2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全7件 (7件中 1-7件目)
1

彼岸花青龍禅定寺向日葵無花果南瓜の花柿天子社
2009.09.27
コメント(10)

菊池容斎「前賢故実」より 和泉式部(生没年不詳)は平安時代中期の歌人である。天元元年(978年)頃に出生したとするのが通説。中古三十六歌仙の1人。 越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官命を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。 はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付きの女童だったらしい(母・平保衡女が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出あうる因を作った。 敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008-1011年)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)ごろ、主君彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の詳細は分らない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(「紫式部日記」より)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。ほかに家集「和泉式部正集」「和泉式部続集」や、秀歌を選りすぐった「宸翰本和泉式部集」が伝存する。「拾遺集」以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ死後初の勅撰集「後拾遺集」ぢは最多入集歌人の名誉を得た。 ・小倉百人一首 ・56番 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢うこともがな・現在、岐阜県可児郡御嵩町には和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、ここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」という一首が刻まれている。・福島県石川郡石川町にはこの地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。・佐賀県嬉野市にも和泉式部に関する伝説がある。・長野県諏訪市の温泉寺に和泉式部の墓所がある。・兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。・大阪府堺市西区平岡町には、居宅跡である「和泉式部宮」がる。・大阪府岸和田市の阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。 しかしこれらの逸話や和泉式部の墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田国男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。・鰯が好きだったとされる。京都府木津川市にも和泉式部のものと伝えられる墓がある
2009.09.24
コメント(0)

禅定寺家紋武雄温泉楼門武雄温泉クリスタル般若心経
2009.09.20
コメント(2)

7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。(後に阿波国へ移される)後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。 後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っている。 討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、その他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。 京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。 承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府を憚って細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった長講堂領や八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。 また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固にになり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。 安田元久「歴史事象の呼称について」によると、本事件について大正中期までは「承久の乱」の表記が主流だったが、皇国史観の立場から「承久の変」の表記を使わせるようになった。これは、上皇が「反乱」を起こすはずがないという思想的立場を優先させたものである。しかし、「変」は主に不意の政治的・社会的事件に、「乱」は主に武力を伴う事件に使われていることから、戦乱の発生した本事件に「変」の表記は無理があるとしおている。 第二次世界大戦後は、「乱」表記が主流になっている。しかし、田中卓の「教養日本史」を始め、明成社の高等学校用教科書「最新日本史」、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書「新しい歴史教科書」などでは「変」を用いている。歴史書 ・「愚管抄」:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。 ・「吾妻鏡」:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。軍記物 ・「承久記録」:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。歴史物語 ・「六大勝事記」:承久の乱を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」であったことに原因があるとしている。 ・「増鏡」:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。
2009.09.10
コメント(2)

義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(「増鏡」)。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、「吾妻鏡」によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。 義時は捕えられていた上皇の使者に宣戦布告を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、武田信光率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2000騎を撃破した。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。 北条朝時率いる北陸道軍4万騎も栃波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。 美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が禍して比叡山はこれを拒絶。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射掛け必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川も渡れず攻めあぐねたが、翌14日に強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功。京方は潰走し、幕府軍は京へなだれ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。 「承久記」によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。 後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の宣旨を取消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。
2009.09.04
コメント(4)

同年7月、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面の武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。 朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可癖の情勢となった。 同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康率いる800騎が京都守護伊賀光季の邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。 後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的であった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。 京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕えられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた声明を出し、動揺は鎮まった。「吾妻鏡」や「承久記」には北条政子が鎌倉武士を前に、「故右大将(頼朝)の恩は山より高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した記述がる。
2009.09.03
コメント(4)

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。 乱が起きた際の執権は、北条義時。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。 治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を配置し、警察権を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。 後鳥羽上皇は多芸多才で「新古今和歌集」を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。 承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。「承久記」など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。 幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾伊賀局(元は白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面の武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。 ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝の生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎えいれを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年の9月に実朝が広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(「吾妻鏡」)をしかるべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。この説の弱点として実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことが説明付かなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名をして将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図る更なる保障(河内はこれを幕府機構及び北条氏以下主要御家人の京都移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時皇族将軍のみならず、摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側であり、三寅の鎌倉下向の容認自体がこの時点での後鳥羽上皇に倒幕を行う意志が無く、承久の乱における最終目的も鎌倉における現行の幕府体制の打倒であって、京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く。
2009.09.01
コメント(4)
全7件 (7件中 1-7件目)
1