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倶利伽羅の合戦後、義仲は秀衡から贈られた馬を神馬として、平泉寺へ奉納しました。志保山の合戦では、源行家に加勢して勝利をおさめ、平泉寺へ荘園を寄進しました。1183年5月21日、篠原合戦(加賀市)では今井四郎兼平、樋口次郎兼光らの活躍で平家方は惨敗しました。平家の侍大将高橋長綱は義仲方の若武者入善小太郎に情けをかけ、逆に討たれ、平家は都に敗走しました。 敗走する軍勢にあって、一人斎藤実盛は敵中にとどまり、最後まで名乗らずに義仲方の手塚太郎に討たれました。七十歳を過ぎた実盛は、幼い頃の義仲を木曾に隠した命の恩人です。今度を最後の軍として死を覚悟し、白髪を黒く染め平宗盛に許された錦の直垂を着ての出陣でした。討ち取られた首を、洗ってみると白髪が現れ、実盛の首とわかりました。首と対面した義仲ら源氏の武将はその心情を思いやって涙を流したといいます。小松市の多太神社には、実盛の兜が伝えられています。
May 31, 2005
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先週末は、東京でした。宿泊した高輪プリンスホテルは、大都会のど真ん中にありながら、広大な緑の庭園があり、四季の移ろいを優雅に感じることのできる安らぎの場所です。高輪プリンスホテルのあたりの土地は、江戸時代は薩摩屋敷のあった所です。その後は、旧竹田宮家の邸宅で、西武鉄道グループの創業者堤康次郎が1951年に買収したものです。新高輪プリンスホテルの土地は、1953年に旧北白川宮家から買い取ったものです。敗戦によって地位や経済力を失った旧宮家の土地が、西武によって買われたのです。 そして、赤坂プリンスホテルは朝鮮李王朝最後の皇太子、李垠(イ・ウン)の邸宅があった土地だったこともわかりました。
May 30, 2005
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カラー(CALLA)は、ミズバショウと似ていますが、同じサトイモ科です。サトイモ科ザンテデスキア属の花で、ザンテデスキアとはイタリアの植物学者ザンテデスキーの名に因んでつけられました。原産地は南アフリカ。和名はオランダ海芋(かいう)と呼ばれます。1843年にオランダ船が日本に伝えたという記録があります。日本人はカラーと呼びますが、外国人はカラと呼び伸ばしません。花に見えるのは苞(ほう)で、サトイモ科独特の漏斗(ろうと)状の形をしていて、中心に肉穂花序をつけます。この部分が本来の花にあたります。サトイモ科はこのような形態のものが多く、アンセリウム、ポトス、スパッティフィラム等と同じ花のつき方をします。
May 27, 2005
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釣りバカ日誌13(2002/本木克英監督)が、02年7月下旬より、富山で先行上映されました。西田敏行と三國連太郎に加えて鈴木京香が出演しました。丹波哲郎も富山弁です。志の輔、本木監督は富山出身で、ワンカット出てきました。富山生まれの、梅津栄、左時枝などは、本物の富山弁です。 井波の名刹瑞泉寺で、木彫りの音を響かせているのは、NHKさくらに、桂木先生役で出ていて、人気上昇中の小澤征悦でした。世界の指揮者小澤征爾の息子であることは知る人ぞ知るです。今は、大河ドラマ『義経』で義仲役です。同じくNHKさくらの、教頭、主任、かってのアイドル浅田美代子なども出ていました。 浜ちゃんが勤める鈴木建設は、略してスズケンです。魚の豊富な富山湾を舞台に繰り広げられる釣りバカ日誌は、いつものコメディですが、立山スキィー、黒部のトロッコ電車、宇奈月温泉など、雄大な山の富山の撮影も豪快でした。
May 26, 2005
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北条政子が親の定めた縁談を嫌い婚礼の夜、頼朝を慕って宴席を抜け出しはるばる伊豆山へ逃れ、足川の地に隠れ住みました。 当時、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頼朝は部下の知らせにより政子と劇的な対面をしたのです。 それがこの伊豆山神社の逢初橋の上だといわれています。 伊豆山神社は、古くは伊豆山権現とか走り湯権現、伊豆新宮などと呼ばれました。走り湯は、日本三大古泉のひとつで、洞窟の中から「走るが如きお湯が湧き出し海に注いでいた」ため、いつしか走り湯と呼ばれるようになりました。資料館には、政子が夫・頼朝の霊を慰めるため、自らの髪の毛でつづったといわれる梵字曼荼羅が展示されています。
May 25, 2005
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インド洋大津波から、半年たちました。明治の頃、スマトラ島のメダン、バレンバンなどには、ゴム園、鉱山経営などのため多くの日本人が暮らしていました。メダンには、約千人のからゆきさんがいました。からゆきさんとは、海外に進出した娼楼に働く売春婦として、日本から連れてこられた女性達のことです。明治の初めから昭和の初め頃まで続き、朝鮮、満州、中国、東南アジアなどに多くいました。出身は天草とか島原の貧困家庭が多く、大正の初めに、からゆきさんの数は2万人を超えたといいます。 山崎朋子著「サンダカン八番娼館」は、からゆきさんの人生を描いた代表作です。サンダカンは、英領北ボルネオの最大の港町でした。昭和10年頃までは、日本の女性の十人に一人は、吉原などの遊郭に売られていたといいます。そのくらい、日本は貧しかったのです。この話を知った時、私は、水上勉の「五番町夕霧楼」を思い出しました。五番町は、京都にあった遊郭です。
May 24, 2005
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所得隠し、不正請求、手術ミス・・・・などで、医師が逮捕されるケースが増えています。今回は、個人情報保護条例違反で逮捕者が出たのに驚きました。今までは、医師が病院をやめると患者の個人情報を持ち出して、開業することが多かったのです。さて、これからはどうなるのでしょうか?『横浜市立港湾病院(閉院)の元部長(48)が、患者の個人情報が入ったDVDディスクを持ち出したとして、神奈川県警加賀町署は5月18日までに窃盗と市個人情報保護条例違反の疑いで元部長を書類送検した。調べでは、元部長は昨年11月、同病院で自分が使っていた机から患者約1万2000人の住所や氏名などが記録されたDVDディスク5枚を盗み、今年1月にこの個人情報を使って新しい勤務先の病院案内を兼ねた年賀状を患者約8700人に送った疑い。元部長は「勤務先が変わったので患者が継続的に診断を受けられるようにやった」と話しているという。元部長は昨年まで港湾病院を退職し、横浜市中区の民間病院に移った。問題の発覚後の1月21日にディスク5枚などを港湾病院に返還。横浜市が1月下旬加賀町署に告訴した。』
May 23, 2005
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日曜日の朝は、竹村健一の世相ホットラインを聞きます。3週間前に、サミエル・ウルマンの「青春の詩」の話を聞きました。日比谷の占領軍総司令部にあったマッカーサー元帥の部屋の壁に掛けられていた詩です。この詩を、ある日本人が見つけ、感動し、漢詩調に翻訳しました。これが後に松下幸之助氏の眼に止まり、あるインタービューでこの詩の事を紹介し、雑誌に掲載され一躍有名になったとのことです。「年を重ねただけで人は老いない、理想を失うときにはじめて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。」とあります。確かにそうですね。みなさん、ブログで多くの知識を得て、若返りましょう。『青春とは人生のある期間ではなく、心の様相である。すぐれた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦をしりぞける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、このような様相を青春という。年を重ねただけで人は老いない、理想を失うときにはじめて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶、狐疑、不安、恐怖、失望はあたかも長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は70であろうと、16であろうと、その胸中に抱き得るものはなにか!曰く、驚異への愛慕心、空にひらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する豪毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味である。人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。(サミエル・ウルマン)』
May 22, 2005
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火打合戦で不覚を取った義仲軍は、越前・加賀より北陸道を越中まで退却します。寿永2年(1183年)5月9日、般若野の戦いで激戦の末、平家軍を加賀の国まで後退させます。そして、火牛攻めで有名な倶利伽羅峠の戦いが始まるのは5月11日です。倶利伽羅峠は越中と加賀の国境にあります。般若野(はんにゃの)は、高岡市中田常国のあたりです。いずれも、木曽義仲が平維盛・通盛の大軍と白兵戦を繰り広げた古戦場です。
May 21, 2005
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越前火打城は、今の福井県今庄町にありました。この城に義仲軍の一部、平泉寺長吏斎明威儀師、稲津新介、斎藤太など、約六千騎が詰めていました。この火打城は堅固な要害でした。岩が切り立った山岳の谷間に城があり、城郭の前には能美川、新道川という二つの川が流れています。この二つの川が合流する地点に大木を切って堤防を作り、水を塞き止めて城の周りに池堀を作ってありました。しかし、この堅城も意外なところから崩れます。城内の平泉寺長吏斎明威儀師は平家への内通者であったのです。 「あの湖は、昔からある自然のものではありませぬ。一時的に山川の流れを塞き止めて作ったものでございます。夜に足軽どもを使って、しがらみを切り落とさせなされ。水はほどなく落ちまする。馬を動かすに不便はないところでございますれば、こちらからも矢を射かけましょう。これは平泉寺の長吏斎明威儀師の申し状でございます。」 この密告どおり、維盛は足軽隊を派遣して大木の堤防を崩し、たちまち城は陥落しました。 平泉寺(へいせんじ)は、717年の創建で、延暦寺の末寺です。山岳信仰の拠点・白山へ登る越前馬場の別当寺で、多くの僧兵がいました。京都の苔寺より、苔の美しい知られざる名所です。
May 20, 2005
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義経の出てくる大河ドラマを整理しました。義経の時代は、残っている資料が少なく、平家物語、吾妻鏡、義経記、源平盛衰記などにそう書いてあるからといっても、事実とは限りません。その記述は、伝説に基づくことが多いのです。特に、女性に関することは、ほとんど分かっていません。清盛が死んで、大河ドラマは義仲を中心に話題が展開しています。源平合戦が始まりました。義経が本当の意味で主役となるのは、宇治川の戦いで義仲を破ってからです。・昭和41年 源義経・村上元三 主人公・義経 ・昭和47年 新平家物語・吉川英治 清盛・昭和54年 草燃える・永井路子 政子・平成 5年 炎立つ・高橋克彦 藤原三代
May 19, 2005
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『総務省は、国内におけるBlog利用者が2005年3月現在で述べ335万人を越え、中でも月に一度はBlogを更新するアクティブ利用者は約95万人、Blogの閲覧者数は約1千651万人に達するという調査結果を、5月17日に発表した。2007年3月末には、それぞれ約782万人、約296万人、約3千455万人に達すると予測している。 また、有料Blogサービスや広告、ソフトウェア、出版など、2004年のBlog市場は約6.8億円に達し、関連市場も含めると約34億円と推計された。これらは2006年度には約140.6億円、約1千377億円に達すると予測される(40倍)。今後のBlog事業の動向としては、大半のBlogサービスは無料で提供されており、収益モデルの確立が課題という。』 Blogを提供するネット業者は、いま24社あるとのことです。Blog開設者は、中学生・高校生などの若年層、主婦などの女性が多いような気がします。アフリエイトは、04年度は28億円、06年度は1275億円に大きく拡大する予測です。 これからもBlogの人気は続きます。
May 18, 2005
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1182年、木曽で挙兵した義仲を討とうと、越後の城長茂は北信濃に進出し、横田河原(長野市篠ノ井・・・千曲川の河原)に陣を取りました。『平家物語』によれば、義仲は井上光盛の進言で三千余騎を七手に分け、それぞれ平氏の赤旗を掲げさせました。平家軍が安心していると、赤旗を白旗に換えて一気に攻めかかり、四万余騎の平家軍を壊滅させたといいます。そして義仲は、その勢力を越後にまで拡大しました。 ところで、以前より疑問に思っていましたが、平家物語の作者は、このような戦闘模様を誰に聞いたのでしょうか?それは、善光寺の聖からです。聖たちは、合戦場の戦死者の回向に勤め、その亡霊供養や鎮魂のために合戦譚を作り上げていったのです。善光寺は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理されます。推古天皇朝に草堂を営んで三国伝来の阿弥陀如来像を本尊とし、642年今の地に堂宇を造営したと伝えられます。
May 17, 2005
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源義高は木曾義仲の嫡子です。清水冠者ともいいます。1183年、頼朝と不和となった源行家が義仲のもとに走ったことから義仲と頼朝の関係が悪化し、頼朝は信濃善光寺まで出陣しました。義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を鎌倉へ送り、頼朝と和睦しました。義高は海野幸氏を従えて鎌倉に赴き、頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられましたが、実際は義仲が頼朝に背かないための人質でした。 1184年、義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画しました。しかし、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしましたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原(埼玉県)で追っ手に捕まり討たれました。入間川ほとりの清水八幡は、政子と大姫が義高の菩提を弔うために建てられました。親に翻弄された幼い恋は、義高が、わずか11歳で終わりました。鎌倉市大船5-15-18,大船むくどり公園の後方に清水冠者・義高の塚が建っています。
May 16, 2005
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藤(ふじ)は、「マメ」科です。開花時期は、4月下旬~5月上旬です。今年の満開は、例年より2週間遅れです。藤は、 北アメリカから東アジアの温帯に分布しています。わが国では、古墳時代の巨大な石棺を木橇に乗せ藤縄で運んだという説もあり、かなり古い時代からあったと思われます。ちなみに藤の蔓は非常に強く、諏訪大社での6年毎の「御柱祭」にも使用されるほどです。 藤は紫色の花が、幹の方から先端に向かって咲き進みますが、藤の花を見るのはほとんど藤棚です。しかし、藤の花は自由奔放に伸びたほうが美しい のではないかともいわれます。本日行った、ゴルフ場のまわりには多くの野生の藤の花が咲いていました。 かって住んでいた埼玉県越谷市は、久伊豆神社の藤が有名です。樹齢は200年ほどの古木でした。高貴な紫の藤の花が印象に残ります。2日前の読売によると、瑞泉寺のフジの樹齢は、80年とのことです。
May 15, 2005
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週末は、露天風呂めぐりです。呉羽ハイツには、富山平野・日本海が一望出来る露天風呂があります。露天風呂につかりながら、眺める景色は最高です。お湯の流れ出す音しか聞こえません。山の上にあるので、かこいの植木や、塀がありません。遠くに、能登半島が見え、まさしく「絶景」です。夜ともなれば、遠くにきらめく漁火や夜景が、とても神秘的です。 最近、露天風呂は女性に人気があります。ほとんどの所では、週ごとに、あるいは1日おきに男女の浴室を入れ替えします。理由は、違った雰囲気で気分転換になるからでしょうか?でも、風呂の大きさが男女おなじではないこともその理由のようです。ここ呉羽ハイツでは、男女の浴室の入れ替えはしません。女性の浴室は、しっかりと塀で囲ってあります。
May 14, 2005
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『源義経の生涯を描くNHK大河ドラマ「義経」で、ゆかりの地を紹介する「義経紀行」の制作スタッフが30日、小矢部市を訪れ、源氏と平氏の決戦の舞台になった倶利伽羅古戦場や源義仲(木曽義仲)が戦勝を祈願したとされる埴生護国八幡宮などを回った。4月7日か8日に撮影し、5月29日に放送の予定。 「義経紀行」は毎回、ドラマ本編の内容に合わせたゆかりの地や品を紹介する。倶利伽羅合戦がテーマとなる第21話「いざ出陣」(仮題)の放送を前に、番組制作にかかわる東放制作(東京)のスタッフ、溝口勝之さんが同市を訪れた。 寿永2(1183)年の倶利伽羅合戦を前に、源氏の総大将だった義仲が戦勝を祈願したとされる埴生護国八幡宮では、埴生雅章宮司の説明を受けた。溝口さんは、宝物殿で「木曽義仲公祈願状」の巻物や行軍の際に先頭に立てた「道祖幣」など義仲ゆかりの品を取材したほか、八幡宮の由来などを聞いた。』(北日本新聞) 清盛が死んで、これからの準主役は、義仲です。1184年、宇治川の戦いで、義経に破れます。義経紀行で、はっきりと放送予定が分かっているのは、5月29日に放送の予定の倶利伽羅古戦場だけです。
May 13, 2005
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墨俣川は、大垣市の東にあり、秀吉の一夜城で有名です。養和元年(1181年)、2月4日平清盛が病死し、東国源氏は京に攻め上がりました。3月10日墨俣川(長良川)をはさんで源平の大激戦が展開されました。墨俣川をはさんで清盛の五男・平重衡を総大将とする七千余騎の平氏が西岸に、新宮十郎行家、源義円ら三千余騎の源氏が東岸に陣を整えました。源義円は頼朝の異腹の弟で、義朝の愛妾常盤御前の子です。義経の兄にあたり幼名を乙若といい、天王寺に預けられていました。義円は行家に先をこされまいと一人馬で西岸へ一番乗りをしようとしましたが平盛綱に討たれてしまいました。行家は、遅れてなるかと夜討ちをかけましたが戦いに敗れ矢矧川まで退きました。行家の子太郎、光家兄弟は平忠度に捕らえられました。 義円公園内には儀円地蔵が祀られ、里人の手により、毎年3月11日の命日に供養が行われています。
May 12, 2005
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ユキヤナギは細い枝に柳のような葉をつけ、粉雪に似た純白の小さな花を枝いっぱい咲かせる愛らしい春の花です。別名を、コゴメバナともいいます。漢名は「噴雪花」といいます。ほんとうに粉雪が、降っているようです。 日本にきたのは江戸の初めです。 低い木なので庭や垣根の植え込みの前の日当たりのよいところに植えられてきました。 同属のコデマリの花はユキヤナギと似ていますが、小さな白い花がまあるく手まりのように球形に咲くから違いがすぐに分かります。
May 11, 2005
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ミニーマウスが運んできた電報です。ミッキーマウスではありません。かわいいでしょう。筒の中に誕生日の電文がありました。DENPO 115 NTT ORIGINALとあります。最近、はやっているとのことです。
May 10, 2005
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ツツジとサツキが咲き出しました。 サツキの原産地は日本で、漢字では[皐月]と書き表わされます。別名は杜鵑花(トケンカ)です。5月頃花が咲くことから名付けられました。植物学上はツツジの一種です。正確にはサツキツツジと言います。 サツキとツツジが区別されるようになったのは,江戸の時代からで、季節感の違いが区別の理由になったのです。ツツジの野生の種は、渓流沿いの岩場に生えます。樹の高さは1mほどで枝は横に広がり、その枝や葉には褐色の毛が多くついています。野生種の花色は、素朴な朱赤色をしていますが、園芸種は実に多種多様です。
May 9, 2005
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美人の形容に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのがありますね。 ボタンとシャクヤクは並べてみるとはっきり違いますが、漠然とみると非常によく似ています。違いはいろいろありますが、ボタンは「木」、シャクヤクは「草」です。ボタンは、「百花の王」と呼ばれ、花が豪華なことで知られます。高温多湿を嫌うので、寒地向きの植物といえます。 ボタンは落葉樹、シャクヤクは宿根草です。また、葉の形も違い、ボタンの葉は切れ込みが多いが、シャクヤクの葉にはほとんどないのが、特徴です。
May 8, 2005
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明日は、母の日です。カーネーションと母の日について調べてみました。白いカーネーションの話に興味を持ちました。『カーネーションが日本に始めて渡来したのは、徳川三代将軍家光の正保年間(1644~47)の頃です。オランダ人によって「オランダセキチク」または「アンジャベル」の名で、入ってきました。四季咲きカーネーションを導入して温室栽培が行われるようになったのは、大正末期から昭和初期で、その頃からカーネーションと呼ばれるようになりました。現在では、母の日を中心に、花屋の店先を彩り豊かに飾り立てています。 カーネーションには、1本に1輪の花をつけるスタンダードタイプ、1本にいくつもの花をつけるスプレータイプ、ナデシコによく似た花をつけるナデシコタイプなどがあります。カーネーションの人気の理由は、日持ちの良さと様々な色合いを楽しめるところにあります。母の日と言えば、赤いカーネーションが主流ですが、欧米からの流れを受け、日本でも茶色味がかかったオレンジ色、アプリコット色、薄いグリーン、ピーチ色等、高級感を漂わせる品種に注目が集まっています。 「母の日」の発祥はアメリカです。ウエストヴァージニアの教師、アンナジャビースが亡き母の命日の礼拝式に、白いカーネーションをたむけて母の愛を偲びました。彼女はフィラデルフィアに帰郷してからも、全財産を投げうって、母性を讃える行事の伝道者として努めます。これに感動した市は1908年5月14日に母の日の行事を行い、ついでペンシルヴァニア州も1913年5月のその日を休日と定め、アメリカ合衆国も翌年「5月の第二日曜日を国家の休日とする」という決議を行いました。母のある人は感謝と幸福を祈念して、「赤やピンク」を、母を亡くした人は、母を偲び冥福を祈って「白」のカーネーションを胸につける習わしになったとのです。日本では、この習慣が、戦後の経済復興とともに急速に広がっていきました。』
May 7, 2005
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1985年、ヨーロッパに行きました。バスの窓から外を見ると、セルフ式のガソリンスタンドが、一般的な給油の方法でした。日本では、1998年になってセルフ式が解禁されたので、徐々にセルフ式のガソリンスタンドが増えてきました。でもそれは、TVのニュースで見る風景でした。 昨日入ったガソリンスタンドは、いつの間にかセルフに変わっていました。『手が汚れてしまうのでは?』とか『給油の操作が難しいのかな?』と思い、帰ろうかなと、迷ってしまいました。お店の女の子が手伝ってくれたので、助かりました。給油の仕方は簡単です。レバーを押すだけです。自動的に給油がとまりました。もちろん手が汚れることもありませんでした。お金の清算もレジには行かず、機械にレシートをかざすとおつりが出ました。プリペイドカード、クレジットカードもあるとのことでした。最近、ガソリンの価格が高いので、2円~3円程度/リットルの値引きでも助かります。これからは、毎回ここで給油するかもしれません。
May 6, 2005
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平家の邸宅として、六波羅第と西八条第があげられます。清盛の邸宅である西八条第は、八条亭とも呼ばれ、平安京左京一坊の八条大路以北、大宮大路以西に位置しました。現在地では、蒸気機関車動態保存の梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたります。 若一神社は、清盛によって勧請された西八条第内の鎮守社だと伝えられています。境内には清盛の像が立っています。境内前にある大楠は、清盛の手植えと伝えられています。清盛は、福原にいることが多かったので、清盛の妻・時子が女主としてここを守りました。1181年閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、西八条第は、放火による火災に遭い、1183年7月25日、平家都落ちに際しては、六波羅・西八条第は、ことごとく平家自ら火を放ち焼失してしまいました。
May 5, 2005
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年に、2~3回は金沢に行きます。2005年3月20日,JR金沢駅東口広場の整備事業が、ようやく完成しました。JR金沢駅を出ると、右手側は音楽堂とタクシー乗り場です。左手側はバス乗車場になっています。巨大なガラスの屋根を持つ斬新な空間は、「もてなしドーム」です。ここを真っ直ぐ進むと、「鼓門(つづみもん)」という木製の巨大な門です。鼓2つを柱の代わりにした門です。正面にあるのが、デジタル式水時計です。普通のデジタル時計に見えますが、白抜きになっている部分は水です。初めて見る面白い時計だと思いました。「ようこそ金沢へ」といった表示も定期的に表示されます。 地下広場に向かうエスカレータは途中一旦平坦になった後、再度下っていく独特のものです。北陸鉄道の金沢駅も地下に移りました。地下は、噴水と緑のある大きなイベント広場です。
May 4, 2005
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先日、東京で泊まったホテルは、品川プリンスホテル エグゼクティブタワーです。新幹線停車駅、新羽田空港乗り換え駅で、今注目を集めている街が品川です。ホテルとエンターテインメントの融合をテーマに、3,680室の客室とアイマックスシアターなどのエンターテインメント施設がそろっています。最近、水族館やイルカ・アシカのアトラクションを備えた「エプソン 品川アクアスタジアム」も誕生しました。 夜の食事は、新館最上階の39階のレストラン・トップオブシナガワに行きました。最上階からの360度の眺めはひときわです。窓際はラウンジバーになっていて、中央のレストランは1m高いフロアーになっています。窓際のアベックと大都会東京の夜景を眺めながらの食事です。レストラン自慢のメニューは、 帆立貝とスモークサーモンのアンサンブル ハーブの香りにはじまり、・・・いわて牛ローストビーフ、パティシエ特製スイーツ、コーヒと続くものでした。
May 3, 2005
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福原遷都は、1180年6月~11月までです。福原の清盛の山荘は「雪見御所」と呼ばれました。福原遷都の際、清盛は福原京の北方に京都の北野天満宮を勧請しました。それは、北野異人館の風見鶏の館(写真)を見下ろす位置に建っています。清盛は、豪商・高田屋嘉兵衛とともに、今の神戸市の主役です。 能福寺は、清盛が剃髪し入道となった縁故から、平家一門の祈願寺と定められました。七堂伽藍が建設され、その壮大な外観から「八棟寺」と称されました。能福寺境内には、平相国廟があります。1181年2月4日、京で亡くなった清盛の遺骨は、当寺の住職・円実法眼により福原へ運ばれ、能福寺の東北に埋葬されたといいます。
May 2, 2005
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ゴールデン ウイークです。4月29日の「みどりの日」は、昭和天皇の誕生日です。近いうちに、「昭和の日」に名称変更されます。第2次世界大戦があり、日本がその後の復興を遂げた『昭和』という時代を記憶にとどめることが目的です。4月29日が、昭和の日と名称変更されると、国民の休日である5月4日が、みどりの日となります。 ところで、昭和20年8月15日、日本は降伏し、アメリカ単独占領による日本支配が始まりました。昭和27年4月28日まで、満7ケ年の間・マッカーサー連合司令官の支配下にあったのです。いずれは、4月28日は、日本独立記念日として法改正が行われますが、このことを知る人はあまりいません。
May 1, 2005
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