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先日、久しぶりに堀川通に面する風俗博物館と龍大ミュージアムに出かけました。JR京都駅との往還での一コマをご紹介します。京都駅ビルを出て、建物沿いに西方向に進むと、JR京都伊勢丹に沿って歩道を歩きます。目に止まるのがこの彫刻像です。目にするのは初めてではありません。「観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺」という記事をシリーズで2019年2月にご紹介しています。その時には、 このモニュメントだけご紹介しています。この時は彫刻像そのものに意識があり、台座の方をそれほど意識していませんでした。 今回はこの台座の方にも目が向きました。左矢印と「梅小路公園」、右矢印と「京都駅」の銘板が正面に取り付けてあります。この彫刻モニュメントは道路標識を兼ねているのです。小さな案内銘板も取り付けてあります。 「EC(581形)電車」で「昼は座席、夜は寝台に変身する」そうです。写真から銘板の「京都・梅小路みんながつながるプロジェクト」という一行が判読できます。このプロジェクトの一環としてこのモニュメントが整備されたようです。(資料1) 京都駅ビルの西隣にビックカメラの店がありその西側に小ぶりな広場(公園)があります。道路脇にあるのがこのモニュメント・道標です。 彫刻像は「ミズクラゲ」と題されています。ふわり水中をただようミズクラゲです。広場の先はT字路になり、道路の南側にはハローワーク、北西角にAPA HOTEL京都駅前があります。そのまま道沿いに進みます。 もう一つのモニュメント・道標 関西と北海道をつないだ「トワイライト(EL)」です。梅小路公園に行く線路沿いのルート上には、さらに他のモニュメントが設置されているそうです。また、七条通のルート上にもモニュメントが道案内をし、梅小路公園内にもモニュメントが設置されているそうです。(資料1)今度は機会を作って、このモニュメント撮りのウォーキングをしてみるのも面白いかなと思っています。不動堂(明王院)、道祖神社の前を通り過ぎ、塩小路通に出て左折します。この明王院のあるあたりが、「南不動堂町」で、塩小路通の北側が「北不動堂町」です。塩小路通を西に進むと、「堀川塩小路」の交差点。ここには北西側、南西側、北側へ渡れる大きな陸橋が繋がっています。塩小路通から北に三筋目が七条通です。「堀川七条」の交差点の北西角が興正寺、その北隣が西本願寺。東面する西本願寺の前、堀川通の東側に、龍谷ミュージアムと風俗博物館があります。一旦、陸橋を南西側に渡り、リーガロイヤル・ホテルの前まで行きました。 ホテル正面へのアプローチの北側歩道寄りに設置されている石碑を改めて見るためです。最近、新選組関連の本を一歩踏み込んで読み始めています。そこでかつての不動堂村あたりの位置関係などを体感、再確認したかったのです。 石碑の傍に設置された銘板の標題は「この付近 新選組 不動堂村屯所跡」です。このモニュメントは、2003(平成15)年6月15日、地元有志によりここに建てられました。新選組は現在の西本願寺の北東角にある太鼓櫓と北集会所を無理矢理に屯所として調達しました。西本願寺屯所です。そして、オランダ式調練と称し、会津侯から甲府された大砲2門で空砲を放つ。屯所に猪売が来るとそれを煮て食べるなどしたと言います。(資料2)「本堂との間は青竹を組んだ矢来で区切り、風呂もあり、牢屋から首切りの土壇場までこしらえてあり、竹矢来を通して本堂から見えるあたりで隊士の切腹もあり、処刑されるものの悲鳴も聞こえ、町人が縛り上げられて責められているのも見えたそうです。」(資料3)とか。(資料2,3)西本願寺の門主をはじめとして寺側には耐えられない状況になったと言います。その結果、「土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末」(上掲銘板より)、西本願寺が費用を負担する形で、南に位置する不動堂村に屯所を移転するということになります。その背景には、当時の西本願寺門主が勤王派を支持していたことに関係があるそうです。土方歳三はそれを承知の上で、新選組の屯所を確保する資金を引き出すことを意図し、まず西本願寺を屯所として調達することしたという深慮があったと言います。嫌がらせ的な行動は十分な広さの屯所確保のためとも考えられるという説です。この不動堂村の屯所に移転したのは事実です。子母澤寬は「新選組に就ての巷説漫談或は史実を、極くこだわらない気持で纏めたに過ぎない」という立場で新選組三部作と称される本を書きました。『新選組始末記』がその一冊です。そこに、以下のように記しています。「本願寺の本陣を更に堀川通の東、大津屋橋の南、不動堂村に一町四方の地所を求め、ここへ引き移ったおはその年の初冬であった」(p223)他の一書には、「その場所は堀川通りの東、木津屋橋の南、不動堂村の内で、一町四方の土地を購入し、新選組の望みどおりの建物を新築した。現在の下京区堀川通り塩小路西南角のグランドホテルのある場所が不動堂屯所跡にあたる。」(p259)文中のグランドホテルは現在はリーガロイヤル・ホテルになっています。現在の地図を見ますと、リーガロイヤル・ホテルは堀川通の西側にあります。一瞬、上記資料を読みアレッ?と思ったのですが、古地図を調べてみて、理解できました。 1686(貞享3)年に発行された「京大繪圖」(新撰増補)の部分図を引用します。(資料5)西本願寺前を南に流れる堀川は、現在の七条通から一筋南(下魚棚通)の辺りで南西方向に向きを変え、次の筋(木津屋橋通)で再び南方向に流路を変えています。つまり、不動堂村屯所が堀川通の東という位置関係はリーガロイヤル・ホテルの場所とは矛盾しません。木津屋橋通という地名が残っていますので、木津屋橋の南という記述も現在の地図と対比して矛盾はありません。子母澤寬が大津屋橋と記述したのはたぶん単純ミスか誤植なのでしょう。現在、堀川は御池通以南は完全に暗渠になっています。現在の地図を見ますと、堀川木津屋橋通交差点の南西側は鎌屋町です。この町内を南西方向に道路が横切り、町内区域の南西角辺りで道路が南進しています。西堀川通です。つまり、現在は道路になっていて、位置関係が一致します。現在、モニュメントが設置された場所が、不動堂村屯所の敷地になるのかどうか。このあたりで一町四方の土地がどのように確保されたのか、それを確証できる資料はないようです。「新選組の屯所に関する資料などはほとんどなく、不動堂屯所はまるで存在しなかったかのように手がかりがありません」(資料3)現在の地図を見ますと、モニュメントが建つ場所(リーガロイヤル・ホテルの敷地)は松明町で、東隣が南不動堂町。松明町の北隣りは御紺屋町で、御紺屋町の東隣が北不動堂町・南不動堂町になっています。不動堂村屯所の位置として、リーガロイヤル・ホテルの辺りではなく、さらに東側だという説もあるようです。新選組が大名屋敷のような規模の不動堂村屯所に移転したのは1867(慶応3)年6月15日。この5日前に、新選組全員が正式に幕臣となったと言います。しかし、徳川慶喜が大政奉還を行い、同年12月9日には、御所で王政復古の大号令が発せられます。12月16日に、新選組は伏見鎮撫として伏見奉行所に入ります。鳥羽・伏見の戦いの前夜となって行きます。つまり、不動堂村屯所は結果的にわずか6ヵ月ほどでその機能を終えたのです。解けない謎が多い屯所です。それ故に興味が湧く屯所です。どこから、関係文書など史資料が出てくると、おもしろいでしょうね。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都・梅小路マップ モニュメント紹介 :「京都・梅小路エリアガイド」2)『新選組始末記』 子母澤寬著 中公文庫 p222-2233)『京都新選組案内 物語と史跡』 竹山峯久著 創元社 p142-143,p165-1664)『新選組事典』 鈴木亨編 中公文庫 p2555) 京大繪圖 : 新撰増補 所蔵地図データベース :「国際日本文化研究センター」補遺新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(一):「3D京都」新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(二):「3D京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社]
2021.07.31
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17日に前祭・山鉾の建ち姿を見に出かけたとき、四条川原町の交差点を横断し、高島屋前の南歩道を西に歩いていたとき、何気なく北側歩道の屋根上のビルに目がとまりました。普段、進行方向に意識が向いていますので、通りの反対側の屋根の上あたりは視野に入っているだけで、意識してません。ビルの谷間のように、一段低い建物が目にとまりました。立体菱形を組み合わせた意匠で壁面を装飾したビルです。縦長でドア・ノブが付いた扉と横長の窪みが窓のように見えますが・・・不詳です。左右のビルは全く異なるタイプの外装。左のビルは縦一列に、一見壁龕風の印象を受けます。長刀鉾あたりまで、北側歩道の屋根の上のビルの表情を意識的に撮り、ウォッチングしながら西に歩くことにしました。地図で確認すると、この北側歩道に面した商店街の並びが、下京区の北端になり、その北側は中京区の行政区域になります。これは、四条通の南北両側に跨がり、両側町として、町内が左右に連なっていることによるのでしょう。四条河原町の交差点からは、西に真町、御旅町、奈良物町、立売東町、立売中之町、立売西町、長刀鉾町と続きます。 格子と方形をデザインに取り入れているビル。左の方形に「四条御旅町 田ごと」の商標が見えます。京料理のお店。御旅町は通りの南側に八坂神社御旅所のあるところです。 右のビルにスターバックスのロゴマークが見えます。スターバックスのこのマーク、「船乗りを魅了して溺れさせる人魚・セイレーン」がモチーフなのだそうですね。(資料1)左のビルの壁面には、かわいい子猫の顔、サンリオのキャラクター、ハロー・キティ。誕生日は11月1日だとか。このビル、大型生活雑貨専門店のイノブン四条本店だったと思います。 このビルの外観がおもしろい。ビルのトップに瓦屋根が設えてあります。京の町中のこだわりでしょうか。調べてみて、龍善堂は茶道具を扱うお店とわかりました。ナルホド!です。(資料3)その下はスポーツ用品を扱うことが一目瞭然です。 ビルの間の新京極通です。ここははっきりと新京極アーケード街の南端入口の表示が見えます。屋根の破風が重層しているイメージなのでしょうか。私には合掌部を意識させている印象を受けます。観光都市京都で、観光客向けの町中の中心地でもあります。明治になって意図的に計画されて作られた通りです。 西隣りは「寺町通」です。通りの東側には、ビル自体はは少し奥(北側)に建ち、エレベータが北側歩道に面している、尖塔をイメージさせるビルがあります。寺町通の入口はアーチ状のデザインです。寺町通はもともと、豊臣秀吉が京に御土居を築き、都市改造を行ったとき、京のお寺をこの通りにそって移転させて集め、京の防備を兼ねさせたところにその名が由来します。河原町通という地名は、もともとその辺りは鴨川の河原だったところから来ています。つまり、寺町通沿いのお寺は、御土居のすぐ内側で、いざという有事の際は防御用の寝泊まりの拠点にする意図を持たせたのでしょう。横道に逸れました。元に戻ります。 御幸町通との交差点、北東角のビルだったと思います。今まで全く気づかなかったのですが、ビルの3階部分に唐破風屋根の前面破風部分が取り付けてあります。なぜ、ここに・・・・・?御幸町通の一つ西側は麩屋町通です。この四条麩屋町の交差点(辻)では、前祭の巡行当日に先頭を行く長刀鉾に乗る生稚児が、「注連縄切り」の行事を行う辻です。四条通の南北に斎竹(いみたけ)が立てられ、それに張られた注連縄を鉾上から日本刀の真剣で断ち切るという行事です。現在の形での注連縄切りが行われるようになったのは、1956(昭和31)年からだそうです。その年に前祭の巡行路が変更されて、この行事が一つのハイライトに生まれ変わったとか。八坂神社の神域に近づくために、その結界を断ちきり前進する、いわば露払いの役割を担うようです。(資料4,5)このことを考えると、少し先の東側のビルに唐破風が象徴的に設えてあるのは、唐破風の屋根のある門を通り抜けていくという繋がりになるのかもしれません。これは、私的な連想、推測にすぎませんが・・・・・。 のっぽビル、前面を縦格子風にしたビル、横格子風にしたビル、切妻屋根のビル、ローマのコロセウムの壁面を連想させる外観のビル。ABC MART、BIG CANERA は良く知られたブランドです。「NOMURA TAILOR」と表示されています。「コットン生地、リネン生地 ウール生地を始め服飾材料や手芸材料などを主に」取り扱うお店です。(資料6)その西隣り、黒地に世界ブランドのロゴマーク。説明なんて不要でしょう。 かつての京都の町家は間口が狭く、奥行が長い敷地になっていました。間口の広さにより、今風にいえば税金を課せられる額が異なったと見聞した記憶があります。間口が狭ければ税金額が少なくてすむと。そういう敷地割りをそのまま継承してきているのでしょうか。ほぼ同じ間口で高さの違う建物が並んでいます。右の建物の上部には、「SAKIZO PLAZA」と表示されています。調べてみますと、「ちりめん洋服」メーカーを創業することから始め、いまでは多角的にさまざまな業界に関わりグループ事業化されているようです。(資料7) 私が関心を抱いたのは、谷底になり低くて前面に樹木が繁る建物です。これも意識的にウォチングして初めて気づいた建物です。左上に「緑ノビル」と表示されています。2012年12月8日に、京都初の屋上・壁面緑化ビルとしてリニューアル・オープンしたとか。「桐畑ノ寝具・雑貨」というお店の建物。(資料8)西隣は京呉服・和装小物の専門店「みのや」の四条ビル。外観イメージでは連想できません。(資料3) ここも似たような間口。左が少し狭い感じです。「パタゴニア」のブランド名は良く知られていることでしょう。山屋の人々には馴染みのブランド。(資料3) バルコニーを積み上げたような感じのビル。左側は、オレンジ色の切妻平入り屋根に、切妻の妻入り屋根が軒屋根風に2つ張り出した周辺では一番小ぶりな建物。Lady という文字が見えます。「レディ・ワタナベ」という婦人服小売販売のお店です。(資料3) お店のシャッターがこの日閉じていました。 ちょっとお洒落な絵が描かれています。その西側のコンクリート打ち放し様のビルは冨小路通に接するビルです。建物前面に緑色の文字で「UNITED COLORS OF BENETON」と表示されています。ベネトンも世界的なブランド。このビルに入店しているという表示です。西角には創作陶器の「たち吉」も入っているビルです。 冨小路通の西側のビル。四条通の南側のビルの姿が、鏡面反射で映じています。以前は、ジュンク堂書店が入っていたのですが・・・・。今はどのようなお店が入っているのか知りません。 ガラス壁面を大きく取り入れたビルの谷間が見えます。そこに和風屋根の建物が建っています。人形の老舗「田中弥」です。祇園祭には例年正面のショウウィンドウにミニチュアの山鉾が飾られます。今年は南側歩道ばかりを往復しましたので見落としました。ちょっと残念。たぶん、今年も何らかの形で飾られていただろうと推測します。 柳馬場通を挟んで、デザインはそれぞれ異なりますが、ガラス壁面の広がるビルが続きます。ここもガラス壁面に南側のビルの姿が映じています。「ヤサカ四条ビル」と表示されています。 ビルの谷間になっているのがこの2つのビルです。右側には輸入洋食器専門の「ル・ノーブル」というお店です。左側は「MARUKA」という各種商品買い取り店のようです。 新生銀行京都支店のビル、堺町通、茶色の野村證券ビルと続く先に大丸四条店が視野に入ってきます。 余談ですが、堺町通の西側、野村證券ビルの前には「長刀鉾からくり時計」が設置されています。昔、一度見た記憶があります。箱型時計の金属面に鏡面反射で屋根裏が映じています。この底面が降りてきて、長刀鉾が現れてぐるりと回転し、人形が動くという仕掛けです。四条堺町の近くは、通例だと、前祭の17日山鉾巡行において、くじ改めの儀式が順次行われる場所です。(資料9) 高さの低いビルには「Kirindo」と表示されています。ドラグストアのチェーン店です。前面がガラス壁面のビル。正面に掲げられたロゴをみれば、だれでもわかるブランド。そして、高倉通を挟んで大丸京都店です。 大丸の正面中央には、孔雀のブロンズ像が置かれています。大丸のシンボルです。この像がここにあることをどれだけの人が気づいているでしょう。大丸前の北側歩道を歩いていれば見ることができません。南側歩道を歩いていてビルを眺める人もそれほど多くはいないでしょうから、意外と知らないかもしれません。 入口には暖簾が掛けてあります。久しぶりに大丸の入口を眺めたのですが、以前にかかっていた記憶がありません。 大丸のビルを通りすぎると、やはりガラス窓を含み、ガラス壁面の多いビルが続きます。長刀鉾が視野に入ってきました。 鉾の屋根の左側、茶色いビル(東横INN四条烏丸)と大半がガラス壁面の黒色のビルとの間の谷間に、長刀鉾の会所があります。黒色のビルは、日本生命や丸三証券の京都支店が入っているビルです。(資料3) 三井住友銀行京都支店のビルが四条烏丸交差点の北東角になります。かっちりした印象を与える外観です。ビルの外壁も時代の変化、流行を反映して様々な表情を見せてくれます。おもしろい。最後に余談です。ふと、なぜ孔雀が大丸のシンボルになったのだろうか?という疑問が湧きました。求めれば、それなりの由来がわかるものです。「大丸の歴史」にその由来が説明されています。以下、引用です。「孔雀は300年近く前に長崎貿易で輸入され、大変珍しがられました。心斎橋店の近くに孔雀の剥製を秘蔵している者がいて、“孔雀屋敷”と呼ばれていたことに由来するのではといわれています。また、建築を依頼したヴォーリズ建築事務所の資料には、当時の下村社長がアメリカの会社にフェニックスを注文したのが、何かの事情で孔雀に変わったものらしいという記述もあります。以来、孔雀は大丸のシンボルとして使われてきました。」(資料10) また、江戸時代に出版された『摂津名所図会』には、「孔雀茶店」と題し、見開きのページで孔雀を見世物として見物させていたことが紹介されています。(資料11)この辺で、四条通中心部のビル・ウォッチングを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) スターバックスのロゴの歴史。”海の怪物”モチーフに、いまでは文字すら要らなくなった :「Workship NAGAZINE」2) Hello Kity :「サンリオ」3) お店を探す :「四条繁栄会商店街振興組合」4) 注連縄切り :「京都通百科事典」5)祇園祭 長刀鉾お稚児さんのしめ縄切り :「京都旅屋」6) ノムラテーラーとは :「ノムラ」7) SAKIZO ホームページ8) “緑ノビル”がオープン-2012年12月8日- :「四条繁栄会商店街振興組合」 9) 祇園祭くじ改め(前祭) :「京都 Kyoto」10)大丸と孔雀 大丸の歴史 :「大丸」11) 摂津名所圖會 [2] 秋里籬嶌 著述[他] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 59/61コマ目に掲載補遺【祇園祭】山鉾巡行 注連縄切り 【京都】 YouTube京都野村證券『長刀鉾からくり時計』(京都府京都市)[設備からくり079-001] YouTube孔雀茶屋と花鳥茶屋―動物園・動物カフェ前史 :「せとうち観光専門職短期大学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.07.28
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四条通に建つ長刀鉾に戻ると、着々と鉾を終う作業が進んでいました。懸装品を手際よく取り外し、片付けていく作業が分担で同時並行で手際よく行われています。 上水引(天水引)が既に取り外されていますので、本体の天井部分の飾りの全体が見えています。 内部の天井の周囲は四角い区画に分割されています。28区画割にしてあると言います。赤地錦が貼られ、大小の銀鋲(びょう)を打ち黒漆塗細棒で様々な形に繋いであります。星座の意匠だそうです。(資料1)つまり、28区画は星座の二十八宿(古代中国の28星座)に対応しています。(資料2) 28区画の一部を切り出してみました。 こちらはウィキペディアからの引用図。『安部晴明簠簋(ほき)内傳圖解』に掲載されています。(資料3)その内側の天井部分に赤地の布地には雲形文を刺繍してあるのがわかります。また、屋根を突き抜ける真木を支える柱が四隅から斜めに伸びています。 鉾正面の両角に取り付けられていた角房と角房錺金具を取り外そうとしています。 下水引(一番水引、二番水引、三番水引)の正面と右側面、前懸、右側の胴懸部分の全景が見えます。 一番水引の正面は、緋羅紗地に「五彩雲麒麟図」が刺繍されたもので、1988(昭和63)年に復元新調されています。オリジナルは、1775(宝暦5)年、狩野派鶴沢探山門下の大森捜雲の下絵を元に、松屋庄兵衛、松屋文右衛門が刺繍したものと言います。「五彩雲麒麟図」が四周の欄縁直下を飾っているわけです。二番水引と三番水引は一体型に仕立てられていて、こちらもまた順次復元新調されてきました。二番水引には四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)と八珍果(林檎・銀杏・枇杷・桃・柘榴・柿・梨・茘枝)が刺繍されています。 正面:朱雀華紋(1995年復元新調)、後面:玄武華紋(1996年復元新調) 右側面:白虎華紋(1997年復元新調)、左側面:青龍華紋(1998年復元新調)このオリジナルは、1821(文政4)年、岸駒を師とする白井華陽が下絵を描き、近江屋藤次郎が刺繍をした作品だそうです。三番水引は「菱枠飛龍丸文錦」紋織の錦です。菱形の枠の中に、丸龍、飛龍、青海波、鳳凰、獅子などを描く形で構成されています。(資料5)「蜀江雲龍文様繻珍」(資料7)とも称されます。 このシリーズの最初にご紹介した左側面(北側)の胴懸は、東側に「梅樹図絨毯」、西側に「中国玉取獅子図絨毯」の2枚が並んでいました。この右側面(南側)の胴懸は、東側に「中国玉取獅子図絨毯」(16世紀初頭の作)があり左右が照応しています。そして西側に「十華の図 牡丹唐草アラビア文字額絨毯」(17世紀初頭の作)が掛けてあります。(資料7) 鉾の後面に掛けられていた見送は既に片付けられ、下の胴懸を見ることができます。上掲右側面を撮る前にこちらを撮っています。右側面の胴懸に飾り房が未だ残っています。つまり片付けプロセスの時間の経緯を判断していただくとお解りいただけるでしょう。こちらの胴掛懸の正式な名称は不詳。花文様の絨毯です。 正面から眺めた屋根の妻側。鯱の下部の波濤文透かし彫りがダイナミックです。 鯱を南側から眺めた景色。屋根棟の側面には三つ巴紋の上に青海波文がレリーフされています。 鉾を終う作業の細部を眺めてきました。長刀鉾の全景を最後に眺めて、コロナ禍の前祭・山鉾見物を終えました。後祭は残念ながら出かけませんでしたので、私のY2021・祇園祭は17日だけで終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 山鉾の魅力細見 -長刀鉾- :「京都市下京区」2) 二十八宿とは 古代中国28星座 :「古文書ネット」3) 二十八宿 :ウィキペディア4) 長刀鉾 一番水引幕(五彩雲麒麟図) 正面 :「川島織物セルコン」5) 長刀鉾 二番・三番水引幕 :「川島織物セルコン」6) 祇園祭・長刀鉾の幕を新調/下水引後面、250年ぶり 2007.6.11 :「SHIKOKU MEWS 四国新聞社」7)祇園祭 ―長刀鉾の名宝― :「京都文化博物館」補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ安部晴明簠簋内伝図解 柄沢照覚著 神誠館:「国立国会図書館デジタルコレクション」 58/117コマ目に図が載っています。鶴澤探山 :ウィキペディア大森捜雲 :「コトバンク」岸駒 :ウィキペディア白井華揚 :ウィキペディア祇園祭 山鉾編 文化史 :「フィールソ・ミュージアム京都」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ
2021.07.27
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蟷螂山を後にして、さてどうするか。数を考えるとまだ見落としているものがありそうです。しかし、具体的な情報を事前に入手していませんので、少し適当に山鉾探しで歩いてみることにしました。一旦西洞院通を上り錦小路通に右折し、新町通との辻まで行きます。南を眺めれば放下鉾が見えます。そこで、新町通を一筋上がることに。新町通に左折すれば、ここは後祭で南観音山が建つ百足屋町です。後祭は24日が巡行日でしたが、宵山も当日も山鉾は一部建っているのに、行きそびれてしまいました。残念! 未だ前祭の残りをまとめています。 百足屋(むかでや)町の途中で南を振り返ると、17日時点でしたが町内各所に祭提灯が整然と建てられていて、その先に放下鉾が遠望できます。祇園祭はほぼ7月ひとつき、様々な行事があります。後祭の山として早めから準備がされているのでしょうか・・・・。 京町家が改装されたのでしょうか。新しさを感じました。くろちくの暖簾がかかり、二階の北側の漆喰壁にも大きく紋が付けられています。「百尺足館」と読める表示が出ています。祭提灯が建ち並ぶだけで華やかさが加わります。次の辻で右折し蛸薬師通を東に向かいます。 通りの南側を歩いて行くと、丈夫そうな囲いを設けた北向きの小祠が目に止まりました。北向きのお地蔵さまかなと近づいてみると、「天道大日如来」の扁額が掲げてあります。京の町中でけっこう小さな地蔵堂と出会います。時折大日如来を祀るお堂を目にすることもあります。山鉾町の会所で天道大日如来が祀られているのに出会ってもいます。 室町通に到る少し手前、北側のビルの一角、駐輪場になっている場所に駒札が見えます。「此付近 南蛮寺跡」の石標が建っています。以前に訪れたことがあります。 「織田信長の時代に、耶蘇会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった『南蛮寺』は、この北側姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。 戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄2年(1559)から本格化し、永禄4年(1561)年にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正4年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、7月16日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亞上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれた。 しかし、天正15年(1587)6月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。 京都市」(駒札転記)駒札に記載される南蛮寺は京の都に南蛮寺が建てられた前期にあたるそうです。前期は弾圧を受けるなど荒廃があったけれども30年前後にわたり存続しました。ルイス・フロイスが『フロイス日本史』に記した南蛮寺は場所がこの姥柳町にあった時代の記録のようです。さらに、慶長の半ば頃に南蛮寺が再建され、慶長末までの10年間の布教活動の後に抹殺されるに至る後期があったと言います。後期ははこの南蛮寺跡ではなく、別の場所に南蛮寺が建てられたと言い、諸説の記録が残っているそうです。だいうす町、徒斯ノ辻子、四条坊門などという名称で呼ばれました。また、南蛮寺というのは仏僧側が名付けた呼称で蔑称の意味合いを含んでいるとか。当時の文書には天主教会・キリシタン寺・だいうす寺などと記されているそうです。(資料1) 蛸薬師通を左折して室町通を上がります。東側に「登龍門 鯉山」の看板が目に止まり、その前まで行ってみました。 鯉山の会所の扉に、「本年は非公開」の貼り紙がしてあります。たしか、この会所の通路の突き当たりに、天道大日如来の小祠が祀ってあったと記憶します。鯉山は後祭の山鉾の一つです。後で調べますと、山を建てる予定が開示されていました。後祭に出かけなかったので確かめてはいません。17日時点としては、非公開と表示されていたのでしょうか。不詳です。四条通に行くつもりなので、室町通を下がってみることにしました。 こんな「周辺観光案内図」が設置されています。室町通に合わせてあるためか、地図の方位は左側が北、右側が南で表示されています。観光客の立ち位置でわかりやすくしているということでしょう。 この地図で、京都の町の通り名の位置関係がお解りいただけるでしょう。 上掲の案内図の設置されている場所は「京都芸術センター」の前です。右の門柱に銘板が嵌め込まれています。一方、左の門柱にも銘板があり、これを見ると、ここがもと「京都市立明倫小学校」だったことがわかります。祇園祭の時に幾度もこの前を通りながらそれほど意識していませんでした。今回改めて調べてみて、幾つかのことを知った次第です。「明治2年(1869年)に下京三番組小学校として開校した明倫小学校は、平成5年(1993年に124年の歴史をもって閉校し」(資料1)ていたのです。124年の歴史が幕を閉じたのです。2000(平成12)年にその建物を利用して、「京都芸術センター」が開設されました。この小学校の建物は、2008(平成20)年に国の有形文化財になっています。(資料2)少し先の錦小路通との辻まで行き、錦小路通の西を眺めると 山を終(しま)う作業が半ばまで終わっていました。「霰天神山」です。残念!「蟷螂山」に向かうため、西洞院通を下がっていたとき、辻の先を見過ごしていたようです。 道路の南側に、山を飾った樹木が置かれています。つまり、もうどの山・鉾も終う作業にかかっているということです。錦小路通を東に進み、烏丸通から四条通に向かうことにしました。 錦小路通を歩いていて、目に止まったのがビルの間に瓦屋根の付いた門の傍の駒札です。道路を横切り近づいてみました。 ここは、「明倫小学校旧正門跡」だったのです。(錦小路室町通り東入る北側)「心学講舎『明倫舍』と明倫小学校(下京第三番組小学校)」と題して案内文が記されています。このあたり、地図を確認すると占出山町です。心学・石田梅岩については文化史の中で学んだことがあります。しかし、その弟子・手島堵庵(とあん)がここに心学講舎「明倫舍」を設けて梅岩の教えを伝える拠点にしていたとは知りませんでした。上掲の室町通に面した現京都芸術センターの門が旧明倫小学校の正門になってからは、こちらの門が裏門として使用されていたとは、歴史を感じます。 少し先に進むと占出山町会所の注連縄の張られた門の片側に石標が見えます。「此附近 木下順庵邸跡」と記してあります。木下順庵(1621~1698)は京都出身の儒学者。加賀前田藩に招聘され仕えたのち、天和2(1682)年幕府に登用され徳川将軍綱吉の侍講となった人。(資料3)門下には木門の十哲と称される人々を輩出。その中に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲がいます。(資料3、『日本語大辞典』講談社) 錦小路通から烏丸通に出ますと、南方向で山の終い作業が行われていました。「孟宗山」です。ここも山の躯体を残しほぼ片付けが終わる段階でした。交差点を東に横断し、東側歩道を下がって四条通に戻ることにしました。 ここで目に止まったのがこの石の鳥居と銅板葺きの屋根です。これも新たな気づきです。 近づいてみると、石鳥居に「八坂神社 御手洗井」と記された扁額が掛けてあります。 柵から覗くと井戸と覆屋です。 これもまた、今まで意識しなかったのですが、地図を確認すると手洗水町という町名があります。駒札の最初に「例年祇園會中(7月15日~24日)この井を開いて神水を領つ。秀吉の頃町民の申出により町名となる」と町名由来が記されています。かつてこの地は祇園社御旅所社務藤井助正の屋敷地でそこにあった井戸とのこと。庭前に牛頭天王社を建て、この井戸の霊水を毎朝奉供していたと言います。織田信長の命で御旅所が移転後に、この井戸だけが維持管理されてきたようです。駒札の末尾を読むと、明治45年3月、烏丸通拡張のために、この井戸は原形のままで東に移転されここに定まった。そして改めてここで井戸が掘られたそうです。深さ7尋半と記されています。1尋は6尺。約1.8mですので、約13.5mの深さまで掘られているようです。都下の名水の一つだそうです。さてここからは、四条通で左折して、長刀鉾を最後に眺めて終わりです。つづく参照資料1) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p204-2092) 旧明倫小学校について :「京都芸術センター」3) 木下順庵邸址 いしぶみデータベース :「フィールド・ミュージアム京都」補遺南蛮寺 :ウィキペディア都の南蛮寺図 :「文化遺産オンライン」京都芸術センター ホームページ祇園祭の宵山と占出山(うらでやま)の吉兆あゆ ?安産のお守りはこれより出ますー大極殿本舗 吉兆あゆ [京の暮らしと和菓子 #14] :「瓜生通信」(京都芸術大学)石田梅岩 :「コトバンク」石田梅岩 :ウィキペディア手島堵庵 :「コトバンク」手島堵庵 :ウィキペディア手島堵庵 五楽舍跡と石門心学 :「田中ケース」木下順庵 :「コトバンク」木下順庵 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へ
2021.07.26
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西洞院通蛸薬師の交差点から西洞院通を下がれば錦小路通の先が「蟷螂山町」です。ホームページに、住所は中京区西洞院通四条上る蟷螂山町と表記されています。「蟷螂山」の「蟷螂」とはカマキリのこと。 山に御所車が載せられていてその御所車の屋根に大きな蟷螂が乗っています。なぜ、こんな形の山ができたのか?南北朝時代、この辺りに公卿四條隆資が住んでいたといいます。四條隆資は足利義詮軍と戦い破れます。その戦いぶりが「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事のごとくであったと喩えられました。彼の戦いぶりが「蟷螂の斧」だったという喩えです。同じ町内に住んでいた渡来人の「陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行した」(資料1)のがこの山の始まりと言います。山名はこの蟷螂の喩えに由来します。(資料1,2)「隆車」は高くて大きな車、「隧」(すい)は「みち」です。カマキリが大きな車の通り道で前足を高く上げ車の前進を防ごうと立ち向かうという文意です。つまり、「蟷螂の斧」は「非力な者が、身のほどもかえりみずに強敵に立ち向かい、無謀な抵抗を試みることのたとえ」(資料3)になっています。とてもかなわないというたとえ。この成句は『韓詩外伝』を出典とするそうです。(資料3)手許の本で少し調べますと、『荘子』の「外編 天地」には、「蟷螂の臂(ひじ)を怒らして以て車軼(しゃてつ)に当たるがごとし」(カマキリがそのかまを振り上げて、大八車に立ち向かうようなものだ。とても敵しうるものではない)という成句が載っています。荘子は戦国時代(東周末期)の人物。一方『韓詩外伝』は前漢時代の書だそうですので、「蟷螂の斧」は荘子の「蟷螂の臂」を踏まえた上での成句かもしれません。(資料4,5)脇道に逸れました。元に戻ります。陳外郎大年宗奇は非力を承知の上で、敢えて戦いに臨んだ四條隆資の心意気を称えたかったのでしょうね。「一寸の虫にも五分の魂」という側面に通じるところをとらえたかったのかなと思っています。 蟷螂山の特徴は、このカマキリの前足、後足、翅を動かせる「からくり」が仕組まれていることです。御所車の車輪も回転するようになっています。巡行中にはそれらを断続的に動かすパフォーナンスが演じられます。それを見た観客からはやはりどよめき声があがります。山鉾の中で蟷螂山は唯一からくりが施されているものです。翅や足が動くのは何度みてもおもしろい。初観客のどよめき声をおもしろく感じているのかもしれません。 「蟷螂の斧」が非力といえども、これだけ大きいカマキリを正面から見上げると、それなりの迫力がありますね。 山の正面には左右に金幣が備えてあります。 御所車は「屋形のある車。昔、貴人が乗った、牛車の俗称」(『日本語大辞典』講談社)です。牛車にはいろいろな種類がありました。この御所車は屋根は唐破風型ですから「唐車(からのくるま)」をモデルにしているようです。唐車は、上皇・皇后・東宮・親王・摂関などの乗用する牛車で、最も格が高く大きな牛車だったと言います。(資料6) 御所車の屋根の前後には鯱を据えてあります。城の天守閣の屋根や寺院の屋根に据えられた鯱と同じ向きです。それを思うと、最初にご紹介した長刀鉾の屋根の鯱が特異な向きだと感じます。なお、狩野山楽筆「車争図屏風」(重文)を見ても、唐車の屋根に鯱を載せているのはなさそうです。(資料7)この鯱は、祇園祭の行事・巡行する山として煌びやかさを加え、一方で魔除けを兼ねた御所車に対するデフォルメなのかなと私は受けとめています。このまとめをしている時に、ふと「国宝上杉本洛中洛外図屏風」のことを連想しました。 これはウィキペディアから引用した上杉本洛中洛外図屏風右隻です。(資料8)この右隻の第二扇から第三扇にかけて、狩野永徳は祇園祭の巡行風景を描き込んでいます。 第二扇の上端から5分の2程の左端に長刀鉾が描かれています。それに続き、第三扇の右端に蟷螂山が続いているのです。 蟷螂山にフォーカスしますと、このように描かれています。こちらの2枚は、かつて京博で展覧会後に購入した本からの部分図引用です。(資料9)いくつかのことがわかります。1.狩野永徳がこの洛中洛外図を描いた時代に蟷螂山が巡行していたこと。 この屏風は天下統一を狙う織田信長が、1574(天正2)年に上杉謙信に贈ったと言われています。2.この絵には、現在と同様に、山本体の上に御所車が載せられ、その屋根に大きなカマキリが乗っていること。上記の蟷螂山の始まりの通りです。 この絵からはカマキリが乗っているだけなのか、当時からからくりがあったのかどうかは判断しづらいところ。少なくとも綱のようなものは描き込んでは居ません。4.御所車は網代車のスタイルで描き込まれていること。四條隆資は生前、従一位大納言で、左大臣を追贈されたそうです。唐車に乗る人の当時の格を考慮すると、生前は網代車を使用していたとみるのが整合するような気がします。贈左大臣を重視すれば唐車なのかも・・・・・。唐車の方が恰好いいとは感じます。5.天正時代に蟷螂山は町衆が担棒を肩に担いで巡行していたこと。 現在はどの山も車輪を付けて巡行し、巡行路の辻で一時的に担ぐというパフォーマンスに変化しています。これはまあ時代の変化なのでしょう。 御所車の右側面両端に昇り龍の装飾彫刻が施されています。 御所車の車輪を眺めましょう。 こちらは既にご紹介した月鉾の車輪です。対比参照の参考になります。ネットで御所車の車輪を調べてみると、蟷螂山の車輪は葵祭で使われる御所車の車輪に近い感じで車輪が表現されているように思います。懸装品を細見していきましょう。 欄縁は唐草文様の透かし彫り錺金具で装飾され、三つ巴紋のレリーフが取り付けてあります。また、欄縁の下面には房飾りの金具が取り付けてあります。 山の4箇所の角には、角房飾り金具がつけてあり、房を掛ける箇所にカマキリの彫刻像が取り付けてあります。今まで何度も蟷螂山を眺めていますが、2017年の宵々山めぐりで訪れた時には、角房飾り金具のこの箇所にカマキリはいませんでした。初めて気づいた次第です。水引きには、橘の木に止まるカマキリが描かれています。羽田登喜男作「吉祥橘蟷螂図」(1999/平成11年)です。(資料11) 前懸の「瑞祥鶴浴之図」(1981年/昭和56年)です。鶴が水浴びをしています。実っているのは桃で、桜が咲いているようです。左上は栗(?)でしょうか、不詳です。鶴の羽根の彩色が瑞祥の一端をを象徴しているようです。山全体に覆屋が設けてあることもあり、前懸の全体図を正面から撮ることはできませんでした。上辺部が欠けていますが、2枚の写真を合成してみました。 右側の胴懸、「瑞苑群遊鴛鴦図」(1983年/昭和58年)です。 左側の胴懸の「瑞苑孔雀之図」(1984年/昭和59年)です。 山の下部を見ると、四方に裾幕が張られています。縄がらみの技術部分は残念ながら見えませんでした。 残るは山の後部、見送です。 カマキリの下に吊された角房は三段に結び目が作られています。上下は総角結びでしょう。中央は私には不詳です。この結び方は白楽天山でも使われていたと思います。見送は残念ながら斜めからしか見ることができません。大凡は見えますが、やはり正面から見ないと図柄の全体像がわかりづらい。これは「瑞苑飛翔三図」(1990年/平成2年)です。これらの前懸、胴懸、見送は共に人間国宝の羽田登喜男作の友禅です。(資料1,10)蟷螂山もまた、巡行に加わって以降、再三戦火に遭いその都度復興を繰り返すという歴史をたどっています。そして、幕末の元治の大火(1864)でその大部分を焼失してしまい休み山という事態に立ち至りました。そして、1981(昭和56)年、117年ぶりに蟷螂山が再興されたのです。(資料1,2)この辺で蟷螂山のご紹介を終わります。それぞれの山鉾の過去の歴史という側面に一歩深く入って行くと、懸装品の歴史、変遷も含めて、「伝統」の継承と発展という観点で、「伝統」が培う力強さを感じます。そして、そこに時代に合わせて新たなものを付け加えていく「伝統」の奥深さとダイナミズムを感じます。あと少し山鉾探しのウォーキングをして、四条通に戻りたいと思っています。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 蟷螂山 祇園祭 蟷螂保存會 ホームページ3) 『新編 読み・書き・話すための 故事ことわざ辞典』 監修・郡司利男 Gakken4) 『中国古典名言事典』 諸橋轍次著 講談社学術文庫 p3605) 韓詩外伝 :ウィキペディア6) 『源氏物語図典』 秋山・小町谷 編 須貝 作図 小学館 p70-747) 重要文化財 「車争図屏風」 :「e國寶」8) 洛中洛外図 :ウィキペディア9) 『国宝上杉本洛中洛外図屏風』 米沢市上杉博物館 2007年改定再版10) 四条隆資 :ウィキペディア11) 祇園祭-蟷螂山の名宝- :「京都文化博物館」補遺牛車 :「コトバンク」 牛車の構造名称を示すイラスト図が載っています。木造車輪とは :「株式会社 竹田工務店」葵祭 御所車葵祭 御所車 羽田登喜男 :「東京文化財研究所」羽田登喜男 :「羽田工房」蟷螂山で愛らしいかまきりと人間国宝・羽田登喜男氏の見送りを堪能:「京都癒しの旅」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -11 前祭宵々山(2) 蟷螂山観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -2 油天神山、芦刈山、四条傘鉾、蟷螂山、放下鉾、孟宗山、孟宗山、菊水鉾、占出山観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -2 10番・太子山から16番・蟷螂山まで
2021.07.25
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白楽天山を後にして、山鉾さがしに入ります。山鉾が一部建てられることになったという報道だけでこの日(7/17)出かけてきましたので、山鉾町エリアをウォーキングすることになりました。実は、後で「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)のホームページを見ると、「山鉾建て予定図」が公開されていました。山鉾を巡る効率としては少しマイナスになりました。しかし、逆に巡行が中止となり人通りの少ない山鉾町エリアそのものを歩くことで、地域探訪という副産物を得ることができました。今回は山鉾さがしの道すがらに出会えたタウンウォチング・ポイントのご紹介です。いわば、閑話休題というところです。白楽天山から東西の高辻通まで下り、右折して一筋西へ。新町通との辻で北を眺めても、道路が見えるだけです。新町通を北に上がって、東西の仏光寺通との辻に佇みます。ここに立てば、本来なら新町通の北方向に船鉾、南方向に岩戸山が見えるはずなのですが・・・・。仏光寺通に左折して、管大臣神社の北の石鳥居を眺めつつ通りすぎます。北の四條通までの西洞院通は南北方向に山鉾はもともとないので、更に一筋西まで進みます。油小路通に到る手前が木賊山の場所なのですが、ここも道路を通り過ぎるだけに。仏光寺通と油小路通の辻に立てば、油小路通の南方向に太子山、北方向に油天神山が見えるはずなのですが、今年はここも道路が見えるだけ。右折して油小路通を北に上がります。 油小路通と綾小路通との辻の南東側に、小規模な「火尊天満宮」があります。所在地でいえば、中京区油小路通綾小路下ル風早町です。風早町の名は、かつてこの辺りに藤原北家閑院流風早家の邸宅があったことに由来するとか。(資料1) 祇園祭なので幕が張られています。 祭神は菅原道真と彦火火出見尊(山幸彦)です。ここに祀られている御神体である菅原道真の木像が本来なら巡行当日は油天神山に遷されて巡行することに。もともと、この辺りに彦火火出見尊を祭神とする愛宕神社があり、「火伏せの社」として信仰されていたそうです。そこに風早家の邸内に祀られていた菅原道真の木像が合祀され「火尊天満宮」と称されるようになったとか。(資料1,2) 神前には、中央の高坏に扇型に象った昆布や姿通りのスルメなど、その左右の高坏にはちまきが盛られ、御供えがしてあります。油小路通を北上します。四条通を横断しさらに進みます。 情緒のある京町家が西側に見えてきました。軒屋根の上には虫籠窓が見えます。 左端の柱に住所表示板が取り付けてあります。「中京区錦小路通油小路下ル」までは判読できます。地図で確認しますと、藤本町です。 駒札が設置されていて「野口家住宅」と表記されています。少し大きくしても読みづらいので、案内文を転記します。「野口家は、代々呉服商を営んでいた旧家である。 現在の主屋は、元治元年(1864)の大火後に再建されたもので、店舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した表屋造りの形式となっている。 主屋の表構えは、店舗棟の北側に高塀を接続させた構成である。内部では特に座敷が注目される。野口家文書によると、座敷はもと伏見の小堀屋敷にあったとされるものを、明治4年(1871)に伏見の豪商松屋彦兵衛から購入、移建したもので、12畳半の主室と次の間から成る。主室は1間半の床の間と1間の違棚をそなえ、端正ななかにしゃれた数寄屋風書院の構えをもち、長押の釘隠し金物や天袋の引手金具の意匠に、小堀遠州との関わりの深さを思わせる。 この住宅は、京町家の典型例の一つとして貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。 京都市」 屋根や塀の上端に盗難除けの防御柵が木製なのが家屋と調和しています。金属棒が並んでいたら、やはり情緒がトーンダウンすることになりそう・・・・。綾小路通を横切ってもう少し北に上がってみることにしました。 通りの東側には以前に眺めた景色を久々に見ました。 「本能校跡」のモニュメントです。 その北側にもう一つのモニュメントがあります。「本能寺跡」です。「のう」の漢字は文字変換できません。本来の文字と見比べてみてください。このあたりが、かつて織田信長が1582(天正10)年「本能寺の変」により命を絶った「本能寺」があった場所です。日隆聖人による創建当初は油小路高辻にあり「本応寺」と号しました。1433(永享5)年に四条坊門大宮に移り本能寺と改められます。天文・法華の乱で寺を焼失後、1545(天文14)年この地に再建されました。(資料3,4) 「本能寺の変」時点での本能寺は、六角通と錦小路通を南北の境とし、東は西洞院通、西は油小路通を境として囲まれた二町四方(東西約140m、南北約270m)の広さだったそうです。「四囲を堀で囲み、土居を築き、出入口には木戸を設け、仏殿・客殿・厩舍などが建ち並び、さながら小城郭のようであった」(資料4)と言います。その本能寺が再び焼亡しました。 通りの西側には昔ながらの京町家が残っています。赤い暖簾には「翔縁居」と白抜きの名称が入っています。調べてみますと現在、民宿として営業されています。(資料5) 軒屋根には、魔除けの鍾馗像が置かれています。 モニュメントをもう一度眺めてから、蛸薬師通に右折します。 東に進むと、小川通との辻です。その南西角にもう一つの石標があります。「此附近 本能寺址」です。 右は蛸薬師通小川の辻に立ち南西角を眺めた景色。左は小川通の南方向。余談です。現在の本能寺は、その再建中に豊臣秀吉の命により1587(天正15)年に現在地に移転することになったとか。そして1592(天正10)年に完成します。(資料4,6,7)川原町御池の交差点の南西側、京都市役所から御池通を挟み南側で、川原町通と寺町通の間が寺域になっています。秀吉により再建された建物は天明大火(1788年)で焼失し、またもや再建されますが、幕末の1864(元治元)年に蛤御門の変にて焼失します。現在の本堂は1928(昭和3)年の造営と言います。(資料4,7)場所も建物もすべて変わり、「本能寺の変」の「本能寺」は現地に佇み、想像するしかなさそうです。西洞院通との交差点に出ると、南方向に山が建っています。「蟷螂山」です。つづく参照資料1) 火尊天満宮 :「廻遊日記~京の神祠~」2) 火尊天満宮 :「菅公巡拝記」3) いしぶみデータベース 地域別一覧 中京区 :「フィールド・ミュージアム京都」4) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p2345) 翔縁居 様 :「京都ののれん」6) 『昭和京都名所圖會 洛中』 武村俊則著 駸々堂 p2617) 本能寺について :「本能寺」補遺羽林家(風早) :「公卿類別譜」風早家 :ウィキペディア火尊《かそん》天満宮 :「山陰亭」京都市指定・登録文化財-建造物(中京区) :「京都市情報館」野口家住宅花洛庵 :「いつか・住もう・京都・2」花洛庵野口家住宅 :「菊約の京都ブログ」対談 この人と話そう.... 八代目 野口晴代さん :「や和らぎ たかす」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へ
2021.07.24
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室町通を下り、綾小路通との辻をそのまま横切ると、白楽天町です。室町通の東側に「白楽天山」が建っています。 唐の詩人白楽天(白居易)が道林禅師に仏法の大意について問答する場面を題材にしています。「白楽天山」の名称は、白居易を教え諭した道林禅師よりも、詩人として有名な白居易の名に由来しています。(資料1,2)白楽天は唐織白地狩衣に唐冠をかぶり笏を持っています。道林禅師は緞子地の紫衣に藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持っています。 (資料1)唐の時代、杭州に道林禅師という名僧がいました。この禅師、風変わりな人で、大寺名刹にて説法することをしないで、西湖の北に位置する秦望山の大きな松の枝に板を渡し、その上で坐禅をしているという僧でした。それ故、人々は「鳥窠和尚」と呼んだそうです。詩人白楽天の名前で有名な白居易(772-846)は杭州の太守(刺史)として当地に赴任し、鳥窠和尚のことを聞くや、早速秦望山に鳥窠和尚を訪ねます。 勿論、和尚は松の樹の上に巣くっています。 白居易は鳥窠道林禅師にまず質問します。このエピソード、 『景徳伝燈録』(宋釋道原撰、貞和4刊)に載る鳥窠道林伝を記した箇所に記録されています。(資料3) この記述と手許の本を参照すると、最初にこんな問答が交わされたのです。(資料3,4) 白居易「そんな高いところにおられるのははなはだ危険ではございませんか」道林 「太守の方こそ、まことに危険至極だと思うがな」白居易「紅山を鎮圧する位のことで、太守の私にはなんら危険はありません。」道林 「鎮圧する威力があり、地位が立派でも、どうかな。あなたの心はちょうど薪に火がついたように煩悩妄想で燃え上がりとどまることがない。それを危険といわずにおれようか。はやく心の火を滅し、安心立命を得ることじゃ」 この後に、有名な問答が続きます。 白居易「如何なるか是れ仏法の大意」(仏法のギリギリのところは、どういうものですか。)道林 「諸悪莫作 衆善奉行」(諸々の悪いことをするな、もろもろの善いことをせよ)白居易「そんなことぐらいなら、3歳の童子でも知っていますよ」 道林 「ただ言うだけなら3歳の童子でもできるじゃろう。だが、いざ実行するとなれば経験・学識のある80歳の老翁でもむつかしいことだよ」 香山居士と号し仏教に真摯に帰依していた白居易は、返す言葉もなく、鳥窠道林禅師に厚く帰依したと言います。(資料4)鳥窠道林禅師の答えた「諸悪莫作衆善奉行」には出所があります。釈尊の十大弟子の一人、多聞第一と評される阿難尊者がある人に問われました。「過去出世の七仏たちが、秘中の秘として、代々大切にうけついで来られた教えというものはなんでしょか」と。阿難尊者は次の偈で答えられたそうです。 諸悪莫作 しょあくまくさ 諸の悪を作(な)すことなかれ 衆善奉行 しゅぜんぶぎょう 衆(もろもろ)の善を奉行せよ 自浄其意 じじょうごい 自ら其の意(こころ)を浄くする 是諸仏教 ぜしょぶっきょう 是れ諸仏の教えなりこれは、「七仏通戒の偈」として知られている偈です。 (資料4)さて、白楽天山の懸装品を眺めていきましょう。 前懸は、2つのものが継ぎ合わせてあります。まさに東西の混淆というおもしろさです。中央は叙事詩「イーリアス」のトロイヤ戦争物語に出てくる「トロイヤから脱出するアイネリアス」の場面だそうです。16世紀に作られたゴブラン織です。その左右には1808(文化5)年のもので「波濤飛龍文様刺繍官服直し」。つまり、もとは中国の官吏の服だったものを仕立て直したということでしょう。(資料5)トロイヤ戦争のことなど全く知らない町衆たちは、そのエキゾチックさ、新奇さに魅了されたのでしょうか。 正面の左右には、大きな金幣が備えてあります。 金幣をこんな角度で見るのは初めてです。雲形文の透かし彫り装飾が見えます。菊結びの赤い房が吊り下げてあります。 水引は1978(昭和53)年フランスから購入した17世紀製作の毛綴だとか。(資料1)それが水引の幅、サイズに裁断されて使われているようです。この水引の左に「IVSTITIA」、右に「CONCORDIA」という言葉を判読できます。この胴懸(左側)は、17世紀のフランドル地方製のゴブラン織(毛綴織)で「農民の食事」風景です。1978(昭和53)年に購入されたとか。 こちらは右側の胴懸です。18世紀のベルギー製タペストリーで「女狩人」(毛綴織)と称されています。上記と同様に1978(昭和53)年に購入されたそうです。各山鉾を巡っていると、祇園祭の長き伝統の中で、各山鉾において所蔵品の復元新調や新規作品の導入、あるいは伝統と融合する作品の追加購入などにより、計画的に伝統維持推進の営みを続けられていることを感じます。こちらの面の欄縁の錺金具の美を細見する一例として右から左への順次部分撮りしてみました。 黒漆塗の欄縁全面が透かし彫りの錺金具で覆われています。 正面と右側面の角です。角房金具が2箇所に取り付けてあり、それぞれに大きな房が掛けてあります。山の4つの角それぞれを飾っています。下側の角房金具をクローズアップしてみました。道林禅師に因み、松の木を意匠化しているようです。房をかける部分は松ぼっくりの形らしい。 この結び方、何と呼ぶのでしょう。同一の結び方をインターネットの結び方事例では見つけることができませんでした。山の足元を眺めてみましょう。 鉾から比べると、縄がらみの技術の使い方、仕上がりはわりとシンプルな感じです。今年は巡行をしない前提ですので、巡行用の車輪などの取り付けは省略されているようです。黒漆塗りの担棒が4本取り付けられています。その先端部それぞれは錺金具で覆われています。各担棒の正面には、「白」という文字、神紋様の紋、三つ巴紋がレリーフされています。 最後に、山の後部を飾る見送です。染織作家山鹿清華による「北京万寿山図」手織錦です。1983(昭和28)年に製作された作品。万寿山は北京の西北にある清朝の離宮です。(資料6) 見送の上部には、大きな房掛け金具が2つ並んでいます。 雲形文の上を駆ける空想上の聖獣・麒麟がレリーフされています。 左右の体部の表現が異なります。雌雄を表現しているのでしょうか。 見送の下端部には裾房金具が取り付けられ、総角結びの小さな房がかけてあります。 裾房金具には、龍がレリーフされています。すべて手作りなのでしょう。ひとつひとつが微妙に違っています。こんなところもおもしろい。この辺で「白楽天山」を終わります。今年は一部の山鉾が建つという報道を読んだだけで出かけてきました。これから先は、山鉾町のエリアを久しぶりに歩きながら、建っているものを求めてのタウンウォッチング・モードに入ります。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 白楽天山 ホームページ3) 景徳傳燈録30卷. [2] 宋釋道原撰 貞和4刊 :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 『茶席の禅語(上)』 西部文浄 タチバナ文庫 p3-p85) 祇園祭-白楽天山の名宝- :「京都文化博物館」6) 山鉾の魅力細見 -白楽天山- :「京都市下京区」補遺鳥窠禅師と白居易の問答 管主 加藤朝胤 :「薬師寺」鳥窠道林 :ウィキペディア山鉾の魅力細見・山鉾由来記 :「京都市下京区」麒麟 :ウィキペディア幸せを運ぶ”聖獣麒麟” :「KIRIN」東京・日本橋の麒麟像 :「Tripadvisor」頤和園 :ウィキペディア北京世界遺産紀行「頤和園」 :「北京世界遺産紀行」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡観照 祇園祭 Y2018 前祭 -3 綾傘鉾・白楽天山・保昌山
2021.07.23
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四条通に戻り、室町通を南に入ります。池坊短大の学舎の近く、室町通の西側に「鶏鉾」が建っています。 鉾頭は見づらいですが、三角形の中に円形が入っている形です。これは「鶏卵が諌鼓(かんこ)の中にある」ことを表しているそうです。諌鼓は訴訟用の太鼓のこと。これは中国古代、堯の時代の「諌鼓」の故事に由来します。たしか孔子は堯舜の時代の政治を理想と考えていたと学んだ記憶があります。堯の時代は天下がよく治まっていて太平の世が続き、訴訟用の太鼓が鳴ることがなかった。つまり、朝廷の門外に設置されていて、君主に諌言しようとする者が打ち鳴らすための太鼓が使われることなく苔蒸し、その中に鶏が宿ったというのです。鶏鉾の名前はこの故事がその象徴となっているようですが、定かではないとのこと。(資料1,2)「諌鼓、苔蒸し鳥驚かず」という成句が辞書の「諌鼓」の項に載っています。(『日本語大辞典』講談社) 真木の中程の天王座には、透明のシートで覆われた人形が載っています。航海の神、住吉明神が祀られています。(資料1) 屋根には放下鉾と同様に獅子口が載っています。経の巻の正面が三つ巴紋であることは同じです。しかし、綾筋の下および足元の意匠は異なります。どう違うかを対比してみてください。破風の合掌部、拝に八坂神社の神紋が備えてあるのは同じです。その下の懸魚はこちらも三ツ花懸魚系の意匠と思いますが、シンプル化されたものです。 破風の三角形の部分には、中央の大瓶束を挟んで、鶏と草花などが彫刻されています。 こちらは、後方の同じ箇所を撮ったものです。鶏や草花の姿はそれぞれ異なります。正面の天水引は「瑞雲、日輪と麒麟図」綴織です。四条派画家、下河辺玉鉉の下絵による文政8年の作。天水引に向かって右下に玉鉉の名と落款が見えます。 下水引は、四条派の祖、松村呉春下絵による金地綴錦「唐宮廷楼閣人物図」です。綴による精密に描写された作品。(資料3)二番水引は「緋羅紗地蝶文様刺繍」(「春秋蝶図」)。松村呉春の弟の松村景文の下絵です。50匹余の蝶が描かれているとか。私はカウントしていませんが・・・・・。三番水引は「紫紺地四季草花図綴織」(「生花図」)です。円山応挙の下絵と伝わるそうです。(資料3,4) 航海の神・住吉明神が守護神であることにちなみ、近年新調された「蓬莱山」と称する前懸です。青海波に新感覚が取り入れられ、たなびく金雲のかなたに山々が聳えていますが、厳しさはなく柔らかさ和みを感じます。金色の太陽も輝いています。 正面に対し左側の胴懸の全体像を正面から撮るのは難しい。斜めから見ますと胴懸が少し波打っています。 胴懸は、「御朱印住吉船図」です。帆一杯に風を受け白波を蹴りたてて疾走する貿易船が描かれています。中央の緑色の大きな帆の左側には甲板に人の南蛮人が座っています。帽子を被っています。 室町通の東側歩道に渡ります。右側の胴懸もまた船が描かれています。 胴懸の下には、鉾の躯体部分を覆う裾幕が風に揺れています。 残念ながら縄がらみの仕上げが見えません。 舳先側、右端に帽子を被った南蛮人が居ます。 一方、艫(とも、船尾)の建屋の中にも南蛮人が描かれています。船尾左端に南蛮人がもう一人描かれています。よく見ると、黒丸に「角」の文字が白抜きになった旗が風にたなびいています。角と言えば、南蛮貿易を手掛けていた角倉家です。つまり、「御朱印角倉船図」です。こちらは、清水寺の重要文化財の絵馬「朱印船」を綴錦にして、1980(昭和55)年に新調されたものです。(資料3)この2枚の御朱印船は、鉾の進行方向に突き進んでいる図柄になっています。余談です。朱印船貿易は、海外に出向く船に政府が許可の朱印状を与える制度です。室町時代に始まり、豊臣秀吉が1592年に朱印船制度を整備し、徳川家康がそれを継承しました。足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るための天龍寺造営を目的に、数回派遣した「天龍寺船」が有名です。江戸幕府は、鎖国政策を取るまでの期間、海外渡航許可の朱印状を与えました。「朱印状は1604(慶長9)年から1635(寛永12)年までに350通余りが発行された。朱印船を出して貿易利益をあげた者は105名の名前が分かっており」(資料5)とのことです。大名以外に商人としては、長崎の末次平蔵、摂津の末吉孫左衛門、京都の角倉了以や茶屋四郎次郎、堺の納屋助左衛門、松坂の角屋七郎兵衛などが名を連ねています。(資料5)そこで、上掲の「御朱印住吉船図」についての補足です。船尾をもう一度ご覧ください。「末」と記された旗が翻っています。摂津の末吉孫左衛門と考えられます。摂津といえば住吉大社、航海の守護神です。こちらも京都・清水寺に奉納された絵馬が下絵になっています。調べていて、ツイッターの記事に出会いました。(資料6) 鉾の後側(南面)に回り込むと、「縄がらみ」の仕上がりの一部を見ることができます。 鉾の後側の右車輪です。木製のストッパーが前後にかませてあります。画像を眺め直して改めて気づいたのは、車輪が板の上に乗せられてストッパーがかませてあることです。改めて今までにご紹介した鉾の車輪の写真を再確認してみました。これもまた鉾により様々なやり方のようです。ちょっとしたことがおもしろい気づきにつながります。 見上げると見送が掛けてあります。邪魔なものなしに全体を眺められるのはいいですね。通常の宵山でも、巡行中でも、こんな形で鉾全体を眺めることはできません。 1枚のタペストリーが16世紀頃ベルギーで製作され、江戸時代初期に輸入されたことから一つの物語が始まります。日本に輸入された後、いずれかの時点でそのタペストリーが分割されました。その一部がこれです。鶏鉾の見送として使われました。他の部分は、霰天神山と滋賀県の長浜曳山祭・鳳凰に分割され所有されることになったのです。そして同様の役割で使われています。このタペストリー(綴織)は、叙事詩「イーリアス」の「トロイア戦争」の一場面と考えられてきました。見送のこの場面は、近年の調査によるとトロイの皇子へクトールが妻子に別れをつげる図であるということがわかったと言います。現在のこの見送は2003年に復元新調されたものとか。オリジナルは現在国の重要文化財に指定されています。(資料1,7) さて、それでは鶏鉾を後にして、室町通を南下してみることにしましょう。南を眺めると、白楽天山が建てられていそうに見えました。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 山鉾の魅力細見・山鉾由来記 :「京都市下京区」3) 山鉾の魅力細見 -鶏鉾- :「京都市下京区」4) 祇園祭-鶏鉾の名宝- :「京都文化博物館」5)『詳説 日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編 山川出版社 p179,p2446) タイ展に行きタイ!7)伝統脈々魅惑の懸装品 補遺朱印船 :ウィキペディア清水寺 渡海船額(絵馬) :「京都観光Navi」「船絵馬」の世界 :「探検コム」第一章 船絵馬の成立と展開 船絵馬入門 :「日本財団 図書館」鳳凰山(祝町組) :「曳山博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -2 10番・太子山から16番・蟷螂山まで 鶏鉾の巡行風景が中に入っています。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -6 鶏鉾の鉾建て 点描:なわがらみの美観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -5 放下鉾・霰天神山・山伏山・四条傘鉾 タペストリーの分割にからむ、霰天神山を少しご紹介しています。
2021.07.22
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北側歩道を西に、室町通北入ルを見ると菊水鉾は鉾建てされていません。さらに一筋西の新町通の北を眺めると、鉾が見えました。放下鉾(ほうかほこ)です。放下鉾は、「天王座」に放下僧を祀ることに由来します。(資料1)「放下僧」は「放下を演じた芸能者。僧形の者が多かった。ほうかぞう。放下師。放下」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。「放下」を読むと、「①中世から近世にかけて大道で行われた手品・曲芸の類。品玉、輪鼓、など田楽から転じた芸が主。②①を演じた芸能者。放下師」(同上)とあります。 左が鉾頭の部分です。これは、日・月・星の三光が下界を照らす形を現していると言います。この形が州浜に似ていることから、別名「すはま鉾」とも呼ばれるとか。(資料1) 鉾に近づきます。放下鉾も函谷鉾と同様に鉾の屋根の上に覆が設けてあります。各鉾を巡っていてふと気づいたことは、例年宵山までに山鉾巡りをしていた時は、山や鉾の周囲を囲む「埒(らち)」と称する背の高い木製の柵が設けてあります。そのため山鉾を飾る懸装品などの全体を撮ることができません。17日は前祭の巡行日当日なので、早朝に埒が撤去されたのでしょうか。それとも鉾建てだけを行った今年は埒を設置していなかったのか・・・・どうなのでしょう。いずれにしても、傍近くで懸装品を今までよりも全体的に見ることができたのは良かったです。 こちらの屋根には獅子口が設けてあります。経の巻の正面には三つ巴紋が彫り込まれています。 屋根の合掌部の拝には、放下鉾もまた八坂神社の神紋が錺金具にレリーフされています。その下には、ここも三ツ花懸魚が使われています。破風の三角部分・妻飾りとして、正面には三羽の丹頂鶴、後面は二羽の丹頂鶴が飛翔しています。これは「幸野楳嶺(1844~95)の下絵を高浮彫し大正6年に完成したもの」(資料1)だそうです。 天水引は、雲形文の間に円形状に火焔龍が刺繍されて、鉾の四方を廻っています。「金地丸龍模様織物」と称されるようです。現在は複製品が使われています。オリジナルは、明治25年に西陣榎本織物により制作されたもの。(会所の展示説明より) 下水引は、1994(平成6)年から使われている綴織です。栂尾高山寺の国宝華厳宗祖絵伝を下絵に制作されたものと言います。正面は留学を終えて帰国のため、航海途上の義湘の乗る船を描いているようです。中央の下辺には、波間に浮かぶ箱が描かれています。それは、善妙が義湘のために取り揃えていた仏具を入れた箱です。善妙はその箱を船に向かって投げ入れたのです。右側面の下水引は、その後海に飛び込んだ善妙は、その身が龍に変わるのです。そして、義湘の航海を守ったと伝えられているとか。この絵伝は高山寺を復興した明恵上人が発案して制作されたものと伝わるそうです。(資料2) 3番下水引は駒井源琦の下絵による「青海波おしどり図」を復元した綴織だそうです。(資料1)駒井源琦は江戸中期の画家で、画を円山応挙に学び、「長沢蘆雪とともに応挙門の二哲と呼ばれた。応挙没後,応瑞を補佐して円山派を盛り立て、応挙画風を素直に継承した温雅な画趣を特色とした」(資料3)と言います。 正面の前懸復元新調されたもののようです。オリジナルは17世紀後半の作品。メダリオン中東連花葉文様でインド模織絨毯のようです。 右側の胴懸は、花模様のインドあるいはペルシャの絨毯のようです。少し調べてみましたが詳しいことはわかりません。 正面右側の車輪車輪止めの道具には荒縄が結びつけてあります。巡行中の一時停止に使われるのでしょう。その左に立て掛けてあるのは、直進だけの車輪の方向を微調整するときに使われる道具です。 「縄がらみ」技術による仕上がりの美。前回、月鉾でご紹介した仕上がりの形と見比べてみてください。鉾によって仕上げ方に違いがあります。 鉾の後方の車輪の間の「縄がらみ」技術による仕上げ。これもまた仕上げが違います。こんなところの観察も鉾巡りの楽しみです。 鉾の後側の全景です。後懸の上部半分に重なる形で、上水引に重ねてその下から見送が掛けてあります。 見送は1982(昭和57)年から皆川泰蔵作「バクダッド」が使われています。染織家皆川泰蔵が﨟纈(ろうけつ)染めの技法で制作したと言います。 見送の裾房飾りの金具をよく見ますと、フクロウの飛ぶ姿が様々にデザインされています。この金具を正面から撮り忘れたのが残念! もう一つ、後で残念に思ったのは、この角房掛けの金具をズームアップで撮っていなかったことです。 画像から切り出して見ました。円状に双龍が彫刻されている金具です。この辺りで、次に向かいましょう。室町通の南方向を見たとき、鶏鉾が建っていました。少し戻って、南下します。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 華厳宗祖師絵伝 :「京都国立博物館」3) 駒井源琦 :「コトバンク」補遺ちまきで疫病退散 放下鉾保存会が京都市へ寄付 2021.7.7 :「産経新聞」州浜 :「コトバンク」明恵上人と高山寺 :「山猫マッサージ」 調べていて、このブログ記事で正面の下水引の義湘の乗る船の図に出会いました。源琦 :ウィキペディア皆川泰蔵 :「京都市立芸術大学」皆川泰蔵 :「東京文化財研究所」総合展示 祇園祭-放下鉾の名宝- :「京都文化博物館」京都祇園祭り 放下鉾の囃子 祇園囃子アーカイブズ:「日本伝統音楽研究センター」見る染色入門 ろう染め 1 YouTube見る染色入門 ろう染め 2 YouTube見る染色入門 型染め YouTube型染め作品が出来るまで YouTube20160605_OurLuster「加藤すみ子(染画家)」 YouTubeろうけつ染絵師 中村 今代 short version YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へ
2021.07.21
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四条通の北側歩道を西に、烏丸通との交差点を横断すれば、ほんのわずか先に「函谷鉾」があります。近すぎて全景を撮ることは難しい。山鉾巡りをするとき、いつも感じることがあります。昼間の観光客等の集り具合です。長刀鉾は祇園祭山鉾巡行のトップを行く鉾なので、一番知られているからでしょうか。長刀鉾の周辺に留まる人々が一番多い気がします。少し西の烏丸通を横断し函谷鉾まで行くと、鉾の周辺に留まっている人々は半減します。月鉾の傍も同じ。さらにその先を巡ればまた人数が減ります。このパターンはこの前祭も同様。おかげで密という状態にはならずにラッキーでしたが。 前懸は、2006(平成18)年に16世紀末の毛綴(重文)を復元新調されたもの。旧約聖書創世記の場面が織られているとか。(資料1,2)オリジナルは16世紀末ベルギー製タペストリー(重文)です。(資料3)欄縁には金幣が備えてあります。上水引には、ここも八坂神社の神紋、木瓜(五瓜に唐花)が2つ見えます。屋根の上には、屋根の反りに合わせた形で保護の覆いが設けてあります。鉾が巡行する時は勿論外されていますので、鉾が建つ姿を見なければ楽しむことのない景色です。 屋根の軒裏を見上げると、金地に雌一羽と雛二羽が描かれています。もう一枚は写真を撮れなかったのですが、雄一羽と雌一羽を描いた絵です。 軒裏の三角形の金地の妻板の前に唐団扇を持つ中国北宋の詩人・林和靖(りんなせい)の木彫彩色像が取り付けてあります。この右側には、童子が梅の木の下で白鶴に餌を与える彫刻像があります。こちらは撮っていません。 鉾の天井には鶴が描かれています。 胴懸は見づらいですがこの「北流れ(左側)」と「南流れ(右側)」に三種類のものが並んでいます。順次復元新調されたものが懸装品として掛けてあります。(資料2)鉾の進行方向から列挙しますと、 「梅に虎門」 17世紀 李朝の朝鮮段通 :1991(平成3)年復元新調 「赤地花唐草文」 ペルシャ絨毯 17世紀から使用 :1990(平成2)年復元新調 「玉乗り獅子文」 周囲はアラビア文字 中国緞通 17世紀から使用 :1991年復元新調 下水引は一部しか見えません。ここには、鶏の群とその下に草花が描かれています。右端下方に、「山鹿清華(やまがせいか)」の名が記されています。1938(昭和13)年、山鹿清華がこの手織錦を寄贈されたと言います。函谷鉾の由来となった、函谷関における孟嘗君の「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」説話に因んで描かれたものです。 隅房掛は源氏蝶が象られています。 その房掛けに金糸の丸和紐で上から総角・蟻・桐紋などが組まれた長い房がかけてあります。(資料2) 真木が天空に向かって伸び、下から榊、角幡、関(上開きの柵状の箇所)、天王台がありその上に大幡が翻っています。その先が鉾頭です。(資料2) 前の軒裏の鶏図に対し、後の軒裏には三羽の鴉(からす)が描かれています。もう一枚は二羽の鴉。計5羽の明鴉です。軒裏絵全体で「鶏鴉(けいあ)図」と称されています。これは1900(明治33)年、円山四条派の今尾景年(けいねん)の筆により新調されたもの。(資料2)この軒裏絵もまた、孟嘗君が夜明け前の函谷関を無事脱出した故事を表現しているそうです。 これは鉾の後部の下水引「雲龍文」です。鉾巡行の折には見送(みおくり)が掛けられますので、目にすることはできません。オリジナルは1899(明治32)年に制作されたと言います。傷みが激しいことにより、1983(昭和58)年に復元新調されたのがこれだとか。朱地に金雲丸龍の錦織です。(資料2)それでは、月鉾を眺めましょう。 四条烏丸交差点を横断して、函谷鉾に向かう前に、四条通北歩道から眺めたほぼ全景です。真木の上部、天王台を含む鉾頭までが撮れていません。 ズームアップして撮って見ました。 東方向に向かう正面には巡行時と同様に、稚児人形が置かれています。囃子方が鉾に乗り、お囃子を奏でています。北流れ(左側)は笛方、南流れ(右側)は鉦方、正面の稚児の近くに太鼓方が位置するようです。鉾の屋根を貫く真木は、屋根に近い下部は八坂神社の神紋を縫い付けた赤地の網かくしが色鮮やかです。 四条通を横断し、南側歩道の東から月鉾に近づいて行く形で眺めましょう。烏丸通から月鉾までは函谷鉾より距離があるので全景が撮れます。 かつては「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれ、応仁の乱以前からあった鉾です。鉾頭に「新月」をいただき、天王座に「月読尊」を祀ることから、「月鉾」と称されるようになったそうです。(資料4)現在の鉾頭は1981(昭和56)年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭がつかわれているとか。(資料1)よく見ると月鉾の天王座は舟形をしています。 屋根の合掌部の拝に八坂神社の神紋が飾ってあり、拝に三ツ花懸魚が装飾されています。 屋根には、正面に三つ巴をレリーフし全体に装飾彫刻を施された鳥衾の下の鬼板部分には三本足の烏(ヤタガラス)の丸彫り像が取り付けてあります。ヤタガラスは神話の中では太陽の使いとされています。(資料4)ヤタガラスは「日本神話の神武天皇の東征に出てくる鳥。天皇の軍が熊野から大和に入るとき先導したという。」(『日本語大辞典』講談社) 屋根裏には江戸中期に活躍した円山応挙筆「金地彩色草花図」が描かれています。1784(天明4)年の作。(資料1,3)天水引は、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”です。(資料4)正面の天水引は双鸞図。絵師円山応震は円山応挙の孫で、”双鸞霊獣図刺繍”と説明する資料もあります。(資料5)「鸞」は「中国で想像上の鳥の名。体はニワトリに似て、羽毛は五色、声は五音(ごいん)の音階にあっているという。」(『日本語大辞典』講談社) 破風中央下にはダイナミックな波濤文の中に、「うさぎ」の彫り物があざやかです。左甚五郎作といわれているとか。(資料4,5) 稚児人形明治45年から、3代目伊藤久重作のこの美少年人形『於菟麿』に変わったと言います。(資料5) 下水引は皆川月華作の「花鳥図}です。(資料1) 前懸は2000(平成12)年にインド絨毯を復元したものとのこと。(資料1)オリジナルは、17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」だそうです。(資料4,5) 鉾正面、右側の車輪 鉾建てで重要な「縄がらみ」の技術の仕上がりの一例を前後の車輪の間に見ることができます。舞台裏の美の一つです。 右(南側)の胴懸の一部分 こちらは月鉾の左側(北側)です。天水引(霊獣図)、下水引(花鳥図)、胴懸です。左右の胴懸はインドやトルコの絨毯が使われていると言います。(資料1) 下水引の部分図鉾の正面(前部)と照応する後部の部分図を眺めてみましょう。 三本足の烏 鉾後部の全景後懸もまた華麗なインド絨毯です。(資料1) 四条通り北側歩道からの眺め両側のビルと鉾の高さを対比的にみるのもおもしろいかもしれません。鉾の車輪は軸に固定されています。従って前後に回転しますが、自動車のタイヤのように右、左に方向を変えることができません。それ故に、「辻回し」という鉾を交差点で90度方向転換させるという見せ場があります。この技術もまた、山鉾巡行を実施することにより、そのプロセスで修得される技術と言えます。さて、次の鉾に向かいましょう。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 函谷鉾 ホームページ3) 山鉾の魅力細見ー函谷鉾- :「京都市下京区」4) 月鉾 ホームページ5) 山鉾の魅力細見ー月鉾- :「京都市下京区」補遺八坂神社のご神紋 :「SANSHO」神紋【八坂造/左三巴と木瓜(五瓜に唐花)】 :「鞆の浦検定【山紫水明處】」林逋 :ウィキペディア林逋 :「コトバンク」林逋 山園小梅 暗香浮動月黄昏 林逋 :「茶席の禅語選」今尾景年 :ウィキペディア登録有形文化財の旧今尾景年家住宅を大切に利用されている「懐石 瓢樹(Hyoki)」:「Open Matome]山鹿清華 :ウィキペディア山鹿清華 :「三重県立美術館」昭和のタペストリー -山鹿清華展- :「曳山博物館」月読尊 :「コトバンク」円山応挙 :ウィキペディア皆川月華 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -5 函谷鉾の鉾建て探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -7 月鉾の鉾建て 点描:美と工程観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -10 前祭宵々山(1) 鉾建て巡りの鉾と郭巨山・四条傘鉾観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -3 17番・月鉾から20番・郭巨山まで
2021.07.20
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6月30日の朝日新聞夕刊の一面に、「コロナ乗り越え2年ぶり『山鉾建て』へ」の見出しで「技術伝承のための山鉾建て」を行うと報じられていました。今年も山鉾巡行は中止です。コロナ禍は繰り返しの連続。7月前半は不順な天候、集中的断続的にふる雨の襲来・・・。各所で悲惨な災害も発生。17日は前祭当日。天気は晴れの予報だったので、2年ぶりの山鉾を眺めに行ってきました。普段の山鉾巡行なら、その時間に合わせて見物に行くことを繰り返していました。今年は2年ぶりに建てられた山鉾を眺めたい。密になる可能性を外せるようにと考えて出かけてきました。1ヵ所に留まることは極力短くして・・・・。 四条通・南側の御旅所前に着いたのが8時30分過ぎです。 御旅所の西側にある鳥居の先には冠者殿社の小祠があります。御旅所の前には、 例年とは異なる形で神事が行われるためでしょうか。関係者が四条通に控えていました。 南側歩道を西に進みます。長刀鉾、その後に烏丸通の西側に位置する函谷鉾の連なる姿が見えてきます。 南東側から眺めた長刀鉾 鉾頭の長刀先端が光りを反射しています。 少し立ち位置を変えて真木の上部を撮ってみました。先端の長刀の下には、「天王座」が備えてあります。ここには「和泉小次郎親衡の衣裳着の人形を祀っている」(資料1)と言います。この天王人形、画像を拡大してみますと、左肩に舟を担いでいます。天王座から少し離れた下に白抜きの紋が入った赤い大幡が取り付けてあり、その下には赤熊と称される縄を編んだ飾りが7つ真木に巻き付いています。途中に赤い小幡が見えます。その下に左右に大きな膨らみを作った榊がくくりつけてあります。 交差点で北に横断します。 北側歩道から正面(東側)全景を撮りました。さすがに長刀鉾の周辺歩道には混雑ほどではないですが、それなりに人々が集まって写真をとることに熱中です。 アーケードがちょっと邪魔ですが、本体全体を撮れる近いところまで移動。 欄縁のところに、御幣が左右に備えてあります。下水引は三枚重ねです。これらは2008(平成20)年に全面新調が完了したものだとか。(資料1)前懸はペルシャ花文様絨毯。(資料1) 屋根の上、正面には金色に燦然と輝く鯱が据えてあります。ムネビレを大きく広げています。長刀鉾を長年見てきていますが、私には新たな気づきになりました。左側面(北側)の胴懸。こちらは、東側に「梅樹図絨毯」、西側に「中国玉取獅子図絨毯」の2枚を並べています。(資料1) 北側歩道に面した長刀鉾会所の二階と鉾が渡り廊下で繋がれています。 下水引や欄縁の錺金具の一部を間近に眺めることができます。 屋根を支える北西隅の柱の一部。松樹を彫り込んだ錺金具で覆われているようです。その右奥には、赤い布を巻きつけた真木を支える柱が鉾の天井を突き抜けています。 懸装品が豪華絢爛です。京の町衆の心意気が反映されているのでしょう。祇園祭を盛大に行うために、鉾ごとにより華やかにと競い合ったのでしょうか。一方、それは時の支配階級に対する町衆の威力表示だったのかもしれません。疫病退散を祈願する祭ですが、やはりそれは気分としては、ケからハレへの転換。ハレの行事、ハレ舞台だったのだろうと感じます。疫病退散は気分を転じることから・・・・・と。 胴懸・下水引を眺めつつ、鉾の後部(西側)に向かいます。 現在の見送は、2005(平成17)年に復元新調された「雲龍波濤文様綴織」です。 龍の頭部は正面から見た図柄で、龍の爪は4本です。5本爪はたしか中国の皇帝専用だそうですから、4本爪はそれにつぐものになりますね。周りには雲流文様が散りばめられています。 下部には波濤文様が見えます。見送の下端に9つの錺金具が取り付けられ、総角結びの房が吊り下げてあります。 鉾の躯体は木の部材を組み合わせ、それを縄で固定する「縄がらみ」の技術が発揮されています。以前にかなりこの鉾建てのプロセスをご紹介したりもしています。私はこの鉾の躯体を縛り上げる「縄がらみ」の技術の仕上がりの美しさが大好きです。鉾が建ち上がると、それは舞台裏となり見えません。鉾建て後に見えるのは、せいぜいこの辺りの「縄がらみ」技術の仕上がりだけです。上記の新聞記事に「山鉾建ては、縄だけで部材を固定する。『縄がらみ』の技術が特徴。職人が現場で技術を伝えあってきた。今年も建てなければ、そうした技術が途絶えると関係者は心配しているのだ」と記されていました。伝統の維持には地道なメンテナンスと、技術の伝承が欠かせない。 赤地の上水引には、八坂神社の神紋が白地に抜かれて際立っています。ここにも総角結びの房が吊してあります。 切妻屋根の後部破風下には、片岡友輔作木彫胡粉彩色された小鍛治宗近が神剣を作る姿の彫刻像が据えられています。現在は複製品が使用されていますが、現在保存されているオリジナルの長刀は、疫病邪悪をはらうものとして、三条小鍛治宗近が鍛えた作なのです。(資料1)片岡友輔は、江戸時代の文政5年版から嘉永5年版として出版された『平安人物志』によれば、俗称で本名は片岡安道、友学と号し、東洞院松原の住人。「良工」に分類されている人物です。(資料2)北観音山の破風下の木彫雲鶴もまた片岡友輔作だそうです。(資料1)四条通の上に建てられた鉾ですので、屋根裏に描かれた図の全容を眺めることは困難です。部分的にしか見られませんが、松村景文(1779~1843)筆による「金地著彩百鳥図」だと言います。(資料1)長刀鉾から函谷鉾・月鉾の方に向かう時、裃姿で榊をてにした他山鉾町の人々数名とすれ違いました。彼等はどこかに集合しようとしているようでした。当日、朝日新聞夕刊を見ますと、「変わる形 変わらぬ祈り」という見出しで、記事が載っていました。一部の山鉾建ては今年行われました。しかし通例の山鉾巡行をしない代わりに、山や鉾を管理する保存会、前祭に参加する23の保存会代表者ら約60人が集合されたとか。そして、冒頭にご紹介した八坂神社の御旅所まで歩いて巡行し、拝礼し疫病退散を祈願されたと報じていました。この巡行の様子を眺めることなく、函谷鉾、月鉾と順次巡って見ました。つづく参照資料1) 祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ2) 片岡安道 :「人物情報」(国際日本文化研究センター)補遺三条宗近 :ウィキペディア三条小鍛治宗近 :「名刀幻想辞典」総角(あげまき)結び :「池尻紐房工場」「わかりやすい」あげまき結び YouTube飾り結び「総角(あげまき)結び」の結び方 「人型・入型」の意味も解説 パラコード / 結び方ナビ ~ How to tie ~ YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -2 函谷鉾と月鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -3 放下鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -4 鶏鉾 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -5 白楽天山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -6 山鉾さがしの道すがら へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -7 蟷螂山 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -8 山鉾さがしの道すがら2 へ探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -9 ふたたび長刀鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -3 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-1探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -4 長刀鉾の鉾建て (2) 胴組2日目-2観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)
2021.07.18
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今朝(7/15)は小雨まじりのせいか、蝉時雨が聞こえません。 7/12の朝、庭・南西隅の金木犀に近づくと2匹が飛び去りました。 幹に留まっている蝉をみつけました。 2021.7.13 2匹の蝉がごく近い距離で幹に 蝉の翅を震わせています。 上側の蝉が少しずつ幹を上に移動し始めました。 少し上の2匹の蝉の位置関係と見比べてみてください。蝉たちは金木犀の幹とうまく同化する擬態で身を守っているようです。 蝉が鳴き止んでいると、じっくり観察しないと居場所を見つけられません。 この蝉は飛んできて葉にとまったところを眺めていて撮りました。「初蝉」のご紹介の折に、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に載る立石寺での有名な句に触れました。その後、ふと、芭蕉は他にも蝉を詠んでいるのかということが気になりました。手許に、『芭蕉俳句集』(中村俊定校注・岩波文庫)があり、これを調べて見ました。蝉を詠んだ句が他にもいくつか収録されています。 梢よりあだに落(おち)けり蝉のから (江戸広小路) 76『おくのほそ道』の立石寺での句のように、推敲が重ねられた句に次の句があります。 門人杉風子、夏の料(しろ)とてかたびらを調じ送りけるに 1.いでや我よきぬのきたりせみごろも (莉集) 299 人に帷子(かたびら)をもらいて 2. いでや我能(よき)布着たり蝉の声 (蕉翁句集) 3. いでや我よききぬ着たり蝉の声 (続深川集) この句の場合、1が成案で、2、3は初案、後案だそうです。 稲葉山 撞(つく)鐘もひびくやうなり蝉の聲 (笈日記) 412もう一句、成案と初案のある句が載っています。 1.頓(やがて)死ぬけしきは見えず蝉の聲 (猿蓑) 641 2.頓てしぬけしきも見へず蝉の声 (卯辰集)芭蕉は蝉を詠んだ句をそれほど作ってはいない感じ・・・・です。 7/14、庭の南東隅の金木犀の木から初めて蝉の声が聞こえました。2枚の写真を撮ったところで、残念ながら飛び去られてしまいました。 南西隅の金木犀の方に行き、見上げると1つの幹に3匹がとまっているのに気づきました。 蝉の翅のわずかの開き具合の差をご覧ください。 7/13に気づいた蝉の殻(空蝉)多少の雨が降ったくらいでは落ちないようです。正岡子規の句はどうだろうか。子規の句集は手許にありません。正岡子規が死の前年から直前までに病床で語ったエッセイ『仰臥満録』(岩波文庫)が書架に眠っていたのを思い出しました。かつて衝動買いした一冊。それを紐解き、蝉についての句を見つけました。「六月会」という前書に続いて、蝉を季語に二句が掲載されています。 山深く見馴れぬ花や蝉も鳴かず あながまの声や手の蝉袖の蝉別のページにこんな句も載っています。 蝉初めて鳴く鮠(はえ)釣る頃の水絵空子規が蝉の句をどれほど詠んでいるのだろうか?ネットで少し検索してみますと、やはり紹介されているブログ記事に出会いました。(資料1)孫引きですが、ご紹介します。興味深いことに上掲の抽出とは重複しません。 ふきもせぬ風に落ちけり蝉のから 蝉なくや砂に短き松の影 いろいろの売声絶えて蝉の昼 ぬけがらの君うつせみのうつつなや まほろしや花の夕の蝉衣 花夕立に蝉の飛び行く日影かな みちのくの玉川蝉の名所かな みちのくや出羽へ出ても蝉の声 汗を吹く茶屋の松風蝉時雨 蝉の声絶えて水音山深し 参照したブログ記事では、水原秋桜子、山口誓子、山口青邨、中村汀女、中村草田男、飯田蛇笏の句も一緒に紹介されています。まとめて読むのにおすすめの記事です。 ここにも蝉 余談です。ふと、清少納言は蝉の声をどのように感じ、扱っていたのだろうと思いました。『枕草子』の第22段に「験者の、物怪(もののけ)調ずとて、・・・・せみの声しぼりだして誦(よ)みゐたれど、・・・・」(験者が物怪を調伏しようとて、・・・・かんだかい声をしぼり出すようにして陀羅尼を誦していたけれども、・・・・)(資料2)と記しています。また、第40段の「虫は」に蝉は出てきません。清少納言は、蝉の声をあまり好ましいものとは感じていなかったようです。この記事を書いているとき、雨が止んで、しばし蝉時雨が窓外から聞こえていました。青空が見え始めています。スマホで天気予報を見ると、13時~15時は50%、60%、40%という予報。一時的な晴れ間になりそう・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 「蝉(せみ)」の有名俳句40選★夏休みの俳句におすすめの「夏の季語」 :「和のこころ.com」 2) 『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p39-40、p67-68、p244 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 初蝉 きく & みる へ
2021.07.15
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玄関先の月桃(月桃)をご紹介した際、3つめの房の鞘が片方未だ残っていました。初蝉をきいた昨日(7/10)、併せて、月桃を眺めてみますと、鞘がとれていて、花がたわわにお辞儀をするように垂れています。 昨夜降った雨が、花や葉に雫としてとどまっています。 上方に咲く月桃のクラスターは早く花開いたものが萎れてきて、それに続く花が順次開いています。 もう一つのクラスターの先端部、花開いたものをズームアップ 未開の花のピンクがかった花弁の先端部に雫が留まり、銀色真珠のきらめきに・・・・・。 もう少し近づいてみれば、雫は反対側の窓枠を映しているだけに転換しました。それは光の屈折、目線の角度が起こしたイルージョン.......。 花開き、下垂する黄色の花弁の先端に雫がひとつ。 少し位置を変えて眺めれば、手前の白い苞(ほう)の先端にも雫がひとつ。 未開花の白い苞のふくらみには雫がふたつ。下方の先端部にも滴がひとつ。 花の茎部分にも雫がふたつ。 あちらにもこちらにもひっそりと雫が点在しています。 なぜか、雫ひとつの有り様に目がとまります。 もちろん、月桃の葉にも雫が とどまっています。 最後に、ちょっと脇道に・・・・・。「しずく」を国語辞典で引きますと、「滴」という漢字がまず対応しています。その語義は「上から垂れて落ちる、水・液体の粒」(『新明解国語辞典』三省堂)。この漢字「滴」は常用漢字で入ったものだそうです。「雨滴」「水滴」と書けば、「しずく」の漢語的表現と辞書に記されています。さらに、古来の用字が「雫」だと記されています。漢和辞典を引きますと、「雫」のなりたちは、会意で、「雨と下(おちる)とからなり、したたりおちる雨水の意を表わす」(『角川 新字源』角川書店)。その意味は「しずく。水のしたたり」と。「しずく」をグーグル翻訳に入力しますと、「Drop」が即座に出ます。勿論、英和辞典でdropを引けば、名詞の第一羲は「しずく、滴」(『ジーニアス英和辞典』大修館書店)です。drops と複数形にすれば、辞書には点滴薬と出ています。事例として eye drops だと点眼薬です。raindrop と書けば、雨だれ・雨滴。お菓子のドロップも同じ単語です。だけど、お菓子の場合には、通例修飾語を伴い、an orenge drop と表現するそうです。「しずく」という言葉も深堀りしていけばさらに広がりそうですが、話材が重くなります。月桃の花からしたたり落ちずに、「しずく」がしばしとどまるように、この辺で drop out いたします。ご覧いただきありがとうございます。補遺月桃には、こんな側面(情報)も見つけました。観賞花だけではないのですね。 月桃とは :「有限会社月桃農園」 月桃について :「MOON PEACH 素肌美研究所」 沖縄ルルルン 月桃の香り :「旅するLuLuLun」 夏の困ったが解消できるぞ。ゲットウ(月桃)ってすごい:「シエアハウスウィークタイズ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 玄関先、ふとみると月桃の花 観照 きょうの月桃、窓外の緑のカーテン/オーシャンブルー 観照 庭の花 雨の止んだひとときに 月桃・夏水仙・オリヅルランほか (2020年)
2021.07.11
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朝、食事をしていると、開けてある窓越しに音が聞こえ始めました。ジージーという感じの音です。最初は何かの機械音かと・・・・・・なんだろう? 聞き覚えのある音・・・・。そうか、蝉の鳴く音。「蝉」は夏の季語で7月に所載。「その年初めて聞く蝉を初蝉という」と歳時記に。私にとっての初蝉です。(資料1)ジージーという感じの鳴き声からすると油蝉でしょうか。にいにいと鳴くにいにい蝉、みんみんと鳴くみんみん蝉は毎年おなじみです。熊蝉はシャワシャワと鳴くとか。蝉時雨の聞こえる季節が始まりました。玄関を出て、敷地南辺の両角にある金木犀の木に蝉がいるかと観察しました。見つかりません。だが、再び蝉時雨が短く聞こえ始めたとき、それに呼応するかのように南西隅の金木犀から身近に鳴く声が聞こえました。一匹初蝉を発見!ほんのしばしの蝉時雨が止んだとき、金木犀から一匹飛び去りました。金木犀にもう一匹居たのです。 鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり 正岡子規今朝は子規の句を実体験しました。 蝉が少しずつ枝を上下に移動しています。 「蝉」の項の冒頭に、誰もが知る松尾芭蕉の句が載っています。 しづかさや岩にしみいる蝉の声 「曾良随行日記」には、五月廿七日の条に「天気能、辰ノ中尅、尾花澤ヲ立テ立石寺ヘ趣。・・・・・其日、山上・山下巡禮終ル」(資料2)と記録されています。この日付は、陽暦で7月13日にあたるそうです。(資料3)自然の摂理は江戸時代も今も大きな変化なしに繰り返されている・・・・・。 私にとっての初蝉と、「奥の細道」芭蕉の句との関連です。手許の本を開くと、「『閑かさ』には本文の『清閑』の語が響いている。『蝉』は満山の蝉ではなく、かつ、やかましい油蝉ではなくて、ニイニイ蝉であろうと考えられている。」と句解されています。(資料2)どの種類の蝉が鳴いているのか、それにより句の趣が変化するということなのでしょう。ところで、この一句。さすがの芭蕉も推敲を重ねたうえで、この句形に定まったと言います。(資料2) 初案 山寺や石にしみつく蝉の声 再案 さびしさや岩にしみ込蝉の声そして、最後に、 閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の聲 なお、再案段階の句形は文書媒体によりもう一つのバリエーションがあるそうです。「淋しさの岩にしみ込」という表現になっている句形だとか。脚注に説明があります。(資料3)『奥の細道』の「立石寺」の項は「山形領に立石寺(りっしゃくじ)と云(いふ)山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(ことに)清閑の地也。」という一文から記されています。その箇所の末尾に載るのが、「しずかさや」に定まった句です。(資料2,3) 今年は蝉時雨をいつ頃まで聞くことになるでしょうか。ご覧いただきありがとうございます。このとき併せて月桃のその後の写真を撮りましたので、次回少しご紹介します。参照資料1) 『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂2) 『おくのほそ道 全訳注』 久富哲雄著 講談社学術文庫 p197-200 3) 『芭蕉 おくのほそ道 附曾良随行日記』 杉浦正一郎校註 岩波文庫 p124,p171,p37補遺第5回緑の国勢調査 '95 身近な生きもの調査 ・捜査結果最終版・ 環境庁 蝉 初鳴き・遅鳴き 調査結果2 セミ :ウィキペディアセミの図鑑 :「調査する生き物の図鑑」アブラゼミ :ウィキペディアミンミンゼミ :ウィキペディアニイニイゼミ :ウィキペディアクマゼミ :ウィキペディア初蝉の俳句 :「575筆まか勢」ハードな一生 蝉 /かわさきビューティフル! YouTube《癒しの自然音》セミの鳴き声(やかましい蝉の鳴き声)【安らぎ・睡眠・勉強】 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.07.10
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今朝(7/2)見ると、月桃の花の咲いた数が倍増しています。こんな感じです。 鞘部分の片方がまだはがれずについています。 今朝の月桃には降った雨の名残がかなり見られます。 花開く前の月桃の先端に雨滴がとどまっています。水滴の重量、表面張力、引力などの絶妙のバランスなのでしょうか。 垂直寄りに斜めに立つ葉 水平に通路側に延びる葉 葉が大きくなり、水平に延び、先端部が垂れ下がっている葉それぞれの葉の表面に留まる水滴の大きさや形が様々です。今日、再び雨が降れば、その後しばし名残を残す水滴の形もまた変わるのでしょうね。 リビング・ルームの南面する窓の外に、今年もオーシャンブルーが緑のカーテンとして成鳥し、花を咲かし初めています。6/29に月桃の花を撮った後、オーシャンブルーもちょっと撮ってみました。 1本の蔓がグンと飛び抜けて外に向かって延びてきています。 2021.6.292021.6.29 2021.7.1 2021.7.1 6/29に延びていた蔓が7/1には旋回しています。 2021.7.1 こちらは、今朝(7/2)撮った花 2021.7.2 2021.7.2 上掲の蔓はこんな風に、少し垂れ下がって・・・・・。 緑のカーテンの右下に独自の道を行くように、新しい蔓が延びてきていました。オーシャンブルー、朝顔のことは月桃とともに、2019年7月に観照 我が庭に咲く花々を載せています。このとき朝顔についての関連事項をご紹介しています。また、2020年7月にも観照 庭の花 雨の止んだひとときに 月桃・夏水仙・オリヅルランほか観照 庭の花 少しつづきを・・・・・ オーシャンブルーと紫陽花・チェリーセージという形で庭の花々に触れました。昨年は、オーシャンブルー自体についても知ったことをまとめて書き込みました。こちらのブログもご覧いただけるとうれしいです。朝顔、オーシャンブルーについての説明は重複を避けて、写真のご紹介にとどめます。 これは、ウィキペディアから借用した、江戸幕末期の画家、鈴木基一が描いた「朝顔図屏風」の一部です。濃紺の色で朝顔が描かれています。(資料1)2019年に郵便局の「切手趣味週間」にこの「朝顔図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)の六曲一双の全図が採り上げられています。(資料2)この色の朝顔の種類は何でしょうか? オーシャンブルーの属するノアサガオの他に、マルバアサガオ、ソライロアサガオなどにも青系統の花が咲くようです。描かれている葉の形からマルバアサガオでもソライロアサガオでもないようです・・・・・。消去法で考えると、ノアサガオのように思えます。朝顔といえば、千利休の行った茶会で有名な逸話があります。『茶話指月集』に記されているそうです。「秀吉は、利休の屋敷の露地に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にし、朝顔の茶の湯を所望しました。当日、秀吉が利休の屋敷を訪れると、庭の朝顔は一株残らず引き抜かれて、何もありません。あっけにとられながら茶室に入ると、床には見事な朝顔が一輪だけ入れてあり、これには秀吉も大いに感心したという話です。利休の大胆な趣向ですが、美しい朝顔をたくさん見せるのではなく、その中からよりすぐった最高の一輪だけを見せたのです。」(資料3)朝顔の美しさを茶室の床の一輪に集約させ、その凝縮した美からの先は、客の思いに委ねたのでしょう。『茶話指月集』は久須見疎安が利休、宗旦の逸話を七十数話まとめて、1701(元禄14)年に出版した茶道の参考書。久須見疎安は宗旦四天王の1人藤村庸軒の女婿で、義父からの聞き書きで、出版に際しては藤村庸軒の名が主になったようです。(資料4)オーシャンブルーから話題が横道に逸れました。このあたりで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) アサガオ :ウィキペディア2) 切手趣味週間 :郵便局3) 千利休『江岑夏書』より その2 :「茶の湯 こころと美」4) 茶話指月集 :「コトバンク」補遺朝顔図屏風 :ウィキペディアソライロアサガオ :ウィキペディアマルバアサガオ(丸葉朝顔) :「野田市」茶話指月集 2巻 藤村, 庸軒[他] :「国立国会図書館デジタルコレクション」『江岑夏書』解説 :「茶の湯 こころと美」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 玄関先、ふとみると月桃の花 へ
2021.07.02
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玄関先の窓際に地植えの月桃があります。大きく葉が通路に張り出してきて邪魔になるので、過日一部の葉を半ば切りました。そして、その後もあまり意識することなくその傍を通り過ぎていました。6/29に白い花が穂状に一房出ているのがふと目にとまりました。 その穂状の花の中で2つの花が他に先駆けて開いています。 傍にもあと2つ、鞘状のものが見え、その一方はその鞘が少し開きかけています。手許のコンパクトな山渓ポケット図鑑には月桃は収録されていません。辞書を引くと、「ショウガ科の多年草。インド原産。観賞用。葉は長大な披針形。夏、葉心から2m内外の花茎が出て、白色紅紋のある美しい花が穂状につき、垂れ下がる。全体に芳香がある。アルピニア」(『大辞林』三省堂)と説明があります。もう1つの辞書にも同様の説明の後に、「九州南端以南に分布」(『日本語大辞典』講談社)と付記されています。和名は「ゲットウ」ですが、英名は「Shell ginger」と称するそうで、こちらだとショウガ科というのがそのものズバリでわかる名前ですね。「月桃」は台湾での現地名だそうです。「花の蕾が桃のような形をしていること」に由来。大東島や八丈島では「ソウカ」、小笠原諸島では「ハナソウカ」、沖縄県では「サンニン」とも呼ばれるとか。辞書に記載のアルピニアは学名です。「熱帯から亜熱帯アジアに分布し、日本では沖縄県から九州南部に分布し、沖縄に広く自生している。」辞書の説明と当然ながら一致します。(資料1,2)その後、気にせずにいて、雨上がりの今朝(7/1)、玄関先に出て月桃を意識的に眺めて見ました。 1つは鞘が取れ、花が咲いています。 もう1つはこんな状態でした。鞘部分の一方に少し触れるとパラリとはずれ、 花が現れます。もう一方は自然にはがれるにまかせることに。月桃の花言葉は「爽やかな愛」だそうです。(資料3)ゲットウをキーワードにネット検索していて、「月桃」という歌の紹介記事に出会いました。”海勢頭(うみせど)豊さんの作詞・作曲。悲惨な沖縄戦を描いた『GAMA 月桃の花』の挿入歌”だそうです。孫引きですが一部引用します。元記事をご参照ください。(資料4) 月 桃 1 月桃ゆれて 花咲けば 夏のたよりは 南風 緑は萌える うりずんの ふるさとの夏 5 六月二十三日待たず 月桃の花 散りました 長い長い 煙たなびく ふるさとの夏歌詞は6番まであるようです。拝読したこの記事から調べて見ると、「GAMA 月桃の花」は映画でした。2018年2月時点の「沖縄タイムス プラス」サイトの記事は、”戦争の真実を上映して22年 300万人が見た、映画「GAMA 月桃の花」”という見出しで書き出されています。(資料5)”1995年の戦後50年の節目に製作された沖縄戦映画「GAMA 月桃の花」”この映画のこと、知りませんでした! 6月23日の朝日新聞の社説の1つの見出しは「沖縄慰霊の日 76年なお続く傷の痛み」でした。(資料6)「沖縄はきょう、慰霊の日を迎えた。第2次大戦末期の苛烈な地上戦で亡くなった人たちを悼み、恒久平和を祈る日だ。」から始まる社説。その中からデータの視点で、覚書として2箇所の記述を引用します。*本島南部は最大の激戦地で、地中にはなお3千柱近くが眠ると推定される。 ⇒当日のニュース報道で、具志堅隆松さん(67)がボランティアで遺骨収集を 継続的にしてこられている姿が報じられていたことを記憶します。*沖縄戦の死者は米側1万2500人、日本側18万8100人で、うち6万8100人は他県出身の兵だ。2年前に見つかった遺骨はDNA型鑑定などで身元が判明し、この春、北海道の遺族のもとに届けられた。社説は、次の一文で締めくくられています。「コロナ禍のため、きょうの追悼式典の参加者は30人ほどに絞られる。それとは比較にならない数の人々の、76年に及ぶ悲しみと苦しみに思いを致す。」 玄関先の月桃の花を撮っていたとき、この花が「爽やかな愛」という言葉。一方で、「サンニン」という沖縄での呼ばれるということ。さらにその先で「沖縄戦」に繋がるとは思いが及びませんでした。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ゲットウ :ウィキペディア2) Alpinia zerumbet From Wikipedia, the free encyclopedia3) 月桃(ゲットウ)とは?花言葉・園芸品種や植物の特徴を詳しく解説!:「BOTANICA」4) 月桃の実 :「カメラと沖縄を歩く」5) 戦争の真実を上映して22年 300万人が見た、映画「GAMA 月桃の花」 2018.2.26 :「沖縄タイムス プラス」6) 2021年6月23日朝刊 社説 朝日新聞 (社説上段部分)補遺月桃(ゲットウ)の花 :「Green Snap」ゲットウ :「みんなの園芸」ゲットウ(月桃) :「葉っぱの岬」7月5日の誕生花 ゲットウ(月桃)の花言葉「爽やかな愛」、不思議に咲く花と甘くさわやかに香る大きな葉 :「弥生おばさんのガーデニングノート『花と緑の365日』7月5日 誕生花 ゲットウ 月桃 :はなのなは」GAMA月桃の花 :ウィキペディア海勢頭 豊(うみせど ゆたか) 公式ウェブサイトGAMA 月桃の花 キャスト・ストーリー :「GAMA 月桃の花」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.07.01
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