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8月初旬、天気が良く暑い中を、京都国立博物館に行きました。恒例ですが、七条通沿いに設置された特別展「京(みやこ)の国宝」開催の大きな案内パネルを撮りました。 チケットの半券 2017年には、京都国立博物館120周年記念特別展覧会「国宝」が実施されました。手許の図録を久しぶりに見ますと、関西では41年ぶりの国宝展ということでした。「縄文から近世に至るまで、日本の悠久の歴史と美を伝える210件の国宝が集結します。」と「ごあいさつ」に記されています。前期・後期の入れ替えがありましたから、実際に鑑賞した件数は少し少なかったと思います。今回は「京(みやこ)の」という言葉が冠されています。 これは、当日会場で入手した「京都国立博物館だより 2021年7・8・9月号」。掲載記事を読みますと、今回の特別展には少し経緯があるようです。当初は昨年(令和2年)の春に文化庁主催のもとで京都市京セラ美術館での実施が予定されていたそうです。ところが新型コロナウィルス感染拡大防止のために中止となったのです。展覧会名をそのままで会場をこちらの平成知新館に移し、「内容を大きく拡大し、新たな形で」開催することになったようです。展覧会名に「京の」と冠してあるのは、「京都の人や文化に関わる数多の名高い国宝、皇室の至宝」に絞り込んだ形での展観という趣旨になります。そして、「文化財のもつ不滅の魅力とその意義、またそうした貴重な品々を守り伝えてきた我が国の文化財保護のあゆみをご紹介します」という観点もこの展覧会の意図だと言います。(資料1)展示品の中でハイライトの一つは、この博物館だより表紙の上部に使われている長谷川等伯筆「松に秋草図屏風」(京都・智積院蔵)です。これは8/22までの前期展示です。このたより表紙には、2曲1双の右隻の部分図が使われています。 こちらは、同図の左隻の部分図で上掲博物館だよりからの引用です。冒頭の七条通に面した特別展案内パネルの右側にこの左隻の部分図が使われています。巨大な松が右から左斜め方向に大きく枝を伸ばしている中に秋の草花が大きく描かれています。この基本構図には狩野永徳の屏風絵の構図の影響が見られると言います。また、元は6面あった襖の内の4面を屏風に改装されたものと分析されています。画面に連続性が欠けるところがあるのはそこに原因があるとか。(資料2)かつて智積院内で拝見しましたが、久しぶり白い顔料が盛り上がったところや松の巨木の描き方を間近で眺めると迫力を感じます。後期の期間の前2/3は宗達の「風神雷神図屏風」に替わり、後1/3は蕪村の2作品に入れ替わるそうです。(資料3) 入口で体温チェックを受けて、平成知新館に向かいます。 定位置に、特別展へのウエルカム・パネルが設置されています。 展覧会のPRチラシ2つ折A4サイズのPRチラシです。この表紙にも、左隻の部分図が使われています。チラシに掲載の図も引用し、少しご紹介します。展示会場は平成知新館の3階から始まり、2階、1階へと各展示室を巡覧しながら下って行きます。「第1章 京都-文化財の都市」は、「<1> 文化財指定のあゆみと京都」という観点で、文化財保護に関わる京都府の行政文書類や古社寺保存法・国宝保存法関連文書などが展示されています。文化財保護への制度確立過程の記録文書類という舞台裏の開示です。研究者でない一般鑑賞者には、努力・経緯はわかりますが、ああ、そうか・・・くらいで、まあ、おもしろみには欠けるでしょう。変わり種は「ガラス乾板」つまりネガ・フィルムに相当するものが2枚展示されています。「神護寺蔵五大虚空藏菩薩坐像・安祥寺蔵五智如来坐像」(資料1)ポジの陽画も併せて展示されています。こちらは現物を見る興味が湧きます。続きに「<2> 最初の国宝-昭和26年6月9月指定」に移ります。 これは鑑賞後に購入した図録です。購入時点では表紙をさらりと見ただけで館内から出ました。自宅で見直して、この表紙・裏表紙に使われている絵が、絵第18号として、この昭和26年に指定された最初の国宝の一つであることを再認識しました。6曲屏風1隻が、文化財保護委員会名で国宝に指定されています。明治30年12月古社寺保存法の制定時点で、最初に国宝に指定されていて、昭和の文化財保護法に切り替わった時点でも、最初の国宝に指定された作品でした。 図録表紙には、屏風の第3扇・第4扇の箇所が使われています。平安時代(11世紀)の絹本着色で、唐絵の山水屏風です。草庵に座し詩作にふける老隠者を貴公子が訪れる、そんな場面を描いています。衣服は中国風。上部に遠くの山々が見え、広大な自然風景が描かれています。もとは、内裏あるいは貴族の邸宅の調度品だったものが密教寺院に持ちこまれ、東寺に伝来した品だそうです。「古来、密教寺院で潅頂に用いた屏風のことを『山水屏風』と呼んだ」(資料2)と言います。 第1扇の下部に描かれて部分図方向を考慮すると、老隠者を訪問した後、貴公子の帰路を描いているようです。剥落がかなり進行している感じ。従者のさす傘の白さがなぜか印象的でした。後期は有名な京都・退蔵院蔵の如拙筆「瓢鮎図」に入れ替わる予定です。 「御堂関白日記」自筆本も展示されています。前期は寛弘元年上巻の箇所です。後期は寛弘8年上巻に入れ替えられる予定です。料紙には一日三行どりの具注暦を使い、それに事細かく覚書が書き込まれています。所々に墨で塗り潰した箇所もあります。「第2章 京の国宝」は、<1>絵画、<2>書跡・典籍・古文署、<3>考古資料・歴史資料、<4>彫刻、<5>工芸品の5つのセクションで構成されています。<1>絵画上記長谷川等伯の屏風絵がここに展示されています。等伯が競い合った狩野永徳筆の国宝絵も勿論展示されています。京都・聚光院蔵の狩野永徳筆襖絵(38面)中の「琴棋書画図襖」4面が前期には展示されていました。後期は「花鳥図襖」に入れ替わる予定です。中国では士大夫は琴棋書画の四芸を嗜むことが必須とされたようです。この主題の絵は多くの人が描いています。永徳は狩野元信から継承した「細部まで丹念に描き込む真体手法に拠って」いて、その中に「やや面長で端正な面貌表現や樹木・岩の描法に永徳の個人様式が顕著である」と評されています。(資料2)永徳の絵に現れるダイナミックさは、未だ抑制されていて、松は繊細な描写の印象を受けました。一方で岩の描写には鋭さを感じます。久しぶりに雪舟筆「天橋立図」を鑑賞しました。後期は「山水図」に入れ替わる予定です。「法然上人絵伝」は過去から部分部分を鑑賞して来ていますが、この前期では第3巻を見ることができました。鎌倉時代(14世紀)の作品ですが彩色が綺麗に維持されています。後期は第9巻に入れ替わる予定です。他にも、「病草紙」「玄奘三蔵絵」や諸仏像画が出ています。<2>書跡・典籍・古文署「今昔物語集」、藤原定家筆「明月記」、「東寺百合文書」などの一端を見ました。実文書が残っていることに感心しながらも、その文面を判読できないことにいつものことながら残念な思いです。 こういう墨蹟で読めるのがあると親しめます。その筆致に筆者宗峰妙超の個性を感じる次第。中国・南宋時代の「禅院額字幷牌字」として「浴司」「普説」が出ています。豪快な書きっぷりです。後期は「方丈」「上堂」に入れ替えられる予定です。<3>考古資料・歴史資料奈良・金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」と「金銅小野毛人墓誌」という良く知られたものが出ています。近江の「崇福寺跡」は探訪で訪れたことがあります。「崇福寺塔心礎納置品」を見ることができ、繋がってきました。また、「伊能忠敬関係資料」が出ています。その中の「東海道歴紀州及中国至越前沿海図(上)」はどれだけ詳細に地名などを書き入れているかがよくわかります。<4>彫刻 東寺(教王護国寺)蔵の「梵天坐像」がやはりハイライトの一つです。東寺の講堂内を荘厳する立体曼荼羅を構成する仏像群の中で、外側に護法神として配される6体の像の一つとしてこの梵天坐像が配されています。像高101.1cmの大きさの木像です。すぐ間近で様々な立ち位置から鑑賞できるのは、やはりいいですね。 宇治・平等院蔵の「雲中供養菩薩像」2体が、ガラスケースの中に展示されています。目の高さで細部まで鑑賞できるのがいい。安祥寺蔵「五智如来坐像」は今回の展示品になっていますが、寄託仏像としてここに常設展示されている国宝です。 京都・妙法院蔵の二十八部衆像の中から、この「摩睺羅(まごら)」像と「婆薮(ばすう)仙人」像が展示されています。二十八部衆は千手観音の眷属で、行者を守護する善神です。その尊名は典拠により小異があると言います。(資料4)<5>工芸品このセクションは前期と後期でかなり入れ替えが行われます。前期の密教法具は古神宝類と入れ替わり、前期展示の「春日大社若宮資料古神宝類」が、後期には4件の太刀・剣と入れ替えられます。 この「宝相華蒔絵宝珠箱」(京都・仁和寺蔵)は前期の展示品です。「方形入角被蓋(こうけいいりすみかぶせふた)造りの箱」で、「麻布を何枚も貼り重ねて成形した乾漆製で、箱の入角にみられるやわらかな曲線は、乾漆ならではの造詣といえよう」(p238)と説明されています。(資料2)角が内側に少し入り込んだ形になっています。装飾文様の宝相華は「中国、唐代に発達し、周辺諸国、ことに日本の奈良時代に流行。パルメット唐草などの諸要素を組み合わせた純粋な空想的花文様」(『日本語大辞典』講談社)です。蓋が本体をスッポリと覆う形になっているのがおもしろい感じです。 「熊野速玉大社古神宝類」の中の1点として出ている「菊蒔絵手箱」です。この古神宝類は通期で展示されますが、その内容に入れ替えがあります。この菊蒔絵手箱は前期の展示品です。後期は桐蒔絵手箱に入れ替えられる予定です。「第3章 皇室の至宝」の出展件数は前期、後期の入れ替えがありともに5件です。前期展示として「雲紙本和漢朗詠集下巻」を見ました。後期は小野道風筆「玉泉帖」に入れ替えの予定です。国宝の「春日権現記絵」は、通期展示ですが、前期は巻2、後期は巻7に入れ替え予定。絵は高階隆兼筆で、鎌倉時代(14世紀)の作品。彩色がきれいに維持されています。国宝ではありませんが、豪信筆「天子摂関御影」と岩佐又兵衛筆「小栗判官絵巻」は通期展示です。ただし巻の入れ替えが予定されています。前者は笏をを持ち、冠に束帯姿はワンパターンで、顔の線描で人物の特徴を捉えているのです。なかなか巧みな似絵です。岩佐又兵衛は浮世絵の元祖といわれる人。色鮮やかで人々が躍動しています。最後は「第4章 今日の文化財保護」というテーマで、<1>調査と研究、<2>防災と防犯、<3>修理と模造というセクション分けで展示されています。<1>にズラリと陳列された「金銀鍍宝相華唐草文透彫華籠」、<2>の金剛峯寺と東寺の仏像を撮ったガラス乾板、<3>の模造品の実物展示が特に印象に残りました。ひとつは模造複製された工芸品の文様の美しさです。もうひとつは複製され彩色された元の仏像の姿と長い歳月を経て現存する仏像とを対比したときの意識のギャップです。元の色彩にあふれた仏像はやはりすぐにはなじめません。だが、当時の人々は色彩豊かな仏像を眺めて信仰していたことを思うと、別次元のような気がします。平日の正午にまたがる時間帯に出かけたせいか、それほど来館者は多くはなく、静かに鑑賞できました。 平成知新館を出ると、例によって、次回の企画展の案内がウエルカム・パネルの裏面に大きく掲示されています。さて、最後は私的恒例の定点撮り。そう、ロダンの「考える人」を撮ることです。 「考える人」を遠望して、博物館から退出しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「京都国立博物館だより 2021年7・8・9月号」 2) 図録『特別展 京の国宝 守り伝える日本のたから』 京都国立博物館 20213) 出品一覧・展示替え予定表 当日会場で入手4) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p66補遺狩野永徳筆『琴棋書画図』(国宝) :「Japaaan」天橋立図 :「京都国立博物館」明月記 :「e國寶」国宝-考古|金銅藤原道長経筒[金峯神社/奈良] :「WANDER国宝」金銅小野毛人墓誌 名品紹介 :「京都国立博物館」法然上人絵伝 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」崇福寺跡 :「文化遺産オンライン」パルメット :「コトバンク」唐草文 :「コトバンク」唐草図鑑 象徴・文様・文化 ホームページ蒔絵 :ウィキペディア日本の伝統工芸を代表する技術|蒔絵 :「HEIANNDO」(漆器 山田平安堂)宗峰妙超 :ウィキペディア立体曼荼羅 :「東寺」天子摂関御影 :ウィキペディアをくり―伝岩佐又兵衛の小栗判官絵巻― :「宮内庁」 展覧会図録がダウンロードできます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.08.22
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寝殿の北面に具現化された「絵合」の場面から、西側に回り込みます。西側の南側寄りには清少納言に因む有名な場面が具現化されています。番号8の箇所です。「香爐峰の雪」として知られているエピソードで、清少納言は『枕草子』第285段に記しています。簀子に置かれたものの上や高欄に雪が積もっています。「雪のいとう高く降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火起こして集さぶらうに」(資料1、以下同じ)雪がとても高く降り積もっていたので、いつもとは違い、御格子をおろしたままで、炭櫃に火を起こして、大勢の女房たちが話をしつつ暖をとりながら、中宮定子の御前に侍っていますと、 「少納言よ、香爐峰の雪、いかならむと、おほせらるれば、」中宮定子は、降り積もる雪をふと連想し、「少納言よ、香爐峰の雪は、どうなんでしょうね」と語りかけたのです。 「御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば」すると、お側に侍っていた清少納言は、黙ったまますっと静かに起ち上がり、まず閉じていた御格子を女房に上げさせます。その後自ら御簾を高く巻き上げました。そして、中宮様に外の雪景色をご覧いただいたのです。 「笑はせたまう」中宮定子は、我が意を得たりと微笑まれました。 人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ。人々も「そういう詩のことは知っているし、歌などにも歌うけれど、(即座に中宮様のご要望を行動でお答えするなど)思いも寄らなかったわ。 なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。「やはり、この中宮にお仕えする女房としては、しかるべき人のようね」と言い合った。中宮定子は、格子を閉じ御簾を降ろしたままの薄暗い中にいて、外の雪景色をちょっと見たいと思われたのです。そして、清少納言に謎掛け風に「香爐峰の雪」を口にされました。中宮定子と清少納言の間には、定子の語りかけたフレースで、白居易の『白氏文集』巻16に収録されている詩に詠まれた一節が共有されたのです。白居易は『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』の一文で始まる5首の詩を読んでいます。(香炉峰下、新たに山居を卜し草堂初めて成り、偶東壁に題す)その第4首の中にに該当する詩句が読まれているのです。その箇所は『和漢朗詠集』にも採られていて、有名だったのです。第4首から抜粋します。(資料1,2)遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る「ちょっと、外の雪を見たくなったわ。格子を上げて、御簾を巻き上げてくれる」なんてストレートに指示しないところに、中宮定子らしさが溢れ出ています。漢詩に対する造詣の深さがワンクッションになっています。それは清少納言の漢詩に対する造詣と彼女の機転を試す謎掛けになっています。清少納言は「香炉峰雪撥簾看」の一節のことなどおくびにも出さずに、行動で示す機転の良さで答えました。手許の本では、「中宮の意図は、白詩の世界をこの後宮に再現することであったのである。『古今著聞集』に君臣一致の実例と引かれている有名な話である」(資料1)と補足で註釈されています。今回この展示の解説として入手したパンフレットに記載の興味深い観点をご紹介します。それは上掲の太文字にした第285段原文では判読できない点に関係します。(資料3)原文では「御格子」という言葉が使われています。格子には、1枚格子と2枚格子があります。格子は廂の柱と柱の間に設けられた格子状の黒塗りの建具です。上下に分けたものが2枚格子になります。この六條院・春の御殿では、直接目にするのは2枚格子がほとんどです。半蔀(はじとみ)とも称されます。清酒納言が「御格子」と記したのは、1枚格子なのか、2枚格子なのかが判然としないというのです。中宮定子と女房たちが、寝殿の南面に面する場所に居たなら、そこはたぶん1枚格子です。東西に面する場所に居たら2枚格子です。1枚格子ならば、建物の内側に引き上げて、その外にかかる御簾を巻き上げる形になります。一方、2枚格子ならば、上半分を外側(簀子側)に引き上げて、下半分をそのまま残すか、下半分を撤去するかに分かれます。2枚格子の場合は、御簾は上格子の内側にあることになります。この「香爐峰の雪」の場所は2枚格子のところを利用して具現化しています。しかし、下半分の格子を取り除いていますので、見た目には、1枚格子を引き上げた場合の外の見え方と同じになります。つまり、1枚格子を引き上げた場合の見え方をここで見せています。2枚格子で、下半分を残したままだと、この景色の左側の御簾を巻き上げた状態になります。御簾を巻き上げた時の雪景色の見え方が大きく変わってくることになります。おもしろい観点だと思いました。(資料3) 六條院春の御殿の西側には、板敷の間があります。六條院春の御殿のレイアウト図番号7の左側が右の襖障子あたりです。ここには、前面部分に「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで精巧にミニチュア化された衣裳が「自然の霊験をいただいた四季のかさね色目」として展示されています。これも定番展示の一つと言えます。以前に詳細にご紹介してますので、展示品を簡略にご紹介します。 梅かさね 菖蒲かさね 白撫子(なでしこ)かさね 捩り紅葉かさね 雪の下かさね 松かさね この展示を南東側から眺めた景色 上掲襖障子の北側にこれが常設展示されています。左は、蓮の繊維で作った蓮糸で織った織物「蓮糸織り」です。詳しい解説パネルが設置されています。右は「化学染料で染めた花橘かさね」です。こちらも解説パネルが設置されています。そして、最後の展示です。 板敷の間の南西側と南東側手前に衣裳が展示されています。 これらは「五節舞姫の装束」です。この解説パネルが設けてあります。 衣桁に掛けられた袿(うちき)の文様。上段は織文様、中・下段は刺繍文様に見えます。 蘇芳色の唐衣 白地地摺りの裳この裳には、様々な文様が地摺りされています。 頭部の飾り左右に日蔭の糸(蔓)、中央の上から心葉(こころば)、平額(ひらひたい)、櫛(くし)、釵子(さいし)と称されています。これらが頭部の玉髢(たまもじ)の飾りとなります。これで大凡全体を眺め、ご紹介したことになります。 (資料3)ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫2) 白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」3) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)補遺藤原定子 :ウィキペディア白氏文集 :ウィキペディア白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」和漢朗詠集 :ウィキペディア『枕草子』の「香炉峰の雪」と『白氏文集』、『和漢朗詠集』の該当箇所を確認したい。 :「レファレンス協同データベース」藤原公任と白居易 : 『和漢朗詠集』における白居易の詩をめぐって 著者;黄 金堂 :「広島大学 学術情報リポジトリ」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -3 「七夕」と平安女性の務めと へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -4 遊び~絵合・碁・偏つぎ~、黒髪 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介
2021.08.17
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(資料1)前回同様、六條院の春の御殿のレイアウト図から始めます。東の対の南側を東に回り込みます。東の対は建物の一部をL字形に具現化されているだけです。部分的な具現化です。このシリーズの2回目に、「五節所(五節の局)」でご紹介した箇所をスキップして、東の対の北西角(番号4の箇所)まで進みます。 ここには平安時代の遊びでポピュラーだった「碁」を打つ場面が具現化されています。これは通常展示の定番になっているようです。上代に中国から伝来した盤上遊技の碁は男女を問わず愛好されたそうです。『源氏物語』には、物語の重要な場面で碁を打つ場面が描き込まれています。空蝉と軒端萩(空蝉)、玉蔓の大君と中の君(竹河)、今上帝と薫(宿木)、浮舟と少将の尼(手習)などが碁を打つ場面です。(資料1,2) これは、ColBaseから引用した「源氏物語扇面(空蝉)」です。(資料3)空蝉への思いをつのらせた源氏が邸に忍び込み、空蝉が軒端萩と碁を打ち合う姿を垣間見るという場面です。「幼き心地に、いかならんをりと待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる」という文から始まる箇所です。機会を窺っていると紀伊守が任国に下ったので、小君が自分の車で薄闇に紛れて源氏の君を空蝉の邸につれて行くところから始まります。暑いのに格子を下ろしていますので、小君が尋ねると、女房が「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と答えたのです。紀伊守の妹・軒端萩が来て碁を打っていると言います。源氏は「さて向かひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて簾のはさまにいりたまひぬ。」源氏は向かいあって碁を打つ姿をみたいものと、妻戸から出て、簾の隙間に入ってしまいます。「隙見ゆるに寄りて西ざまに見通したまへば」ということで、空蝉と軒端萩が碁を打つ姿を垣間見し続けるのです。源氏が垣間見るその場面が手許の本では、2ページ余にわたり具体的に描かれて行きます。そして、「かくうちとけたる人のありさまかいま見などはまだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまほしきに、小君出くる心地すればやをら出でたまひぬ。」(このように気を許している女の姿ののぞき見などは、まだなさったこともないので、何の警戒心もなく、まる見えになっているのは気の毒とは思いながらも、いつまでもごらんになっていたのだが、あいにく小君の出でくる気配がするので、そっとその場をおはずしになった。)というところで一旦終わりますこの後、源氏は空蝉の寝所に忍び込んでいきます。(資料4)脇道に逸れました。元に戻ります。東の対の北面に回ります。 簀子に座る後姿が見えます。背中に胡簶(やなぐい)を負う武官です。巻纓(けんえい)冠を着けています。 武官が両手に持つ菖蒲には恋文(結び文)が結ばれています。誰に送ろうとしているのでしょうか・・・・・。東の対は寝殿と渡殿で繋がっています、渡殿には女房たちが日常生活を過ごす「局(つぼね)」があります。 局の一つでは、「偏つぎ」という遊びが行われています。女性や幼い子が漢字の知識を競い合う遊びです。偏と旁(つくり)に分けた札を使い、組み合わせて漢字をつくるゲームです。『源氏物語』では、「葵」の巻で源氏が紫の上と「つれづれなるままに、ただこなたにて碁を打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」と描かれています。紫の上の利発な気性に源氏が気づいていくという契機になります。ストーリーの流れからするとそれが紫の上と新枕をかわす一つの動因になったようです。(資料5)その西隣りは、「平安女性の身嗜み・黒髪」についてです。 髢(かもじ)をつけているところです。髢とは「髪」の意の女房詞で、「髪の毛に添え加える毛。入れ髪。入れ毛」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味します。解説パネルには、”Lady putting a hairpiece " と説明されています。 縮れ毛を繕っているところです。同様に、”A young lady having her servants straighten her frizzy hair" と説明されています。つまり、縮れた毛を真っ直ぐにしてもらっているのです。平安時代、黒髪は美人の条件とされました。『源氏物語』では、源氏や頭の中将が行った「雨夜の品定め」の論議の中で髪のことを論じています。また、髪については各所に記述があります。たとえば、末摘花の容姿は滑稽な描写でクスッとするところがありますが、髪だけは長く豊だったと描写されています。源氏は末摘花の黒髪について、「頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ」(資料4)と評しています。平安時代の貴族たちはそれだけ黒髪に関心があったのでしょう。「偏つぎ」「黒髪」の場面も定番の場面です。 渡殿にある局の先は、寝殿の北面です。孫廂と簀子辺りの全景を東から眺めた景色です。 東廂に汗衫姿の童が座っています。 簀子の東側に座る童たちと孫廂の東側の端に控える女房これは「斎宮の女御と弘徽殿の女御の絵合」です。『源氏物語』の「絵合」の場面が具現化されています。 この絵合は、源氏31歳の3月20日余りの日に、清涼殿で行われました。中央の奥、北廂に御簾を境にして冷泉帝が着座されています。帝の御前には、女童6人ずつが左方は紫檀、右方は沈でできた絵の箱を担いで行き据えます。この場面は、左方は紫地の唐の錦の敷物の上に、蘇芳の華足の机、右方は青地の高麗の錦の敷物の上に浅香の机が置かれています。(資料1,4)絵合が既に始まっているのでしょう。それぞれの机の上には、置物風の飾り物が置かれています。これが何かは不詳。絵の箱はどこかに移されたのでしょう。絵合する作品をそれぞれがこの机の上に置いて、帝に披露するということでしょうか。 『源氏物語』では、「女房のさぶらひに御座(おまし)よそはせて、北南方々分かれさぶらふ」(資料5)と記されています。清涼殿内の女房の詰所である台盤所の御椅子を御座所として、北と南に分かれて絵合わせが始まります。冷泉帝に向かって左側の一番手前に堤中納言(かつての頭の中将)、右側の一番手前に源氏(内大臣)が座っています。つまり、冷泉帝からみて左方(さかた)が源氏側で、右方(うかた)が堤中納言側です。判者は帥宮(そちのみや)が行いました。帥宮は源氏の弟で、蛍巻の事跡から蛍兵部卿宮と呼ばれる人です。斎宮は六条御息所の遺児です。源氏31歳の年、源氏は斎宮を彼の娘分として冷泉帝の後宮に入内させました。それより早く権中納言の娘が入内していました。弘徽殿の女御です。斎宮が入内したことで、二人の女御は帝の寵愛を二分することになります。どちらが帝の寵愛を受けることになるかは、女御の背景に連なる人々の権勢に関わって行きます。冷泉帝は絵画を殊に趣味とされていたのです。斎宮は絵に堪能な女御。冷泉帝が斎宮に惹かれていくことに弘徽殿側は危機感を感じます。堤中納言は贅を尽くして絵画を制作させ、弘徽殿に届けます。二人の女御のそれぞれを後援する人々も名品を届けます。絵を蒐集する競い合いが生まれます。その結果、三月に冷泉帝の母、藤壺女院の御前で二人の女御が左右に分かれて物語絵合を試みたのです。どちらが優れた物語絵を披露できるかといういわば御前試合です。ところが、優劣がつけがたいという結果に。そこで改めて、帝前で絵合わせを行う仕儀になりました。後宮内での絵合という文化的な趣向を競う優雅な遊びに見えますが、その背後にはそれぞれの女御を後援する人々が権勢を争う渦が巻いているのです。 絵合で競われる絵巻などの作品が双方に置かれています。 弘徽殿側の列と堤中納言 座した背後に、下襲(したがさね)の裾(きょ)が折り重ねられながら後に伸びています。きっと誰かこの裾を形良く調える世話係がいるのでしょうね。少し興味を抱いたのは、腰の石帯と丸く差し込まれた石帯の上手です。さらに太刀をつける時の平緒が巻かれています。弘徽殿の女御 左は、弘徽殿の女御の傍に控える女房です。 弘徽殿の女御より左側、御簾の向こうに桐壺女院が事の成り行きを眺めています。『源氏物語』に「朝餉(あさがれい)の御障子を開けて、中宮もおはしませば」(資料5)と記されています。朝餉間に臨御されご覧になったということです。 絵合わせに出す作品を指示を受けて出し入れする担当係でしょうか。不詳です。この人の前に置かれているのは、「絵合」に記されている打敷「青地の高麗の錦」と推測します。打敷は華足の上を覆うものだそうです。(資料5) 斎宮側の列と源氏 源氏と堤中納言は薄紫束帯姿です。帝側に座る貴人には源氏や堤中納言のような下襲の裾がありません。直衣(のうし)姿ということでしょう。斎宮側の列の後ろにも、弘徽殿側と同じ役割を担う担当係がいます。彼は「打敷は葡萄染(えびぞめ)の唐の綺なり」と記されている打敷を両手に捧げていると推測します。 斎宮の女御(梅壺の女御) 斎宮の女御の近くにも女房が控えています。 上記の担当係の背後に、手箱を献げた女房がいます。この手箱の中身は何でしょう? 斎宮側の童たち これは左方の女童の前に置かれているものです。形は違いますが上掲の写真に見るように同種のものが右方にも置かれています。これが何で、何を意味するのか。私にはわかりません。手許の資料にも記述がなく不詳です。 左端には、多くの唐櫃が置かれ、白地の反物、御衣が積まれています。絵合が終わった後に帝からの賜り物に使われるのでしょう。「絵合」の終わりに近いところで、「・・・・めでたき朝ぼらけなり。禄どもは、中宮の御方より賜す。親王は御衣また重ねて賜りたまふ。」(資料5)と、判者になった帥宮が下賜を受けたことを記しています。 この絵合は、双方名品揃いのため優劣がつけがたく、判定は難航します。しかし、最後に出品された源氏の須磨の日記絵が勝敗を決しました。斎宮の女御の勝利となります。「左はなほ数ひとつある果てに、須磨の巻出で来るに、中納言の御心騒ぎにけり。・・・・・さまざまの御絵の興これにみな移りはてて、あはれにおもしろし。よろづみなおしゆづりて、左勝つになりぬ。」(資料5)それはまた、源氏が権勢が高まり、政界での栄華を極めていくことに繋がる契機となります。それでは、寝殿の西側にめぐりましょう。つづく参照資料1. 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)2. 『源氏物語図典』 秋山虔・小町丹照彦編 須貝稔作図 小学館3. 源氏物語図扇面(空蝉):「ColBase」(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)4. 『源氏物語 1』 新編 日本古典文学全集 小学館 p118-122, p2935. 『源氏物語 2』 新編 日本古典文学全集 小学館 p70-72、p385-393補遺第十七帖 絵合 渋沢栄一著 :「源氏物語の世界」源氏物語図屏風(絵合・胡蝶) 狩野養信筆 :「文化遺産オンライン」源氏物語文学セミナー十七帖 絵合 YouTube源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(3) :「文楽と王朝と障害と」天徳内裏歌合 :ウィキペディア天徳四年三月内裏歌合(二十巻本) :「文化遺産オンライン」天徳内裏歌合から読み解く『源氏物語』 : 唐物・楽宴・衣装という文化環境(<特集>古代文学における<環境>) 河添房江 東京学芸大学 :「J・STAGE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -3 「七夕」と平安女性の務めと へ
2021.08.14
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東の対の西面から南面に移ります。南西角辺りから南面の孫廂・簀子(すのこ)の全景を眺めた景色です。 (資料1) 六條院春の御殿の上掲レイアウト図の番号3のところに、七夕の祭壇が設けられています。7月7日の夜、牽牛星と織女星が年に一度、天の川を渡り逢瀬を楽しむという中国(漢代)の二星会合の伝説が日本に伝わり、『万葉集』の時代には、7月7日の夜を「ナヌカノヨ」と称し、二星会合の和歌を詠む日とされていたそうです。調べてみますと、『万葉集』には七夕に関連して詠まれた130首を超える歌が収載されているそうです。例えば、第八巻の「秋雑歌」に、「山上臣憶良の七夕の歌十二首」という詞書の後、歌(1518~1529)が列挙されています。(資料2)その幾つかをご紹介します。 天漢(あまのがは)相向き立ち手てわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな 1518 風雲は二つの岸に通へどもわが遠妻の言(こと)ぞ通はぬ 1521 秋風の吹きにし日よりいつしかとわが待ち恋ひし君ぞ来ませる 1523 霞立つ天の河原に君待つといゆきかへるに裳の裾ぬれぬ 1528 天の河浮津の波音騒くなりわが待つ君し舟出すらしも 1529第十巻にも数多くの歌が収載されています。わかりやすいのを詠み人不詳の歌からいくつか抽出してみます。 天の川霧立ちわたり牽牛(ひこほし)の楫(かじ)の音聞ゆ夜のふけゆけば 2044 天の川河音さやけし彦星の速こぐ船の波のさわきか 2047 天の川波は立つともわが舟はいざこぎ出でむ夜のふけぬ間に 2059この二星会合の伝説がわが国古来の棚機(たなばた)つ女(め)の信仰と結びついて星祭という風習になりました。牽牛星は農耕の神、織女星は裁縫の神と理解したのです。さらに、中国(唐代)より起こった、織女星に機織や手芸の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」の行事が日本にも伝わりこの行事が習合します。「タナバタ」というのは平安時代になってからだと言います。(資料1.3) 祭壇の飾り付けについて、この解説パネルが設置されています。七夕の夜は、清涼殿の東庭に祭壇が設けられたそうです。葉薦(はごも)を敷き、御燈明と香花や様々な品が供えらます。このパネルは清涼殿側から祭壇を眺めた配置図になっています。六條院の春の御殿では、寝殿の庭に祭壇が設けられたのでしょう。御殿側に和琴、その両側に蓮、上部に栃の葉が置かれています。写真の左側(御殿側からは右)の栃の葉には、金銀の針が置かれ、その穴を五色の糸が貫いています。正倉院には乞巧奠で用いられた針が残されているそうです。(解説パネルより)御殿からみて、牽牛は左、織女は右という位置関係になります。 左右の供え物は同じで、牽牛・織女にそれぞれ供えたということなのでしょう。写真の上段には右から左に、干鯛、大豆、桃、茄子が並び、中央に酒盃が置かれています。下段には右から左に、薄鮑、大角豆(ささげ)、梨、熟瓜(マクワウリ)が並んでいます。この七夕は、『源氏物語』「幻」を背景にしています。「幻」で源氏は亡くなった紫の上を追慕しています。その一場面が秋の七夕です。「七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれにながめ暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一ころ起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、善栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、出でたまひて、 七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ 」(資料4)これだけの記述です。源氏は、七夕の日には例年とは大きく異なり何もせずに物思いに沈む一日を過ごしたのです。七夕の星の逢瀬を一緒に眺める女人(紫の上)がいない淋しさに、ただ追慕するだけで過ごしたのです。そして、夜深の暗い頃にただ一人起きて、妻戸を開き、外に出て歌を詠んだのです。「七夕の逢瀬の喜びは雲の上の別世界のことと思われ、この地上では二星の別れを惜しむ涙の露のおく庭に、わたしの悲しみの涙がさらに降りそそいでいる。」(資料4)源氏は紫の上への追慕の涙を流します。『源氏物語』では悲しみ、追慕の場面として登場します。ここでは紫の上と源氏がともに七夕を迎えた夜に見立てて七夕の場面が具現化されています。 廂の内に、紫の上と源氏が並んでいます。一方、織女星に機織や手芸の上達を願う行事である側面をとらえて、平安時代の女性が担った務めである「裁縫の工程」の様子が、重ねられて具現化されています。 東の対の南面で前廂の西端、つまり南西角は、「伏籠(ふせご)」を使う作業場面です。衣服に香を焚きこめるために、火取の上に竹製の籠(伏籠)を伏せて、その上に衣服を掛けています。自分の好みに調合した香りを燻らすことは、その香りから趣味の良さを相手に伝える手段になったそうです。「火取とは、二階棚に置かれているもので、火取母(ひとりも)・火取籠(匙・箸付き)・薫炉からなり、銅製の薫炉に香を入れて焚き、火取籠をかぶせて使用する」(資料1)ものです。それでは、裁縫の工程を見ていきましょう。『源氏物語』には、紫の上が染色技術や裁縫の技術に優れていたことは、各所で賞賛されています。 <染める>工程 南西隅の庭では、染槽(そめぶろ)を使い染色作業が行われています。『宇津保物語』には装束を誂える各工程に専属の工房が設けられていたことがわかるそうです。例えば、この<染める>という工程は、「吹上・上」に女の子ども20人ばかりが作業する染殿の記述があります。(資料1) 左側は<縫う>工程清少納言は『枕草子』の第91段「ねたきもの」(癪にに障るもの)の中で、縫い物のことを取り上げています。その最初に書いているのが次の文です。(資料5)「とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後をむすばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし」と。(急ぎの着物を縫うのに、うまく縫ってしめたと思ったのに、針を引き抜いたら、なんと糸のしまいを玉に結んでいなかった。また、裏返しに縫ったのも、しゃくなものだ。)この続きに、中宮が南の院に滞在中に、急ぎのお召物を分担作業で縫った時の失敗事例を具体的に書き込んでいます。おもしろいエピソードです。 こちらは、<ひねる>工程。「裏地のない単(ひとえ)仕立ての裁ち生地の端を、もち米で練って作った糊(続飯ぞくい)をつけ、絎(く)けずに「ひねる」という仕立てをしたもの。」(資料1)このひねりの作業は浮舟が巧みであったことが「手習」に記されています。 <綿入れ>の工程年中行事として、10月1日は冬の装束に改める「冬の更衣(ころもがえ)」の日です。綿入れはその前段階での衣裳の準備です。(資料3) <地直し>工程。地直しは反物の整理作業だそうです。徳川美術館蔵の国宝『源氏物語絵巻』の第48帖「早蕨(さわらび)」の絵には、右側の几帳の傍で、「地直し」の作業が行われているところを土佐光則は描き込んでいます。補遺をご覧ください。 これは、「裁縫の工程」を1枚の簡略な解説パネルにまとめたもので、この場面の傍に掲示されています。「地直し」については付記されている英文を読むと理解しやすくなります。”Treating cloth to prevent shrinkage or expansion" となっています。つまり、反物の生地が縮んだり、伸びたりするのを防ぐための処置、調整をする作業ということですね。 <布を裁(た)つ>工程。女房が刀子(とうす)を右手に持ち、裁板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ作業をしています。 <打ち物>の工程。絹を砧で打って光沢を出す作業です。「きぬた」は「衣板」の略だと言います。「織物を織り上げたのち、織機から下ろしたままでは堅くてなじまないので、織目をつぶして柔らかくし、艶を出すためにする作業」(資料1)です。または、その道具をさします。「織上げた絹を円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で何回も打って柔らかくし、艶を出した」(資料1)とのこと。これをまとめていて気づいたことがあります。南面の展示を眺めたとき、横に見るということで左から右に順次眺めて行きました。横書きの文章を読む習慣が身に付いてしまっているせいかもしれません。「裁縫の工程」を考えると、織り上がった生地(布)を起点としますと、その後の作業工程は、打ち物(砧)⇒裁断⇒縫う、そして伏籠となります。「染める」は織物の前の糸の段階が普通で、場合によっては織物にした後もあったかもしれません。冬衣の場合に、「縫う」の途中で「綿入れ」が並行作業となり、衣服が仕上がるまでに綿が入れられるのでしょう。地直しは反物として保管しているものに対する維持管理ですから、工程からは少し外れます。「裁断」の前段階に位置づけられる作業です。つまり、この場面の「裁縫の工程」としては、右から左に眺めていく方がよかったのかもしれません。頭の中で、ご紹介してきた流れを逆順でイメージしてください。余談ですが、砧打ちについて、幾つかご紹介します。1.たとえば『新古今和歌集』の巻第五「秋歌下」には、砧を詠み込んだ歌が所載されています。いくつか列挙します。(資料6) 秋風は身にしむばかり吹きにけり今や打つらむ妹がさごろも 藤原輔尹朝臣 475 衣うつみ山の庵のしばしばも知らぬゆめ路にむすぶ手枕 権中納言公経 477 秋とだにわすれむと思ふ月影をさもあやにくにうつ衣かな 藤原定家朝臣 480 雁なきて吹く風さむみ唐衣君待ちがてにうたぬ夜ぞなき 貫 之 482 みよし野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くころもうつなり 藤原雅経 483 千たびうつ砧のおとに夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる 式子内親王 4842.葛飾北斎が「砧打つ女」や「詩歌写真鏡」に中の「在原業平」(ボストン美術館蔵)と題する絵の中に砧を打つ場面を描いています。3.葛飾北斎の娘、葛飾応為が「月下砧打の図」を描いています。 2,3については補遺をご参照ください。元に戻ります。 前廂の東端には、唐櫃が置かれています。裁縫の工程と関連付けると、衣類や反物を納める目的なのでしょう。 東の対の東南角から西を眺めた景色です。このフロアーの南西隅には、竹取物語の場面が具現化されています。以前にご紹介していますので、ここではスキップしました。既に掲載の拙ブログ記事をご覧いただけるとうれしいです。それでは、東の対を回り込み、東側と北側に参りましょう。つづく参照資料1) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)2)『新訂 新訓 万葉集 上』 佐佐木信綱編 岩波文庫3)『源氏物語図典』 秋山虔・小町丹照彦編 須貝稔作図 小学館4)『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館5)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫6)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫補遺七夕(たなばた)を詠んだ歌 :「楽しい万葉集」「七夕の歌」で知る万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の違い :「令和和歌所」『源氏物語絵巻』 第48帖「早蕨」 土佐光則筆 :「徳川美術館」 「早蕨」は 13/35コマ目です。「砧打つ女」 :「JAPAN SEARCH」詩歌写真鏡 在原業平 葛飾北斎筆 :「みんなの知識 ちょっと便利」 葛飾応為「月下砧打ち美人図」 :「Japaaan」乞巧奠 :「コトバンク」展覧会紹介(2)乞巧奠(きっこうてん)の祭壇「星の座」:「朝日新聞」 冷泉家 王朝の和歌守展 2010年5月冷泉家 乞巧奠(きっこうてん) :「本寿院」“京・冷泉家と徳川家のコラボレーション” 2012年8月 :「静岡市美術館」乞巧奠 (きっこうでん)を再現いたしました。 :「子億歳文化理容美容専門学校」平安の七夕『乞巧奠』と平成の七夕『乞巧潜り神事』 :「大宮八幡宮」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -3観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合
2021.08.13
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渡殿を歩む女官 当日いただいたパンフレットから、六條院の春の御殿(一部)のレイアウト図を引用します。左の寝殿と右の東の対とは、渡殿と透渡殿(すきわたどの)の2箇所で結ばれています。渡殿と透渡殿の間に壺庭があります。 今回は東の対(対の屋)の番号2の箇所が、五節所(五節の局)と見做されています。前回の末尾で、『枕草子』第86段のエピソードをご紹介しました。このエピソードはこの五節所で起こった情景です。展示説明では「五節の舞姫付添女房を主役に引き立てた小忌(おみ)の女房・定子の興」と名付けてあります。五節所は舞姫の控室だそうです。五節の行事の時、五節所は御所の「紫宸殿」の北にある「常寧殿」の四隅に仮設の控室として設けられました。上﨟公卿、下﨟公卿、上﨟受領、下﨟受領のいずれの五節かに応じて四隅のいずれの場所かが決められていました。五節の最終日、辰の日には、豊明節会でのヒロインである舞姫が紫宸殿に移動した後、世話掛12名ほか付添童女・下仕は五節所に残ることになります。仮設の五節所は日も暮れないうちから撤去するのが決まりだったと言います。すると、開け広げになった場所で世話掛他全員が控えていなければならず困った状態になります。そこで中宮定子は、辰の日の夜までは仮設の五節所をそのままにしておくようにさせたのです。そこで、前回ご紹介した中宮定子のサプライズ、つまりあの青摺の唐衣や汗衫を全員に着させるという趣向がこらされました。殿上人や上達部たちは驚き、おもしろがり、小忌(おみ)の女房と世話掛たちにあだ名を付けました。それに対して、清少納言は貴公子たちを小忌の君たちと記しています。つまり、五節所に控えている小忌の女房と、五節所の御簾の外に居て女房たちに話しかける小忌の君たちとの対話場面がここで生まれます。 五節所の御簾の外に藤原実方がいます。御簾の内側に解けた赤紐を「結びたいわ」と言った小兵衛が居ます。実方が解けた紐を結び直してあげるのです。だがその後で、実方は歌を詠んだのです。前回ご紹介した あしひきの山井の水は氷れるをいかなるひものとくるなるらん という歌です。 (山井の水は、この寒さに氷っているのに、溶けるとはどういう氷なのでしょう) 別の小忌の君。彼もまた実方の詠んだ歌の返歌に興味をもっていることでしょう。中宮職の宮司は、実方の詠んだ歌を聞きとどめ、小忌の女房がどのように返歌をするのか・・・と見守ります。待っていても、若い小兵衛は人目に立つ場所のせいか、言いにくいのか、黙ったままなのです。宮司は常寧殿の脇の方から入り御簾ぎわの女房に小言でささやきます。愚図愚図してないで、早く返歌をしなくっゃ駄目だよ。格別に立派な歌でなくてもいいんだから、即座に詠んで返すのだよと。 清少納言は、小兵衛から4人ばかりを隔てて座っています。宮司が非難して回るのが気の毒になり、 うは氷あはに結べる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりを (水面の氷のように、あっさりと結んでおいた紐なので、日蔭の蔓をかざすだけで 緩んでしまうまでなのです)と返歌を詠み、弁のおもとという女房に取り次がせます。ところが、この女房ふだんすこしどもる癖があります。この人も恥ずかしがりまともに聞こえるように返歌を言えないのです。気取って相手にすばらしく聞かせようとするから余計に駄目。実方中将は御簾に耳をおしつけるようにして聞こうとするのですが、中将はとうとう聞き取ることができませんでした。とまあ、そんな顛末になります。清少納言は返歌が伝わらなかったことで、上手な返歌ではないという評価をされずにすみ、自分の恥を隠してくれたようなものとほっとしたとか。そう『枕草子』に記しています。第86段の該当箇所は次のとおりです。「弁のおもとといふに伝へさすれば、消え入りつつえも言ひやらねば、(実方)「なにとか、なにとか」と、耳を傾けて問ふに、すこしことどもりする人の、いみじうつくろひ、めでたしと聞かせむと思ひければ、え聞きつけずなりぬるこそ、なかなか恥隠すここちしてよかりしか。」 ここには、「藤原実方と清少納言の歌」と題した解説パネルが設置されています。このパネルには、実方と清少納言の歌に含まれる掛詞の説明があります。抽出してみますと、実方の歌 山井⇒山藍 氷(ひ)も⇒紐 溶け⇒解け清少納言の歌 日かげ⇒(氷を溶かす)日光・(五節の)日蔭蔓 ゆるぶ⇒氷が溶ける・紐が解ける「日蔭蔓」は顔の横に下げる糸状の髪飾りで、最も重要な神事である新嘗祭に用いられたそうです。紐が解けるというのは、互いの思いが通じることを意図する言葉だそうです。実方は掛詞で年若い小兵衛を口説いていることになります。当日いただいたパンフレットには次の説明が加えてあります。「実方は小兵衛を口説いているものの、これは公衆の面前であり、個人的な恋の駆け引きというよりも、定子付きの女房に対して和歌の才を競うためのものであった。」と。なぜ世話掛の女房たちが「小忌の女房」とあだ名で呼ばれたのか?実方は掛詞になぜ「山井」に「山藍」を掛けたのか?私にはこれが今ひとつ釈然としませんでした。手許の辞書に、「小忌」とは「大嘗祭や新嘗祭の時に、厳しい斎戒を受け、小忌衣を着て神事に奉仕すること。」(『大辞林』初版、三省堂)。「①大嘗祭・新嘗祭などの祭時に、官人が厳重な斎戒を受け、小忌衣を着けて神事に奉仕すること。小斎。②小忌衣の略。③小忌人の略」(『広辞苑』初版、岩波書店)と説明されています。 この解説パネルを精読したのはこれをまとめている時です。疑問が解けました。(確認しますと当日入手したパンフレットにも同内容が掲載されています。)「青摺の衣は清浄な物忌みの服で、白に山藍で草木蝶鳥などの文様を型で摺り染めにします。平安初期以降より神事における神職でない一般官人の特定の斎服となり、新嘗祭・大嘗祭に奉仕する小忌の官人の服として用いられるので『小忌服』と呼ばれました。この場面では女房が着ているので青摺の唐衣となっています。」(説明パネルより転記)「赤紐は小忌服の肩に綴じつけた紐で、赤と濃色、または赤と黒の2本の紐からなり、肩から2つに折って前後に垂らします。青摺りの衣には赤紐をつけるのが特色とされ・・・通常の小忌が右肩につけるのに対し、舞人の場合は左肩につけました。」(同上)新嘗祭の行事(豊明節会・五節)の中で世話掛の女房たちは青摺の唐衣を着たので、小忌の女房と称された。青摺に山藍が使われることがわかっていたから、藤原実方は山藍を掛詞に含めたということだったのですね。ナルホド!です。藤原実方の歌は、『百人一首』の第51番に収録されています。有名な歌の一つです。 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを (せめて、こんなふうだと思うことさえできない。伊吹山のさしも草ではないが、 あの人はさしも知るまい。私の火のように燃えあがる胸の思いを。参照資料から引用) 一足先に一旦この東の耐を回り込みますと、東側は廂部分を省略して引戸までが具現化されています。その引戸から小忌の女房たちの姿が窺えます。 南側を見ると、一番南側に清少納言が座っています。 北側を見た景色です。 青摺の唐衣を着ている姿がよくわかります。 さて再度東の対の西側に戻ります。女房たちが五節所の御簾のそばに居並び、その衣裳の一部を御簾からすこし外に出して衣のかさねの色目の美しさを見せている姿、その形式がよくわかります。 東の対の西面から南面に移りましょう。廂部分の南西角は几帳で仕切りをこしらえています。几帳はオフィスにあるパーティションの機能を担ったのでしょう。上掲の間取り図で言えば、番号3に移ります。こちらは『源氏物語』の七夕の場面です。つづく参照資料*各所に設置された解説パネル*当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)*『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫*『百人一首』 鈴木日出男著 ちくま文庫 p112-113補遺風俗博物館 ホームページ青摺 :「コトバンク」青摺の衣 :「コトバンク」小忌衣 :ウィキペディア山藍 :「コトバンク」ヤマアイ :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ
2021.08.11
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先月(7/27)、久しぶりに風俗博物館に行きました。コロナ禍で閉館されていたのですが、7/16から開館とホームページに告示されていたからです。左は入館チケット、右は堀川通に面した西本願寺側の前から撮った「井筒左女牛ビル」です。このビルの5階が風俗博物館です。 5階でエレベータを降りると、フロアーに『源氏物語』に出てくる六條院の春の御殿、その内の寝殿と東の対が1/4の縮尺で具現化されています。正面に寝殿が見えます。今年の展示は、平安時代を代表する女流作家、清少納言と紫式部の二人を取り上げています。つまり、『枕草子』と『源氏物語』に出てくる場面が具現化されています。 今回はこの寝殿が紫宸殿と見做されています。「豊明節会・五節」の場面です。『枕草子』の「宮の五節出ださせたまふに、・・・・」という書き出しの第86段に関係しています。(資料1)旧暦11月の卯の日には年中行事として「新嘗祭」が行われます。「帝がその年に収穫された新穀を天神地祇に献上した上で自らも召し上がる神事」(資料2)です。豊明節会はこの新嘗祭の直会(なおらい)で辰の日に行われます。「とよのあかり」は「ほんらい酒を飲んで顔が赤らむ様子のことをいい、それが転じて酒を催す宴会を意味する」(資料2)とか。 こんな解説文が置かれています。直会については、「神霊が召し上がったものを頂くことにより神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待することです」と説明されています。豊明節会では、天神地祇に献上した新穀を帝が召し上がり、群臣にも新穀を供されます。白酒・黒酒という神酒も供されると言います。解説文ではこの酒についての説明が続きます。五節は「旧暦11月の中の丑・寅・卯・辰の4日間にわたって舞姫を中心に行われた年中行事」(資料2)です。正暦4年11月12日、中宮定子は五節の舞姫を4人献上したのです。その際、中宮定子は世話掛として中宮の女房10人に女院、淑景舍の女房2人の計12人を出します。余所では女房を世話掛に出すのはみっともないとされていたと清少納言は冒頭に書いています。第86段ではその時のエピソードを記しています。舞姫については、「相伊の馬の女、染殿の式部卿の宮の上の御おとうとの四の君の御腹、十二にて、いとをかしげなり」(資料1)と2人だけ明記しています。第86段を読みますと、辰の日の夜の五節の舞に関連したエピソードを書き残していますが、五節の舞の本番を描写してはいません。(資料1)この展示では、豊明節会での五節の舞の場面が具現化されています。『江家次第』等の有職故実を参考に具現化されたそうです。(資料2) 五節の舞姫たちが御前の廂に一列に並び、大歌人の演奏に合わせて舞っています。 第86段には、「辰の日の夜、青摺の唐衣、汗衫(かざみ)を、皆着せさせたまへり。・・・・赤紐をかしう結び下げて、いみじうやうしたる白き衣、型木のかたは絵に描きたり。織物の唐衣どもの上に着たるは、まことに珍しき中に、童女はまいて今すこしなまめきたり。下仕まで出でゐたるに、殿上人、上逹部、驚き興じて」と記されています。(豊明の節会のある辰の日の夜、青摺の唐衣と汗衫をこれらの人にみなお着せになられた。・・・・赤紐をきれいに結んで垂れて、たいそう光沢を出した白い生地に、普通版木で摺る模様は、絵に描いてある。織物の唐衣を着た上にこれを着た女房たちの姿はまことに珍しいが、特に汗衫を着た童女は女房よりも一際優美に見える。下仕えの女まで、これを着て御簾ぎわに居並んでいるので、殿上人や上達部は目を見張っておもしろがり)中宮定子はこの青摺の唐衣、汗衫を秘密裡に準備させ、当夜ギリギリに着させるというサプライズを演出したというのです。おもしろいエピソードです。 「五節の舞」についても、詳しい解説文が準備されています。場面を眺めながら、学びを深めることができます。新嘗祭の翌日に五節の舞が舞われたという記事の初見は平安時代、嵯峨天皇(在位:809~823)の時代だそうです。平安時代には、五節の舞は新嘗祭では4人、大嘗祭のときだけ5人と定められていました。4人の舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人という規定があったとか。しかし、平安時代中期以降は、それがくずれ、家人など臣従関係にある者の娘を舞姫に献上するようになったと言います。(解説文、資料2)このことは、『源氏物語』の「小女」の巻に、「殿の舞姫は、惟光朝臣の、津の守にて左京大夫かけたるむすめ、容貌などいとをかしげなる聞こえあるを召す」(源氏の大臣のお世話なさる舞姫は、摂津守で左京大夫を兼ねた惟光朝臣の娘で、顔だちなどもまことに美しいと評判なのをお召し出しになる)というところと照応しています。(資料3) 母屋の内部、中央に居ます帝に向かって右側に、公卿・殿上人が列しています。 紫宸殿の南庭には群臣が居並んでいます。 階の前方両側に鉾が建てられ、この傍にも群臣が居ます。 上記、神酒の酒瓶を献げる臣もいます。 右側の一番手前には、五節の舞の演奏をする大歌人たちがいます。 清少納言はおもしろいエピソードを記しています。こんな内容です。(資料1)小兵衛という年若い女房の赤紐のあわび結びが解けました。小兵衛は傍の女房に「これを結びたいわ」と言います。外に居た藤原実方中将が御簾ぎわに近寄り赤紐を結び直してあげるのですが、何か様子ありげな素振りで あしひきの山井の水はこほれるをいかなる紐の解くるなるらむと歌を詠みかけるのです。小兵衛は返歌をすることできません。近くに居合わせた中宮職の役人は、時間が経つのにやきもきして、その不手際をなじろうとしています。清少納言は小兵衛から四人ほど隔てているので、そこから返歌の助け船を自らは出しづらい。 うは氷あはに結べる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりをと返歌を詠み、おもとという女房に取り次がせたのですが、この女房はふだん少しどもる癖もあり、気取って聞かせようとしたのでまともに実方は聞き取れません。聞き返しても中将は聞き取ることができずに終わったのです。 実方中将は世間に歌詠みと知られている人だったので、清少納言は返歌を詠んだが、それが実方に伝わらないことで、かえって私の恥を隠してくれてよかったと書いています。だけど、この返歌を清少納言は下手な即興で詠んだ歌と思っていたのでしょうか。書き残しているということはそこそこ上手な返歌と内心は思っているのかなという気がします。あなたはどう思われますか。それでは、反時計回りに東の対を順次眺めながら、回り込んで行きましょう。つづく参照資料1)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p118-120、p335-3382) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)3)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p59補遺風俗博物館 ホームページ新嘗祭 :ウィキペディア祈年祭・新嘗祭 :「神宮」(伊勢神宮)豊明節会 :ウィキペディア五節舞姫 :「風俗博物館」唐衣 :ウィキペディア汗衫 :「コトバンク」五節舞 原笙会 西宮神社 YouTube五節舞 原笙会 近江神宮 YouTube五節の舞(沢井忠夫作曲)演奏者:山野安珠美・市川慎・今野玲央 YouTube『枕草子』の現代語訳:52 :「Es Discovery Log」『枕草子』の現代語訳:53 :「Es Discovery Log」藤原実方 :ウィキペディア藤原実方朝臣 :「廣田神社」(青森市)藤原実方 :「千人万首」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.08.10
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先週の7/27、風俗博物館と龍谷ミュージアムに久しぶりに出かけました。龍谷ミュージアムを先にご紹介します。冒頭の写真は、チケットの半券です。この半券には2階に常設展示されている「ベゼクリク石窟大回廊復元展示」の景色が使われています。現在、2階ではシリーズ展「仏教の思想と文化-インドから日本へ-」が開催されていて、3階で特集展示が行われています。そのテーマは、 PR用チラシ「釈迦信仰と法華経の美術」(岡山宗教美術の名宝Ⅱ)です。8月22日(日)までの期間です。まずは3階の会場に。「第1章 釈迦信仰の美術」「第2章 法華経の美術」の構成で展示されています。最初に見たのが、白鳳時代、奈良時代の小さな2躯の金銅誕生釈迦仏立像です。このチラシに使われているのは、後期(8/1~8/22)に展示の「涅槃変相図」(重文、自性院・安養院蔵、笠岡市)です。鑑賞したのは前期展示の終盤で、京都・二尊院蔵蔵の「涅槃変相図」を見ることができました。他に同種の「仏涅槃図」が3点展示されていました。「涅槃変相図」と「仏涅槃図」、基本構図はほぼ同じ形式なのですがそれぞれ少しずつ場面の描き方が異なり、対比して眺めるとけっこう興味深いところがあります。「変相」という語句、「説話を図会に『変えて』表現する」(『岩波仏教辞典』)ことを意味し、「仏典に説く”説話的な内容を絵画や浮き彫りなどで造形的に表現したもの」(同上)ということになります。「仏涅槃図」「涅槃図」と表記されていても、同じ範疇だと思います。普段は「涅槃図」というのが多いかもしれません。涅槃図には釈迦が沙羅双樹の下で入滅されるときの様子が描かれています。釈迦が頭を北に向け、右脇を下にして臥す姿です。その周囲に十大弟子をはじめ様々な人々、鳥獣たちが集り嘆き悲しむ姿が描かれています。沙羅双樹の枝に袋が吊り下げてあります。(吊り下げてない図もあります。)画面の上部には釈迦の死を知って、天から摩耶夫人が急いで降りて来られる姿が描き込まれています。基本的な構図はほぼ同じですが、釈迦の周辺の仏弟子、人々、鳥獣たちの数とその動き、人々の着衣の表現などの描き方は時代や場所によってかなり異なります。そこがまた興味深いところです。会場には、絹本着色の釈迦三尊像や釈迦十六善神像と大般若経なども展示されています。 チラシの裏面からの引用ですが、鎌倉時代の作「文珠菩薩像」・「普賢菩薩像」(智勝院蔵、井原市)も展示されています。文珠菩薩は獅子に乗り、普賢菩薩は象に乗っています。文珠菩薩と普賢菩薩は釈迦の脇侍となり、釈迦三尊像として彫刻像になったり、釈迦三尊像として図に描かれています前期は浄明寺蔵(高梁市)の「釈迦三尊像」が展示されていました。(後期は展示替えが行われています。)備前市の長法寺蔵と京都の廣誠院蔵の絹本着色の十六羅漢像が印象に残りました。 「第二章 法華経の美術」では、当然のことながら、法華経経巻が展示されています。これもチラシからの引用ですが、千光寺蔵(赤磐市)の紺紙に金地で書写された法華経が出ています。前期は巻二、第八の展示でした。後期はこの写真に載る巻七と巻五になります。「観音経」の経巻は展覧会で幾度か見ていますが、「観音経絵巻」は初めて見ました。これは岡山県立博物館蔵で、江戸時代・安政6年(1859)森養淳筆です。2階に降りると、「仏教の思想と文化-インドから日本-」がシリーズ展(10)として展示されています。(10)の意味は、龍谷ミュージアムが今年で開館10周年ということですので、このシリーズ展が開館以来、毎年企画展示されてきたという意味と受けとめました。2階展示室は次の構成で展示されています。 第1部 アジアの仏教 第1章 仏教とは /第2章 釈尊の教えとその継承 第3章 大乗仏教とガンダーラ・西域 /第4章 中国の仏教 ほとけの世界 第2部 日本の仏教 仏教伝来・国家と仏教 これは観賞を終えてから購入した図録『まるごと!龍谷ミュージアム』(2021)です。背表紙に、「開館10周年記念春季企画展」と上部に、下部に「龍谷ミュージアム館蔵品目録」と記されています。今年の春の同名の企画展の図録です。春の展示品以外の館蔵品の主なものと館蔵品目録が後半に載っているので購入しました。当然ながら、今回の展示品にもリンクしていて参考になります。 仏立像。これはチラシからの引用です。「第1章 仏教とは」の最初に展示されています。ガンダーラの2~3世紀の作品です。上掲図録でも2番目に載っていて、2018年に寄贈されたものだそうです。図録によれば、コントラポストという技法が使われているとか。「片足に体重をかけ(支脚)、もう片足を曲げてやや浮かせること(遊脚)により人体の動きを表現する技法」(図録、p14)と説明されています。この企画展では、龍大ミュージアムの館蔵品を主体に、一部外部から展示品を加えて構成されています。「第3章 大乗仏教とガンダーラ・西域」では、仏伝浮彫が8点でていますが、春の企画展である上記図録と今回の展示品リストを対比しますと、ほとんど重複はなく、伊賀市からの出展品3点を含めて、異なった仏伝浮彫による仏伝の構成になっています。今回のこの企画展の図録が作成されていないのが残念です。「ほとけの世界」には、上記図録に載っていますが、ガンダーラ出土で2~3世紀のもう一つの仏立像がでています。また、京都の鍛冶屋町町内会蔵の「木造地蔵菩薩立像」(平安時代後期)と園城寺蔵の「木造不動明王坐像」(平安時代前期)が印象に残りました。第2部は、「仏教伝来・国家と仏教」というテーマです。瓦が中心でした。 チラシに載るこれらの軒丸瓦がその一部です。瓦は全部で6個出ています。おもしろいのは、蓮華文のデザインがいくつもあるという点です。地域の違い、寺の系列の違い、瓦を製造する技術者集団の違いが蓮弁文様にも反映していたということでしょうか。三室戸寺蔵の「金剛界」曼荼羅(鎌倉時代)と、江戸時代の「仏像雛型」9個が印象に残りました。後期は同じ三室戸寺蔵「胎蔵界」曼荼羅に差し替えられます。こんなところで、ミュージアムの会場をでました。 建物の外に出て、1階から中庭-坪庭と言うべきか-を眺めると、緑の葉を繁らせた木の佇まいが中庭の静けさに融け込んでいました。 地下1階にもう一度降りてみましょう。 中庭に入ると右側(北側)に配置された方形の大きな石の上に ちょこんと座る小さな2匹にアオガエル 少しは離れてWelcome石の上に座る2匹のカエルがおもしろい。 樹木を軸に背景の建物を180度ほど分くらい部分撮り木の南側には、上から眺めた巨大石が2つ置かれています。 ここにも遊び心が出ています。1つの巨大な石の端近くに、読書にふけるカエルがいます。 2つの巨大石を近くから見るとこんな感じ。 左の巨大石の左手前近くにちょこんと・・・・・この置物。 中間のカエルさんを正面から 木に近い端の方に並ぶカエルたち さて、この辺で地階から地上に戻り、龍大ミュージアムを出ることにいたしましょう。ご覧いただきありがとうございます。参照資料「シリーズ展(10) 仏教の思想と文化-インドから日本へー」展示品リスト図録『まるごと!龍谷ミュージアム』 2021 龍谷大学龍谷ミュージアム補遺龍谷ミュージアム ホームページ龍谷ミュージアム 大学ミュージアム図鑑 :「ほとんど0龍谷ミュージアム0円大学」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.08.04
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