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慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。 明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦をと江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。 先ず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては江戸市中の撹乱作戦を指揮し、奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士益満休之助を説得して案内役にしている。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。 勝は交渉にあたって、幕府方についたフランスに対抗するべく、新政府側を援助していたイギリスの思惑を利用した。英国公使のパークスを使って新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂した時は江戸の民衆を千葉に避難させた上、新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。 この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている。この作戦を実施するにあたって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬と共に市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小に関わらず調達、避難民の為の食料を確保するなど準備を行っている。また慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。 この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。 維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官を歴任、伯爵を叙された。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允の大きさ、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生の全てを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許されて特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ、名産としている。こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績である。明治期
2009.07.31
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剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷清一郎の道場、後に清一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。 蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断わられたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る。この蘭学修行中に辞書「ドウーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿倍正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名から町人にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿倍正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過す。 この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影 万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断してアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルックス大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。 福澤の「福翁自伝」には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。 帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている。 勝は神戸に海軍熟を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。 勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大坂においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。
2009.07.30
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勝海舟/勝安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし)は、江戸時代末期から明治期にかけての幕臣、政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦(としくに)、維新後改名して安芳。これは幕末に武官官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あん-ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」から取ったものである。 父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。1887年哲学館(現:東洋大学)を創設した井上円了と親交があり、多くの寄付をしているため、「哲学館も三恩人」の一人と呼ばれている。 また、専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律増甲乙之以正澆俗 礼祟升隆之制以極頽風」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。 勝海舟は文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。 曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子・平蔵は、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。 幼少時、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。 生家の男谷家で7歳まで過したのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
2009.07.29
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根来寺の大塔/国宝 根来衆との関係 根来衆と雑賀衆は、一部には混同される記述も見受けられるが、全く異なる点と極めて似通っている点がある。雑賀衆は鈴木重秀や土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられるが、根来衆は根来寺を中心とした真言宗の僧徒らの集団を指している。戦国時代には一説によると寺領が50万石とも70万石とも言われている。根来寺の僧は教学や儀式をつかさどる「学侶」と堂塔の管理や寺の防衛をつかさどる「行人」と分けられ、根来衆の大半は行人でしめられている。行人とは僧兵のことで根来衆は僧兵集団と解釈される場合もある。一方雑賀衆には、行人や僧兵と言われる人たちはいなかったと思われている。現在の和歌山市の全域と海南市の一部に、沢山いた土豪の集まりで、地域と密着した集団が雑賀衆と思われている。似通っている点としては優秀な鉄砲集団、傭兵集団で、地域も近く人的な交流もさかんであったと思われ、根来寺に入信後、後に雑賀衆として活躍したり、その逆も多々あったようである。 鉄砲 鉄砲伝来は天文12年(1543年)8月に鉄砲が種子島に我が国で初めて伝来したと思われている。その後根来寺の僧津田算長らが畿内に持ち帰っており、「戦国鉄砲 傭兵隊」によると根来衆経由で雑賀衆に持ち込まれたと思われている。根来衆の佐武伊賀守が天文18年(1549年)に鉄砲を習い始める、という記述が見受けられるので恐らくこの以前には根来衆に伝来していたと思われている。根来衆には一定量の鉄砲があったと思われているが、これらの鉄砲をどのようにして用意できたのか、現在に到り明確には解っていない。説としては、堺より外国から移入した、地元で作られた、当時は鉄砲作成技術はなく他の地域より職人を招いたなどが言われているが、いずれも推測の域を出ない。仮に鉄砲を自前で作成していたとしても、雑賀には鉄砲の材料となる鉄、真鍮、黒色火薬の材料となる硝石が生産されておらず、入手経路等を示す資料は解っていない。
2009.07.27
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雑賀衆(さいかしゅう)は、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市の雑賀崎)の諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した集団(一揆)である。雑賀党ともいい、「さいが」とも読む。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。 雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市北西部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている。 雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して軍事集団へと成長する。 1570年(元亀元年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍についた。その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが「戦国鉄砲 傭兵隊」によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦)。顕如画像 信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。 1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。畠山政尚を奉じて信長と争そう姿勢を示す。しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。 以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる(第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。 かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。
2009.07.26
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系譜 先祖 神武天皇~武烈天皇=継体天皇-欽明天皇-用明天皇-聖徳太子 兄弟姉妹 ・母:蘇我石寸名 田目皇子(用明天皇の第一皇子) ・母:穴穂部間人皇女 厩戸皇子(聖徳太子) 来目皇子 殖栗皇子 茨田皇子 ・母:葛城廣子 麻呂子皇子 酢香手姫皇女 妻子 ・刀自古郎女 山背大兄王 財王 日置王 片岡女王 ・橘大郎女 白髪部王 手島女王 ・膳大郎女 長谷王 三枝王 伊止志古王 麻呂古王 春米女王 久波太女王 波止利女王 馬屋古女 ・莵道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ) 太子信仰 「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであると」として、太子自身を信仰対象にした例は古くからあるが、特に室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行われるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工の他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。
2009.07.24
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慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した「聖徳太子伝私記(古今目録抄「法隆寺本」」にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した「太子伝古今目録抄(四天王寺本)」には「法起寺塔露盤銘伝上宮太子聖徳皇壬午年二月二十二日崩云云」と記されている。また直木孝次郎は「万葉集」と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、「聖徳皇」は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする。 日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする。 「播磨国風土記」(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大国里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と考えれれることから、「日本書紀」(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の註釈書「古記」(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の謚号を聖徳王としたとある。 「上宮聖徳法王帝説」巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701~704)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料にによるとしている。 聖徳太子即位説 「聖徳太子は即位して天皇になった」とする説もある。
2009.07.23
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聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男「聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」(2000年)、上原和「世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧」(2002年)、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正明「歴史からみた太子像の虚実」(「聖徳太子の実像と幻像」所収)(2001年)、曽根正人「聖徳太子と飛鳥仏教」(2007年)、森田悌「推古朝と聖徳太子」(2005年)などがある。 聖徳太子については「日本書紀(巻22推古紀」、「三経義疏」、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)、「法起寺塔露盤銘」、「上宮記」、「上宮聖徳法王帝説」などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に製作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。 大山説では道後湯岡碑銘文は仙覚「万葉集註釈」(文永年間(1264年~1275年)頃)と「釈日本紀」(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年)の引用(伊予国風土記逸文)初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、舟首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は「續日本紀」に引く所にして、もと「伊豫風土記」に載せてあった。」と述べている。 「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親選であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親選とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。 「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風謚号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、製作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服装など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
2009.07.22
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河内三太子 聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺(やちゅうじ)、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、河内三太子と総称されている。 聖徳太子の著作 ・「三経義疏」(さんぎょうのぎしょ)。このうち「法華義疏」は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。 ・「四天王寺縁起」は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。 ・「十七条憲法」は、「日本書紀中に全文引用されているものが初出。 ・「天皇記」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」は、「日本書紀」中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。 ・「先代旧事本紀」は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。 ・「未来記」は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。 この他にも聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書は多い。聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」。この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた者であるとする説もある。 聖徳太子についての諸説 聖徳太子虚構説 大山誠一は「厩戸王の事績と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、「隋書」に記載されてはいるが、その「隋書」には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を「日本書紀」の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。 大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、「日本書紀」編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在でありとする。 大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野においても実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる。 ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の「聖徳太子暗殺論」(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は「聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く」(1992年)を出版し、谷沢永一は「聖徳太子はいなかった」(2004年)を著している。 さらにさかのぼれば、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の「日本上代史研究」において太子作ではないとしている。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。一方、森博達は十七条憲法を「日本書紀」編纂時の創作としている。
2009.07.20
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出生の伝説について 「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠った」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出世譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者もいる。しかし、一般的には、当時の国際色豊な中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。 片岡飢人(者)伝説 「日本書紀」によると次のようなものである。 推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。 しなてる片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。 「万葉集」には上宮聖徳皇子作として次の歌がある。 家にあらば 妹(いも)が手纏う(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ また、「拾遺和歌集」には聖徳太子作として次の歌がある。 しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし 後世、この飢人は達磨太師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。 墓所 墓所は大阪府河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女と膳部岐岐美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。 直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3ヶ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。叡福寺 聖徳太子墓
2009.07.18
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聖徳太子にまつわる伝説 豊聡耳 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上がった、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後にそれぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 「上宮聖徳法王帝説」、「聖徳太子伝暦」では8人であり、それゆえ厩戸豊聡八耳皇子と呼ばれるとしている。「日本書紀」と「日本現報善悪霊異記」では10人である。また「聖徳太子伝暦」には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。 一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。 なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。 兼知未然 「日本書紀」には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知らしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。「平家物語」巻第八に「聖徳太子未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、「太平記」巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された「先代旧事本紀大成経」にある「未然本記」も未来記を模したものとみることができる。 四天王寺 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大坂市天王寺区)を建てた。 南嶽慧思の生まれ変り 「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智義の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。「四天王寺障子伝(=「七代記)」、「上宮皇太子菩薩伝」、「聖徳太子伝暦」などに記述がある。 中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。
2009.07.17
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推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者として隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。 推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して「国記」、「天皇記」などを選んだ。 推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、「国記」、「天皇記」の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。一般的に聖徳太子とされている人物の肖像が描かれた一万円札(C-一万円券) ・聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した以下の史料が初出と言われる。 ・「懐風藻」(天平勝宝3年・751年)に編纂とされる。 ・「日本書紀」(養老4年・720年):敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豊御食炊屋姫尊為皇后 是生二男五女 其一日 菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖徳」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。 ・顕真の著「聖徳太子伝私記」に引用される「法起寺塔路盤銘」(慶雲3年・706年という)に「上宮太子聖徳皇」と見える。 ・他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、「上宮聖徳法王帝説」での厩戸豊聡耳聖徳法王、上宮聖徳法王、万葉集巻三の上宮聖徳皇子など、様々な名前で呼ばれる。 ・平安時代に成立した史書である「日本三代実録」「大鏡」「東大寺要録」「水鏡」等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豊聡耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。 ・一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の「詳説日本史」では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された。 ・聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として何度か使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C-一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。新井薬師寺 16歳の聖徳太子像
2009.07.16
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戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(祟峻天皇)。しかし政事の実権は馬子が持ち、これに不満な祟峻天皇は馬子と対立した。祟峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に祟峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧彗慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。聖徳太子立像(飛鳥寺) 推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戌辰 皇太子親肇作憲法十七条」(「日本書紀」)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。 推古天皇13年(607年)、斑鳩宮へ移り住んだ。
2009.07.15
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聖徳太子(敏達天皇3年1月1日(574年2月7日~推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-「日本書紀」))は、飛鳥時代の皇族。 用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。また、「上宮聖徳法王帝説」などでは厩戸豊聡耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。 本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたという説が有力である。別名・豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。「古事記」では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。「日本書紀」では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。 「随書」に記述された倭王多利思北狐による国書は聖徳太子らによる創作と言われている。 近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるものの、「日本書紀」等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある。 天皇系図26~37代 敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。 用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って祟仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川群の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤壽(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
2009.07.14
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網封蔵薬師坊庫裏(重文) 西円堂の背後に建つ。上御堂(重文) 西院伽藍の大講堂の真裏(北)に建つ。鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。通常非公開だが、毎年11月1日~3日に限り堂内を公開。地蔵堂(重文) 西円堂の東側石段下に建つ。地蔵像半跏像(重文)を安置。食堂(じきどう)(奈良時代、国宝)および細殿(ほそどの)(鎌倉時代、重文) 西院伽藍の東方北寄りに建つ。食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑造だが、補修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。網封蔵(こうふうぞう)(国宝) 聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫である。東大門(国宝) 西院から東へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。旧富貴寺羅漢堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の富貴寺(無住)にあり、荒れ果てていたのを、細川護立(侯爵、美術史家)が引き取り保存していたが、後、法隆寺へ寄進。平安時代の三重塔の初層のみが残ったものと思われる。子院中院本堂(重文) 境内に西端にある。宝珠院本堂(重文) 境内西端にある。堂内に文殊菩薩騎獅像(重文)を安置。律学院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。宗源寺四脚門(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。福園院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側にある。北至院本堂、同・太子殿、同・表門(各重文) 東院伽藍の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。文化財 明治維新後の廃仏毀釈により民衆にとる破戒にさらされ、さらに幕政時代のような政府にとる庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。 法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な「聖徳太子及び二王子像」や「法華義疏」などは現在も皇室が所有する御物である)柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺正岡子規金剛力士立像・吽形中門安置金剛力士立像・阿形中門安置宝鐘の発見 仏具の用語としてか残っていなかった「宝鐘」が法隆寺で発見された(1992年1月10日付)。環形蛍光灯をひもでつなぎぶら下げたような形で、室町時代以前の作であることが傘の墨書銘からわかった。建物の軒の下にさげられたと推測されている。
2009.07.13
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大湯屋表門大湯屋(重文)、大湯屋表門(重文) 西園院の西方、築土塀の内側にある。新堂(重文) 西園院に接して建つ持仏堂。薬師三尊像、四天王像(各重文)を安置。護摩堂 南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。不動明王及び二童子像、弘法大師像(各重文)を安置。聖霊院(しょうりょういん)(国宝) 西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立。この建物は本来は東室の一部であったが、1121年にこてを再建するときに南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子を祀った。現在の聖霊院は1284年に改築されたものである。聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、如意輪観音半跏像(重文)地蔵菩薩像(重文)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。東室(ひがしむろ)(国宝) 聖霊院の北に接続して建つ。後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。妻室(つまむろ)(平安時代、重文) 東室の東に建つ細長い建物。三経院及び西室(国宝) 西院伽藍の西側、聖霊院と対照的な位置に建つ。鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像(各重文)を安置。西円堂(国宝) 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに座す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置する。護摩堂西円堂
2009.07.12
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観音菩薩立像(夢違観音)(国宝) 奈良時代、銅造。もと東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。地蔵菩薩立像(国宝) 平安時代、木造。桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分離で法隆寺へ移動した。大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。六観音像(重文) 奈良時代、木造。六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」、「日光・月光菩薩」、「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の異なる3対の像から成る。東京の根津美術館には、この六観音像と酷似した菩薩像があり、もとは8体あったものとも言われる。梵天・帝釈天立像、四天王立像(重文) いずれも奈良時代の塑造で、もとは食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。玉虫厨子(国宝) 飛鳥時代。もとは金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸、絵画の遺品として重要である。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)、また「施身聞偈図」(せしんもんげず)は特に知られる。現在、5年の歳月と1億円以上費用をかけて作成された復刻版が本寺院に寄贈された。橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像(国宝) 奈良時代。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は奈良時代の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されている。金堂小壁画(重文) 1949年の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。 また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。大宝蔵殿 大宝蔵院とは別個の建物。1939年の建設で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。現在は、春秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれないさまざまな寺宝を公開している。その他のおもな堂宇 法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇や子院と呼ばれる付属寺院がある。なお、西円堂以外の堂内や仏像は原則として非公開である。南大門(国宝) 西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造りの一重門。室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。西園院客殿(重文)、西園院上土門(あげつちもん、重文)、西園院唐門(重文) 西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。なお、西院・東院の築地塀も重文に指定されている。
2009.07.11
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東院鐘楼 ・行信僧都坐像(国宝) 奈良時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。極端な吊り目の怪異な容貌が特色。 ・道詮律師坐像(国宝) 平安時代初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。 ・聖観音立像(重文) 救世観音の背後に立つ。絵殿及び舎利殿(重文) 鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年(1878年)、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。絵殿には江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られている。伝法堂(国宝) 橘夫人(県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)と寺伝承では伝えられるが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分れ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。 東院には他に南門(鎌倉時代、重文)、四脚門(鎌倉時代、重文)、鐘楼(鎌倉時代、国宝)がある。玉虫厨子大宝蔵院 百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成した。観音菩薩立像(百済観音)(国宝) 飛鳥時代、木造。もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。和辻哲郎の「古寺巡礼」をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期までは「虚空菩薩像」と呼ばれていた。観音菩薩立像(九面観音)(国宝) 唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。南大門
2009.07.10
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四天王立像(国宝) 飛鳥時代の山口大口費作。釈迦三尊像、薬師如来像が銅造りであるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りのポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。毘沙門天・吉祥天立像(国宝) 中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。 なお、中の間と西の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。五重塔(国宝) 木造塔として世界最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑造が国宝)。この塑造に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈迦の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画(現在は別途保管、重文)がったが、上から漆喰が塗られたりしたため、剥落が激しい。回廊(国宝) 金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分は北は平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。経蔵(国宝) 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正座像(重文)を安置するが、内部は非公開。鐘楼(国宝) 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。大講堂(国宝) 平安時代の移築。薬師三尊蔵(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。大講堂東院伽藍 聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿に北に接して伝法堂が建つ。絵殿、舎利殿夢殿(国宝) 奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。 ・観音菩薩立像(救世観音)(国宝) 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。当初のものと思われる金箔がよく残る。東院回廊と礼堂
2009.07.09
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中門西院伽藍 南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。中門(国宝) 入母屋造りの二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点で特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。金堂金堂(国宝) 入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物(軒の出を支える建築部材)は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺のみに見られる様式で7世紀建築の特色である。 二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。金堂の壁画は日本の仏教画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている。堂内は中の間、東の間、西の間に分れ、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。五重塔釈迦三尊像(国宝) 623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。薬師如来坐像(国宝) 東の間本尊。木像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来具のものではない。阿弥陀三尊像(重文) 鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。脇持の勢至菩薩像は明治時代に寺外に出て、現在フランス・ギメ美術館蔵となっており、現在金堂にあるのは模造である。
2009.07.08
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2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年(668年)が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。 なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、他の部材に比べてなぜ心柱のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。 1972年に梅原猛が発表した論考「隠された十字架」は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。この説は大論争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。 とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て「日出処の天子」を発表した。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じの為であるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トウアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげる為に考案されたものであり、先行する百済大寺や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。近代以降 ・1878年(明治11年)300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。 ・1882年(明治15年)法相宗に転じる。 ・1884年(明治17年)フェロノサ、岡倉天心らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。 ・1903年(明治36年)佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。 ・1943年(昭和9年)「昭和の大修理」が開始。 ・1939年(昭和14年)「若草伽藍」発掘・ ・1949年(昭和24年)金堂壁画を火災で焼損。 ・1950年(昭和25年)法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。 ・1985年(昭和60年)昭和の大修理完成。 ・1993年(平成5年)12月9日ユネスコの世界文化遺産に登録。
2009.07.07
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近代に入ると、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、1878年(明治11年)には官長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。 1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。1950年に法相宗から独立した。 1981年(昭和56年)からは「昭和資材帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は「法隆寺の至宝-昭和資材帳」として小学館から刊行されている。昭和9年の大修理の際に裏山に築ていして貯水池を建設しそこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。金堂火災の際初期消火に活用された。 法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は「日本書紀」の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真瀬、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。 ・非再建論の主張 ・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。 ・薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。 ・日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など ・再建論の主張 ・日本書紀の記事は正確である。 ・飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にばらない。など この他、論争の過程で、飛鳥時代に2つの寺が並存していた(一方が焼失した)等の説も出された。 非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。
2009.07.06
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五重塔 日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた。なお、発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査などの裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は一度焼失した後に再建されたものであるということは定説となっている。ただし、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのかなど、再建の正確な時期や経緯については謎も多い。焼失前の旧伽藍(いわゆる「若草伽藍」)は、現在の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現在の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している。さらに、現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは定かでない。 再建時期についても明確な記録はないが、現存の西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築と見られる。「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は和銅4年(711年)の製作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。なお、平安時代に書かれた「七大寺年表」には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。 一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子をしのんで建立したものである。 延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。 近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄-宝永年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。
2009.07.05
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中門 法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺という。 聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院である。創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大坂の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。金堂 法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。「聖徳太子の誕生」の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在としながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。 現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半-8世紀初めの建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。 通説にとれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来像(国宝)の後背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、意志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である「日本書紀」には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。 前述の金堂薬師如来像については 1.像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられること 2.607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視されること 3.銘文中の用語に疑問がもたれること という理由から、文字通り607年までさかのぼる製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の後背銘をもつ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である。 このように、若干の不明点は残るものの、法隆寺の創建が7世紀前半の聖徳太子在世時にさかのぼることは、発掘調査の結果等からも明らかである。皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
2009.07.04
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成務天皇と同年同日の生まれという。景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が「書記」に現れる最後。「公卿補任「「水鏡」は同55年(367年)、「帝王編年記」所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。 奈良県御所市室の宮山古墳(前方後円墳・全長238m)は古来「室大墓」と称され、武内宿禰の墳墓とする伝承がある。この宮山古墳については、その子の葛城襲津彦の墓とも言われている。その場合、宮山古墳より少し前に造られた巣山古墳が武内宿禰の墓の可能性が高い。この巣山古墳の中心線は、佐紀石塚山古墳の後円部中心を通っている。平安時代、佐紀石塚山古墳の隣の佐紀陵山古墳を神功皇后の陵墓として祭っていたが、それが誤っていて祟りがあったとも伝えられている。それに従えば、神功皇后(息長帯姫)の真陵は佐紀石塚山古墳ということになる。「因幡国風土記」には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。 皇国史観の下では忠臣の誉れが高く、日本銀行券の肖像にも、改造壹圓券(1889年)甲五圓券(1899年発行)・丙五圓券(1916年発行)・丁貳百圓券(1942年発行)・壹圓券(1943年発行)の5種類に採用された。
2009.07.02
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武内宿禰(たけうちのすくね・たけのうちのすくね・たけしうちのすくね、景行天皇14年(84年)?~仁徳天皇55年(367年)4月?)は、「古事記」「日本書紀」で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として使え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。別称・御食津大神(ミケツオオカミ)(気比神)、高良玉垂神(コウラマタレノカミ)系譜 ・先祖 ・孝元天皇の曾孫(「古事記」には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やにしおしたけおこころのみこと)、「古事記」は比古布押之信命とする ・母は木国造(紀伊国造)の女・影媛 ・兄弟 ・異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね) ・子 ・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)-波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖 ・巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)-巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖 ・蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)-蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖 ・平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)-平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖 ・紀角宿禰(きのつぬのすくね)-紀臣、都奴臣、坂本臣の祖 ・久米能摩伊刀比売(くぬのまいとひめ) ・怒能伊呂比売(ののいろひめ) ・葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)-玉手臣、的臣、生江臣、阿藝邦臣の祖 ・若子宿禰(わくごのすくね)-江野財臣の祖 記紀の登場人物では最も長命の人間で、一人の人物とは考えられず、親子が何代かが同じ名前をついだもの、あるいは個人ではなくある種の人間集団の事績を一人の人物の事柄に仮託して描かれたものではないかとする仮説も唱えられているが、確かではない。 安本美典は古事記や日本書紀に記された古代の天皇の存在そのものは信じられるが、皇位を父子で継承した事と在位年数が信頼できないという説を唱えている。その例証のひとつとして、ひとりの天皇の在位年数を実際より長くしてしまったため、武内宿禰のような何代もの天皇に仕えた者の年齢が異常に長くなったとしている。
2009.07.01
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