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・風信帖(ふうしんじょう) 国宝指定名称は「弘法大師筆尺讀(せきとく)」。空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで風信帖と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年(1592年)献上したことが巻末の奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として灌頂歴名とともに絶品とされる。年号は不明であるが、弘仁3年(812年)頃とされている。第1通目は、9月11日付きで「風信雲書」の書き出し。書風は謹厳である。第2通目は、9月13日付けで「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある。第3通目は、9月5日付けで「忽恵書礼」の書き出し。流暢な草書体である。全体は王義之の体である。東寺蔵。国宝。 ・崔子玉座右銘(さいしぎょくゆうのめい) 後漢の崔媛の「座右銘」100字(五言二十句)を草書で2、3字ずつ、数十行に書かれたものである。もとは白麻紙のの横巻で高野山宝亀院の蔵でにあったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、他は諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm~16cmもあるので古筆家は「大字切」(だいじぎれ)と称している。 なお、空海の門人で同じ佐伯氏の出身である実慧は若い頃に同じ一族と思われる讃岐国多度郡出身の佐伯酒麻呂らに儒学を学んだとされている(「弘法大師弟子伝」)が、酒麻呂とその一族が平安時代前期において、長期に渡って書博士の地位を占めていた事が「日本三代実録」に記されている。空海を含む讃岐の佐伯氏は、書と深く関わりを持っていた一族であったと考えられている。 「弘法大師」は空海の諡号であるが、「弘法大師」と「空海」とは必ずしも同じではない。弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。柳田国男は大子(オオゴ、神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出しているが、他に中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖の存在もある。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊祟がその伝説形成の底辺にあると考えられる。 弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物等々多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。
2009.05.31
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空海は、江戸時代を通じて、お大師さんとして人々に親しまれていた。しかし、純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだとして、本居宣長などによって批判された。明治時代に入ると廃仏毀釈運動によって一時的にその評価が落ちることになった。 空海は、今もなお高野山に隠れているということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれるが、1884年のそれは明治時代初頭であったため、上の理由から低調だったという。そのためか、1934年の御遠忌は単なる宗教行事にとどまらず、大坂朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。 このキャンペーンのなかで、かつて不純な思想を持ち込んだと批判された空海は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として評価されるようになった。これは1934年という時代と関係している。日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでにこのとき開始しており、国民が団結して戦争に臨む必要があったのであり、そのために国民の英雄として空海が再評価されたのである。 日本統治時代の影響を受けてか、台湾には空海を祀る廟が存在する。 書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王義之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白文字すべてよくした。中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不出世の能書家である。真跡としては次のようなものがある。 ・聾瞽指帰(ろうこしいき) 「三教指帰」の初稿本に当たるもので、2巻存し、入唐前、延暦16年(797年)24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の風信帖に見られる書風とは異なる。金剛峯寺蔵。国宝。「風信帖」(第1通目)空海筆 ・灌頂歴名(かんじょうれきめい)、「灌頂記」とも) 弘仁3年(812年)から弘仁4年(813年)にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺蔵。国宝。「崔子玉座右銘」(部分)空海筆
2009.05.29
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大師像(地蔵寺) 延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。 最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。 弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師と言えばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。 真言宗では、宗祖空海を「大師」と祟敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も行き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の呼称によって宗祖への祟敬を確認するのである。 故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、江戸初期の真念によって札番号を付けてまとめられ、俗に言う四国八十八箇所の寺寺他多くの霊跡として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。 高野山奥の院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。奥の院の維邦(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維邦以外が窺う事はできず、維邦を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。 現存する資料で空海の入定めに関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した「金剛峰寺建立修行縁起」で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。また、「今昔物語」には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ座っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。 このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、「続日本後紀」に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実彗が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。 このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多く、この方面での研究が待たれている。
2009.05.28
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天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え「秘密曼荼羅十住心論」十巻、「秘蔵宝論」三巻を著した。 天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。 天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。 承和元年(834年)2月、東大寺真言院で「法華経」、「般若心経秘鍵」を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三網を置くことが許されている。 承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。 享年62(満60歳没)。 真済による「空海僧伝」によると死因は病死で、「続日本後紀」によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようである。しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れる。 天長8年(831年)に病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている。
2009.05.27
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弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使して工事を成功に導いた。 弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に灌頂を授けた。 弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからである。 天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。 天長5年(828年)には「綜藝種智院式并序文」を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。また、「綜藝種智院式并序」において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、こては実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。現在は種智院大学がその流れを受け継いでいる。
2009.05.26
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大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を持って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。最澄は「請来目録」を見て持ち帰った密教の重要さを評価したためといわれている。その後、二人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る。なお二人の訣別に関しては、古くから最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。だが、近年その通説には疑義が提出されている。 大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。 弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めた。 弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範の他190名にのぼった。 弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教教典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃「弁顕密二教論」を著している。 弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。 この頃、「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」等を立て続けに執筆した。
2009.05.25
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8月10日には伝法阿闇梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、教典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闇梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闇梨付嘱物とは、金剛智ー不空金剛ー恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。 そうして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、教典等を収集した。8月に明州を出航して、帰国の途についた。 途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。なお、福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝されて、異国で修行された真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけられたという。虚しく往きて実ちて帰る 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。 大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。 空海は、10月22日付けで朝廷に「請来目録」を提出。唐から空海が持ち帰ったものは「請来目録」によれば、多数の教典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闇梨付属物等々厖大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、~聞かざるを聞く」(「請来目録」)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止往している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしていた。
2009.05.24
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空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に20歳にして勤操を師として槇尾山寺で出家した、という説、あるいは25歳で出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804年)、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。また空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。 延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。 また、第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。 同年5月12日、難波津を出航、博多を経由して7月16日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞現20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。 永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。 長安で空海が師事したのは、まず豊泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えれれている。空海はこの般若三蔵から梵語の教本や新訳教典を与えられている。 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
2009.05.23
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空海は、平安時代初期の僧。「弘法大師」の名(諡号、醍醐天皇、921年贈)で知られる、真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、まなとも)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。 宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきの あたいたぎみ)、母は阿刀氏、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、正確な誕生日は不明である。 延暦18年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝教、史伝、文章等を学んだ。 延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明教道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだと伝えられる。 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。御蔵洞(高知県室戸市)で修行をしている時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いたといわれている。その間、空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある(「聾瞽指帰(ろうごしいき)」を著して俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。「大日経」を初めとする密教教典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。 ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。「三教指帰」の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたこと、明星が来影するという形で行が成就したこと、が記されている。求聞持法を空海に伝えた一紗門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒名明ではないかと云われている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した「釈摩訶衍論」の請来者である。
2009.05.22
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円筒埴輪 吉備地方の首長の埋葬儀礼に使われた特殊器台・特殊壷が発達した筒形の埴輪をいう。遅れて特殊器台に特殊壷を載せた形の朝顔型円筒埴輪がでてきた。これらの埴輪は、古墳の各段や墳頂、造出しなどに列状に並べられ、畏怖的・視覚的な効果を狙ったものと考えられる。前方後円墳の出現期から終末まで配列されたので、古墳の年代決定に大きな役割をはたしている。形象埴輪 形象埴輪は、円筒埴輪とは起源を異にすると推定されている。家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪に大きく分けることができる。 家形埴輪 古墳の頂上の中央に置かれる。一棟だけ置かれることは少ない。構造、規模などの異なる複数の家形埴輪を一面に、または列状に並べる。 ・踊る埴輪(埼玉県熊谷市野原古墳出土)東京国立博物館蔵 ・力士埴輪(和歌山県和歌山市井辺八幡山古墳)同志社大学所蔵 ・武人埴輪
2009.05.21
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古墳時代前期初頭(3世紀中葉~後葉)には、円筒形または壷形、少し遅れて器台の上の壷を乗せた形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。 前期前葉(4世紀前葉)には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。その後、墳頂中央で家形埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付け鰭付き円筒埴輪である。 さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場した。またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになった。あるいは、方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家形埴輪の屋根部分が不釣合いに大型化したりするようになる。 畿内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)に前方後円墳が衰退するとともに、埴輪も次第に姿を消していったが、なおも前方後円墳を盛んに築造した関東地方においては埴輪も引き続き盛んに作られ続けた。 元々、吉備地方に発生した特殊器台形土器・特殊壷形土器は、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いられたものであるが、古墳に継承された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むというその樹立方法からして、聖域を区画するという役割を有していたと考えられる。 家形埴輪については、死者の霊が生活するための依代(よりしろ)という説と死者が生前に居住していた居館を表したものという説がある。古墳の埋葬施設の真上やその周辺の墳丘上に置かれる例が多い。 器財埴輪では、蓋が高貴な身分を表象するものであることから、蓋形埴輪も同様な役割と考えられているほか、盾や甲冑などの武具や武器形のものは、その防御や攻撃といった役割から、悪霊や災いの侵入を防ぐ役割を持っていると考えられている。 人物埴輪や動物埴輪などは、行列や群像で並べられており、葬送儀礼を表現したとする説、生前の祭政の様子を再現したとする説などが唱えられている。このような埴輪の変遷は、古墳時代の祭祀観・死生観を反映しているとする見方もある。
2009.05.20
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形象埴輪(東京国立博物館) 埴輪とは、日本の古墳時代に特有の素焼きの焼き物。古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。 埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。基本的に中空である。造り方は粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えた。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色染料を塗布した。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では、形象埴輪にいろいろな彩色が施されている。埴輪には、古墳の墳丘や造り出しなどに立て並べられた。埴輪は、大きな円筒埴輪と形象埴輪の2種類に区分される。さらに、形象埴輪を大きく分けると家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の4種がある。埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能であり、貴重な史料である。 埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長のお墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壷(特殊器台型土器・特殊壷型土器とも呼称される)であるといわれている。 3世紀中葉~後葉になると、前方後円墳(岡山市都月板1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月円筒埴輪が出土している。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。このことから、埴輪の成立地を吉備に限るという見解は改められるかも知れない。ところで、最古の埴輪である都月円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓から出土しないで、前者が出ると後者が出ないし、その反対もあることが知られていた。しかし、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳の後方部の石槨から三角縁神獣鏡が5面発見され、石槨すぐそばで都月型円筒埴輪が発見された。現在はこの一例だけである。 なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壷が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。吉備勢力の東遷説もある。 「日本書紀」垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とする。しかし、考古学的には上記のような変遷過程が明らかとなっており、この説話は否定されている。テーマパークに復元された埴輪太陽公園(姫路市)
2009.05.19
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9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。このころから蝦夷とは呼ばれず、夷俘、俘囚と記録されるようになった。 蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分れている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を日本人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った擦文文化を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。また、蝦夷がツングース系の北方民族と考える説がないわけではない。 しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実体、続縄文文化から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って「書紀」が語る東日本全域の蝦夷や、遡って縄文人・弥生人等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。えぞ 中世以後の蝦夷は、アイヌを指すとの意見が主流である。(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる「蝦夷」が存在したことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ欧米でも「yezo」の名で呼ばれた。 アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い13世紀と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、日本からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。 14世紀には、「渡党」(北海道渡島半島。近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に別れ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(「諏訪大明神絵詞」)が残っている。また、鎌倉時代には津軽地方の豪族である安東氏が、幕府の北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。 15世紀から16世紀にかけて、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し渡党は明確に和人とされた。
2009.05.17
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蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は「日本書紀」神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛慈詩として登場する。えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった) しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としねいため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。 5世紀の中国の歴史書「宋書」倭国伝に、478年(順帝昇明2年)倭王武が宋(南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。「昔から祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐこと、九十五国。」 これにより既にここ時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。 蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、659年(斉明天皇5年)の遣唐使と唐の高宗の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、鹿蝦夷(あれみし。荒々しい蝦夷)がそれとり遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者の説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。658年には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討っている。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた宝亀の乱の伊治砦麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。 蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
2009.05.16
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蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東北、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。 語源については諸説あり、中には樺太アイヌのアイヌ語で「人」を意味する「encu」と同語源とするのもある。 古代の蝦夷ははじめ「毛人」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族(東夷)に対する蔑称である。また、「続日本紀」文武天皇元年(697年)12月庚辰条には、越後国(後の出羽国を含む)に住む蝦夷を「蝦狄」(「かてき」)と称している。これは、東夷と同じく北方の異民族(北狄)に対する蔑称に由来していると考えられている。 平安時代後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が示す集団の変化に対応すると考える説もある。また、武光誠氏は、「えみし」とは本来は「勇士」を表す言葉だったとという説を唱えている。大和政権が拡大するに従い、大和政権も異民族を服従させていることを当時の中国にアピールするため、「蝦夷」という悪字を当てるようにしたというものである。えみし 古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別のものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければばらない。 「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一アイデンティーは無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
2009.05.15
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熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する一族名。九州南部に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名で、地域名を意味するとされる語である。日本書紀には熊襲と表記され、古事記には熊曾と表記される。 肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隈国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族であり、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えたと言うのが現在の通説である(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。 また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとしる説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。 5世紀ごろまでにヤマト政権に服属し、隼人となったと言うのが通説。国産み神話 古事記・国産み神話においては、四国の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日別(タケヒワケ)」といったとされる。 次生、筑紫島。此島亦、身一而、有四面。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曽国、言、建日別。服属神話 南九州がヤマト王権に臣従する過程が記紀神話に語られたもの。ヤマトタケル神話 古事記には、景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟師)の征伐譚が記され、日本書紀においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。景行天皇九州征伐神話 日本書紀に記述される神話。
2009.05.14
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著名な銅鐸 ・桜ヶ丘出土銅銅戈群-国宝、神戸市灘区出土、神戸市立博物館所蔵-袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸11口、流水文銅鐸3口を含む一括資料。14口の銅鐸のうち、特に4号銅鐸は人物、動物などの略画が鋳出されたもので、資料的に貴重である。 ・袈裟襷文銅鐸-国宝、伝香川県出土、東京国立博物館所蔵-桜ヶ丘出土銅鐸と類似した略画が鋳出された銅鐸。 ・荒神谷遺跡出土品-国宝、島根県簸川郡斐川町出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館ほか保管)-尾根の斜面から銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6口が出土した。畿内を中心に出土する銅鐸、北九州を中心に出土する銅矛、出雲地方特有の形式をもつ銅剣が同一遺跡から、しかも大量に出土したという点で学術的価値が高い。日本式最古の銅鐸とされる。 ・大岩山出土銅鐸群-重要文化財、滋賀県立安土城考古博物館、東京国立博物館、辰馬考古資料館、野洲市立歴史民族資料館(銅鐸博物館)ほか所蔵-滋賀県野洲市小篠原大岩山から1881年(明治14年)に14口、1962年(昭和37年)に10口出土した銅鐸群。東京国立博物館所蔵の2口のうちの1口は高さ135センチの日本最大の銅鐸である。 ・加茂岩倉遺跡出土銅鐸群-国宝、島根県雲南市(旧大原郡加茂町)出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)-1996年(平成8年)に発見されたもので、1つの遺跡からの出土例としては日本最多の39口が出土した。 ・突線流水文銅鐸-重要文化財、岡山市高塚遺跡出土、岡山県立博物館所蔵 ・突線袈裟襷文銅鐸-重要文化財、徳島市矢野遺跡出土、徳島市立考古資料館保管
2009.05.13
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・文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説。だが、そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時の日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には同盟集団に配布したと思わしき例が少なからずあるようである)。また、銅鐸の製造集団の負う文化的背景に由来すると思われる地域的な銅鐸の特徴差について考慮を全く欠けているという批判がある。 ・銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)。この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もある。しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論がある。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊された状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明が付くという説もある。 ・政治的な社会変動にとり、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)。つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れる等して人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものである。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破戒銅鐸の出土はこのような理由によるとする。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。 しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険である。 弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説がある。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見。 かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。) しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。しかし、現在でもこれらの出土分布の大勢に変りはない。
2009.05.12
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現在のところ用途は未だ定かではないが、出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度明らかにされている。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされると考えられる(西洋の鐘と同じ)。 これはボタン鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされた事による「擦れ」と考えられる痕跡や、内部の突帯に舌が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためであり、梵鐘のように胴体部の外面を叩く事でできたと考えられる痕跡のある物はないため、そのように鳴らしたような再現図は誤りである。 なお、銅鐸を「鳴らす」段階にあっては内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を二本に増やした物が銅鐸の発達と共に増えていく。 1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はあるが、)音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へ変化したのではないかと言われている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。また、すでに鳴らす事を放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)された物もある。これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた例と言えるだろう。 埋納状況については村を外れた丘陵の麓、或は頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多い(逆さまに埋めた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。あまり注目される事が無いが頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説ある。 ・米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説。しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということである。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題である。 ・平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)。特に「聞く銅鐸」の文様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中の経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためという。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたという。 ・大変事にあたり神に奉納したのではないかという説。そかし十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要がある。 ・地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説。古代華南にそのような風習が見られた。
2009.05.11
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弥生時代の銅鐸 銅鐸とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のことで、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器である。これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。主な出土数は以下の通り ・兵庫県 56点 ・島根県 54点 ・徳島県 42点 ・滋賀県41点 ・和歌山県 41点 大きさについては12センチから1メートルを越すものまである。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直後鋳造が止んでいる。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達する(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。 近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられている。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。その前は流水文であった。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ4区袈裟襷文で飾っている。また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっている(菱環鈕式「りょうかんちゅうしき」)。しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。その後銅鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わる。 紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。この文様は紀元前2世紀頃に衰退する。当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもある。 中国の銅鈴が起源とされるが、日本で出土する形状に類似するものは見つかっていない。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達した。 1世紀末ごろを境にして急に大型化する。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は、濃尾平野を一応の限界として、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。 銅鐸が発見された記録は、「扶桑略記」の天智天皇7年、近江国滋賀郡に祟福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの紀記は、この出来事について全く触れてうない。「続日本紀」には、和銅6年、大和宇波郡のひとが長岡野において発見した記事があり、「日本略記」には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
2009.05.10
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佐賀県名護屋城博物館 名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた城。国の特別史跡に指定されている。 名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる勝浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣添城跡があり、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を計画した。 名護屋城大手門跡 安土桃山時代 加藤清正、寺沢広高が普請奉行となった。九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で僅か8ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。 西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4月1日に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日に出発し4月25日に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。 朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。 この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2ヶ月であった。 出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことである。島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されることを恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られている。 大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。名護屋城周辺には100以上の陣跡があるが、史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。 ・生駒親正陣跡 ・小西行長陣跡 ・堀秀治陣跡 ・上杉景勝陣跡 ・島津義弘陣跡 ・前田利家陣跡 ・片桐且元陣跡 ・伊達政宗陣跡 ・毛利秀頼陣跡 ・加藤清正陣跡 ・徳川家康陣跡 ・加藤嘉明陣跡 ・徳川家康別陣 ・木下俊房陣跡 ・豊臣秀保陣跡 ・木下延俊陣跡 ・鍋島直茂陣跡 ・木村重隆陣跡 ・・長谷川秀一陣跡 ・九鬼嘉隆陣跡 ・福島正則陣跡 ・黒田長政陣跡 ・古田織部陣跡
2009.05.09
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神籠石(こうごいし)または神籠石式山城(こうごいししきやましろ)とは古代に築造された山城で、「日本書紀」「続日本紀」に記載がなく、遺構でしか存在の確認できないものを指す。古代山城(朝鮮式山城)の比定地にされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。 特色は、標高200~400メートルの山頂から中腹にかけて数キロメートルにわたって一辺が70センチメートル位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列し、谷を通過するときには水門を設けていること。 八木奨三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。鏡山猛は、列石前面の掘立柱穴の間隔が約3メートルで並んでおり、唐尺(一尺=29.5センチメートル)の十尺(2.95メートル)とほぼ等しいことから唐尺が使われた7世紀中頃以降の築造としたが、南朝の小尺(一尺=24.5センチメートル)でも十二尺(2.94メートル)とすると殆ど変らない値なので7世紀中頃以降の築造とするには疑問がある。北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて、16箇所が知られる。 神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分っていない。磐座(いわくら)のことだったという説がある。発見と論争 神籠石が学会に発表されたのは、明治31年に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初。 明治33年に九州所在の神籠石を踏査した八木奨三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張して以後、この神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。 昭和38年(1963年)の佐賀県武雄市「おつぼ山」神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3メートル間隔で並ぶ掘立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。 ただし、散見しただけでもそれぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域との隔絶性が高く、水も確保しづらく、籠城に向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」などである。 現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から神籠石と総称している可能性は高く、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあえうものもある」ことを確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。 また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代に於いて知る極めて有効な事例であるとの声もある。神籠石一覧 おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市橘町小野原) 帯隈山神籠石(おぶくまやま)(佐賀県佐賀市久保泉町川久保町・神崎町西郷) 女山神籠石(ぞやま)(福岡県山門郡瀬高町大草字女山) 高良山神籠石(こうらさん)(福岡県久留米市御井町高良山) 雷山神籠石(らいざん)(福岡県前原市雷山) 鹿毛馬神籠石(かけのうま)(福岡県飯塚市鹿毛馬) 御所ヶ谷神籠石(ごしょがたに)(福岡県行橋市津積・みやこ町勝山大久保・犀川木山) 枇杷神籠石(はき)(福岡県朝倉市林田・穂坂) 石城山神籠石(いわきさん)(山口県光市石城) 鬼城山城(鬼ノ城)(おにのき・きのじょう)(岡山県総社市奥坂・黒尾) 大廻小廻山城(おおめぐり・こめぐりやまじょう)(岡山県岡山市草ヶ部) 永納山城(えいのうさんじょう)(愛媛県西条市楠) 讃岐城山城(さぬきやまのき)(香川県坂出市西庄町・府中町・川津町・飯山町) 播磨城山城(はりまやまのき)(兵庫県たつの市新宮町馬立・揖西町中垣内) 唐原神籠石(唐原山城)(とうばる・たうばる)(福岡県築上郡上毛町下唐原・土佐井) 阿志岐城(旧名:宮地岳古代山城)(あしき)(福岡県筑紫野市阿志岐)
2009.05.08
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人物・逸話 ・直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評されたという。 ・直茂は秀吉に早くから信任されて龍造寺氏の家督代行者とみなされ、天正18年(1590年)の時点ですでに政家が秀吉より受けた知行宛行状の中で4万5000石という独自の知行を与えられている。 ・嫡男・勝茂とはあまり仲が良くなかったようであり、江戸幕府との関係強化では次男・鍋島忠茂を重用している。 ・隆信とは義兄弟にあたり、そのため独断専行の多かった隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。父母 父:鍋島清房 母:龍造寺家純の娘・華渓(龍造寺隆信の叔母) 養父:千葉胤連 継母:龍造寺胤和の娘兄弟 鍋島信房、鍋島直茂、龍造寺康房、小河信俊妻 正室:高木胤秀の娘 継室:石井常延の娘・陽泰院 側室:井手口小左衛門の妹子 勝茂、忠茂、大田茂連室、伊勢龍(鍋島茂里室)千鶴(多久安順室)、彦菊(諫早直孝室) 養子:茂里家臣団 ・龍造寺系:龍造寺安良、龍造寺信周、龍造寺長信、龍造寺家晴、龍造寺家久(多久安順)、後藤家信 ・親族衆:鍋島信房(直茂庶兄)、鍋島茂里(直茂養子)、鍋島胤信(直茂義弟)、神代家良 ・その他家臣:鍋島三生(石井生礼、下村生運、鍋島生三:生が共通なことからの俗称)、成富茂安、石井茂成、石井茂清、鍋島茂賢、江副茂久、中野清明、久納茂俊
2009.05.07
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実権掌握と佐賀藩成立 豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津氏に恭順しつつも裏では九州征伐を促した。この一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺氏とは別に所領を安堵し、龍造寺政家に代わって国政を委ねるよう命じた。そのため、国政の実権は直茂が掌握するところとなり、朝鮮出兵においては龍造寺家臣団を率いて渡海した。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測しており、関が原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の居城久留米城を攻略、次いで立花宗茂の居城柳川城を降伏開城させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ、肥前国佐嘉の35万7000石は辛うじて安堵されている。 龍造寺政家が病死すると、その子の龍造寺高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、龍造寺高房は直茂を恨んで憤死した。 その後直茂は、龍造寺一門へ敬意を表しながらも、その影響力を相対的に弱めた。勝茂もその施策を継承し、子息に相次いで支藩を立藩させるなどしている。ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、藩主の座に就くことはなく、初代藩主は勝茂となった。そのため、直茂は藩祖と称される。 元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81.当時としては長命であるが、耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったため、龍造寺高房の亡霊のしわざではないかと噂され、これが「鍋島家化け猫騒動」のモチーフのひとつとなった。佐賀市高伝寺蔵成富益峯筆鍋島直茂像(佐賀県立博物館に寄託)の石田一県による賛には「従五位鍋島加賀守藤原朝臣直茂法諱日峯宗智大居士父駿河守清房母龍造寺豊後守家純嫡女也」とある。
2009.05.06
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鍋島直茂(なべしま なおしげ)は肥前の戦国時代・安土桃山時代の武将。肥前佐賀藩の藩祖である(ただし、正式には藩主になっていない)。数回改名しており、直茂は後期に名乗った名前であるが、この項目での呼称は直茂で統一する。生涯龍造寺隆信補佐時代 天文7年(1538年)、肥前佐嘉郡本庄村の在地豪族である鍋島清房の次男として生まれる。天文10年(1541年)、主君・龍造寺家兼の命令により、小城郡の千葉胤連(九州千葉氏)の養子となり千葉氏を名乗る。しかし天文14年(1545年)に少弐氏によって龍造寺家純らが殺され、家兼が逃亡したことにより、龍造寺氏と少弐氏が敵対関係になると、父は直茂の養子縁組を解消して実家に戻らせている。 家兼の死後、数年を経て龍造寺隆信が後を継ぎ、さらに隆信の生母である慶闇尼が父の継室となったため、直茂は隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。龍造寺氏は直茂の働きなどもあって、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559年)には滅亡に追いやっている。 永禄12年(1569年)、大友宗麟が肥前に侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友氏を撃破する。以降、龍造寺家内での存在感を大いに増やした。また、この時の大勝を記念し、鍋島家の家紋を大友家家紋の銀杏へと改めて用いるようになった。 天正3年(1575年)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578年)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させるという功績を挙げた。そして隆信が隠居して龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人を隆信より任された。 天正9年(1581年)に龍造寺隆信と謀り、筑後国柳川城主の蒲池鎮漣を肥前で謀殺し、隆信の命令で柳川城攻めをした田尻鑑種を督戦し、凄惨な柳川の戦いで柳川の蒲池氏の一族を殺戮し、柳川城に入る。以後、主に筑後の国の国政を担当する。もちろん直茂の力への期待もあったが、隆信が奢った彼への諫言を行う直茂を疎んじ、筑後に回したとも言われる。 天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れて戦士すると、からくも肥前に逃げ帰り、隆信の嫡男・龍造寺政家を輔弼して、勢力挽回につとめた。島津氏が龍造寺氏の居城・村中城を囲んだ際、隆信の首を差し出してきたが、隆信の首の受け取りを断固拒否し、島津氏へ強烈な敵対を示した。このデモンストレーションの後に島津氏に恭順を示したため、龍造寺氏はよりよい地位を島津家中で得ることができた。
2009.05.05
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・若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。 ・相当に肥満した人物で、馬に乗ることができなかったという(異説あり)。沖田畷でも逃走する時に輿を使わざるを得なかったとされているが、そのために敵の武将・川上忠堅に場所を知られることになったとされる。 ・沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにも関わらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自虐になって敗れたという説もある。 ・島津軍に討ち取られた隆信の首級は後に龍造寺家へ返還されることになったが、鍋島直茂に返還を拒否されたといわれている。ただし、これは島津が首級を返還しに来ると同時に、龍造寺家中の様子を探るつもりだと読んだ直茂が付け入る隙を与えないために拒否したものといわれる。島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった赤星親家の未亡人に引渡されてなぶり物にされたとも、島津家久によって願行寺(玉名市)に葬られたとも、島原の川に流されたとも言われる。 ・隆信には駿河の戦国大名・今川義元との共通点が多く見られる。「一度は仏門に入ったが還俗して家督を継いだ」「肥満体で馬に乗れず、戦場では輿に乗っていた」「大軍を率いていたのも関わらず寡兵に惨敗し、戦死した」など(ただし、義元が肥満体で馬に乗れないために輿に乗っていたという話は疑問視されている)。 ・隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。家臣団 ・一門衆:龍造寺政家、江上家種、後藤家信、龍造寺信周、龍造寺長信、龍造寺家就、龍造寺鑑兼、龍造寺家晴、龍造寺家良、龍造寺康房 ・参謀:鍋島直茂 ・龍造寺四天王:成松信勝、江里口信常、百武賢兼、円城寺信胤/木下昌直父母 父:龍造寺周家 母:龍造寺胤和の娘妻 正室:小田氏の娘(龍造寺胤栄未亡人)?子 龍造寺政家、江上家種、後藤家信、玉鶴姫(蒲池鎮漣室)
2009.05.04
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最後 天正12年(1584年)、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。これを機に島原半島における龍造寺方の諸豪族が動揺し始めたため、隆信は自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。このとき、龍造寺軍は6万(諸説あり)という大軍であったが、敵の知将・島津家久の前に一敗地に塗られて多くの将兵を失い、隆信自身も島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまった(沖田畷の戦い)。享年56.この大敗は龍造寺氏の没落を決定ぢけ、重臣の鍋島直茂は主君である隆信の遺骸を放置したまま、かろうじて佐賀へ逃げ帰る有様だったとされる。 現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。人物・逸話 ・曽祖父の家兼は隆信の才能を見抜き、「長法師丸は大器である」と評したとされる。 ・宣教師が残した記録には、「肥前の国主はカエサルに似たり」と記されている。 ・若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。また、普段から家臣に冷たく接していたため、沖田畷の戦いで敗色濃厚にとなったとき、隆信の輿を担ぐことに嫌気の差した側近たちは輿を放り捨てて逃げ、そのため隆信は逃げ遅れて討ち取られたという逸話がある。 ・このように隆信の人間性については、事績に基づいて否定的に語られることが多い。しかし、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。 ・筑後の蒲池鎮漣(鎮並)は、当初は岳父になる隆信(鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にしていた)の筑後侵攻にも協力している。隆信にとっては鎮座漣は娘婿であり筑後における強力な与力でもあった。しかし、隆信は九州中央への進出のため筑後を領有化せんとして鎮漣と対立し(蒲池氏と島津氏の接近も原因とされている)、口実を設けて天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城に手こずり、とりあえず鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた田尻鑑種の仲介で和睦する。その後、天正9年(1581年)に鍋島直茂などと謀り、隆信は和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘い寄せて騙まし討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした(柳川の戦い)。その冷酷さは龍造寺四天王の一人・百武賢兼などの腹心からも疑問を持たれ、賢兼は出陣を促す妻に対して「このたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったほどであった。また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに隆信から離反している。この蒲池鎮漣の謀殺と一族の殺戮は、黒木家永、蒲池益種(黒木益種)、田尻鑑種など、筑後の国人のあいつぐ離反や蜂起を招き、結果的に隆信は筑後経営に手こずることとなり、没落の遠因の一つともなった。
2009.05.03
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このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏や大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563年)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉氏と同盟を結んでこの連合軍を破った。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後の大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏や横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年(1569年)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行うが、毛利元就が豊前に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した。 その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570年)に弟の大友親貞を総大将として6万と号する大軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の直茂)による奇襲策によって撃退し(今山の戦い)、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功した。隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、その後も大友氏に従属していた。今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送っており、また息子の政家が一時期「鎮賢」(大友義鎮の鎮から)と名乗っている。隆信が周辺豪族を滅ぼす、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。 元亀3年(1572年)には少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573年)には西肥前を平定し、天正3年(1575年)には北肥前を平定する。天正4年(1576年)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577年)までに大村純忠を降し、天正6年(1578年)には有馬晴信を降して肥前の統一を完成した。これを機に家督を嫡男の龍造寺政家に譲って隠居する(隠居した年は天正9年(1581年)説もある)。そかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。勢力拡大 天正6年(1578年)、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗するろ、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の勢力圏の奪取に務め、天正8年(1580年)までに筑前や筑後、肥後、豊前などを勢力下に置くことに成功した。 しかし天正8年、筑後の蒲池鎮並を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、さらに人質として預かっていた赤星統家の息子を殺すなど、次第に内部の粛清を頻繁に行うようになる。天正9年(1581年)には相良氏を破った島津氏の北上が始まったため、隆信はこれに抵抗するために天正11年(1583年)、政家を肥後に侵攻させ、一時は島津軍を圧倒している。
2009.05.02
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龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代における肥前の大名。 「五州太守」の称号を好んで用い、「肥前の熊」ともいわれた。仏門にいた時期は「円月坊」、還俗後は「胤信」を名乗る。本姓は藤原氏を称した。大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した。生涯 家督相続 享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家(肥前佐嘉水ヶ江城主)の長男として生まれる。幼少期は宝琳寺の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。 天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって謀殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて筑後の蒲池氏の下へ脱出した。翌天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その直後に家兼は高齢と病のために死去した。このとき、家兼は隆信の器量をすでに見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残している。 こうして隆信(還俗後のこの時期は胤信と名乗っていた)は水ヶ江龍造寺氏の家督を継いだ。その後は龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。 天文17年(1548年)、龍造寺胤栄が亡くなったため、隆信はその未亡人を娶り、本家の家督も継承することとなる。しかし隆信の家督継承に不満を持つ家臣たちも少なくなく、隆信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣たちの不満を抑え込む。肥前統一 天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により死去すると、後ろ盾えお失った隆信は家臣の土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。そして天文22年(1553年)、蒲池氏の援助の下に挙兵して、肥前の奪還を果たしている。 その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559年)にはかっての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や神代氏などの肥前の諸豪族を次々と降し、永禄3年(1560年)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立した。
2009.05.01
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