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百済(くだら・ひゃくさい・ペクチェ)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年~660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。なお、日本語における呼称「くだら」の由来は不明であるが、古くは「くたら」と清んで発音していたらしい。自宅の庭 百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(「晋書」慕容部載記)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。「三国史記」では紀元前18年の建国とするが、韓国・北朝鮮以外では史実として採用されていない。通説では「三国志」に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。庭の百日紅
2008.08.31
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藤原不比等(斉明天皇5年(659年)~養老4年8月3日(720年9月13日)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。天智天皇の寵臣藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑文脈」などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は淡海公。 藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。 不比等という名前は「他に比べることができるものがない程優れている」というような意味である。庭の百日紅 父、藤原鎌足。母、車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)(鏡王女とするのが定説である)。兄は僧侶の定恵(定彗とも。出家前の名は真人)。妻:蘇我娼子 長男:武智麻呂(むちまろ)南家(680~737) 次男:房前(ふささき)北家(681~737) 三男:宇合(うまかい)式家(694~737)妻:五百重娘(不比等の異母妹、天武天皇の夫人(ぶにん)だったが天皇の死後、不比等の妻となった) 四男:麻呂(まろ)京家(695~737)妻:賀茂比売 長女:宮子(文武天皇夫人、聖武天皇の母)(683?~754)妻:県犬養三千代(橘三千代) 三女:光明子(安宿媛、藤三娘)(光明皇后、聖武天皇皇后)(701~760) 次女:長蛾子(長屋王妾) 四女:多比能(橘諸兄室)(尊卑文脈によれば県犬養三千代の娘) 五女?:名前不明(大伴古慈斐室)の存在が「続日本紀」の記載より知られるボタ山の跡 11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。 だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。庭の梅 草壁皇子の息子、697年軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となった。 不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。 不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。天子社
2008.08.30
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談山神社 645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。 その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿倍倉梯麻呂、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。669年、死の直前に、天智天皇が見舞うと、「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち、私は軍略で貢献できなかった、と嘆いているのである。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。 鎌足の業績ははっきりしていない。「藤氏家伝」には近江令の編纂を命じられたとされているが、これを疑問視する研究者も多い。 死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。「多武峯縁起絵巻」には、鎌足が生まれるときに、どこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」(のちの鎌足)と名づけたと描かれている。このエピソードにちなみ、談山神社では鎌をくわえたかわいい白狐のお守りが売られている。 墓処は定かではないが、「日本三代実録」天安2年(858年)条には「多武峯墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と観られる「多武峯略記」などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。なお、昭和9年(1934年)に追い大阪府茨木市大字安威の阿武山古墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人であるとする説も存在する。一方、「藤氏家伝」の記述に基づき、鎌足の墓は京都市山科区のどこかに存在するという説もある。天子社の古木 「万葉集」に2首所収。「歌教標式」に1首所収。「万葉集」の1首は正室・鏡女王に送った物で、もう1首が鎌足が采女安見児(やすみこ)を得たことを喜ぶ歌である。「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」(私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ) 采女とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜ったのであろう。上の歌には万葉らしく、鎌足の二重の喜びが素直に表現されている。すなわち、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉である。
2008.08.29
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藤原鎌足(推古天皇22年(614年)~天智天皇8年10月16日(699年11月14日)は、飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した。「藤氏家伝」には「偉雅、風姿特秀」と記されている。中臣氏の一族で中臣鎌子・中臣鎌足ともいう。字は仲郎。鎌足は藤原氏繁栄の礎を築いた。 初期のころには中臣鎌子と名乗っていた。その後中臣鎌足となる。死の直前、臨終に際して、大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、彼自身が生きていたころを指す場合は中臣鎌足を用い、藤原氏の祖として彼を指す場合には藤原鎌足を用いる。 なお、欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏をおこなった中臣鎌子とは全く別人である。天子社の古木 父、中臣御食子(なかとみのみけこ)、母、大伴夫人(大伴噛子の娘)の長子。正妻:鏡王女(?~683)(最初、中大兄皇子妃であった) 妻:車持与志古娘 長男:定恵(俗名、真人)(644~665)(僧侶) 次男:不比等(659~720)(「尊卑分脈」による。なお「興福寺縁起」では不比等の母は鏡王女とされている) 娘:氷上娘(ひかみのいらつめ)(?~682)(天武天皇夫人、但馬皇女の母) 娘:五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人、後に不比等の妻 新田部親王・藤原麻呂の母) 娘:耳面刀自(みみもとじ、みみものとじ)(弘文天皇夫人、登志姫王の母) 娘:斗売娘(とめのいらつめ、とねのいらつめ)(中臣意美麻呂室、中臣東人の母)天子社の燈篭 出生地は、「藤氏家伝」は大和国高市郡藤原(現在の橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。 早くから、中国の史書に関心を持ち、「六韜(りくとう)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、儒教を学び、そこでは蘇我入鹿とともに秀才とされた。「日本書紀」によると、644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。 密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。畑の南瓜の花
2008.08.28
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天子社の参道 古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った(このとき皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固めた。諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の館に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得して立ち去り、蘇我家の軍集はみな逃げ散ってしまった(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を受け、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)。 翌6月13日、蝦夷は館に火を放ち「天皇記」、「国記」、その他の珍宝を焼いて自殺した。船史恵尺がこのうち「国記」を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。 翌6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣。中臣鎌子を内臣に任じ、後に大化の改新と呼ばれる改革を断行する。諸説 前後の状況証拠から、軽皇子が真の首謀者であり、中大兄皇子と中臣鎌子は単なる実行犯(いわゆる鉄砲玉)に過ぎなかったとする説も唱えられている。 蘇我入鹿が山背大兄王を滅ばして権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は新羅における内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする説もある。 2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(たにのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮の周り砦を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後、保守派は百済重視外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる。畑の干瓢甘樫丘
2008.08.27
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庭の彼岸花 643年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇に為さんと欲し、そのためには有力な皇位継承者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。入鹿は巨勢徳太、土師婆婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。山背大兄王は舎人数十人をもって必死に防戦して土師婆婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。山背大兄王の側近の三輪文屋君は東国へ逃れて再挙することを勧めるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると取り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子とともに自殺して聖徳太子の血をひく上宮家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼした暴挙を聞いた蝦夷は「自分の身を危うくするぞ」と嘆いた。天子社の道 神祇を職とする一族の中臣鎌子は蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を蜜にすすめた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。 法興寺の打毬で、中大兄皇子の革靴が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって二人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の有力者である蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。庭のダリア 645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める。(大織冠伝には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている) 同年6月12日、三国の調の儀式がおこなわれ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣をはずさせていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせてた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢をとってひそんだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。 入鹿を斬る役目を任された二人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は二人を叱咤した。石川麻呂が表文を読み進めるが子麻呂は現れない、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜふるえるのか」と問いた。石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えた。 中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭して言った「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問いた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えた。皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。蘇我入鹿首塚
2008.08.26
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天子社の境内 乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。庭の青龍(青い薔薇) 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。 推古天皇34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。有力な皇位継承者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。舒明天皇である。蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族たちは朝廷に出仕せず、もっぱら蘇我家に出仕する有り様となった。大派王(敏達天皇の皇子)は、郡卿が朝廷に出仕することを怠っているので今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが蝦夷はこれを拒んだ。 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。蘇我氏の専横は甚だしくなった。642年7月、日照りが続いたため蝦夷は百済寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、五日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の「日本書紀」が主張していることを意味する。 同年、蝦夷とその子の入鹿は自分たちの陵墓の築造のために、天下の民を動員、聖徳太子の領民も動員されたため太子の娘の大娘姫王これを嘆き抗議した。 643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした。(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)日の出
2008.08.25
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正栄寺(浄土真宗西本願寺)乱の経緯 藤原仲麻呂は光明皇后の信任を得て紫微令に任じられて次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると仲麻呂は孝謙天皇と光明皇太后の権威を背景に政権を完全に掌握した。天平宝字2年(758年)、仲麻呂の推す淳仁天皇を即位させて、太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。天平宝字4年(760年)には遂に太師(太政大臣)にまで登りつめた。 栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、光明皇太后が死去し、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。仲麻呂は、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡への寵愛を諫めさせたが、これが上皇を激怒させた。孝謙上皇は怒りのあまり出家して尼にになるとともに「天皇は小事を行い、大事と賞罰は自分が行う」と宣言してしまった。孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。 焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、淳仁天皇に願って都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、仲麻呂は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。 9月11日(10月14日)、比良麻呂は孝謙上皇に動員命令を密告。孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇の居る中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院に幽門されたという)。これを知った仲麻呂は子の訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、玉璽と駅鈴の奪回を図った。しかし、直ちに授刀衛の少尉坂上苅田麻呂と将曹牝鹿嶋足が出動して、訓儒麻呂を射殺した。 孝謙上皇は仲麻呂の邸に勅使紀船守を送り、官位の剥奪と藤原姓の剥奪を通告した。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入り、仲麻呂が長年国司をつとめ勢力地盤だった近江の国衙を目指した。孝謙上皇は吉備真備を召して従三位に叙し仲麻呂討伐を命じる。畑の南瓜の花 仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊太智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子の辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図ろうとし、琵琶湖の湖西を越前に向かい北進する。淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。 官軍の佐伯伊太智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、物部広成に愛発関(近江と越前の国境の関所)を固めさせた。仲麻呂軍の先発隊精兵数十人が愛発関で敗れた。辛加知の死を知らない仲麻呂は愛発関を避け、船で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、逆風で船が難破しそうになり断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかった。佐伯伊太智が防戦して、仲麻呂軍を撃退する。 仲麻呂軍は退却して三尾(近江国高島郡)の古城に篭った。官軍は三尾を攻めるが、仲麻呂軍は必死で応戦する。9月18日(10月21日)、官軍に討賊将軍・藤原蔵下麻呂の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に船を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵・石村石楯に捕えられ殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。 仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流された。代わって孝謙上皇が重祚する(称徳天皇)。以降、称徳天皇と道鏡を中心とした専制体制が確立した。天子社の古木
2008.08.24
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淳仁天皇の時代 天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、間民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した(太政官→乾政官、太政大臣→大師など)。仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日(10月5日)、恵美押勝の名を与えられる。 同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられた。この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。 天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。同年、光明皇太后が逝去した。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。 天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。 天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。 この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諫めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、この実現については研究者のあいだでも理解が分れる。孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)、少僧都とした。藤原仲麻呂の乱 孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司をの越前国に入り再起を図るが阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に船をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕えられて斬首された。 仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄は死刑を免れて壱岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。また、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、筑波山知足院中禅寺の開山者となる。
2008.08.23
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藤原仲麻呂(慶雲3年(706年~天平宝字8年9月18日(764年10月21日)は、奈良時代の公卿。父は藤原武智麻呂。恵美押勝(えみのおしかつ、藤原恵美朝臣押勝)とも呼ばれる。「公卿補任」、「尊卑分脈」には仲麿または仲丸と記載されている。聖武天皇の時代 「続日本紀」は仲麻呂を「率性聡敏にして、略書記にわたる」と評している。年少にして大納言・安倍宿奈麻呂に算術を学び、すぐれた学才を示した。大学少允に最初に任官し、天平6年(734年)、従五位下に進む。 天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった。 天平13年(741年)、民部卿。天平15年(743年)、参議となる。天平18年(746年)、式部卿に転じる。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされる。 天平16年1月13日(744年2月5日)の安積親王の恭仁京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。孝謙天皇の時代 天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)を兼ねた。仲麻呂は更に中務卿と中衛大将も兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。 天平勝宝7年(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。 天平勝宝8年(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。だが天平宝字元年(757年)3月、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(栗田諸姉)を妃とする大炊王が立太子される。5月、祖父の不比等が着手した養老律令を施行。同月、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。 仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに仲麻呂を殺害し、黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、同年6月、上道斐太都らの密告により露見。奈良麻呂の一味は捕えられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣豊成も左遷された。
2008.08.22
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光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。 神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡の送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隈国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。 しかし翌年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸し同地を西京とする旨を宣したのち、病臥、100日余で崩御した。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張(さらに踏み込んで暗殺説)もある。 称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王、が無かったたため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された。 祖父:文武天皇(母方の祖父は藤原不比等) 祖母:藤原宮子 父:聖武天皇 母:光明皇后 弟:基王 異母兄弟姉妹:井上内親王・不破内親王・安積親王 天武天皇系は終焉し、後、天智天皇系が続くことになる。
2008.08.21
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孝謙天皇(養老2年(718年)~神護景雲4年8月4日(770年8月28日)は、日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)~天平宝字2年8月1日(758年9月7日)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。即位前の名は阿倍内親王。生前は宝字称徳孝謙皇帝と称した。高野天皇・高野姫天皇・倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(在位:天平宝字8年10月9日(764年11月6日~神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいない。 聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿倍内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子もなかった。将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。 天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設。長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大した。これに反抗した橘奈良麻呂は討たれる。また天武の孫である何人かの王が皇位を狙って挙兵したが、いずれも失敗におわっている。 天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して淳仁天皇となる。孝謙上皇は代始改元を拒み、舎人親王(淳仁の父)への尊号献上にも抵抗する(最終的には光明皇太后の強い要請により実現)など淳仁天皇との軋轢を繰り返した。 引き続き権力を握った仲麻呂(恵美押勝に改名)は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた。 天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
2008.08.20
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元正天皇(天武天皇8年(680年)~天平20年4月21日(748年5月22日)は奈良時代の第44代天皇で女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日~養老8年2月4日(724年3月3日)。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。 弟・文武天皇の子である首(おびと)皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、母・元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。 710年、平城京に遷都。これ以後、749年の平安京遷都までを奈良時代と区分する。 養老元年(717年)から藤原不比等rが中心と成って養老律令の編纂を始める。 養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男武智麻呂は中納言、次男房前(ふささき)は、未だ参議(その後内大臣になる)であった。 養老7年(723年)、田地の不足を解消するため三世一身の法が制定された。これにより早くも律令制は崩れ始めていく。 養老8年(724年)2月4日。皇太子(聖武天皇)に譲位した。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。 天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務が取れなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年に病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気勝ちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。 天平20年(748年)5月22日死去。68歳。
2008.08.19
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元明天皇(斉明天皇7年(661年~養老5年12月7日(721年12月29日)は、奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日~和銅8年9月2日(715年10月3日)。名は阿部皇女(あへのひめみこ)。阿閇皇女とも。 天智天皇の第四皇女で鵜野讃良皇女(持統天皇)は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。 和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)である。 675年に十市皇女と共に伊勢神宮に参拝、679年頃に甥である草壁皇子と結婚、草壁皇子は即位する事無く早世し、姉で義母でもある鵜野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位した。 707年4月には夫、草壁皇子の命日(旧暦4月13日)が国忌に入ったが、直後息子天皇が病に倒れ、譲位を固辞していた所崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。 708年に武蔵国秩父より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、その為実務に長けていた藤原不比等を重用した。 710年、藤原京より平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。712年正月には諸国の国司に荷役につく民を気遣う旨の詔をだしたが、同年にはまた古事記が献上され、713年には風土記が編纂された。 715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いと首皇子がまだ若いと言う理由で娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位した。721年5月に発病し、婿である長屋王と藤原房前に後事を託し、遺詔として葬送の簡素化を命じた後、12月7日に崩御した。60歳。勢の山を越ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負う勢の山和銅元年位戌申 天皇御製大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまえつきみ)盾立つらしも
2008.08.18
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近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7日に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。翌年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。 近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。 また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち、服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。 壬申の乱の原因としては、天智天皇が即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。また、国内の政治改革も急進的に行われた。しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。 また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の一つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。さらに、大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形勢され、乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、前述した天智改革への不満の醸成が壬申の乱の下地を作り、天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。 また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は「万葉集」に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。血縁 父:天智天皇 母:蘇我遠智娘 同母姉弟:大田皇女、建皇子 夫:天武天皇 子:草壁皇子 孫:珂瑠皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇)、吉備内親王(長屋王妃) 万葉歌人としても万葉集巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号日太上天皇)天皇御製歌として名を留めている。「春過耐 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山」 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山 陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。夫天武天皇との夫婦合葬墓である。大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は銀の骨壷に収められていた。しかし、1235年(文暦2)に盗掘にあった際に骨壷だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。 藤原定家の「名月記」に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された「阿不幾乃山陵記」に石室の様子が書かれている。
2008.08.17
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血縁 父:天智天皇 母:蘇我遠智娘 同母姉弟:大田皇女、建皇子 夫:天武天皇 子:草壁皇子 孫:珂瑠皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇)、吉備内親王(長屋王妃)壬申の乱 壬申の乱は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ、1870年(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。 660年代後半、都を近江宮に移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。 12月3日(672年1月10日)、近江宮において、天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は6月24日(7月27日)に吉野を出立し、伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、7月2日(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。 近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
2008.08.16
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持統天皇(大化元年(645年~大宝2年12月22日(703年1月13日)は、日本の第41代天皇。女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(690年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日~持統天皇11年8月1日(697年8月22日)。名は鵜野讃良(うののさらら、またはうののささら)。和風諡号は2つあり、「続日本紀}の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣日女尊」(おほやまとねこあめのひろひめのみこと)と、「日本書紀」の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船による。 天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉の大田皇女とともに、父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の紀となった。その正妃となり、草壁皇子をもうけた。天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れた。持統はともに吉野へ落ち、壬申の乱まで吉野で過した。持統は、のち天皇に即位してからもたびたび吉野に遊んだ。 夫が即位するとその皇后となった。夫の没後は、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子としたが、草壁は即位する前に早世。数年の称制を経て、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位した。(「扶桑略記」に、「皇后朝に臨んで称制し丁亥の歳をもって元年となす4年に至って即位し、大和国高市郡明日香浄御原宮藤原邸に都す」とある)天武が、生前に皇后の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。 694年には、かねてから造営していた藤原宮に遷都した。697年、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。同年譲位し、自らは天皇を後見した。初めて、譲位後に太上天皇を名乗った。 690年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。
2008.08.15
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斉明天皇3年(657年) 7月3日観貨羅国(とからのくに)の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、召す。7月15日須弥山の象を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行った。暮れに観貨羅人を饗応する。9月有間皇子が狂を装い、牟婁温泉に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。この年、使を新羅に遣って、僧の智達、間人御厩、依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。 斉明天皇4年(658年) 1月13日左大臣巨勢徳太が死去。4月阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。5月皇孫の建王が8歳で亡くなる。天皇は甚だ哀しんだ。7月4日蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。7月僧の智通と智達が勅をうけて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。10月15日紀温泉に行く。115日蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。11月11日有間皇子を絞首刑に、塩屋・魚と新田部米麻呂を斬刑にする。この年、沙門の智諭が指南車を作る。 斉明天皇5年(659年) 1月3日紀温泉から帰る。3月1日吉野に行く。3月3日近江の平浦に行く。3月10日吐火羅人が妻の舎衛婦人とともに来る。3月17日甘橿丘の東の川辺に須弥山を造って陸奥と越の蝦夷に饗応する。3月阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。7月3日坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。7月15日群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆教を説かせ、七世の父母に報いさせる。 斉明6年(660年) 1月1日高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に着く。3月阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻めこまれた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。5月勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)がはじめて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応する。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来する。7月16日賀取文らが帰る。観貨羅人の乾豆波期達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。7月百済が唐と新羅に攻められて滅亡。9月5日百済の建率の某と沙弥の覚従らが来て、鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。10月鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、皇子の扶余豊璋を帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして彼を帰国させるよう命じる。12月24日軍器の準備のため、難波宮に行く。 斉明天皇7年(661年) 1月6日西に向かって出航。1月8日大伯海に至る。大田皇女が女を産み、大伯皇女と名づける。1月14日伊予の熱田津の石湯行宮に泊まる。3月25日娜大津に付き、磐瀬行宮に居す。4月百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。5月9日朝倉橘広庭に遷る。5月23日耽羅がはじめて王子の阿波伎を遣わして貢献する。7月24日朝倉宮で死去(68歳)。8月1日皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に着く。10月7日天皇が喪が帰りの海路に出航。10月23日天皇の喪が難波津に着く。11月7日飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀。陵墓は奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)とされる。
2008.08.14
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対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。 在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。遠征の軍が発する前に亡くなった。皇極・斉明天皇の年譜 不明 高向王と結婚。 舒明天皇2年(630年)1月12日 舒明天皇の皇后に立てられる。 皇極天皇元年(642年)1月15日即位。1月29日阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。4月8日追放された百済の王族が従者を伴い来日。7月25日蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため、29日にやめる。8月1日天皇が天に祈ると、雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いた。9月3日百済大寺の建立と、船舶の建造を命じる。9月19日宮室を造ることを命じる。2月21日小墾田宮に遷る。 皇極2年(643年) 11月1日蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、数日後に王は自殺。 皇極天皇4年(645年) 6月12日中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す。(乙巳の変)6月13日蘇我蝦夷が自害。6月14日軽皇子に譲位した。新しい天皇により、皇祖母尊の称号を奉られる。 白雉2年(651年) 3月15日十師たちを呼んで設斎。 白雉4年(653年)中大兄皇子とともに、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移る。 白雉5年(564年)10月1日中大兄皇子とともに、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴く。10月10日孝徳天皇が死去。 斉明天皇元年(655年) 1月3日飛鳥蓋宮で再び即位。7月11日北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済の調使150人に饗応する。8月1日河辺麻呂が大唐から帰国。10月13日小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。冬飛鳥板蓋宮が火災にあったため、飛鳥川原宮に遷る。 この年 高句麗、百済、新羅が使いを遣わして調を進める。百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員は100余人であった。蝦夷と隼人が衆を率いて内属し、朝献する。新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。 斉明天皇2年(656年) 8月8日高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。9月高句麗に、大使に膳葉積、副使に板合部磐鍬以下の使いを遣わす。 この年 飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使いを遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応する。やがて宮室が建ったので、そこに遷って後飛鳥岡本宮と名付ける。岡本宮が火災に遭う。香山の西から石上山まで溝を掘り、船で石を運んで垣を造る。吉野宮を作る。西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。
2008.08.13
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皇極天皇(推古天皇2年(594年~斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年1月15日(642年1月15日~4年6月14日(645年7月12日)。重祚して第37代斉明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日~7年7月24日(661年8月24日)となる。 推古天皇から一代おいて即位した女帝である。諱は賽女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。尚、諱の表記については宝皇女(たからのひめみこ)という表記が一般化しているが、これは後世の尊称による物と思われる。 敏達天皇の子・押坂彦大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した。「日本書紀」によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。在位4年(645年)に、中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼす(乙巳の変・大化の改新)と、皇極天皇は軽皇子(のちの孝徳天皇)に皇位を譲った。 孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。「日本書紀」によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。
2008.08.12
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その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月(587年)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(祟峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月(592年)には祟峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。 その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく死去してしまう)。 翌年4月10日(593年)、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。 このように、公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古十五年(607年)、小野妹子を隋に派遣し、翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。 推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して献上したが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなった。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれて寂しいものであったに違いない。 推古36年3月7日(628年4月15日)、女帝は75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹んで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。 その年の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳とされている。後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に改葬された。
2008.08.11
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推古天皇(欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)は、第33代の天皇(在位:祟峻天皇5年12月8日(539年1月15日~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)で初の女帝である。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。彼女が最初の天皇号を名乗ったと言う説と、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有る。推古が最初なら、厳密な意味での日本の初代天皇は女性である。「古事記」ではこの天皇までを記している。 日本史の飛鳥時代の始まりは説によってばらつきがあるが、一般的には推古天皇の即位を基準にしている。また、日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代でもあり、これを飛鳥文化という。 妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に座しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき。小治田宮は奈良県高市郡。 第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代祟竣天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。「日本書紀」に「姿色端麗・進士軌制」と記される。 欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇5年3月(576年)、皇后広姫の逝去を承け、「日本書紀」推古紀によれば18歳で皇后にたてられ、敏達14年8月乙酉己亥(8月15日)(585年9月15日)、34歳のとき、敏達天皇が没した。 莵道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子に妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。 用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。
2008.08.10
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「おもしろき こともなき世を おもしろく」 下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。しかし、この句は前年にすでに読んでいたという記録も残っており、正確ではないという説もある。 都々逸の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている。(木戸孝允の説も有り)この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。 顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや・・・」とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉である。 高杉氏のルーツは諸説ある。小説家の司馬遼太郎は現在の広島県三次市高杉の「高杉城」を晋作のルーツであると指摘している。この高杉城は江田氏の配下にあった祝(はふりし)という神事に関わっていた人々の城跡という。また、広島県安芸高田市に所在する「高杉山城」を指摘する説もある。こちらの城跡には高杉晋作が高杉氏の13代目の子孫であることを示す碑が晋作の子孫により昭和10年(1935年)に建立された。どちらの高杉城も晋作とかかわりあるとおもわれるがはっきりしたことはわからない。高杉氏は安芸の守護職武田氏の配下でなんらかの神事に関わっていた一族だろうと推測する説もある。家紋は丸に四つ割菱。
2008.08.09
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幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて効山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷派・俗論派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。 慶応元年(1865年)1月11日付けで晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。 さらに慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる。 5月には伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を単独購入。 6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二騎兵隊と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕府の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩の猛反撃に合い、一時小康状態となる。しかし、幕府軍総督小笠原壱岐守の臆病な日和見ぶりに激怒した幕府軍諸藩が随時撤兵し、7月には将軍徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還への大きな転換点となった。しかし、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年(1867年)5月17日(太陽暦)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年27)。臨終には、父・母・妻と倅がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼はその日京におり、詳細は定かではない。墓所は山口県下関市。 なお、木戸孝充・大村益次郎らによって、現在の靖国神社に、東京招魂社時代の始めから吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。
2008.08.08
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長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝充)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都市)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。 文久2年(1862年)、高杉は「薩摩はすでに生麦に於いて攘人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば、、、」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、品川弥二郎)が相談した。しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、これが土佐藩主山内容堂を通して長州藩主毛利広定に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、桜田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。この過程で、高杉は頼りになるのは長州の志士だけだとする長州ナショナリズムを形成し、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、幕府の罪人として処刑された松蔭の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。 文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵を結成し、阿弥陀寺(現赤間神宮)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。 京都では薩摩藩と会津藩が結託した宮廷クーデターである8月18日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の木島又兵衛を説得するが容れられず、脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、木島は戦死、久坂玄瑞は自害する。8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は放免されて和議交渉を任せられる。 この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところを深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと後世に分析されている。時に高杉晋作、24歳であった。
2008.08.07
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高杉晋作(天保10年8月20日「1839年9月27日」~慶応3年4月14日「1867年五月17日」)は、長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。諱は東風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。 変名を谷潜蔵、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷潜蔵と改名。贈正四位。 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として生まれる。 10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松蔭が安政の大獄で捕えられとその獄を見舞うが、松蔭は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚。 文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の「遊清五録」によれば大きな影響を受けたとされる。
2008.08.06
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真田の旗印である六連銭は、六道銭を表しているといわれている。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不借身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。 信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒ることは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は「幸村君伝記」において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある。」とも語っている。そのためか大阪夏の陣では「浪人の分際で」と罵られたほど。 一般には江戸時代になってから、講談等でその名将ぶりが知られる事になるが、徳川に敵対したにも関わらず幕府側はそれを敢えて禁ずることはなかった。これに関しては。「主君に最後まで忠義を尽くす」という筋立てが幕府に容認されたとする説の他に、二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、「真田親子が名将の方が都合が良かった」とする少々穿った見方なども存在する。 家康は大阪方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大阪冬の陣の後には信繁の兄真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最後まで貫き通しれいる(一説には叔父真田信伊に命じて上田10万石とも)。 信繁の忠臣説の異説 信繁と徳川氏は「不倶戴天の敵」であったといわれるが、これは後世の俗書や小説等にとる影響である。 関ヶ原に西軍として参戦し、改易され、復活を遂げた数少ない大名である立花宗茂や丹羽長重も、本領に復帰する前に与えられた所領は宗茂が陸奥棚倉1万石、長重が常陸古渡1万石であった。宗茂や長重より知名度も劣る信繁が信州40万石を与えられる可能性は低い。信繁本人も真に受けなかったと推察される。 家康からの破格の条件を断ったのが、豊臣家への忠誠のためであったかについては実証することはできず、逆に信繁の兄や叔父らが徳川家の臣下であることを根拠に「信繁は徳川方の間者である」という豊臣家臣からの誹謗中傷もあったと言われている。 既に触れたように幸村は後の時代に創られた名前のため信之が「信繁」ではなく「幸村」と言う訳もなく、後世の脚色であると思われる。後世の真田関係の資料には信繁を「幸村」として神格化させる動きがあり、真田信繁関係の資料の信憑性には疑問がある。 九度山に無名のまま朽ちる筈だった信繁を、将帥として召しだしてくれたことに感謝はあるだろうが、豊臣譜代の臣でもないのに、そこまで豊家に恩を感じていたか疑問である。 真田信繁の方が実は長男で信之が次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説がある。源三郎、源二郎の順序入れ替わりの謎もその傍証の一つとされる。 徳川家康があの世に行ったら酒を飲み交わしたい人物であると言ったと逸話がある。 信繁の愛槍は、「十文字槍」というもので、両鎌槍を強化してつくられた細めの槍であった。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤揃えに恥じぬ名槍だった。 大阪の陣での信繁への高評価はやや不甲斐なかった徳川勢を遠まわしに擁護するためという、うがった見方もある。徳川方の武士は「命知らずの三河武士」といわれた当時と違い、太平の世となり戦から離れ錬度が下がり戦闘能力が落ちているのに加え、旗本の一員として安定した高い地位が約束され帰る場所があり命を惜しむのも当然であったのに対して、大阪方の浪人は帰る場所もない背水の陣の状態であり所領獲得や名を残すためという意欲に燃え士気も高かったので徳川方の苦戦は必至であった。 信繁には多くの子がいたが、真田氏における真田信繁家としては、嫡男の大助(真田幸昌)が生まれた時には既に九度山に幽門されており、幸昌は大坂城にて子を作らぬまま自害、この系統は絶えた。 次男の大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女阿梅の夫となる片倉重長の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続く事となる。なお、片倉姓から真田姓に復したのは守信の子・辰信の時である。
2008.08.05
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真田信繁の大阪夏の陣における評価島津忠恒(この戦いには島津氏は未参加、伝聞からの推測) 「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかりて候て、御陣衆追い散らし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」細川忠興 「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」大久保忠教(彦左衛門) 「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか」「大阪御陣覚書」 「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚麟に連なり駆け破り、虎韜に分れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」「翁草」 「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」「北川覚書」 「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らさず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂い懸り候。」「元和先鋒録」 「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」「山下秘録」 「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」 真田軍の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われる。
2008.08.04
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豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していった。信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。 真田勢は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれた馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪氏天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看護していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を授けた。享年49。 信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大阪城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。ここに大阪夏の陣は徳川方の勝利に終わった。その後大阪では、信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われているが、噂では薩摩の島津家領内に逃隠れし墓もある(子孫もありとの噂も)。実は秀頼と淀の方の遺体はあったがどれが秀頼、淀の方の遺体(首)か分らず首実験が出来なかった。真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔) 龍案寺塔頭大珠院(京都府京都市) 信繁の七女おかねの夫石川定清(宗林)は、竹林院を始めとする信繁の遺族を援助したことでも知られ、龍安寺に信繁夫妻の墓を建立した。この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。 田村家墓所(宮城県白石市) 田村家出身の片倉定広(田村清顕の甥宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、田村家の墓所に墓が建立された。 長国寺(長野県長野市) 松代藩真田家の菩提寺。信繁や嫡男大助の供養塔がある。 孝顕寺(福井県福井市) 信繁の首を取った越前松平家の家臣西尾仁左衛門が、自家の菩提寺に首塚を建立。実際に首が埋葬されたかは不明(真田一族の奪還を恐れ、別の場所ともいわれる)。 妙慶寺(秋田県由利本荘市) 四女が・御田姫(顕性院)が真田家(信繁系統)の菩提寺として建立した寺。墓はないが位牌が残されている。 一心院(秋田県大館市) 大阪の陣では死なずに、島津を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来する。島津家が徳川に恭順したため、その後は各地を放浪。寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したと伝えられる(嫡男大助の墓もある)。
2008.08.03
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慶長19年(1614年)に始まる大阪冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田(宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。しかし、この真田丸を造る際、大阪方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて「真田信繁」として、その武名を知らしめる事となる(信繁が主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大阪の陣だけである)。 冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大阪方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として信繁の叔父である真田信伊を派遣し「信濃の一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信伊を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。 翌年の大阪夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠々と撤収したといわれている。 ただし道明寺の戦いでは先行していた後藤基次勢が真田勢が援軍に駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この戦いの前に家康は基次に寝返りを打診していたため、基次に対して大阪城内では謀反の噂が流れた。そのため基次は死を決して先鋒を勤めたと言われる。またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。そのため基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、真田勢の行軍の遅れが後藤勢壊滅の一因であるとも、また基次の心情を察し敢えて遅らせたとも言われる、本当は当日は濃い濃霧のため道に迷い所定の時間に付く事ができず仕方なく後藤基次が戦いを始めた。
2008.08.02
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秀吉死後の慶長5年(1600年)に、五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった(この形は昌幸の策であり関ヶ原の戦いにとりどちらが負けても必ず真田家が残るという昌幸の考えによるものだともいわれている)。 徳川方の東軍は軍団を2分し、東海道と中山道を進軍すると、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中仙道を進んできた東軍の徳川秀忠の軍を上田城に引き付け、散々に徳川軍を打ち破った(第二次上田合戦)。そのため中仙道を進んだ秀忠軍は進攻が遅れ、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。 しかし三成率いる西軍は9月15日に敗亡を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の必死の取り成しで二人は紀伊九度山に配流をを命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)。 蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、伝心月筝と名乗った。 慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助昌幸とともに大坂城に入城した。しかし、入城の際の信繁の容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため門番に山賊と勘違いされている。大阪で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。しかし信繁自身については、それまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたため評価は低い、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大阪に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。
2008.08.01
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