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神功皇后(成務40年(170年)-神功69年4月17日(269年6月3日)は、仲哀天皇の皇后。「紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・「記」では息長帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高桑媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦座王の4世孫、応神天皇の母。 日本書紀などによれば、201年から269年なで政事を執りおこなった。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降伏して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約した(三巻征伐)。 渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。 神功皇后が三韓征伐の後、畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。 この時代は、長期間にわたって天皇が空位のままだったため、明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなし、15代の帝と数えられていたが、1926年(大正15年)10月の勅書により、歴代天皇から外された。明治から太平洋戦争敗戦までは、研究の場では江戸時代より様々な論考があったにもかかわらず、学校教育においての実在の人物として考えるよう指導されていた。現在では実在説と非実在説が並存している。 日本書紀において 巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晋起居注云武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢献」と中国と倭の女王の記述が引用されており、収録するにあたってヤマト王権と「卑弥呼」を関連づけさせる為に伝承が作り上げられたという説がある。直木孝次郎は斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。 卑弥呼と同じような巫女王とする見方もある。住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱として信仰されるようになる。大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている。 宮内庁では、陵墓を奈良市にある五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としている。 神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵在沙紀之盾列池上陵(御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたまののいけがみのみささぎ)に在り)」、日本書紀では「葬狭城盾列陵(狭城盾列陵(さきのたたまにのみささぎ)に葬る)」と記している。狭城盾列陵とは佐紀盾れつ古墳群のことである。承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかっっという記事が「続日本後紀」にある。 後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とになされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が現在地であることが判明し、文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。
2009.06.30
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田村圓澄もまた神話の造作時期を天武-持統期だと指摘している。当時の日本は律令国家を構築していた。新羅王と倭王は対等であったが日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定した。このような律令国家を構築する一環として三韓征伐神話が造作されたと指摘する。 説話が記載されている日本書紀の信頼性については日本書紀の朝鮮関係資料には混乱偽造があると考えられているため、実に様々な意見が提出されている。日本書紀における朝鮮半島に対する記述に対しては疑問が指摘されている。上垣外憲一は、大和の権威を高めるために編纂されたのは周知の事実だが特に朝鮮半島関係の造作は著しいと指摘している。その背景として日本書紀の編纂が白村江の戦いで新羅に敗れてから間もないため、言葉の上だけでも朝鮮半島に威張りたいという心理があったと指摘する。山内弘一は大和朝廷が中国から導入した自身を中心とし周辺国を蔑む天下的世界認識や華夷思想によって朝鮮半島の新羅を「蕃国」と位置づけたが、このような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在するため、所詮は主観的な認識の次元だと指摘する。中国人学者の沈仁安は日本書紀の信頼性を検証した結果、朝鮮の正史である三国史記を以って日本書紀の記述を訂正することは相反しないと指摘する。鈴木英夫は「日本書紀」編纂時に白村江の敗戦を契機とする八世紀律令国家の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭王」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたという事実が誇張・拡大だれて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の史的構想が成立したと指摘する。堀敏一は日本書紀が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてが朝貢だと指摘する。
2009.06.29
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直木孝次郎は三韓征伐伝説の成立した背景について、新羅打倒について六世紀以来、朝廷内部にひきつづいて存したはげしい願望が原動力となって、一つのはなばなしい新羅征討の物語にまとめあげられたものだと指摘している。また、単に願望だけではなく、こうした物語の成立は、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するためにも、実際上必要だと指摘した。対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、こうした物語の形成を促進したものと推測している。この物語が「記・紀」に定着するまでに、津守氏と住吉神社に関係ある物語や香椎宮のことなど様々な伝説・伝承が加えられていったと述べている。 天武・持統朝にわたり、日本は進んだ政治体制や文化を新羅から導入したため、あらゆる面で新羅化が進行した。天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願した観世音寺が残っている世紀末の鋳造とされる梵鐘(国宝)は、蓮華文や唐草文の様式から新羅系渡来人の作といわれる。新羅を討とうとした女帝ゆかりの寺の梵鐘まで新羅の影響下にあった。直木孝次郎はこうした状況下で三韓征伐伝説は作り上げられたと指摘する。つまり、日本は白村江で大敗をした後、新羅から先進的な文化を学んでいったが、その一方で唐をも破って朝鮮を統一した新羅に相当な危機感を持っていた。こうした危機感から発生したナショナリズムが日本書紀編纂の時に形となって表れたと指摘する。 記紀編纂に利用された旧辞という現存しない史料を6世紀に成立したと見做して伝説が作られた年代を6世紀とする説に対して、直木は6世紀に成立したとすると説明できない事実があると指摘している。そのうちの一つが皇后の三韓征伐の拠点とされている香椎宮の創建年代である。6世紀に伝説があったとしたら香椎宮も当時存在していなければならないが、「八幡愚童訓」、「八幡宇佐宮御託宣集」によれば創建は724年とある。一般的に神社の創建年代は実際より古く伝えられるが、香椎が登場するのは神功皇后伝説のくだりだけで、その後の記述は全くない。斉明だけでなく6~7世紀に朝廷はたびたび新羅遠征を計画・実行している。当時香椎宮があったなら、縁起の良い香椎宮に寄るなり、必勝祈願の神事が行われたりなどしなかったはずがないと直木は指摘する。何の記録もないという事実は、宮や神功皇后伝説そのものが6世紀にも存在していないことを暗示していると指摘している。だとすれば欽明天皇の新羅に対する「(新羅王を助命した)神功皇后の恩を忘れた」と非難する言葉も「日本書紀」編纂の際に考え出されたものだということになると指摘する。
2009.06.28
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戦前に津田は「天皇」「皇国」史観の束縛を打破して「神典」に記紀に鋭い史料批判を行い記紀の科学研究のための基礎を築いた。戦後の学者は記紀の研究を更に発展させてその問題点、史料価値をはっきりさせた。戦後史学では、戦前の皇国史観から解放され記紀への実証的研究が進んだ結果、学界の主流では「三韓征伐」に関する記述は具体的ではなく神話的誇張が多く「三韓征伐神話は当時の新羅の状況と合わない」など、神功皇后の実在を実証できないとされており、4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑・七支刀など、全く別の同時代史料によって論じられている。 一時期、現在の広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍が大日本帝国の半島進出を正当化するため不都合な歴史を改竄したものであるという説を唱える向きがあったが、現在ではほぼ否定されている。(好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものといっち「改竄論争に終止符」読売新聞 2006年4月12日12面)。また、4世紀後期ごろから倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されている。また、広開土王碑文も、通説に従って読む限り、碑文にある、倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦っていたことも「功績を大きく見せるための誇張はあってもおおむね史実を反映したもの」とする評価が定着した。また中国史書(「宋書」など)の記述について、倭国が朝鮮半島南部の小国家群にに対して何らかの影響力を持っていた傍証とする見解があり、朝鮮側の史書「三国史記」からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる。(倭・倭人関連の朝鮮文献)また、韓国南部の旧伽耶(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産と見られる遺物が出てきたこともこの説の証拠として提示されている。 これらのことから、「三韓征伐」説話を根拠として全く用いることがなくとも、4世紀後半以降の朝鮮半島進出自体は歴史的事実として立証できるとするものが古代史学界の主流である。ただし広開土王碑や、「三国史記」・「三国遺事」といった、朝鮮側の資料(「日本書紀」に比べて該当時期の編年の狂いが少なく(広開土王碑と「三国史記」の干支年が1年異なる程度)、この頃朝鮮では一般に文字による記録が残されたことをうかがわせる)には、「オキナガナラシヒメあるいは倭女王の来襲」などという記述は全く見られないことから、記紀に記す「神功皇后の三韓征伐」そのものは疑わしいであろう。記紀みは広開土王碑に見られるような高句麗などとの激しい戦闘を伝えるものが全くないことから、この頃の日本は事実を具体的に文字による記録で残すことをしなかったと見られる(この頃の「日本書紀」の対外的な記事には、推定干支を二運120年繰り下げる計算をすれば正しいと思われる記事があるが、いずれも百済三書と呼ばれる朝鮮系の資料を基にしたと考えられる)。結局三韓征伐説話は、はるか後の時代になって、新羅の日本への服従を正当化するために(「続日本紀」には、来新羅使の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある)、かつて日本は朝鮮半島で闘ったことがあるというわずかな記憶と、女帝斉明天皇が新羅遠征のために、筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作されたものであろう。
2009.06.27
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三韓征伐とは、「日本書紀」に記載されている、新羅の王子、アメノヒボコの子孫神功皇后が行ったとされる新羅出兵をさす。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、新羅征伐と言う場合もある。 伝説の古いかたちを示す「日本書紀」神功皇后即位前紀では、三韓征伐の動機は財宝への欲望であり、また皇后は新羅を降伏させて馬飼(うまかい)とした、と書かれている。この伝説の古い形では新羅をさげすむ意識が見られる一方で新羅を金銀の財宝に満ちた国と憧れている。鎌倉末期の「八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)」甲本(こうほん)になると、征伐の動機が財宝への欲望から仇討ちに変り、三韓征伐の前段に新羅の日本侵攻が新たに創作された。また馬飼の話は、皇后が弓のはずで石に「新羅国ノ大王ハ日本ノ犬也(なり)」と書きつけた、という話に変っている。南北朝末期の「太平記」巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、話の筋は「愚童訓」と変わりないが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている。 戦前の解釈 「日本書紀」には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の属国に入ったと記録されている。これが720年に完成した「日本書紀」に収められると多くの日本人は先の大戦中まで史実と信じていた。この三韓征伐は豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の大義名分(朝鮮は三韓征伐以来、日本の属国であり支配する権利がある)として積極的に用いられた。江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分とした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行「武家事紀」など)が広まるようになった。 この傾向は明治時代以降も続き、征韓論が台頭したとき、そして実際に大韓帝国を併合する際(韓国併合)や、日韓同祖論が生まれて外地における同化政策(皇民化教育など)が進められるようになったときも、その思想的背景の一つとなった。また、皇国史観の下、記紀の記述に疑義を呈することはタブー視され、神功皇后の存在も史実とされた。 津田左右吉は著書「日本古典の研究」で、皇后伝説は後世に付けたされたものが非常に多く歴史的事実を語っていないと述べた。新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい」と分析した。そのうえで伝説の成立時期を六世紀の継体朝や欽明朝とした。このような津田の著書は、当時、皇国史観に害があるとして問題になり、発禁処分になっている。
2009.06.26
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住吉三神(すみよしさんじん)とは、神道で信仰される神で、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神とされる。 住吉「すみよし」は、元は「すみのえ」と読んだ。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。 スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。古代における天皇即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表しており、天皇は即位すると住吉(スミノエ)の海で清めの儀式を行ったのである。住吉大社周辺の墨江や住之江という地名は、「スミノエ」の読みに漢字を当てはめたものとされる。 「古事記」や「日本書紀」などの日本神話では、イザナギが禊をしたときに、住吉三神は、綿津見三神と共に生まれたとする。元は綿津見三神と同じ神だったが、古代王権が九州から畿内(近畿)に東遷する時、重要な役割をしたのが住吉三神であるとされる。つまり九州に留まったのが綿津見三神(志賀海神社)で、近畿へ移ったのが住吉三神ではないかともいえるのである。そのあたりの消息を示すものとして、住吉三神を奉祭し、住吉大社の古代以来の歴代宮司家だった津守氏の氏神が大海神社(通常は「だいかいじんじゃ」と呼ばれるが、正式には「おおわたつみじんじゃ」と読む)であることが挙げられよう。また住吉三神を祀る神社の中で最も古いものは宮崎市の住吉神社や博多の住吉神社や壱岐市の住吉神社や神戸市の本住吉神社が有力であるが、どの神社が最古の住吉神社か明確な結論は出ていない。 神名の「つつ」とは星のことであり、住吉三神は現在でいうオリオン座の三ツ星の神格化という説もある。あまり目印のない海上で、オリオン座の三ツ星は自分の舟の位置を知るための重要な目印となるので神格化されたともいう。また対馬の豆配(つつ)、壱岐の筒城(つつき)、糸島の筒木(つつき)がオリオン座の三ツ星の配置となっている。 住吉三神を祀る主な神社 ・三大住吉 三韓征伐に由来する神社 ・住吉大社(大阪市住吉区) ・住吉神社(山口県下関市) ・住吉神社(福岡市博多区) ・三大住吉以外の三韓征伐に由来する神社 ・住吉神社(長崎県壱岐市) ・風浪宮(福岡県大川市) ・住吉神社(大阪府寝屋川市、神功皇后巡幸が由来とする) ・本住吉神社(神戸市東灘区住吉宮町)
2009.06.25
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・1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。 ・1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難) ・1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。 ・1271年(文永8年) ・7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 ・9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 ・平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕えられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。(刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。) ・10月 評定の結果佐渡へ流される。 ・流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕著の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述し、それまでの上行菩薩としての外用の振舞いを払い、久遠元初の自受用身としての本地を顕す。さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。 ・1274年(文永11年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諫暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。 ・1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5ヶ月後であった。 ・1279年(弘安2年)10月、在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり・仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は二十七年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云云う」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承) ・1281年(弘安4年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。 ・1282年(弘安5年)9月8日、病をえて、地頭・波木井実長の領地である常陸国へ湯治にいくため身延を下山。9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。 ・1282年(弘安5年)10月8日、日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興にみを後継者に定めたとする(二箇相承)。 ・1282年(弘安5年)、10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。 死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えれれている。そのため、日蓮門下の諸派では会式の際に仏前に桜の造花を供える。
2009.06.21
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波木井の御影作者:藤原親安 日蓮(1222年3月30日(貞応元年2月16日-(1282年11月21日(弘安5年10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。生涯 ・1222年(貞応元年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は「本尊問答抄」で「海人が子なり」、「佐渡御勘気抄」に「海辺の施陀羅が子なり」、「善無畏三蔵抄」に「片海の石中の賎民が子なり」、「種種後振舞御書」に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べており、実際には漁民に下賎の出身であったと考えられる(ただし、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。 ・1233年(天福元年)に清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。 ・1238年(歴仁元年)に出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。 ・1240年(仁治元年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華教(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至った。そこで法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の再誕との立場から、「南妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教を始める。 ・1253年(建長5年)清澄寺に帰山し、3月28には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南妙法蓮華教」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。 ・1254年(建長6年)に清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無問・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。 ・1257年(正嘉元年)の鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。 ・1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著し、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界反逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。(「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉はない。「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。)
2009.06.20
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建長7年(1255年)、「尊号真像銘文」(略本・福井県・法雲寺本)、「浄土三経往生文類」(略本・建長本)、「愚禿鈔」(二巻鈔)、「皇太子聖徳奉讃」(七十五首)を撰述する。 建長8年(1256年)、「入出二門偈頌文」(福井県・法雲寺本)を撰述する。 同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異議異端を説いた善鸞を義絶する。 「歎異抄」第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。 康元元年(1256年)、「如来二種回向文」(往相回向還相回向文類)を撰述する。 康元2年(1257年)、「一念多念文意」、「大日本国栗散王 聖徳太子奉讃」を撰述し、「浄土三経往生文類」(広本・康元本)を転写する。 正嘉2年(1258年)、「尊号真像銘文」(広本)、「正像末和讃」を撰述する。 「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」を、「三帖和讃」と総称する。 この頃の書簡は、後に「末燈抄」(編纂・従覚)、「親鸞聖人御消息集」(編纂・善性)などに編纂される。 弘長2年(1262年)11月28日、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊)にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼だが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 現在でも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。 荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の「御伝鈔」に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。 頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。大谷本廟にある親鸞聖人像 文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、祟泰院(そうたいいん)「知恩院塔頭」付近)に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。) 元応じ3年(1321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化し成立する。(応長2年(1312年)に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。) 寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正bの法難)まで、本願寺はこの地にあった(本願寺八世蓮如が宗主の時代)。
2009.06.18
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妻・恵信尼の動向 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。 ・東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝) ・京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。 当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。 ・京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。 帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。 ・承久の乱 承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる 寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた「教行信証」を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。 宝治2年(1248年)、「浄土和讃」と「高僧和讃」を撰述する。 建長2年(1250年)、「唯信鈔文意」(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。 建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。 建長4年(1252年)、「浄土文類聚鈔」を撰述する。 建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんしゅうけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異議異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大綱(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
2009.06.17
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健保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。 寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説があるが、健保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、健保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城理町)を結んだと伝えられる。 そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著「教行信証」は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。 親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。 西念寺の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとしている。文永9年(1272年)に、この地で没したとしている。 この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。 62,3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異議異端が取り沙汰される様になる。 帰京の理由 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。 ・天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。 弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向かうとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。 ・主著「教行信証」を、「経典」・「論釈」との校合のため。 鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。 ・東国において執筆した主著「教行信証」をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。 現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。 ・望郷の念によるもの。 35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。 ・著作活動に専念するため。 当時62,3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
2009.06.16
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法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空」(しゃっくう)の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。 「御伝鈔」には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、「恵信尼消息」には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、・・・」とある。一般に「御伝鈔」の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。) 元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、「選択本願念仏集」(「選択集」)の書写と、法然の肖像画の製作を許される。法然は「選択集」の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。 この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信」(ぜんしん)と名告ることを許される。 改名について 善信は、法名ではなく、房号とする推論。 「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。 妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論である。 ・法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘・玉日と京都で結婚したという説。 ・法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族・三善為教の娘・恵信尼と京都で結婚したという説。 ・越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚したとする説。 ・京都在所時に、玉日と結婚後に、越後に配流され、なんらかの理由で、恵信尼と越後で再婚したとする説。 ・再婚ではなく、玉日と恵信尼は同一人物とする説。 当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。 親鸞は、妻との間に4男3女(範意(印信))小黒女房・善鸞・明信(栗沢信蓮房)・有房(益方大夫入道)・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。 元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。 建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処する。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。法然は、土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)に配流される。法然は、九条兼実の庇護により配流先が讃岐国(香川県)に変更され、摂津国の勝尾寺に滞在する。 親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釈親鸞」(ごとくしゃくしんらん)と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。 承元5年(1211年)3月3日、明信(栗沢信蓮房)が誕生する。 建暦元年(1211年)11月(流罪より5年後)、法然とともに罪を赦される。親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。 建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。親鸞は、師との再会がもはや叶わないと知ったことと、子供が幼かったこともあり、京都に帰らず越後にとどまった。
2009.06.15
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親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない(もしくは、現存しない)。よって不明確・研究中な事柄が多く、諸説ある事に留意が必要である。 承安3年4月1日に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり)の長男として誕生する。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ)とされる。幼名は、「松若麿」、「松若丸」。 治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。 伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。 出家後は叡山に登り、慈円が検校を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。 建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世観音の化身が現れ)、 「行者宿報設女犯 我成玉女被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 意訳:あなたは、今まで坊さんたるものは妻をめとってはならない、と禁止されていた伝統の戒律を、今こそ破らなければなりません。私は玉のような美しい女性となり、あなたの妻になりましょう。そして、一生の間、よくあなたの活動をたすけ、いのち終わるとき、私の生涯はこれで十分であったと、心から喜べるようになる極楽浄土に一緒に参りましょう という偈句(「女犯偈」)に続けて、 「此れ是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」 の告を得る。 この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。
2009.06.14
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称名念仏 「佛説無量寿経」には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれる。なぜなら法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立し、とくに18番目の願である「第十八願」(=本願)に 「設我得佛十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」 意訳「わたしが仏になるとき、すべての人々の心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」 と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれる。 よって浄土往生の道が開けるのは、阿弥陀仏の本願にとるものであり、この理(ことわり)を賜る(=信心をいただく)ことにより救われるとする(易行道)。ゆえに阿弥陀仏より賜る「信心」を救いの因とし、その「仏恩」に対して自然に湧き起こる「報謝」の心によるものとする。そのことを「信心正因」 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行)としては捉えない。他力本願 阿弥陀仏の本願のはたらきを、他力本願と呼ぶ。しかし、自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。 「正信偈」に 「禰陀佛本願念佛 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」 とあり、信心を獲得することは、非常に難しいとも親鸞は述べている。 本来の「他力本願」の意味を誤用し、一般化した「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。悪人正機 「悪人正機」と呼ばれる思想は、すでに親鸞の師である法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。悪人正機は、上記「他力本願」とも関係する思想である。「歎異抄」の第3章に、端的に表現されている。現世正聚 現世正定聚とは、阿弥陀仏に救われた「信一念時」に、仏のさとりと等しい位である「等正覚」となり、滅度に必ず至ることが確約された身となることをさす。すなわち浄土の功徳を感得し証しながら、五濁悪世の現世を煩悩を持ったまま生きていくこと。
2009.06.12
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親鸞(安城の御影) 親鸞は、鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。明治9年(1876年)に明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の謚号を追贈されている。 親鸞は、法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意思は無かったと考えられっる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、「顕浄土真実教行証文類」(以下、「教行信証」)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。 一部の研究者は、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなぢから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説が提唱された。しかし大正10年(1921年)に、西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状「恵信尼消息」10通発見され、その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。小豆が好きであった。根本経典 「浄土三部教」と総称される、釈尊にいり説かれた「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、「仏説阿弥陀経」を、拠り所の経典とする。特に「仏説無量寿経」を「大無量寿経」(「大経」)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。七高僧インド仏教 龍樹 「十住毘娑婆論」「易行品」 「十二礼」 天親 「無量寿経優婆提舎願偈」(浄土論)中国仏教 曇鸞 「無量寿経優婆提舎願生偈註」(浄土論註) 道綽 「安楽集」 善導 「観無量寿経疏」(観経疏) 「往生礼賛偈」(往生礼賛) 「転経行道願往生浄土法事讃」(法事讃) 「依観経等明般舟三昧行道往生讃」(般舟讃) 「観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門」(観念法門)日本仏教 源信 「往生要集」 源空(法然) 「選択本願念佛集」(選択集) 聖徳太子 「和国の教主」として、観音菩薩の化身として崇拝した。「十七条憲法」
2009.06.11
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また、法然は念仏を唱える数についても言及している。このことについては、一念義と多念義という考え方がある。一念義とは、一度でも念仏を唱えさえすれば極楽往生は決定するということである。多念義は逆に普段、常日頃繰り返し何度も念仏を行うべきであるという考え方である。法然は、多念義を説いており、門徒の中で一念義を説く者がいることを嘆いている。一念でも十念でも優劣は無いという記述があるが、これはあくまでも最後の時のこととしている(「黒谷上人語灯録」-念佛往生容義抄)。日頃の念仏と最後の時の念仏についても優劣はないとしており、最後のときに近づけば日頃の念仏が最後の念仏になるだけだと説いている。 他力と自力については、他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われるかどうかだとし、対して他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心を持って念仏を行うべきとしている。 このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるから勧めるから選択するべきだというものとなっている。法脈と弟子 法然ー証空(西山義)-浄音(西谷流)-西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派 │ │ー了音(六角流)-(衰退) │ー立信(深草流)-------浄土宗西山深草派 │ー証入(東山流)-(衰退) │ー道観(嵯峨流)-(衰退) │ー遊観(嵯峨流)-示導(本山流)-(衰退) │ー聖達(嵯峨流)-一遍(時宗) -弁長(鎮西義)-良忠ー尊観音(名越派) │ー性心(藤田派) │ー寂慧(白幡派)ーーーー浄土宗 │ー礼阿(一条派) │ー慈心(木幡派) │ー道光(三条派)(衰退) │ー一向(一向宗)---浄土宗鎮西義に吸収 -親鸞(真宗義)------------浄土真宗 -隆寛(多念義)-(衰退) -幸西(一念義)-(衰退) -長西(九品寺流)-(衰退) -源智(柴野門徒)----------ーー浄土宗鎮西義に吸収 -信空(白川門徒)------------浄土宗鎮西義に吸収 -湛空(嵯峨門徒)------------浄土宗鎮西義に吸収
2009.06.09
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法然の思想の根底には、「選択本願念仏集」や「黒谷上人語灯録」などには、「罪悪深重の衆生」「妄想顛倒の凡夫」などという表記が数多く見られるように、まず自分を含めた衆生の愚かさや罪といったものへの深い絶望があち、そこから凡夫である衆生の救済への道を探り始めている。 一般には、法然は善導の「観経疏」によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。法然の著書「選択集」では、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。 法然においては、道綽と善導の考え方を受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて行うように説いている。著書内で、雑行を行う聖道門の行者を盗人に例えたりするなど正行である専修念仏を行うことを強調する文面が多くある。その根拠としては「仏説無量寿経」にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も賛難しているとある「仏説阿弥陀経」を示し、他の雑行は不要であるとしている。 加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。 法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは「選択集」においても「黒谷上人語灯録」においても見られることばである。三心とは「至誠心(誠実な心)」「信心(深く信ずる心)」「廻向発願心」である。 至誠心 誠実に阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。また、一つに自らが救われたいと思う心の真実、二つに人を悟りに向かわせたいと思う心の真実をさしている。 深信 疑いなく深く信じること。次の二つがあげられ、一つに自身が罪悪不善の身でいつから輪廻を繰り返してかもわからず悟りを得る機会がなかったこと、二つに罪人である自分を阿弥陀仏が救ってくれること。 廻向発願心 一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけてその浄土に生まれたいと願う心。 三心の中でも至誠心と信心が多く語られており、廻向発願心はあまり語られていない。三心を身につけることについては、「一枚起請文」にて、「ただし三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。
2009.06.08
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法然房源空 法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧で、浄土宗の開祖。「法然」は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称黒谷上人、吉水上人とも。 大師号は、現在「円光(東山天皇1697年)・東漸(中御門天皇1711年)・慧成(桃園天皇1761年)・弘覚(光格天皇1811年)・慈教(孝明天皇1861年)・明照(明治天皇1911年)・和順(昭和天皇1961年)大師としており、50年ごとにときの天皇より諡号を賜る。 真宗七高僧の第七祖。浄土真宗では、源空を元祖とする(親鸞は、開祖もしくは宗祖と呼ばれる)。弟子である親鸞は、法然を「本師源空」や「源空聖人」と「正信偈」「高僧和讃」などにおいて称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるま ときくに)と、母・秦氏君との子として生まれる。 「48巻伝」(勅伝)などによれば、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際父の遺言によってあだ討ちを断念する。 その後比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然源空」と名のる。 承安5年(1175年)43歳の時、善導の「観無量寿経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。 文治2年(1186年)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198年)「選択本願念仏集」(選択集)を著した。 元久元年(1204年)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207年)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。讃岐国でも布教足跡を残し、香川県高松市にも法然を偲ぶ法然寺(京都の法然寺とは別)がある。4年後の建暦元年(1211年)赦免になり帰京し、翌年1月25日に死去、享年80(満78歳没)。 なお、建暦2年(1212年)1月23日に源智の願いに応じて、遺言書「一枚起請文」を、記している。 法然の門下には証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・降寛・湛空・長西・道弁らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、九条(藤原)兼実・宇都宮頼綱だが著名である。
2009.06.07
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明庵 栄西(みんなん えいさい・ようさい、諱は千光国師、葉上(ようじょう)房とも称した。永治元年4月20日(1141年5月27日-建保3年6月5日(1215年7月2日))は、仏教宗派・日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。生年には異説がある。天台密教葉上流の流祖でもある。また、喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。・永治元年(1141年)吉備津宮(現在の岡山県岡山市、吉備津神社)の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。 ・「紀氏系図」(「続郡書類従」本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。・久安4年(1148年)8歳で「具舎論」、「婆沙論」を読んだと伝えられる。・久寿元年(1154年)14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。 ・以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。・仁安3年(1168年)形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、「天台章疎」60巻を将来する。 ・当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化され、仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。・文治3年(1187年)再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。・建久2年(1191年)虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。 ・福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に務める。・建久5年(1194年)彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。・建久6年(1195年)博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。 ・同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。・建久9年(1198年)「興禅護国論」執筆。 ・禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。 ・京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。・正治2年(1200年)北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。・建仁2年(1202年)源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。 ・建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に務めた。・建永元年(1206年)重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。・建暦2年(1212年)法印に叙任。・建保元年(1213年)権僧正に栄進。 ・政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があった。特に栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びた。栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられるが、天台座主慈円は「愚管抄」で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。・建保3年(1215年)享年75(満74歳没)で病没。終焉の地は鎌倉、京都の2説がある。・日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、夜の説法を集めた「正法眼蔵随聞記」では、「なくなられた僧正様は・・・」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。・「誓願寺盂蘭盆縁起」栄西唯一の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折、書いたと見られる。・「喫茶養生記」 ・「喫茶養生記」は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
2009.06.05
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道元は、鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽師。一般には道元禅師と呼ばれる。 徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打座の禅を伝えた。主著正法眼蔵はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を集めた。・道元の出生には不明の点が多いが、内大臣土御門通親(源通親あるいは久我通親)の嫡流に生まれたとする点では諸説が一致している。定説では京都木幡の松殿山荘で通親と太政大臣松殿基房(藤原基房)の娘伊子の子として生まれたとされているが、近年の研究では定説では養父とされている堀川通具の実子とする説が有力になりつつある。また、通親の子、通宗または通光を父親ちする説もある。伝記である「健撕記」によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じていた道元が断わったとも言われている。・浄土真宗の開祖親鸞とは、互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが確証はない。著作「正法眼蔵」の「生死」の巻は、親鸞に向けて書かれたものであるとする説がある。 ・建暦3年(1213年)比叡山の母方の叔父良顕を訪れる・ ・建保2年(1214年)天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。 ・建保3年(1215年)三井寺の公胤の元で天台教学を修める。 ・建保5年(1217年)建仁寺にて栄西の弟子明全に師事。 ・貞応2年(1223年)明全とともに博多から宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗の天童如浄より印可を受ける。 ・安貞2年(1228年)帰国。 ・天福元年(1233年)京都深草に興聖寺を開く。 この頃、比叡山からの弾圧を受ける。 ・寛元元年(1243年)7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来) ・寛元2年(1244年)傘松に大佛寺を開く。 ・寛元4年(1246年)大佛寺を永平寺に改め、号も希玄と改める。 この頃、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。 ・建長5年(1253年)病のため永平寺を弟子の孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で死去、享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。道元禅師示寂の地 ・成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ座禅にうちこむことが最高の修行である(只管打座)と主張した。 ・鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、正法眼蔵随聞記には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に稀有に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給う事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得るべきなり}と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎない、と末法を否定した。
2009.06.04
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・815年、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。 ・法相宗(ほっそしゅう)の学僧会津徳一(とくいつ)との間に、三一権実(さんいちごんじつ)の論争。徳一が「仏性抄」(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は「照権実鏡」(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、「法華去惑」(こわく)「守護国界章」「決権実論」「法華秀句」などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。 ・818年、みずから具足戒を破棄。「山家学生式」(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務付ける。 ・南都の僧綱から反駁にこたえて「顕戒論」を執筆。「内証仏法血脈譜」を書いて正統性を説く。 ・822年6月26日(弘仁13年6月4日)、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。 ・866年(貞観8年)、伝教大師の諡号が贈られた。 書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当たって王義之の十七帖、王献之、欧陽詢などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なるに比べて、清澄で品格が高い。真跡として現存するものには次のようなものがある。久隔帖 「久隔帖」(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付けで書いた尺牘(せきとく、漢文の書状)で、「久隔清音」の」句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高慢で、さながら王義之の「集字聖教序」を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2cm×55・2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。「久隔帖」(部分)最澄筆 文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(「中寿感興詩」)の序に、「一百二十礼仏」・「方円図」・「註義」という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は「礼仏図」なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、「方円図」・「註義」とその」大意とをお知らせいただきたい。という趣旨の内容である。請来目録(越州録) 「請来目録(越州録)」(しょうらいもくろく)は、在唐中、最澄が越州で蒐集または抄写した経疏、天台関係の文書、法具などの目録で、延暦24年(805年)に書かれたものである。楷書であるが久隔帖と同じく王義之風の流麗な筆致である。延暦寺蔵。国宝。羯麿金剛目録 「羯麿金剛目録」(かつまこんごうもくろく)は、最澄が唐からの請来品を弘仁2年(811年)比叡山に奉納した目録の断片で、その初行の文字によってこの名がある。全紙に比叡山の印が捺されている。延暦寺蔵。国宝。
2009.06.03
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最澄像(国宝)平安時代(11世紀)一乗寺蔵 最澄は、平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生まれ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に渡来したといわれている。 なお、年齢は神護景雲元年出生説に基づく。 ・778年(宝亀9年)、12歳のとき近江国分寺に入り、出家して行表(ぎょうひょう)の弟子となる。 ・780年、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度して名を最澄と改めた。 ・783年(延暦2年)、17歳のとき1月20日に正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。 ・785年、19歳のとき東大寺で具足戒を受ける。同年7月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。 ・797年、内供奉(ないぐぶ)十禅師。 ・802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。 ・804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、しゅく然(しゅくねん)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。 ・805年5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教経化霊場である能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した教典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。 ・806年(大同元年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観(しかん)業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準ずる。これが日本の天台宗の開宗である。 ・このころ、空海から、真言、悉曇(しったん)(梵字)、華厳(けごん)の典籍を借り、研究する。 ・812年(弘仁3年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山におもむき、空海から灌頂を受ける。 ・813年1月、泰範、円澄、光定を高雄山の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山に留まった。しかし、このうち泰然範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。 ・813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実戦修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。
2009.06.02
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鎌倉~江戸時代の学者等により、空海は本朝における男色の開祖とされることもある。徳川時代の川柳や笑話などにも、しばしば衆道を唐土から導入した人物として登場する。 弘法大師が発見したとされる温泉は、以下である。 ・あつみ温泉(山形) ・湯村温泉(山梨) ・大塩温泉(福島) ・鹿塩温泉(長野) ・芦ノ牧温泉(福島) ・海の口温泉(長野) ・出湯温泉(新潟) ・赤引温泉(愛知) ・瀬戸口温泉(新潟) ・龍神温泉(和歌山) ・清津峡温泉(新潟) ・関金温泉(鳥取) ・関温泉(新潟) ・湯免温泉(山口) ・燕温泉(新潟) ・東道後温泉(愛媛) ・川場温泉(群馬) 法師温泉(群馬)・杖立温泉(熊本) ・熊の川温泉(佐賀) ・修善寺温泉(静岡) ・伊豆山温泉(静岡) ・波佐見温泉(長崎) ただし、これらのなかには、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの場合もある。高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探し当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわれる。 弘法大師由来の伝説や伝承 ・平仮名 ・いろは歌 ・灸 ・讃岐うどん ・手こね寿司 ・九条葱 ・エツ(日本では筑後川のみに生息する魚、絶滅危惧種 ・曜日 ことわざ・慣用句 ・「弘法にも筆の誤り」-空海は天皇からの勅命を得、大内裏応天門の額を書くことになったが、「応」の一番上の点を書き忘れてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。 ・「弘法筆を選ばず」-文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及がある。「弘法筆を選ぶ」として、逆の意味のことわざとして用いられることもある。 ・「護摩の灰」-弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。 ・「生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう)」-民間に伝わる呪文で、これを唱えれば難事を避けることができると言う。本来の字義からは離れてしまっているが、空海の御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」が転訛したもの。 幼名 真魚(まお) 名 俗名:佐伯 法名 教海ー如空ー空海 法号 遍照金剛 生地 讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県全善通寺市) 没地 高野山 宗旨 真言宗 寺院 高野山金剛峯寺・東寺 師 恵果 著作 十住心論他多数 廟 高野山奥の院
2009.06.01
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