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安政4年(1857年)清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久3年(1863年)浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。浪士組は新徴組として再組織される。この頃、中西一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。 慶応4年(1868年)精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)にたどり着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。3月13日・14日の勝海舟と西郷の江戸開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。 鉄舟自身が書いた記録「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によると、後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして分かれた、という。
2008.05.31
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山岡鉄舟(天保7年6月10日、1836年7月23日~明治21年、1888年7月19日)は、日本の武士・幕臣、政治家、思想家。爵位は子爵。剣、禅、書の達人としても知られる。 鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。浅利義明門下の剣客で、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。 天保7年6月10日、江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯女。9歳より久須美閉適斎より神陰流剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過す。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15の歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。嘉永5年(1852年)父の死に伴い、江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
2008.05.30
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その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い、伊香保で奉納額をあげることを企画するほどの門弟数になったことで名を挙げた。江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田お玉ケ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴である。 北辰一刀流剣術の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)・「位の桃井」(桃井春蔵)とならんで、「技の千葉」と称された。この幕末江戸三大道場は江戸の剣客を三分し、幕末に至っても大きな影響力を誇った。 天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。 弟の定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。 千葉周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出した。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助、平手造酒などが挙げられる。なお坂本龍馬は定吉に師事しており、直接の弟子ではない。 墓所は、東京都練馬区の仁寿院(田島山十一ケ寺内)に所在している。
2008.05.29
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千葉周作(寛政5年、1793年~安政2年12月10日、1856年1月17日)は、江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範。名字は千葉、通称は周作、成政。その道場である玄武館は幕末三大道場のひとつで、北辰一刀流剣術の門下から多数の幕末の著名人を輩出し、志士の間での閥を作った。生年月日は寛政6年(1794年)1月1日とする説もある。 出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2説があるが、近年の研究では、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で出生したとする説が有力とされている。父は千葉忠左衛門成胤。曾祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したと称する。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。 周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家出をし宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移る。まもなく周作は親元を離れ中西一刀流の流れを汲む浅利義信に入門した。他にも浅利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し北辰一刀流を創始した。この際に中西から受けた伝書を焼き捨てたとする伝承もあるが伝書の実物が現存しているため、これは誤りである。
2008.05.28
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また、試合当時に門司城代であった沼田延元の子孫が1672年(寛文12年)に編集し、近年再発見された「沼田家記」があり、そこには宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人の争いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来て隠れていた。その後、勝負に敗れ気絶した後蘇生した小次郎を武蔵の弟子が皆で打ち殺した。それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。とあり、小説等で知られている内容とは違うようである。 巌流島の決闘以外で武蔵は京都の兵法家吉岡一門との戦いなどで有名であるが、著書である「五輪書」は、現代も人生哲学書として、あるいは経営、スポーツなどの指導書としても読まれ、日本のみならず翻訳されて世界各地で愛読され影響を与え続けている。国の重要文化財に指定された「鵜図」「紅梅鳩図」他にも「正面達磨図」「野馬図」など優れた水墨画・鞍・木刀などの工芸品が現在に伝わっている。1612年5月13日(慶長17年4月13日)に巌流島の決闘があった。
2008.05.26
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巌流島は山口県下関市にある無人島で、関門海峡に浮かぶ小島である。正式な島の名前は船島(ふなしま)と言い、当時豊前小倉藩領の船島であったが、佐々木小次郎が「巌流」を名乗ったことから巌流島と呼ばれるようになった。 宮本武蔵(1584?~1645)は二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖である。武蔵が顕した「五輪書」には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利。以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。一方、武蔵は書画・水墨画家・工芸家で優れた作品を残している。 佐々木小次郎(生年不詳~1612)の出身について、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)に生まれ、有力豪族佐々木氏の一族とされる説と、越前国(現福井県)福井市出身という説があり、中条流富田勢源、或は富田勢源門下の鐘捲流自斎の弟子とされている。 小次郎は安芸国の毛利氏に仕えたのち、武者修行のため諸国を遍歴し、「つばめ返し」の剣法を案出し、巌流と呼ばれる流派を創始した。小倉藩の剣術師範となる。1612年に刃長三尺三寸(約99.99センチメートル)の野太刀「備前長船長光」、通称物干し竿を使用したと言われている。また、武蔵の伝記「二天記」には巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったと記されているが、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。 巌流島で決闘の最も古い史料は、武蔵の養子伊織が1654年(承応3年)に著した「新免武蔵玄信二天居士碑」で、そこには「媛に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流玄く、真剣を以って雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて玄く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木刀を堤げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。船嶋と謂う。両雄、同時に相会す。岩流、三尺を以っての白刃を手にして来り、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刀の一撃を以って之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、船嶋を改めて巌流島と謂う。と記されている。
2008.05.26
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石ノ森章太郎(1938~1998)漫画家・宮城県生まれ 少年の頃、生来病弱で外出できなかった3歳年上の姉のため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せ、漫画家への下地を作る。 1956年、宮城県佐沼高等学校を卒業。漫画家を目指し、姉の病気治療も兼ねて二人で上京する。手塚治虫をはじめ多くの漫画家が住んでいた伝説のトキワ荘に住み、作家活動を始める。しかし、姉が石ノ森が外出中に部屋で倒れ、そのまま亡くなる。最大の理解者であった姉を失った事は後の石ノ森の作風に大きな影響を与えた。 初期の「少女クラブ」に赤塚不二夫との共同ペンネーム「いずみあすか」で作品を発表。また、赤塚不二夫および水野英子との共同ペンネーム「U.マイア」の作品もある。その後、「サイボーグ009」が大ヒット、一躍人気漫画家の仲間入りを果たす。 また、「仮面ライダー」シリーズでは一大ブームを巻き起こし、1971年より放映の実写特撮番組「仮面ライダー」では、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターダザインを提供。また、出来上がったものを元に漫画を執筆するという「メディアミックス」を行う。 その後、「イナズマン」など数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がける。 後年、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画(マンガ)」を提唱し「萬画宣言」を発表した。 また、旧名は石森章太郎、「いしのもり」と読ませるはずだったが、「いしもり」が定着したため、画業30周年を期に、「石ノ森」に改名した。 1998年、心不全により死去。享年60。 盲目的前進は、どこかで方向を間違えても気づきません。時折立ち止まって周囲を見回しましょうそして反省の時を持ちましょう。
2008.05.25
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観音菩薩青龍の苗壷青い薔薇駕籠梱包を解く7つの蕾植樹庭綺麗に咲いてね楽しみだなー
2008.05.23
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かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。1. 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、「日本書紀」にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。 それ以外の説として、吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信、岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ヶ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。 手塚治虫の「火の鳥黎明編」(1967年)は邪馬台国を舞台としている。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、そこまで海を渡る描写があるため、畿内説とも解釈できる)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族に滅ぼされた。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の天皇家の始祖と解釈している。 安彦良和の「ナムジ」(1989年~1991年)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の「神武」(1992年~1995年)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征しヤマト王権の祖となる東遷説を採っている。 作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画「雷火」(1987年~1997年)は、邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。 現在、宮内庁が管理している天皇陵とされているものは、発掘調査が許可されていない。何故、宮内庁が許可しないのかは不明であるが、天皇陵とされる古墳と他の発掘されている古墳の比較検討により空白の4世紀が解明される可能性がある。もしも天皇陵とされる前方後円墳から「親魏倭王」の金印が発見されれば邪馬台国の所在論争に終止符がうたれるかもしれない。
2008.05.21
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九州説の弱点1. 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと(ただしこれらの戸数等をそのまま信用してよいのかはもちろん疑問がある)。2.中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。3. 古墳時代の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。4. 魏から女王に贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと(九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする)。5. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。 1. 現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。 2. 紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。 3. 魏の年号である「青龍3年」、呉の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。 4. また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない(一般的には概ね魏の領域と考えられている)。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。 5. また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。 6. 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方従うにしても、次のような難点がある。 1. 放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。 2. 仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
2008.05.20
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九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。1. 帯方郡から女王国までの12,000里のうち、福岡県に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残りの1,500里(佐賀県唐津市に比定される末ろ国から伊都国まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。(三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、他の「東夷伝」の書き方との比較から「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱しれいる。この方法だと、従来は解決困難とされていた距離も方角も矛盾なく説明できるとされる。2. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球麿)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。(畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、かれが邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。「魏略」には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている)。3. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した「有棺無郭」を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること(当時の北九州以外での一般的な埋葬方法はまだ良く分っていない)。4. 東遷説は邪馬台国が九州にあったとする1つで、他の九州説が邪馬台国と大和朝廷は無関係、あるいは対立していた等とするのに対して、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷になったとする。そして記紀に記された神武東征はそれを神話化して伝えたものであるとする(日本神話の大筋を事実の反映と見る立場であるが、これに対し、「隋書」倭国伝の記述から、聖徳太子の頃の朝廷の伝承がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることが受け入れがたいとする意見もある)。5. 九州王朝説の立場に立てば、「隋書」に「其国境東西五月行、南北三月行、各至於海。其他勢東高西下。都於邪魔堆、則魏志所謂邪馬台者也。」とあり、邪馬台国は九州の地に7世紀まで存続していたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」「古事記」には邪馬台国についての記述も卑弥呼についての記述も無いので、邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた側でである九州王朝が充てられるとする。
2008.05.19
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畿内説の弱点1. 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する(しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力化においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない)。2. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。(当時の畿内住民が南方系の習俗を持っていたかどうかは不明)。3. 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読めること(これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が誤った地理観に影響されたものである。 かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは、1. 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊が「全て漢鏡ではない」と発表していることなどから、オリジナルが帯方郡を介して下されたものである可能性は残しつつも、否定的に見られている(現在では、畿内でのみ出土している斜縁二神二獣鏡のほか、九州を主に出土するが、畿内でも多く見つかっている内行花文鏡や方格規矩鏡などがそうではないかと見られることが多い。2. 邪馬台国長官の伊支馬(いまき?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説もあるが、大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
2008.05.18
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畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説が有力である。1. 年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期~古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。2. 吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下がるにつれて全国に広がっていること(卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は、その代表例)。3. 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。4. 卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかっては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること(九州説では後世の偽作と見ている)。5. 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年~244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。6. 「日本書紀」神功紀では、魏志と「後漢書」の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、「晋書」帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている「隋書」倭国伝では、聖徳太子の都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬台なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。(これに対し九州説では、日本書紀に卑弥呼の記事が現れるのは、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が自らの正統性を高めるため、参照した魏書など中国の史書にある古代国家の記述を自身の歴史に組み入れたにすぎないとする)
2008.05.17
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かつて、畿内説は「魏志倭人伝」の方角表記が誤っていると考える研究者(主に京都大学系)に多く見られ、九州説は距離表記が誤っていると考える研究者(主に東京大学系)に多く見られた。最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。近年の考古学的成果によって、大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代の2世紀頃までさかのぼるとの説が有力になっている。これを踏まえ、現在ではプレ大和王権と邪馬台国と直接結びつくのか(あるいは初期の大和王権と邪馬台国が同一のものなのか)が論争の焦点となっている。 畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち大和王権がこの時期既に成立していたとの見方ができる。一方の九州説の立場を取ると、邪馬台国は九州の地方政権に過ぎないことになり、3世紀に大和王権が存在していたかどうか疑わしくなる。邪馬台国の位置を巡る論争は、日本国家の成立を解き明かす上でも重要な位置を占めている。
2008.05.16
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「邪馬台国」の正確な読みは不明。一般的に「やまたいこく」と言われるが、とりあえずの日本語読みである。 帯方郡から邪馬台国までの道程にも「連続説」と、榎一雄氏の「放射説」がある。連続説とは、魏志倭人伝に記述されている方角や距離に従って比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対馬国・一支国を経て北部九州に上陸し、末魯国・伊都国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。一方の放射説は、伊都国までは連続読みと同じだが、その先は伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。 「まぼろしの邪馬台国」の著者で邪馬台国ブームを巻き起こした宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代と異なることを想定しなければならない」と指摘し学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、大勢は変わらないと考えられている。 邪馬台国の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。古くは「日本書紀」の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきた。江戸時代には、新井白石や本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表した。明治時代に入って論争が始まり、多数の説が提唱されてきた。 これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれていた。九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。もともとは学者間の論争であったが、「まぼろしの邪馬台国」によって邪馬台国論争は日本人一般にまで波及した。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。
2008.05.15
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魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。着物は幅広い布を結び合わせているだけである。兵器は矛、盾、木弓を用いる。土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲食して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。女は慎み深く嫉妬しない。盗みはなく、訴訟も少ない。法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。 3世紀半ばの壱与の朝貢を最後に、413年の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国とヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。
2008.05.14
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「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。 景初2年(238年)6月、女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。悦んだ皇帝(明帝)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。 正始元年(240年)、帯方太守弓尊は建中校尉らに勅書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。 正始4年(244年)、女王は再び魏に使者として大夫伊馨旨らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は使者らを率善中郎将とした。 正始6年(246年)、皇帝(斉王)は帯方郡を通じて難升米に黄憧(黄色い旗さし)を下賜した。 正始8年(248年)、女王は太守王に載期烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹張政らを倭国に派遣して檄告をもって和解を諭した。 女王に就いた壱与は、帰任する張政に使者20人を同行させ、そのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。 また、「日本書紀」の神功記に引用される「晋書」起居註に、秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壱与で、魏に代わって成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。
2008.05.13
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邪馬台国の人口は7万余戸。長官は伊支馬、次に弥馬升、その次に弥馬獲支、次に奴桂碑。邪馬台国の北方にあった対馬国、一大国、末魯国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり、特に男王卑弥弓呼が治める南の狗奴国とは不和で戦争状態にあった。 邪馬台国の北方の諸国には一大率(一支率)という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率の役所は伊都国にあり、魏の刺史(大きな行政単位の州の巡察長官)のような役目を果たしていた。伊都国は外交の中心地で、魏や韓の国々の使節や通訳は、ここに停泊して文章や贈物の点検を受け女王に送っていた。租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。 卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)帯方郡から張政が派遣され、狗奴国との和平を仲介してもらっている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。 卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。箸墓がその古墳であるという説もある。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壱与が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壱与を教え諭しており、壱与もまた魏に使者を送っている。卑弥呼に贈られた「親魏倭王」の金印が発見されれば、邪馬台国論争に決着がつくかもしれない。
2008.05.12
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「魏志倭人伝」中の邪馬台国 邪馬台国までの道程 魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部にあった帯方郡から邪馬台国に至る道程が記されている。倭国に至るには、帯方郡から船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に至る。そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。また海を1,000余里渡ると末魯国に至る。東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。 漢書で一般的な1里=約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立つと、邪馬台国は日本列島を飛び越えて太平洋上になってしまうため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きている。位置については畿内説と九州説が有力とされる。道程には「連続説」と「放射説」がある。邪馬台国の政治 邪馬台国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70~80年を経たころ、漢の霊帝の光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。 卑弥呼は鬼道(道教?)によって人心を掌握し、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。 卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある(後の推古天皇と聖徳太子との関係が例として挙げられる)。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後も男王が立っていることから、これは疑わしい。
2008.05.11
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邪馬台国は、「魏志倭人伝」などに出てくる国で、弥生時代の2~3世紀に日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70~80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。卑弥呼は魏に使節を派遣し親魏倭王の称号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったという。 邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、畿内・九州説など論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。
2008.05.10
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2008.05.09
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秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが、秀衡の死後泰衡の代になると、頼朝の要求を拒みきれず、1189年に義経派であった弟の頼衡を殺害。そして同年、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送った。さらに同年に同じく義経派であった弟の藤原忠衡も殺害し、代々続いた藤原氏を護ろうとした。 しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は、同年、義経らを長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵、奥州合戦が行われた。奥州藤原氏はことごとく敗北し、平泉に火を放ち、100年続いた栄華は灰じんに帰した。 泰衡は、平泉から脱出して蝦夷地へ逃れようとした逃亡の途中で、家臣の河田次郎の謀反により殺害され、奥州藤原氏は滅んだ。頼朝の圧力に屈して父秀衡の命を破り、義経を死に追いやっただけでなく、奥州藤原氏そのものを終焉に導いた事などから父に比べて能力に欠けた、暗愚なイメージが強く、評価は良くない。
2008.05.08
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藤原秀衡(ふじわらのひでひら、1122~1187)は、奥州藤原氏3代当主で、父祖の偉業を引継ぎ、「北方の王者」としてその勢力を磐石のものとした。しかし、秀衡はその財力により奥州だけでなく中央政権にも繋がりを持っていた。一方、1174年頃には鞍馬山を逃亡した源義経をかくまって養育し、1187年には頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を再び平泉にかくまった。 奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役の後の1087年(寛治元年)から源頼朝に滅ばされる1189年(文治5年)までの間、平泉を中心に陸奥・出羽に勢力を張った一族で、天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族だった。 奥州藤原は清衡(きよひら、1056~1128)、基衡(もとひら、1105~1157)、秀衡、泰衡(やすひら、1155~1189)と4代100年に渡って繁栄を極めた。それは、朝廷内部で、源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったことと、当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたため中央政府からの介入がなかったと考えられている。 そのため、奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。そして、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に、独自の政権と文化を確立し、平泉文化を創り上げた。 しかし、1187年に頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を秀衡が平泉にかくまったが、秀衡は義経が平泉入りをしてからわずか9ヶ月で病に倒れ、子の泰衡、国衡、忠衡に義経を主君となして仕えるよう遺命して没した。
2008.05.07
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しかし、入水した建礼門院は助け上げられ、内侍妬所(鏡)と神璽(勾玉)は回収されたが、二位ノ尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣も海に没したままである。また、安徳天皇の異母弟の守貞親王(安徳天皇の皇太子に擬されていた)は救出された。平氏一門のうち宗盛・清宗親子などは捕虜となった。 義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京に凱旋。後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じた。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の傲慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせた。 1185年5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。 その後、義経が頼朝に許されることは無く、頼朝との対立が強まり、義経は同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏の元へ逃れるが、1189年に平泉で殺された。 また、合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲した。守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家している。平時忠は能登国へ流罪となり、そこで死んでいる。 この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、1192年、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させた。
2008.05.06
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彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘の水軍を編成。当初水軍の運用に長けた平氏が優勢であったが、潮の流れが変わると、義経軍はこれに乗って、平氏軍を押しまくった。その結果、平氏軍は壊滅状態になり、一気に勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。 鎌倉幕府の公式日記である「吾妻鏡」には壇ノ浦の戦いについて、元暦2年3月24日の条で「長門国赤間壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山峨兵藤次秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は記載されていない。そのため信憑性にはやや難があるものの「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物語から合戦の詳細を知ることができる。 「平家物語」には平氏一門の最後の様子が描かれている。平知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神玉璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。「吾妻鏡」によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水し、按察の局が安徳天皇抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げた。と記されている。
2008.05.05
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壇ノ浦の戦いとは、平安時代の後期の1185年(元暦2年)に長門国赤間関壇ノ浦(現・山口県下関市)で行われた合戦で、平氏政権に対する反乱である治承・寿永の乱(1180~1185)の最後の戦いであった。この合戦に敗れた平氏は滅亡し、勝者の源頼朝は鎌倉に幕府を開き、武士政権を樹立した。 1183年、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器(鏡・剣・玉)を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで押し返した。しかし、1184年の一の谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れて讃岐国屋島と長門国彦島(現・山口県下関市)に拠点を置いた。 鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦をとったが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が止まり、九州にも渡れなくなった。このため頼朝は義経に別働隊を編成させて平氏の本拠讃岐国屋島を攻めさせた。1185年2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れ、彦島に拠った。一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。
2008.05.04
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久光は大久保一蔵(利通)らを遣わしてこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、再度彼らの同志である大山綱良、奈良原繁、道島五郎兵衛らの9名の尊皇派藩士を派遣した。大山綱良らは有馬新七に「藩邸に同行するように」と求めたが有馬新七はこれを拒否し、同士討ちの激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手の道島五郎兵衛と有馬新七ら6名が死亡、2名が重傷を負い、残りの尊皇派志士たちは投降した。 負傷者2名は切腹させられ、尊皇派の諸藩浪士は諸藩に引渡された。引き取り手のない田中河内之介らは「薩摩藩に引き取る」と称して船に連れ込み、斬殺された。薩摩藩における倒幕運動は、この事件で抑えられた。また、久光は勅使を護衛するという形で正統性を獲得し、朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。 久光は幕府との交渉に当たり徳川慶喜の将軍後見職及び前越前藩主・松平春獄の政事総裁職就任を実現させる。目的を達成し東海道を江戸から京都に上る途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区)でイギリス民間人4名と遭遇、久光一行の行列を乱したという理由で随従の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件を起こしている。後の薩英戦争の原因となる。 もう一つの「寺田屋事件」は1866年(慶応2年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件である。寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件である。この襲撃で龍馬は左手の親指を負傷したが難を逃れている。この時おりょうは風呂に入っていたが裸で飛び出し、龍馬に危険を知らせ薩摩藩邸に助けを求め駆け込んでいる。後に西郷隆盛の勧めで龍馬とおりょうは日本最初の新婚旅行をすることになる。
2008.05.02
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1862年4月23日(文久2年)に発生した薩摩藩尊皇派等の粛清事件。 1866年3月8日(慶応2年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。 文久2年の寺田屋事件は江戸時代末期の京都郊外の伏見(現・京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で、薩摩藩尊皇派が薩摩藩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件である。 当時、幕政改革の混乱や、異国船の来航による対外的緊張など政治的混乱が起こると、幕府は秩序維持のため体政委任論に依存して朝廷権威を政治利用した結果、朝廷の権威が復興した。また、幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国を行うと、攘夷論と結合して尊王攘夷となり、幕政批判や倒幕運動へ展開された。 一方、薩摩藩では1858年に28代当主島津斉彬が死去し、遺言により久光の長男忠義が藩主に就くと、藩主の実父として久光の政治的影響力が増大し、藩政の実権を掌握した。そのような状況の中、1862年に薩摩藩の島津久光が兵を率いて上洛すると、尊皇派の期待を一身に背負ったが、久光には倒幕の意志はなく、公武合体運動推進を目的としたため、このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは、同じく薩摩藩の尊皇派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の旅館・寺田屋に集まった。
2008.05.02
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樹齢200年の楠木天子社の鳥居家の畑社務所南天洋蘭家の庭山吹名前知らず昭和2年神社境内狛犬狛犬神殿祠玄関神棚床の間タケル
2008.05.01
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