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岩倉使節団右から大久保・伊藤・岩倉・山口尚芳・木戸 大坂会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。明治14年(1881年)政府は、明治23年(1890年)に国会開設を約束し、伊藤は憲法制定や、先進国の調査のためにヨーロッパへ渡り、オーストリアのウイーンで、憲法学者のローレンツ・フォン・シュタイン博士の講義を受け帰国後、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たす。明治18年(1885年)に近代的な内閣制度を創設。 内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし、三条は、藤原北家閑院流れの嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になっているものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣えお決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有明が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。英語力が決めてとなって伊藤は初代内閣総理大臣となった。 のちに枢密院議長、貴族院議長などに就任。4度にわたって内閣総理大臣を務めた。明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。立憲政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。 日露戦争では、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対した。講和後は、戦後処理に奔走する。伊藤は後に、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。その後、元老の一員となった。
2009.01.31
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伊藤博文(天保12年9月2日(1841年10月16日~明治42年(1909年)10月26日)は、明治憲法の起草に関わり、初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官撰)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有識読みすることもある。 アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、その功績は現在に至るまで高く評価されており、「明治の元勲」と呼ばれる。その功績は維新三傑と比べても遜色ない。志士時代 周防国熊毛郡束荷村字野尻の農家、林重十蔵の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女、琴子。家が貧しかったため利助は12歳ころから奉公に出されたという。父・十蔵が萩藩の中間永井武兵衛の養子にとなり、武兵衛が後に周防国佐波郡相畑の足軽伊藤氏の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文の父子も足軽となった。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。 文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。また、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺した。 文久3年(1863年)には井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航するが、留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じ、翌元時治元年(1864年)、四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国して戦争回避に奔走するもかなわず、下関戦争(馬関戦争)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。 長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。後に奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。 維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年(1872年)5月に品川ー横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した。 当初、伊藤が新政府に提出した「国是綱目」が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。
2009.01.30
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明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発すると、すぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した。明治政府の瓦解を恐れた伊藤博文が、これらに反対し、結局、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。 かねてから重病化していた脳発作が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45。 墓所は多くの勤王志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市糸米(いとよね))に木戸神社がある。 晩年、木戸は現在の東京都文京区本駒込5丁目、豊島区駒込1丁目の別宅で親しい友人を招き過したと言われている。当時の庭園が今も維持されている。JR山手線駒込駅から別邸までの間に木戸坂と命名された坂が残されている。家系・妻 松子(木戸の死後、翠香院と名乗って出家生活に入り、明治20年死去) ・養子 木戸正次郎(孝允の実妹治子と来原良蔵との間の次男、インド洋航海中に病死) ・養子 木戸孝正(孝允の実妹治子と来原の子で正次郎の兄、東宮侍従長を務めた。) ・木戸幸一(孝允長男。内大臣を務め、昭和戦前の重要歴史資料である「木戸幸一日記」の著者) ・木戸孝彦(幸一次男。弁護士。東京裁判では父の弁護人を務めた) ・和田子六(元東京大学教授、理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長) ・都留正子(小六の娘。経済学者都留重人の妻) ・池田直子(木戸幸一、和田小六の従妹。内閣総理大臣池田勇人の最初の妻)四賢堂 伊藤博文は、自分が大いなる薫陶を受け、賢いと感嘆し、尊敬し続けた4人の人物(三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通)を讃え、肝に銘じ、恥じることのないようにするため、大磯の自宅の庭先に四賢堂を建立した。 この四賢堂は、現在、更に伊藤、西園寺公望、吉田茂の三人を加えて七賢堂とされ、同じく大磯の旧吉田茂邸に転座されている。
2009.01.29
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木戸は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性まで洞察して帰って来る。 しかしながら、欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。かつての征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組んだ。後に文部卿に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したものであった。西郷らが征韓論や大久保らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公平な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された。秩禄処分が、実行された時にはこれに激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された1874年(明治7年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。 木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい大久保利通・井上馨は、明治8年(1875年)8月、大坂会議に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに立憲政体の勅書が発布される。議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された。司法については現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立されることとなった。 明治元年(1868年)の集議所、同2年の公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 しかし、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させ、自由に発言させただけでは、維新の方針とも現実的な可能性とも乖離し過ぎており、大久保らをして「廃止すべし」と断言させるほどに、時期尚早かつ、ほとんど無意味なものであった。また、これらの会議は、「廃刀令」「四民平等」以前に行われたため、薩長土肥以外の、特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかった。 このため、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が、環境を整備し、タイミングを見計らった上で、第一回の地方官会議(1875年6月20日~7月17日)を、自ら議長として挙行した。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する法案であるが、にちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかっ。
2009.01.28
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今日は私の誕生日タケルは7月6日が誕生日この人に似てるかも知能は似てる性格が似ている独身は同じ薔薇が好き城が好き古墳が好き 還暦まで後僅か太く短く生きたいなー♪生かされていることに感謝♪
2009.01.27
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明治新政府にあっては、副総裁の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われた、だだひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛、参与、参議、文部卿などを兼務していく。明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。 なお、昭和戦後まで実現はしなかったが、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に、維新の元勲の立場で行っている。 ・福岡孝弟の会盟の「人心をして倦まざしむるを要す」という言葉遣いをより洗練された表現「人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」に修正したり、「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」を最後の第五条に持って来て、「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない」という明治維新の最重要課題を国民全員に印象付けることに留意する などの修正を施している。「五箇条の御誓文」と称し、明治天皇以下全員が天地神明に誓うという儀式を木戸自身が構想したこともあり、木戸は抵抗する守旧派を説き伏せ、明治天皇には大いに本気になってもらっている。 明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年(1871年)6月、西郷隆盛(第2代宰相)、大久保利通(第3代宰相)、三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)たちから、木戸(初代宰相)がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築すつよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじ、ファシズム的な独裁体制を嫌う長州の代表である木戸は、これを堅く固辞し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、西郷が「俗吏」と評して嫌っていることを知っていながら、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も(自分が先月主張していた「命令一途」体制を忘れて)「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだと」と応じ、めでたく薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 しかし、この薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。 海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を変更しない」という約束が交わされていた。しかし、それを留守政府が大きく反故にしてしまっていたのである。また、留守政府による征韓論の方針は、海外視察組には到底承服し難い暴挙にしか見えなかった。 木戸は海外視察へ出かけていたただひとりの参議であり、帰朝後、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。持病のため、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。
2009.01.26
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朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降りた。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で武士らしく責任を取った。 ところが、長州俗論派政権がここぞとばかり正義派の面々を徹底的に粛正し始めたため、高杉晋作率いる正義派軍部が叛旗を翻して軍事クーデターを成功させ、俗論派政権による恐怖政治を終わらせた。この後、小五郎がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。長州政務座に入ってからは、高杉たちが所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。 長州藩は土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの薩長同盟を結ぶ。慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった。 長州藩の武器恭順や大村益次郎たちによる秘密貿易を口実として幕府側(会津藩・新撰組)は、第二次長州征討(四境戦争)を強行してくる。 薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。長州訪問中の坂本龍馬が感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。・初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた木戸貫治(小五郎)は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、高杉晋作艦による幕軍への艦砲射撃によって形勢が逆転し、その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。・大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。・ことに芸州口を担当していた井上馨率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせた。・肥後軍の高みからの猛攻撃により八ヶ月に及んでいた小倉口の戦いは、幕府側の劣勢にもかかわらず戦おうとしない幕艦・幕軍にあきれ果てた肥後軍の撤退によりあっさり幕を下ろした。 大島口・芸州口・石州口の三ヶ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年(1869年)の版籍奉還まで長州藩の属領となる。
2009.01.25
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元治元年(1864年)に会津藩お預かり新撰組が勤王の志士を襲撃した池田家事件で小五郎は、到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れた・・・と言われているが、それは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田家より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由・・・」と書き残している。乃美織江の手記に基づくなら、桂小五郎は池田家事件当時池田家にいて、逃げ延びたと言うことになる。その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂らとともになおも活動をし続ける。 八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田家事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にかかわらず、先発隊約三百名が挙兵上洛し、久坂玄瑞が山崎天王山に、木島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとする所まで行くが、一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と半ば脅かされ、幕府・会津藩と完全な敵対関係に入る覚悟までは持ち併せていない孝明天皇および公卿たちは、あっさりとひるんでしまう。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。 長州軍としては武門の名誉に賭けて、何も果たさず、何も戦わず、すごすごと国許まで帰ることは、まず不可能である。天皇直訴と集団諫死に賭けた長州先発隊は、まだ瀬戸内海海上にいる世子定広率いる長州軍本隊二千名に引き上げを要請した上で、蛤御門の変(禁門の変)を敢行する。・木島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は、会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫るも、薩摩軍に横腹を付かれ、木島が倒れた後は総崩れとなって、散り散りに敗走する。・福原越後率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大坂方面へ退避する。・久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は、淀川のぬかるみで出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、鷹司邸を根城にして天皇に直訴だけは行おうとするが、これもかなわず、久坂たちは自ら大将として自刀し、残りは天王山方面へ退避させる。 このとき小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之充の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩が盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分ってくると、但馬出石に潜伏する。
2009.01.24
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幕府講武所の総裁、男谷清一郎の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間、剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩・内藤蕃などの江戸の藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。 一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九朗を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。 松蔭の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松蔭から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかしながら、義弟となる来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願いを共同提出し、松蔭の「下田踏海」への対応に弱っていた藩政府を更に驚愕させる。 倒幕方針をまだ持っていない藩政府が江戸幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。・兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ・浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ・江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式帆船造船術を学ぶ・長州藩士土手塚律蔵から英語を学ぶ 文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、松蔭の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記にとる)。 この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で開門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 5月、藩命により江戸から京都に上がる。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。
2009.01.23
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天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市)萩藩医和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという。母はその後妻。前妻による姉が二人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文譲が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九朗兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。 少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあった。萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉(かいさい・かいや)を叫ぶといういたずらに熱中していた。あるとき、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。この当時の、いたずら好きとしての勲章が額の三日月型の傷跡として後世まで残り続ける。 10代に入ってからは、藩主毛利敬親による親試で二度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と「孟子」の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松蔭は、「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係となる)。 弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門している。嘉永元年、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身だった。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九朗)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となる。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称された。 はぼ同時期 ・「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目の塾を務めた武市半平太 ・「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬 も免許皆伝を得ている。
2009.01.22
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木戸孝允(きど たかよし)は、幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有識読みされることもある。 長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。江戸時代には、桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称される。 吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤王志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。 維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を健言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから健言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に努め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。 木戸は、政策や手法を巡って権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあって、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で発病により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。 昭和21年正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。 「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を」使用した。 「小五郎」は生家和田家の由緒ある先祖の名前であり、五男という意味ではなく長男である。 「木戸」姓は、第二次長幕戦争前(慶応2年(1866年))に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追討・顕彰して以降、自ら諱のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 雅号としては、「木圭」「猫堂」「松菊」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがる。 名前の大まかな推移は、和田小五郎~桂小五郎~木戸貫治(33歳)・木戸準一郎(33歳以降)~木戸孝允(36歳以降)である。43歳で逝ってからは「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれる。
2009.01.21
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暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後身に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(「済世遺言」)。 大久保は、西南戦争で西郷と薩摩を征伐した張本人として、西郷贔屓の鹿児島では嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていた。現在、鹿児島市には大久保の銅像があるが、これは西南戦争百周年に際して東京から「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったとされる説がある。・雅号:甲東・座右の銘:「為政清明」、「堅忍不抜」・身長:178cm、体重:65kg。血液型はO型。 安政4年(1857年)に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間にには、長男大久保利和(貴族院議員)・次男牧野伸顕(内大臣)・三男大久保利武(大阪府知事)・五男石原雄熊・長女芳子が生まれた。芳子は後の外務大臣伊集院彦吉に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう(杉浦勇)という愛妾が居り、おゆうとの間に四男大久保俊夫(海軍少尉)・六男大久保駿熊・七男大久保七熊(農学者)・八男大久保利賢(横浜正金銀行頭取)を儲けた。 孫の大久保利謙は日本近代史家で東大名誉教授。もう一人の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)。大久保氏 明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。官位及び栄典の履歴 ・明治元年閏4月21日(1868年6月11日):従四位(辞退) ・明治2年6月2日(1869年7月10日):従三位、永世賞典禄1,800石 ・明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大授章 ・明治11年(1878年)5月15日:贈正二位右大臣 ・明治17年(1884年)7月7日:継嗣利和が侯爵に叙爵される。 ・明治34年(1901年)5月22日:贈従一位
2009.01.20
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大久保は口数こそ少ないが他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見をできる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しよとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれている。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛も、大久保の前では殆ど意見出来なかったという。 また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは、維新の根幹として、旧来の人事の刷新を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝充や大隈重信と対立した。大木喬任や薩摩出身の吉井友美・松方正義ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧幕臣を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実実宛覚書)。銅像(鹿児島市) 渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている。 こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて、大隈重信はもちろん、井上馨・後藤象二郎・江藤新平らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米視察で国家運営の実情を知って以後は、こいしたいわゆる「党派的行動」を改めるようになった。 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保の没後帝国議会で板垣退助が答弁したとき、野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は、「大久保卿であればこんなことにはならないのに」いって大久保の威厳を偲んだ。 内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省では、伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で帰ってくると、次男の牧野伸顕と三男の大久保利武が争そって玄関に出迎え靴を脱がせようととして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用する、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。 江藤新平が佐賀の乱で挙兵した際に、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。大久保の日記には「・・・今日、裁判所に宮に随従、江東(藤)之裁判を聴聞す」や、「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」など、辛辣極まりない表現を使い、罵倒している。 鹿児島が暴発したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑を生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の不平士族を一掃できるとし、また西郷は「無名之軽挙をやらかす」はずはないと書き送った(明治10年2月7日付書簡)。そして、西郷死亡の報を聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が・・・」と言って様だ)。また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。そして、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記を書くことを重野安譯に頼んでいたりしていた。
2009.01.19
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庭の蝋梅 明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉氏使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平ら征韓派と対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い、9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡った。交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の賠償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。 明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。 明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49(数え年)、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。サフランシスコにて撮影 趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。 官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(だが、建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことはせず、死後は8,000円もの借金が残った。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。遭難の地に立つ石碑
2009.01.18
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大久保利通(文政13年8月10日1830年9月26日~明治11年1878年5月14日)は、日本の武士、政治家。位階勲等は従一位一等。 維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝充と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。 文政13年8月10日、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳に次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。 15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。 弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由騒動(嘉永明党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小何戸役に抜擢、家格も一代新番となる。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。 慶応元年(1865年)、利通と改名する。 久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、王政復古のクーデターを計画して実行した(小御所会議)。
2009.01.17
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「奥羽永慶軍記」には、景勝は身辺に女を一切近づけないほど極端な女嫌いで、当然ながら正室の菊姫と非常に不仲であると共に、衆道を甚だしく好み、身辺にはもっぱら美貌の少年達のみを侍らせていたという話がある。しかし、この話には側室の四辻氏の出自を大谷刑部の家臣の娘であった遊女とし、直江兼続が世継ぎを生ませる為、この女を男装させて景勝に引き合わせて定勝を生ませたが、このことを知って激しく嫉妬した正室・菊姫の怒りを鎮めるためにこの女は自ら自害したとし、それを知って恨みを抱いた定勝が兼続を自らの手で殺害するという明らかに史実と異なる記述や考証がされており、信憑性には問題がある。景勝は慶長17年(1612年)8月に衆道禁止令を発布しており、これを根拠として男色家ではないとする説もある。 米沢への減移封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず、家臣の召し放ちを行わなかった。この事が後世の米沢藩の財政難の元凶になっている。 京都府京都市伏見区にある景勝町の地名の由来は、かつてこの地に景勝の伏見の下屋敷があったことに基づく。 キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと「日本切支丹宗門史」に記載されている。(記事の原文は、1629年7月、会津若松の宣教師からイエスズ会総長に送られた報告書である。)当時のイエスズ会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年(1620年)の仙台藩を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない。戒名 覚上院殿法印権大僧都宗心墓所 上杉家廟所景勝廟、松岬神社(山形県米沢市) 高野山清浄心院(和歌山県高野町)など主君 上杉謙信~豊臣秀吉~秀頼~徳川家康~秀忠藩 陸奥会津藩主、出羽米沢藩主氏族 長尾氏~上杉氏(桓武平氏~藤原氏)父母 父:長尾政景、母:仙桃院(長尾為景の娘) 養父:上杉謙信兄弟 長尾義景、清円院(上杉景虎継室)、長尾顕景(上杉景勝)、妹(畠山義春正室)、 義兄弟:畠山義春、上杉景虎、山浦景国妻 正室:菊姫(武田信玄の娘) 側室:桂岩院(四辻公遠の娘)子 定勝(庶長子) 養子:景広(畠山氏)のちに養子縁組解消
2009.01.16
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養父の謙信を戦国武将として尊敬していたといわれる景勝は、それゆえに自分は謙信に及ばないとの想いが強く、常に謙信のようにありたいと考えて行動していたため、感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にした景勝は、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが彼が生涯で一度家臣たちの面前で見せた笑顔であったという。 景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたという。大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。 大坂冬の陣の際、彼の近習の一部が黙って合戦の見物に出かけ、竹束に隠れて見ていたとき、そこに景勝がやってきた。これに気づいた近習たちは、竹束の外に出て草むらに行き、景勝に見つからないようにしたという。景勝は家来に恐れられていたことがわかる逸話である。 かなりの愛刀家であったとされる。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる収集物には国宝や重要文化財が多数含まれている。 ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城(もしくは大坂城)に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいた。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけて手拭いで頬かむりをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎が後に語ったということから、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれている。 叔父であり義父である上杉謙信との仲については諸説あり、尊敬、思慕の対象であったという見かたから、実は険悪であったという説まで様々である。これは謙信が後継体制を築く前に急死したことが影響しているともいわれる。また父の政景が謙信と対立していたことから謙信による政景暗殺説が存在するが、これらの影響か景勝による謙信暗殺説も存在する。しかしその一方、景勝は晩年病床に臥したとき、宗心という法名を名乗っている。これは養父の謙信がかって京都で名乗ったことがある法名であるという。 景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説がある。しかし、上杉景虎が芦名盛氏にあてた書状には「先日申入れ候如く、少弼曲なきからいゆえ」と景勝を少弼と呼んでいる処をみると、景勝官途は上杉家中において、公の事実と見て間違いないであろう。
2009.01.15
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慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城の建築を命ずる。 4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。ともあれ、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。 慶長6年(1601年)、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた。しかし改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢30万石藩主として減移封され、上杉家は信越の強大な大大名から景勝一代において出羽半国の一大名へと没落した。 減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方について先鋒として鵜野の戦いなどで大功を挙げる。翌慶長20年(1615年)2月、下国し、同年4月、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。 元和7年(1621年)、山形藩主最上義俊の改易に際して、その居城・山形城の受け取りを務めた。 元和9年(1623年)3月20日、米沢で死去。享年69。後を庶長子定勝が継いだ。 墓所:遺骨は和歌山県高野山の高野山清浄心院、遺灰は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。経歴・1555年(弘治元年)11月27日生、幼名:卯松。のち長じて喜平次顕景と称す。・1564年(永禄7年)、実父、長尾政景溺死ののち、上杉謙信の養子となる。・1575年(天正3年)1月11日、元服し、養父上杉謙信より諱を景勝と改名させ、弾正弼の官職を官途書出。上杉謙信が称していた弾正少弼の官職を継承することによって、上杉家の家督後継者に浮上す。・1578年(天正6年)~1579年(天正7年)、御館の乱。上杉謙信養子である上杉景虎と戦い、上杉家の家督を相続。・1586年(天正14年)6月22日、上洛により、豊臣秀吉と接見。従四位下に叙せられ、左近衛少将に任官。これにより、秀吉から景勝宛の書状の宛先が「上杉殿」から「上杉とのへ」と書式が変わり、秀吉の家臣的立場となる。・1588年(天正16年)5月26日、上洛し、従三位に昇叙し、参議に補任。清華家の家格に列す。・1589年(天正17年)9月28日段階で近衛中将を兼帯している。(羽柴越後宰相中将と称される)。・1594年(文禄3年)10月28日、上洛し、豊臣景勝として、権中納言に転任。・1595年(文禄4年)8月3日、公家武家の法度を徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、毛利輝元、小早川隆景とともに連署し、制定。豊家の重要施策において、加判する立場となる。・1597年(慶長2年)6月以降、小早川隆景の薨去に伴い、豊家五大老入り。・1598年8慶長3年)1月10日、豊臣秀吉から陸奥国会津へ移封(120万石)の命が下る。従前、羽柴越後中納言と称され、以後、会津中納言と称される。4月18日、権中納言辞任。・1601年(慶長6年)8月16日、徳川家康より出羽国米沢(30万石)への移封の命が下る。・1922年(大正11年)9月7日 贈正三位。
2009.01.14
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御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏が滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。 天正10年(1582年)、侵攻する織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家はまさに窮地に立たされるが、6月2日、織田信長が本能寺にて自害したため(本能寺の変)織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加え、御館の乱後の混乱が長期化し、自力のみによる沈静化ができなくなったことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退し、上杉家の力は急激に凋落の一途を辿った。 信長の死後、北信濃に侵攻し、北条氏直と争そうが、北信濃4郡の割譲を条件に後北条氏と講和した(天正壬午の乱)。信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉が台頭すると、秀吉に味方し、天正11年(1583年)、賎ヶ岳の戦いでは越中侵攻を命ぜられた。しかし、本国から動けず合戦には参加できなかった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)、富山の役でも秀吉に味方し、佐々成政を牽制した。また同年、信濃の真田昌幸を一時的に従属下に置いた。 天正14年(1586年)6月、上洛し、秀吉と会見し、秀吉に養子であった甥の畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保った。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。 天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、従三位参議に昇叙された。この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されている。天正17年(1589年)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。 天正18年(1590年)、後北条氏との小田原合戦にも、山浦景国を先鋒として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略した。 文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5千人を率いて肥前名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮する。このとき朝鮮における日本軍最前線基地として熊川に城(倭城)を築城している。文禄3年(1594年)には権中納言となり、越後中納言と呼ばれた。 文禄4年(1595年)1月、秀吉より、佐渡金山の支配を任される。 慶長2年(1597年)、小早川隆景が死去した後を受けて、豊臣家五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封された。旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は戦国時代伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、苅田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。 景勝は要となる米沢城に直江兼続に30万石(与力を含む、直江本領は6万石との説あり)を与えて配置させ、対伊達氏最前線の白石城の甘粕景継、福島城の本庄繁長、簗川城の須田長義、東禅寺城の志田義秀を指揮させた。
2009.01.13
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愛犬タケル 上杉景勝(長尾顕景 ながおあきかげ又は長尾景勝)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。 弘治元年(1555年)、越後国(現・新潟県)に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は長尾景虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院で、景虎の甥に当たる。早世した兄に代わり、世子となるが、永禄7年(1564年)、父の政景が死去し、春日山城に入って叔父の上杉輝虎(謙信)の養子となった。永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵が初陣であるとされている。景勝は、越中の将椎名康胤の取成や謙信旗本の吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。 天正3年(1575年)、名を長尾顕景から上杉景勝に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。 天正6年(1578年)、謙信が死去すると、北条家からの人質として送られてきた謙信の養子で義兄(または義弟)上杉景虎との相続争いが勃発する(御館の乱)。これは謙信が後継体制を整えないうちに急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいるとされる。御館の乱において、景勝は謙信の死の直後に謙信の遺言と称して春日山城本丸と金蔵を占拠し、春日山城城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て篭もった景虎と戦った。初め、武田勝頼が仲裁に入り、景虎と一時的に和睦するも、すぐに決裂した。 また、乱においては当初、戦局は不利であったため、甲相同盟に基づき調停のため越後へ出兵した甲斐国の武田勝頼に接触し、東上野の割譲と多量の黄金譲渡と武田との和睦(事実上の臣従)などを条件に、同年12月、勝頼の異母妹菊姫を正室に迎えて甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した(上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは上杉禅秀以来)。武田家の後ろ盾を得たことにより、景勝は戦局を覆した。 天正7年(1579年)、景虎正室である実姉(妹か?)華渓院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害(没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある)、同年、3月、和議を申し出ようとした養祖父の憲政が景虎の嫡男道満丸(信濃豪族市川氏に庇護され、生存していた説あり)とともに景勝の兵によって討たれるなど、徐々に立場を悪くした景虎は自害する。翌年天正8年(1580年)には越後の豪族も追従し、景勝は事実上の上杉家当主となった。春日山
2009.01.12
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秀長は温厚な人柄で兄を立て、兄を助ける補佐役に徹し後には各大名からも頼りにされる人格者であったという。大友宗麟は秀長のことを、「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたと記述されている(「大友家文書録」)。 その人格と手腕で織田家臣の時代より内政や折衝に特に大きな力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏のうちに治めたのも秀長の功績である。 兄の行おうととした朝鮮出兵には反対していたとされるが、出典が「武功夜話」のみのため疑問の声も多い。 秀長が進めようとした体制整備も秀長の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。 天正15年(1587年)の九州征伐の最中、秀長の陣に島津家久が訪れ単独講和が成立した。その直後の6月5日(7月10日)に島津家久が急逝し秀長による暗殺という憶測があるが、家久を殺しても豊臣方が得るものはほとんど無く5月13日(6月18日)付けの書状で家久の体調不良が記されていることから病死と見られる。 天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において代官に命じて木材2万本を売らせ、その資金を着服するなど蓄財にうるさい一面があったという(「多聞院日記」)。また島津攻めに参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。 大和の陶器・赤膚焼を開窯した人物である。 有力な家臣に藤堂高虎とともに島清興がいる。両者は養嗣子・秀保の死後、関ヶ原合戦で東軍・西軍に分かれて戦うことになる。 天正11年(1583年)、従五位下美濃守(この時期、木下小一郎から羽柴長秀に改苗字か) 天正12年(1584年)6月、名を長秀から秀長に改める。 天正13年(1585年11月27日)、従四位上に昇叙し、参議に補任。右近衛権中将を兼任。 天正14年10月4日(1586年11月14日)、従三位に昇叙し、権中納言に転任。11月5日(12月15日)、正三位に昇叙。権中納言如元。 天正15年8月8日(1587年9月10日)、従二位に昇叙し、権大納言に転任。父母 父:竹阿弥。 母:大政所兄弟 日秀、秀吉、秀長、朝日姫(佐治日向守室~副田吉成室~徳川家康継室)子 おきく(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室) 養子:秀保、仙丸(藤堂高吉)
2009.01.11
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天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長が本能寺の変で死亡すると、秀吉の大返しに従って山崎の戦いに参戦。黒田孝高と共に天王山の守備にあたる。同年、従五位下、美濃守び叙任・任官する。 天正11年(1583年)、賎ヶ岳の戦いに参戦。拮抗状態の続く最中、織田信孝が挙兵。秀吉が制圧に向かう間に、佐久間盛政の本陣に進撃する。これにより中川清秀が戦死したが、その後に折り返した秀吉軍により勝利した。また史料「老人雑話」によると秀長は秀吉に、清秀戦死の責任を叱責されたという。しかし秀吉の行動が用意周到のため、作戦だったという説もあり。作戦ならば守備を任された秀長は、陣を崩さない任だった可能性が高い。また「老人雑話」は史料として疑問視されている。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが起きる。秀長は守山に進軍し、織田信雄を監視する。この戦いで甥である羽柴秀次が秀吉に叱責されたのは有名。その後遠征では秀長従軍し四国征伐では大きな戦功を上げ、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。 天正13年(1585年)の紀州征伐では、秀次と共に秀吉の副官に任命される。征伐後、兄から紀伊・和泉などの64万石の所領を与えられる。同年、和歌山城の築城時に普請奉行を藤堂高虎に任命する。築城の名手として名高い高虎の最初の築城である。 同年6月、四国征伐では兄の代理として10万を超える兵の総大将に任じられる。しかし長宗我部の抵抗も激しく、また毛利氏・宇喜田氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となり秀吉から援軍の申し出がだされた。しかし秀長は断わりの書状を送った(「四国御発向事」)。これは現存する数少ない秀長の書状の1つと言われている。 同年8月、長宗我部元親を降した功績を賞されて大和を加増されて郡山城に入り、116万石の大大名となった。悠々自適なイメージを抱きがちだが秀長の領土である大和・和泉・紀伊は寺社勢力が非常に強く、決して治め易い土地柄ではない。諸問題の解決にときに苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると内政面でも功績があったことが伺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)、検地実施(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。 天正14年2月8日(1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(「多聞院日記」)。この頃から体調が崩れやすくなったと思われ、この後も数度にわたり湯治に来る。また湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。10月26日(12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康がついに大坂に到着し、秀長邸に宿泊。その晩、秀吉自身が家康に臣従を求める事件が起きる。この事を記す記録書は多く存在する(「秀忠日記」、「徳川実紀」)。しかし秀長・秀吉以外に帰されている人物は浅野長政だけであり、身内だけの秘密裏の作戦と思われる。 天正15年(1587年)、九州征伐では別働隊である日向方面の総大将として出陣する。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲する(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、高虎・孝高と合流。夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね日向方面の進軍は終了する。この功績により8月に従二位・大納言に叙任された。 天正17年1月1日(1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(「後編旧記雑録」)。この後大坂城を訪れたという記録はなく、最後の面会と思われる。 天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できなかった。10月頃に秀次が秀長の病気本復を祈願のため談山神社に訪れる。両者の関係も良かったと思われる。 天正19年1月22日(1591年2月15日)、郡山城で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保を養嗣子として後を継がせた。 戒名は「大光院殿前亜相春岳栄大居士」。現在の大和郡郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大坂市中央区の豊国神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。
2009.01.10
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豊臣秀長は戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・大名である。 豊臣秀吉の異父弟。幼名は子竹(こちく)、通称は子一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。 大和を中心に100万石近い大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。 天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟として生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。秀吉に仕え始めた正確な記述はなく、秀吉とねねの婚礼の後という説が多い(秀吉は婚礼後足軽小頭に出世したが、その以前では家臣を雇える程の禄はなかった)。 実は、秀長の前に義弟・浅野長政に家臣の話を持ちかけたという話もある。しかし武士の心得を一切習っていなかった状態から、たった数年で秀吉の補佐ができる状態まで上達したのは特異な事である。また現在残っている秀吉の直筆は当て字や癖が多く細かな書状関係の仕事は苦手という説もあり、家臣が少なかった時期は秀長自身が直筆していた可能性が高い。秀吉が、細かな地道な作業を秀長に任す事が多かったため補佐というイメージが付いたと思われる。 元亀元年(1570年)、越前討伐の最中に浅井長政の挟撃の報せを聞き、織田軍は退却を決定。秀吉は殿を勤めることになった(金ヶ崎の退き口)。秀長は第一備えの大将に任命され、蜂須賀正勝・前野長康と共に尽力する。 天正元年(1573年)、秀吉は浅井家潰滅の功により長浜城主となり、名を羽柴秀吉と改める。秀長自身も時には城代を務める事もあり、この時期から秀長の諱を使用し始めたと思われる。諱の由来は、秀吉の唯一の味方であった丹羽長秀からという説が強い。この数年後、秀長自身の右腕となる藤堂高虎が仕官してくる。この主従は秀長の養子である秀保が早世するまで続く。 天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、兄の代理として長島一向一揆に出陣する(信長公記)。 秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると但馬平定の指揮を委ねられる。黒田孝高(官衛)宛ての秀吉直筆の手紙に信頼の代名詞として小一郎の名を出すなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する(黒田侯爵家文書)。 天正5年(1577年)に但馬竹田城が斎村政広によって落城すると、城代に任命される。 天正8年(1580年)、秀吉軍が但馬出石城を落城させ、これにより但馬平定が完了する。秀長は出石城主となり、また但馬7郡10万5千石を治める大名となる(これは秀吉の領主代役ではなく、秀長個人の戦功である)。また領地内にある生野銀山の管理にも携わっていた。
2009.01.09
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高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。津田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。 秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。それに対して、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。 ただし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であったため、幕府側では「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と皮肉ったという。だが一方で、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。 本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先でである会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。こららの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)別名 与吉、与右衛門(通称)主君 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄 豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康、秀忠、家光藩 伊予今治藩~伊勢津藩主父母 父:藤堂虎高、母:藤堂忠高の娘兄弟 姉(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎 妹(山岡直則のち渡辺守室)、高清、正高、妹(藤堂高経室) 妻 正室:一色義直の娘・久芳院 継室:長連久の娘・松寿院子 高次、高重 娘(蒲生忠郷正室) 娘(藤堂忠季室) 娘(岡部桂賢室)、養子:高吉 養女:織田信清の娘(藤堂高刑室) 娘(生駒正俊室) 娘(小堀政一室)
2009.01.08
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高虎は6尺2寸(約190cm)を誇る大男だったと言われている。彼は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。 慶長の役において加藤嘉明と功を競い、終生仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。 武勇だけでなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。 「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。 関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。 城郭建築の名人として知られ(三大築城名人の一人といわれう)、慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けた。しかし全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。 講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の藤堂高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するように諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。 あるとき2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自ら裁いた。このとき高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうことかららしい。
2009.01.07
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慶長3年(1598年)8月、秀吉死去直前より、徳川家康に急接近する。そして豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。 慶長5年(1600年)、上杉景勝が家康に対して挙兵すると、家康による会津征伐に軍勢を率いて従軍する。そして石田三成ら西軍が挙兵すると、高虎は家康の東軍に従って織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加、大谷吉継隊と死闘を演じた。戦後、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの調略にも貢献したことにより家康から伊予今治20万石に加増移封されている。 その後、高虎は徳川家康の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦では長宗我部軍の猛攻にあって、藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。 家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は秀忠に仕え、元和6年(1620年)、徳川家康の孫である和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。 晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75.後を長男の高次が継いだ。
2009.01.06
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藤堂高虎は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士と言えぬ」という発言に表れている。 築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。加藤清正 弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々、領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民となっていた。幼名を与吉と名乗った。 はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏の旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。 やがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、天正4年(1576年)に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて3千石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国征伐、賎ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2千石を加増された。のちに秀吉から5千石をされに加増され、1万石の大名となる。織田信長 天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めにも従軍し、このとき秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われている。天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。 天正19年81591年)に秀長が死去すると、養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年81595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名となる。このとき、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。
2009.01.05
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多久聖廟・孔子像多久聖廟と作務衣を着た母の後ろ姿絵馬謹賀新年聖廟内部夢想庵孔子世系譜石版♪平和な日本でありますよう♪
2009.01.04
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佐賀県多久市多久聖廟 朝鮮出兵などで兵站業務を担当し、優れた軍監ぶりを発揮したことから、豊臣秀吉は、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられる。 三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜田秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。三成ははじょめのうちはこの諫言に従ったが、しかし西軍が編成されると次第に横柄さを取り戻したと言われている。(大道寺友山「落穂集」) 藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑(とうどうたかのり)が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今ここに主君の首を埋めたが、主君の面容を敵に見せるのは恥辱となるので、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。高刑はこのことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に首を見せた。「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と家康が聞くと、高刑は「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ私を御処分くだされ」と言った。家康は「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って高刑に褒美を与えたという。 吉継は豊臣秀吉の隠し子であり、嫉妬した秀吉の正室高台院が吉継に毒を盛って顔が変形する程の後遺症が残ったという説がある。しかし吉継の生年はちょうど秀吉が当時自分より身分が上だったねね(高台院)と恋愛結婚した時期と重なっており、また吉継の実母東殿とねねの関係はいたって良好なことなどから、信憑性の点で疑問を呈されている。 相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。 吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。「名将言行録」でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。 子の大谷吉治は関ヶ原の戦いの後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁(幸村)らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。 吉治系の子孫は帰農した。のち直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。また、3男・大谷泰重の子で、吉継の孫にあたる重政が越前松平家に仕官している。 娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大坂の陣で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。 どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で、飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は、吉継の子孫と言われている。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、敵の首を斬る動作をしたという。主な家臣 湯浅隆貞-五助。湯浅十郎左衛門-五助の子。後高力家に仕官した。笠井慶秀-武田家旧臣笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召しだされ仕官した。三位融盛。このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。
2009.01.03
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こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。 9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600人で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)。 その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5千人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返した(「関原軍記大成」)。 更に、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4290人が東軍に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けた為、支えきれず大谷軍は瓦解、吉継も自害した。享年42。吉継は業病(ハンセン病と云われて居る)故に、輿に乗って指揮したと云われるが、関ヶ原に「西軍が先に着陣」した時に秀秋の裏切りを見抜いて居て史実の小早川軍の進軍経路の要所に「馬防柵」を築いたと云われる。左記は戦前の参謀本部の記録に拠る。 自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。辞世の句契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも 吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでたところに、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで、神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。 吉継は、当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていたライ病を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていた。また失明していたとも言われており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされる。 豊臣政権の五奉行で、関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。(「校合雑記」) 有る時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原におぴて共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。(神谷宗湛日記) 関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが吉継自身は家康とも親しく、実は当初は家康派だったが家康に取り入る他大名との駆け引きの中で次第に立場を失い結果として三成側に寝返ったという説もある。徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。このため、吉継が西軍に与したことを知ったとき家康は非常に狼狽したという逸話がある。
2009.01.02
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謹賀新年 大谷吉継は越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも。業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。 永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、父が病気治療のために豊後に赴いて、そのまま一時期大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もある。母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。 天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死し、その後に秀吉が台頭してくる。そして天正11年(1583年)に織田氏筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化した。このとき、吉継は長浜城主柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。ここから、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。 天正14年(1586年(の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。天正17年(1589年)に越前敦賀に5万石を与えられ、敦賀城主となった。発給した文書が現在に伝わる。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し、出羽の検地を担当した。 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。同年6月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。文禄3年(1594年)、伏見城築城に参加して功績を立てている。 慶長2年(1597年)9月、秀吉を自邸に招いて饗応し、多くの贈り物を贈って忠誠を誓ったという。そのため秀吉も吉継の長年の忠義を賞賛して、国行の太刀を与えたと言われている。 慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜田秀家家中の紛争を調停している。 慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率いて、上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのであるが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与した。
2009.01.01
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