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比叡山は、京都市と滋賀県との境にそびえる山です。古来、王城鎮護の霊山として有名です。大学は鴨川のそばにあり、毎日比叡山を仰ぎ見て学びました。比叡山の東の中腹に天台宗の総本山延暦寺があります。延暦寺は平安京の北東方向、即ち鬼門に建てられました。伽藍は、東塔、西塔、横川の三塔に分かれます。最澄が延暦寺を築いてから1200年です。 弁慶は、実在の人物で鎌倉幕府の記録文書、吾妻鏡に義経の家来達の中の一人として、名前が出ていますが、それほど活躍はしなかったようです。幼名は鬼若丸、熊野の別当の子といいます。延暦寺西塔の武蔵坊いました。源義経に仕えて武名をあげ、義経の没落に際しても忠実に随行、安宅の関に危難を免れさせ、後に衣川の戦に討死したとされます。これは、室町時代に完成した「義経記」に書かれていることです。その後、謡曲や歌舞伎と時代が新しくなるにしたがって、弁慶の活躍の話がふくれあがっていったのです。
January 31, 2005
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メール、ブログによる交流のなかった時代は、手紙と切手による文通がはやっていました。便箋に書かれた美しい字・下手な字やはられた切手を見るだけでも、 ペンパルの人柄やセンスが何となく頭に浮かんできました。しばらくすると、自分の写真を送ったり、その地方の絵葉書を送ったりしました。手紙は2~3日しないと相手に届かないので、その頻度は月に1~2回程度です。男性と女性、女性と女性のパターンがほとんどでした。お互いの年齢は、同じぐらいの人に決まっていました。手紙の友達は、メールに比べると、比較的長く続く傾向がありました。そして、お互いに彼氏、彼女が出来たり、受験期を迎えたり、卒業し社会人になったりすると、自然に終了していくのが普通でした。 それに対して、 メール、ブログによる交流は、性別、年齢差はまるで関係がありません。何かのテーマに関しての短い内容の文章でも、簡単に書いて送ることが出来ます。顔が見えないので、お化粧・服装なども関係がなく、女性はすべて美しい人に思えます。住所なども特定されず、誰かわからないだけに、その人の日常生活の本音が書かれた文章が多いようです。週刊誌の女性の告白やアンケートなどは、その道のプロが読者の興味を引くように、面白おかしく作り上げて書いたものが多いのです。 さて、これからブログがどのように発展していくのかまだよくわかりませんが、大きな可能性、手ごたえを感じます。
January 30, 2005
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今の有線放送は、かっては大阪有線放送と言いました。その頃、富山に住んでいながら、インターネットで地球の裏側から送られてきたHPを眺めたり、有線放送で東京、大阪、名古屋のラジオ番組を聞いたりすることができました。毎日、ニッポン放送の竹村健一のズバリジャーナルを聞くことができました。 Tokyo FM 、FM Yokohama、J-Waveなどの交通渋滞のニュースを聞くのが好きでした。「首都高速六号線で渋滞五km............」などを聞いていると、まるで東京に住んでいるような気分になっていたからです。ところが、1999年12月1日から、番組が大幅に改編され、国内のラジオ放送が入らなくなってしまいました。これは、多分それまではラジオ局に契約料を支払わずに有線で放送を流していたのです。有線放送で、東京・大阪の放送が、そのまま聞ける富山での生活が結構気に入っていたのに残念なことです。 今でも、読売新聞の富山版を見ると相変わらず、TBS、文化放送、ニッポン放送、ラジオ日本などの番組内容を紹介しています。「なぜ、聞こえもしないラジオ番組を新聞にのせているのですか?」と電話で新聞社に聞いてみました。「さあー、東京に出張する方が、ラジオ番組欄を見るのですかね?」とほとんど聞くのが無駄な答えでした。
January 29, 2005
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蓮華王院本堂とは、東山七条にある三十三間堂のことです。内陣の柱が、三十三あります。本堂の外縁では、古儀「通し矢」が、寒い成人の日に行われています。軒下を利用して、矢を南端から北端までの間、約120mを射抜く競技です。学生時代に、クラブ活動で何度か行きました。 三十三間堂は、後白河法皇の勅願により、平清盛が私費を投じて建立したものです。堂内にある多数の千手観音像が有名です。群像の美と個性ある像の美が融合した複合美の空間です。また、ここは、宮本武蔵が吉岡伝七郎と決闘した場所としても知られています。大河ドラマ・武蔵で見た迫力ある決闘シーンが思い出されます。
January 28, 2005
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大江戸線・大門駅から増上寺へ向かって、まっすぐ歩いてゆくと、ビルの間に大門が見えてきます。江戸時代、この道は増上寺の参道だったのです。漢方専門薬局の前に、腎気丸の黄色の看板が見えます。都会のオアシス・芝公園には、ペリーの胸像がありました。増上寺には、二代将軍秀忠公、正妻お江の方をはじめとして、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の六人の将軍、皇女和宮様ら五人の正室、5人の側室などが埋葬されています。外国人以外は、訪れる人は少ないようでした。 裏の墓地を抜けて、坂道を登ると、東京タワーです。近くに行ったのは修学旅行以来初めてです。タクシーで、六本木ヒルズに向かいました。もはや、ブームは去ったのか、大混雑はありませんでした。子供が圧死した回転扉は、固く閉ざされ、線香の煙が立っていました。毛利庭園の池には、生まれたばかりのカルガモの子供が数匹いました。池の周りには、風格のある古木があり、ここは江戸時代には、毛利家の屋敷のあったところです。 これは昨年6月の話です。12月~2月は冬で、今のところ何も予定はありません。春になると、3月神戸、4月横浜、5月東京と予定が続きます。いつも東京では、品川の高輪プリンスホテルに泊まります。たまに、隣のパシフィックホテルのスカイラウンジに行くことがあります。ビールを飲んで、ジャズなどの音楽演奏を聞いたりします。ライトアップされた東京タワーがすぐそばに見え、少し酔いがまわると、とても優雅な気分になれます。
January 26, 2005
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かに(蟹)の美味しい季節です。ずわい蟹は、クモガニ科の大形のカニです。漁期は昨年の11月6日~3月21日までです。島根県以北の日本海、およびベーリング海に分布し、200mぐらいの深さに集団で生活します。約60kmの沖合いで底引き網で獲ります。 食べるのは雄です。山陰では、松葉ガニと呼ばれ、福井では、越前ガニと言います。雌は小さく、雄の約二分の一です。甲は丸みを帯びた三角形で、暗褐色または黄灰色ですが、鮮度を保つため捕獲されると、すぐに、ゆでられ淡い橙色となります。ずわい蟹は、北陸地方の重要水産物です。雌は、富山ではコウバクガニ、福井ではセイコガニとも呼ばれますが、資源を守るため捕獲されてもすぐ海に戻されます。卵は雌の腹部に付着して発生がすすみ、ゾエア幼生になって卵から孵化し、浮遊生活をしながらメガロパを経て幼ガニになります。何回も脱皮し、そのたびに成長していきます。 富山湾の蟹は、ずわい蟹より小型の紅ズワイガニです。1000m~2000mの海底に生息するため、船からかごを降ろす「かご漁」が行われます。かごの目は、粗く小さい蟹は、脱出できるようになっています。
January 25, 2005
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鞍馬寺は、京福電鉄鞍馬駅から歩いてすぐです。仁王門の左奥に由岐神社があります。鞍馬寺の本尊は、平安京の北方を鎮護する毘沙門天です。毘沙門天は須弥山の中腹北方に住し、夜叉・羅刹(ラセツ)を率いて北方世界を守護し、また財宝を守るとされる神です。牛若丸は鞍馬天狗に剣術を習ったといわれています。木の根道を登り、義経殿~奥の院~貴船神社に至るハイキングコースが整備されています。 毎年、10月22日は、京都の時代祭りです。この日の夜に催される鞍馬の「火祭り」が有名です。多数の人々が、五mにも及ぶような大松明を担ぎながら「サイレイ、サイリョウ」の声を掛け、鞍馬街道を鞍馬寺の山門前にやってきます。京都の三大奇祭の1つです。
January 24, 2005
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土曜日の夜は、TBSのブロードキャスターを見ます。ツタンカーメン王のミイラが2005年1月5日、調査チームによって一時的に墓から取り出され、CTスキャンにかけられたニュースは衝撃の映像でした。15分間のCTスキャンで撮影された1700枚の写真から、骨格を3Dで詳細に見ることができます。ツタンカーメン王は、3300年前、推定では18歳で死亡したとされます。日本では縄文後期にあたります。クレオパトラの自殺はそれから300年後のことです。未盗掘のツタンカーメン王の墓が見つかったのは1922年でした。当時は20世紀最大の発見でした。今回見た王のミイラは、全身が炭化し、かなりいたんでいました。正月のNHK・「シルクロード」で見た、楼蘭で発見されたミイラの保存状態はすばらしく完全なものでした。 ところが、1月21日、早稲田大学吉村隊は、ツタンカーメンよりさらに300~500年前の、未盗掘の最古級のミイラを発見したとのことです。
January 23, 2005
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ジェームス・スキナーの、『夢を現実化させる成功の9ステップ』(幻冬舎)を読みました。 9ステップとは? 1.. 決断が必要 2.. 学習能力、時代の流れをつかむ 3.. 健康 4.. 感情コントロール、消極的な気持ちの切り替え 5.. 目的を明確に(目標設定)、計画(時間管理) 6.. 思い切った行動 7.. アプローチの改善 8.. 柔軟性 9.. リーダーシップ(力の結束)とコミュニケーション ジェームス・スキナーは、「7つの習慣」という本を翻訳し、大ベストセラーとなっています。彼の指導や研修を導入している組織はマイクロソフト・トヨタ自動車・NTT・IBM・日本電気・三菱電機・ソニー・ヒューレットパッカード・ローソン・マクドナルドなどなど超大企業がずらり並んでいます。
January 22, 2005
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義経紀行・三都物語とは京都、鎌倉、平泉のことです。わたしは、学生時代に京都に住んでいました。その後、関東に住んでいたので、鎌倉にもよく遊びに行きました。六波羅とは、京都鴨川の東、五条と七条との間の地をいいます。平家一門の居宅六波羅殿があったところです。今は、その面影はありません。承久の乱後、この地に北条氏が六波羅探題を置いたことは高校の歴史で習いました。六波羅探題とは、鎌倉幕府が京都守護に代って六波羅に置いた機関です。朝廷の監視および尾張・加賀以西の諸国の政務・裁判を総轄するため、北・南に分れて駐在しました。承久の乱後、北条氏一門から選任され、大事は鎌倉の指揮を受け、小事は専断しました。 六波羅蜜寺は、京都市東山区にある真言宗の寺です。963年(応和3年)空也の創建と伝えられます。空也の六斎念仏を歴史で習いました。宝物館では、鎌倉時代制作の定朝作の地蔵菩薩をはじめ、空也上人像、平清盛像、運慶像、湛慶像など重文の仏像をたくさん拝観できます。 大河ドラマのあとの義経紀行は、わたしがもっとも楽しみにしているものです。今後、テレビの放映にあわせて、鞍馬寺・比叡山・五条大橋などと続く予定です。
January 21, 2005
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宮島(厳島)は、松島、天の橋立とともに、日本三景の一つです。訪れたのは学生時代でした。受験生の時に習った歴史を目で見る紀行のはじまりです。 太政大臣となった清盛は京都から宮大工を集め、仁安3年(1168年)より厳島神社の造営を開始しました。寝殿造りの神社の完成までに数年かかりました。その後、改築したのは毛利元就です。海の神の名のもとに建てた清盛の別荘でもあったといわれています。平氏一門の氏神です。1164年に奉納された平家納経は、全32巻のお経で、それに清盛の願文を加えた33巻が国宝に指定されています。神社内の宝物館には他にも絵扇や小型調度類、鎌倉時代以降の甲冑・刀剣類、 桃山時代の染織品、江戸時代の絵馬など平家ゆかりの美術工芸品が多数収蔵されています。
January 19, 2005
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富山県にも世界遺産の1つがあります。庄川の上流にある「五箇山の合掌造」です。五箇山は岐阜県との境の谷にあります。平家の落武者の子孫がかくれ住むところと伝えられ、江戸時代には加賀藩の保護を受けて火薬を製造しました。また加賀藩の流刑地でもありました。五箇山最大の合掌造は260年前に作られた岩瀬家です。村上家は約400年前に作られたものです。毎年夏には、五箇山の利賀村で世界演劇祭が開かれてきました。 利賀村は選挙の投票率がほぼ100%の村としても知られていましたが、市町村合併で南砺市利賀となりました。
January 18, 2005
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清盛は、大病して運良く命を長らえましたが、1168年出家し京を離れ、福原の別荘にしりぞきました。福原は、奈良時代、行基が港を開いた場所です。福原はその昔、大輪田の泊りといいました。淀川の河口は浅瀬で、宋の大きな船は通れませんでした。そこで、1173年清盛は大輪田の泊まりの修築工事を行い、そこで宋の船の荷をおろし、小さな船に荷を移しかえて、京に荷物を運ばせたのです。 そして、清盛が、都を福原に移したのは、1180年のことです。 福原は、今は神戸市兵庫区です。大輪田の泊まりは神戸港です。阪神大震災から10年がたちました。3月に、神戸に行く予定です。
January 17, 2005
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魚へんに雪と書いてたら(鱈)と読みます。マダラの体形は腹部がふくれ、尾部に向かって細くなります。背面は淡灰褐色で腹面は白く、体側に多くの不定形の斑紋(はんもん)があります。北日本以北のやや深海に分布しますが、冬になり水温が下がると富山湾の浅い所でも獲れるようになります。日本近海の他、近似種が北大西洋に分布して、北欧などの重要な魚類の一つとなっています。やわらかい身と淡白な味が特徴です。北欧では、ブイヤベース、グリル、ソテーなどさまざまに料理されます。干だら・タラでんぶ・棒だらなどの加工品にもされます。肝臓からは肝油がとれます。卵巣は眞子で精巣は白子です。白子の見かけは、脳みそのようです。 スケトウダラは、日本海側では富山湾が南限で深層の寒冷水の中にいます。夏に獲れ浜茶屋でタラ汁にしてだされます。太平洋側では東北以北の深海に分布します。主にすり身・練製品材料として広く利用されます。体はマダラより細長く、腹のふくらみがありません。スケトウダラを韓国ではメンタイ(明太)といいます。その卵巣がたらこです。九州は韓国に近く、明太子といいます。博多の「辛子めんたい」は全国的に有名です。富山では紅葉子(もみじこ)ともいいます。
January 15, 2005
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高岡市伏木は、大伴家持の時代には越中国庁があったところです。伏木と新湊市六渡寺を結ぶ渡し船が「如意の渡(わたし)」です。その当時、庄川は下流で小矢部川と合流していました。合流後は、射水川と呼ばれていました。 如意の渡は、源義経が1187年(文治三年)、奥州に落ち延びる際に通ったと言い伝えられている渡船のことです。渡し守に正体を見破られそうになり、嫌疑を晴らすために弁慶が扇で義経を打ちのめしたのです。歌舞伎の「勧進帳」の原型になったといいます。 しかし、安宅の関などと比べ、その知名度はいまひとつです。
January 14, 2005
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本日、TBSラジオで聞いた月尾元教授の2005年の日本を知る10のキィワードです。 竹村健一の講演会の題名は、いつも「これからの日本」の話です。話は日本を取り巻く国際情勢が中心です。内容予測では、これからの日本は前途多難です。しかし、月尾元教授の話では明るい話題も含まれています。さて、どのような2005年になるでしょうか。キィワードに注意して新聞・ニュースを見ていきましょう。 1.リサイクル 2.燃料電池 3.環境税 4.ペイオフ 5.知的裁判 6.道州制 7.人口の減少 8.ユニバーサルデザイン 9.ユビキタス 10.中国経済
January 13, 2005
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二十四節気の一つ小寒は、太陽の黄経が285度の時で、太陽暦の1月5日でした。大寒は、太陽の黄経が300度の時で、陰暦12月の中(チユウ)で、太陽暦の1月20日に当ります。2月の立春までは、1年でもっとも寒い頃です。今は積雪15cmです。庭に植えられたセンリョウが、雪にもまけず、つやつやとした葉を茂らせ赤い球形の実をつけています。正月に門松を飾る家は、だんだん少なくなってきましたが、センリョウ(千両)は、商売繁盛を願って正月に飾られる花です。センリョウは、センリョウ科の常緑小低木です。本州の伊豆・東海道・近畿地方、四国、九州の湿った山間に生えますが、最近は観賞用に広く栽植されています。高さ0.5~1mです。葉は対生し柄があり、長卵形で先はとがり、縁に鋭い鋸歯があります。夏、枝先に淡黄緑色の小花をややまばらに穂状につけます。果実の黄熟するものは、キミノセンリョウと呼ばれます。 マンリョウ(万両)は、ヤブコウジ科の常緑低木です。本州の関東以南、四国、九州の山林中に生え、観賞用に庭木、鉢植、切り花などとされます。高さは、センリョウとほぼ同じです。マンリョウの茎はまっすぐに伸び、上部でまばらに小枝を出し、その先に散房状に球形の果実をつけます。江戸時代より品種改良が行われ、赤または白、黄色などに熟すものもあります。
January 11, 2005
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今年の竹村健一講演会は2月27日です。わたしが、1年でもっとも楽しみにしている会です。9:00AMまで、フジTV報道2001に出演。タクシーで羽田へ。11時小松空港着。空港から、砺波の夢の平スキー場へ。16:00-17:30まで「これからの日本」を富山市の自遊館で講演。夜は、石井知事らと懇親会。明日は、金沢で講演。すぐ小松から松山に飛び、広島、岡山と講演して東京にもどるのが、竹村健一のいつものスケジュールです。 どんな話題が出るか考えてみました。・クルージングと大津波・混迷するイラクの総選挙、自衛隊の撤退・北朝鮮の経済制裁・続く円高、原油高・中国のバブル景気・郵政民営化より消費税の値上げ・心配な国債の暴落、不良債権化・長引く不景気と大増税・来年9月までもつのか小泉内閣・・・・・・ 竹村健一の講演会は、いつも「これからの日本」の話です。それにしても、前途多難な日本ですね。
January 10, 2005
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最近わたくしたちの世代が読んでいる週刊誌(現代)に、酒井順子の「その人、独身?」なる、連載エッセイがあるのに気づきました。あまりに面白いので、1~50回の連載を、一気に読みました。こんな面白いものは、浅田次郎のエッセイ(勇気凛々ルリの色)以来でした。18回から読んだので、この題が何を意味しているのか、初めはわかりませんでした。 確かに、あせっている女性に、いい男の話をすると「その人、独身?」ときかれることが多いですね。 そういえば、知り合いの元30代独身女医さんが、よく口にしていた言葉です。しかしこの方は、未婚ながら2人の子供がいました。強い犬であっても、負け犬とはいえませんね。 それにしても、「フリーター」「バツイチ」「できちゃった婚」「パラサイト シングル」「負け犬」「その人、独身?」など色々な言葉がはやりますね。最近、NEETなる語もよく聞きます。仕事をしておらず、求職もしていない若者のことです。酒井順子の本に、「結婚疲労宴」、「食のほそみち」もあります。何が書いてあるのでしょうか?気になる本です・・・・・・・・。
January 9, 2005
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今、一部の人種のあいだで昨年話題騒然となった『負け犬の遠吠え』が放映中です。著者・酒井順子(37才、独身)のことが気になりました。現代の三DKとは、30代・独身・恋人いないのことだそうです。「30代以上、未婚、子ナシは女の負け犬である」とすると、私の知っている独身の女医さんは、たくさんいますが、皆「負け犬」なのでしょうか?男より仕事優先の人、出会いがない人(誰も誘わないの意味)、友達は多いが恋人のいない人、蜜の味・不倫の人・・・・など 様ざまです。 インターネットによる出会いが増えたからと言って、未婚率が低下したとも聞かないし、少子化が解決したとも思えません。女性の20代後半の未婚率は63%、男性の30代前半の未婚率は54%になっています。しかし、最近、この本の影響か、あわてて結婚する人が増えてきました。結婚率が上がってきたのです。それは、どんな理由にしてもいいことです。何とか、少子化をくい止めなくては成りませんね。
January 8, 2005
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本日は雨模様ですが、平地では積雪は0cmです。今年もありがたい暖冬傾向です。 五節句の一つの人日(じんじつ)です。中国の古い習俗で、正月の1日から6日までは獣畜を占い、7日に人を占うところから五節句の一つとなりました。春の七種の粥を食べて祝います。夕方に、おかゆを食べました。近所のスーパーで買った七草粥のセットです。「神奈川七草会」と書かれています。何が入っていたのでしょうか。七草がゆに入れる七種の若菜とは、芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべ)、仏座(ほとけのざ)、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)です。各地の路傍、原野などにふつうに見られる草を食べて、雑草のように丈夫に1年を過ごせる様にという意味がこめられています。万病をはらい幸福を祈りましょう。健康来福です。
January 7, 2005
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ブログを始めて、そろそろ3ヶ月です。11月~12月のNHKホームページを作ろうが、終了しました。毎回の放送が楽しみないい企画でした。数人のいまだ顔の見えない方々から、年賀メールをいただきました。ありがとうございました。ネットならではの不思議な縁を実感します。ある日、楽天からのメールに返信して日記を書き込んだところ、文字化けしてうまく送れません。3回試みましたがうまくいきません。4回目にやっとうまく送れました。しかし、読めないはずなのに、どんどんアクセス数が増えていくのに驚きました。よく考えると、これは自動的なアクセスであって、誰も中身を読んでいないことに気付きました。 最近、デジカメで撮った写真を載せたり、字を大きくしたり、カテゴリーに分類したりすると、なんとなく自分のブログの形が見えてきました。ある日突然、コメントやトラックバックが書き込まれたりすると、まじめに読んでいただいたことがわかります。それが、たった一人であったとしてもその出会いは、またブログを続ける大きな励みになります。これからは、よく書かれていて参考になるブログに、もう少し積極的にコメントを書き込んだりして、リンクを増やしていこうと考えています。今後、どう展開するのか楽しみです。
January 6, 2005
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倶利伽羅峠は、富山県小矢部市と石川県津幡町の境にある北陸街道の峠です。歴史道を歩いていくと、峠に倶利伽羅不動尊を祀る堂があります。峠の南斜面にある深い谷は、1183年、木曾義仲が平家の平維盛、通盛の大軍を、角にたいまつをつけた牛の大群を放って攻め落とした所で有名な古戦場です。 源義仲は、平安末期・鎌倉初期の武将です。義経の父・義朝の弟である義賢の次男です。父が頼朝の兄義平(悪源太)に殺され、中原兼遠によって木曾山中で成長したので、木曾義仲とも呼ばれます。以仁王の令旨で挙兵し、越後国の城長茂を敗走させ、北陸道を西上して1183年入京し、朝日将軍と呼ばれました。東国の頼朝、西国の平氏と天下三分の形勢をつくりましたが、間もなく後白河法皇と反目して、法性寺に法皇を攻めました。1184年1月、宇治川で、義経に攻められ、近江粟津原(大津)で戦死しました。 巴御前は、義仲の側室です。武勇にすぐれた女性で、義仲の部将としてしばしば戦功を立て、義仲が近江に敗走した際も従い奮戦し勇名をあげましたが、義仲にさとされて帰国しました。のち尼となり、越後国友松に移住したと伝えられています。倶利伽羅峠のふもとには、巴塚が残っています。*倶利伽羅峠、小矢部市の埴生護国八幡宮の義経紀行は、5月29日です。
January 4, 2005
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まもなく、NHK大河ドラマ「義経」が始まります。1186年、源義経は、安宅関を通って奥州平泉の藤原秀衡のもとへ落ちのびました。途中、岩かげに宿りにわか雨の晴れるのを待ったという義経岩が、富山県にあります。地名「雨晴」の由来ともなっている能登半島国定公園「雨晴海岸(あまはらしかいがん)」です。白い砂浜と、松の林がつづく景勝の地です。 ことに、富山湾越しに見る立山連峰の雄大な眺めは、四季それぞれに変化し、息を呑む美しさです。万葉の歌人、大伴家持はこの雨晴の風景をこよなく愛し、多くの歌を残しました。 また、雨晴海岸は日本海沿岸屈指の遠浅で、絶好の海水浴場として知られ、能登立山シーサイドラインの起点ともなっています。しかし、最近海岸線の侵食が激しく、いたるところに多くのテトラポットが置かれています。
January 3, 2005
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江戸時代には、北海道(蝦夷地)のニシンと昆布が北前船により、伏木・岩瀬などを経由して大阪に運ばれました。ニシンのしめかすは肥料となり大阪の綿花、徳島の藍などの肥料とされました。ニシンそばは、明治時代に生まれた京都の名物そばです。 ニシン(鰊)は、寒流性の回遊魚で、産卵期(三月頃)に北海道近海に大群をなして接岸し、海藻などに産卵しました。しかし、大量にとれたニシンも、1958年以降は水揚げがありません。今出まわっているのは、輸入ものです。北太平洋・北大西洋に分布し、アラスカ・ノルウェーなどの近海で多くとれたものです。塩づけ・薫製などの食用の他、肥料、鰊油として利用されます。その卵巣卵を乾燥したものが、干し数の子で、塩づけにしたものが塩数の子です。縁起が良いものとされ、お正月のおせち料理(御節料理)にだされます。重箱には、煮物、栗きんとん、数の子、ごまめ、伊達巻などがつめられています。富山では、ブリの照り焼き・蒲鉾・かぶら寿し・昆布巻きも必ず入れます。 おせち料理とは、忙しかった頃の主婦の寝正月のための手抜き料理にすぎません。今は、元旦からイオン・ファボーレ平和堂などのスーパーが営業しています。我が家の正月は来客が多いので、おせち料理は平和堂から配達されたものです。画一化された味付けで、我が家伝統のおふくろの味は、もうなくなりました。
January 2, 2005
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