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秦野市の御首塚 胴体の墓は、寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母の墓がある。首は公暁の追っ手の武常晴が神奈川県秦野市大聖金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。金剛寺の阿弥陀堂には北条政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。鶴岡八幡宮境内の白旗神社に源頼朝と共に祀られ、明治になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である8月9日に実朝祭が行われている。白旗神社評価 吾妻鏡 蹴鞠の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり。」 長沼宗政 畠山重忠の末子謀反の際に「当代は歌鞠を以って業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以って宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以って青女等に賜う。」 大江広元 昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を完領し中納言中将に昇られる。」 正岡子規 仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかく第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・家定の糟粕をしゃぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争い日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間として下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり、時流に染まず世間に媚びさる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちとても同日に論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。「歌よみ与ふる書」 後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、上皇が要求した地頭解任要求(備後国太田荘)を「故右大将が決めた地頭は問題がない限り解任する理由はない」と幕府の根幹を揺るがしかねないとして固辞しており、西園寺公経が右近衛大将を解任された折には上皇の非を指摘してこれを諫めている。また、順徳天皇の蔵人に任じられた大江時広が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている。上皇が実朝の死を好機と見て承久の乱に踏み切ったことから見ても、単に「親朝廷の将軍」と判断するのは早計である。父である源頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇(当時)の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。上横手雅敬以来、実朝には自らの後継として皇族将軍(宮将軍)を猶子に迎える構想があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくり側面があった(形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした)とする見方がある。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした御家人などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。
2009.08.31
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6月8日、陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。陳和卿は東大寺大仏の再建を行った宋人の僧である。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿を信じた。 6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて諫める。「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」実朝「諫めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべきからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた。 11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諫めたが、実朝は許容しなかった。 建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向かって曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への感心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。 5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱に備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。 6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。 建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。 建保7年(1219年)1月27日、雪がニ尺ほど積もる八幡宮拝賀の日を迎える。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲る。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺す。太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。 予見が有ったのであろうか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪をを行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」である。禁忌の歌と評される。 落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。承久記によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。 28日、妻は落餝し御家人百余名が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。鶴岡八幡宮大銀杏
2009.08.27
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建保元年(1213年)2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし北条義時を討たんと企てており、加わった者が捕えられる。その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直、義重らもあった。20日、囚人である薗田成朝の逃亡が明らかとなる。実朝が成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた渋河兼守が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日正二位み昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直よ義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した(泉親衡の乱)。 4月、和田義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせる。酉の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に兇徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。 9月19日、日光に住む畠山重忠の末子重慶が謀反を企てるとの報が届く。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀をを企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それを伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は反逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。 11月23日、藤原定家より相伝の万葉集が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と延べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。金塊和歌集はこの頃に纏められたと考えられている。 建保2年(1214年)5月7日、延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する。6月3日、諸国は旱魃に愁いており、実朝は降雨を祈り法華経を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。 建保4年(1216年)3月5日、政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。
2009.08.25
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6月、畠山重忠の乱が起こる。叔父の北条義時、時房、和田義盛らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、幼稚とされた実朝は加わらなかった。 閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れる。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国修善寺に追われ、執権は義時が継いだ。牧氏事件と呼ばれる。 9月2日、新古今和歌集を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。 建永元年(1206年)2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄頼家の次男である善哉を猶子とする。 11月18日、近仕を務める東重胤が鎌倉に参る。重胤は暇を得て下総国に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べる。重胤は一首を詠む。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。 承元元年(1207年)1月、従四位上に叙せられる。 承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、正四位下に昇る。 承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、北条義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇るを企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべかざる」と述べる。北条氏の家人は後に御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。 建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。 建暦2年(1212年)6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。千葉成胤は武家の棟梁が血や死を穢れとする事を諫めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新ぞ造する様に命じた。12月10日、従二位に昇る。
2009.08.23
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源実朝は、鎌倉幕府の第三代征夷大将軍である。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えた。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金塊和歌集がある。 建久3年(1192年)8月9日巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の正室である北条政子、乳母は政子の妹である阿波局が選ばれた。千幡は若君として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。 建久10年(1199年)に父の頼朝が薨去し、兄の源頼家が将軍職を継ぐ。 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われる。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、頼家の弟への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下征夷大将軍に補任する。10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称する。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。 元久元年(1204年)12月、京より坊門信清の娘を正室に迎える。正室は始め足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。 元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
2009.08.20
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「河井継之助伝」 今泉鐸次郎著。 ・継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍はすべてこれを底本にして書かれている。 ・先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。具体的には継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。すなわち、史料学的に見れば「河井継之助伝」は2次史料・2級史料に分類される。 ・引用史料の中には「追考昔誌」「思出草」など、その原本や写本が現存しているものもある。しかしその一方で、所在やいかなる史料なのかが今のところ不明なものも存在する。また、戊辰戦争前後の事について書かれた現在の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。ゆえに、これら「河井継之助伝」中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。 ・小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠した部分が多いものと推察され、これと不仲(或は反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或は悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(牧野家臣団・加藤誠一著など)もある。また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。 ・小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。 ・関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見る上で貴重な手がかりである。しかし、かなり年月を経たあとのものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。 ・本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。 ・しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、「河井継之助伝」は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。「塵壷」 継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。 ・江戸~備中松山~長崎~備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。 ・数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶にいり記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 ・西国遊歴は、これ以降の河井の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。 ・備中松山から江戸までの帰路については「塵壷」には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都~備中松山間において行きが山陽を通ったのに対し、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分った。
2009.08.18
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略年譜 ・文政10年(1827年):誕生。 ・天保13年(1842年):元服。 ・天保14年(1843年):生贄の鶏を裂いて王陽明を祀り、輔国を誓う。 ・嘉永5年(1852年):最初の江戸遊学。斎藤拙堂、古賀謹一郎(茶渓)、佐久間象山らの門をくぐる。 ・嘉永6年(1853年):ペリー来航。藩主牧野忠雅に建言書提出。御目付格定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。 ・安政4年(1857年):家督を相続。外様吟味役に任命。 ・安政5年(1858年):江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。 ・安政6年(1859年):古賀の久敬舎に再入学。西国へ遊学、備中松山藩の山田方谷に入門。その間、長崎にも遊歴。 ・万延元年(1860年):江戸へ戻る。横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。 ・文久3年(1863年) ・1月、京都詰となる。藩主牧野忠恭の所司代辞任を要請。 ・9月、公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。 ・慶応元年(1865年):外様吟味役再任。3ヵ月後、郡奉行に就任。藩政改革を開始。 ・慶応2年(1866年):町奉行を兼帯。 ・慶応3年(1867年) ・3月、評定役・寄会組になる。 ・4月、奉行格加判。小諸騒動を解決。但し翌年11月に再燃。 ・10月、年寄役(中老)。 ・大政奉還を受け、12月に藩主牧野忠訓と共に上洛、朝廷に健言書提出。 ・慶応4年(1868年) ・4月に家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命。 ・5月、小千谷談判決裂。新政府軍と抗戦開始。 ・8月、戦闘中の傷がもとで死去。享年41。 さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声が良かったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。 遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、「塵壷」という名前で知られる旅日記を残した。 明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。 なお継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか、「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするために町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないし批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないために信憑性が低く、後世の作り話と思われる。
2009.08.14
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継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な状態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風により死去した。享年42. 継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。 戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄涼寺に再び埋葬された。そかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新地100石を与えて河井の家族を扶養させた。 明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養継嗣として迎え入れたのであった。
2009.08.12
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新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・板垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向う反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・祟徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。 5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村清一郎と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。 継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた(岩村も後に自伝で、この対応が不適切だったことを認めている)。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。 長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。 継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。 その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であった。 ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
2009.08.11
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安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀や長崎も訪れ、知見を広める。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。 文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰めを命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰めとなると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。 しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格可判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。 藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知すると云う門閥の平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。 慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報を受けると忠訓や継之助らは公武周旋のたもに上洛する。 そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大阪を警護していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。 藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなもにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、そのうち2つを継之助が持っていた。
2009.08.08
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嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏義書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には小山良運〈160石、藩医、長男は明治期の画家・小山正太郎)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行はか諸奉行兼帯)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、河井を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。 嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸にはすでに三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の敵塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。 翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斉藤の塾を去ったのは、そこのは自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きでなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった「李忠定公集」を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリーが来航すると、当時老中であった藩主牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、「李忠定公集」全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。 藩政の刷新を企図した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老ばど藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、とくに何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに東北へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争そいを解決へと導いた。
2009.08.07
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河井継之助(かわい つぐのすけ、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」ともよまれる。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍う窟。禄高は120石。妻は「すが」。 河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。藩主の娘が初代長岡藩・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付け班を進め大組入りした。戊辰戦争で従卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行や新潟奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされて120石となったと「河井継之助傳」にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。 文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12,3歳の頃、それぞれ師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。その後、藩校の祟徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松蔭の影響で陽明学に傾倒していった。 天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳のとき、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。
2009.08.06
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晩年の榎本武揚 翌明治2年(1869年)、「開陽」座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、函館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、江戸辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的であった福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福沢は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されたが、一瞥した福沢は、その任に当たるについては榎本の他にその資格はなしとして辞退したと伝えられている。 明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を努める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 明治7年(1874年)、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結した。またマリア・ルス号事件でペルー政府が国際法定に対し日本を提訴した件で、露帝アレクサンドル2世が調停に乗り出たことから、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任命されたが、これは当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文らの建言で実現したものである。旧幕府時代の経歴と直接の関係はない。しかし当時の海軍は大佐が最高位であったから破格の任官であった。 帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営事務副総裁、駐清公使、条約改正取調御用掛等を歴任し、内閣制度の成立後は能力を買われて6度の内閣で連続して、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣、を歴任した(文相・外相の前後に枢密院顧問官就任)。閣僚交代が頻繁であった当時、特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任期間は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長藩閥にあってバランサーとして重用された榎本の稀代の才が窺い知れる。 農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。 明治23年(1890年)には子爵となる。また憲法発布式では儀典長を務めた。 その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、明治24年(1888年)に徳川育英会育英学農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら学長となった。また、明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで電気学会初代会長を務めている。また、黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは一説には黒田が晩年、藩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれている。 明治41年(1908年)に死去、享年73.墓所は東京都文京区の吉祥寺。 思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷政府樹立の際には、国際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であるという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の了解なく作られたものである)という、当時の日本としては画期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。 明治政府官僚となってからも、その知識と探究心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしであった。義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内するなどしている。 一方で福澤諭吉は榎本を嫌い、彼を「無為無策の伴食大臣。ニ君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト。挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている「痩我慢」を知らぬ男」と罵倒している。福澤は海軍大輔、海軍卿、枢密院顧問官などを務めた伯爵勝海舟も同書で攻撃しており、官職に就いた旧幕臣を批判的視点で見ていた。 山田風太郎は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末永く語り伝えられたであろう。しかし本人は「幕臣上がりにしてはよくやった」と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、孵卵器や石鹸などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがる。 余談だが、彼が初代逓信大臣を勤めたとき、逓信省の「徽章」を決めることになった。明治20年(1887年)2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「T」に棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつであるが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。著作に「渡蘭日記」「北海道巡回日記」「西比利亜日記」「流星刀記事」など。 曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。
2009.08.05
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榎本武揚(えのもとたけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日)-明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。徳川育英会育英学農業科(東京農業大学の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもある。家紋は丸に梅鉢。 のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称した。 釜次郎は幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、19歳で函館奉行堀利煕の従者として蝦夷地函館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。 文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までオランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。 慶応4年(1868年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争が起こった。開戦直後、榎本の率いる旧幕府艦隊は大坂の天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽」に座乗し江戸へ引き揚げた(軍艦と輸送船を区別するため「丸」を付すのは輸送船のみとされており「開陽丸」は誤りである)。 新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満として榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、実嘉保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。途中暴風により清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。新撰組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、函館の五稜郭に拠り、蝦夷共和国を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となった。折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢を貫いていた米国は新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明、幕府が買い付けたものの局外中立により所有が空中に浮いていた当時最新鋭の装甲軍艦「ストーン・ウオール・ジャクソン号」は新政府の手中に収まり「甲鉄」と命名された。当時最新最強と謳われた「開陽」でさえ木造艦であり、砲数・トン数では勝るものの防備性の劣勢は否めず、これを大いに憂慮した榎本は同艦奇襲・奪取の奇策を実行に移す。これは当時万国法にて認められていた戦法、いわゆる「アボルダージュ」であり、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替え、接舷の上、特攻するというものである。榎本この作戦を「回天」「神速丸」の2艦を以って当たらし目、その長として「回天」艦長の甲賀源吾を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、神速丸は離脱、やむを得ず回天1艦のみでの突入となった。しかし接舷には成功したものの我彼の舷高に大いに開きがあり、突入を躊躇した榎本軍はガトリング砲の砲火を浴び、突入作戦に失敗、甲賀艦長も戦死するなど大打撃を受け敗走した。「開陽」を失い、新政府軍が甲鉄を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った徳川海軍の劣勢は決定的となり、事実上、制海権を失ったのである。
2009.08.04
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勝海舟の銅像(墨田区役所うるおい広場) 日本史上、稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。 坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛の手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。 福沢諭吉の「痩我慢の説」は福沢の持論立国論が根本にあるが名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。何度となく要請されても在野にあった福沢だが、同時に屁理屈や大言壮語、道理に合わない点は老齢となってからも受け付けなかった点もある(10分は水に潜っていられると友人に語った学生の言葉尻を捕えて洗面器を持ってきて顔をつけさせ誤りを認めさせた等)。「福翁自伝」でも勝に批判的なことからウマの合う、合わないの点も推察される。 死の三日後、氷川邸に勅使が来て賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。 幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻贈ヲ斎シテ以テ弔慰セシム・トラウマ 9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。・福澤諭吉との関係 木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福澤は、それをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。・海舟批判書状の「痩我慢の説」への返事 「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。) ・咸臨丸の実情 和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14,5人の病人が出た(今でいう悪性インフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名がみずから看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。系譜 海舟の嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役をつとめた。 海舟の三女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。 財務省理財局長の勝英二郎・世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。
2009.08.02
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勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には終始反対し続けた。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争そう相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてえのは実に小さい話だ」と後述している。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過し、「吹塵録」(江戸時代の経済制度大綱)、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。 明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。 墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区大森六中学校が建っている。右から三番目が勝海舟。他、大関増裕、松平太郎、稲葉正巳、石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。 回想録として吉本みのるによる「氷川清話」や巌本善治による「海舟座談」がる。これは勝の談話を記者が速記したもので、勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い判では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者により歪曲・改竄のあとが見られるという。 膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝「夢酔独語」と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の「坊ちゃん」の素材となったいる。語録 ・自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねえよ。 ・オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。 ・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末を等を心配している人たちに) ・文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかえ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。 ・敵は多ければ多いほど面白い。 ・我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はになその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて) ・トウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になっても尚、採掘を止めない政府に対して) ・コレデオシマイ(亡くなった時の言葉) ・五尺に足らぬ四尺(子爵)なりけり。授爵したときの感想として。
2009.08.01
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