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萬福寺の北側にある門(北門)の景色です。 前回ご紹介した黄檗霊園の門柱からみて、丁度東側になります。この2つの門の間が駐車場になっています。 霊園の係の方に案内いただけたのですが、 この北門から見えるところに私が訪れたかった場所がありました。北門を入ると、境内は丘陵地を降って行く坂道になっていて、すぐ前方で分岐しています。左側に開平された境内地があり、こちらがめざす場所でした。 私が拝見したかった彫像がこの区画の東端よりにありました。 ネット検索で最初に出会った写真は小さなものでした。そこから辿って、これは「合同墓所 帰元墓」として建立された「黄檗の碑」だと知るに至りました。(資料1)目の前で拝見すると巨大な大理石の岩塊を彫り込んで制作された釈迦涅槃像です。 基壇の正面に「黄檗宗 大本山 萬福寺 合祀墓」の銘板が取り付けてあり、この基壇の内側が永代供養の納骨スペースになっている合祀墓だそうです。この釈迦涅槃像の周辺はメモリーガーデンと称される墓地域にもなっています。(資料1)それでは、釈迦涅槃像を細見していきましょう。 釈尊、ゴータマ・ブッダの死は幾つもの経典で語られています。『ブツダ最後の旅』というわかりやすい題の岩波文庫本が出版されています。パーリ語原文「大パリニッバーナ経」から中村元先生が邦訳されたものです。(資料2)釈尊は、クシナーラーのマッラ族のウパヴァタナに赴き、そこでアーナンダに告げて言います。「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」と。(p133-134)その続きに、「アーナンダはサーラの双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた」(p134)獅子座は台座を意味するようです。「経典の規定のない獅子座は形式ではなく仏の御座の意味とする。」(資料3)この続きに、奇瑞の描写があり、尊師とアーナンダの会話、アーナンダの号泣、大善見王の物語、マッラ族への呼びかけ、スバッダの帰依が記録され、尊者スバッダが釈尊の最後の直弟子となったと記されています。そして、釈迦のアーナンダへの語りかけが続きます。釈尊は、臨終のことばを修行僧に告げました。「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」(p168)最後のことばを告げた後、釈尊は瞑想に入り、ニルヴァーナに入られる状況が克明に記されています。この最後の状況がここに具現化されているのでしょう。日本の諸宗派諸寺では釈迦涅槃図が掲げられ涅槃会の法要が行われています。釈迦涅槃図は様々に数多く描かれていますが、釈迦涅槃像はそれほど多くはないように思います。 釈尊の北側に立つ尊者(たぶん)。 床に横たわる釈尊の尊顔近くで台座に顔をすり寄せて慟哭する比丘(修行者) 一方、横たわる釈尊の両脚の傍の台座に顔をすり寄せて嘆く比丘(修行者) 天を仰いで哭する比丘(修行者) 涅槃に向かう釈尊の背後にも様々な人々がいます。釈尊の間近で頭を抱え込む人、その背後でこの瞬間に驚愕し失神し倒れそうになるのを何とか支えている感じの人・・・・ 同様に、右手を頭にやる人。頭にターバンを巻く人々は釈尊に布施し、釈尊の教えを尊んでいる信者たち(首長、長者、住民等)なのでしょう。各人各様に釈尊の死を悼んでいます。 上掲本には、釈尊の死を悼む場面とその続きに、尊者アヌルッダ、クシナーラに住むマッラ族、マッラ族の8人の首長、ヴァーセッタたち、尊者大カッサパ・・・・・と様々な人々が集まってきます。この「黄檗の碑」(合祀墓)と「黄檗霊園」は宗旨宗派にかかわらずに利用できるそうです。序でに釈迦涅槃像について、私の仏像との出会い範囲で関心の波紋を広げておきましょう。釈迦涅槃図は数多くあるようですが、釈迦涅槃像はそれほど多くはなさそうです。奈良・法隆寺をコロナ禍の前に探訪しました。探訪記はご紹介済みですが、史跡探訪講座での時間制約から五重塔の塑像を十分に見仏できるゆとりはありませんでした。垣間見た程度にとどまりました。しかし、法隆寺の五重塔初層の塑像群は有名です。その北面が「涅槃像土」です。 これは涅槃像土の釈迦涅槃像をクローズアップして使った本の表紙を引用しました。この大型本のp22,23の見開き2ページで涅槃像土の全体が活写されています。解説文には、「やや奥の中央に、漆箔をほどこし後補の度合の多い釈尊の涅槃像がある」(p5)と記載されています。涅槃像の前に居並ぶ比丘形塑像の慟哭し悲しむ姿、それを数体個別に撮った図版も掲載されています。見応えがあります。(資料4)京都市内の仏閣探訪でいくつか出会っています。 一つは、東山・大雲院の門前から正面のお堂の左側に見える大理石製の釈迦涅槃像です。普段は非公開のお寺ですが、門前から見仏することができます。勿論、これはデジカメのズームアップで撮った1枚ですが。 上京区にある報恩寺を非公開文化財特別公開の時期に訪れ、鐘楼と境内墓地を拝見しているとき、鐘楼に近い墓地の一隅で出会ったブロンズの釈迦涅槃像です。 同じく上京区にある通称達磨寺(法輪寺)で出会った木造釈迦涅槃像です。今の所、釈迦涅槃像と出会っているのはこれくらいです。釈迦涅槃図で印象深いのは、東福寺で涅槃会の法要の時に拝見した巨大な涅槃図です。以前に拙ブログ記事でご紹介しています。『ブツダ最後の旅』には、釈尊が涅槃に入られるプロセスを詳述しています。そのプロセスは瞑想からニルヴァーナに入るということなのですがかなり具体的な段階を経るようです。図式的にキーワードでそのプロセスを書き出してみましょう。まず瞑想には4つの段階があるそうです。 初禅 ⇒ 第二禅 ⇒ 第三禅 ⇒ 第四禅ここからその先に次のプロセスを経られたと記されています。 空無辺処定 ⇒ 識無辺処定 ⇒ 無所有処定 ⇒ 非想非非想定 ⇒ 滅想受定この続きがあります。釈尊は滅相受定から順番に、空無辺処定まで戻られるのです。さらに、第四禅から順に初禅まで戻られます。その後、初禅 ⇒ 第二禅 ⇒ 第三禅 ⇒ 第四禅 ⇒ただちに完きニルヴァーナというプロセスで入滅されたと記されています。このプロセスの意味するところは・・・・・凡夫の私にはわかりません。釈尊が入滅するとともに、大地震が起き、雷鳴が鳴ったと言います。その時、サハー世界の梵天が詩を詠じ、神々の主であるサッカ(=帝釈天)も詩を詠じた。さらにアヌルッダ尊者もまた詩を詠じた。アーナンダも詩をとなえた。それぞれの詩の内容が記述されています。これからも釈迦涅槃図と併せて釈迦涅槃像との出会いを楽しみたいものと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 合同墓所 帰元墓 「黄檗の碑」 :「萬福寺」2) 『ブツダ最後の旅-大パリニッバーナ経-』 中村元訳 岩波文庫3) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房4) 『法隆寺 五重塔の塑像』 長廣敏雄・坂本万七・辻本米三郎 岩波書店 1974年補遺黄檗宗総本山 萬福寺 ホームページ涅槃仏 :ウィキペディア釈迦涅槃像 :「文化遺産オンライン」木造釈迦涅槃像 :「千葉県」銅造釈迦涅槃像 :「まるごとeちば」木造 釈迦涅槃像 :「茨城県」金林寺涅槃像 :「茨城県下妻市観光協会」常楽山萬徳寺【じょうらくさんまんとくじ】世界最大級の釈迦涅槃仏:「房総タウン.com]塔ノ沢の石造釈迦涅槃像 :「群馬県みどり市」銅像釈迦涅槃像 :「長野市文化財データベース」神護寺の釈迦涅槃像 :「中津市」世界最大の涅槃像!篠栗町の「南蔵院」はご利益満載のパワースポット:「福岡TOUCH」新知恩院(大津市伊香立下在地町 浄土宗)の木造涅槃像の新発見と初公開について :「大津市歴史博物館」木造釈迦涅槃像(和光寺) 1躯 :「大阪市」京都 穴太寺 なで仏(釈迦涅槃像) YouTube2. 天竺渡来大涅槃石像 :「壺坂寺」(奈良県) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -1 大雲院と祇園閣、円山地蔵尊スポット探訪 [採録] 報恩寺 「鳴虎」と黒田長政ゆかりの寺 -1探訪 京都・上京 法輪寺(達磨寺)と竹林寺 -1 達磨寺の衆聖堂・本堂ほかスポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -7 東福寺涅槃会-大涅槃図御開帳-の折に
2021.05.25
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梅雨のひとときの晴れ間。日曜日(5/23)に図書館へ借りていた本の返却に行った続きに、久しぶりに東方向への坂道を上り、萬福寺の「黄檗霊園」に足を向けてみました。霊園は萬福寺の北側の丘陵上にあり、霊園の道沿いはこの時期ツツジが咲いて綺麗です。自転車を押しながら坂道を登ります。この石段とツツジを眺めながら、この前に自転車を止めるわけには行かないので、坂道の上までまず行きました。 石段の傍には、「報恩 宗祖隠元禅師350年大遠諱」と記された幟が立てられています。 黄檗霊園の入り口。大きな門柱が建てられています。その両柱の正面には漢文が記されています。右柱には「精霊永鎮萬松□」(右柱の最後の一字不詳)、左柱には「幽魂長遊五雲峯」と。霊園は、ここに上ってきた坂道沿いの丘陵を階段状に開平した台地が西方向に広がっています。この門柱の東側に駐車場があります。その一隅に自転車を止めて、霊園の中央通路を西方向に訪れてみました。 上掲の石段を上がった辺りのところに、このお堂が見えます。 お堂の正面に立つと、「北向地蔵尊」の扁額が掲げてあります。 つまり、ここのお地蔵さまは北に向いて立っておられるので、北向地蔵尊です。白地の大きな涎掛けが付けられています。 関西でよく知られているのは大阪の梅田東に安置されている「北向地蔵尊」です。かつてあった梅田墓地付近の畑から掘り出されたお地蔵さまを地主の方が北向きにお堂を建立して祭祀を始められたものだとか。「北向きにするとお地蔵さんが下座になるためお地蔵さんは南を向いていることが多いのですが、北向地蔵尊は人々に寄り添い、願いや悩みを聞き受けてお参りに来た人々を救いたいという思いから、あえて北向きに配されたと言われています」(資料1)入手した資料では、別の考え方もあるようです。『日本石仏図典』続(国書刊行会)には、「地蔵菩薩の浄土である?羅陀山は南方にあって、ここに座すお地蔵様は、おのずと北を向くことになるから」という解釈があります。また、「北向地蔵考:異名にみる北向信仰」(田野登)では、忌むべき方角とされた北を向いてたつ「北向地蔵信仰を、北向きである故に格別な霊威を信じる信仰、即ち北向信仰の一つとして考えて」いるという説もあるそうです。原典は未確認ですが・・・(資料2)北向きに立たれるお地蔵さまは全国的にみても400体ほどしかないと言います。(資料1)ここのお地蔵さまも意図的に北を向いておられるのでしょう。この丘陵地ではどの方向に向けてもお地蔵さまを祀ることのできる広さがあるのですから。以前に史跡探訪の途中で出会ったのは、滋賀県大津市昭和町に祀られている北向地蔵のお堂です。堂前に「北向地蔵尊」と刻された大きな碑も建てられています。(資料3) お地蔵さまに向かって右側に安置されたお地蔵さま 左側には観音菩薩石仏が安置されています。如意輪観音でしょうか。その左側はお地蔵さま? これらも涎掛けがかけてありますので、地蔵信仰の範疇ということでしょうか。お堂の傍の石段を上ります。ここの丘陵地で一番高い開平地の西端方向にお堂が見えます。 南を正面として、「宝蔵国師」と刻された石標が立ち、傍に「京都府指定文化財 宝蔵院 開山塔(江戸時代)」(平成4年4月14日指定)の案内板が設置されています。 六柱造の屋根です。 鬼板はごくシンプルな造形です。 露盤も当然ながら六角形です。 丘陵の南側を眺めると、欄の設置された石段道があります。萬福寺へ向かう参道の途中に「黄檗山宝蔵院」という塔頭があります。ここに見える鉄筋コンクリート造りの建物が目印になるお寺です。この建物、「重要文化財【鉄眼版一切経版木】収蔵庫」なのです。「黄檗山宝蔵院は、1669年一切経の開版を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立したものです。」(資料4)鉄眼禅師の偉業を称え、昭和7(1932)年に昭和天皇から『寶蔵國師』という諡号が特謚されたとのこと。(資料5)つまり、鉄眼禅師のお墓が上掲の開山塔、丁度お寺の裏山上に開山塔が建立されていることになります。連子窓越しに内部を拝見すると2基の石塔が並んでいます。向かって左側には、「寶洲聰老和尚之墓」と刻されています。宝蔵院二代目住職の宝洲禅師の墓のようです。(資料6)消去法でいくと、右側が鉄眼禅師(宝蔵国師)の石塔になります。デジカメの焦点がうまく合わずに石塔の写真が撮れませんでした。残念。今はそば近くまで墓地になっています。たぶん、かつてこのお堂は木々に囲まれた森閑とした中にあったのだろうな・・・・と想像してしまいました。 開山塔の傍に立つ石灯籠この石灯籠の中台や基礎の反花の造形に特徴があるように感じました。 北向地蔵尊のお堂傍の石段を自転車を押しながら上った坂道側に一旦下ってみると、ツツジの生垣越しに見えていたこの同形石塔群があります。後でこの霊園のメンテナンスをされている係の方にお尋ねすると、大名のお墓というお話でした。 この通路の東側にはこの石塔群も祀られています。これも武家のお墓なのかもしれません。かなり古い建立なのでしょう。刻された文字は摩耗風化していて私には判読できません。たぶん江戸時代に建立された石塔群なのでしょう。 霊園内の通路の脇にもツツジの生垣があり、園内の区画の境界にもなっています。お堂から霊園の門柱に戻ります。 「筆塚」が目にとまりました。 筆塚の南側近くで目に止まったのがこの石碑です。向かって右側に句碑が立っています。(判読不詳)霊園の係の方のお話では、大阪の医師会の方々の慰霊碑とのことです。そう聞くと、左の石碑には4文字が刻されていて、最初の3文字は「仁医入」と読めそうなのですが、最後の文字が私には判読できません。これもまた思い込みかもしれませんが・・・・・・。 さらに少し通路を門柱側に戻ると、南北一列の石塔の並びに無縫塔(卵塔)がいくつか見えます。そのすぐ東側に一段下がったところに次の石塔群の一画があります。 北西角で目に止まったのがこの大きな墓石です。「華厳開基南源派老和尚之塔」と刻されています。後で調べてみますと、隠元禅師とともに明国から渡来した禅僧で、万福寺の開創につくし,寛文8年華厳院をひらいた和尚だそうです。(資料7,8) この中にも無縫塔(卵塔)がいくつか見えますので、この一画が黄檗宗禅僧の墓域だとわかります。 南東角の石塔は文字がわかりやすく、黄檗宗第11代の和尚塔です。明国から渡来した禅僧木庵性瑫の法統に独文方炳の和尚名が載っています。(資料7) 上掲した大名の墓と聞いた石塔と同じ形で正面に「合祀塔」と刻された石塔がこの一画に隣接しています。見た感じでは比較的新しい石塔のようです。黄檗宗の禅僧のための本山合祀塔でしょうか。あくまで印象です。たまたまネット検索していて万福寺関連の記事で釈迦涅槃像の写真を見つけたのです。だが、お寺の北側の霊園としかわからなかったのです。黄檗霊園を訪れてみようと思ったきっかけは、この霊園の一隅に該当の合祀墓が設けてあるのだろうという推測でした。そして上記の北向地蔵尊や石塔群との出会いとなりました。見つけられなかったので、たまたま見かけたこの霊園の世話をされている風に見えた人にその場所を尋ねてみました。実は、ごく近くですが別の場所に設けてあったのです。係の方が親切にその場所まで案内してくださいました。つづく参照資料1) 北向地蔵尊 :「梅田東のむかしを知ろう」2) 豊中市内にも北向地蔵がいくつかあるが、なぜ北向きと言われるのか:「レファレンス協同データベース」3) 北向地蔵(昭和町) :「大津のかんきょう宝箱」4) 宝蔵院について 成り立ち :「宝蔵院」5) 鉄眼禅師について :「宝蔵院」6) 鉄眼禅師座像、お引越し! :「宝蔵院」7) 黄檗宗 :ウィキペディア8)南源性派 :「コトバンク」補遺黄檗宗総本山 萬福寺 ホームページ宝蔵院 ホームページ北向地蔵尊 :「ウメシバ 芝田商店街」北向き地蔵 :「那須町商工会」木庵性瑫 :ウィキペディア木庵性瑫 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -2 釈迦涅槃像を拝せる「黄檗の碑」へ
2021.05.24
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