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子孫 ・三宅重利-明智秀満も息子。唐津藩士。光秀の娘が生母とされるが、定かではない。富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。 ・織田昌澄-光秀の孫にあたり、大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、子孫は旗本となる。 ・細川忠隆-細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。 ・細川忠利-細川忠興の三男。熊本藩初代藩主。 ・細川護熙-細川忠興の子孫で、肥後細川家18代目。第79代内閣総理大臣。 ・細川隆元・細川隆一郎-細川忠隆の子孫。細川隆一郎は隆元の甥。 ・明智ハナエリカ-歌手 ・明智憲三郎-光秀の子、於づる(おづる)丸の子孫。本能寺変後、明田に改姓、明治10年明智に復姓が認められる。著書「本能寺の変 427年目の真実」 光秀の長女・次女の系統まで含めれば末裔は少なくないが、熊本藩主の系統は養子を迎えたために光秀の血は途切れている。なお、自称明智氏の子孫で坂本城に由来するという坂本龍馬の坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。家臣 ・明智秀満 ・阿閉貞秀 ・肥田玄蕃家澄 ・斎藤利三 ・御牧兼顕 ・肥田帯刀則宗 ・妻木広忠 ・安田国継 ・肥田玄蕃助軌休忠政 ・溝尾茂朝 ・並河易家 ・明智光忠 ・伊勢貞興 ・進士作左衛門 ・木村吉清 ・松田政近 ・猪飼昇貞-与力 ・山崎長徳 ・藤多伝五郎
2009.04.30
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系譜 明智氏は「明智系図」によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。 源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶親兄弟 ・父:明智光綱 ・母:お牧の方(武田義統の妹) ・弟:明智信教 ・弟:明智康秀妻 ・正室:千草(山岸光信の娘) ・継室:妻木熙子(妻木城主・妻木範熙の娘) ・側室:伏屋姫(柘植城主・喜多村保光の娘)息子 ・嫡男:明智光慶-光秀の息子で唯一実在が確認されている。通称は十五郎。山崎の戦い後も生き延び妙心寺の住職・玄琳となったという説がある。 ・次男:筒井定頼-一説に筒井順慶の養子とされるが、定かではない。幼名は自然丸、通称は十二郎。 ・不明:南国梵桂-光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺(大阪府岸和田市)を建立した僧で、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。 ・不明:荒深光頼-幼名は乙寿丸。岐阜県にある光秀のものと伝わる墓所に碑文があり、それによると山崎の合戦後、生き残った光秀とともに美濃国へ戻り荒深氏を名乗ったという。 ・末子:喜多村保之-本能寺の変の半年程前に生まれ母方に引き取られた。幼名は内治麻呂、通称は弥兵衛。江戸町年寄になったとも伝わる。娘 ・次女:明智光忠室 ・三女:細川忠興室-明智珠(玉ともまたは玉子)。細川ガラシャの名で知れれる。三女説が有力であるが四女、次女とも。 ・不明:津田信澄室-一説に三女 ・不明:筒井定次室 ・不明:荒木村次室-明智秀満(明智光春)室-桜井松平家次室-名は明智倫子とされるが、定かではない。近年は革手が本名とされ、実際は明智光廉の娘で養女という説が有力とされる。 ・不明:松平忠正室-松平忠吉室-菅沼定盈室-名は明智綾乃とされるが、定かではない。近年は養女という説が有力とされる。縁戚 ・叔父:山岸光信-西美濃十八将のひとり。光秀の最初の妻の父。山岸氏の養子となった。 ・叔父:明智光安-光綱の死後は明智家を率い、義龍と道三の争いに道三に与して殉した。一説に明智遠山氏の養子となり遠山景行と称したとも。 ・従兄弟」明智光春-光秀の叔父・光安の子といわれるが定かではない。明智秀満と同一人物とされることが通説。 ・叔父:明智光久-明智城落城の際に死亡。一説に小里光忠と同人ともいう。 ・従兄弟:明智光忠-光久の子といわれるが、定かではない。 ・叔父:明智光廉-別名は三宅長閑斎。 ・叔母:小見の方-斎藤道三の正室、濃姫の母。 ・従姉妹:濃姫-織田信長の正室。光秀の従姉妹。 ・娘婿:明智秀満-重臣・三宅秀朝(または遠山景行)の子で光秀の娘をめとり明智姓を称した。別名は三宅弥平次、通称は左馬助。 不明:明智光近-光秀の従兄弟とも光忠の子ともいわれるが定かではない。山崎の合戦で片桐且元に討ち取られた。
2009.04.29
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補足 これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴りの記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。 ・光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大坂の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、「明智家法」には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。 ・2007年に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。 ・いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以や織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。 ・光秀は変の前に三回くじを引いたという逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。 ・「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。日光東照宮 陽明門随身像南光坊天海説 光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。異説の根拠として 1.日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。 2.日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「これを明智平と名付けよう」「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。 3.徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測 4.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進されたとされた石碑が残っていること 5.学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること 6.光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと 7.光秀の孫(娘の子)にあたる織田晶澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明) 8.テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。 9.「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの 等があげられている。 しかし、日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない。また、寛永寺の公式記録では会津出身とされており、実家とされる舟木氏も桔梗紋である。天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。比叡山の石碑に関しても後世の偽造との説も出ている。また、天海が明智光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する。)が生じる。また、諱についても秀忠の秀の字は秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院祟伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。 なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺~本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。
2009.04.28
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四国説 比較的新しい説とされるが、野望説と怨怨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。イエズス会説 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子「信長と十字架」)。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。この説を唱える立花京子の史料に扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。諸将黒幕説 織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。 秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際さが良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。 ・上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。 ・信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要がある。 ・長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽者説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外してもよいことになる。
2009.04.27
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野望説 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著「明智光秀」はこの説を採用している。 佐久間信盛の織田家追放を佐久間家の視点で描いた「佐久間軍記」には、追放の要因が何者かの讒言である可能性を示唆している。それが何者かについては、寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知って後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とある。光秀が讒言を行っていた場合、本能寺の変の理由の1つとして、謂れのない讒言であると明らかにされることを恐れたという可能性もある。恐怖心説 長年仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。あるいは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。将軍指令説/室町幕府再興説 光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断わりきれなかったのではないかとする説。朝廷説 「信長には内裏に取って代わる意志がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。 近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。朝廷又は公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。 一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。
2009.04.26
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光秀の謎キリシタン説 光秀が用いていた印章は、キリスト教に関する模様が使われている事が判明している。また、娘の珠や、組下大名(与騎)の高山右近と身近な人物にキリシタンが多いことから唱えられている説である。愛宕百韻の真相 愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。 光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐家出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。 しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。 ・なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。本能寺の変の原因 本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。怨恨説 主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。 ・信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に付き付けられた。 ・同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカン頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカン頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。 ・丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。 ・武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待料理を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。 ・中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹後国は召し上げにする、と伝えられたこと。 ・武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。 ・ルイス・フロイスも、信長が光秀を足蹴にした事があると記している。 桑田忠親は著書「明智光秀」で、独自の研究を基に「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
2009.04.25
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逸話 ・朝倉被官時代、有能さを朝倉直臣団に嫉妬され、そのため重く用いられなかったという。朝倉義景のもとを去って織田信長に仕えたのは、鞍谷副知なる者が義景に讒言し、それを信じた義景が光秀を冷遇したためとされる。 ・鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を打ち落としたという逸話もある。 ・「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当たりける」(明智軍記)。 ・他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。 ・婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた(しかし、この逸話については斎藤鎮実の妹で高橋紹運に嫁いだ妻の話に酷似しているため、後世の創作とされるが、光秀と親しかった京都吉田神社の神官吉田兼見の日記(「兼見卿記」)には光秀が重病のとき、煕子が兼見の屋敷を訪れ、光秀快癒のための祈祷を依頼したり、反対に煕子が床に付いたとき、光秀が病気平癒を兼見に頼んだことが書かれているため、光秀と煕子が仲が睦まじかったのは史実のようだ)。 ・愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで何度もおみくじを引き続けたと伝えられている。高野山奥の院の光秀墓所史跡 ・高野山奥の院に光秀の墓所があるが、何度補修してもよく亀裂が入るため、信長の呪いと地元で囁かれている。 ・三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円が大阪府大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽者・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町3丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。 ・桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて馬力をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智越光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという。 ・光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。 ・本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。 ・溝尾庄兵衛が、光秀の首を持ち帰ったとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には、明智光秀公首塚がある。
2009.04.24
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・「老人雑話」は、光秀の言葉として以下の言葉を紹介している。曰く、「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」。この言葉を光秀の合理主義の表れであるとする意見がある。高柳光寿は、著書「明智光秀」の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多い。また、信長の方も、例えば天正七年の丹後国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候・・・」と讃えている。「信長公記」には他にも似たような記述が少なくない。 ・天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われる。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺える。 ・ルイス・フロイスの「日本史」に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いには熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著「信長は謀略で殺されたのか」の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。 ・西近江で一向一揆門徒と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものである。このように家臣を大切にしたことから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さず、山崎の戦いでは劣勢のも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦いの敗北後、光秀を逃がすために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。 しかし、明智軍の将校の忠誠の向き(求心力)を考えるには、別の考慮も必要とする。 1.明智軍の多くは信長より預けられた与力であり、与力たちにとっての主君はあくまで織田信長であること 2.変後の有力支持者が殆どいないこと 3.変直後の明智軍内の混乱 これらの事情から、光秀自身の求心力よりは、織田信長に象徴される体制の持つ引力の方が強かったと見ることもできる。 明智光秀と上級将校たちは、明智軍全体を信長殺害の共犯者に仕立て、軍団員が引くに引けない状況を作り上げることを意図していた可能性もある。 ・光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在でも光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。 ・現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山市との混同を避けるため、明治2年改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。
2009.04.23
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谷性寺(こくしょうじ)に建つ祠山崎の戦い 光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった(山崎の戦い)。 決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍は1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)と言われている。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。 実際には、羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(おぐるす、京都市伏見区)で、落ち武者狩の土民(小栗栖の長兵衛)に竹槍で刺し殺されたとされる(三日天下)。 「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも言われている)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。辞世の句 ・「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」「明智軍記」 ・「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ」人物・評価 ・主君織田信長を討った行為については、当時から非難の声が大きく、近代に入るまで逆賊としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。 ・「明智光秀公家譜覚書」によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされる。 ・光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼和である。吉田兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。
2009.04.22
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織田家臣時代 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571年)頃比叡山焼き討ちで武功を上げ近江国の滋賀郡を与えられ、坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称した。 城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した、この功績によって近江滋賀郡および丹波一国を与えられ、丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって最重要ポストにあったことが伺える。 また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東官領になぞらえて「山陰・畿内官領」と呼ぶ者もいる。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。本能寺の変 天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。 光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになった。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなった。
2009.04.21
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明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。 正室は妻木勘解由左衛門範煕の娘煕子。2人の間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいる。生涯織田家仕官以前 清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は享禄元年(1528年)と大永6年(1526年)、また当代記の付記による永正12年(1515年)という説もある。場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もある。 青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕えた。なお、「永禄六年諸役人附」に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、13代将軍足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏・毛利氏には仕える寸前までいったとされる。「信長公記」には光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられていることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通じて織田信長に対し、京都に攻め上がって自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄弟であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。
2009.04.20
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松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれる。伝承 537年、新羅に出征するためにこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のために分かれる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら船を見送っていたが、別離に耐えられなくなり船を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがる。万葉集にはこの伝説に因んで詠まれた和歌が収録されている。 また肥前国風土記には、同様に狭手彦と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘に話が収録されている。こちらでは、別れた後狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまったという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、も一つの佐用姫伝説とされることもある。 なお、世阿弥作の能に、佐用姫伝説を取材した能(松浦佐用姫)がある。観世宗家に世阿弥自筆の能本が伝来していたものの、永らく上演されない廃曲となっていたが、2000年に26世観世宗家・観世清和によって観世流の正式の演目に加えられた。関連する地名など 唐津市の鏡山は、佐用姫が領巾を振って見送った山とされているため、領巾振山(ひれふりやま)という別称がある。同市和多田には、佐用姫が鏡山から跳び降りて着地したときについたという岩があり、巨大な足跡のようなくぼみがある。衣干山は、川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたことが名前の由来となっている。 鏡山山頂には佐用姫の銅像が、また道の駅きゅうらぎには、高さ十数メートルの佐用姫の白像がある。像は台座から上が常時時計回りに回転しており、1周20分ほどで厳木町を見渡している。加部島にある田島神社の境内社・佐輿姫神社は、佐用姫であったという石を祀っている。
2009.04.19
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碑文 碑文は三段から構成され、一段目は高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に広開土王の業績、三段目に広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。碑文では広開土王の即位を辛卯年(391年)としており、文献資料「三国史記」「三国遺事」では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。また、この碑文から、広開土王の時代に永楽という年号が用いられたことが確認された。辛卯年条の解釈 ここでは倭に関する記述のある二段目の部分について百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■新羅以為臣民。 そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。 なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残加羅新羅以為臣民。 そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となってしまった。 と解釈される事が多かったが、一部の学者からは異論も出ている。三国史記 百済本記391年八年、夏五月丁卯朔、日有食之秋七月、(高句麗)王(談徳)、師兵四萬、来攻北鄙、陥(石見)等十餘城、王聞(談徳)能用兵、不得出拒、(漢水)北諸部落、多没焉、冬十月、(高句麗)攻抜(開禰城)王田於(狗原)、脛旬不返、十一月、薨於(狗原)行宮。碑文改竄説 この記述に関しては、1884年に大日本帝国陸軍砲兵大尉の酒匂景信(1850年~1891年)が参謀本部に持ち帰り解読した、いわゆる酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者から、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が唱えられたことがある。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は百残新羅舊是属民由来朝貢而後以辛卯年不貢因破百残倭寇新羅以為臣民 百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。 という表記であって、「破百残」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、「日本書紀」、「三国史記」などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の広開土王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。 結果的には2005年6月23日に酒匂本以前に墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定し、倭が朝鮮半島に勢力を伸ばしていた事が証明される結果と成った。その他、倭について書かれた部分・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
2009.04.18
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このような南方での勢力拡張策とともに西側への進出も図っている。当時高句麗の西方にあった慕容氏の後燕国に使節を派遣するなど友好関係を維持したが、庚子年(400年)に後燕王慕容盛が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると、広開土王は後燕に対する反撃を敢行した。この時、遼東城を含めた遼河東岸地域を占領した。このほかにも、壬辰年(392年)には北方で契丹を征伐し、男女500人を捕えるとともに契丹の捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻した。庚戌年(410年)には東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡張し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。 また内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。癸巳年(393年)には平壌に9寺を創建して、先代の故国壌王にならって仏教を奨励した。在位22年にして412年に39歳で死去した。「三国史記」によれば諱は広開土王、埋葬地は伝えてうないが、広開土王碑の建てられた将軍塚・大王陵が王の墓地とされている。広開土王碑 1880年に集安で発見された碑石は、甲寅年九月廿九日乙酉(9月29日(旧暦)(414年)に息子の長寿王が広開土王の功績を称えて建立したものである。約1800字からなる碑文は純粋漢文で記されており、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史だけではなく倭が登場することから古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。広開土王碑文の墨水廓填本 広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王の業績を称えるために息子の長寿王によって414年に建てられた石碑である。好太王碑とも言われ、また付近には広開土王の陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、広開土王陵碑とも言われている。 1880年頃に清の集安の農民により発見され、翌年閏月山より拓本が作成された。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な漢文での記述となっている。風化によって判読不能な箇所も存在するが、辛卯年(391年)条の倭国関連記事の干支年が「三国史記」などの文献と1年異なることを示すなど、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料となっている。広開土王碑は現在吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。1961年、洞窟溝古墳群の一部として、全国重点文物保護単位に指定された。
2009.04.17
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広開土王(こうかいどおう、374年-412年)は高句麗第19代の王(在位:391年-412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国譲王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。広開土王の名は「三国史記」によるものであるが、広開土王碑文によれば正式な廟号は国岡上廣開土境平安好太王といい、中国や日本では好太王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。また、中国史書(「北史」など9では句麗王安として現れる。 王の即位年について、広開土王碑文では前述の通り辛卯年(391年)とするが、「三国史記」高句麗本紀や同書・年表、また、「三国遺事」王暦においては壬辰年(392年)の即位としており、1年の差異が見られる。治世 諱が示すとおりに高句麗の領土を拡張させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから積極的な攻勢を取った。壬辰年(392年)には石硯城を含めた10城を奪取し、関禰城を陥落させた。甲午年(394年)には水谷城を築き、乙未年(395年)には現在の礼成江まで侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。丙申年(396年)には漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。 しかし丁酉年(397年)、百済の阿辛王が王子腆支を人質として倭に送って通好し、(399年)には百済が誓いを違えて倭に通じ、新羅は倭の侵攻を受けていた。このため庚子年(400年)に歩騎五万を派遣し新羅を救援した。このとき新羅の王都は倭軍に占領されていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで追撃した。ところが(402年)、新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する。甲辰年(404年)になると帯方界にに倭軍の侵入を受けるが撃退した。丁未年(407年)には百済に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。
2009.04.16
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銘文の解釈 この銘文は、まず彫られた場所からして「表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれ」などの説があり、その内容も「百済王が倭王に献上した」、あるいは「百済王が臣下たる倭王に渡した」などとさまざまに解釈されている。 当時、百済と倭国との間に交渉があり、百済から倭国へ贈られたことは確実である。多くの場合は日本書紀・三国史記等の史書に百済が倭に対して朝貢し人質を献上していたと記述されていることを参考にして、百済からの献上品であるという説を採る。 銘文の冒頭には「秦■四年」の文字が確認できる。これを「秦和四年」のこととして、東晋の太和四年(369年)に鋳造されたと解釈するのが通説であるが、異論もある。日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があり、百済から倭国へ献上された年が372年にあたるため、これと同一のものであろうと考えられている。「日本書紀」の記述 「日本書紀」神功皇后52年 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条に、百済使久氏らが、千熊長彦を従えて七枝刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、および種々の重宝を奉った。そして「自分の国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行ってもつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝に奉ります」と言った。との記述がある。なお、この時同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説がある。この鏡は、丸い突起が同心円上に七つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、1875年(明治8年)大雨で崩れた大仙陵古墳(仁徳天皇)から発掘されたものとされるが、年代的に疑問もある。 なお、吉野裕子は、自著「陰陽五行と日本の天皇」の中で、仁徳天皇と石上神宮との関係を推測し、難解な以下の「古事記」中巻歌謡48を、皇子時代の仁徳天皇が七支刀を佩用していた様を吉野の国主達が歌ったものと推測している。本牟多能 比能美古意富佐邪岐 意富佐邪早波加勢流多知 母登都流藝 須恵布由 布由紀能須加良賀志多紀能 佐夜佐夜品陀(ほむた)の日(ひ)の御子(みこ)大雀(おおさざき)大雀(おおさざき)佩(は)かせる大刀(たち)本(もと)つるぎ末(すえ)ふゆふゆ木(き)のしからが下樹(すたき)のさやさや国宝指定 1953年、国宝指定された。所蔵は石上神宮。基本的に非公開であるが、近年では2004年、奈良国立博物館で公開されたことがある。復元 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館と奈良県東吉野村の刀匠の手によって七支刀が復元制作されている。1980年と2005年の2回製作法を変えて行われた。2005年のものは鋳造し890度の炉、6時間処理したものである。
2009.04.15
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七支刀のレプリカ 七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣。全長74・8cm。 明治時代初期、当時の石上神宮大宮司菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いている。「日本書紀」には七支刀との記述があり、4世紀に百済から倭へ贈られたものとされ、関連を指摘されている。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭司的な象徴として用いられたと考えられる。朝鮮半島と日本の関係を記す現存最古の文字史料であり、広開土王碑とともに4世紀の倭に関する貴重な資料である。 その裏表にあわせて61文字からなる銘文が金象嵌でほどこされている。しかし、鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。銘文 ・表・泰■四年十■月十六日丙午正陽造百練■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作 ・裏・先世(異体字、口人)来未有此刀百済■世■寄生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世解釈 ・表・泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 ・裏・先世以来未有此刀百済■世■寄生聖音故為倭王旨造■■■世 なお2005年における研究では、次のとおり発表されている。 ・表「泰和四年五月十六日丙午正陽造百錬■七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」 ・裏「先世以来未有此刀百済王世■寄生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」
2009.04.14
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長屋王邸 昭和61年から平成元年にかけて、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年に奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡(長屋王木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した。長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、約30,000平方メートルを占めていた。出土した木簡などの遺物は奈良時代の生活を知る貴重な遺産となったが、地元や研究者の反対にも関わらず遺構の多くは建設により破戒された。現在はイトーヨーカドー奈良店として利用され敷地の一角に記念碑が設けられているのみである。長屋親王説 長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったkpと、「日本霊異記」の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば本来親王は天皇の皇子または天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗れなかったとされる。 ともあれ、前述の5万点に及ぶ出土木簡の、「長屋親王宮」や「大命」の記載は、王家の生活や経営の実態とともに、皇親としての謎にせまるものとして、解明が待たれる。逸話 ・「日本霊異記」では身分の低い僧を牙笏で打ち据えるような傲慢な人物として描かれており、そのために仏罰が下って滅ぼされたとしている。 ・長屋王邸から出土した木簡から、氷室を所有し、夏に食していた事が判明した。 ・地元の人たちは、そごうが倒産したのは長屋王の呪いによるものだと噂した。血縁 ・父:高市皇子 ・母:御名部皇女 ・弟:鈴鹿王 ・妹:河内女王・山形女王 ・妃:吉備内親王-草壁皇子と元明天皇の娘 ・男子:膳夫王:桑田王-子孫は高階氏:葛木王:鉤取王 ・妃:藤原長娥子-藤原不比等の娘 ・男子:安宿王-子孫は高階氏:黄文王:山背王 ・女子:教勝 ・妃:智努女王 ・女子:円方女王 ・妃:安倍大刀自 ・女子:賀茂女王 ・妃:石川夫人長屋王の子孫 後裔氏族に高階氏がある。高階氏は天武系では、伯父の舎人親王系の清原氏と共に長く血統が続いた数少ない後裔氏族でもあった。 ・高階貴子・高階成章・高階泰経・高階栄子(丹後局)・高師直・高師泰
2009.04.13
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長屋王の変 このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、舅と娘婿の関係であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が対立すると、その対立が露になってきた。 神亀6年(729年)2月、漆部造君足(ぬりべのみやっこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやっこのむらじあずまほと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合(ふぃじわらのうまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺させ服毒自殺した。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏の安積親王しか男子がいなかった。政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。 王の没後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天然痘により天平9年(737年)4人とも死没してしまったが、これは王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたらしい。なお、「続日本紀」によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。「続日本紀」に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
2009.04.12
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長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)?-神亀6年2月12日(729年3月20日)は、奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。 天武天皇13年(684年)誕生説が有力であるが、懐風藻の記事にもとづき天武天皇5年(676年)とする説もある。父は天武天皇の皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に近い存在であった。 長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。 霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が死去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に没すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。 当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が「懐風藻」に収録されている。なお「懐風藻」にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。
2009.04.11
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延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、蝦賊(蝦夷)の討伏を報じた。 いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。 延暦23年(804年)に再び制夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし、延暦23年に藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。 戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列した。大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。 平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇についた。子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を激撃する任を与えられた。このとき田村麻呂は、身柄を拘束されていた文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。 田村、麻呂は弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は、京都市山科区の西野山古墳と推定される。田村麻呂伝説 後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、しだいに膨らんで歴史上の田村麻呂とかけ離れた人物と筋書きを生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま)(説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ。諸処の説話を集成・再構成したものとして、「田村草紙」などの物語、謡曲「田村」、奥浄瑠璃「田村三代記」が作られた。また、江戸時代の「前々太平記」にも収録される。 田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治をはたし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県の清水寺には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。
2009.04.10
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坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。 中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として制夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。 父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。 子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。生涯 田村麻呂は、天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した。 田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(791年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については「類聚国史」に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿巳下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい。
2009.04.09
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漢王朝との関係 東漢氏の「漢」が「後漢帝国」に由来するかであるが、伝説は伝説でしかない。系譜などから東漢氏は奈良時代になって漢王朝との関係を創作し権威づけを行っていったことがわかる。「続紀」には東漢氏の渡来に関して「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れて朝鮮に移住したことや氏族の多くが才能に優れて朝鮮で重宝されていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたという伝承が記載されている。待遇 阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。 「掬」の代に東漢直姓を賜った。技術者として 技術的には東漢氏はそれ以前から先進技術をもっていた秦氏の新羅系精銅・製鉄技術よりさらに新しい百済系の製鉄技術をもたらしたと考えられている。文人として 東漢氏の一族には東文氏があり、文人としての官人をも輩出している。七世紀から八世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を多く輩出するなど、計数に明るい一族で高度な数的管理能力を持っていたと考えられる。武人として 東漢氏は蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。祟峻天皇暗殺の際にも東漢氏の「東漢駒」が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分って生き残り、奈良時代以降も武人を輩出しつづけた。そして平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。東漢氏と坂上氏 東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上直姓初代坂上直志努の兄で東漢直山木の曾孫である東漢直駒が祟峻天皇の妃である河上姫と不倫関係となり、蘇我馬子の指図もあって天皇を暗殺したが、その結果、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志努の系統である分家坂上氏にもたらされたという。 ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上初代とされる志努の子で坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖にあたる坂上直駒子に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分った理由は蘇我馬子の命令を忠実に果たした坂上駒子を蘇我馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。 そのため、坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の東漢直禰波芸伎が継ぎ、東漢直角古、東漢直久禰、東漢直福因と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行し、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上したと日本書紀に記されている。 ・東漢氏から出た諸氏:坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、文氏、調氏、文部氏、谷氏、民氏、佐太氏など。
2009.04.08
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東漢(やまとのあや)氏は、「紀・記」の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を始祖とする帰化系氏族集団である。 「古事記」には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中には「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と。「日本書紀」応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。 東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。 阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点としたことから東漢氏となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏となった。両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。 つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説がから「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。 また、東漢氏の技能と百済の先進技術との関係であるが、「書記」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽禰」と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という名称そのものが元来から百済にあった可能性も考えられる。 くわえて東漢氏系といわれる「七姓漢人」という氏族集団があり、その姓に「高」「段」があることから、「高」は「漢高安茂」に由来し、「漢氏出身の高安茂」と読み、「高」が氏で「安茂」が名である可能性も考えられる。また、「段陽禰」の氏は「段氏」であろうから、「七姓漢人」は、上記の百済から派遣された「漢高安茂」、「段陽禰」に由来する一族と考えても差し支えはないと思われる。 注:「七姓漢人」とは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓からなる東漢氏系の氏族。 参考:門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。
2009.04.07
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八色の姓(天武天皇制定)では忌寸の姓を賜り、その後、忌寸のほか、公、宿禰などを称する家系であった。 平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある。また、高僧を含めて僧侶ににも秦氏の出身者が、あまたいる。秦氏が創建に関係した主な神社・寺院神社 ・松尾大社 ・伏見稲荷大社 ・木嶋坐天照御魂神社(蚕の社) ・大避神社寺院 ・広隆寺
2009.04.06
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秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分っているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を筑堤する際に協力したとされ、現在の熱田神宮が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある。そして、伝秦河勝墓ほこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。 秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。 「隋書」「巻八十一 列伝第四十六 東夷 倭国」に「又至竹斯国又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海付近?)が紹介されているが、これを秦氏と結び付ける考えもある。また佐伯好朗は1908年(明治41年)1月、「地理歴史 百号」に収載の「太秦(兎豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえ、またルーツを古代イスラエルに求めたり、八幡神(やはたのかみ)信仰の成立に深く関わったと考える人もいる。実際、景教が中央アジアの古代遊牧民国家や中国に与えた影響は非常に大きいため、今後さらなる研究が待たれる。
2009.04.05
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秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確ではない。 日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれは秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に氏族の符氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。 ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。また、俗説の一つには、ハッティー(ヒッタイト)からきているというものもある。 その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。
2009.04.04
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磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林家辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト政権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重くなり、その不満が具現化したものと位置づけた。 これに対して、「日本書紀」に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は「古事記」に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入って坂本太郎・三品彰英らから出された。ただし、それらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったため、乱の意義に着目した研究が続けられ、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける考えが、多くの研究・検証の結果、通説となった。 1970年代になると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト政権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は、古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト政権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。 1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト政権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。 一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人籍馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が次第に判明するに従って、それらの九州広域文化圏を磐井の乱と関連づける議論がなされるようになっている。 当時、北九州にはすでにヤマト政権とは別個の(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったする説(九州王朝説)がある。この説は、当時の日本においてヤマト政権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト政権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。
2009.04.03
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磐井の乱とは、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト政権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された叛乱または王権間の戦争。この叛乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ「日本書紀」に限られているが、「筑後国風土記」逸文(「釈日本紀」巻13所引)や「古事記」(継体天皇段)、「国造本記」(先代旧事本記」巻10)にも簡潔な記録が残っている。 なお、「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また「古事記」には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、叛乱を思わせる記述がないため、「日本書紀」の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。 真偽は定かでないが「日本書紀」に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。 527年(継体21年)6月3日、ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。 磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。}と言ったとされている。ヤマト政権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。 528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト政権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、「筑紫国風土記」逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。 乱後の529年3月、ヤマト政権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。 以上のはか、「筑紫国風土記」逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。また、「古事記」は、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(あらかい)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。「国造本記」には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。
2009.04.02
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4月9日、用明天皇は崩御した。 守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫(推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。 7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子(推古天皇の皇子)、厩戸皇子(聖徳太子)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に務めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。 迹見赤槿が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。 守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。 厩戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。先代旧事本紀 第五巻天孫本紀では物部尾輿の子で物部大市御狩連の弟、弓削大連とも、池邊隻規宮天皇(用明天皇)の時に大連となり神宮の斎となったとある。 第九巻帝皇本紀では用明天皇が9月5日に即位した際、物部弓削守屋連公を大連また大臣とし、用命天皇2年夏4月2日磐余河上の新嘗祭に病で帰った用明天皇が三宝を敬うことを検討するよう家臣にいったさい、中臣勝海連とともに国神に叛き他神を敬うことはできず聞いた事もないと反対したとある。 しかし上記は藤原不比等らによっての日本書紀の改竄によるものであると言う説もある。妹 ・「日本書紀」では蘇我馬子の妻 ・「紀氏家諜」・「石上振神宮略抄」神主布留禰系譜料では「太媛」といい蘇我馬子の妻。 ・「先代旧事本紀」天孫本紀では同母妹の布都姫といい物部守屋の異母弟の石上贄古大連と結婚し物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)の母である。大阪府八尾市の大聖勝軍寺近くにある物部守屋墓
2009.04.01
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