全41件 (41件中 1-41件目)
1
広大なお陰というがお蔭とは氏子めいめいの真に映る影のことぞ神様に大きな真を向けてみよ大きなお蔭が身にいただけるぞ影は形に添うときまったものじゃ
2006.10.31
コメント(0)
今の価値観は、その時だけよければ、何をやっても良いと思っている。その時だけ嘘を固めて、取り繕えば何をやっても、薄っぺらな快楽に浸ればいいと思っている。そんな人だらけである。言うことは素晴らしく、挨拶は上手いが表面だけで中身がない。自分を囲む周囲の人を自分より下に見ている。尊いものは、自分である。自分は、一人で生まれて育ってきた様に思っているのである。政治家、教師、役人、医者が毎日自分のためだけに弁明しているニュースの数々。『先生と呼ばれるほどのバカでなし』・・・まさに今は本当にそうなってきている。何があっても周りは許さない。それは、相手を下に見て、生徒と先生を同格に見たり、先生は生徒にサービスする立場だと思っている。学校は選ばれる時代~受験のため不要な授業はカットされる時代。小中高は大学のための予備校か?社会性より受験のための知識だけが学校の目的になっている。学校を卒業して、企業へ入る人の社会性のなさ、常識のなさは当たり前である。自己主張だけをして、中身のない誤った個人主義という利己主義、拝金主義者の大量発生だ。自由に生きればいいと言うが、他人を騙したり、法律を破ったりしていいという事じゃない。最低限、他人に迷惑掛けないという制限のある中での自由であると思う。でもそこでようやく、人としてのスタート地点に戻れるだけでのような気がしますが・・・。
2006.10.30
コメント(0)
信心は家内に不和の無きが元なり父母も子供も共に生まれたり育てねばならぬ子も父母も
2006.10.30
コメント(0)
金光四神様(2代金光様)の御教えに「言いたいことは明日に言えというが、明日も明後日も一生涯言わぬこと」とありますが、じっと我慢しても、これだけは言っておかねばと、つい言った一言で今では辛抱が水の泡になることがよくあります。ある方のお話ですが、夜隣の部屋で奥さんと娘さんが言い争っていて、段々険悪になってきました。ちょっと顔を出して「もうそのへんで止めたら」と言えば納まると思ったが、ここが辛抱と心をきめて、一心にご祈念をさせて頂いたら、その後、前以上に親密な関係が出来ていったら、その後、前以上に親密な関係が出来ていったとの事です。「黙って治める」とは、これほどの事かと思いました。お土地はどんなに汚い物でも、黙って受け入れ、それを養分に変えて、植物を養っておられます。土の心、泥の心で、起きてくるすべての事柄を、受けて受け抜く心、この稽古をさせて頂きたいものです。
2006.10.29
コメント(0)
人は、問題が起ったり、ストレスを受けたときの対処方法はそれぞれ異なる問題に押しつぶされたりして何も出来ない人(固まる)問題に対して怒り出す人(逆ギレ)問題がおこったことを他人のせいにする人(他責)問題がおこったことを自分のせいにする人(利他)過ぎ去り事と割り切り、問題の再発をしないように問題に取り組む人いろいろな人々がいます。誰でも対処方法は、大体同じ対応になります。問題解決の思いはどんなことでも同じような反応、対応をするのです。難儀は逃げても逃げても追いかけて来るのである。逃げずに1度ちゃんと取り組み乗り越えていけば、今度は難儀が楽しみに変わっていくのである、問題を問題とも思わなくなるのである。
2006.10.29
コメント(2)
知らない事は恥じではない不自由である人にはして良い事 悪い事がある言うて良い事 悪い事がある悪いことをしていながら居直る人もいる幼児の段階から善悪が身につくと言う
2006.10.29
コメント(0)
最近、軽くなったもののなかに『約束を守る』があります。以前、約束しても平気で破られるとか、そんな約束する方が悪いとか逆切れされたりとかありました。高校生のときに、初めてそういう人に出会い待ち続けることと電話番号の調べ方がうまくなりました。結構本を読んだり、来ない相手との約束の場所を選ぶのがうまくなりました。そして、それ以来、ずっと守ってきたことは、曖昧な約束はしない、約束したら必ず守ること、そして相手が約束を破って気にしない~その程度の人間にしか思われていないと思うこと。当たり前の事ですが、これを実行してきました。だからこそ、約束を軽くみる人やどう考えているのか判らない人には入っていけない何かを感じます、軽くみられているというさびしさかもしれません。思いがなにも伝わらない。待っても無駄、そんな気はないと表明されているようでかなしくなります。約束は信頼につながり、人間関係において信頼がないと、心は近づいていけません。相手の望んでいる関係では、こちらが熱くなってもしょうがないとブレーキが踏む1つの理由が、『約束の重さ』をどう思い行動するかなんです。よくみると人がどう行動するかよくみて、言っていることとやっている事があっているのかいないのか、私を向いているのかいないのか、向いているなら理由はなにか、何を望んでいるのかを常に感じてしまいます~相手には言わないことが多いけどね、言うと相手は批判されたと思うみたいで受け入れてはくれません。必ず嫌われちゃいます。自分が必ず守っても、相手には必ず守れとは言わないのです。かえって自分が相手に守ってもらえるような人になろうと自分をみがくことに努めよう、だめでもともとなんですから。口では真実を語るけど心に真実を持ってない人は辛い。うすっぺらくおもしろおかしく生きるのが『楽(たの)しく生きる』の意味ではなく、自分に正直に素直に『楽(らく)に生きる』のが本来の生きるじゃないかと思います。
2006.10.28
コメント(2)
人は苦労にきたえられて深みが出る人と苦労にねじふせられて曲がってしまう人とがいる物が豊かになる程ものを粗末にする人が多い
2006.10.28
コメント(0)
内に改まり正しければ外に現れる事正しい自分の徳が神と同根なり人の上に立人は 絶えざる批判にさらされそこからよくなる
2006.10.27
コメント(2)
老人介護の究極の姿は、医療より心の介護、スピリチュアル介護の問題である。介護者と介護を受ける老人との二人だけからなる密室空間が、おそらく最期になって迎えるもっとも重要な場面となるであろうからである。その時、一人取り残される介護者の振る舞い、とりまく社会の対応を最期の臨終場面にどうたちむかうのか。不安と虚無の空間である。医者もこない、看護士も、カウンセラーも精神科医も無力になる。家族もその場にいない、そのかわり家族でもない介護者がそこに放りだされている。最期の瞬間に、突然現れてくる、あらゆる宗教的幻想や呪術的妄想が押し寄せてくるのである。占い、まじない、ジンクス、カミおろし、手かざし、悪魔払いなどあらゆる宗教技術が、臨終に立ち会う介護者の脳裏に蘇ってくるかもしれない。言葉は、原始的な象徴、言霊となっていくのである。現在介護することが個人の問題や家族の問題ではカバーできなくなり、社会がお金(保険)で全てを解決しようとしているが、どだい無理な話である。請け負った介護者では体のケアは出来ても、心のケア、救済を、なんの心構えもない個人に委ねているのかも知れない。
2006.10.26
コメント(0)
何程神信心するとも神の力にかなわぬ事もある悪なりと思うことは何事もなすことなかれ上に立つ人にも聡明な人と愚かな人がいる。
2006.10.26
コメント(0)
お道の御用に大・小 重い・軽いの区別はありませんいずれも大切な御用ですお役に立つとか立たぬとか向こうにばかり 目をやらず御用を通して自分がどうして 助からして頂くか手元を見て行くことが大切である
2006.10.25
コメント(0)
1,努力信仰の崩壊 日本人は『努力信仰』を持っていると言われてきた。しかし現在の多くの若者人達は、努力を重視しているとは考えがたい。努力には、どうしても『忍耐』や『我慢』が伴うが、今ではそうまでする姿を冷笑するようになった。現代の若者は熱くなれないのだ。忍耐や我慢はカッコ悪いものなのである。いまは、努力なくして素晴らしい結果を手にすることが、最もかっこいいと考えている。人前では自分は出来る人間であるということを示したいのである。そして成功した場合には、自分はほとんど努力しなかったのに、結構いい線いっていると吹聴する。しかし失敗したときはさまざまな口実で繕い、他責にするのである。他人の失敗を簡単にバカにするが、それは自分自身が苦労して物事に取り組んだ経験が乏しいためである。自分自身が努力した経験を持つならば、他人の失敗に対しても、もう少し寛容になれるかもしれない。他者軽視を通して仮想有能感(裏付けなしの自信)を感じると、努力軽視をして、実際に努力しないために失敗する。そして、自分の失敗を認めたくないために、先回りして他者をバカにする。2,世の中は全て二元論だけか 合理性、二者択一、全てを別けてきたと考える。悪と善。天国共に地獄。選ばれし者と呪われた者。治療可能な神経症と不可能な精神病。自分と他人。個人主義と集団主義。利己主義と利他主義。全て2つに別けて考えるのが西洋的な発想である。いき詰まり、先はみえない。選ばれしものは責任を果たさず、呪われたものは永遠に報われない。例えば、個人主義にはもともと、個人を束縛しない去れないという個人の行動原理、個人と個人の間にできるだけ相互に仲良くなろうとする配慮、おもいやりが含まれた連帯の行動原理があった。しかし今では、後者は抜け落ち、不毛な自分だけの勝手にいきる方にだけ残ってしまったのである。3,介護を考える 今の核家族で、1人暮らしの多い世の中では、各個人別の介護保険方式が欠かせない状況に成っている。子が育ち、夫婦が老いていくと、子供は巣立っていく。子供は子供で、いつまでも独り身で生きていく。・・・最近は、定職も持たず、いつまでも巣立ちもせずに親に寄生し自分の夢のためと称し遊んでいる方も多いのが現状である。自分が望もうと望まなくても平等に年は取り、老い、そして介護が必要な年齢になる。介護をし介護をされる関係になります。自分は大丈夫だといくら思っても、自分の体を自分で何とか出来る訳じゃない。人は人なしには生きていくことは出来ないのである。自分だけは大丈夫だという人こそ、実際はよけいな迷惑をかけて生きていくのである。偉そうにしても、自分だけで生きていけなのであるから、謙虚に生きていかなければならないのである。何も考えずに生きていくのが若者の特権のように考えている人は、どこまで経ってもその人の心だけは若者であり、思考停止しているだけである。継続的に幸せに生きていくためには、今風の刹那的に生きる若者方式ではなく、少し前を見ていく必要がある。先のことはわからないけども先を楽しみにしていくことは出来る。だからこそ今を大事にしてビジョンを持ち、計画して進めていくことが必要である。4,科学研究と捏造 科学研究の分野では、自分の研究の都合のいいように事実を捏造する事件が起こってきましたし、政治の分野での学歴詐称や経歴詐称、事実を捏造しても栄誉がほしいひとはたくさんいます。そこらにいるお店でも、芸能界で才能なく認められないのに芸能人づらする水商売のおばさん、嘘つきでなにが本当かもわからない虚構世界に生きるのに自分では『ウソは言わない』というだれかれなく相手を騙す人等、数えきれません。ウソはウソが自分を狭めていくだけだし、誰もが信じなくなります。やはり鴨さんでいいのではないですか?騙す相手を見通せばいいだけですから...。騙されたって、こちらの気持ちにウソはないのですから、心は痛みません。痛むのは嘘つきだけです~自分にウソはつけませんからね5,独創的 個性の時代。独創的な意見を求められる。しかし。本当に独創的な意見というのは、他人には分からない意見のことなんです。他人に分かる意見ならば別に独創的ではない。人から聞いて分かって理解できるということは、その人がいつか思い付くかもしれないことではないですか、他人が理解できない意見は意味がないんです。だから社会では、相手より先に行き過ぎる、一歩も二歩も先の意見は用いられません。みなが理解できる、半歩先くらいの意見じゃないと理解できないのです。6,責任をとることで人は育てられる 一人前に社会人になると、社会的役割として、自分の責任を自分がとる立場になってきます。実は社会から責任を与えられることで、自分が逆に育てられるのです。それを勘違いして責任ない事ばかりしていると、自分は育たず、ろくな人間になりません。巷にはたくさん溢れているようですが...。7,事実は一つしかないのか 科学的にみて、答えは一つだと考えてますが、本当はどうなんでしょうか?人間は何かを知ろうとしても、本当のことは分からないんじゃないかと、皆が思っているということなんです。だれも本当のことかわからない、実証できない記事が、世論操作に使われている。例えば、いつの間にか変わり、日本国内では密かにしていた軍隊の存在どころか、核兵器の保有を言い出す国になっていることです。本来戦争のルールを無視した無差別殺戮を受けた国がそれを考え始めたということです。事実は薮のなかですけどね(笑)8,裸の王様 人の話を聞かない人 社長・・・TOPダウン経営。これではいけない。経営者は、方向性、戦略決める。やり方は具体的に考えてもらう。決めた方針は、決してぶれないこと。。競争の中で思い悩んでもぶれないことである、経営者は孤独である。孤独に耐えないと経営者としては成功できない。これまでのものを全て壊して、新しいものを生み出す両刃の剣である。生き残るためにどうすればいいのか先行きの見えない不安に・・・。ためしにやってみる、夢を持って、子に孫に継続して続けられるように。今のままではダメかもしれない~危機感を正しく認識して対処してみる。動き出してみる。9,ウソから出た真実 人は真っ赤なウソを望んでいるのではない。人はよりリアリティを求めている実際に生きているよりも、はるかに生きている感じがすることを望んでいる~映画、演劇、コンサート等の芸術。どんなことでも、実際には、我々はその全部を知ることはできない。本当の意味で、客観的にすべてのことを知ることはできないのである。だからこそ、本当は何か?、真実はどうなのか?、リアリティとは?...。突き詰めていくと、ウソがウソとして機能しなくなってきている。上手いウソをつけるやつほど、悪いやつですから。いい人ではできない。ウソからその人間が本当の真実を知ることができるかもしれない。嘘つきはウソを突き徹せなくなった時に真実、人間性が露見するのです~お里が知れるのです。いくらウソをついてもまともな人間なら、自分を欺けない。自分が最後の判断をくだす~自分は嘘つきであるとの。 06013
2006.10.24
コメント(0)
親祖先を大事に致せ根を断ちて枝葉の栄えた例(ためし)はあるまいぞ信心する人は木の切り株に腰をおろして休んでも立つときには礼をいう心持ちになれよ
2006.10.24
コメント(2)
迷いは欲からおこる欲をはなすと決断がつく役に立つ時は人が大切にする役にたたなくなると人が相手にしなくなる
2006.10.23
コメント(0)
老人介護の究極の姿は、医療より心の介護、スピリチュアル介護の問題である。介護者と介護を受ける老人との二人だけからなる密室空間が、おそらく最期になって迎えるもっとも重要な場面となるであろうからである。その時、一人取り残される介護者の振る舞い、とりまく社会の対応を最期の臨終場面にどうたちむかうのか。不安と虚無の空間である。医者もこない、看護士も、カウンセラーも精神科医も無力になる。家族もその場にいない、そのかわり家族でもない介護者がそこに放りだされている。最期の瞬間に、突然現れてくる、あらゆる宗教的幻想や呪術的妄想が押し寄せてくるのである。占い、まじない、ジンクス、カミおろし、手かざし、悪魔払いなどあらゆる宗教技術が、臨終に立ち会う介護者の脳裏に蘇ってくるかもしれない。言葉は、原始的な象徴、ことだまとなっていくのである。でも、なにごとにも囚われない心が一番大事なかも知れません
2006.10.22
コメント(0)
人は真っ赤なウソを望んでいるのではない。人はよりリアリティを求めている実際に生きているよりも、はるかに生きている感じがすることを望んでいる~映画、演劇、コンサート等の芸術。どんなことでも、実際には、我々はその全部を知ることはできない。本当の意味で、客観的にすべてのことを知ることはできないのである。だからこそ、本当は何か?、真実はどうなのか?、リアリティとは?...。突き詰めていくと、ウソがウソとして機能しなくなってきている。上手いウソをつけるやつほど、悪いやつですから。いい人ではできない。ウソからその人間が本当の真実を知ることができるかもしれない。嘘つきはウソを突き徹せなくなった時に真実、人間性が露見するのです~お里が知れるのです。いくらウソをついてもまともな人間なら、自分を欺けない。自分が最後の判断をくだす~自分は嘘つきであるとの。
2006.10.22
コメント(2)
体だけ休めても心が安らかでないと安静とは言えない安心するのもわが心心配をつくるのもわが心
2006.10.22
コメント(0)
初対面の相手と話していても、話が合わないことってありますよねそれは、同じことについて話しているつもりなのに、ぜんぜんちがった意味に言葉を使っていることがあるんですよ。それで話がかみ合わず『話が分からないヤツだ』になっちゃいます当たり前に使ったりしている言葉の定義がズレているんです 相手と話す時は、同じ目線で、同じ土俵の上で話す事が必要なんです相手の心つもり、腹づもりを思い描くこと『相手への思いやり』が必要なんですその人が考えている事感じている事を相手の身になって考え感じ行動するようになることが『愛情』なのかもしれません 仲良くなるとは、相手と自分の言葉の定義をすり合わせていくことです♪考え方価値観をすりあわせていく第一歩として前提を合わせていくことなんですね
2006.10.21
コメント(0)
神も仏もないような世渡りをしてその結果が現れてと神も仏もないものかと言って泣いています初めからないように扱って居るから無いように現われて来る
2006.10.21
コメント(0)
若者には学力も大切だが明朗性 責任感 仕事には情熱を傾けてちょっとやそっとではへこたれない自信を持つ人になること
2006.10.20
コメント(0)
独創的 個性の時代。独創的な意見を求められる。しかし。本当に独創的な意見というのは、他人には分からない意見のことなんです。他人に分かる意見ならば別に独創的ではない。人から聞いて分かって理解できるということは、その人がいつか思い付くかもしれないことではないですか、他人が理解できない意見は意味がないんです。だから社会では、相手より先に行き過ぎる、一歩も二歩も先の意見は用いられません。みなが理解できる、半歩先くらいの意見じゃないと理解できないのです。
2006.10.19
コメント(0)
生命は天地の神の造り 下されたものである天地の心を心として 御神意の侭に事実を あるが侭に見て何事も大切にすること
2006.10.19
コメント(0)
仲井昭夫師を惜しむ 麹町教会長平成18年2月6日、荻窪教会長 仲井昭夫師、定期検診の病院で急逝の電話、青天の霹靂、驚き、言葉を失う。彼は昨年7月、当方まで見舞いに来てくれたが、しばらく会わぬうち、起挙動作、不自由で、あまりの弱りように心配、御神護をお願いさせて頂いていたのに思わぬ急逝だった。 昭夫師は、終戦を兵隊でソ満国境で迎え、苦労辛酸を舐めた経験から、自分が生きなければ誰も助けてはくれないものだいう思いで帰国した。 母堂が愛媛の双岩教会の熱心な信者で、戦後上京した彼はサラリーマンとして阿佐ヶ谷教会に参拝した。 阿佐ヶ谷教会長、仲井トク師は、終戦直後、食事の芋の配給所で、最後まで残って配給所の掃除をして、集めたクズの芋を自分の分として、配給のちゃんとした芋は、困っていた信者に与えられた。神前のお供えの金品も、ほとんど信者に下げられた。 トク師の日常生活を見て、昭夫師は「これはお供えでなく、先生の小遣いにお使いください」と時々、差し上げていたが、ある時、お金が必要になった昭夫師に「これを使いなさい」と、手を着ける事なく貯金しておかれたのを渡された。 悲惨な戦争体験、自分は自分が守らなければ、他人は守ってくれないという昭夫師の思いは、トク師の無欲な献身御取次の姿によって、教師として御用に立つ決心へと生まれ変わっていったのだと思う。 トク師の夫婦養子として阿佐ヶ谷教会に入ることになった後には、親教会長 長谷川雄次郎師の「教会後継は跡を取るのではない、跡を継ぐ、信心の跡を継ぐのである」との教えのまま、トク師の信心を受け継ぎ、孝養を尽くし、気力体力衰えた晩年の先生を最後まで看取った。 平成9年、阿佐ヶ谷より荻窪へ移転、境内地を取得し、新会堂を造営。昭夫師の願い通りに、他人に少しでも迷惑を掛けぬようにつとめて落成を見た。 仲井昭夫師、76年の生涯を追悼し、東京布教、荻窪布教の上に、初代教会長 仲井トク師と共に霊神としてお働き下さいますよう、お願い申し上げます。 金光教麹町教会会報 信友NO110 平成18年4月23日発行版より
2006.10.18
コメント(0)
人情をはなして神心(かみごころ)となり神心をもって人情を尽くせ
2006.10.18
コメント(0)
自分に受けた総てのことは善いことも悪いことも、自分へのおかげである。おかげにとれる心にならせてもらうことが、安心の道である。信心を追い求めて行くことで我が道、安心の道が得られる。知らない事は恥ではない不自由である。人にはしていい事悪い事がある。言っていい事 悪い事がある。悪い事をしていながら居直る人もいる。 人は応々にして、自分に都合よい事が善で、そうじゃない事が悪だと思っている人が多い。だが、善悪を各自が勝手に決めるから世が乱れ、我がもの顔した自分は自分は...!という自己中心的な人ばかりになる。善悪の区別は相手を思いやる事からしか生まれては来ない。我情我欲だけが善悪ならば善悪は滅びる。しかしそれでも、信徳(信心の積み重ね)だけは残るもの宝玉ある。
2006.10.17
コメント(0)
姫は、京都府加佐郡舞鶴町に、明治29年(1896)1月2日、父仲井宇市、母モトご夫妻のあいだに生まれられました。長じて上京し、麹町教会に御縁を頂かれ、お手伝いとして家事万端の働きとともに、長谷川まつ師の御広前御用のお手伝いもいたされました。元来体が弱く、ここの老人はやかましいから適当にやらねば体がもたないと同輩からの注意をうけました。しかしまつ先生ご教導の「信心する者は人のみているところより人のみていない陰の働きこそ大切だ」という話に翻然と悟らされ、一意人行に打ち込まれ教会長の留守中を大切にし、表立ったことにより裏に廻ってかげでつくされました。姫は大正8年(1919)麹町教会で入信され、同年12月教徒となり、大正15年(1926)31才で教義講究所の業を卒え、教師補命を受けてからもひたすらに教会修行に励まれました。昭和9年(1934)5月より東京都杉並区阿佐ヶ谷南3丁目において布教を開始されました。まつ師の、心は直く、思いが深く、行為がひかえめであって諸事に忠実で、人の苦難に労わり助ける働きが、いつも間にか姫の身にそなわって道のおかげとなってまいりました。難儀な人が次ぎつぎに助けられていったのであります。昭和14年(1939)9月23日、阿佐ヶ谷教会開設のみかげを蒙り、初代教会長として専心布教につとめられました。昭和20年(1945)3月久四郎氏と結婚され、昭和35年には教会後継者として昭夫夫妻を迎え、教師在籍40年、布教33年の教蹟をのこされて、昭和42年(1967)3月16日、御齢70才をもって帰幽されました。諡名を可美魂忍根徳姫とおくられたのであります。多磨墓地に鎮められています。 「あづまの道のいしすゑ」より
2006.10.17
コメント(0)
他人にわずわしいこと 気に入らぬことを辛抱させるような 不徳なことでは人徳はいただけぬぞ
2006.10.17
コメント(0)
愚痴不足 勝手考え 取り越し苦労どれを一つ持っていてもおかげの断りになります
2006.10.16
コメント(0)
時の信心より常の信心時の追肥(ついひ)より常の地肥(ぢひ)時のお百度参りよりはその日参りにお蔭を受けるがよいぞ
2006.10.15
コメント(0)
月例祭教話 平成18年10月14日(土) 1,人間の最も大切なことは性情(気だて・心)の良し悪しである 世の中、話のわからぬ人間だらけ。情緒の潤滑油が乏しいせいで、知性も錆びつき、円通(えんつう)(理があまねく行き渡る)しない。しがないものは暫く置いて、ちゃんとした指導的な知識人であっても、とんとわけのわからないものが少なくない。 頭の良し悪しというが、やはり根本的に大切なのは性情の良し悪しである。 我執の無い、よく人と打ち融けあえる性情の人は自然に頭がよく、自分自身知見が立たずとも、賢者の意見を能く(よく)判断して用いる事柄ができるから、なまじ私見が立つより、もっと頭の良いことにもなる。 どうせねばならぬかを自ら知る者は上の人、次は、他人の善い勧告を用いる人、最下は、自ら人に忠告するすべも知らず、また人の忠告にも従わない人間である。 利己的なあなたのような、誤った考えを押し通す、まともな意見もなく、人からの忠告にも逆切れする人間が最悪なのである。2,信頼関係 『信頼関係』が築けている相手なら、なにを言っても、なにをやっても良い方に解釈してくれます。一方、『信頼関係』が出来ていない相手は、なにを言っても、なにをやっても悪い方にしか解釈しないでしょう。『信頼関係』があれば、ウソがホントになり、ホントがウソになる。『この人は私のことをわかってくれている』と思わせ、会話をスムーズに運び、信頼させ、心を開かせる~悪意ある本心を隠して、近づく悪人も多い。相手をよくみて、感じてみる。目に見える外見を観察することもできないのに、どうして目に見えない心を感じてあげられるでしょうか?だからこそ、よく観て話をしてみることです、心を開放させてみるものです。 いつだって、ひとりの人間として自分を尊重し、向き合ってくれる誰かを私たちは求めているのです。その気持ちをお互いに理解するために、相手のことをよく知り合うことが大切なことです。本心を見極めることに臆病になってはならないのです。3,事業は徳業なり 事業(仕事)というのは、要するに人である。したがって、本当の事業は、事業でなくて『徳業』(徳をたてる事業。善にすすむ所業)なのだ。会社の幹部になって事業を経営する人の人格、その気分、思想などが自然に集まって一つの社風というものをつくる。 その時、会社は法人としての別の人格を持つようになる。経営するものは、これを育て、まっとうな道へ育てていく必要がある。会社にとってまっとうな道とは、いかに関わる人達を幸せにするかである~顧客、従業員、かかわる地域の人達等を幸せに。4,カンケーない 自分が他人の目にどう映っているのかを知るためにも、友人をもっと知ればよいのにと思われるのだが、彼らは確かに心理的距離をおく傾向があり、概して相手をよく知ろうとしない。コミニケーションするのが苦手なこともあるが、親密な関係を持つことが面倒で煩わしく感じているからなのかもしれない。従って、友人たちがいかに素晴らしいものを持っていたとしても気がつかずに終わってしまうことが多い。彼らの関心はあくまでも自分にある。 自分を友人がどう見ているかという観点で、友人を意識しているのである。自分が友人をどう見るかということにはさしたる関心もない。相手を詳しく知って自分の参考にしようという志向も弱い。 さらに見知らぬ人たちには、冷淡で無関心である。すぐに『カンケーないょ』という言葉を発する。会って言葉を交した相手でも、仲間でなく、相手へのマナーや約束はまったく無意味で、相手が困るかどうかまったくカンケーないと考えている。単なる利己的な、自分さえ都合良ければいい人なのである。なぜ、身近に友人がいるときまで、わざわざ携帯で他の人たちと連絡をとりあわなければならないのか。『自分は自分、他人は他人。』としかみれない人は、自分にカンケーがある人の数も狭め、減らしていくのである。いつまでも大人にならないでいい世の中、自己中心的な生き方しかできない人から、相手を思いやれる人として、人と人との関わりを深めて、生きていく事が肝要である。 06012
2006.10.14
コメント(1)
不平不満 怠け心 身勝手な事が身につくと不幸になる悲しい事 苦しい事に出会った時に避けて通る心では不幸になる人間の価値は物に裏付けされがちであるが自ら切磋琢磨することにより培われる豊かな心に価値がある
2006.10.14
コメント(0)
辛抱は徳を積むもとである苦難に負けてはならんどんな苦難にも根気と元気と活気とで耐えていくこと人は試練に耐えた強さだけ成長する
2006.10.13
コメント(0)
2005年11月 日々修行をさせて頂き大変ありがとうございます「初代教会長からの信心の継承」ということでお話させていただきます。「信心」ということでまず思い出されるのが、初代教会長トク姫は、私の祖母の事です。 祖母は、滋賀県の生まれ、ちいさい頃から苦労し、親教会であるこの教会に手伝いとして入り、見よう見まねで信心を始めて、移転前の阿佐ヶ谷教会(現在の荻窪教会)を女で一つで始められたと聞いています。 自分のことはさておいて、信者さんのために、一番よいものは食べ物でも服でもお下げされていたそうです。昭和二十年当時は、よく就職の世話を焼いていたりしたそうです。そんななかに現教会長である父が、戦争でシベリヤに抑留されて帰国、四国の実家より職を求めて、戦友を頼り上京したそうです。戦友の誘いもあり、阿佐ヶ谷の地に住み始め、ご縁を頂き教会信者としてお参り始めました。その後、祖母である先教会長の生き方、信心を持つ祖母の事が忘れられず、後継者として養子に入りました。その父はその後学院に入学し、お道の教師となり祖母を助けて教会が続いていくことになりました。 現教会長である父も、祖母を助けて教会が立ち行くようになりました。その父も自分のことは、さておいて例えば信者さんには、まず自分のことはさておいて、自分の事、家族の事のように、よいものからおさげになったり、自分のこととして、喜び悲しみ苦楽を自分のことのように捕らえ生活しています。 自然に神に向いて生活しており信心が、地につき根をはり、大木となっていることです。生活の中での言葉が、ご理解となっている訳です。 かくゆう三代目(予定)の私は、祖母と父の両教会長と母の信心を引き継ぎ、さらに信徳を積ませて頂き、子孫までも信徳を積んでいきたいと思います。とはいえ、私自身の修行も足りず、ご無礼をしているばかりであります。 これまで教会後継のお役に立たしていただくためのご修行として、教会長より、ご理解にある教典の六百頁にある「その方は何でも、してみよ。何でも、一つは修行のためにしてみよ」と仰せられたので、卵買い、鰻買い、なまず買い、酢売り、醤油売り、牛ばくろう、馬ばくろうなど、あらゆることをしてみた。後、お取次ぎをするようになって、だんだん参考になった。」というように、とにかく社会に出て一人前になり、ちゃんと食っていけるようになるようなかいしょう位身につけてからじゃないと、お道の先生にはれない。就職しなさい。その取次のままに学校を卒業し、紆余曲折はありましたが、無事就職しました。 入社した会社では、医療機器製造部門の工場資材の調達責任を負いながらも会社員として二十四年と二か月間に渡り、朝は五時起床し出社、夜は二十二時半から時には深夜1時半といった生活が当たり前、休日も日曜一日あればよい方でした。更に海外出張もありの生活でした。 ただ少しの休日は、教会御用にあたる事が多く、在籍教会の霊大祭や月例祭の調撰の御用、祭員の御用、近接教会での教会長のお手代わりとしての祭員の御用等もさせて頂き、大変有難く思わせていただいています。 さらに会社では、管理職となり、多くの部下の採用、育成、目標(予算)の達成を要求され、頼りにしていた部下の転属、組織の再編、解体等も行ない、新組織から部下の育成をして考え方、生き方についても会社内外よく語りあって来ました。会社内外の人達とは退職後半年でも送別会が終わらないくらいですから・・・。これは金光教と言えないが、布教をしているような状況で、多くのシンパが生まれてきました。 やはり物事をよいようによいようにとり、「今月今日が大切である。先を楽しめ。」との信心の実践、毎日毎日を苦しくても「朝起きたときが元旦であり、夜寝るときが大晦日であると思え。」とあるように一日一日、気持ちを切り替えて生活させていただいてきました。 歴代教会長と家族と信者さんと会社の同僚、友人達に支えられ存分に社会の荒波にもまれて参りました。この中でも、「物事はよいようによいように取り、信心辛抱で先を楽しむ人生にこれからもさせていただきたいと思います。 今年いろいろなことが神のみ教えのままに起り、会社を退職いたしましたが、業務とは別に知り合った多くの人々が、今回の事を暖かく見守っていただいて、大変ありがたく思わせて頂いております。 会社では、「世界で一番高く買わさせていただいた資材マン」で、本来安く買うのが業務なのに、戒めのためにも自称させていただいておりました。とにかく営業マン相手の身になって考え、相手の営業マンの成績を上げ早くその会社での出世を願い、こちらから何を売ってもらったら、販売高があがるとか、営業マンにこちらから自腹で接待しているような資材マンでしたから、当然相手は、ポジションは上がるは、権限はもつはでよい事づくめでした。最新情報から人事情報までわかり、お互いのよい面悪い面をさらけ出していくなかでともに商売をしてきたわけです。まあこんな調子ですから、会社が変わろうが、営業マンをやっている限りは、こちらと一緒に仕事をしたいと思っていて頂いた訳です。 相手の立ち行きを願い、相手の身になって考え、行動するわけですから相手もうまくいき、こちらも立ち行く 関係を築いていけたようです。これからも自分のことよりも周りの人々の立ち行きを願っていきたいと思いま す。そのことが自然に自分の立ち行きにも道が開けていくのではないかと思います。 家族についても、連れ合いの支えがなければ立ち行かなかったと思います。 朝早く出勤し深夜までも帰らない、休日もないような夫に付き合い、朝早く行く中学生二人の弁当をつくり、幼稚園児の送り迎えをこなす子育てに始まり、家事全般をこなし。教会の御用においても若奥様としての裏方の御用をしていただいていたおかげもあり、今までの自分が、なんとかやってこれたのではないかとないかと思います。「家庭に不和が無きが元なり」ともいうように教会・家庭第一に今後は方向転換し、「家族中、神のことをわすれるな。何事があっても人に頼る事するな。良いこと悪い事も神任せ」で行きたいと思います。 以上でお話を終わらさせていただきます。なお、この教話は昨年親教会の生神金光大神大祭時に行なったものですが、自己紹介代わりにUPさせていただきました。(なお2代教会長は、神の御心のままに今年2月6日に帰幽されました。)
2006.10.12
コメント(0)
真で成就せぬことはなし成就せぬ時は真が欠けたと悟れ
2006.10.12
コメント(0)
1、心 会っても会わなくなっても、1度心を通わしたら、あるとき再会すると、その時の気持ちに戻れる。そのくらい濃厚な時間を過ごしていけば関わりあいも変わってくる。思いやる気持ちの交流が大事な要件である。真逆な時、相手に思いやる気持ちないとき~時間、金、心束縛、すべての無駄遣いである。相手を選び、相手に選ばれるのである。2、自分のしたい事を必ず達成する 今を満足する、何があっても。良くも悪くも起ったことは戻らない、そこから先に起ったことから、教えられたことを実行する~だから人から見たらどんどん悪くなっていくのかもしれない。 楽しい関わり合いがどうなっていくのかは相手次第にしてしまう。相手の望まぬ関係は諦め、出来る可能性にかける。どんな自分を観てくれるのか。どこがいいの?でもどこかいいらしい。 いつも自分の事は曲げたくないし、聞いたふりしていつか自分のやり方を通す。方法は問わず、一番成し遂げられる近道を探すというより、一番誰もが納得できる様な方法をとり成し遂げていく。どこまでも悪意はなく人を愛したい寂しがり屋である。 でもどこか冷めていて、相手の心の裏側を推測し先回りしたくなる。相手がそこまで考えていなくてもそれ以上の考えを先に言いたくなる。相手が悲観的でも楽観的でも、楽観視した言い方や超越した諦めの言葉をかける. 努力したくない人に努力は似合わない。したいようにして、出来ないことはやめる。だからこそ、自分のしたいことはいつか必ず達成する。出来ないことはしたいことから外すだけだから・・・。 どんどん方針を変更していく、最善の方法は今考えた方法だけで、過去の事は総べて参考である。だれもこれから起ることはわからないのだから。3、知の魅力 知性の実の魅力は、安易性、イージーネスにある。現実の限りない複雑性に代えるに、解釈という都合のいい分析や綜合を試み、生という惑いに充ちた現実に対して、簡単な答えを書くことである。 大事なのは、親子・兄弟・親族・隣人・友達・世間と親しく平和に生きることが最も難しい事なんです。 道徳や信仰を研究し、知識や理論を組み立てる方が簡単でやさしいことである。4、利他行動 必ずしも自分の得にならない、むしろ損になれかもしれないのに、他人の利益のために敢えてする~というのが利他行動である。 例えば、列の割り込みを注意する~この場合、注意された相手はその後、ルールを守ってきちんと行動するかもしれない。結果、その人と接する人々は、得をすることになる。自らは何もせずルールは守られ利益を得たことになる。 例えば、列の割り込みを注意する~この場合、注意された相手はその後、ルールを守ってきちんと行動するかもしれない。結果、その人と接する人々は、得をすることになる。自らは何もせずルールは守られ利益を得たことになる。 『情けは人のためならず』自分を犠牲にしても他者のためにする行動が巡り巡って自分のためになる。人に注意することは役に立つ。利他行動は、自分が嫌でも、他人のためにやることを指す。だが脳にとっては嬉しいことであると反応するらしい。 人間は生きるために必要なことに喜びを感じるようにつくられている。情けは人のためではなく、自分のために なるんだと 信じていくことが、人が生きていく道なのかもしれない。目先の自分とって、良くも悪くも関係なく、他人を思いやり、注意することも大事なことなのである。人は関わりの中で生まれ、関わりの中で生きていくのである。 5、困ったとき程、愛しき人の痛みを感じたい 感情に関しては、心の垣根はない。感情は人から人へと心の垣根をこえて伝わる(哲学者、スザンヌ・ランガー) 人間に与えられた最も素晴らしい能力のひとつかもしれない。共感を通して、人と人との絆が結ばれる。 お互いの共感力を高める努力が必要である。一緒に映画を観たり、音楽聴いたり、旅行したりと脳の共感ネットワークを活性化させたい。仲良くなるということは、お互いに相手の痛みに共感する関係ができたと言うことである。そこに踏み込めない関係は結局真の仲間にはなれない。 自分が最悪なとき程、困った時ほど、愛しき人が必要なのはそのためで、遠慮なく頼ることである~真にあなたが相手を大事だと思っているなら。 06009
2006.10.11
コメント(2)
あわてる時がお蔭を頂くときじゃあわてる時にあわてるならばこれまでの信心はなんにもならぬ人をうごかすのは正しいとか間違っているとかの主観的な主張ではなくそれがわかる資料を示すことである、この信念がいる
2006.10.11
コメント(0)
眼に見える所ばかり大切にして眼に見えぬ所を粗末にしております信心致しましたら眼に見えぬ所を大切にせねばなりません子供に対しての親の心がまえ親の過保護と子供の自立心の欠如と期待分析道具を幼児より身に付けさせること我賀心の訓(わがこころのおしえ)当教会の日めくりの文言である。前教会長の50年の歴史の中で暖めてきた訓の集大成である。
2006.10.10
コメント(0)
当教会では、朝夕のご祈念をしております。毎月月例祭(月例祭)4日、14日、24日にて、執行しています。毎年、教会にて執行しています。1月1日ー元日祭春分の日ー春季霊祭5月3日ー天地金乃神大祭6月30日ー夏越感謝祭秋分の日ー秋季霊祭11月3日ー生神金光大神大祭12月31日ー越年祭祭典は14時より、当教会で執り行っています。
2006.10.09
コメント(2)
金光教の信仰 共に助かり立ち行く世界の実現を目指す宗教「金光教」 てんちかきつけ天地書附 ● 取次 ▲信仰トップへ 教会には神様に祈りを捧げる「広前」があり、正面には「天地書附」が掲げられています。 天地書附は、神と人との関わり、信心する者の姿勢が端的に表現されたものです。 その内容には「生神金光大神様のお取次を通して天地金乃神様に一心に願いなさい。おかげは和賀心(和らぎ喜ぶ我が心)にあります。今月今日で(今日をかけがえのない日として)頼みなさい」と、私たちが信心して助かるためのあり方が示されています。明治6年(1873年)、国の宗教政策が大きく変わり、布教が困難を極める状況の中にあって、 教祖は金光教の信心の本質を様式化し、この天地書附として示しました。
2006.10.09
コメント(0)
金光教を紹介します。http://www.konkokyo.or.jp/荻窪教会です。http://www.konkokyotkr.or.jp/annai/index.htm「金光教(こんこうきょう)」の名称の由来 「金光(こんこう)とは金光(きんひか)るということ。 世界中へ“金乃神(かねのかみ)の光”を光らせておかげを受けさせる」 と 教祖金光大神(こんこうだいじん)様は言われました。 教祖金光大神様は、神様の願いに添って、世界中に この光を届け 人類の苦難を救おうとされたのです。 金光教は、「取次(とりつぎ)」を通して、神と人、人と人、人と万物が「あいよかけよ」で共に助かり立ち行く世界の実現をめざす宗教です。 「あいよかけよ」とは、神と人とのあるべき関わりを示した言葉で、人は神の願いを受け、真実な生き方を求めて立ち行くことになり、神もまた、人の真実な生き方によって、その働きを人の世に現すことができ、神も助かるということを表しています。神と人との「あいよかけよ」を基本にして、人と人、人と万物との間にも、同様の「あいよかけよ」が成り立ちます。 人間の助かりをどこまでも願われる神様のお働きに気づき、日常生活の中で、神様とともに生き、身をもって神様のお働きを現していく生き方を、金光教では日々求めています。
2006.10.09
コメント(0)
全41件 (41件中 1-41件目)
1