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地方の物部氏 また、下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留の子で木蓮子のの弟の物部小事が坂東に進出したというものがある。これについては常陸国信太郎との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。 古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は社家華族として男爵に列している。 物部守屋(生年不詳-用明天皇2年(587年)7月)は飛鳥時代の大連(有力豪族)で、物部尾輿の子。母は弓削氏の女阿佐姫。 物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、祟仏派の蘇我氏と対立した。 敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。 敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祀る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等(しばたのたちと)ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕えて、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の面前で鞭打った。 疫病は更にはげしくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。 ほどなくして、天皇は崩御した。殯宮で葬儀が行われ、馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。 敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。 用明天皇元年(586年)、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆(みわのさかう)に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。 用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。 排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤壽が中臣勝海を斬った。 守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
2009.03.31
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物部守屋 物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。 連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族のすこぶる多いことがその特徴として知られる。磐井の乱 継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏だった。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。蘇我氏との対立 宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(もののべのおこし、生没年不詳)が大連(おおむらじ)になった。 「日本書紀」によると、欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする祟仏派と物部尾輿、中臣鎌子を中心とする廃仏派が争そった。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の祟拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。稲目・尾輿の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした。 守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼くということをしてしまった。そして3人の尼を鞭で打った。しかし、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后(用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。 当初、物部守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した。石上氏 西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改め石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。同氏は守屋の兄の子孫であると称している。 雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。石上氏は宅嗣の死後、9世紀前半ころに衰退。地方の物部氏 物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙に遑がない。 石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。所謂「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称し、扶桑略記、陸奥話記などには物部長頼が陸奥大目となったことが記載されている。しかし、出羽物部氏が本当に守屋の子孫かどうか確実な証拠はない。六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥侯氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
2009.03.30
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第二次世界大戦終結後昭和天皇の退位と天皇制廃止論 第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、軍国主義の一因として天皇を処罰し、君主制を廃止すべきだという意見が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤として君主制は存続させた。 昭和天皇の戦争責任についても追求すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。他にも、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見も、南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘らが唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。昭和天皇とマッカーサー この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。なお、この時は複数の写真が撮影されており、中には天皇がソファに深く腰を下ろしてくつろいでいる姿もあったが、GHQは意図的に、天皇の権威を最も失墜させる写真を選択した。人間宣言 1946年1月1日、新日本建設に関する勅書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、勅書の冒頭において後五箇条の五誓文を掲げている。1977年8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この勅書の主な目的である。この勅書は人間宣言と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、勅書の6分の1しかない。その数行も、何かを放棄したりしてはおらず、事実確認を行う内容である。この勅書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象もよくなった。しかし、日本人にとってあたりまえのことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの勅書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった。1946年1月1日、この勅書について新聞各紙の第一面で報道された。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、人間宣言にはほとんど触れられていない。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである。巡幸 昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われたうえ、更に日本本土より切り離されてて連合軍の直接統治下におかれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際してそのことに触れられている。天皇の国籍 日本国憲法、並びに国籍法には、天皇の国籍についての明記がない。また、天皇は、国籍法においても日本国民たる要件に該当がなく、天皇が日本国民であるか否か、その明記もない。 したがって、天皇が日本国籍を有する法的根拠として日本国憲法のもと現行の国籍法第二条によると考える際、国籍法第一条(目的)の「日本国民」に天皇も含まれるかどうかの問題がある。 天皇・皇族は戸籍法の適用を受けないため、その名前と身分は「皇統譜」に記載されている。憲法論においては天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の「皇統譜」についての個所に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある。 また、平成元年126号損害賠償請求事件における東京高裁判決理由に「天皇といえども日本国籍を有する自然人一人であって、」と書かれている。天皇と課題皇位継承権論争 1965年の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年の悠仁親王の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。
2009.03.29
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明治天皇明治以降 明治31年(1898年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。 その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。 その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようになった。 その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。 しかし、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。昭和10年(1935年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。 世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が台頭し天皇の存在を大きく利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。 この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた。 この時代には、ドイツのナチス政権やイタリアの戦闘者ファッショ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、この時期の日本の君主制は天皇制ファシズムとも呼ばれている。
2009.03.27
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江戸時代 江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。庶民の尊敬の対象は大名や征夷大将軍(上様、将軍様)に向けられ、天皇や公家は庶民と間接的に縁のある存在(天子様)として敬意が払われる程度であったと考えられている。 しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に務め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。 江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。 しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。明治時代 幕藩体制が揺るぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威は高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。 その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。 この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を、当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。 これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。こうした体制は、国民から隔絶した絶対的な権力を有する天皇制絶対主義であると規定する学者も少なくない。 なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制について、一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられるが、コミンテルンが最初に使い始めた用語であるとしてこれを忌避する人もいる。孝明天皇
2009.03.26
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後鳥羽天皇院政期 平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。 後三条の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王更と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、今上天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。 この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人としてふるまった摂関政治よりもいっそう強固なものであった。 治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。 後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、ときには幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。 院政はこの後江戸時代まで続くが、実質的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の死後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどしべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い、朝廷も政府としての機能を失い、天皇を中心とする貴族たち(公家)の利益共同体に転落する。後醍醐天皇図鎌倉・室町時代 中世の国家体制については、一般的に天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、モンゴル襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。天皇家もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した。 鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐による天皇親政が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。 この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府四代将軍義持がこれを固辞している。しかしこれは、義満が義持より義嗣をかわいがってうたため、父を快く思わなかったためともいえあれているので、その真相については未だ定かではない。 戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。
2009.03.25
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不安定な基盤にのっていた王統が確立したのは継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。 また、この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称したと「隋書」に見える。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。大化の改新から摂関政治まで 大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。 特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。その治世において初めて天皇が現人神とみなされるようになり、また、この時期より天皇の称号が使用され始めたとする説もある。なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えれれている。 律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。 しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂関・関白に就任するようになった。特に858年(天安2年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。 摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を代行することが可能となったと考えれれる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことのあるとされている。 もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。このころ、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した国司を追放し、関東7ヶ国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。 これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天応)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3ヶ月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
2009.03.24
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漢yり印綬されたとされる倭奴国王印古代の天皇 中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書「宋書」夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された輪の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。 これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・銘刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたと考えられている。 「宋書」には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。 「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国から遠く隔って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかなた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くに及ぶようになりました。 わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。 ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。 もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをきじき、よく困難をのりきることができましたならが、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。 子の頃までの代々の天皇の出自や系統については、紀記の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。 また、仁賢の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇5世の孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。 しかし、実際にはどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に「万世一系」史観の立場で編纂された「日本書紀」などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)もみられる。
2009.03.23
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神道と仏教と天皇 天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。 また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、明治4年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事は仏式で行われていた。維新後は一千年続いた仏式の行事はすべて停止され、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉湧寺にまとめられ、天皇家とは縁切りということになり、仏教とは疎遠となった。天皇の歴史 天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べると極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって統治権は行使されている。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で制夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。 しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である制夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。 ただし、外交において有事が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である(元寇や黒船来航等)。時にとりわけ大きな力をもった権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。神武天皇版画神代と天皇の発祥 天皇家の系図は、「古事記」・「日本書紀」を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は紀元前660年に即位した神武天皇、さらにはその始祖である天照大御神に始まるとされている。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる。 そのため、天皇家の始祖にまつわる伝承や事績、および初期の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることが多い。特に欠史八代の天皇については、古代中国革命思想に則って天皇家の歴史を水増したのではないかと指摘する否定説が戦後学会では主流である(実在説もある)。歴史学的に証明できる天皇家の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。 3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されておりさ定まっていない。
2009.03.22
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禅定寺天皇家の姓氏 天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる。「00宮」の称号は、宮家の当主個人の称号とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。 しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前身)は、姓を有していたとする説もある。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが「宋書」倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋の冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている。 また、「隋書」倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている。 吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている。1928年11月、即位の礼の昭和天皇天皇の皇位継承 皇位継承ちは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承、あるいは帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。 日本国憲法では「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。(日本国憲法第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する(皇室典範第一条)」とある。憲法の規定日本国憲法における天皇 現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけれれる。日本国憲法には元首の規定がなく、天皇の地位についても議論がなされているが、公式には日本内外で元首として扱われてる。憲法の定める国事行為を除くはおか、国政に関する権能を有しない。大日本帝国憲法における天皇 大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。 大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあったが、実際上の天皇の政治的指導権は、帝国憲法の母法国であるベルギーやドイツの君主よりも劣弱であった。
2009.03.21
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海外での呼称英語における呼称 英語における天皇を意味する言葉は、原則として大文字のEを用いたEmperorである。定冠詞(The)を付ける場合もあるが、その場合でも大文字のEという原則は崩れない。今日、国際的に承認されている国家の元首で皇帝号を対外的に使用するのは、天皇のみである。天皇を言及する際に用いられる尊称はHisMajestyであるが、HisImperialMajestyと記すこともあり、また略してH.M.と記す場合もある。天皇は男性であるため、HerMajestyは原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M.である。 「~天皇陛下」という場合、正式にはHis[ImperialMajesty(The)Emperorの後に名前を記す。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である、殿下は、HisImperialHighnessであるが、この場合はImoerialは省略できない。 歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。朝鮮半島と天皇の呼称 朝鮮歴代王朝は長く中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の称号であった。そのため天皇家の皇や帝を称することを認めず「倭国王」「日本国王」等の称号を用いた。 近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、近代的国際社会の一員となった事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。 朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。 この原因として韓国の「小中華主義」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのには日本により再び「皇帝」から「王」の格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。 最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。天皇の配偶者の称号 明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。また、天皇・皇族の配偶者は婚姻によって皇族身分を獲得することは無かった(当然のことながら、内親王・女王身分の配偶者は婚姻後も引き続きその地位を保持することになる)。 明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。また、皇室典範によって天皇・皇族の配偶者が皇族身分を獲得することになった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。・明治維新以前 ・皇后・中宮・女御・更衣・夫人・大正天皇以降 ・皇后
2009.03.20
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中世 平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎ方まで申し上げます)も同様である。 また、主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。 今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御によって皇嗣が即位すると定めたためである。明治以降 大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。 そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からは天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上、聖上(せいじょう)、当今(とうぎん)、畏れ辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。現在 なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことはまれになっている。 一部の出版物においては、今上天皇に対して、敬称を用いない三人称に「00)元号)天皇」(例:「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし「00(元号)天皇」はその天皇崩御後に贈られる諡号になるため、厳密にはこのような用法は誤りである。
2009.03.19
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十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。 天皇は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められて地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは諡号であり、古代から世襲により受け継がれた日本の君主である。1989年から2009年現在まで、第125代明仁が在位。「天皇」の由来 「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。 ・古代中国では北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんのうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。 ・唐の高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。 ・5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴国天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。 はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。称号の歴史 近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。古代 天皇という称号が生じる以前、倭国「(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明楽美御徳)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。律令制での称号 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国外にむけたは)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合には「太上天皇(だいじょうてんのう)、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。 死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武から持統天皇までの41代、及び元明・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が「続日本紀」に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。
2009.03.18
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紀貫之 紀氏(きし)は、古代豪族の一つ。氏族・紀氏の長は紀伊国造を称し、現在に至るまで日前神宮・国懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。 ここで説明する紀氏は、竹内宿禰の子の紀角宿禰(木角)の一族である。 竹内宿禰系の紀氏は、宿禰の母・影媛(宇遅比女、竹内角宿禰の祖母)が紀伊国造家の出であったことから母方の紀姓を息子に名乗らせたことによる。 古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが朝廷や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていたが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めてくるにつれて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無くなり、紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。 紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、信太氏、高安氏、中村氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮帽系図であると思われる)、品川氏などが挙げられる。 紀貫之(き の つらゆき)は、歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。幼名は阿古屎(あこくそ)。 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉となぞれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。 また、「小倉百人一首」にも和歌が収録されている(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)。 随筆家としたは「土佐日記」の著者として有名である。日本文学史上、おそらく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。百人一首 貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」(さくらまち)と称されたという。その遺址の京都御所富小路広場に当たる。年譜 ・貞観8年(866年)または貞観14年(872年)?-この頃生まれる? ・延喜5年(905年)4月-醍醐天皇の勅命により「古今和歌集」を選者の1人として編纂。 ・延喜6年(906年)2月-越前権少掾に任官。 ・延喜7年(907年) ・2月27日-内膳典膳に遷任。 ・9月-宇多天皇が大井川に外出された際に、歌や序を供奉。 ・延喜10年(910年)2月-少内記に専任。 ・延喜13年(913年)-「亭子院歌合」に参加。屏風画などを作る。 ・4月-大内記に転任。 ・延喜17年(917年)1月7日-従五位下に叙位。大内記如元。加賀介兼任。 ・延喜18年(918年)2月-美濃介兼任。加賀介任替。 ・延喜23年(923年)2月-大監物に遷任。 ・延長7年(929年)9月-右京亮に転任。 ・延長8年(930年)1月-と土佐守に遷任。 ・醍醐天皇の勅命により「新撰和歌集」を編纂。 ・承平5年(935年)1月-土佐守の任を終え、帰洛。後にこの紀行を参考に、「土佐日記」を書く。 ・天慶3年(940年)3月-玄蕃頭に任官。 ・天慶6年(943年)1月7日-従五位上に昇叙。玄蕃頭如元。 ・天慶8年(945年) ・3月28日-木工権頭に遷任。 ・5月18日?-没。 ・明治37年(1904年)4月18日-贈従二位。代表歌霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
2009.03.17
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著名文献1)「上古文字論批判」新村 出 ・1898年、東京帝国大学在学中に著された。神代文字実在論に最終「判決」を下すために執筆され、西洋の言語理論を応用し、古今の文献を博捜・渉猟した精緻なものである。末尾には、明治初年に登場した「上記」への言及も見える。2)「国語学概論」橋本進吉 ・1925年に「岩波講座日本文学」として刊行され、1946年に「橋本進吉著作集」として再刊された国語学の歴史的名著。橋本は「上代特殊仮名遣い」の研究を大成し、奈良朝期には八母音であるとする説を主張した。神代文字は五母音のため、この説と合致しないとしている。3)「所謂神代文字の論」山田孝雄 ・明治以後の国語学の成果を活用し、神代文字論の発生と展開をあとづけて否定した。神宮文庫(伊勢神宮)所蔵の神代文字は、1873-1882年の間に作られた創作物であり、神宮に古代より伝わる物でないと断じた。4)「日本古代文字考」落合直澄 ・神代文字支持派の研究集大成。伊勢神宮宮司の田中頼庸が序文を書き、伊勢神宮禰宜の落合直澄が書き著した・伊勢・神宮文庫所蔵の神代文字については全くふれていないので、神宮に古代より伝わる物ではないとはっきり言える。国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可。 神代文字がいつどのように作られたかはともかく、一部では外部に秘伝が流出するのを防止するための一種の暗号として使用されたという主張もある。また、現在でも一部の神社では符、札、お守りなど呪術的に使用されているようである。伊勢神宮にも神宮文庫に約百点奉納されている。 また江戸時代に諸侯で使用されていた藩札の中には、偽造防止のため神代文字を意図的に使用したものもある。 神代文字存在説の影響を受けて明治19年(1886年)「東京人類学誌」10号による琉球古字や明治20年(1887年)「東京人類学誌」18号22号での坪井正五郎によるアイヌ文字などがあったという説も出された。偽銘帯との関連を指摘する説もある。主な神代文字 ・阿比留文字 ・アビルクサ文字 ・ヨシテ ・カタカムナ文字神代文字と誤認されることが多い文字 ・サンカ文字:神代文字を基にした三角寛の創作
2009.03.16
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「隋書」「巻八十一列傳第四十六東夷タイ國」に、「無文字唯刻木結縄敬佛法 於百済求得仏教 始有文字」とあり中国は倭人に文字=漢字はないと認識していた。 鎌倉時代の「二中歴」に「年始五百六十九年 内卅九年 号無く干支を記さず 其の間刻木結縄し 以って政となす」とある。 神代文字存在説への批判は江戸時代に既に沸き起こっていた。否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹などがいるが、中でも伴信友の「仮字本末(かなのもとすえ)」の付録「神代字弁」は実証的に神代文字を否定し、後世の偽作として排した。1.古人の証言 中臣氏とともに代々朝廷の祭祀を務めていた古代氏族である斎部氏の長老・斎部広成は、「口語拾遺」(808年)において「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賎老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」と記し、漢字渡来以前の日本には文字が存在しなかったことを明白に述べている。卜部兼方を遡ること約500年前の貴重な証言として注目される。2.字母数の問題 橋本進吉が「万葉集」等の万葉仮名で記された奈良時代の文献の表記を研究した結果、上代特殊仮名遣と呼ばれる特殊仮名を発見した。これにより、奈良時代には濁音節を含めて88音節存在したことが明らかとなっているが、神代文字のほとんどは字母数が平安時代に作られたいろは歌や五十音図と同じである。これは神代文字が平安時代以降に創作されたものであることを示している(ただし近年、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったとする学説(上代特殊仮名遣)もあり論争の結論はでていないが、少なくとも上代日本語には中古日本語・現代日本語には用いられない仮名づかいが存在し、神代文字がそれに従っていないのは事実である)。3.ハングルとの類似 神代文字の中にはハングルと酷似したもの(阿比留文字。また日文(ひふみ)とも。対馬の豪族・阿比留氏が関係するとされる)が存在する。ハングルは1443年に考案されたものであるから、ハングルが阿比留文字を参考に考案された文字ということでもない限り、阿比留文字もそれ以降のものであると解される。平田篤胤によるハングルを元にした捏造とする説がある。 以上の論拠により、神代文字は信憑性に乏しく、後世の偽作であるというのが学界の定説となっている。 なお、神代文字やそれによって書かれた古史古伝が存在することをもって日本に超古代文明が存在していた証拠とする者もいるが、「日本にかつて高度な文明が存在し、独自の文字を使用していたならば、そもそも漢字を輸入する必要がないはず」とする反論がある。また、これらの古史古伝の中にはしばしば近代以降の用語・概念・絵画・字体などが見られ、偽書の疑いが濃厚であることも、神代文字存在説には大きなマイナス材料となっている。 また、近年の考古学の進歩により、昔の遺跡や古墳などから文字の書かれた土器・金属器・木簡などが発見され、こういった出土文字により紀記以前の文字の使用状況が判明しつつある。これによって得られた考古学的な知見から、漢字渡来以前に日本に固有の文字はなかったと見られている。
2009.03.15
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神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字が伝来する以前に古代日本で使用されていたとされる日本固有の文字の総称である。江戸時代にはその実在を信じていた学者もすくなからず存在したが、近代以降の日本語学界をはじめとするアカデミックの世界では、現存する神代文字は古代文字などではなく、すべて近世以降に捏造されたものであり、漢字渡来以前の日本には固有の文字は存在しなかったとする説が広く支持されている。その一方で、古史古伝や古神道の信奉者の間では、神代文字存在説は現在も支持されているが、神代を語れぬ伊勢派が作り出した偽作であるとして排する者もいる。 神代文字の存在の可能性についてはじめて言及したのは鎌倉時代の神道家である卜部兼方である。兼方は「釈日本紀」(1301年以前成立)の中で、父・兼文の説として「於和字者、其起可在神代輿。所謂此紀一書乃説、陰陽二神生蛭児。天神以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者。」と述べ、神代に亀卜が存在したとの日本書紀の記述から、文字がなければ占いが出来るはずがないとして、何らかの文字が神代に存在した可能性を示した。兼方自身はその候補として仮名を考えていたようであるが、爾来卜部神道の間では仮名とは異なる神代文字の存在を説くようになった。たとえば、清原宣賢(吉田兼倶の子)は「日本書紀抄」(1527年)において「神代ノ文字ハ、秘事ニシテ、流布セス、一万五千三百七十九字アリ、其字形、声明(シャウミャウ)ニハカセニ似タリ」と、神代文字の字母数や字形等の特徴についてかなり具体的に述べている。にも拘らず、室町時代までは神代文字の実物が示されることはなかった。江戸時代に入り、尚古思想が高まるにつれて、神代文字存在説もますます盛んになり、遂に神代文字の実物が登場するに至るのである。 江戸時代以降、神代文字として紹介された文字は実に数十種類にも及ぶ。それぞれ出典となる書籍や発見場所などの名前が付けられている。神代文字存在説側の研究としては、平田篤胤が神代文字否定論から肯定論になって最初の論である「古史徴(こしちょう)」第1巻「問題記」所収「神世文字の論」その後の「神字日文傳(かんなひふみのつたえ)」とその付録「疑字篇」が著名である。また、鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は「嘉永刪定神代文字考」において天名地鎮(あないち)文字を世界のすべての文字の根源であると説いた。これらの存在説を集大成したものが落合直澄の「日本古代文字考」である。
2009.03.14
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竹内巨麿(明治8年?-昭和40年)・明治43年秋、皇祖皇太神宮を復興。天津教の開祖となる。・「明治奇人今義鞍馬修行実歴譚」 竹内巨麿の口述書であるが、これにはまだ、竹内文書も平群真鳥についても述べられていない。・大正10年頃、「長慶天皇御真筆」、「後醍醐天皇御真筆」、「日蓮上人御真筆」などを所有しtりると公開。・昭和4年8月14日、戸籍の名を巨麿に改名。・昭和11~12年頃、不敬罪で起訴される。山崎鉄丸 山崎鉄丸は、川浦操の竹内文書紹介論文「長慶天皇の山陵に就いて」を見た後「竹内家の記録に就いて」において文献批判を行った。狩野亨吉 狩野亨吉は昭和3年5月に、天津教信者2名から7枚の写真の鑑定依頼を受けたが断わった。昭和10年「日本医事新報」から鑑定を依頼され、7枚中5枚を鑑定し、偽造と回答した。翌、昭和11年6月、岩波書店の「思想」誌上に発表した「天津教古文書の批判」により偽書と証明した。なお、鑑定したのは以下の5文書の写真である。 ・「長慶太神宮御由来」、「長慶天皇御真筆」、「後醍醐天皇御真筆」、「大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆」、「大日本国太古代上々代神代文字之巻」 の狩野亨吉は、昭和17年に検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。熊沢天皇 南朝の熊沢天皇と名乗った熊沢寛道は、明治39年ごろ南朝方の寺院から盗まれた宝が古物商を経て天津教が買いとったと推測し、返還を要求した。天津教弾圧事件第一次 ・昭和5年12月7日~19日、「東京日日新聞」に批判記事。警視庁が詐欺罪容儀で竹内巨麿、前田常蔵、高畠康寿を取り調べする。不起訴。 ・昭和7年内務省特高警察が竹内巨麿を拘引、不敬の言動により同6月、神宝拝観禁止、神社の鳥居を撤去。第二次 ・昭和10年12月28日神宝が秦真次(皇道派の実質リーダーの真崎甚三郎の腹心でもあった)の手により東京市・靖国神社の遊就館の松田常太館長にたくされた。 ・昭和11年2月13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿と磯原館という旅館の吉田謙吉が不敬罪、文書偽造行使罪、詐欺罪容疑で逮捕された。同年、4月17日検察書類送致、同月30日、竹内巨麿、神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書を書く。 ・昭和17年3月16日一審不敬罪有罪判決。上告。上告代理人弁護士は田多井四郎治、宮本正美、特別弁護人鵜沢総明(後の極東国際軍事裁判の日本弁護団長) ・昭和19年12月12日、大審院(現最高裁判所)無罪判決、結審。解散指定 ・昭和25年1月連合軍最高司令官総司令部から天津教は解散指定される。焼失と疑惑 この裁判にあたり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4,000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となるも、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、それら原本は太平洋戦争中の空襲により「吉備津彦命兵法之巻」などを焼失したとされている。戦後、巨麿の子、竹内義宮がその写本を伝えている。 一説には、竹内文書は焼失しておらず、「アメリカ国立公文書記録管理局」または「国立公文書館(旧内閣文庫)」に保管されているのではないかとも言われているが、真偽は不明である。その他・「旧約聖書」などの古代文献に出てくる人物や乗り物らしきものと、竹内文書に出てくる人物や乗り物らしきものとが何らかの関連性があるかのような記述がされることもある。
2009.03.13
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竹内文書(たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ。磯原文書、天津教文書ともいう)とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物であり、写本自体が焼失もしくは非公開であるため、「偽書」「偽史」とされている。 武内文書は、新宗教団体である天津教の教典にも、位置づけられている。書物だけでなく、下記に述べる神宝の類まで包括して「武内文献」ということが多い。 平群真鳥の子孫であるとされる武内家に、養子に入ったと自称する武内巨麿(たけうちきょまろ/たけのうちきょまろ)が、昭和3年3月29日に文書の存在を公開した。写本の多くは焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。 武内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝を「神倭朝(かむやまとちょう)」と呼び、これ以前に「上古25代」(または「皇統25代」)とそれに続く「不合朝(あえずちょう)73代」(73代目は神武天皇のことである)があり、さらにそれ以前に「天神7代」があったとしている。 ちなみに上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(「古事記」では伊邪那岐命、「日本書紀」では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(「古事記」では月読命、「日本書紀」では月弓尊)であり、スサノウ(「日本書紀」では素戔鳴尊、「古事記」では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。 その他次のような記述がある。・ビッグバンさえ起こっていない紀元前3175億年に上古初代天皇が存在し、上古2代天皇の在位が320億年に達している(もっとも上古天皇では天皇の名前は世襲であり、1代=数十人だとしているが)。・「イスキリス・クリスマス(イエス・キリストとされる)の遺言」という「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」で始まる文書がありそれによると十字架上で死なずに渡来(ゴルゴダの丘で処刑されたのは、弟のイスキリと記する)、1935年8月初めに武内巨麿が青森県の戸来村(現在の新郷村)で発見した十来塚(武内巨麿が村長に書くようにいった)が「イスキリス・クリスマス」の墓であるすなわちキリストの墓として、モーセの十戒は実は表十戒、裏十戒であり、真十戒を天津教の神宝として天津教が所有し、天皇が、来日したモーセに授け、モーセの墓が石川県の宝達志水町に存在している。釈迦をはじめ世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えたことになっている。・世界には五色人(いついろひと。黄人(きびと、日本人を含むアジア人)、赤人(あかびと、ネイティブアメリカンやユダヤ人等に少し見られる)、青人(あおびと、肌が青白い。現在は純血種ほとんどなし)、黒人(くろびと、インドの原住民族やアフリカ人等)、白人(しろびと、白い肌やプラチナ、ブロンドの髪をしたヨーロッパ人))が存在していた。・皇祖皇太神宮が全世界の中心である。・3000年以上前の上古2代天皇の時代に16人の弟妹たちが全世界に散らばり、彼らの名前は今も知名として残っているという。その中には「ヨハネスブルグ」「ボストン」「ニューヨーク」といった名前が見られるが、これらの都市が建設されたのはかなり新しい時代である。・約3000年前の不合朝64代の時代に皇子31名と皇女43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。・不合朝69代神足豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没したとムー大陸やアトランティス大陸えお思わせる記述がある。
2009.03.12
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富士山のいわれ かぐや姫が月へ帰る時に、姫は帝に不死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈った。しかし帝は「かぐや姫のいないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は「不死の山」(後の富士山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになった。 かぐや姫が与えた難題 石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の子安貝」を持ってこさせるというものであった。どれも話にしか聞かない珍しい宝であり、手に入れるのは困難だった。 石作は只の鉢を持っていってばれ、車持は偽者をわざわざ作った職人がやってきてばれ、阿倍はそれは燃えない物とされていたのに燃えて別物、大伴は嵐に遭って諦め、石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って取ろうとして腰を打ち、断命。結局誰一人として成功しなかった。 由来の地 竹取の翁は、物語の中で「讃岐造(さぬきのみやっこ)」と呼ばれていたとある。ここから、物語においては大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町)に竹取の翁が居住していた、とするのが通説となっている。 ほかにも日本各地に竹取物語由来の地と名乗る地域があり、竹取物語をテーマにしたまちづくりを行っている。また以下の7市町では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されている。 ・静岡県富士市、奈良県広陵町、京都府向日市、香川県長尾町(現さぬき市)、岡山県真備町(現倉敷市)、広島県竹原市、鹿児島県宮之城町(現さつま町)
2009.03.11
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江戸時代の国文学者・加納諸平は「竹取物語」作中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、「公卿補任」の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物とあいて描かれる車持皇子は、最後の1人である藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書く事によって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。藤原不比等 歴史によれば藤原氏は8世紀、権力の掌握を目的に多くの政敵に血の粛清を加えて「藤原氏だけが栄える世」を構築し、藤原氏批判の書を焼き捨てる等の政策を繰り返したが、その中で表立っての藤原氏批判などが出来るようはずもなく、同時代に成立したと思われる「竹取物語」と言う物語の中に様々な工夫を凝らして藤原氏に対する批判が込められていたとしても不思議なことではない。 最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。紀氏は応天門の変(866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。 作中かぐや姫からもたらされた不老不死の薬のくだりがあるが、帝が「かぐや姫がいないこの世で永遠の命が必要であるか」と薬を富士山の火口で焼く一幕について、天皇家も藤原氏に利用される存在でしかないという帝の嘆きとは取らず、天人ががぐや姫を迎えに来る際、「穢き所」と地上を評する一文があることから、藤原氏により支配されてしまった世を嘆いている紀貫之の言葉と見る向きもある。 作中に登場する「天の羽衣」について、かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語り、人間を何がしか別種の存在へと変化させるのが「天の羽衣」の力であることを示唆する場面があるが、天皇家にも天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天羽衣」を着る儀礼習慣がある。 「竹取物語」のかぐや姫のモデルとしては垂仁天皇の妃、伽具夜比売(かぐやひめ)との関わりも指摘されているが、こちらは信憑性は薄い。また、かぐや姫の名からは大和政権がらみの天香具山との関わりが連想され、「「竹取物語」とヤマト政権の成り立ちとの関係を物語の中に伺うことも出来る。
2009.03.10
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竹取物語に似た外国の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」という物語があり、その内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似しているため、伊藤清司は「かぐや姫の誕生-古代説話の起源」で、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったと推測した。益田勝実は論文「斑竹姑娘」の性格-「竹取物語」とのかかわりで」で「金玉鳳凰」収載の「斑竹姑娘」の改訂過程への疑問と翻案説に賛成しない旨を記述した。奥津春雄は「竹取物語の研究-達成と変容」の第六章「斑竹姑娘と竹取物語」で論争収録と斑竹姑娘の成立経緯の推定(チベットに日本人から伝播)を行っている。 また、原田実は「トンデモ日本史の真相 と学界的偽史学講義」において物語の内容や伝承の経緯から「斑竹姑娘」のほうが「竹取物語」の翻案であるとの説を提示している。 かぐや姫・老夫婦・帝などは架空の人物だが、実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の公達のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。また、車持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋だっただろうと推定されている。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台に設定されたとされている。 主人公のかぐや姫も、垂仁天皇紀である迦具夜比売(かぐやひめ、大筒木垂根王の女)との関係や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられるなど、様々な説がある。 また、この時期富士山が活火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。
2009.03.09
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この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにも関わらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている。 竹中生誕説話において、竹は茎が空洞であることや成長の急激さにより神聖視され、説話の重要な構成要素の一つになっている。その特徴を顕著に示す話の一つが「竹取物語」であり同系列の昔話に「竹姫」、「竹の子童子」がある。竹中誕生譚は他の異常誕生譚に比べると事例が希であり、国内よりはむしろ中国や東南アジアに多い。「継子と笛」も継子の霊が竹になり、それで作った笛を父親が吹くと霊が自分の消息を伝える。日本の昔話では竹中の精霊は人間界に留まれないものが多い。竹は神の依代であると同時に呪力を持つとされていた。七夕の竹を畑に立てての虫除く、耳病に火吹竹をあてる等の風習が地方にはあり、また聖人の杖が根付いたり、呪言とともに逆さにした竹が成長したという神聖視する心意の伝説も多い。竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。「山姥と桶屋」では竹が妖怪・山父を追い払うが、「竹取物語」同様、竹説話は竹細工を行う人々がその伝播に関与していたと考えられる。 多くの要素を含んでいるため、他作品との類似性ないし他作品からの影響が指摘されている。竹取物語は、異界から来た主人公が貧しい人を富ませた後に再び異界へ去っていくという構造から成り立っており、構造的には羽衣伝説と同一である。このほか、中国の典籍(「後漢書」「白氏文集」など)との類似点も多数指摘されており、これらの影響を受けていると考えられている。 平安時代後期の「今昔物語集」にも竹取物語と同様の説話(巻31「竹取の翁、女児を見つけて養う語」が)が採集されているが、求婚者への難題は3題のみであり、月へ帰る夜も十五夜でなく、富士山の地名由来譚も登場しない、「竹取物語」より簡略された内容である。漢籍などを参照したと考えられ、完成した内容を持つ「竹取物語」とは異なり、今昔所収の説話は口頭伝承されてきた「竹取の翁の物語」の古態を伝えているのではないかと想定されている。
2009.03.08
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幼子を見つける竹取の翁 竹取物語は、日本最古とされる物語である。竹取物語は通称であり、竹取翁の物語ともかぐや姫の物語とも呼ばれた。成立年、作者とも不詳。仮名によって書かれた最初期の物語の一つでもある。 光り輝く竹の中から現れて竹取の翁の夫婦に育てられたかぐや姫の物語。「万葉集」巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌があり、この物語との関連が指摘されている。 成立年は明らかにされていない。原本は現存せず、最古の写本は天正年間(安土桃山時代)のものである。しかし、10世紀の「大和物語」、「うつぼ物語」や11世紀の「栄花物語、「狭衣物語」などに「竹取物語」への言及が見られ、また「源氏物語」「総合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。通説は、平安時代前期の貞観年間-延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。元々、口承説話として伝えられたものが「後漢書」や「白氏文集」など漢籍の影響を受けて一旦は漢文の形で完成されたが、後に平仮名で書き改められたと考えられている。 またこの説話に関連あるものとして「丹後国風土記」、「万葉集」巻十六、「今昔物語集」などの文献、謡曲「羽衣」、昔話「天人女房」、「絵姿女房」、「竹伐爺」、「鳥呑み爺」などが挙げられる。当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと思われる。 作者についても不詳である。作者像として、当時の識字率から庶民は考えられず上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語内容に反体制的な要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、」和歌の才能もあり、貴重だった紙の入手も可能な人物で性別は男性だったのではないかと推定されている。以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄などの作者説が唱えられているが、いずれも決め手に欠けている。
2009.03.07
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和気清麻呂像(和気神社) 道鏡事件は元を糺せば、藤原仲麻呂(後に改名して恵美押勝)の娘婿、淳仁天皇と孝謙上皇の勢力争いと考えられており、孝謙上皇は恵美押勝の乱(764年)鎮圧の後、淳仁天皇を廃して重祚し、称徳天皇となる。762年、道鏡が孝謙上皇の病を宿曜秘法で治し、それ以来、密接な関係があったと言われ、765年には道鏡は太政大臣禅師に、翌年には法王となって、欲が出たのではないか、とも推測されている。また、称徳天皇も道鏡を天皇に就けたがっていたとも言われ、報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流されることになる。 だが、道鏡失脚後、桓武朝で実務官僚として重用されて高官となった。平安遷都の建設に進言し自ら造宮大夫として尽力した。785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、788年(延暦7年)に上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に注ぐ工事を行ったが失敗している(大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、、「和気橋」という名称の橋がある)。 また、民部卿として民部大輔菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として選上した。子の広世・真網らは、父の没後に官人として活躍した。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。 1851年(嘉永4年)3月15日、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて正一位と「護王大明神」の神号を贈った。1874年(明治7年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、1886年(明治19年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。 配流先とされる鹿児島県霧島市にも和気神社がある。 なお、宇佐へ配流に際に猪によって難事を救われたとの伝説(北九州市小倉区など)から、護王神社・和気神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。戦前は、楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされ、紙幣(ろ拾圓券)に肖像(想像)が印刷された。現在でも忠臣とされ、東京都千代田区大手町の気象庁付近や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。
2009.03.06
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和気清麻呂(前賢故実) 和気清麻呂(わけ の きよまろ、733年(天平5年-799年4月4日(延暦18年2月21日)は奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。 769年(神護景雲3年)、神護景雲3年(769年)7月頃、宇佐の神官も兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位に就かせれば、天下泰平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宣阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。(続紀没伝) 称徳天皇は側近の尼僧法均を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を伺う(確認する)様、命じる。清麻呂は天皇の勅使として八幡宮に参宮。宝物を奉るり宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不信を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」(八幡宇佐御託宣集)を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告する。
2009.03.05
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遷都後間もない785年(延暦4年)旧暦9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどいかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。 種継は死後、桓武天皇により正一位左大臣が贈られた。
2009.03.04
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藤原種継(ふじわら の たねつぐ-天平9年(737年)-延暦4年9月24日(785年11月4日)は奈良時代末期の公卿。 藤原式家の祖宇摩合の孫で、清成の長子。母は渡来人系の秦朝元の娘。子に長男仲成、薬子、二男縵麻呂、四男世嗣、湯守、東子(桓武天皇第十二皇女甘南備内親王の母)がいる。 ・父:藤原清成 ・母:秦朝元女 ・妻:栗田道麻呂女 ・子:藤原仲成 ・妻:山口中宗女 ・子:藤原山人 ・妻:雁高佐麻呂女 ・子:藤原縵麻呂 ・妻:藤原縄主女 ・母不詳 ・子:藤原藤生、藤原世嗣、井出湯守、藤原薬子(尚侍)、藤原東子(桓武天皇後宮) 「続日本紀」では766年(天平神護2年)に従六位上から従五位下への昇進記事が初出で、同時に叙爵された人物に和気清麻呂がいる。2年後には美作守に、続いて近衛少将・紀伊守・山背守・左京大夫・下総守・左衛士督・近江守を歴任する。光仁天皇即位に尽力した式家の政治的な発言力が上昇するとともに、官位も上昇した。特に叔父である良継・百川の死後は、宇合の孫の中で最年長者であった種継が同家を代表する立場になった。桓武天皇の信任も厚く782年(延暦元年)に参議・式部卿、784年(同3年)には中納言となる。 784年、桓武は平城京からの遷都を望み、「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されていた種継は、山背国乙郡長岡への遷都を提唱した。桓武の命をうけ藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂らとともに長岡を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つに秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。
2009.03.03
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嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。9月10日、嵯峨天皇は使節を発して、伊勢、近江、美濃の国府と故関を固めさせる。その上で、仲成を捕えて右兵衛府に監禁し、仲成を左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大夫、紀田上は尾張守に任じられた。 9月11日、嵯峨天皇は密使を平城京に送り若干の大官を召致した。この日、藤原真夏、文室綿麻呂らが帰京したので、平城派と見られた綿麻呂は左衛視府に禁錮された。 嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵する決断をする。中納言藤原葛野麻呂ら群臣は極力これを諫めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。 平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。坂上田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征伐の戦友だった文室綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降1156年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約350年間一件も無い。 平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。 事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。高岳親王は皇太子を廃されて、代わって天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。なお、824年の平城上皇の崩御の際に、既に退位していた嵯峨上皇の要望によって淳和天皇の名によって関係者の赦免が行われている。
2009.03.02
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薬子の変(くすこのへん)は、平城上皇と嵯峨天皇とが対立した事件で、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。 なお、この乱の名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしていたものと考えられて「薬子の変」という名称が一般的であった。しかしながら、律令制度下の太上天皇制度が王権を分掌していることから事件が起きたという評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになっている。 806年、桓武天皇が崩御して皇太子であった安殿親王が即位した。平城天皇である。平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。だが、翌年には早くも天皇の異母弟伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。 809年4月、平城天皇は発病し、病を早良親王や伊予親王の亡霊によるものと考えた天皇は禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍藤原薬子とその兄藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に譲位して神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の子の高岳親王がなった。 810年、退位した平城上皇は旧都平城京へ移る。平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇がこれを怒り二所朝廷といわれる対立が起こる。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。 嵯峨天皇は3月に蔵人所を設置し、6月には観察使を廃止して参議を復活した。このことは平城上皇を刺激する。 二所朝廷の対立が深まる中で、9月6日、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であり、嵯峨天皇はひとまずこれに従うとして坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上らを造宮使に任命する。造宮使として嵯峨天皇に信任されている人々を送り込み牽制しようとしたと考えられる。遷都のことに人心は大いに動揺した。
2009.03.01
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