりでは、頼朝に扮した騎馬武者を見られる。白旗神社内 源頼朝墓所 「平治物語」は「年齢より大人びている」、「源平盛衰記」は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として「平家物語」に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記「玉葉」は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均より長身である。 肖像は多く伝わっている。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。しかし平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表し、像主について議論が続いている。鶴岡八幡宮に伝わっていた木像は、江戸時代には頼朝像とされ、現在は東京国立博物館が蔵し重要文化財に指定されている。甲斐善光寺の木像は文保3年(1319年)に彫られた像で、確実に頼朝像であると言われる。
2008.10.19
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建久3年(1192年)3月には後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍へと任ぜられた。一般的には将軍就任によって鎌倉幕府が開かれたとされる。 建久4年(1193年)5月28日、御家人を集め駿河国で巻狩りを行っており、その夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く北条政子に対し「範頼左で候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流され、のちに誅殺された。建久5年(1194年)には有力御家人である安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年(1197年)には、薩摩や大隈などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。 建久6年(1195年)2月、頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛し、長女・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく朝廷に入内運動を始める。だが、盟友である九条兼実は既に娘・任子を入内させており、反対されることを頼朝は危惧した。そこで京都では兼実ではなく、その政敵である土御門通親や丹後局と接触。大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行い、大姫入内の為の朝廷工作を計った。建久7年(1196年)11月、兼実は後鳥羽天皇への通親の讒言により一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる(建久七年の政変)。これにより、朝廷の親幕府派の壊滅、反幕府派の台頭を招くこととなった。建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により失敗に終わる。建久9年(1198年)正月、後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。もはや朝廷に代弁者を持たない頼朝の反対は無視された。頼朝はさらに次女・三幡姫の入内を企てるが、建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い。 建久10年(1199年)1月11日に出家し、13日に死去した。享年53(満51歳没)。
2008.10.18
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同月12日、頼朝は厨川に到達して、泰衡の首級を晒し、祖先の源頼義が安倍氏へ下した処分の故事を再現した。同月22日、頼朝は平泉へ戻り、戦後の奥州支配体制を固めるため、葛西清重を奥州総奉行に任命するとともに、奥州全域を鎌倉の直轄地とした。しかしその直後、泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇と称して鎌倉軍に対して挙兵(大河兼任の乱)。が、ほどなく鎮圧されてようやく奥州に平穏が恢復した。これにより、約10年にわたる治承・寿永の内乱が終息し、武家政権の確立につながる準備がほぼ整った。 この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏・源義仲・源義経に従っていた者たちの動員をも行っている。しかしその動員対象は「武器に足るの輩」(文治五年二月九日・源頼朝下文)に限定されていた。さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。 文治5年(1189年)11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功の有った御家人の推挙を促されるが、頼朝はこれらを辞する。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入った。 9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。ここで義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位を、より一般的な治安警察権の行使のために改め、永久的なものに切り替わったと推定される。しかし、東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍に任官できず、代わりに大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退し、後鳥羽天皇への拝謁を終えると六波羅に戻る。しかし六波羅に、「今に於いては異儀有るべからず」と記した権大納言任官の院宣が届き、再び辞退の書を返すが、容れられずに叙目は行われた。さらに22日には武官の最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやはり辞退するが、24日に右近衛大将へ任ぜられた。12月3日、両官を辞し、11日に勲功の有った御家人を任官させる。権大納言就任が決まった9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して胸襟を開いて語りあい、次のように述べている。「「今の世は法皇が思うままに政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。さいわいあなたもまだ若くて先は長い。私にも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず天下の政を正しくする日が来るでしょう」。そして、逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方が良いと判断した。14日に鎌倉へ戻るべく京を発し、29日に鎌倉へと戻った。
2008.10.17
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頼朝は行軍の間の7月25日に宇都宮社(古多橋駅)に戦勝を祈願し、また同29日には奥州の境となる白河関明神社に奉幣した。初秋の白河関に立った頼朝は能因法師の詩を思い出し、梶原景季を呼んで詠じさせるに「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 奥州側は国衡が2万の兵を率いて、阿津賀志山の前面に二重の堀を設け迎撃体制をとり、泰衡自身は多賀城の国府にて全軍の総覧に当たった。8月7日から同月10日にかけての阿津賀志山の戦いの詳細は次の通りである。8月7日、陸奥国(後の岩代国)伊達郡国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は阿津賀志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた。夜に入り頼朝は明朝の攻撃を命じ、まず予め用意していた鋤鍬で堀を埋めさせる。8日、畠山重忠、小山朝光、加藤景兼、工藤行光らに、阿津賀志山の前に陣する数千騎を攻めさせ破る。9日夜には明朝の阿津賀志山越えを命じ、先陣は国衡が拠る大木戸へと至る。10日、本軍が大木戸を攻め、搦手の山に登った朝光、紀権守、芳賀次郎大夫らの奇襲により国衡らを破り、逃げる国衡を和田義盛が討った。国衡の奥州軍は大敗し、泰衡は平泉方面へ退却した。その後、頼朝軍は北上し同月13日に船迫宿から多賀城に到着し、常陸方面から来た部隊と合流した。この間、比企・宇佐見の両将に率いられた部隊は出羽を制圧していた。 翌日の14日、玉造郡に泰衡在りとの報を受けると小山朝政、朝光らを向かわせ、泰衡の陣を囲むが泰衡は既に逃亡しており、朝政らは陣に残った残党を討つ。頼朝の先陣は続いて多加波波城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。20日、頼朝は先陣に「平泉に入るに於いては、僅か一二千騎を率いて馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人いえども無害の様、用意を致すべし」と命ずる。21日、平泉へ向かうと、泰衡の郎従は栗原に要害を築き防がんとするが、頼朝らはこれも破った。平泉に入るべく津久毛橋に至ると、梶原景高は「陸奥のせいはみかたにつくも橋、わたしてかけん泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。 同月22日には平泉に入ったが、平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。同月26日には頼朝に赦免を求める泰衡の書状が届いたが、頼朝はこれを無視して軍を進めた。泰衡は出羽(後の羽後国)方面へ逃亡し、現在で言うところの北海道への渡航も企てたが、9月3日、比内郡贄柵にて郎従の河田次郎に殺害され、その首級は同月6日に頼朝へ届けられた。7日、泰衡の郎従である由利八郎が捕えられる。その勇猛な態度から頼朝は八郎と会い、「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、尋常の郎従が無き故に、河田次郎一人に誅された。両国を治め十七万騎を率いながら、二十日程で一族皆滅びた。言うに足らざる事なり」と訊ねた。八郎は「故左馬頭殿は、海道十五箇国を治められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅せられ給わった。今と昔で違いは如何か。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませた。愚かと思い給うべからず」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に由利八郎を預け、芳情の施しを命じた。同月9日、泰衡追討の院宣が頼朝の下へ届いた。
2008.10.16
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奥州合戦は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。同時代には「奥州合戦」と呼ばれる事もある。 奥州藤原氏は、初代清衡以来三代100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨し、三代秀衡の時代には陸奥守、鎮守府将軍の官職を得て、名実ともに奥州を支配する存在になっていた。 平氏討滅後の頼朝にとって、関東武士による独自政権を安定させるためには、奥州藤原氏の政権を早期に吸収合併する必要があった。頼朝は、それまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。 文治3年(1187年)、鎌倉の承認なしに官職を得たため失脚していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることを知った頼朝は、義経の引き渡しを要求。これを拒んだ秀衡は、子息の泰衡・国衡・忠衡の三人へ、義経を擁護し、鎌倉と対決するよう遺言して、その年の10月に没した。 文治4年(1188年)、頼朝は、義経追討の院宣を二回に渡って獲得し、奥州政権へ圧力をかけるが、泰衡は遺命に従いこれを拒否。業を煮やした頼朝は、今度は泰衡追討の宣旨を朝廷に奏上した。 すると泰衡は、文治5年(1189年)4月30日、平泉衣川館の義経を襲撃し、義経主従を全員殺害した。同時に泰衡と反目する忠衡も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。これに対し後白河法皇は院宣の発給を拒否する。これに対し、大庭景義は奥州藤原氏は源氏の家人であるので、家人の誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が絶対であるのだから朝廷の意向は無視しても良いと主張する。頼朝はこれを容れて全国に動員令を発し、同年7月18日公称28万の大軍を率いて出陣した。鎌倉進発時に率いた主な御家人は、源義信、源義定、源範頼、源広綱、足利義兼、北条時政、北条義時、新田義兼、小山朝政、小山朝光、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、梶原景時、梶原景季、宇都宮朝綱、宇都宮成綱、八田知家、八田知重、葛西清重、江戸重長、佐々木盛綱、佐々木義清らである。 7月19日、頼朝は奥州に向かって鎌倉を発向した。一方、この日になってようやく後白河法皇は泰衡追討の院宣を出した。 畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、比企能員・宇佐美実政が率いる上野国の武士団を中心とした北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へ、そして千葉常胤。八田知家が率いる東海道大将軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へそれぞれ進軍した。
2008.10.15
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文治3年(1187年)10月、藤原秀衡が子の泰衡らに義経を将軍とする様に遺言して没する。翌年4月に頼朝は義経追討の院宣を院に求め、泰衡に義経を召し進せよとの宣旨が下される。屈した泰衡は文治5年(1189念)閏4月、衣川の館に住む義経を襲い、自害へと追いやった。 6月13日に義経の首が鎌倉に届けられると、頼朝は和田義盛と梶原景時に実検させる。25日には泰衡追討の宣旨を朝廷に求め、御家人を鎌倉に集めるが、勅許は下されなかった。頼朝は大庭景義を呼び、「今に勅許無し。なまじいに御家人を召し集む。これをして如何」と問うと、景義は「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」と答えた。頼朝はしきりに喜び、景義に褒美を与える。 7月19日、ついに勅許を待たず、およそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かい、奥州合戦が始まる。25日には宇都宮に到着、宇都宮大明神に戦勝を祈願するとともに佐竹秀義らを軍に加えた。 8月7日から10日にかけて行われた阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡を討ち取り、頼朝はさらに進撃し、泰衡を追って北上する。22日、平泉の泰衡の館に着くが、泰衡は館を焼き逃亡していた。頼朝は朝廷に戦況を報ずる使者を発し、泰衡の捜索を行う。26日、泰衡は書状を頼朝に届け、状中で助命を乞い返報を比内郡に捨て置く様に望む。書状を受けた頼朝は比内郡での泰衡捜索を命じ、9月2日には岩井郡厨河へと陣を移す。厨河はかつて前九年の役で源頼義が安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例にに倣い、厨河ででの泰衡討伐を望んだのである。3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれた。6日、河田次郎が泰衡の首を持ち、陣岡に戻っていた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、河田次郎を主人を討った不義による斬罪を命じ、泰衡の首はかつて源頼義が安倍貞任の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。 9日、奥州を征した頼朝に泰衡征伐の宣旨がようやく届いた。 厨河に戻った頼朝は、奥州藤原氏の建立した中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院などの寺領の安堵を命じる。平泉へ戻ると諸寺を参拝し、中でも中尊寺境内の大長寿院は、頼朝に鎌倉で模した寺を建立させた。24日、葛西清重に平泉の治安維持を命じると共に、伊達郡、磐井郡、牡鹿郡などを与える。27日、かつて安倍頼時の住んだ衣川の旧邸を訪れ、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。 この奥州合戦には関東のみならず全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜の身になっていたものに対してもこの合戦に従って戦功を上げて頼朝の下につくという挽回のチャンスの与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割もはたした。 この奥州合戦の終了で治承4年から続いていた内乱も終結を迎えることになる。
2008.10.14
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24日に北条時政は頼朝の代官として1000騎の兵を率いて入京した。頼朝の忿怒を院に告げ鎌倉側の要求を提出し、法皇との交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕の為として「守護・地頭の全国への設置」を迫り、これを認めさせる事に成功する(文治の勅許)。これによって鎌倉の権力の全国的政権への確定が行われる事になる。12月には義経に荷担した反幕府派の貴族を解官・配流によって一掃し、公卿たちの知行国も指定する。九条兼実ら親幕府派の公卿を議奏とし、兼実を内覧(摂政・関白の職務の中の実質的な部分)に任命する申請を行い、朝廷の人事を鎌倉色に塗り替えさせる。鎌倉の政権はここに安泰を得たのであり、これは義経の捜索に比べるべくもない重要性を持った成果であった。頼朝は兼実に送った書状の中で「今度は天下の草創なり」とその重要性を示している。 文治2年(1186年)3月には頼朝追討の宣旨を下した責任者として法皇の寵愛深い摂政の藤原基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤りながらも、東北へも意識を向け奥州の藤原秀衡に「秀衡は奥六郡の主、自分は東海道の惣官である。水魚の交わりをなすべきである。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」という書状を送り、探りを入れている。 同年5月12日には和泉国に潜んでいた行家を討ち取る。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害し、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と頼朝は朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出し、各寺院で逮捕の為の祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。 頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受ける様になり、また平重衡に焼かれた東大寺の再建なども手がける。なお、頼朝は義経を庇護する寺社勢力の力を削ぐ為、あえて捕縛せずに潜伏地を遅れて追跡したのだ、とする説もある。
2008.10.13
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文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を努めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く。4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせて帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した。 義経が近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝はかつて源義仲に属した叔父源行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請を受けると、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢し、襲撃は敗北に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。10月24日頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父義朝の菩提寺勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発し、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。一方の都の義経は頼朝追討の兵が集まらず、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。海路西国を目指す途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の静御前が吉野山で捕えられている。 11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように京都に上がった東国武士の態度は強硬で、法皇の知行国の播磨国に向かい、法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、朝廷は頼朝の怒りに狼狽し、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下される。12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して全国への守護・地頭の設置を進言。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して攻勢をかける。
2008.10.12
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義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発し、元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え京に連れ帰った。頼朝は四国に逃れた平氏を更に追討すべく、九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下す。 6月5日平頼盛(命の恩人池禅尼の子)、鎌倉に戻った範頼、源広綱、源義信、一条能保(同母姉妹の夫)らの官位を朝廷から得る。この時、在京していた義経は戦功がありながら任官から外されており、8月6日、後白河法皇の意向を受けて頼朝の内挙を得ずに検非違使に任官し、激怒した頼朝は義経を平氏追討軍から外した。8月8日、範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣する。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、小山朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京に入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた。 10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる。20日には訴訟を司る門注所を開き、三善康信を執事とする。この時期になると二階堂行政、平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。 文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事と、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求める。追討軍から外されて都にいた義経の四国派遣を決め、10日、義経は讃岐国屋島に拠る平氏追討へ向かう。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。2月19日、義経は屋島の戦いで平氏を海上へと追い、3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇ら平氏一門は入水し、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼした。 4月27日に平宗盛を捕えた功により、従二位へ昇った。
2008.10.11
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7月頃、頼朝は後白河法皇に「全く謀反の心無し。昔のごとく源平を共に召し仕うべきなり」との書状を送るが、清盛の後継者宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した。その一方で奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じ、秀衡に頼朝追討協力を期待する。一方その頃平氏の矛先は頼朝ではなく、養和元年(1181年)6月の横田河原の戦い以降活発化した若狭、越前などの北陸反乱勢力に差し向けられることとなった。また、遠江には未だ独立的立場をとる安田義定がおり頼朝が平氏勢力と直接対峙することはこの時期なかった。しかし、北方に勢力をはる奥州藤原氏の動向はわからず頼朝は坂東から身動きのとれない状態が続く。翌年の寿永元年(1182年)は天候不順による養和の大飢饉により平氏は追討活動を行うことができなかった。その年頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願し江ノ島に弁才天を勧請する。また同年8月に妻政子が嫡男の源頼家を出産している。 寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。主な御家人らは平氏の襲来に備えて駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝はそれを小山朝政らに託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、逃げる義広の兵を頼朝の異母弟である源範頼らが討った。頼朝は義広とそれに与した武士の所領を自らの御家人に与える。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった。 寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた従兄弟の源義仲が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。しかし、両者の話し合いで義仲の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した。 義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が安徳天皇と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、後白河法皇に召され平宗盛ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食料事情を悪化させ、また義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返して要請を断った。その理由として、一つは藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復した。14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻しその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、その命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行うという内容の宣旨が下された(寿永二年十月宣旨)。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永2年10月に宣旨が下されたことにより、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。 閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征夷大将軍(または征東大将軍)に任ぜられる。しかし20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国栗津で討たれた。 頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日の義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って追手を発し、24日に武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。
2008.10.10
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治承4年(1180年)8月29日、安房国へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に参上を命じ、北条時政を甲斐源氏の武田信義に加勢させるべく送る。上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は房総半島を北上する。10月初め、武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。10月6日、かつて父義朝と兄義平の住んだ鎌倉へ入る。鎌倉では、先祖の源頼義が京都郊外の岩清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移すなど整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。鶴岡八幡宮本殿 10月16日、頼朝追討の宣旨を受けた平維盛率いる数万騎が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諫め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている。 帰途、相模国府で初めての勲功を行い、捕えた大庭景親を誅すると、佐竹秀義を討つべく再び鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至る。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる。 治承4年(1180年)末までには、九州筑紫地方、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる。平氏も都を福原から京都に都を移して反撃に転じ近江源氏や南都などの畿内寺社勢力を鎮圧する。しかし養和元年(1181年)に入ると、肥後国の菊池高直、尾張国の源行家美濃源氏らも平氏打倒の兵を挙げ反平氏の活動は一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った。全国的な反乱が続く中、平家は兵を派遣して美濃源氏を鎮圧し、ついで清盛五男の平重衡は尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを伊勢と尾張の国境墨俣川の戦いにて打ち破り尾張を制圧するが、それ以上は東に兵を進めず都に戻った。頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居
2008.10.09
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義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中一行とはぐれ後に平頼盛の家人平宗清に捕えられる。なお頼朝がはぐれて後、父義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄義平は都に潜伏していたところ捕えられて処刑され、次兄朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としている。永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼は、早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたことなども影響し、死一等を減ぜられて頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流された。なお、同日平治の乱に関わった藤原経宗、藤原惟方や同母弟希義も流刑に処されている。 伊豆国での頼朝の流人生活は史料としてほとんど残っていない。流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩を楽しむなど比較的安定した生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。 なお、フィクション性が高いとされる「曽我物語」には次のような記載がある。仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。しかし祐親が在京の間にその三女八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎の妻とし、頼朝を討たんと企てた。祐親の次男からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳頃の事件であった。31才の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。強く反対した時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。 治承4年(1180年)、高倉宮以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態の成り行きを静観していた。しかし平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。 挙兵の第一攻撃目標は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った。 伊豆を得た頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、さらに三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。しかし三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へと向かう。
2008.10.08
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源頼朝は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。 平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。 久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として生まれる。幼名は鬼武者。母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前であり、出生地は京もしくは尾張と考えられている。 父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の棟梁である。義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従って勝利しており、頼朝はその御曹司として官職を歴任し、保元3年(1158年)には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王に仕え皇后宮権小進、平治元年(1159年)に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人に補された。また、同年(1159年)1月には右近衛将監、6月には二条天皇の蔵人に補任されている。 保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼に誘われ、平治の乱を起こした。当初は信西を追討した官軍という立場に立ちその恩賞の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる。しかし天皇は内裏から六波羅の平清盛邸へと逃れ、27日、官軍となった平家が大内裏へと攻め寄せる。頼朝は奮戦する長兄・源義平らに続いて戦うが、義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。
2008.10.07
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軍義が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まった。御家人に動員令が下るがまたも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。 後鳥羽上皇は宣旨の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された(承久の乱)。 政子は義時とともに戦後処理にあたった。貞応3年(1224年)義時が急死する。長男の泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀反の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき里を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。 泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、泰時は弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。 嘉禄元年(1225年)政子は病の床に付き、死去した。享年69。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に源実朝の胴墓の隣にある。寿福寺 「吾妻鏡」は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は「愚管抄」で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。「承久記」では「女房(女性)の目出度い例である」と評している。この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐しさせている。 室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ卑弥呼、奈良時代の女帝の故事をひいている。北畠親房の「神皇正統記」や今川了俊の「難太平記」でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。 江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、「大日本史」や新井白石、頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代わったことが婦人としての人倫に欠くと批評を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。 近代に入ると文明史論的な立場から女性政治家としての政子の立場を評価する動きが出てきた。一方で、皇国史観的な立場からは承久の乱で朝廷を打ち負かし三人の上皇を流罪にしたことが尊皇の心に欠けると批判された。 現代では、大河ドラマ「草燃える」の原作となった永井路子の小説「北条政子」などが主な作品。テレビドラマに登場する政子は気が強く権勢欲に富むが、一方で女としての優しさものぞかせる複雑な性格の女性としておおむね描かれている。政子については夫や子を殺して天下を奪った悪女とも、慈愛と悲しみに満ちた良妻賢母とも様々に評価されている。
2008.10.06
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実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。 政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。 健保6年(1218年)政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従二位に叙されている。「愚菅抄」によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。 実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。 健保7年(1219年)右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。「承久記」によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。 実朝の葬儀が終わると政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。 承久3年(1221年)皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府の対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の宣旨を諸国の守護と地頭に下す。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかった。 政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と涙ながらの名演説を行った。これで御家人の動揺は収まった。北条政子の墓と伝わるやぐら(寿福寺)
2008.10.05
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長子の頼家が家督を継ぐ。政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方で一時持ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。 若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による一三人の合議制が定められた。 頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諫めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀反の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。 頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた。頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諫めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。 建仁3年(1203年)頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。 頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽門されてしまう。頼家は後に暗殺されている。 代わって将軍宣下を受けたのは実朝で、父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代わって義時が執権となった(牧氏事件)。
2008.10.04
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奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のために出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。 建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を生んだ。後の三代将軍実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がいないなど、人目を憚るようにして育てられた。7歳になった時、京の仁和寺へ送られることになり、出発の日には頼朝は密かに会いに来ている。 建久4年(1193年)頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらいで騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話である。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽門されて殺されている。 大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。 建久6年(1195年)、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳の若さで死去した。「承久記」によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諫めている。 頼朝は次女の三幡姫を入内させようと図るが、朝廷の実力者である源通親に阻まれる。親鎌倉派の関白九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、頼朝は再度の上洛を計画するが、建久10年(1199年)1月に落馬が元で急死した。「承久記」によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては幼い頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。
2008.10.03
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寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子義高と頼朝と政子の長女大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。 義仲は平氏を破り、頼朝より早く入京した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平氏と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。 範頼と義経は一ノ谷の戦いで平氏に大勝し、捕虜になった三位中将重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。 範頼と義経が平氏と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。 平氏滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)義経の愛妾の静御前が捕えられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女っではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。 政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つため殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。
2008.10.02
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治承4年(1180年)以仁王(もちひとおう)が源頼政と平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざる得なくなった。頼朝は目代山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで長兄の宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。 頼朝は時政、義時とともに安房に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。 養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平氏方の豪族で鎌倉方に捕えられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の二代将軍頼家である。 政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻を切り落とす恥辱をを与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江へ流罪にさせた。 政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父時政も複数の妻妾がおり、祖父為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。これに対して、頼朝の庶子の貞暁は政子を憚って出家させられた。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。
2008.10.01
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